Books · Moonlight Library
『Fifty Shades of Grey』は、ファンタジーと現実の境界線をどこまで教えてくれるのか
支配されることへの憧れ、危うさ、ときめき、交渉。世界的ベストセラーを「こういう関係を真似すべき本」ではなく、なぜ権力差のあるファンタジーが人を惹きつけるのかを考える入口として読む。
『Fifty Shades of Grey』ほど、欲望の話と現実の関係ルールが混ざって語られやすい作品も少ないかもしれません。
E L Jamesによるこの小説は、文学を学ぶAnastasia Steeleと、強い支配欲を持つChristian Greyの関係を描き、世界的な現象になりました。出版社自身も、Christianを「control」への強い欲求を持つ人物として紹介し、二人が彼の特殊な嗜好をめぐる関係へ入っていく物語だと説明しています。
この作品を読むとき、まず分けたいものがあります。
ファンタジーとして興奮することと、現実で同じ関係を望むことは同じではない。
この一文は、それ自体はよく言われることです。けれどこの記事では、そこで止まらずに、もう一歩進みたいと思います。なぜ同じではないのか。何が違うのか。その違いを言葉にできると、自分の欲望はずいぶん扱いやすくなります。
なぜ「委ねる」ファンタジーは魅力的なのか
日常では、多くの大人が判断をし続けています。
仕事。 家事。 家族。 予定。 お金。 人間関係。
自分で決める自由は大切です。
でも、自由には疲労もあります。
だからファンタジーの中で「今日は自分が決めなくていい」「誰かに強く求められる」「役割が明確に決まっている」という状況が魅力を持つことがあります。
それは、現実で支配されたいという政治的・人格的な願いとは限りません。
一時的に責任から降りること。 強く選ばれること。 普段とは違う自分を演じること。
ファンタジーは、ときどき現実の人格から少し離れて遊ぶ場所になります。
ただし、これを唯一の説明にはしないでおきます。判断疲れは、ありうる読み方のひとつです。まったく違う理由で同じ場面に惹かれる人もいます。自分に当てはまらない説明を無理に採用する必要はありません。
ファンタジーが含むものと、ファンタジーが許可するもの
ここがこの記事の中心です。
ひとつのファンタジーには、二つの別々のものがあります。内容と、許可の範囲です。
内容とは、そこに何が出てくるかということ。場面、力関係、状況、相手の態度。
許可の範囲とは、その内容のうち、現実の自分が実際に同意することは何か、ということ。
この二つは、まったく別のものです。そして混同されます。ある場面に興奮したという事実が、その場面を注文したことにされてしまう。
けれど、よく考えてみてください。
ファンタジーの中では、書いているのは常に自分です。
想像の中の相手は、自分の望むとおりに動きます。強引に見えても、その強引さの速度も、方向も、どこで止まるかも、すべて自分が決めています。相手は自分を完璧に理解しています。理解しているのではなく、自分が書いているからです。
つまり、圧倒されるファンタジーの核心にあるのは、圧倒されることそのものではありません。
圧倒されることを、自分が書いているという状態です。
ここに、現実へ持ち込むときの難しさがあります。生身の相手にその役を渡した瞬間、いちばん重要な要素——自分が書いているという事実——が消えるからです。相手は自分の望みを知りません。速度も、方向も、止まる場所も、相手が決めることになります。
だから話し合いは、雰囲気を壊すものではありません。
消えてしまった「自分が書いている」という部分を、現実の中で取り戻すための、唯一の手段です。事前に速度と限界を決めておくことは、ファンタジーを台無しにするどころか、ファンタジーが成立するための条件です。
身体の反応と、想像の反応
前回のCome As You Areでは、「身体の反応は同意ではない」という話をしました。
エミリー・ナゴスキーが説明する性的不一致——身体が反応することと、本人が望んでいることは、必ずしも一致しない。だから身体の反応を「望んでいた証拠」として使うことはできません。
ここで起きているのは、それとまったく同じ形の誤りです。
一方は身体、もう一方は想像。けれど構造は同じです。本人の意思によらない反応が、同意の証拠として読まれている。
「あなたは反応していた」 「あなたはこういう話が好きだと言った」
どちらも、勝手に起きた反応を、議論の材料に変えています。
ここから引ける線は一本です。
意思によらない反応は、どんなものであれ、根拠にはならない。
身体が反応したことも、想像に惹かれたことも、その人が「はい」と言ったことの代わりにはなりません。許可を出せるのは、本人の言葉だけです。それも、そのときの言葉だけです。
二冊の本が、身体と想像という別々の場所から、同じ結論に届いている。これは偶然ではなく、同じ間違いが繰り返し起きているということだと思います。
契約があれば、すべて安全になるわけではない
『Fifty Shades』では、条件やルールについての話し合いが物語の重要な要素になります。
ここから「同意とは契約書である」と考えるのは危険です。
現実の同意は、一度サインしたら終わるものではありません。
その場で自由に言えること。 途中でやめられること。 気持ちが変わったときに撤回できること。 相手の立場や経済力、経験差によってNOが言いにくくなっていないこと。
最後の一つは、この作品では特に効いています。年齢、資産、経験、社会的な力——すべてが一方に偏っています。その状態で交わされた合意が、どれだけ自由な合意なのか。作品はその問いを完全には扱いません。
書かれたルールは役に立つことがあります。
でも、紙より重要なのは、その瞬間の人です。
うまくいく交渉は、物語にならない
この作品を現実の手本にすることの難しさは、作品の質の問題ではありません。物語という形式そのものの問題です。
物語には葛藤が必要です。
だから契約の場面は、緊張として描かれます。彼女は署名するのか。何を削るのか。どこで抵抗するのか。読者が読みたいのは、その揺れです。
一方、現実でうまくいっている交渉には、揺れがありません。
二人が落ち着いて話し、必要なことを決め、確認し、始める。何も起きない。だから誰も小説に書きません。
つまり、フィクションはうまくいっている実践を構造的に描けないということです。描いた瞬間に退屈になるからです。
これは作品の欠陥ではなく、形式の性質です。ただし、読む側がそれを知らないと、「交渉とは緊張を伴うもの」「同意とは駆け引きである」という印象だけが残ります。
現実では逆です。よい交渉ほど、何事もなく終わります。
「好きだと言ったじゃないか」
打ち明けられたファンタジーが、あとから許可証として扱われることがあります。
以前あの話をしたじゃないか。 好きだと言っていたはずだ。 自分から言い出したことだ。
これは、親密さの中で起きるいちばん静かな裏切りのひとつだと思います。
ファンタジーを打ち明けることは、注文ではありません。信頼を渡す行為です。渡されたものを、あとで断りにくくするために使うのなら、その信頼は二度と渡されません。
そして本当の損失は、その場の一回ではありません。
一度そうされた人は、次から言わなくなります。関係は、欲望について話すための語彙をまるごと失います。何を望んでいるかを言えない関係が残る。それは、最初に打ち明けたときよりずっと貧しい状態です。
打ち明けたことによって、断りにくくなってはいけない。
言い出した本人が、いちばん自由に「今日はやめておく」と言えること。それが、打ち明けても安全な関係の条件です。
ファンタジーでは、危険さそのものが魅力になる
フィクションの面白さは、現実では避けたいものを安全な距離から感じられることです。
危険な人。 強い嫉妬。 圧倒的な権力差。 自分を完全に見抜かれる感覚。
現実なら慎重になるべき要素が、物語ではスリルになります。
ホラー映画を楽しむ人が殺人鬼に会いたいわけではないように、支配のファンタジーを楽しむ人が現実の支配関係を望むとは限りません。
ここを混同しないことは、ファンタジーを恥じないためにも、安全に扱うためにも大切です。
「刺激」と「安心」は敵ではない
官能的なファンタジーでは、刺激が強いほどよいと思われがちです。
でも、実際には安心があるからこそ深く遊べる人もいます。
今日は何を試すのか。 何はしないのか。 途中で止める合図は何か。 終わったあと、どんな距離で過ごしたいのか。
こうした明確さは、ファンタジーを現実的にしすぎるのではありません。
むしろ、安心できる枠があるから、想像の中では遠くまで行けることがあります。
枠がないとき、人は無意識に自分を守ります。守りながら遊ぶことはできません。どこまで行くか分からない状況では、身体も想像も、途中で止まる準備をしたままになります。
限界が決まっているほうが、その手前までは自由に行ける。ファンタジーにおける安心とは、そういう働きをします。
終わったあとの時間
作品の契約は、その場で何をするかについては細かく、終わったあとについてはほとんど語りません。
現実の実践では、この配分が逆になることがあります。
強い体験のあとには、揺り戻しが来ることがあります。高揚のあとの静けさ、急に訪れる心細さ、自分がしたことへの戸惑い。これは失敗ではなく、よくあることです。
だから、終わったあとをどう過ごすかは、始める前に決めておく価値があります。
そばにいてほしいのか、一人になりたいのか。 話したいのか、話したくないのか。 連絡は取りたいのか。 翌日、どう扱ってほしいのか。
始まりだけを設計して、終わりを設計しない体験は、途中までしか完成していません。
笑われたのは、本だったのか、読者だったのか
この作品は、内容への批判とは別に、大規模に嘲笑されました。
ここは分けて考える価値があります。
同意の描き方や、権力差の扱いについての批判は、真剣な批判です。検討に値します。
一方で、嘲笑の一部は、明らかに誰が読んでいるかに向けられていました。中年の女性が、電車の中で、隠さずに読んでいる。その光景そのものが揶揄の対象になった。
女性の欲望が公然と存在していることへの居心地の悪さは、安全性の批判ではありません。二つが混ざって語られたことで、真剣な批判のほうも受け取りにくくなりました。
日本語で読む場合、もう一つ補助線があります。
日本には、女性向けの官能的な物語の市場が長く、大きく存在してきました。この作品が持ち込まれたときの「衝撃」は、どちらかといえば英語圏の文脈から輸入されたものです。想像の中で力関係を扱うこと自体は、ここではそれほど新しくありません。
だからこそ、目新しさに驚くよりも、扱い方の精度を上げるほうが実りがあります。
恥ずかしいと感じるファンタジーの扱い方
自分のファンタジーを恥じる人は少なくありません。
その恥ずかしさは、多くの場合、内容そのものではなく、「これは自分について何を意味するのか」という不安から来ています。こんなものに惹かれる自分は、政治的に、あるいは道徳的に、何か問題があるのではないか。
ここで役に立つ区別があります。
ファンタジーは、信念ではありません。
想像の中で何かに惹かれることと、それを良いことだと考えることは、別のものです。物語の中で悪役に惹かれることが悪への支持ではないのと同じです。想像には、賛成も反対も含まれていません。
もう一つ、正直に言っておきます。
もしそのファンタジーが、楽しみではなく苦痛として現れるなら——望んでいないのに繰り返し浮かぶ、思い出したくないことと結びついている、そのせいで日常が苦しい——それは別の種類の問題です。読み物ではなく、専門的な相談の領域です。ここで扱えるのは、楽しめるファンタジーをどう理解するかまでです。
この記事が、この場所にあることについて
正直に書いておきます。
Fantasyを扱う場所が「ファンタジーは健全で、探究する価値がある」と言うのは、都合がよすぎます。そのままこちらの営業文句になるからです。
だから、この立場から実際に何が導かれるのかを書きます。
導かれるのは、許可ではなく制限です。
Moonlightは、作品の場面を再現しません。求められても再現しません。聞くのはいつも、その場面があなたにとって何をしていたのか、という問いのほうです。惹かれているのが委ねる感覚なら、その感覚は元の場面がなくても組み立てられます。
そして、お受けできないご依頼があります。そのときは、はっきりと、早い段階でお伝えします。
ファンタジーを肯定することと、何でも引き受けることは、別のことです。
ファンタジーを、自分のものとして読み直す
MoonlightでFantasyを考えるとき、作品の再現を目的にはしません。
大切なのは、その物語のどの感覚に反応したのかを見つけることです。
支配ではなく、委ねることかもしれない。 危険ではなく、非日常かもしれない。 命令ではなく、迷わなくていい安心かもしれない。
この記事を通して見てきたのは、結局ひとつのことです。ファンタジーの内容は、そのまま注文書ではない。内容の下にある感覚のほうが、はるかに正確な情報を持っています。
ファンタジーは、物語をコピーすることではなく、自分の欲望の言語を見つけるための素材にもなります。