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スクリーンに映る愛、欲望、自由、そして女性たち。

物語は、現実の親密さについて何を映しているのかを考えると、もっと面白くなります。

映画やドラマを、結婚、親密さ、女性の欲望、秘密、孤独、自分らしさ、社会からの期待といった視点から横断的に読み解き、検索しながら探せる読みものの集まりです。

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作品は、すべてここに

ここに並ぶ読みものは、いくつかの物語を深く読み解いたものです。月明かりの映画館には、もっと広い棚があります。恋愛と欲望、そして女性であることを描いた映画・ドラマ・番組465本。どの作品にも、結末までのストーリー、誰が誰を演じているか、そしてなぜ大切なのかを書いています。作品名、俳優、テーマから探せます。

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『金魚妻』が描く「満たされなさ」──結婚の中で、もう一度自分の感情に気づくということ不倫を肯定する物語としてではなく、「見てもらえない」「触れられない」「言葉にできない」という静かな距離をどう読むか。Netflix『金魚妻』から考える、欲望・孤独・親密さの輪郭。『瓜を破る』がやさしく壊す、「普通」の恋愛という思い込み30代で性経験がないこと、触れられることへの怖さ、誰かと近づきたい気持ち。TBSドラマ『瓜を破る』から考える、親密さの速度と「遅れている」という感覚。『YOU ー君がすべてー』が怖いのは、「見てくれる人」と「見張る人」が似て見える瞬間があるから細かいことを覚えている。自分だけを特別に見ている。いつも近くにいる。それはロマンスなのか、それとも監視なのか。Netflix『YOU』から考える、強い注意と親密さの境界線。『パストライブス/再会』が教える、選ばなかった人生も自分の一部だということ再会した人が未来になるとは限らない。けれど、その人が「別の自分」を照らすことはある。『ビフォア・サンライズ』と、一晩だけだから言えること終わりが見えているからこそ、いつもより正直になれる時間がある。『her/世界でひとつの彼女』と、理解されることへの誘惑完璧に理解されることは、とても甘い。でも親密さには、自分に都合よく収まらない相手と出会うことも含まれる。『ロスト・イン・トランスレーション』と、旅先でだけ言える孤独遠くへ行くと、いつもの役割が少しゆるむ。でも東京を、誰かの孤独を癒すための「異国の背景」にはしたくない。『燃ゆる女の肖像』——見ることと、所有することの違い『燃ゆる女の肖像』が問うのは、見ることが一方通行でなくなったとき、何が変わるかということ。『花様年華』——抑制の中で生き続ける欲望『花様年華』では、控えられたものほど強く存在する。けれど抑制は、清らかさと同じではない。『ノーマル・ピープル』が痛いほど描く、好きなのに言葉が足りない二人『ノーマル・ピープル』の二人は、言葉がまだ追いつかないうちから、身体でつながりを知っている。『ある結婚の風景』と、愛が終わる前に壊れる会話ベルイマンの夫婦は驚くほど多くを語り合う。それでも、雄弁さが思いやりの証明になるとは限らない。『キャロル』と、「正しい人生」より先に聞こえる視線トッド・ヘインズのこの映画は、禁じられた恋の話ではない。名前がつく前に、誰かに見つけられてしまうことの話だ。『ブルーバレンタイン』と、始まりの記憶が終わりを救わない理由デレク・シアンフランスは求愛と崩壊を交互に切り、一方をもう一方への反証として使えないようにした。『ピアノ・レッスン』と、言葉より先に身体が持っている意志話さない女性は、意志を持たない女性ではない。ジェーン・カンピオンのこの映画は、スクリーン上のほとんど何よりもそれを理解している。そして同時にこの映画には、この家が強要と呼ぶであろう取引が含まれている。その両方が真であり、きちんと読むとは、その二つを同時に持つことである。『別れる決心』と、距離がつくる執着の美しさと危うさ他人をケアすることで生計を立てている女性が、何年ぶりかに、近くから、継続して注意を向けられる。その注意は犯罪捜査である。映画はそれについて冷静だ。そして残される問いは彼女についてのものではない。もっと良いものが来なかったから、あなたが何をケアとして受け入れてきたのか、である。『偶然と想像』と、言わなかった欲望がつくる別の人生三つの物語。そしてそのすべての下で同じ機械が動いている。それぞれが、人がついに本当のことを言える状況をつくり、そして言うことが何を負わせるかを見つめる。これは偶然についての映画として整理されている。これは条件についての映画である。『ドライブ・マイ・カー』と、他人の沈黙を支配しない親密さ男は、敬意に見える何かによって、妻にその問いを尋ねないことを選ぶ。そして彼女は死に、彼はそれを永遠に抱える。この映画はふつう、慎みの擁護として読まれる。二つの異なる沈黙についての話として読むほうがよい。そのうち慎みだったのは一方だけである。『寝ても覚めても』と、「似ている人」に惹かれる心の危うさ街で一人の男が現れ、誰も決めないまま何かが始まる。数年後、同じ顔をした別の男が現れる。この映画はふつう、似ていることへの警告として読まれる。一度も何かを始めたことのない女性の映画として読むほうが役に立つ。そして、似た顔が静かに果たしている役割について。それは、始まりそのものを省かせてくれるということである。『花束みたいな恋をした』と、同じものを好きでも同じ速度では生きられないこと二人が終電を逃し、ありえないほど重なった好みを見つける。彼らはまさに、あらゆるマッチングの仕組みが生み出そうとしているものである。そして映画は二時間をかけて、その一致が何の始まりでもなかったことを示す。好みの共有は選別である。選別は、誰から始めるかを教え、そしてどちらかが変わったときに何が起きるかについては何ひとつ教えない。『First Love 初恋』と、人生の途中で戻ってくる感情十八歳の二人は、どちらも空を飛びたいと思っている。二十年後、二人はどちらも運転している。恋はその見えている層であり、その下にあるのは、巨大な望みがどのように置かれるかについての研究である。そして、彼の望みが出来事によって中断されたことと、彼女の望みがありふれた生活によって中断されたことの違いについての。『ちひろさん』と、誰にも所有されない優しさ海辺の町で弁当を売る女性が、現れた人を誰でも食べさせ、以前どうやって生計を立てていたかを平然と言い、そして誰も手元に留めない。この映画は、新しい家族についてのやさしい物語として広く受け取られている。そしてそれは逆である。つながりを伴わないケアについての研究であり、それは私たちの語彙がほとんど抱えられないものである。『逃げるは恥だが役に立つ』と、関係に「契約」を持ち込むと見えるもの安定した職を得られない女性が、ある男の有償の家事の担い手になり、そして契約上の妻になる。給与、休日、書かれた職務の記述。この連作は、終わりに踊りのつく恋愛喜劇として覚えられている。その実際の発見は、契約が関係に条件を付け加えたのではないということである。それは、すでにそこにあった条件から、覆いを取り除いた。『恋のツキ』と、満たされなさを恋だけで埋めようとするとき二十代後半の女性に、仕事があり、相手がおり、部屋があり、見通しがある。そしてその生活のなかで何も感じられない。この作品の本当の主題は、彼女が誰と関わるようになるかではない。その年齢の女性が報告を許されている唯一の不満が恋愛のものであり、だから感覚の欠乏が欲望についての物語へ翻訳されるということである。欲望だけが、社会が受け取る通貨だからだ。『カルテット』と、大人の関係に残る「言わない」技術四人の素人の奏者がひとつの家を分け合い、そしてその全員が自分の過去について嘘をついている。この作品はしばしば、語らないことの擁護として読まれる。それならこの図書室が沈黙について論じてきたすべてに反することになる。反していない。四人は内容を控え、そして控えているという事実を宣言している。そのひとつの違いが、慎みを、この文章が「曖昧さで誰かを飼う」と呼ぶものから分けている。『東京ラブストーリー』と、好きだけでは同じ未来を選べないこと一人の女性が、自分が何を望んでいるかを、ただちに、ぼかさずに、十一回にわたって言う。それはこの図書室が勧め続けていることであり、そしてそれはうまくいかない。だからこの作品は誠実な反例である。率直さは保証ではなく方法であり、そしてその前提条件は、それを受け取れる相手が向こう側にいることである。『Love Letter』と、昔の恋が今の自分に返してくるもの一人の女性が、二年前に死んだ男の住所へ、何も期待せずに手紙を書き、そして返事を受け取る。返ってくるものは彼女が送ったものではなく、そしてそれは彼女が保ってきた彼の版を解体する。この映画はふつう、記憶についてのやさしい説明として受け取られる。自分が選ばなかった何かによって、人がまだ変えられうるかどうかの研究として読むほうがよい。『(ハル)』と、画面越しの言葉が本当の関係になるまで二人が一九九六年に、電話回線の掲示板で、文字を打つことによって恋に落ちる。そして映画は大部分が、二人の画面の上の言葉でできている。それはふつう、ついに会うときに文字が本物になる話として読まれる。より良い読みは逆である。文字こそがその関係の最も満ちた姿であり、そして会うことが供給するのは真実ではない。文字が生み出せない何か——実際に感じられる形である。『燃ゆる女の肖像』と、見つめることが所有にならない愛画家が、座ることを拒んできた女性を描くために雇われる。だから彼女は秘密裏に、散歩の相手を装って働く。最初の肖像は失敗である。道徳の失敗ではなく、芸術の失敗であり、そしてその理由について描かれた側が正しい。この映画の議論は、見ることが悪いということではない。隠れた観察は、誰かが同意した観察より劣った情報を生む、ということである。『ファントム・スレッド』と、ケアが支配に変わる境界仕立て屋が沈黙と日課によって自分の家を営み、そして彼が結婚する女性が、彼に必要とされるための唯一の経路を見つける。彼女はそれを二度用いる。その行いは二度とも同一である。違うのは、二度目には彼女が先に告げ、そして彼がそれでも進めることである。そしてそのひとつの変化が、人に対してなされることを、二人が合意した遊びへと変換する。『トスカーナの贋作』と、本物の関係は何で決まるのか二人がトスカーナを車で走る午後を過ごす。その中ほどで、カフェの主人が二人を夫婦だと思い込み、一方がそれに合わせ、そしてその瞬間から映画は、二人が十五年結婚してきたかのように進む。完全な具体性をもって、そして解決なしに。それが示すのは、ある関係が本物かという問いはその内側からは答えられないということ、そしてより狭い問いなら答えられるということである。『Anora アノーラ』と、取引・幻想・親密さが混ざるときに見失うものこの映画は広く、取引を愛と取り違えてその代価を払った性の仕事の女性の物語として受け取られている。その読みは、立てる価値のある仕方で誤っている。彼女はあらゆる段で正確に交渉し、そして彼が本気かどうかさえ確かめる。その取り決めを壊すのは彼女の誤りではない。相手が、そもそも何かに同意する権限を持っていなかったことである。『PERFECT DAYS』と、静かな生活は孤独なのか自由なのかある男が東京で公共トイレを清掃し、植物に水をやり、木漏れ日を写し、そしてほとんど話さない。この映画は、簡素さのなかの満足についての寓話として広く受け取られている。それから彼の姉が二十分訪ねてきて、彼は路上で泣く。そして一度の会話を生き延びられない満足は、はじめから哲学ではなかった。あるものが彼に届かないように建てられた構えだった。『お嬢さん』と、欲望・演技・支配から自分の物語を奪い返すことある相続人は、幼いころから男の蒐集家たちの集まりに向けて性愛の書を朗読するよう訓練されてきた。流暢に、美しく、自分のものではない言語で、自分が書いたのではない本文から。だからこの映画における解放は、彼女が言葉を得ることについてではない。彼女はそこにいる誰よりも多くの言葉を持っている。それは、話させられることと、言えることの違いについてである。『めぐり逢わせのお弁当』と、日常の隙間に生まれる親密さ夫のために作られた昼食が知らない人に届き、そして二人がそれを想定していない配達の仕組みのなかで互いに書きはじめる。どちらも何からも逃れない。二人が見つけるのは、ある制度のなかの余白である。誰も仕様に書かなかった運ぶ力。そしてそれが、ある文化のなかで自分を選ぶ余地が実際にどう見えるか、である。『逢びき』と、選ばなかった恋が一生の一部になるときほとんど何も起こらず、そして彼女はそれによって壊される。それが何かが起こったことの証である。そして彼女がそれについて一言も言えない理由は、彼女に手に入る唯一の語彙が行為を数え、人の内側で起こる出来事を数えないことである。『花様年華』が残すもの。触れなかった恋が、なぜこんなにも身体に残るのか隣り合う二人が、互いの配偶者が関係をもっていることを突きとめ、そして稽古をはじめる。はじめは詰問を、やがて自分たちの別れを。だからこれは、真であることが、その身分を保留されたままで言われうる唯一の形についての映画であり、そしてその稽古が決して終わることを許されないときに何が起こるかについての映画である。『グッド・ラック・トゥ・ユー、レオ・グランデ』と、望むことへの許可生涯を他人の適切さを取り仕切ることに費やした女性が、ホテルの一室に一覧を持って現れる。正当化なしに望むことを許されてこなかった人が持ってくるのが、一覧だからである。境界のある部屋が何を言えるものにするのか。鏡は実際に何を論じているのか。そして境界のある一晩を売る家が、この映画を読む前にその利害を申告しなければならない理由。『昼顔』と、予定の入っていない唯一の時間このドラマは、自らの主張を題名に書いている。これらの関係は午後に起きる。家の要求が満たされたあとで、それが再開する前の隙間に。そしてその窓が存在するのは、ある女性の一日がすでに他人の予定を軸に組み立てられているからにほかならない。夫たちは冷酷ではない。罰は等しく配られない。そして、ある生涯で唯一予定の入っていない時間である不貞は、決断された不貞とは別の対象である。『さざなみ』と、その結婚が何の上に建っていたのか何ひとつ起きていないのに、すべてが変わる。新しい事実が一つ入ってきたせいで、四十五年ぶんの蓄積された証拠が別の読み方に開かれてしまうからだ。何も悪いことをしていない夫と、愛ではなく認識の危機を生きる妻と、啓示が家具まで汚染していく過程と、言葉を使わずに判決を下す終幕について。『わたしは最悪。』と、「まだ分からない」という罪一人の女性が何度も進路を変え、周囲からも、そして自分自身からも、決められないことが道徳の欠陥であるかのように扱われる。何を望むか分からないことと、差し出されているものがそれではないと分かっていることの違い。成熟に見える慣性。人生の形についての議論としての十二の章。そして街がひとつ止まる数分について。『ロスト・ドーター』と、母が言う場所をもたない一文二人の幼い子を置いて三年のあいだ去り、そして戻った女がいる。その三年はどうだったかと問われ、彼女は最高だったと答える。そしてこの映画はそれを取り消さない。病名も、十分な原因も、幕が下りる前の赦しもない。稀なのは去ったことではない。彼女の両価性が、治癒を待つ症状としてではなく、一人の人間についての事実として差し出されていることである。そしてこの映画が露わにするのは、母としての不出来ではない。子どもたちを愛している、そして自分の人生を返してほしかった。その一文を口にする場所が、日常の言葉のなかに一つもないということである。『ハッピーアワー』、四人の女性が互いに言うこと五時間十七分は、この映画の風変わりな点として語られる。それは方法である。実際の会話にかかるだけの時間を場面に与えれば、嘘ではないのに何も伝えない文が、ようやく見えるようになる。そして、一度も破綻しなかった友情に、その文が十五年かけて何をするのかも見えるようになる。『The Souvenir』と、彼女に向けてはならない問いジョアンナ・ホッグのこの映画は、ふつう、目の前にあるものが見えなかった聡明な若い女性の肖像として語られる。実際にはもっと厄介で、もっと使えるものである。小さな譲歩の積み重ねから一つの生活が組み上がっていく記録であり、その譲歩は一つずつ見れば、どれも筋が通っている。そして、ここで断れば明らかに正しかった、と言える一点はどこにもない。この映画は彼女に気づきの場面を与えない。その拒否が、議論のすべてである。『フレンチアルプスで起きたこと』と、説明の合わない一秒父親が雪崩から逃げる。雪崩は結局何事もなく終わる。妻と二人の子はテーブルに残されている。誰も怪我をしていない。だから裁くべき被害がない。あるのは記述だけである。彼は逃げていないと言う。彼女は、彼が逃げたと言うまで先へ進めない。リューベン・オストルンドのこの映画を、男の臆病についての話としてではなく、二人のあいだで最も多く、最も解けないままになる種類の傷についての話として読む。同じ出来事について、互いに違う記述を持ってしまうこと。そしてそれを決着させる手続きが、どこにも存在しないこと。『落下の解剖学』と、証拠として提出された結婚男が自分の家から落ちて死に、法廷はその経緯を突き止められないまま二時間を費やす。突き止められないことが設計である。この裁判が実際に調べているのは死ではなく結婚である。時間の会計。どちらの仕事が中断されたかの記録。誰が国を移り、誰が母語を手放し、誰が子どもを引き受けたか。ジュスティーヌ・トリエのこの映画を、二人が内輪でつけている帳簿が、それについて判断を下す権限をもつ他人の前で読み上げられたとき何が起きるかについての作品として読む。『あのこは貴族』と、同じ住所を持つ二つの東京東京の古い家に生まれた女性が、近さと期待によって整えられた結婚に向かって進んでいく。富山から出てきた女性が、大学の学費を払えなくなって大学を離れ、それでもこの街に残った。二人は同じ男によってつながっており、この設定は最初から対立を約束している。映画はその対立を上演することを断る。そしてその拒否は、女同士がどのように対立させられるかについて、この十年の日本映画がやってみせたなかで最も見るべきものだ。二人を隔てているのは能力でも努力でもない。それぞれに用意されていた道の本数である。『はちどり』と、条件が説明された年一九九四年のソウル。十四歳の少女は兄に殴られ、家はそれを「きょうだい喧嘩」として処理する。彼女が何かを望めば、その望みは家の段取りにとって不都合である。そこへ一人の大人が現れ、彼女を一人の人間として扱う。その扱いは救済ではない。これまで生きてきた取り決めが、天候ではなく取り決めであったと示す実演である。のちに女性が「自分は人にものを頼むのが苦手だ」と呼ぶものは、性質ではないかもしれない。修了した課程であるかもしれない。『aftersun/アフターサン』と、子どもには見えなかったもの十一歳の少女が、一週間のあいだ、ここ何年も誰もしなかったほど近くから父を見ている。そして見たもののほとんどについて、彼女は正しい。取り落としたものは細部ではない。シャーロット・ウェルズは、その子が記録したものと、その子には読めなかったものとで一本の映画を組み立てた。出来上がったのは、述べるのは易しく受け入れるのは難しいひとつの事実についての、もっとも正確な記録である。近くにいることは、届いていることではない。『シークレット・サンシャイン』と、すでに与えられていた赦し一人の女が、息子を殺した男を赦すために刑務所へ行く。そして男から、静かに、自分はすでに神に赦されたと告げられる。彼女を通さずに。イ・チャンドンの二〇〇七年の作品は、その瞬間から、慰めが許すよりもずっと長く目を離さない。そこで露わになるのは信仰についての事実ではない。ある種の慰めの構造についての事実である。あなたの言い分を第三者に預けさせ、第三者のところで決着させ、決着済みのものとして返してくる仕組みについての事実である。『紙の月』と、彼女がはじめて自分として使った金銀行の契約社員が客の金に手をつけ、それを年下の男に使う。この映画は強欲の話ではなく、恋に狂う話でもない。これまでの人生の一円残らずが誰かのものだったこと——夫の給与であり、銀行の預金であり——そして自分として何かを買ったことが一度もなかったことに、一人の女が気づく話である。自分の金をもつ女性に時間を売っている家による、二〇一四年の映画の読解。だからこの家は、この議論に利害をもっている。『秘密の森の、その向こう』と、母と対等に出会うこと八歳の娘が、祖母の家の裏の森へ入り、自分と同じ年ごろの少女に出会う。その少女が、母である。仕掛けの説明はなく、規則もなく、種明かしもない。上映時間は七十二分。この映画が差し出すのは、娘と母のあいだの隔たりのすべては年齢差である、という提案である。そこで短いあいだ見えるようになるのは、隠されていた秘密ではない。誰にも占めることのできない位置である。まだ何ひとつ決まっていなかった人としての、母。『Certain Women』と、返されない注意ケリー・ライカートの二〇一六年の映画は、たいていモンタナの女たちをめぐる三つのゆるくつながった話として紹介される。だが四つめがある。それは、夜の講義に座るために何時間も車を走らせ、その注意をついに返されることのない牧場の使用人のものである。彼女には何も起こらない。この読解は、その何も起こらなさこそが要点であると論じる。そして、返されることが保証された注意を売る家がそう言いたがるのは当然である。その利害は隠さず先に述べる。『万引き家族』と、たがいを選び、認められなかった家族女が机をはさんで刑事と向き合っている。刑事はいま、この女が子を産んでいないことを確かめたところで、そのうえで、あの二人の子どもはあなたを何と呼んでいたのかと尋ねる。女は答えられない。その沈黙がこの映画の中心にある。そしてそれは、国家が冷酷だったと証明するために置かれているのではない。あの絆は本当だった。同時にそれは、どこにも登録されていなかった。日本には、後者を経由しない前者の呼び名がない。登録されない関係を時間で売る家による読解である。利害は先に申告する。『ありがとう、トニ・エルドマン』と、仕事が要求する自己ブカレストのコンサルタントが、他人の雇用を終わらせる報告書を準備している。そして彼女はその仕事がとてもうまい。父が招かれずに現れ、付け歯を入れ、トニ・エルドマンという名のライフコーチとして彼女の職業生活に自己紹介をして回りはじめる。通例の説明はこれを、笑い方を忘れた娘の物語と呼ぶ。そうではない。これは、ある種の仕事が要求する固有の自己――有能で、決して恥じ入らず、つねに請求可能な自己――についての作品であり、その自己を求められれば差し出せる女が、その代償に名前を持たないことについての作品である。『よこがお』と、関わりだけで解体される人生訪問看護師の女は、何ひとつ問われていない。疑われてもいない。それでも生活は解体される。子どもを連れ去った男が、彼女の甥だったからである。深田晃司は、彼女の以前と以後をどちらとも告げずに切り返す。観客は断片から一人の人間を組み立てることになる — 映画の中の全員が彼女に対して行っているのと同じ作業を。評判とは手元にある所有物ではなく、他人が出し続けている許可にすぎない。その意味を読む。慎重さを売り、したがってこの恐れから利を得ている家による読解である。『マリッジ・ストーリー』と、引き受けてしまう仕組み二人は、まっとうに、弁護士を立てずに別れようと決める。一年後、弁護士は四人になり、州は二つにまたがり、裁判所の任じた評価者が居間におり、どちらも求めていない養育の配分が成立している。この経過はふつう人柄の問題として読まれる。ノア・バームバックのこの映画が立てているのは、そうではなく構造の議論である。手続きにいったん入れば、手続きには固有の論理があり、固有の問いを立て、どちらも見せたくなかったふるまいに報いる。敵役は人ではない。『トウキョウソナタ』と、毎朝着られ続けるスーツ二〇〇八年の一本。職を失った男が、それでも毎朝スーツを着て家を出る。この映画はほとんどつねに、その男の物語として語られてきた。ここでは中心に妻を置く。恵は知っている、あるいは半ば知っている。そして知っていることが何ももたらさない。この家の取り決めは、彼女に家が回ることの責任を全部与え、その条件を変える立場だけを与えていないからだ。これは構造についての議論である。そして恵とちょうど同じ位置にいる女性たちに商いの利害をもつ家が書いている。その利害は、議論より先に申告する。『スパイの妻』と、彼女が知ることに同意したもの満洲から戻った貿易商が、見てしまったものを抱えて動きはじめる。妻は、自分の結婚の観客であることをやめると決める。黒沢清の二〇二〇年作を、入場料についての議論として読む。相手が知っていることの内側に入れてもらうことは、愛への報酬ではなく負債である。そして、片方だけが実質的な事実を握っている結婚は、それより安い条件では対等にならない。『ストーリー・オブ・マイライフ』と、計算を済ませていた妹グレタ・ガーウィグの二〇一九年の映画は、孤独についてのジョーの台詞で記憶されている。しかし映画の議論を担っている場面は妹のエイミーのものである。結婚とは経済上の取り決めであると彼女は説明し、そしてその言葉を撤回させられることが一度もない。この読解はその計算を法制史に照らし、おおむね正しく、しかし一様には正しくないことを確かめ、そのうえで問う。自分の選択肢に値をつける女が、なぜ二世紀にわたって、より立派でない側とされてきたのか。自らの商いが値のついた取り決めである家は、その問いに明白な利害をもつ。それを議論のあとではなく先に述べておく。抑制が演技と読まれるとき、そして、ただ美しいと読まれるとき同じ映画で、同じ監督のもとで、二人の俳優がすべてを抑えた。一方は二〇〇〇年のカンヌを男優賞とともに去り、もう一方は何も持たずに去った。そのかわりに讃えられたのは、その映画の光と、その映画の衣裳だった。これは審査員団への告発ではない。女が何もしていないように見える形で難しい仕事をしたとき、どの記述が先に届くのかについての議論である。『晩春』と、話し合ってつくられた同意一九四九年の一本。二十七歳の女性が、一度しか会っていない相手と結婚する。誰も強いてはいない。みな親切である。圧力は心配として、もっともな話として、そして父の自己犠牲の嘘として届く。そしてそれは、穏やかであるがゆえに効く。この作品の名高い静けさは、ふつう気分として語られる。だがそれは主題として読んだほうがよい。善意の人々によって、人がある望みを持つに至る過程の記録として。そしてその結果の選択が、確かに彼女のものであり、同時に確かに彼女のものではない理由として。『5時から7時までのクレオ』、見られることが効かなくなる九十分検査と、その答えのあいだに、九十分が与えられる。彼女はひとつのことに非常に長けている。自分がどう見えるかを知り、どう受け取られるかを知っていること。そしてその技能は、これからの九十分にはまったく役に立たない。これは浅い女が深さを学ぶ話ではない。彼女が定めたのではない条件のもとで身についた、一方向にしか働かない有能さについての議論であり、それが支払いを止めたとき何が残るのかについての議論である。『NANA』、そばにいてほしかったのはハチだけではなかった二十歳のふたりのナナが、ひと春とひと夏のあいだ、東京の707号室で一緒に暮らす。誰も必要としないパンクの歌い手と、ひとりでいられない女の子の物語として記憶されがちなこの作品が描いているのは、ふたりとも誰かにそばにいてほしかったこと、それを表に出すことを許されたのが片方だけだったこと、そして子どもがやってくることになったとき、ふたりの暮らしには後ろ盾が何ひとつなかったことだ。『82年生まれ、キム・ジヨン』と、借りるしかなかった声帰省の最終日、夫の実家の台所で、若い母親は映画のなかでいちばん明晰な一文を自分の母の声で口にし、そのことを覚えていない。欠けていたのは言葉ではなく、それを自分として言える立場であり、原作よりやわらかいこの映画は最後に、彼女の名前が刻まれたペンを本人の手に渡す。『ベイビーガール』、身を委ねることは弱みを握られることではない結婚生活のあいだずっと絶頂を演じてきた経営者は、支配する側を演じるインターンのもとで、望んでいたものにようやく出会う。問題は彼女の望みではなく、その遊びが逆向きの上下関係を抱えた職場のなかで行われたために、二人が互いの弱みを握り合い、どちらも「やめて」をただでは言えなくなったことにある。『空気人形』と、満たされることと見られることのあいだ東京の古いアパートで心を持った人形は、自分に触れた二人の男、つまり自分を使った男と、しぼんだ自分に息を吹き込んでくれた男から、愛し方を覚える。映画はその愛し方を、どんな命も欠けたところを抱えてつくられていると語る一篇の詩と並べて置き、最後の朝まで、満たされることを見られることと取り違えさせない。『I MAY DESTROY YOU / アイ・メイ・デストロイ・ユー』、彼を必要としない結末ミカエラ・コールのこのシリーズは、「同意」という言葉が難しくなる場所を、ひとつずつたどっていく。薬を盛られた一杯、黙って外されたコンドーム、嘘で仕組まれた一夜、帰ろうとして帰してもらえなかった男。そして最後に、主人公が自分をレイプした男と向き合う場面を三通り思い描き、そのどれも残さずに、彼から何ひとつ必要としない結末を彼女に手渡す。『愛がなんだ』、そばにいるために「好き」を手放すマモルに呼ばれれば何をしていても駆けつけるテルコは、プライドのない女と片づけられがちだ。けれど彼女が映画のなかで手放していくものを数えると、それは恋人になる資格、好きになってもらう資格といった「求める資格」の一覧であり、最後まで手放さないのはただひとつ、彼のそばにいることである。『慕情のアンソロジー』と、聞き届けられる望み、届かない望み四人の監督が、何かを望む四人の女性を描いた。女性が望みを口にすることを正面から描いたと評価された映画だが、四つの物語を並べてみると、違っているのは望みの中身ではない。誰がそれを聞くのか、聞いてもらうのにどれほどの代価がかかるのか、である。そして誰にも聞いてもらえないただ一人の女性は、その部屋を掃除している。『ヴァレリア』と、自分の名前で書くということマドリードの作家は、約束の小説が書けない。結婚は静まり返っている。このドラマは四つのシーズンをかけて、彼女に三つのものへ自分の名前を書かせていく。本に、欲望に、別れに。そして最後に彼女を失う男は、彼女の本に人生を変えられたと語る読者を、鼻で笑った男だった。『問題のあるレストラン』と、「問題」にされた人たち幹部たちの前で社長が女性社員に性加害をした会社の真向かいで、職場からはじき出された人たちが屋上のビストロを開く。異を唱えた人を「問題」にして害を黙らせる仕組みを描いたこのドラマは、十話をかけてその言葉を本来の場所へ戻し、最後には正直に、屋上にもその言葉を落としてみせる。『Fleabag フリーバッグ』と、観客という隠れ場所ロンドンに暮らすひとりの女性にとって、ほとんどすべてを打ち明けられるのに何ひとつ聞き返してこない観客は、いちばん安全な部屋だった。その隠れ場所にひとりの神父が気づいたとき、見られることが彼女に何をもたらすのかを、観客にさえ隠していた罪悪感から、私たちを置いて歩き去るバス停まで追っていく。『ナミビアの砂漠』と、説明されずにいられる静けさ二十一歳のカナは退屈していて、気分の振れ幅が大きく、好かれようともしない。優しい恋人も、弁の立つ恋人も、画面の向こうの医師も、ネットの見知らぬ人たちも、ときにはカナ自身も、彼女のどこがおかしいのかを説明したがる。映画は判定を下さない。そしてこの映画に静けさが訪れるのは、誰も誰のことも説明していないときだけだ。『明日、私は誰かのカノジョ』と、選ばれることの値段時間を区切って誰かのカノジョを演じる女性たちと、稼いだすべてを担当ホストのひとときに注ぐ女性たち。このドラマは彼女たちの誰も笑わない。そこで売り買いされているのは「選ばれる」という感覚であり、その値段は、お金のどちら側にいても、おもに女性たちが払っている。最後にヒロインは、傷痕を見ても目をそらさなかった優しい男の申し出を断る。彼はそれを、救いの形で差し出したからだ。『快楽の原則 -私たちの歓びを求めて-』と、沈黙が代わりに教えたこと女性の快楽をめぐる全三話のドキュメンタリーが本当に問うているのは、誰が自分の体を知ることを許されてきたのか、ということだ。知識はずっと前からあったのに手渡されず、その沈黙は、情報より先に恥を、快楽は誰か別の人のものだという筋書きを、そして体の反応が本人の代わりに答えるという思い込みを、教えてきた。『ミセス・プレイメン』、署名は同意の代わりにならない第一話で、意味を知らされないまま署名した二人の女性が、その代価を払う。ドラマは妻のほうを編集部の頂点へ、そして快楽について誰にも教わらなかった女性たちのための頁へと導き、そのあいだにある紙のことを正直に描くが、何にも署名しなかったひとりの女性にだけは、本人の代わりに赦しの言葉を書いてしまう。『マルガリータで乾杯を!』、手を借りることは、望むことの反対ではないデリーの大学に通うライラには脳性まひがある。悪態をつき、詞を書き、歌い手に恋をし、やがてひとりの女性を愛する。彼女を愛する人たちは、彼女に何が必要かをよく知っている。この映画が描くのは、彼女が何を望んでいるかのほうだ。物語は浴室で向きを変える。母に入浴を手伝ってもらう側だった娘が、今度は母の入浴を手伝いながら、誰を愛しているのかを告げるのだ。『1122 いいふうふ』と、決まりが肩代わりしたひと言何でも話せるのにセックスのことだけは話せない夫婦が、話し合う代わりに、婚外恋愛は許可制、デートは毎月第三木曜日という決まりをつくる。ドラマは夫婦が手を伸ばしうる抜け道をひとつずつ試し、そのどれもが誰かに、しかも選んだ本人とは限らない誰かに代償を払わせること、そしてどの抜け道にも、決まりが肩代わりしていたひと言だけは言えなかったことを見せていく。『バッカス・レディ』と、彼女にしか頼めなかったことソウルの真ん中の公園で、六十五歳の女性が、自分と同じように年老いて貧しい男たちに体を売って暮らしている。やがて昔の客が三人、ひとりずつ戻ってきて、死ぬのを手伝ってほしい、あるいはそのときそばにいてほしいと頼む。映画は、なぜそれが彼女でなければならなかったのかを淡々と見せ、最後に、彼女の番が来たとき誰がそばにいるのかを問う。『フィール・グッド』と、本当のことをいちばん最後に知る人回復の途中にいるコメディアンが、男性としか付き合ったことのない女性と恋に落ち、その恋が次にのめり込むものになっていく。言いにくい本当のことがいつも、それがいちばん関わるたったひとりより先に、親からの電話や鎮痛剤や客席に届いてしまうこの作品で、ふたりの愛が落ち着くのは、その順番が逆になったときだ。『人生の最期にシたいコト』、言葉にした約束が、彼女に声をくれた他人が何を望んでいるかを読み取ることに人生を費やしてきた女性が、死を告げられ、一度も手にしたことのないものを探しに出る。最初に見つかるのは絶頂ではなく、ひとつの文法だった。どの行為も頼まれてから始まり、前もって言葉にされ、ひと言で止められる。ドラマは彼女に、その文法を寝室の外へ持ち出させる。主治医へ、母へ、愛する男へ、そして自分の最期へ。『恋せぬふたり』と、「仮」の家族の誠実さ「仮」は、家族にとって劣った言葉とはかぎらない。誠実な言葉にもなりうる。恋愛ドラマのおなじみの仕掛けのなかにアロマンティック・アセクシュアルのふたりを置き、その仕掛けをひとつずつ、静かに、ときにおかしく空回りさせたNHKのドラマは、恋愛が埋めるはずだった場所に、思い込みではなく問いかけでできた暮らしを建ててみせる。『ヘルタースケルター』と、彼女以外の全員のものだった美しさ女子高生たちが憧れるりりこの顔は、彼女がママと呼ぶ事務所社長のために違法なクリニックでつくられ、雑誌に売られ、検事には証拠として読まれた。まわりの誰もが、まだ見せられるかどうかは問うのに大丈夫かとは尋ねず、彼女を愛でたのと同じ欲望が、同じ熱で彼女の転落に群がっていく。『赤線地帯』と、戸口を開けたままにしていた理由溝口健二の遺作は、国会が売春の禁止をめぐって揺れていたころの吉原で、一軒の店に働く女たちを追う。店の主人も、議員も、夫も、息子も、父親も、彼女たちのためだと口にする。映画はそのどれにも与せず、ひとりひとりに自分の理由を持たせて、稼いだ金で誰が暮らし、恥を誰が負わされ、ほかに何も差し出されないとき戸口に誰が立たされるのかを見せていく。『Fair Play/フェアプレー』と、彼のものだと決まっていたはずの席マンハッタンのヘッジファンドで働く二人は、ひそかに婚約している。彼が得るはずだった昇進は、彼女に与えられる。この映画はふつう、男のもろさを描いた作品と呼ばれる。この文章が追うのは、もっと狭く、もっと硬いものだ。上の席はもともと自分のものだという、彼が一度も口にしない前提。そして、その前提が、二人が安全に保ってきた唯一の部屋に何をするのか。『フォー・モア・ショット・プリーズ!』と、友だちだから言ってもいいことこの四人の女性のまわりの人々は、みな彼女たちを言い表す一語をもっている。娘の結婚のために履歴書を整える母から、子どもを取り上げると迫る元夫まで。一文をもっているのは、友人たちだけだ。第一話の題に四つのレッテルを並べて始まったこのドラマは、四シーズンののち、友人どうしが面と向かって言い合い、半年のあいだ守ると約束する四つの一文で終わる。そのふたつのあいだの距離に、このドラマの考える友情の役目がある。『ヴァイブレータ』と、あとから来た静けさ頭の中の声を止められない書き手が、雪の夜、コンビニから若いトラック運転手のあとを追う。見知らぬ男の体に癒される女の物語として語られることの多い映画だが、映画のなかの出来事の順序は、別のことを語っている。最初の夜がくれた数時間は長くは続かず、静けさは、あとから、もっと地味なかたちでやってくる。『異人たち』と、自分の時代の言葉で息子を愛する母四十代の男が生家を訪ねると、三十年前に死んだ両親が、死んだ日の姿のまま暮らしている。いまでは、彼のほうが年上だ。自分が何者かを打ち明けたとき、母の愛と怯えは同じひとつの文のなかでやってくる。それも、彼女の時代が与えた言葉でしか届かない。映画は彼女を、正しいことを言う母に書き直さない。見えてくるのは、親に見てもらうことが、丸ごと認めてもらうことと同じではなかったということ。そして最後に、見る側と見られる側が入れ替わるということだ。『Thappad』と、誰も彼女に尋ねなかったこと夫の栄転を祝う自宅のパーティーで、夫は客たちの前で妻の頬を打つ。彼女を大切に思う人たちは、そんなにひどいことだったのかと尋ねる。大丈夫かと尋ねる人は、誰もいない。この映画は、そのふたつの問いのあいだの距離を描く。耐えなさいと言う人たちと、その理由を。そして、彼が差し出さない謝罪を。『大豆田とわ子と三人の元夫』と、大切な人を手放さない「ひとり」三度結婚して三度離婚し、会社を率い、まわりに人の絶えない女性が、ひとりでも幸せになれると思う、と口にする。このドラマは、その一文に正確な意味を与えている。彼女の「ひとり」は、人の減った人生のことではない。形をもうひとつ増やすことを断り、すでにそばにいる人たちを誰ひとり手放さない人生のことだ。『おひとりさま族』、ひとりで暮らすことと、誰にも気づかれないことは違うソウルのコールセンターで働くジナは、昼食をひとりで取り、イヤホンをつけてバスに乗り、テレビをつけたまま眠る。ある晩、隣の部屋の男性が数日前にひとりで亡くなっていたと知らされる。映画は彼女に、ひとり暮らしをやめろとは言わない。問うているのは別の代償、誰にも気づかれないことの代償だ。そして最後に残るのは、いまもひとりで暮らしながら、きちんと別れを告げることを覚えたひとりの女性の姿である。『あなたがしてくれなくても』と、誰のせいでもない痛みセックスレスに悩むふたりが、戦友になる。ふたりとも自分に触れてくれない相手を愛していて、その愛が怒りの向け先を消してしまうことを、このドラマは正確に描く。触れられないことは誰のせいでもないが、そのあとで何をしたかは、それぞれが引き受けるしかない。『Sanctuary サンクチュアリー』、役の向こうにいる人自分が辱められる台本を自分で書き、それを演じるプロに報酬を払う男。映画の題は、ふたりが「これを言えばすべてを止める」と決めておいた言葉からとられている。お金を介した取り決めが相手に負っているのは、愛でも一生でもない。役の向こうにいる相手を、止めることも、立ち去ることも、終わらせることもできる、ひとりの人間のままにしておくことだ。ひと晩のうちに、ふたりは互いからそれを奪っていく。『プロミシング・ヤング・ウーマン』、聞こうとしない人たちに聞かせる代償エメラルド・フェネルのこの映画が見つめるのは、ひとつのレイプそのものよりも、それを聞こうとしなかったまわりの人々だ。友人、学部長、弁護士、そして見物し、撮影していた同級生たち。主人公は復讐を、彼らが拒めないただひとつの言葉に変え、映画はその言葉を話す女性が支払うものを、最後の最後まで数え続ける。『凪のお暇』と、読むためではなく吸うための空気どの部屋でも空気を読みつづけてきた女性が、ある日息ができなくなり、会社を辞めて、それを「お暇」と呼ぶ。作品はその休みを変身の物語にはせず、家計簿の物語にする。家計簿をつけることで彼女は、誰にでも合わせることに何を払ってきたのか、そして払うのをやめたら何が欲しいのかを知っていく。『阿修羅のごとく』と、言っても負けない場所老いた父にもうひとつの家庭があると知った四姉妹は、母には黙っていようと決める。その母はとうに知っていて、女は言ったら負け、という掟を胸に暮らしてきた。向田邦子が一九七九年に書いたドラマを是枝裕和がよみがえらせたこのシリーズは、その掟を守りながら、言い負かされずに言える場所を探す女たちを見つめている。『小公女』と、家賃のほかに部屋が求めるもの家賃が上がり、いちばん売れているタバコが一箱二千五百ウォンから四千五百ウォンになったとき、ソウルで家事代行をして暮らすミソは、ウイスキーとタバコではなく部屋を手放し、昔のバンド仲間の家を訪ね歩く。仲間たちはみな部屋を持ち、それぞれお金ではない何かでその代金を払っている。それなのに説明を求められるのは、彼女の取引だけだ。映画は、その代償がいくらだったのかを言わないまま終わる。『クローサー』と、すべてを打ち明けても知られないことロンドンの四人は四年のあいだ互いに本当のことを告げつづけ、告白はほとんどいつも一撃になる。この映画は嘘を勧めているのではない。すべてを知りたいという要求がいったい何のためのもので、それが誰に向けられるのかを問うている。『彼女の人生は間違いじゃない』と、誰にも説明しなくていい理由津波が母を連れ去ってから五年。いわきの市役所で働く女性は、週末になると高速バスで渋谷へ向かう。廣木隆一の映画は、その理由を最後まで語らない。死者も行方不明者も避難者も数えられてきた土地で、映画はひとつだけを数えずに残し、それを彼女のものにしておく。『この恋は初めてだから』と、終わらせてはじめて本当になった契約住む場所を失った三十歳の補助作家が、家主と二年間の契約結婚をする。契約はふたりのあいだのことならきちんと守ったが、ほかの誰かが結婚に書き込む条件は締め出せなかった。愛が契約の最初の前提を嘘にする日のことも。『ドン・ジョン』と、見つめ返してくれる人のなかで我を忘れることニュージャージーのバーテンダーは、寝た相手よりもポルノを好む。彼が惹かれた女性は、彼に、自分の好きな恋愛映画の男のようになってほしいと願う。映画はふたつの空想を同じ撮り方で撮り、どちらにも公平だ。彼を変えるのは、一週間ともたない我慢ではない。悲しみのなかにいるひとりの女性だ。彼女は彼がしていることを正確に見て取って口にし、そのうえで自分を見せてくれる。『31年目の夫婦げんか』と、求めるのが彼女ひとりではなくなった夜何年ものあいだ、夫の部屋へ続く廊下でも、カウンセラーの診察室でも、うまくいかなかったどの試みでも、求めるのはいつもケイだった。問題は求めることではなく、断られる危険を、いつも彼女ひとりが引き受けていたことにある。『わたしの宝物』と、嘘より前にあったこと夫以外の男性との子を、夫の子と偽って育てる妻。フジテレビはこの連続ドラマを「托卵」という一語で売り出し、彼女のしたことには、いくつもの言葉を用意した。夫が先にしたこと、彼女をレイプした夜について、番組紹介が書いたのは「宏樹のある行動」という一言だけだった。この文章は、ふたつの行為をそれぞれの名前で呼び、起きた順に並べ、何かを裁く前に彼女の理由を聞く。そして、レイプと嘘を天秤にかけることをしない。『セカンドバージン』と、目を開けたまま落ちる恋二十年、誰も愛さずに生きてきた四十五歳の女性が、十七歳年下の既婚の男性に恋をする。何を失うことになるのか、わかったうえで。このドラマは彼女の欲望を、遅咲きとしてでも醜聞としてでもなく欲望として受けとめ、そのうえで、妻が払ったものを、彼女が払ったものと同じ重さで数えている。『セックス・アンド・ザ・シティ』と、誰の真似でもない欲望第一話で、男みたいにセックスすればいいと言い出したサマンサは、それを「感情抜きで」と言い換えた。最終話までに彼女は、このドラマのほかの誰にも言えない一文にたどり着く。この文章は、そのあいだの六シーズンを、女性の欲望にあてがわれた借りものの物差しと、それを自分のものに取り替えることを許されたのは誰だったのか、をめぐる物語として読む。『ブルカの中の口紅』と、見つけた人のものになる秘密ボーパールの古い建物に暮らす四人の女性は、それぞれ別の望みを隠している。女子大生のジーンズと歌、美容師が町を出ていく道、妻が働くことと自分の体のことを自分で決めること、未亡人の遅れてきた欲望。この映画が描くのは、望みがほかの誰かの手に渡ったときに何が起きるか、そしてそこから先、それが何だったのかを誰が決めるのか、である。『チャタレイ夫人の恋人』と、世話と跡継ぎしか求められなかった妻戦争から下半身不随で帰ってきた夫は、身のまわりの世話を妻にしかさせず、やがて跡継ぎを望んで、妊娠のためだけに愛人をつくってはどうかと持ちかける。この結婚は世話と子どもを求めても、彼女が何を望むかは一度も尋ねない。彼女がはじめて彼女自身として求められるのは、森番の小屋でのことだ。『セクレタリー』と、断れる場所で差し出された「はい」リー・ホロウェイは、電話の勧誘さえ断れない。その彼女が自分の望みを見つけたのは、「いいえ」と言えば職を失う、ただひとつの部屋だった。「はい」が信じられるのは「いいえ」が言える場所だけだと、この映画は知っていて、終わるまでに彼女のためにそういう場所をつくる。そこで彼女がすることは本物だ。ただし、手本ではない。『セクシー田中さん』と、恋より先に尊重を職場で誰にも見られない四十歳の田中さんと、誰からも見られるのに、誰にも話を聞いてもらえない二十三歳の朱里。このドラマはふたりに、踊りと、友情と、ある映画から借りたひと言で応え、そのひと言が求める順番を守りつづける。まず尊重、恋はそのあと。『華燈初上 -夜を生きる女たち-』と、隠さずに抱きしめるということ一九八八年の台北。日本式のクラブで、女たちは男たちをもてなし、大切にされていると感じさせることを仕事にしている。仕事を離れれば、彼女たちは互いを守り、互いのために何年も何かを抱えつづける。このシリーズは、その守りが守る側にどれほどの代価を強いるのかを見つめ、最後に、何ひとつ隠さない守り方にたどり着く。『慕情のアンソロジー3』と、勝手口から帰ってくる欲望四つの短編のうち三つで、結婚のなかの欲望は死んでいない。静かになっていただけだ。動き出すとき、それは勝手口を通る。親友の計画と嫉妬まじりの嘘を通って、ベッドで終わる口論を通って、書き手のものではない名前で出版されたノートを通って。映画は勝手口に寛大だ。そしていちばん誠実なところで、その扉を通るのに何がかかり、誰が払うのかを数えている。『ダウンタイム』と、それが誰の願いなのかを聞くことふたりの外科医は、それぞれの信条で患者を迎える。「医療で命を救う」と、「美で人を救う」。どちらの信条も、患者が話し終える前に答えてしまう。『ダウンタイム』が倫理を置くのは、そのどちらでもない。メスの前で外科医が立ち止まり、なぜかを尋ね、自分がかなえようとしているのが誰の願いなのかを聞き取る、その瞬間である。『愛の渦』と、あの部屋に残してきた自分六本木のマンションで代金を払って過ごす一夜は、前もって合意された性と、あとに何も残らないことを約束する。けれど夜が明けるころ、部屋は締め出すはずだったものでいっぱいになっている。来る前に、誰でも断れるのかと尋ねた女子大生は、その権利を、部屋の決まりが届かないところまで手放さない。『セックスと愛とグープ』と、誰も確かめてこなかった思い込み五組のカップルが、ウェルネス企業の本社で自分たちの性生活に向き合う。ふたりは合わない、体のどこかが小さすぎる、体は恥ずかしいものだ。そう信じてきたことを、誰も確かめてこなかったのだと、ひとつずつわかっていく。このシリーズがいちばん良いのは、思い込みを、答えを返してくれるものに照らして確かめるときで、いちばん弱いのは、それを名前のついた新しい思い込みに取り替えるときだ。『全裸監督』と、ただひとつ彼女のものだった規則あらゆる規則を侮辱と受け取るセールスマンが閉ざされた業界をこじ開け、ドラマはその規則破りを解放のように見せる。破られて当然の規則も多いが、ひとりの女性が何に、どんな形で、いつまで同意したのかという規則だけは違い、画面のなかでもドラマの制作の場でも、いちばんはっきりした不当な扱いは、まさにそこで起きている。『ワンダーラスト: 幸せになるためのセラピー』と、取り決めの届かない場所自転車の事故のあと、夫婦の性は止まった。カップルセラピーを仕事にしている妻と、その夫は、結婚を続けたまま、ほかの相手とも会うことに決める。ふたりは互いを好いていて、率直で、話すことにも長けている。取り決めははじめ、狙いどおりに働く。届かないのは、ふたりがまだ知らなかったことのすべてだ。気持ちが何に育つのか。欲望が何を運んでいたのか。取り決めの外にいる人たちが、何を決めるのか。『うきわ ―友達以上、不倫未満―』と、ふたりを浮かせていたもの東京郊外の社宅で、隣り合う部屋に暮らすふたり。どちらの配偶者にも、別の相手がいる。ふたりはベランダの仕切り越しに互いを浮かせ、恋人にはならない。副題はその関係を、どこまで進んだかで測る。ドラマ自身は、誰が誰を浮かせていたかで測り、ふたりとも、しがみついていたことを見せる。『One Day/ワン・デイ』と、彼女のものだった年月エディンバラ大学の卒業式の夜に出会ったふたりを、物語は毎年、七月の同じ一日にだけ訪ねる。だから、すれ違いで失われた年月の物語として覚えられやすい。けれど、自分を低く見積もりつづけるリーズ出身のエマに目をこらすと、日付と日付のあいだの年月は、彼女が自分の条件を決められるようになるまでの時間に見えてくる。『メイド・イン・ヘヴン ~運命の出会い~』と、取引でしか手に入らなかったもの南デリーのふたりのウェディングプランナーは、依頼主の一族に、天で結ばれたように見える縁を売っている。彼らが仕立てる婚礼の裏には、かならず取引がある。このドラマがよく見ているのは、女性たちが本来受け取ってよいものが、ほとんど権利としては届かないということだ。花嫁の過去も、尊厳も、結婚の取り分も、嫁いだ家のなかの居場所も、取引して手に入れるしかない。そしていちばん上手に取引するプランナーは、いちばん少ないものしか持たずに育った女性である。ドラマは彼女に目をみはり、同時に、取引のひとつひとつの代価を数えつづける。『Catastrophe』と、冗談では運べなかったこと六日間の火遊びと妊娠から、ほとんど見知らぬ二人が結婚をつくる。それを支えるのは、失礼なことを口に出して言い合える才能だ。このドラマは、その才能が働くときにいちばん可笑しく、それでは運べないもの、つまり冗談にならない言葉と、冗談が尽きたあとに残る選択を見せるときに、いちばん誠実になる。『運命の女』と、誰にも聞き入れられなかった別れ幸せな結婚のなかにいる妻が、理由の示されないまま見知らぬ男を求め、やがて自分から終わらせると決める。エイドリアン・ラインの映画は、そのどちらの決断も軽く扱わない。この文章は二つ目の決断を追い、それを誰が聞き入れなかったのかを考える。『離婚しようよ』と、まわりのほうが手放せなかった結婚政治家と女優が、ひと言で離婚に合意する。けれどその結婚には、彼の母も彼女の母も、スポンサーも有権者も、それぞれの取り分をもっていた。笑いの下で問われているのは、見せるための結婚はいったい誰のものなのか、そして見られることを仕事にする女性に、それが何を求めるのかということだ。『モラルセンス ~君はご主人様~』と、契約書にはできない、聞くということ三か月の期間、いくつかの決まり、すべてを止めるひとつの言葉。ふたりの同僚は、望むことを紙に書いた。欲望は条件のように取り決められる。それがこの映画のいちばんの発想であり、映画がいちばん多くを明かしてしまう場面は、紙に書かれた条件にはできないことが何なのかを見せている。『正しい日 間違えた日』と、宛先のないほめ言葉名の知れた映画監督が、水原で持て余した一日を、出会ったばかりの若い画家と過ごす。映画はその一日を二度語る。一度目、彼は前にもどこかで口にした言葉で彼女の絵をほめる。二度目、彼は絵に本当に見えたものを告げ、自分の暮らしの本当のところも口にする。すると同じ一日が、同じ一日のままではいられなくなる。『失楽園』と、世間よりも時間を恐れた恋五十歳で閑職に移された男と、二十五歳で見合い結婚をした女が、ふたりの人生を呑みこむほどの恋に落ちる。映画は、ふたりが後にする二つの結婚、不幸ではないのに黙りこんでしまった結婚をよく見ていて、何より恐れているのは世間の裁きではなく時間のほう、ふたりの恋もいつか同じように黙りこむことだ。『しあわせのモーメント』と、「まだ」という答えムンバイの部屋でいっしょに暮らすふたりを、このドラマは、多くの恋愛ものが飛ばしてしまう時間のなかで追いつづける。片方の昇進ともう片方の足踏み、一年を超える離ればなれ、どちらも急かそうとしない結婚の問い。そこで守られているのは、恋愛の物語がめったに許さない答えだ。「まだ」。ひとりの女性が自分の人生に何を望むのかを見つけるあいだ、ふたりで正直に抱えておく答えである。『先に愛した人』と、請求というかたちでしか語れなかった悲しみソン・ジェンユエンが亡くなったあと、妻のリウ・サンリエンは、夫の生命保険の受取人が息子から、夫が家族を置いて一緒にいた男へと書き換えられていたことを知り、取り戻しに乗りこむ。同じひとりの男を失った三人の誰にも、悲しむための場所は与えられていない。だから悲しみは、この物語で法がほとんど唯一名前を与えているもの、保険金へと向かい、いちばん鋭い痛みは、死が家族に残す肩書きをすべて持ちながら、自分こそ愛人だったように感じている妻のもとに残る。『セックスと嘘とビデオテープ』と、答えを返せる相手に本当のことを話すことバトンルージュの何不自由ない家で、誰も目の前の相手に望みを言えずにいる。そこへビデオカメラを持った男が現れ、出会った女性たちに、別の場所で語る機会を差し出す。スティーヴン・ソダーバーグの第一作は、記録されることと聞いてもらうことのちがいを描いた映画である。『わたしたちのハッピー・エンディング』と、言いだせないまま重くなった本当のこと一年のあいだ、ルナはやさしさと気恥ずかしさから演技を続けてきた。夜を重ねるたびに、本当のことは重くなる。言えば、それまでの夜のすべてを書き換えることになるからだ。自分が何を求めているのかをよく知っている女性と、それを伝えられないただひとりの相手についての喜劇。『紅夢』と、女たちを敵どうしにした掟父を亡くし、実家の財産も失った十九歳の女学生が、高い塀に囲まれた屋敷に、主人の第四夫人として嫁ぐ。主人は毎晩、どの夫人のもとで夜を過ごすかを選び、その選択が、ほかのすべてを決める。提灯も、翌日の献立も、召使いたちの敬意も。映画は主人の顔をほとんど映さないし、映す必要もない。この文章は、女たちのあいだの争いを、彼女たちの性分ではなく掟のしわざとして読み、その掟が何を隠していたのかを問う。『卍』と、つなぎとめても確かめられないもの大阪の弁護士の妻が、美術学校で出会った年下の女に心を奪われ、やがて夫も、その女の婚約者を名乗る男も巻きこまれていく。増村保造が一九六四年に谷崎潤一郎の小説から撮った『卍』は、呼び名や誓約書や、誰と誰をふたりきりにさせないかという決まりで、愛を確かめようとする四人を見つめ、その顛末を、ひとりの女の口から老作家に語らせる。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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