Cinema
『寝ても覚めても』と、「似ている人」に惹かれる心の危うさ
街で一人の男が現れ、誰も決めないまま何かが始まる。数年後、同じ顔をした別の男が現れる。この映画はふつう、似ていることへの警告として読まれる。一度も何かを始めたことのない女性の映画として読むほうが役に立つ。そして、似た顔が静かに果たしている役割について。それは、始まりそのものを省かせてくれるということである。
街で一人の男が彼女に近づいてくる。爆竹が鳴り、ぶつかり、そして二人のどちらかが筋の通ったことを言えるようになるまでに、何かが始まっている。そして彼は消える。説明は差し出されず、ついに与えられることもなく、彼女は一文もないまま終わった関係を抱えたまま残される。
数年後、東京で、同じ顔をした男が現れる。彼はまったく別の人間である。落ち着いていて、勤めがあり、辛抱強く、最初の男がそうでなかったあらゆる意味で社会的に読み取りやすい。そして同じ俳優が演じている。それはこの映画の唯一の形式上の仕掛けであり、この作品についてのあらゆる議論が周回する点である。
今月の主題は最初の一歩であり、その下に置かれた一文はこうである。「うまくできるかより、安心して始めたい。」
その一文に照らして読むと、この映画のおなじみの読みは、より面白くないほうの読みだと分かってくる。危ういのは、彼女が似ていることを人そのものと取り違えることではない。危ういのは、その似ていることが彼女のために果たしている働きである。すなわち、始めるという必要をまるごと取り除いてしまうことだ。
二つの始まり、そして社会がそれに与える点数
この映画は二つの始まりを差し出し、そしてそれらは正反対の材料でできている。
最初のものは出来事である。予告なく到来し、身体的に唐突で、何も交渉されず、条件も述べられず、その権威は完全に強度から来ている。そのなかで誰も何も決めていない。ただ速度をもって起こり、そして続く。どちらの側にも、それを止めるための言葉がないからである。
二つめは建てられたものである。職場で、友人たちのあいだで、ありふれた数か月をかけて進む。意図は述べられる。求婚がある。大人の関係がそうであるように、段取りについては明示的だ。どこに住むか、何をしているか、これを何と呼ぶか。
そして社会はこの二つに、はっきりと点数をつける。最初のものは本当の恋である。映画がそれについて作られるもの、一度も経験したことがないとかすかに気まずくなるもの。二つめは分別のあるものであり、それは恋愛の語彙においては「次善」を礼儀正しく言い換えた言い方である。
映画はこの二つを向かい合わせ、そしてその採点が予測する賞を与えることを拒む。彼女は建てられたほうを去る。大半の読みはその拒絶で止まり、それを要点として扱う。そこが面白いところの始まりである。
危ういのは顔ではない。顔は近道である
彼女は人ではなく似ていることを愛したのだと言うのは簡単であり、そしてまったくの間違いでもない。けれども、その似ていることが実際に、機構として何をしているのかを見る価値がある。恋愛上の皮肉として扱うのではなく。
見慣れた顔は、始めるという労働を取り除く。二人の他人が、続けるかどうかを決めていく区間を削除するのだ。相手が何者であるかを知っていき、そのあいだ留まることを選び続けなければならない、気まずく、骨の折れる、遅い部分を。見慣れは、あらかじめ温められて到来する。証拠が何ひとつ入ってこないうちに、身体がくつろいでしまう。
この図書室の前の映画の文章は、同じ監督の別の作品について、流暢さについての知見に達した。共有された言語は、その段を飛ばさせてくれる。そして、その段こそが肝心だった。これは同じ知見が別の衣装を着たものである。見慣れた顔は、ひとつの流暢さである。
そしてそれは珍しい欠点ではない。誰もがその版を走らせている。誰かを思い出させる人、選んだつもりもなく戻っていく型、最初から楽に感じられて、それが証拠として受け取られた関係。始まりにおける楽さは、相性であることがまれだ。それよりも多くの場合、すでに一度走らせた型を見覚えているのであり、合っていると感じられるものは、見慣れが「合っている」と読めてしまっているだけである。
だからこの映画における似た顔は、こじつけではない。それは、たえず起きていて通常は見えないことの、文字どおりの姿である。ふだんは、見覚えられている型のほうに、指し示せる顔がないからだ。
説明を求められない女性
この映画が与えることを断っているものに注意してほしい。彼女の内面である。独白はない。その執着を説明する回想もない。友人が心理的な説明を引き出す場面もない。私たちは彼女が繰り返し、結果を伴って行動するのを見て、そして理由を告げられない。
観る人はこれをもどかしく感じ、そしてそのもどかしさはたいてい二つの方向のどちらかに落ち着く。この映画は書き込みが足りないのか、あるいは理由を持たない彼女を静かに断罪しているのか。
第三の読みがあり、そしてそちらのほうがよい。与えないことが議論なのである。この映画は、女性の欲望が説明可能であれという要求を拒んでいる。理路が立ち、釣り合いが取れ、分別のある人に弁護できるものであれという要求を。彼女は何かを望み、それに従って動き、そしてまず申し立てを組み立てることを求められない。
それが居心地悪いのは、その要求が現実にあり、そして均等に適用されていないからである。唐突に去る男は衝動的であるか、あるいは既知の型であり、社会は彼にそれ以上何も求めない出来合いの説明の棚を持っている。去る女は説明を負い、そしてそれがないことは、映画が行った選択ではなく、人格の欠如として読まれる。
そしてもう一方の体制がいくらかかるかを考えてほしい。行動に移す前に正当化されなければならない欲望は、承認の手続きを経由する欲望である。そして女性に利用できる承認は狭く、その大半は彼女ではない人々によって運用され、すでに存在している取り決めのほうへ重く傾いている。成熟と呼ばれているものの少なからぬ部分は、その経由の結果である。


なぜ安定した生活は一日の午後で崩れたのか
二つめの関係は悪い関係ではなく、そして映画はその点に注意深い。それは温かい。機能している。そのなかには友人があり、仕事があり、もっともらしい将来がある。そこに残酷なものは何もない。
最初の男が再び現れたとき、それはほとんど即座に崩れる。用意されている説明は初恋の力である。その説明は全員の面目を立て、そしてほとんど何も説明しない。
より正確な説明はこうだ。二つめの関係には荷重を支えているものが何もなかった。その中心にある前提が、二人のどちらによっても検討されたことがなかったからである。彼は、自分が彼女に何を思い出させているのかを尋ねなかった。彼女は言わなかった。取り決めの全体が乗っていたその一点が、その取り決めが含んでいない唯一の話題だった。
それは建てられた始まりに対する反論ではない。建設が終えられなかったという指摘である。関係は段取りについて完全に明示的でありうる。部屋の契約、仕事、これを何と呼ぶかという言葉について。そしてそれぞれが実際になぜその部屋にいるのかについては黙っていられる。そして後者の沈黙こそが、それが保つかどうかを決める。
だからあの崩壊は、強度が安定に勝つという証拠ではない。誰も見ていない土台は荷重を支えないという証拠である。その上に建てられたすべてが、どれほど分別よく見えていようと。
選んだ始まりと、許した始まりの違い
ここがこの文章の存在理由である区別であり、そしてそれは強度とは何の関係もない。
彼女の最初の関係は、彼女に起こった。二つめは、彼女のまわりに形づくられた。そのどちらにも、これは私が始めるものであり、この条件で、この理由による、と彼女が決める瞬間がない。どちらの始まりも、彼女が居合わせたものであって、彼女が行ったものではない。
だからこの映画でもっとも重要な出来事は、最後の出来事である。彼女は戻る。自分自身が壊したものの残骸のなかへ。どの顔も働きを引き受けてくれず、あらかじめ温められたものは何もなく、そして目の前に立ち、それを受け取る資格のある現実の人に対して、説明を負って。
それがこの映画のなかで彼女が書いた唯一の始まりである。そしてそれは新しい始まりより難しい。やり直しの始まりは、最初の試みが散らしていったすべてを抱えているからだ。損害、知ってしまったこと、自分が何をしうるかについての相手の正確な記憶。そこには新しいものが何もなく、だからこそそれは気分ではなく決断を要する。
そのうえで今月の一文を読み直してほしい。安心して始めることは、劣った始まりの形ではない。それがより良いほうだというのが、この図書室の前提のすべてである。しかし、ただ許しただけの安心な始まりは安心ではない。それは静かなのであり、それは別のことである。声に出して求められたことのない安心は、まだ試されていない取り決めにすぎない。
安心は、あなたが求めたものでなければならない。あなたが定めた条件で、最初に、まだ断られることが可能なうちに。
この文章が言っていないこと
これは教訓の話ではなく、そしてその教訓版は、映画そのものよりも退屈であり、かつ真実から遠い。
圧倒されるものを望むことは欠陥ではない。出来事としての始まりを経験した人はそれによって損なわれてはおらず、それを懐かしく覚えていることを説き伏せられる必要もない。強度は、何が自分を動かすかについての現実の情報である。ただそれは、次に何をするかについての判決ではない。
建てられた始まりに賞が渡されているのでもない。映画はそれをはっきりと断っており、そして落ち着いた男を正解にする読みは、彼の執着がどれほど彼女が従順であることに依っているか、そして生活を共に建てようと申し出ている相手に対して彼がどれほど好奇心を示さないかを、無視しなければならない。
主張はそのどちらよりも狭い。どちらの種類の始まりのなかに立っているとしても、問いは、それを選んだ瞬間がかつてあったかどうかである。そしてその問いは、そのときどう感じられたかとは独立している。圧倒される始まりも選ばれうる。分別のある始まりにも流れ込めてしまう。感覚と決断は同じ器具ではなく、そして社会はたえず前者を後者の証拠として読む。


もう一人の男が失うもの。映画はそれを真剣に扱う
この文章はここまで、二人目の男を主として構造として扱ってきた。それは映画が彼に対して行っていることに対して不公平である。彼の傷は固有のものであり、そして人がふつう名づけるものとは違う。
それは単純な裏切りではない。彼が知るのは、自分が価値を認められていたものが、部分的には自分ではなかったということである。受け取っていた温かさのいくらかは、たまたま自分が持っている顔に宛てられていて、自分が到着する前からその部屋にあった。それは特有の種類の傷であり、そして標準的な語彙を持たない。自分の顔のことで誰かに怒ることはできない。
そして映画は、彼の分担について静かに正確である。彼は尋ねなかった。機能している関係の数年を通じて、彼は一度もその明白な問いを彼女に向けなかった。そしてその理由は愚かさではない。取り決めが心地よく、彼は愛されており、そして問うことは、うまくいっているものを不安定にするほかなかったからである。
それは、この図書室の『ドライブ・マイ・カー』の文章に出てくる男が行う動きと同じものであり、反対の側から到来している。あちらは取り決めを守るために自分の位置を伏せた。こちらは同じ理由で問いを伏せる。どちらも、いま手にしている関係を、それが何であるかを教えてくれる情報よりも好む、ということの形である。
だから映画は彼に道徳的な高みを与えないし、そこから引き下ろすこともしない。彼は知ろうとしなかった善良な人であり、そして知ろうとしないことの代価は、情報がついに到来するとき、それが一度にまとめて、外から、何の備えもなく、そして時期について何の発言権もなく到来することである。
今月の一文をどうするか
「うまくできるかより、安心して始めたい。」
その前半は健全であり、この図書室にそれを崩す関心はない。始まりにおける上手さは、身につける価値のある徳ではない。これが上手いとされているものの大半は、ある演技の練習量か、あるいは始まりがうまくいかなかった人々によって築かれ、気にしないことを学んだ危険への耐性のどちらかである。
仕事があるのは後半であり、そして映画はそれが何を要するかを正確に示している。安心して始めることは、安心という感覚ではない。それは、相手がまだそれを断れるうちに、最初に行われるいくつかの表明である。
三つある。どれも華やかではない。自分がなぜここにいるのか。居合わせているという事実によって含意させるのではなく、自分の言葉で述べること。これを何にしたいのか。その終わりも含めて。形の述べられていない始まりは始まりではなく、開きっぱなしの口である。そして条件。すなわち、自分がすることとしないこと。それが撤退ではなく情報として読まれるだけ早い時点で述べること。
それを許可ではなく選択にしているのは、最後の条件である。相手がそれに対して否と言えなければならない。誰も断りえなかった始まりは、誰によっても選ばれていない。そしてそれはこの映画の二つの関係のどちらの形でもあり、どちらも保たなかった理由である。
そして三つとも、その始まりがうまくいっている度合いに反比例して難しくなる。楽に感じられるほど、それらは不要に思え、そして全体はいっそう完全に、誰も検討していない何かの上に乗ることになる。
限界
この映画は二〇一八年の作品で、濱口竜介が監督し、柴崎友香の小説から脚色された。クレジット、映画祭での経歴、現在の視聴手段は、外部作品についての台帳の注記に従い、公開の関門で確認されるべきである。
筋は概略として記述している。台詞は引用していない。とくに終盤のやり取りは、再現ではなく性格づけであり、この映画を知る読者はその力点を別様に覚えているかもしれない。
演者は意図的に名を挙げていない。二役の配役は議論を支えており、映画についての事実として記述している。けれども議論は俳優の名を必要とせず、そしてこの文章は彼らの私生活に近づかない。
この映画の読みは大きく分かれており、とくに結末について、そして主人公をどこまで裁くかについて。ここでの解釈は複数ある真剣な読みのひとつであり、この映画を教訓譚として扱わないという拒絶は、定まった合意ではなく選択である。
見慣れた顔がひとつの流暢さとして働くという主張は、この図書室の枠組みであり、同じ監督の後の作品についての文章から引き継いで、虚構の場面に適用したものである。測定された効果ではなく解釈である。
そして、とくに女性が欲望について説明を求められるという主張は、広く論じられている社会的な期待の性格づけであり、それがどれほど頻繁に適用されるかの測定ではない。それは一様でもなく、いずれか一国に固有でもない。
川と、それについて一致しないこと
この映画は、増水した川を二人が見ているところで終わる。それぞれがそこに見ているものは同じではなく、そして映画はそこで止まる。二つの見方を和解させることも、どちらを好むかを示すこともなく。
それは見慣れの正反対であり、そしてこの映画の最後の、もっともよい仕草である。見慣れはこう言う。あなたはすでに私に知られている、これ以上は要らない。川はこう言う。あなたは私が見ていないものを見ている、そしてそれでも私はここに立つ。
そちらのほうが、爆竹の鳴った街路で起きたことよりも、始まりのはるかに良い記述である。始まりとは、二人が同じものを感じる瞬間ではない。一方が、別のものを見ているかもしれない相手に向かって、自分が見ているものを声に出して言う瞬間である。
その実務版は、ほとんど誰も何かの始まりに言わない一文である。私がここにいる理由はこれで、私が望む条件はこれで、そしてあなたがすでに知っていると前提していない。短い。理解が難しいわけでもない。ただ決して言われない。ありふれた始まりはどれも、それを言うのが不要に感じられるだけの勢いを伴って到来するからだ。
そしてそれを練習する場所がない。それが、Moonlightの一晩が置かれるために整えられている隙間である。始まりと終わりが述べられた始まり。条件は事前に、あなたによって定められている。欲しいものを言うことが危険ではなく活動そのものであり、沈黙から何も推し量られず、そして部屋のなかに、すでに見覚えているはずの顔がひとつもない。