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『トウキョウソナタ』と、毎朝着られ続けるスーツ
二〇〇八年の一本。職を失った男が、それでも毎朝スーツを着て家を出る。この映画はほとんどつねに、その男の物語として語られてきた。ここでは中心に妻を置く。恵は知っている、あるいは半ば知っている。そして知っていることが何ももたらさない。この家の取り決めは、彼女に家が回ることの責任を全部与え、その条件を変える立場だけを与えていないからだ。これは構造についての議論である。そして恵とちょうど同じ位置にいる女性たちに商いの利害をもつ家が書いている。その利害は、議論より先に申告する。
スーツを着た男が、毎朝おなじ時刻に家を出る。上着に皺はなく、鞄は手にあり、画面に見えるものは何ひとつ変わっていない。彼は職を失っている。それを告げるかわりに、朝の形だけは壊さないと決めた。つまり彼はいま、失ったものの外観を、毎日それなりの費用を払って演じ続けている。
これが『トウキョウソナタ』の出発点である。黒沢清監督、二〇〇八年九月に日本で公開。そしてこの映画は、ほとんどつねに「その男の物語」として紹介されてきた。父・佐々木竜平を演じるのは香川照之。妻・恵を演じるのは小泉今日子。息子が二人いて、上は家を出られる年齢に達しており、下はまだ小学生で、二人ともそれぞれに隠しごとを抱えている。上映時間は百十九分。その百十九分は、同じ家に住みながら、実質的には同じ物語を共有していない四人に費やされる。
ここでは中心に妻を置く。それが多くの読解の流れに逆らうことも、監督自身が語った重心に逆らうことも承知のうえで置く。監督の言葉は後段でそのまま引き、都合よく弱められることはない。議論はこうである。父の偽装はこの映画の動力ではあっても主題ではない。主題は、その偽装が回っているあいだ、取り決めそのものを回し続けている人物のほうにある。そして、この映画のもっとも説明のつかない箇所、恵が家の外で過ごす一夜こそが、彼女に属する欲望が唯一表面化することを許された場所であり、しかもそこには行き先が一つも用意されていない。
その下にある主張は、ある家族についてのものではなく、ある国についてのものでもない。構造についてのものである。取り決めは、それを変える権限をもたない者によって支えられうる。そして支えることの有能さこそが、その人物をその内側で見えなくする。これは家庭というものがどう組み立てられうるかについての主張である。日本の家庭についての主張ではなく、日本の女性についての主張ではなく、いかなる国民的な気質についての主張でもない。以下のどの一行も、そのように読まれてはならない。
この映画が何であり、実際に何を受けたのか
『トウキョウソナタ』は日本・オランダ・香港の合作である。上映時間百十九分。脚本はマックス・マニックス、黒沢清、田中幸子。撮影は芦澤明子。日本では二〇〇八年九月二十七日、ピックス配給で公開された。香川と小泉のほか、長男・貴を小柳友、次男・健二を井之脇海、ピアノ教師を井川遥、そして終盤に現れて最終楽章の形を変えてしまう強盗を役所広司が演じている。
受賞については正確であるべきだ。この映画はしばしば、賞をやや大きく見せる紹介のされ方をしてきた。二〇〇八年の第六十一回カンヌ国際映画祭で受けたのは「ある視点」部門の審査員賞である。「ある視点」はコンペティション本体とは別の並行部門であり、審査員賞はその部門の最高賞でもない。その年の最高賞にあたる賞はカザフスタンなどの合作『トゥルパン』に渡っている。これは重要な映画祭からの正当な評価であって、パルム・ドールではない。その二つを曖昧にして語る媒体は、何かを売っている。
二〇〇九年三月に香港で行われた第三回アジア・フィルム・アワードでは、作品賞を受賞し、黒沢・マニックス・田中の三名が脚本賞を受賞した。二部門の受賞であり、この映画が得た最も大きな賞である。
それに対して、ほとんど語られない事実がひとつある。第三十二回日本アカデミー賞、すなわちこの作品の公開期間を対象とする回において、『トウキョウソナタ』はどこにも現れない。最優秀賞にも、優秀賞の候補にも、作品・監督・脚本・演技・技術のいずれの部門にもない。国内のアカデミーはこの作品を取り上げなかった。これは公表された一覧における不在であって、誰かが積極的に下した判断の記録ではない。だがカンヌですでに賞を得ていた作品の不在としては、目を引く不在である。
小泉今日子はその年度に評価されている。そして評価のされ方こそが重要だ。第八十二回キネマ旬報ベスト・テンの主演女優賞、第三十三回報知映画賞の主演女優賞、第三十二回山路ふみ子映画賞の女優賞、そして平成二十年度・第五十九回芸術選奨文部科学大臣賞の映画部門。そのすべてが、『トウキョウソナタ』と同年の別の一本、『グーグーだって猫である』との二作に対して贈られている。この一本の演技だけに賞を出した団体はない。それは仕事への貶めではない。記録が語っていることの正確な記述である。この文章はこれからその演技について大きな主張をする。だから主張の前に、記録のほうを見えるところに置いておく。
スーツは、維持のための日程表である
竜平の部署は人件費の安い大連に移され、彼は職を解かれる。そのあと彼がすることは、嘘というよりむしろ仕事である。いつもの時刻に出る。いつもの時刻に帰る。ハローワークに並び、公園に座り、炊き出しの列に加わり、屈辱的な面接を受け、やがてショッピングモールの清掃の職に就く。そして仕事着からスーツに着替えてから帰宅する。
この日課が実際に何を要求しているかを考えてほしい。それは、家庭が朝を生産し続けることを要求する。誰かが、もはや儀礼でしかなくなった時間割に合わせて家を回し続けなければならない。誰かが、その時間割が前提とする食事をつくり、消えた給与が支えているはずの家計を回し、学校からの苦情を引き受け、そして何も記録に残さない。偽装は彼のものである。その偽装が乗っている土台は彼女のものである。
ここが、通常の読解が最初に取り落とす点だ。この種の隠しごとは一人芝居ではない。二人でつくる興行であり、芝居が始まっていることを知らされているのは片方だけで、もう片方は台本なしに照明と炊事と受付をやっている。父の秘密は、妻がそれを知っていようといまいと妻の労働を消費する。つまり彼女は最初の朝から、当事者としてではなく資源として、その筋書きの内側にいる。
そしてこの映画は、彼の権威こそがこの営みの目的であることを丁寧に見せる。のちに次男からピアノを取り上げようとする場面で、彼は自分の立場を恵にこう説明する。親の権威にブレがあってはまずい、と。彼は悪い知らせから家族を守っているのではない。ある地位を守っている。そしてその地位こそ、この家庭が周囲に組み上げられている軸なのである。
彼女は知っている。そして知っていることは何も生まない
そこで映画は、それ以前のすべてを組み替えてしまう一手を打つ。ピアノをめぐる諍いのさなか、夫が息子に手を上げ、そのあと自分を見る妻の目つきに矛先を向けたとき、恵は、知っている、と言う。炊き出しの列に並ぶ彼を見てしまった。しばらく前から知っていて、何も言わずにいた。
そのあとに彼女がとる行動が、この映画でもっとも重要な身ぶりである。そしてそれは糾弾ではない。彼女は問い返す。それを口にしたらあなたの権威は丸つぶれになるが、それでもいいのか、と。これは脅しではない。慈悲でもない。彼女が立っている仕掛けについての、正確な記述である。彼女に使える唯一のてこは、彼女が維持を任されているものを壊すてこなのだ。家庭を保つ人間であるか、事実を名指す人間であるか。この取り決めは両方を許さない。
だから、ここでは知識は力ではない。追加の荷である。知る前の彼女は、家庭をひとつ維持していた。知ったあとの彼女は、家庭とひとつの虚構を同時に維持している。しかも黙って維持している。そして二つ目の仕事を報告できる相手はどこにもいない。報告という行為そのものが、それを終わらせる行為だからである。
だからこそ、彼女を受動的だとする読み、あるいは家族をつなぎとめる意志を見いだせずにいる人物だとする読みは、絵を正確に裏返しに見ている。彼女は行動しそこねているのではない。使える行動はどれも、買えるものより高くつくと正しく見抜いている。外から見て停滞に見えるものは、計算を終えて、盤上に手がないと判断した人間の姿である。


取り決めに責任をもち、条件を変える立場をもたない
ここで構造の主張を全部述べる。この映画が映画欄ではなくこの図書室に属する理由が、これである。
この家庭は、家が回ることの責任を全面的に恵に割り当てている。食事、学校、入るはずの金と出ていく金、四人分の情緒の天候、誰かが口に出す前に必要になるものを先回りして把握しておくこと。そのうえで、それに対応する立場は何ひとつ割り当てていない。彼女は条件を定めない。定められた時にも定めていないし、いま開き直すこともできない。開き直すための手続きが存在せず、試みるための場も存在しないからである。長男が家を出る直前の場面で、いっそ離婚してしまえば、と口にしたとき、彼女の返答は愛についてでも義務についてでもなかった。では、お母さん役は誰がやるのか、と彼女は言う。埋められねばならない持ち場について述べており、その持ち場の担当者が自分だと述べている。
ここに二つの研究知見を並べておく。どちらも、それが何であるかを明示したうえで並べる。アリソン・ダミンジャーは二〇一九年の『アメリカン・ソシオロジカル・レビュー』誌で、三十五組のカップルの計七十名への詳細な聞き取りをもとに、家事労働には物理的作業とは区別される認知的な次元があると論じた。必要を先取りすること、選択肢を洗い出すこと、決めること、そして実際に進んでいるかを監視し続けること。彼女は、この調査対象において女性のほうが認知的労働を全体として多く担い、とりわけ先取りと監視を多く担っていたと報告している。そして、この文章が飛ばしてはならない報告がもう一つある。逆向きに効く報告である。意思決定への関与、彼女自身が権力や影響力にもっとも近い構成要素だろうと述べている部分については、この調査対象では男女でおおむね同等だった。先取りと監視は権限と同じものではない。彼女のデータがそう言っている。
もう一つはより古く、より無愛想である。ビットマン、イングランド、セイヤー、フォルブレ、マシソンは二〇〇三年の『アメリカン・ジャーナル・オブ・ソシオロジー』誌で、オーストラリアと合衆国のデータを用い、女性の家事時間は世帯所得に占める自分の取り分が上がるにつれて減少するが、それは二人の稼ぎがほぼ並ぶ地点までであること、その間ずっと女性側の基準水準のほうがはるかに高いこと、そして女性が所得の大半を供給する少数のカップルでは傾向が反転し、分担がかえって伝統的な形に戻ることを報告した。つまり稼ぐことは、そのまま立場を買うわけではない。帳簿以外の何かが条件を定めている。
どちらの研究も、この映画についてのものでも、この国についてのものでも、この家庭についてのものでもなく、それらの証明として持ち出されているのでもない。これらが立てているのはもっと狭く、そして十分な事柄である。人は、共同生活の先取りと監視を一身に引き受けながら、その引き受けがその生活の条件に対する何の権限にも変換されないという状態にありうる。そしてその隔たりは研究者に測定できる。恵は映画の登場人物である。彼女が占めている位置は、虚構ではない。
ここに国内の統計を一つ、両側に柵を立てたうえで置く。総務省統計局は社会生活基本調査を公表している。二〇二二年八月公表の令和三年調査は、六歳未満の子供をもつ夫婦と子供の世帯について、週全体の一日平均で、夫の家事関連時間を一時間五十四分、妻を七時間二十八分と報告し、同じ表を二〇〇一年までさかのぼって示している。二〇〇一年の数値は四十八分と七時間四十一分である。佐々木家に六歳未満の子はおらず、そもそもこの表の対象区分に入っていない。そして平均は分布を記述するものであって、その中のどの家庭も記述しない。国全体の平均から「この国の家庭は」で始まる一文を導く資格は誰にもない。この表が立てているのは次のことだけである。この映画が劇化している非対称は脚本の発明ではなく、測定されており、二十年にわたって測定され続けており、そして縮まったのは主に列の片側だけだった。
ホラーから来た監督と、ホラーのように撮られるために建てられた家
黒沢清がこの題材にたどり着いた場所は、はっきりしている。一九九七年の『CURE』と、その後十年ほどの一連の作品が、彼を戦慄の作り手として国際的に位置づけた。『トウキョウソナタ』の直前には二〇〇六年の『LOFT ロフト』と二〇〇七年の『叫』があり、この三本はいずれも同じ撮影監督、芦澤明子によって撮られている。芦澤はこの年の仕事で第三十回ヨコハマ映画祭の撮影賞を受けている。黒沢の怪異を見ていたカメラが、担当者を替えないまま、食卓の家族を見に来たのである。
形式上の帰結は全篇に見えていて、しかもそれが、この映画を怖いとは呼ばないだろう観客までも落ち着かなくさせている理由である。佐々木家の内部はロケーションではない。黒沢自身が語っているとおり、家の内側はセットで、天井まで組み、昼間は外から陽が差し込んでいる設定にして人工光を太陽光のように見せている。彼はセット撮影が基本的に好きではない、ロケ場所に行って面白さを発見するという経験ができないからだ、と述べる。だからこそ今回は、窓の外や柱の向こうといった、障害物が多くて撮りにくい位置にカメラを置き、アングルを探しながら撮ったのだという。そしてその不自由さが豊かさにつながっている、と。つまりこの家庭の空間は、自分の家具の外側から見張られている。戸口の枠が視線に割り込む。この家族は何度も何度も、部屋の中の誰も占めていない位置から観察されたものとして構図に収められる。
彼はそれがホラーの計画ではなかったとはっきり述べている。家に嵐が吹き込み、新聞や雑誌が生き物のようにめくれる冒頭について問われて、自分は取り立てて要所要所で怖くしてやろうとは思っていないが、習性からそうなってしまうのだろうか、と彼は答えている。ホラー映画を多く作ってきたから誰もいない街という設定は不気味で効果的だったが、この映画ではホラー色をなるべく消したかったのだ、と彼は言う。だからハローワークにも配給の列にも、これまでになく多くの人を配置した。そして自分が努めたのは、四人家族の持つ危うさを出すことだったと述べる。彼らはぎりぎりのところで家族であることを保っているが、ちょっとしたきっかけですぐにばらばらになりかねず、なんでもない会話やなんでもない部屋を映していても、少しでも何かが起これば、この家だって廃墟になってしまいかねない、と。
彼の言葉をそのまま受け取ると、論点は形を変えて、しかもより強く立つ。『トウキョウソナタ』の戦慄は、ドラマの上にかぶせられた雰囲気ではない。ドラマそのものである。触れれば崩れうるのは取り決めのほうであり、カメラは、それが誰かによって支えられていることを思い出させ続ける位置に置かれている。それは心理的な恐怖ではなく構造的な恐怖である。この家で誰かが憑かれているのではない。家が装置であり、装置の荷重は一人にかかっており、そしてこの映画は、それが見える角度から撮られている。
行き先のない一夜
終盤、強盗が家に押し入り、恵を人質にとって車を運転させ、一夜のあいだ彼女を家の外に置く。二人は海辺の小屋にたどり着く。男は鍵開けの名人でありながら商売に失敗した人物で、自分の人生に絶望し、やがて刃を自分に向け、彼女がそれを止める。朝、彼女が外に出ると、そこにあるのは波打ち際まで続く車輪の跡だけである。
ここで多くの読解がつまずく。理由はよくわかる。この一続きは、前後のすべてと調子が違う。何の準備もなく訪れ、別種の映画から借りてきた語法をまとい、そして意味へと素直には変換されない画像に解けていく。この箇所についてのどんな説明も、ここで述べる説明を含めて、争える。だから最初にそう言っておくのが誠実である。
典拠をもって言えることはこうだ。黒沢は、脚本を書き直す初期段階でこの人物を思いついたと述べ、その人物を、母親を有無を言わさず家の外へ引きずり出す存在として、彼女が母や妻である前に一人の人間であると気づくために作ったと語っている。二〇〇八年十二月のインタビューでの発言である。よく読めば、この一文の中に、この文章の議論と、この文章の困難とが同時に入っている。映画は、彼女自身の手では彼女を家から出せないのだ。この人物がこの取り決めから離れるための、それらしい行動はひとつも用意されていない。だから、凶器を持った他人を書き加えて代行させるほかない。噴出は本物であり、そして彼女のものではない。それは彼女に対してなされる。そして映画のほうも、これが唯一の扉であることを知っているように見える。
この図書室がこの一夜を解放としてではなく、行き先のない欲望として読むのは、そのためである。あの夜に浮かび上がるものには、家庭の語彙の中に名前がなく、家庭へ持ち帰る経路もない。そして、それは蒸発する。跡は海へ入っていく。何も持ち帰られず、何も語られず、翌朝の彼女は、口にできないことをもう一つ抱えて取り決めの中に戻っている。
彼女に与えられていないものを見ておきたい。父には事故が与えられ、路上で意識を失う時間が与えられ、拾った札束と、それを返すかどうかの判断が与えられる。長男には戦地と手紙が与えられる。次男にはピアノと試験が与えられる。男たちにはそれぞれ、結果の着地する行動が与えられている。彼女に与えられるのは、車輪の跡が残るだけの一夜である。
かろうじて触れ合わない四本の線
黒沢は、四人を均等に描いているつもりであり、ある意味では四つのオムニバスの話が絡み合っているとも言える、老若男女を問わず四人の中の誰かには必ず共感できる部分がある、と述べている。この記述は正確で、この映画の奇妙な呼吸、すなわち登場人物が長い区間ふっと消え、画面の外で変化してから戻ってくるという運びをよく説明している。
だが四本の平行線は、四人に等しく落ちてはこない。そしてこの非対称こそが議論のすべてである。竜平の線は彼一人のものだ。貴の線は彼を国外へ連れ出す。健二の線は、給食費を流用してひそかに進行する。恵には、その意味での自分の線がない。彼女は交点である。他の三本の内側すべてに現れる唯一の人物である。給食費の未納で学校に呼び出されるのは彼女であり、健二をかばうのは彼女であり、長男の同意の署名を求められるのは彼女であり、権威をめぐる夫の苛立ちを受けるのも彼女である。彼女の画面上の時間は、一本の筋のために使われていない。他の全員の筋の運用のために使われている。
そして、まさにそれがこの議論を見えにくくしている。独立した筋をもたない人物は、一読すると脇役に見える。この映画の構造は彼女の不可視性をあまりに忠実に写し取っているので、こんどはその構造自体が、彼女が主題ではない証拠として受け取られてしまう。この文章は逆に読む。彼女に筋がないことこそが、彼女が主題である理由である。彼女の占める位置は、自分の用件をもたないことによって定義されているからだ。
それが映画の立てた議論なのか、この文章が立てた議論なのかは、まっとうな問いである。その問いは後段で正面から扱う。


この図書室がすでに書いたこと、そして今回あたらしいこと
この家が家庭の条件について書くのは、これが最初ではない。先行する文章は、こっそり再利用するのではなく、名指して引き継ぐべきものである。
この図書室は、結婚が雇用契約として始まる日本のテレビドラマについて書いたとき、ふつうの結婚にもすでに条件はある、誰が作り、誰が稼ぎ、誰の仕事が譲るのか、欠けているのは文書のほうであり、だから条件は合意ではなく前提によって執行されることになる、と論じた。良い妻であることと幸せな女であることの隔たりについて書いたときには、前者には項目と採点のある仕様書があり、後者には何もない、そして同じ時間をめぐって、測れる目標は測れない目標に勝つ、当人がどちらを大事に思っているかとは無関係に勝つ、と論じた。年中行事と役割について書いたときには、役割は手際のよさが見えないことによって評価されるので、それを生む労働は隠されねばならず、隠された労働は、仕掛けを暴かずに感謝することができない、と論じた。そして『フレンチアルプスで起きたこと』について書いたときには、親密な者どうしには、何が起きたのかについての食い違いを決着させる手続きがない、と論じた。
今回加えるのは、同じねじをもう一回転させるものであり、そのためにこの映画は依頼に値した。先行する各篇が記述したのは、書かれていない条件、測れない目標、感謝できない労働だった。今回は立場についてである。恵の問題は、条件が文書化されていないことではない。彼女の労働が記録されないことでもない。何が起きたかを立証できないことでもない。彼女の問題は、事実をもち、能力をもち、取り決めの全体が自分の上に載っているにもかかわらず、その取り決めの変更を提案しうる位置をもっていないことである。彼女に不足しているのは情報ではない。それが決まる卓に、席がない。
そしてより鋭い半分がそこから出てくる。彼女の有能さは、彼女の不可視性に付随しているのではない。その原因である。うまく支えられている取り決めは、支えられている証拠を生まない。壊れず、遅れず、欠けないので、誰にも気づくべきものが残らない。仕事がうまいほど、その仕事は存在しなくなる。
この家が売っているもの、そしてこの映画から主張できないこと
この議論が完結した感触を持つことを許す前に、その背後にある利害を見えるようにしておかねばならない。
この家はプライベートな同行を売っている。有料で、日時が決まっていて、範囲の限られた、誰かの注意が自分に向けられている一晩である。この文章にもっとも動かされうる読者は、ここで記述された位置に心当たりのある女性であり、そしてその同じ女性は、この家が客として迎えたい人である。そうした女性が構造的に見られずにいること、しかもその原因が彼女の有能さであることを論じる文章は、最初から最後まで、私たちの商いの立場に都合がよい。それは議論が正しいかどうかとは無関係に真であり、議論が正しかったとしてもなお真である。
だから申告は、免責の但し書きではなく、制約に変わる。以下は、してはならないことの列挙である。
この位置にいる読者が病んでいる、欠けている、何かを必要としている、とは主張しない。ここには診断はない。上の段落のすべてに心当たりがありながら、何も望まず、心当たりだけを持ってこの頁を閉じる、ということが成り立つ。
この家が売るものが家庭の条件を変える、とは主張しない。変えない。注意の一晩は立場ではないし、繰り返したところで立場にはならない。ある人にとって、自分に注意が向けられている時間が買った時間しかないのだとしたら、それは取り決めにあいた穴の記述であって、この家が喜んでよい成果ではない。
いかなる効果も主張しない。一晩見られることが何かを和らげる、直す、良くする、とはここには書かれていない。それは書けば楽な一文であり、この家が書かない一文である。支えられない主張だからであり、そして検証不能な約束は、疲れている人につけ込むための通常の道具だからである。
この映画が何かを推奨している、とも主張しない。監督も、脚本家も、出演者も、製作各社も、配給も、この家を知らず、この家と何の関係もない。この映画はこの映画自身の理由で作られたのであり、その理由のどれ一つとして私たちのものではない。
この読解に対する、もっとも強い反論
反論は四つある。そして最初のものは、この文章を丸ごと沈めうる。
第一に、恵を中心に置くこと自体が押しつけだという反論である。映画は彼女を周縁に置き続けており、周縁の人物を中心に昇格させる読解は、主張を持った書き手であれば、どんな映画についてでも作れる。この反論のもっとも強い形は、対立する批評家からではなく、監督自身から来る。黒沢は、長男が自分のもっとも思い入れのある人物であり、じつはこの家族全部を引っ張っている存在であり、脚本の段階で彼の話が大きくなりすぎたので削ったのであり、中東で戦う光景を撮る当初の計画も控えたのだ、と語っている。作り手が中心を名指しており、その中心は妻ではない。この文章は、彼の映画について彼を論破することでこれに答えることはできない。言えるのはもっと狭いことだけである。監督による意図の説明は意図についての証拠であって、出来上がった作品が何を軸に組み上がってしまったかについての裁定ではない。そして長男を削らねば作品を乗っ取ってしまうところだった、という事実そのものが、この映画の均衡が発見されたのではなく設計されたものだという告白でもある。これは本物の応答であり、そして反論より弱い。
第二に、あの一夜はこの重さにも、どんな重さにも耐えられないという反論である。人質から始まり、海辺でのほとんど喜劇的な告白を経て、砂の上の轍の画像に着地するこの一続きは、あまりに調子が異質であり、ここで示したものを含め、可能なあらゆる読解は、読解不能な箇所の上に押し当てられた読解にすぎない。判断の誤りだと呼ぶことも、抑えきれなかったジャンルの反射だと呼ぶことも、冗談だと呼ぶことも、十分に理のあることである。この文章はそれを、この映画における唯一の、行き先のない欲望の噴出として用いた。その用い方は発見ではなく選択である。外部からの支えは一つしかない。強盗が何のために発明されたかについての監督自身の説明であり、そして機能の説明は効果の保証ではない。
第三に、結末についての反論であり、この文章がもっとも答えにくいのがこれである。家族は食卓に集まり直す。拾われた金は返される。手紙が届く。次男が試験でドビュッシーを弾き、その部屋も、この映画も、束の間の平穏に入る。黒沢は、結末に本当の希望を、嘘の希望やおよそ信じがたい大団円ではない希望を込めたかったと語り、家族は問題を全部抱えたままやり直そうとしているのだと語り、父が金を返すのはゼロから始める必要があるからだと語っている。そして最終部について、理屈を超えた形である祝福がこの家族の上に訪れる、それはつまり音楽ということなのだ、とも語っている。これは、論証されていない慰藉についての率直な記述である。この映画自身の論理では何も決着していない。男には名乗れる職がなく、長男は去っており、家庭の条件はまったく動いておらず、恵は口にできない一夜をもう一つ抱えている。筋が果たしていない仕事を、音楽が果たしている。結末が贖われていないと結論する読者は、監督を半分味方につけている。
第四の反論は映画にではなくこの家に向かう。そしてもっとも聞きづらいのがこれである。恵と同じ位置にいる女性に注意を売る媒体には、彼女の不可視性を美しいと感じる明白な動機がある。この種の文章には現実的な危険がある。無償で、承認されず、選ばれてもいない負荷を、恰好のよい主題に仕立て、それを背負っていることで女性を称え、その結果として、紙の上で、まさに食卓でこの家庭がしていることをしてしまう危険である。すなわち、手際のよさに感心しながら、条件には手を触れない。議論の優雅さは、その議論が親切であることの証拠ではない。とりうる防御は、私たちがこれを回避できたと主張することではない。回避できていないかもしれないからだ。はっきり言えるのは次のことだけである。ここで記述された位置に、称えるべきものは何もない。立場を伴わずに行使される有能さは美徳ではなく代償である。そして取り決めから出たいと思う読者は、その中に感動的なものを見いだす義務を、何ひとつ負っていない。
この文章が主張していないこと
これは一本の映画の読解である。臨床的な助言ではなく、誰も診断せず、いかなる効果も約束せず、いかなる行動も指示しない。
ここには、日本の家族、日本の結婚、日本の女性、あるいはいかなる国民性についての言明もない。この映画は、一つの架空の家庭についての一本の虚構であり、構造の議論は、家庭がどう組み立てられうるかについてのものであって、それがどこにあるかについてのものではない。用いた国内統計は、報告された生活時間についての公的調査である。それは人口全体にわたる平均を記述しており、その中のどの家庭も記述していない。そして映画の家庭は、引用した表の対象区分にそもそも入っていない。
受賞の記録は正確に述べた。カンヌの評価は並行部門である「ある視点」の審査員賞であり、その部門の最高賞ではなく、コンペティション本体の賞でもない。アジア・フィルム・アワードの評価は、地域の授賞式における二部門の受賞である。第三十二回日本アカデミー賞ではこの映画は何も受けていない。それは公表された一覧における不在であって、誰かが下した積極的な判断ではない。小泉今日子がその年度に受けた演技の賞は、この一本の演技に対してではなく、二作に対して贈られている。
監督の見解は監督自身のものとして引いており、作品の意味を確定するものとしては扱っていない。そしてそれがこの文章に逆らう箇所では、無害な言い換えにせず、もっとも強い形のまま再現した。脚本の文言はどこにも再現していない。画面で起きることの記述は記述であり、公表された梗概と映画祭の記録に照らして裏づけたものであって、一コマずつの検分によるものではない。台詞は引用せず要約している。
引用した研究が立てているのは、特定の標本における関連と定義であって、それ以上ではない。ダミンジャーの研究は三十五組のカップルへの七十件の聞き取りであり、この文章の流れに逆らって、意思決定への関与はおおむね同等だったと報告している。ビットマンらの研究は一九九〇年代のオーストラリアと合衆国の調査データを用いており、日本についても現在についても述べていない。どちらもこの映画についての証拠ではなく、どちらからも因果の主張はしていない。
恵は登場人物である。ここには、実在するいかなる人物の内面も確定した事実として提示されていないし、出演者、脚本家、監督の私生活についての主張も一切ない。ここで記述された位置に心当たりのある読者に対するこの家の商業上の利害は、この末尾だけでなく本文の中で申告してある。議論が仕事を終えたあとに開示される利害は、開示ではないからである。