Books
『I giorni dell’abbandono』と、耐力壁になっていた自己
この小説の名高い中盤は、ふつう、一人の女性が正気を失っていく過程として語られる。読み直せばそこにあるのは、ある家庭が、機能している成員は一人しかいなかったと実時間で発見していく過程である。そして彼女は役を演じていたのではない。構造を支えていた。この本が精確なのは悲嘆についてではない。取り決めが失われたとき、その機能は誰にも戻らない、ということについてである。
感情ではなく、順序を見てほしい。ある平凡な午後に、夫が妻に、出ていくと告げる。取り乱してはいない。荷物をまとめる。そして去る。それから数週のあいだに、その住まいでは、はっきりとした一覧の項目が、一つずつ行われなくなっていく。郵便が開けられない。請求が支払われない。買い物がされないか、されても袋のまま置かれる。子どもたちが時刻どおりに家を出ない。犬が、犬の期待している時間に散歩へ連れ出されない。電話が取られない。そして最悪の瞬間に、電話は取れなくなる。
誰もそれを決めていない。誰も拒んでもいない。もう家を回すのはやめる、と宣言する場面など一度もない。ただ、その作業に割り当てられた者がいなくなる。すべてを同時に割り当てられていた一人が、その一覧を頭のなかに保っていられなくなったからである。
これがエレナ・フェッランテの二作目の中盤であり、そしてふつうは「狂気への下降」として紹介される。その紹介は成り立つし、愚かでもない。それでもこの図書室は、紙の上に実際に書かれていることの形としては、それは違うと考える。そこにあるのは、まず第一に、壊れていく精神ではない。ある家庭が、実時間で、そして一人の子どもと一匹の動物を犠牲にしながら、機能している成員は一人しかいなかったと発見していく過程である。そして彼女はその役を演じていたのではない。建物の、重さを受けている部分だったのである。
この区別が、この文章のすべてである。役割は、演じるのをやめてもなお立っていられる。耐力壁はそうではない。そしてこの本を、ただ悲しいのではなく恐ろしいものにしているのは、それが壁の内側から書かれているという事実である。
記録を、一度だけ
『I giorni dell’abbandono』は二〇〇二年、ローマのEdizioni e/oから刊行された。デビュー作から十年後の、フェッランテの第二長篇である。英語版は二〇〇五年、アン・ゴールドスタイン訳で『The Days of Abandonment』としてEuropa Editionsから出た。一九二ページ。二〇〇五年にはロベルト・ファエンツァ監督、オルガ役にマルゲリータ・ブイを迎えたイタリア映画も公開されている。二〇二四年七月、ニューヨーク・タイムズは五百三人の書き手や批評家らの投票を集計した「二十一世紀最良の百冊」に、この本を九十二位として入れた。
語り手はオルガ。三十八歳。ナポリの出身で、いまはトリノに住んでいる。この街を好きになったことは一度もない。夫マリオが、十五年を経て、出ていくと告げる。相手はカルラという、かなり若い女性である。子どもが二人、ジャンニとイラリア。犬が一匹、オットー。階下にはアルド・カッラーノという男が住んでいる。オーケストラで演奏する音楽家だが、物語のほとんどのあいだ、オルガは彼を一人の人間としてほとんど認識していない。
この小説の中心にある場面は、八月のある一日に訪れる。息子が高熱を出している。犬には毒を盛られた徴候がある。玄関の鍵が回らない。電話が通じない。彼女は自分の住まいのなかに、二人の子どもと死にかけている動物とともに閉じ込められ、外へ出ることも、助けを呼ぶこともできない。
そのすべての下を流れているのが、オルガのナポリの子ども時代にいた一人の女性、ラ・ポヴェレッラ、「かわいそうな人」の記憶である。夫に去られ、人びとが呼んでいた名前までを含めてすべてを失い、そして身を投げた女性。オルガは彼女をただ思い出すのではない。自分がその人になりつつあるのではないかと、繰り返し点検している。
中盤の恐ろしさは、まず事務的である
八月のあの一日を、手続きとして読んでみてほしい。回らない鍵は、第一義的には比喩ではない。開かない扉である。通じない電話は孤立の象徴ではない。電話である。熱のある子どもには体温計と判断と、場合によっては医者が要る。それらは作業であり、そしてその日、その建物のなかに、それらの作業が帰属する人間は一人もいない。
この小説が読む者を損なうのは、そこである。小説のなかの悲嘆はたいてい天候として描かれる。降りてきて、すべてを染め、そして上がっていくもの。フェッランテはそれを、時刻の入った業務不全として描く。順序について彼女は精確である。最初に失われるのは希望ではなく、尊厳でもない。ふつうの手際である。文を終わりまで言い切ること、一時間前に自分が何をしたかを覚えていること、鍵を操作すること。判断はもっと後で失われる。自尊心はさらに後である。小さな機械的な行為が最初に落ちる。この順序こそが、この本の発見である。
そして代価は、それを選んでいない者に落ちる。ジャンニは病み、十分に世話をされない。イラリアは、うまくやれていない大人をどうにかする側に置かれる。オットーは床で死にかけている。この図書室はそれを弁護しないし、断罪もしない。この本もどちらもしていない。それがこの小説の、数少ない本当に難しいところの一つである。オルガという母親への判決を求めて来た読者は、この小説が裁判そのものを静かに開かなかったことに気づくだろう。
代わりに差し出されるのは、会計である。何が行われていたか。誰がそれを行っていたか。その人が止まったとき、何が起きるか。この会計が耐えがたいのは、まさにそれが告発ではなく会計だからである。
耐力壁は装飾ではない
この図書室は、この小説を以前に一度読んでいる。読書順でいくらか前にある「days-of-abandonment-a-self-larger-than-wife」がそれである。あの文章は、結婚の小さな日々の行いはその結婚の表現ではなく自己の足場であり、それを見る相手が去れば行いはその機会を失って止まる、と論じた。よい読みであり、この文章はそれを置き換えるものではない。
ただ一点だけ、押し返しておきたい。足場は仮設であり、外側にある。建物ができるまでそれを支え、そして外される。フェッランテが描いているのはそれではない。オルガが遂行していた機能は見せるためのものではなかったし、それが現実であるために観客を必要としてもいなかった。誰かが食料を買わなければならない。誰かが、息子の靴がいつ合わなくなったかを知っていなければならない。誰かが四人家族の予定表を、十五年間、途切れなく頭のなかに保っていなければならない。それは上演ではない。労働であり、そして耐力であった。
この違いは、崩壊が何の証拠になるかを変えるので重要である。足場の読みでは、オルガは行為から意味が抜けたために壊れる。この読みでは、行為には最初から意味があった。その意味とは、四人と一匹を生かしておくということであり、そして崩れるのはその意味ではなく遂行のほうである。遂行できる二人目が、もともと存在しなかったからである。
マリオはオットーのために戻ってこない。不足分を吸収する仕組みはどこにもない。建物が荷重を配分し直すことはない。建物はそういうことをしないからである。「前に進む」という言い方が決して届かないのが、この部分である。


その取り決めが借りていったもの
ここからが、誰にも去られておらず、その予定もない読者に関わる部分である。
オルガは三十八歳の時点で、すでに一人でいられない人間として現れたのではない。彼女には望みがあった。自分自身の志があり、そしてゴールドスタインの英訳のなかで彼女は、彼の志に合わせるために自分のそれを脇へ置いた、と言う。別の箇所ではもっと精確である。そしてその精確さは算術である。自分の時間を自分から取り上げて彼の時間に足し、彼をより強くした、と彼女は述べる。彼の分に、彼の時間のなかに、自分は消えていった、と。これは奪われた者の言葉ではない。十五年をかけて、少しずつ、そのつど十分に理にかなった形で、移譲を行った者の言葉である。
長い取り決めの危険は、それが終わることではない。たいていの取り決めは何らかの形で終わるし、人はその終わりを生き延びる。危険はもっと分かりにくく、そして保管の問題である。取り決めは、その人が自分のために行うのをやめた機能を、静かに引き受けることができる。夜の時間が何のためのものかを決める役を担うこと。用事のつかない一時間、自分の注意を自分で保っていられること。誰かに逐一語られることのない内側を持っていること。これらは能力であり、能力はたるむ。取り決めはそれを盗まない。代わりに、何年ものあいだ、有能に遂行してくれる。そして本人は、自分がそれをやめたことに気づかない。
そして取り決めが終わったとき、それらの能力は、貸し出された状態のままでは戻ってこない。二十年使わなかった言語が戻ってくるのと同じ戻り方をする。分かりはする。恥ずかしい。記憶しているより遅い。この家はこれに隣接する議論を、ミッションの一篇「time-that-belongs-to-you-is-not-left-over」で立てている。ほかの誰にもまだ取られていないだけの時間は、自分のものである時間と同じではない。そして空いた四十分は、使う習慣を失った人には使えない。オルガの中盤は、その議論が、最大の規模で、最悪の時機に起きたときの姿である。
役割は、人が引き受けるのをやめた機能を代行できる
この図書室は、役割と人の違いに繰り返し戻ってくる。そしてこの小説は、その機構を差し出している。
役割は効率がよい。問われる前に答えを出す。日曜日に何を望むべきか、夫の仕事の会食でどう振る舞うべきか、一日が何のためにあるのかを教えてくれる。「holiday-rituals-turn-intimacy-into-roles」でこの家は、既定は結び直しによって打倒されず、ただ眠るのであり、行事がそれを呼び起こす、と論じた。フェッランテが加えるのは、その先の一段である。役割は指示するだけではない。代行する。あなたが自分で行うのをやめた機能を、あなたの代わりに遂行する。そして代行が始まったという通知は、決して届かない。
だから崩壊はこれほど速く、これほど全面的なのである。オルガは、並行して保守していた別の自分を、ゆっくり失っているのではない。並行するものがなかった。妻と母は自己の上に羽織られた衣服ではなかった。十五年のあいだ、それは基本ソフトそのものであり、そしてフェッランテは、その基本ソフトが他人の手で、予告なく、消去されたときに何が起きるかを描く度胸を持っている。
この家が「intimacy-and-solitude-capacity-to-be-separate」で、互いに溶け合ってしまった二人は最大の近さに達したのではなく近さを可能にする条件を取り除いたのだと言い張ってきたのも、そのためである。あの文章は構造として論じた。この小説は実演として示す。そしてその実演には、死んだ犬が含まれている。
英語は翻訳であり、題名が最初の損失である
英語で読む者はフェッランテを読んでいない。アン・ゴールドスタインを読んでいる。そしてゴールドスタインの選択は現実の選択であり、読者にはそれを知る資格がある。
ゴールドスタインは長年ニューヨーカー誌の校閲部門の責任者を務めた人である。イタリア語は大人になってから、一九八七年ごろ同僚との授業で始めた。Europa Editionsが彼女をフェッランテの訳者に選んだのは二〇〇四年である。彼女は自分の流儀を、素直で逐語的だと述べている。またフェッランテの文はほとばしるように出てくるので、英語で意味が通り、かつ文法として成り立つようにするのが難しいとも述べている。イタリア語は節を積み重ねることを許すが、英語の統語はそれに抵抗するからである。これは翻訳者自身が、英語のほうが紙の上で落ち着いて見える、と明言しているということである。
損失がいちばん見えやすいのは題名である。イタリア語のabbandonoは一つのものではない。トレッカーニ辞典は、捨てられること、見放されることの意味を挙げ、そしてそれとは別に、四肢の緊張がほどけた身体の状態という意味を挙げ、さらに、全幅の信頼をもって自分を他者の意志に委ねるという道徳的な意味と、神への完全な明け渡しという神秘主義の意味を挙げている。つまりイタリア語の題は、マリオがオルガにしたことと、オルガが十五年かけて自分自身にしてきたことの両方を、一語のなかに抱えている。英語には前者にabandonment、後者にabandonがあり、それらは別の語である。ゴールドスタインに打てる手はなかった。英語の題は正確であり、そして狭い。翻訳の読者は全員、題が一つの意味しか持たないようにされた本を読んでいる。
日本語で読む者にとって、隔たりはさらに広い。国立国会図書館の目録は、ナポリ四部作を飯田亮介訳・早川書房として記録し、この小説についてはイタリア語、英語、ドイツ語の版のみを記録している。それは目録が何を所蔵しているかを示すものであって、書店に何が並んでいるかについての主張ではない。それでも、この国の読者の多くがオルガに出会うとしても、よくて第二言語を経由してのことになる、ということは意味する。書評がそれを黙って前提にするより、声に出して言っておいたほうがよい。
その下品さは症状ではなく、言葉の回復である
オルガの口は汚くなる。夫について、その相手について、そして自分自身の身体について、かつてのオルガが使わなかった水準の粗い言葉で考え、口にする。二〇〇五年の書評家たちもそれに気づいたし、いまも読者はひるむ。定石の処理は、これを劣化として分類することである。まともだった女性が失われていく、見ろ、こんなものが出てきた、と。
この図書室は逆に読む。十五年のあいだ「聞き分けのいいほう」であり続けた女性は、自分のために選んだのではない言葉づかいで話してきたのである。この小説の研究も、その一つの版を述べている。エズミ・ホドソンは二〇二四年の『Italian Studies』誌で、オルガを「規範的な反応へと訓練された」存在として、また自分のものではない監視を自分自身に加える存在として記述し、女性の振る舞いについての規定に沿って概念化されずに済む女性の生の型を、この小説は探している、と読む。ビクトル・ハビエル・サロウル・サルサルは二〇二〇年の『MLN』誌で、オルガの崩壊を身体的であると同時に意味論的・言語的なものとして図示し、物事を順序に置くこと、すなわち筋を立てることこそが再構成の働きを担う、と論じる。
この二つを合わせると、あの下品さは漏出には見えなくなる。言葉づかいの回復に見えてくる。最悪の数週にオルガが使う語彙は、彼女がずっと持っていて、使わないでいた語彙である。使うことが、遂行していた機能と両立しなかったからである。彼女の激怒は霧ではない。分析的である。彼女は最初から最後まで、何が行われたのか、そして自分が何をしたのかを割り出しており、そしてそれに合う唯一の言葉でそれを行っている。
そしてこれは、ここが肝心だが、治療ではない。言えなかったことを言うことが誰かに何をもたらすかについて、ここでは何も主張していない。論点はもっと狭く、読み方についてである。オルガの言葉を症状として分類する読者は、その中身を捨てなければならない。そしてその中身こそが、この本の議論である。


彼女は、良くなることなしに生き延びる
この小説には終わりがある。オルガは生きており、子どもたちも生きており、家はふたたび回りはじめ、そして階下の音楽家カッラーノとのあいだに、ためらいがちな関係が始まる。かつて彼女はこの男をひどく使い、見誤っていた。オーケストラで演奏する彼を見て、彼女は自分の見積もりを改める。
この結末が目立って供給しないもの、それは教訓である。オルガは、一文にまとめられるような形では、何ひとつ賢くなっていない。自立を身につけてもいない。彼など必要でなかったと発見してもいない。結婚が代行していた内面の生活を、舞台裏で建て直していた様子も描かれない。彼女は生き延びた。それはもっと小さく、もっと正直なことであり、この本はそれを格上げすることを拒む。
これはこの小説のもっとも難しい規律であり、そして文章がいちばん台無しにしやすいところである。フェッランテは三十年にわたり、本は背後に立って意味を説明する著者を必要としない、と明言してきた。デビュー作の刊行前、一九九一年にEdizioni e/oの版元へ宛てた手紙は、書かれてしまえば本は著者を必要としない、言うべきことがあるなら遅かれ早かれ読者を見つけるだろう、と述べている。その立場が何であるにせよ、それは教訓をあとから供給することの拒否である。この小説も同じ作りをしている。
一九二ページ目までにオルガがより良い人間になっていてほしいと願う読者は、あの崩壊には見合うだけの価値があったと本に言わせようとしている。見合っていない。オットーは死んだままである。最後の部分の価値は、彼女が成長したことではなく、機能が再開したことにある。そしてフェッランテが与える順序では、行為のほうが感情より先に戻ってくる。
この家が売っているもの、そして主張できないこと
これは事業に付属する刊行物であり、その事業は、時間が区切られ、予定され、対価の支払われる私的なコンパニオンシップである。だから利害は末尾ではなくここで、そしてまず自分に不利な形で申告しておかなければならない。
長い取り決めは能力を吸収する、と論じる文章は、率直に言って、何も吸収しない取り決めの市場をつくる文章である。決まった時刻に終わり、何も継続しない取り決めのことである。それはこの家にとって都合のよい議論であり、読者はそのぶんを差し引いて重みを量ってよい。
したがって、この家が主張しないことを挙げておく。予定された一夜が一人でいる能力を育てるとは主張しない。育てないからである。そして、買われた一時間が、共有されていない内面を回復させるという含みを、この文章から読み取るべきではない。結婚がほかの取り決めより劣るとも、オルガは何かを手元に残しておくべきだったとも主張しない。去られることへの保険として自らを差し出しもしない。そして、ここで述べた能力が、この家によってであれ誰によってであれ、買い戻せるとは主張しない。この文章の議論そのものが、それらは供給ではなく使用によって建て直されるというものだからである。
区切られた取り決めが正直に差し出せるものは、もっと狭い。一人の人に属する機会があり、その段取りの責任を別の誰かが引き受けており、そして終わったあとに継続する要求が何もない、ということ。それに値打ちがあるかどうかは本人の判断であり、上の文章はそれがあることの証拠ではない。
この文章へのいちばん強い反論
もっとも強い反論は、この読み方こそ、フェッランテが小説を通して拒み続けたことをやっている、というものである。崩壊を構造上の発見に変えれば、オルガの最悪の数週は、持ち帰りのある事例研究に変換される。そして持ち帰りとは、行儀のよくなった説教である。この本は、オルガが何をどうすべきだったかにまったく関心がない。彼女の崩壊から原理を取り出す文章は、彼女を有用にしたのであり、そして彼女を有用にすることは、彼女を読まないことの一形態である。
第二の反論はそこから続き、そしてこれが公にされる場所を考えれば、いっそう鋭い。この議論には、男に頼るなという古い女性向けの警告を構造の語彙で着替えさせただけ、という版が存在する。この図書室はその読みを望まず、塞ごうと努めてきたが、望むことと成功することは別である。そして「誰も必要としないようにしよう」と思って読み終えた読者は、この文章が開けたままにしておいた扉を見つけたのである。誠実な応答は反駁ではない。その結論はこの小説とこの議論の双方の誤用であること、そしてその失敗の一部はこちらの責任であること、そう述べることである。
第三に。小説は証拠ではない。オルガは作られたものであり、何かを示すために書き手が配置したものである。彼女の家庭を、家庭一般についての知見として使うのは範疇の誤りであり、文章をどれだけ丁寧にしても修復できない。この文章が主張できる最大のことは、フェッランテがある機構を、読者が見覚えを持ちうる程度に鮮明に描いた、ということだけである。そして見覚えはデータではない。
第四に。この図書室は翻訳を読んでおり、そう述べてはいるが、述べたところでその事実は消えない。とりわけ下品さについての議論は言葉づかいの水準に依っており、そして水準は翻訳で最初に動くものである。ゴールドスタインは並外れて注意深い訳者だが、それでもこの論点は、英語が運べる範囲までしか成り立たない。
そして第五に、これは文章ではなく本への反論である。この小説はオルガに隣人と、オーケストラと、結末を与える。同じ立場にいる多くの人には、そのどれもない。最終楽章のきれいさは、この本が唯一慰めるところである。何も再開しなかった読者にとって、あの終わりは正直というより、運がよかっただけに見えるかもしれない。
この文章が主張していないこと
ここにあるのはオルガの診断ではない。彼女に臨床上の語はひとつも当てていないし、当てるべきでもない。この文章は、状態に名前をつけるのではなく、何が行われなくなるかを記述することを選んだ。小説がそうしているからであり、そしてオルガは本のなかの人物であって、査定できる対象ではないからである。
ここにあるのは読者の診断でもない。共有された家庭を軸に生活を組んできた人が、それによって何かを失ったわけではない。一人でいることに錆びを感じる人が、欠損を呈しているわけでもない。議論は、長い取り決めに何ができるかについてのものであって、特定のどれかが何をしたかについてのものではない。
ここにあるのは、女性一般についての主張でも、依存についての主張でも、結婚することの賢愚についての主張でもない。オルガが誤ったとも、誤らなかったとも、この文章は述べていない。
ここにあるものは、著者が誰であるかに一切依存していない。フェッランテは一九九二年以来その名で刊行し、公の人物であることを断り続けてきた。この図書室はそれをそのまま受け取り、彼女が誰であるかについて見解を持たない。その匿名性について用いたのは、完成した本は著者を必要としない、という彼女自身の表明した立場だけである。
上に挙げた筋の細部は、この一冊を新たに読み直した結果ではなく、作品についての刊行された記録と定評ある書評から取っている。そして小説の文章は、ゴールドスタイン訳に帰属を明示したごく短い数語のほかは、ここに再現していない。研究上の議論は、著者たちが述べていることの要約であり、ここで論じたいずれについても彼らの是認を主張するものではない。エレナ・フェッランテ、その版元、その訳者、ここに引いたいかなる研究者も、この家と関わりを持たず、この家を知らず、この家を是認していない。