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『ありがとう、トニ・エルドマン』と、仕事が要求する自己

ブカレストのコンサルタントが、他人の雇用を終わらせる報告書を準備している。そして彼女はその仕事がとてもうまい。父が招かれずに現れ、付け歯を入れ、トニ・エルドマンという名のライフコーチとして彼女の職業生活に自己紹介をして回りはじめる。通例の説明はこれを、笑い方を忘れた娘の物語と呼ぶ。そうではない。これは、ある種の仕事が要求する固有の自己――有能で、決して恥じ入らず、つねに請求可能な自己――についての作品であり、その自己を求められれば差し出せる女が、その代償に名前を持たないことについての作品である。

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ある女がブカレストに降り立つ。手には携帯電話、予定表は自分で最適化してある。ドイツ人、三十代、経営コンサルタント。石油会社の一部業務を外部業者へ引き渡す根拠をまとめている。つまり、何人かがそこに雇用されなくなる根拠である。彼女はこの仕事がきわめてうまい。それがこの映画がイネスについて最初に確立する事実であり、ほとんどの説明が忘れてしまう事実である。

父が招かれずにやって来る。ヴィンフリート・コンラディは教職の終わりに近い音楽教師で、飼い犬を亡くしたばかりで、母は非常に高齢で、部屋での身の置き方といえば、少しだけ長すぎる冗談である。彼は娘の予定表の二日ぶんに丁重に吸収され、丁重に空港へ返される。それから彼は戻ってくる。付け歯とかつらを付け、トニ・エルドマンという名の男として。ライフコーチだと言い、立ち去らない。

通例の説明はこうである。喜びを失った仕事中毒の女が、悪戯好きの親によってふたたび感じることを教えられる。そのすべては映画のなかにあり、そのどれもこの映画がしていることではない。通例の読みは、内側に本当のイネスがいて偽のイネスに窒息させられている、という父の見立てに同意している。映画は同意していない。映画が検分しているのは、ある種の仕事が要求する自己――有能で、決して恥じ入らず、つねに請求可能な自己――である。イネスはそれを築き上げることに成功しており、それは彼女が唯一まともに機能させえた自己であり、そこには名づけられない代償がある。侵入は治療ではなく、代わりに置くものを持たない男による、その取り決めへの攻撃である。二つの見せ場のどちらが突破口だったのかを映画が言わないことが、この作品の真剣さである。

この映画が何であり、記録は何を語るか

『ありがとう、トニ・エルドマン』はマーレン・アデの三作目の長編である。第一作は二〇〇五年のサンダンス映画祭で審査員特別賞を、第二作は二〇〇九年のベルリン国際映画祭で銀熊賞を二つ受けている。上映時間は一六二分。ペーター・ジモニシェックがヴィンフリートとその別人格を、ザンドラ・ヒュラーがイネスを演じる。ドイツとオーストリアの製作にルーマニアが共同で加わり、撮影の大部分はブカレストで行われ、二〇一六年五月のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映された。

カンヌでの結果は両方向に取り違えられやすい。本作は国際批評家連盟賞、すなわちコンペティション部門のフィプレシ賞を受けた。授賞の言葉は、その作りの見事さと、父と娘の関係を今日の世界の狂気のなかで捉えたことに触れている。一方、映画祭の審査員による公式の賞は一つも受けていない。パルムドールはケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』に渡った。国際批評家連盟の報告は、その不在への当惑を記している。

残りの記録も同じ形をしている。ドイツでは二〇一六年七月十四日にNFPの配給で公開され、八月下旬までにおよそ四十五万人が観た。その時期にドイツの委員会が本作をアカデミー賞の自国代表とした。アカデミー賞外国語映画賞に候補となり『セールスマン』に、ゴールデングローブ賞に候補となり『エル ELLE』に、英国アカデミー賞に候補となり『サウルの息子』に敗れた。同年十二月のヨーロッパ映画賞では六部門の候補から五部門を受賞し、落としたのは喜劇部門のみである。同月の『サイト・アンド・サウンド』の投票では、百五十人を超える批評家が本作をその年の第一位に置いた。批評家はその年の最良の映画とみなし、賞の審査員は繰り返し最高賞を渡さなかった。優れていることと報われることの差についての映画において、これは気に留めておく値がある。

もう一つ記録を置く。二〇一七年二月、パラマウントが英語圏でのリメイクを発表した。ジャック・ニコルソンとクリステン・ウィグが主演に付き、アデは製作総指揮として報じられた。二〇一八年八月には、ニコルソンが降り、リサ・チョロデンコが脚本と監督に就いたと業界紙が報じている。この図書室は公開された作品を確認できていない。父の役にあの規模の俳優を置いて英語で作り直そうという衝動そのものが、この映画がどう読まれていたかの証拠である。

仕事が要求する自己

イネスが何をして生計を立てているのかを、喜劇性も軽蔑も抜きに記述してみる。事業を安くする方法を顧客に助言し、誰の給与が止まるかを決めるために使われる文書を作る。その周囲に、契約書には書かれない第二の仕事が走っている。力のある男たちの機嫌の管理である。顧客を持ち上げ、聞かなかったことにすると決めた一言を吸収し、有用だから上位の男の妻の買い物に付き合う。そのすべてが技能であり、そのほとんどは部屋の外の誰にとっても技能として読み取れない。

それを行うために、彼女は求められれば特定の自己を差し出せなければならない。その三つの性質が、映画の検分しているものである。第一に有能である。失敗を、感じるべき出来事ではなく処理すべき入力として扱う。第二に決して恥じ入らない。恥じ入ってみせることは、恥をかかせた側に主導権を渡すことだからである。第三につねに請求可能である。何も生まない時間は、娯楽であるか漏出であるかのどちらかになる。

ここから、通例の説明が落とす観察に入る。イネスはこれがうまい。耐え凌いでいるのではない。うまいのである。頭の回転が速く、部屋を正確に読み、面白くあることが道具として正しいときには面白く、数字を作る。映画はその有能さを後から切り崩さない。ザンドラ・ヒュラーはその上に演技を組んでいる。返答の前をよぎる計算。原価が算定された微笑の精度。

それが代償であり、文化が予期している代償ではない。予期されているのは疲弊、孤独、逃した恋愛であり、その三つともこの映画には転がっている。本当の代償は苦情を申し立てにくい。つねに操作されるだけの自己は、自分が何を望んでいるかに驚くことができない。望むことは成果物ではなく、それを産出する枠が一週間のどこにもないからである。この図書室は、仕事で有能であることが私的な欲望を易しくしない理由を以前に論じている。この映画はその議論が持たなかったものを加える。外側に立つことは、彼女がやめられる習慣ではない。それが職務記述書なのである。映画は彼女に内的独白も、彼女を説明する友人も与えない。与えているのは、予定表である。

父の侵入は治療ではない

これを癒しの喜劇にする読みは、ヴィンフリートを、偽の生を撹乱して真の生を解き放つ、かつらをかぶった治療者にすることを要する。映画はそれを供給しないよう気を配っている。彼は悪い状態で着く。犬が死に、母は終わりに近く、仕事も終わろうとしており、彼自身の人生は、役柄を使い果たし、その空隙を数十年前からの冗談で埋めている男の形をしている。アデは、この人物は絶望から喜劇を演じているのであり、その喜劇は真剣なものだと述べている。彼の介入は健全な位置から行われていない。

彼が行うことを中立に記述すれば、穏やかではない。彼は、彼女の職業上の評価が決まる部屋まで追っていき、偽の身分で顧客と上司に自己紹介をし、のちに彼女を評価する立場の人々の前で彼女の別の版を演じてみせる。やめてほしいと言われたあとに、である。父が魅力的でなかったなら、この振る舞いの名前は妨害であっただろう。公開当時に出たある女性主義的な読みは、息子であればこれほどの詮索にさらされただろうかと問うている。

だからといって彼が悪役になるわけではない。彼を告発に変える文章は、通例の読みと同じ平板化をすることになる。彼は、娘の生に何かおかしなところがあると見て取れる男であり、道具をちょうど一つだけ持っている。何かが折れるまで娘に向かって面白くし続ける、という道具である。ここでの主張はもっと狭い。その圧力は治療的ではなく、機能している取り決めを不安定にすることによって働き、その下でイネスが何をするにせよ、彼女は網なしでそれを行っている。

a rented flat seen close with a laptop open on a slide deck, a blazer over the chair, a set of joke false teeth in their packet on the bedside table and a tray with a cold coffee, the window onto the city soft behinda rented flat seen close with a laptop open on a slide deck, a blazer over the chair, a set of joke false teeth in their packet on the bedside table and a tray with a cold coffee, the window onto the city soft behind
仕事には自己が必要で、それが求める自己は彼女の全部ではない。

歌――彼女が選ばなかった表現

一つ目の見せ場は終盤に置かれている。父が偽の身分で口実を作って入り込んだ、ルーマニアの一家の復活祭の集まりでのことである。イネスは助手役をあてがわれている。彼は鍵盤楽器を見つけ、彼女を歌い手として紹介し、弾く。招いてくれた側に恥をかかせずに逃れる道はない。彼女は「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」を歌う。一九七七年にジョージ・ベンソンが録音し、八十年代半ばにホイットニー・ヒューストンの歌唱で知られた、自分に頼ることを学ぶことについての歌である。

重要なのは仕組みである。これはイネスが選んだ表現ではない。自分に対して力を持つ人物によって、見知らぬ人々のなかで、自分なら決して選ばない調子で、追い込まれた表現である。そしてそれが働いてしまう。彼女は本気で歌い、その本気は諦めではない。ヒュラーは、最初この場面を降参として演じ、方向を修正されたと語っている。指示は、イネスはその瞬間に父と競っているのであり、歌を父に向けて使うのだ、というものだった。アデは準備として、ヒュラーを見知らぬ人々の前で歌える場所へ連れて行ったとも述べている。

つまりこれは仮面が外れる場面ではない。強いられた条件下で仮面が取り替えられ、その代替物が誰の予想よりも高い電圧を持っていたと判明する場面である。彼女は誠実になるのではない。大きくなるのである。この歌は従うことを通じて行われる対決であり、イネスが職業上すでに知っている手が、結果に何も賭かっていない状態で初めて全開で走らされる。歌い終え、彼女は出ていく。何も解決しない。リアノン・ハリーズは二〇二三年の映画音楽をめぐる論集で、この瞬間を救済的ではなく両義的なものとして読み、喜劇と演技は解放的なものではなく、描かれる疎外の経験の中核をなすのだと論じている。この場面は気持ちのよい瞬間として絶えず引かれ、カンヌの初上映では拍手が起きたと伝えられている。しかし、ある瞬間が胸を打ちながら、同時に強制についての記述であることはありうる。歌が示すのは、イネスのなかに彼女の働く自己が回路を持っていない力があることであり、彼女がそれを自分で出せるかどうかについては何も示していない。

裸のパーティ――彼女が始めるほう

二つ目の見せ場は一つ目のあとに来る。そしてこの順序が議論である。イネスは自宅で誕生日のブランチを催すことにしており、それをあらかじめチームビルディングの催しとして組み直してある。仕事の語彙で正当化できるようにするためである。ドレスを着ることが彼女を負かす。そこで彼女がすることは崩壊ではない。ドレスを完全に脱ぎ、到着した同僚たちを裸で迎え入れ、これは裸のパーティになったと告げ、一人ひとりが従うかどうかを決めるあいだ、その枠組みを保ち続ける。

これはイネスが主導権を握る場面である。彼女がそれを決めたとき父はその場におらず、示唆もしていない。父はあとから、ブルガリアのククリの衣裳をまとって現れる。何も言わない巨大な毛むくじゃらの生きものである。二人がそれぞれの被覆のなかで同じ部屋にいる図が、この映画の最も並外れた画になる。この場面はしばしば、彼女が父によって解放される場面として語られる。唯一重要な意味においては、その逆である。彼女がその作者なのである。二時間にわたって働きかけられ続けたあとで、彼女は誰も頼んでいないことを、自分の条件で行う。

アデは、裸であることはイネスの地位を下げるのではなく上げるのだと述べ、それがその場の全員に突きつけられる問いとして働くからだと説明している。ヒュラーは、裸でいるあいだ身体について何もしないと決めたと語っている。隠さず、整えもしない。それがこの場面を見世物ではなく試問にしている。演技上の課題は何も異常なことは起きていないかのように振る舞うことだった、とも述べている。この映画が描いてきた有能さの反転である。

だからこれは解放ではない。イネスはこれを行うためにコンサルタントであることをやめない。彼女はコンサルタントを使う。部屋を保持する力。ばかげた提案を手続きらしく響かせる力。他の全員が気まずさを処理しているあいだ、自分は恥じ入らずにいられる力。私的な行為を社外研修として枠づける力。これほど多くを彼女から奪ってきた道具が、この映画で疑いなく彼女自身のものである唯一の行為のために使える唯一の道具なのである。ヘスター・ベアは二〇二五年の『スクリーン』誌の査読論文で、まさにこの二重性ゆえに本作を新自由主義的経済についての重要な説明として扱っている。仕事の語彙があらゆるものを植民地化しており、そこから逃れようとする場所にこそその語彙が見出される。そして逆の読みも可能である。主張ではなく破綻として――もはや演じられなくなった女がそれゆえに止めるのだ、と。ヒュラー自身、この瞬間をイネスがドレスを諦める瞬間として語っている。映画がしないのは、どちらかを選ぶことである。

どちらが突破口だったかを、映画は言わない

二つの出来事を並べて置くと、閉じることのできない議論ができあがる。歌では、表現が外から強いられ、そして本物であることが判明する。裸のパーティでは、表現が内から生み出され、そしてそれが彼女の職業の言語で遂行されていることが判明する。一方は強制の下で生じた本物らしさであり、他方は借り物の語法で行使された主体性である。どちらも澄んではおらず、映画は順位をつけることを拒む。

これより劣る映画なら順位をつけただろう。そしてその配列が、観客に持ち帰るべきものを告げただろう。この映画は代わりに進み続ける。公園のククリを経て、終幕のように見える抱擁を経て――アデは、そこで終わっていたらこの映画は死んでいただろうと述べている――その先のドイツでの葬儀へ。庭で父は掴んでおくことのできない瞬間について語り、写真機を取りに屋内へ入っていく。一人になったイネスは、彼の悪ふざけ用の付け歯を口に入れ、亡くなった祖母の帽子をかぶり、待つ。映画は彼女がそこに立っているのを見つめ、そしてごくわずかに、彼女が自分自身へ戻っていくのを見る。働く自己、明日には飛行機に乗っているほうの自己へ。三時間が何かを変えたのかどうかは、このショットが言うことを拒んでいる。教訓は、人が奥底では何であるかについての主張を要する。そしてこの映画の提案は、十分な年数が過ぎたあとには、取り戻せるような奥底はもう残っていないかもしれない、というものである。

a dressing table seen close with a black dress laid over the chair, a phone face down beside a cheese grater still in its packaging, a card in its envelope and a glass of water, the curtain soft behinda dressing table seen close with a black dress laid over the chair, a phone face down beside a cheese grater still in its packaging, a card in its envelope and a glass of water, the curtain soft behind
冗談は、言わずに言うための唯一の方法だった。

演じる自己と、持っている自己

ここが読者の持ち帰れる部分であり、それは指示ではなく区別である。演じる自己がある。目的のために組み立てられ、他者に評価され、練習によって上達する自己である。そして持っている自己がある。頼まれずとも自分が何を望むかに気づき、何も測られていないときに現れる自己である。働く大人のほとんどは両方を走らせている。演じる自己は嘘ではなく、それが無いことは美徳ではない。演じる自己を持たない人は自由なのではなく、単に雇われないだけである。

有用な問いは、どちらが本物かではない。まだ差があるかどうかである。一日に四時間使われて置かれる演じる自己は、道具である。一日に十一時間使われ、顧客との夕食でもう一度使われ、月曜が成立するように週末の回復を組み立てるためにまた使われる演じる自己は、基本ソフトになる。そしてどちらが起きたかを知る方法は、内省ではない。方法は中断である。予算外の何かが到来し、それに応答する何かが下にあるか、あるいは中断の有能な処理だけがあって他には何もないか、そのどちらかが判明する。

『ありがとう、トニ・エルドマン』は三時間の中断であり、その結果を開いたまま残しておく誠実さがある。それがこの映画のより厳しい提案であり、この文章が慰めのほうではなくこちらを残したいものである。十分な年数が過ぎたあとには、取り戻すべき差がもう残っていないかもしれない。演技の下に埋もれて待っている自己があるのではなく、熟練した演技と、何かが未払いであるという微かな感覚だけがあるのかもしれない。

この図書室はこの領域のまわりを回っており、それは述べておくべきである。ある文章は、仕事で有能であることが私的な欲望を易しくしない理由を論じた。別の文章は、誰のためにも精密に話しながら自分の望みを一つも述べられない同時通訳者の小説を読んだ。別の文章は、普通の形に治されることへの圧力を受ける女の小説を読んだ。この文章はその三つから離れる。それらは取り決めが覆い隠している自己があることを前提していた。この文章は、そのような自己が無いかもしれない可能性を受け入れる。最後に一つ、配役の偶然として添えておく。この図書室は以前に『落下の解剖学』を読んでいる。同じ女優が、自分の平凡な生を公開の場で解体される女を演じた作品である。どちらにおいても、その女が自分を弁護するのに長けていることは、冷たさの証拠として扱われる。

この家が売るもの、そして主張できないこと

この家は私的な同伴を売っている。区切られ、予定され、代金の支払われた時間であり、そのあいだ誰かが注意を向けられる。それは上の議論に対する利害をこの家に与える。その利害は、議論が説得的に響くことを許される前に見えているべきである。

利害はこう走る。ある種の仕事がつねに稼働している自己を要求するのであれば、何も評価されていない構造のない時間は希少財であり、そしてこの家は時間を売っている。ここから、この種の一晩こそもう一つの自己が見つかる場所であると示唆するのは容易い。この家はそれを示唆しない。その拒否は謙遜ではない。ここでの一晩は予定され、代金が支払われ、決まった時刻に終わる。つまりそれは、記述してきた取り決めからの出口ではなく、その取り決めのさらに一つの実例である。

いかなる帰結も主張しない。同伴が自己を回復させるとも、燃え尽きを和らげるとも、孤独を治すとも述べていない。読者の診断もない。一日十一時間働いていてイネスに何も見出さない読者は、否認しているのではない。その取り決めが機能している人であるのかもしれない。監督、出演者、引用したすべての批評家と研究者は、この家を知らず、何も是認していない。

この読みに対する最も強い反論

四つの反論がその十全の力で述べられるに値する。そのうち一つは致命的に近い。

第一に、この映画の共感は父のほうへ流れており、この文章はそれを正すと称しながら同じ共感を受け継いでいるかもしれない、という反論である。カメラはヴィンフリートに好意的である。彼の悲嘆は内側から示され、彼女の悲嘆は推測される。彼には犬があり、母があり、家があり、過去がある。彼女にはホテルがある。この映画は構造上、彼女が自分の生について何を感じているかよりも、彼が彼女の生について何を感じているかにより関心をもっている。イネスを中心に置くと宣言しながら、なお父がすることから議論を組み立てている文章は、その問題から逃れていない。これは実在の限界であり、この文章はそれを解決せず報告する。この映画は彼の名を題にしている。

第二に、階級についての反論であり、これは鋭い。これは経営コンサルタントについての一六二分の映画である。それが描く困難――持続的な高地位の労働が自己を植民地化すること――は、世界の労働者のごく一部にしか手に入らない。この映画のなかで実際に職が懸かっている人々は、内面の危機を与えられない。内面を与えられていないからである。交替勤務表の上にいる読者、保障のない契約の上にいる読者が、この主題を贅沢な悩みとみなすことは理にかなっており、その読者は誤ってはいない。映画はそれを知っている。外部委託の筋が存在するのは、危機を抱える女が他人の解雇の起草者であるようにするためである。限界を知っていることは、越えていることと同じではない。

第三に、これが本当の反論であり、和らげるべきではない。ルーマニアという舞台と、そこにいるルーマニアの人々は、おおむねドイツの物語にとっての道具である。ブカレストは、ドイツ人の登場人物が感情をもつ場所である。ルーマニアの労働者は主として、イネスが書いている報告書の対象として現れる。そしてこの映画がルーマニアの家庭の生へ接近する経路――歌が起きる復活祭の集まり――は、ドイツ人の男が身分について嘘をつくことによって、二人のドイツ人の関係のために手配されている。アデは、共産主義後のルーマニアへのドイツの経済的な関与ゆえにこの舞台を選んだと述べている。意図は結果と同じではない。これに対しては、ブカレストの英語媒体に寄せたルーマニアの批評家が、現代のルーマニアの描き方の繊細さと現地の俳優たちの演技を称賛したことを報告しておくべきである。それは反論を複雑にするが、溶かしはしない。

第四の反論はこの文章の主題そのものを切る。イネスの有能さを代償として読むことは、単に仕事がうまくそれを好んでいる女を見下すことかもしれない。外部の観察者が成功した女を見て隠れた欠損を検出するという手つきはきわめて古く、男よりもはるかに頻繁に女に適用され、多くの女に対して、あなたの満足は偽物であると告げるために使われてきた。対立仮説を身も蓋もなく置いてみる値がある。代償など無いのかもしれない。彼女は没入できる骨のある仕事をしている有能な人なのかもしれない。そしてそれに耐えられない人物が父であり、いまや書き手でもあるのかもしれない。アデ自身がイネスについて批判的に語り、企業の環境のなかで単に従属しているのではなく選択を行っていると述べている。イネスを制度の犠牲者にする読みは監督の読みでもない。

四つの反論がそれぞれ取るべきものを取ったあとに残るのは、冒頭が示唆したよりも狭い。イネスが損なわれているということではない。有能さが傷であるということでもない。ただこれだけである。この映画は、他者の前に現れるための手持ちの仕方がすべて職業上の道具箱から引かれている人物を示し、彼女がその道具箱を自分自身が作者である唯一の瞬間に使うところを示し、それ以外に何かが残っているかどうかを告げることを拒む。それが読者についての主張でもあるかどうかは、読者が決めることである。

この文章が主張していないこと

この文章は一本の映画の読解である。心理についての助言ではなく、いかなる状態も記述せず、いかなる帰結も約束せず、誰も診断しない。長時間働く人が自己を失っているとも、イネスに何も見出さない人が何かを隠しているとも、ここでは述べていない。

イネス・コンラディとヴィンフリート・コンラディは虚構の人物であり、その内面についてのいかなる記述も確立された事実として提示されていない。ある人物が何を知り、何を望み、何に名前を付けられないと述べるとき、それは虚構作品の解釈である。この映画の台詞は一行も再現されていない。

賞の記録は、候補と受賞の両方向で述べられている。本作は二〇一六年のカンヌのコンペティションに出品され、国際批評家連盟賞を受けた。映画祭の公式の賞は受けていない。アカデミー賞の外国語映画賞、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞にそれぞれ候補となり、いずれも受賞しなかった。受賞作の名は本文に記してある。ヨーロッパ映画賞では六部門の候補から五部門を受賞した。『サイト・アンド・サウンド』の順位は投票の結果であり、賞ではない。アメリカでのリメイクは、読めた業界報道の範囲でのみ報告しており、公開された作品は確認できていない。

マーレン・アデとザンドラ・ヒュラーに帰される発言は、公開前後の公刊済みの取材からの言い換えである。二人が自分自身の仕事について宣伝の文脈で語った回想であり、撮影現場の中立の記録ではない。名前を挙げた学術的・批評的な出典は、それぞれの議論として引かれており、判定として引かれてはいない。この家によるこの映画や関係者の是認として読まれるべきものは何もなく、彼らのいずれかによるこの家の是認として読まれるべきものも何もない。ルーマニアという舞台とそこにいる労働者がおおむねドイツの物語にとっての道具である、という反論は取り下げてはいない。その傍らに報告したルーマニアの批評的反応は、一つの媒体の一本の評である。

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自分の時間は、余ったものではない。取るものだ。四十分ができて、使えない。問題は長さではない。その時間が彼女のものだったことはなく、ただ、まだ誰にも取られていなかっただけだからだ。『リラとわたし』と、二人ともは持てない野心についてこの四部作はふつう、女性同士の友情についての小説として紹介される。その紹介は、この本が実際に行っていることに対して柔らかすぎる。これは、乏しいもの——学校、この土地からの脱出、自分自身の人生——が、まったく同じように育った二人の少女のうち一人にだけ差し出されたときに、その乏しさが二人のあいだの愛に何をするかについての小説である。そしてこの本の達成は、愛と競争を切り分けることを拒む点にある。ここで描かれている条件のもとでは、その二つは最初から分かれてなどいなかったからだ。デンマーク。平等を設備として作った国と、それでも解けないもの。デンマークは、人々にもっと公平であれと求めたのではない。保育を作り、育児休業を各親に割り当て、一九七〇年に性教育を必修にした。ここでいま議論していることの大半は、あの国では何十年も前に片づいている。だからこそデンマークはこの章でもっとも価値がある。構造的な問題が消えたあとに何が残るのかを、見せてくれるからだ。

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