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『わたしは最悪。』と、「まだ分からない」という罪

一人の女性が何度も進路を変え、周囲からも、そして自分自身からも、決められないことが道徳の欠陥であるかのように扱われる。何を望むか分からないことと、差し出されているものがそれではないと分かっていることの違い。成熟に見える慣性。人生の形についての議論としての十二の章。そして街がひとつ止まる数分について。

  • 望むことへの許可
  • スクリーンの女性たち
  • 違う選び方をする
  • 自律
  • 取り決め

2021年のヨアキム・トリアー監督作。脚本はトリアーとエスキル・フォクト。レナーテ・レインスヴェがユリヤを演じ、日本では『わたしは最悪。』の題で公開された。最初に断っておく。この文章は、物語の後半の展開にも触れる。その章に先に出会いたい人は、この段落で読むのをやめて、観てから戻ってきたほうがいい。

この映画について書かれたものの多くは、ユリヤという一人の女性の優柔不断を主題として扱う。医学から心理学へ、心理学から写真へ。年上の恋人から、年下の恋人へ。始めては、置く。その移動の連なりを、そのまま性格の記述として読む。落ち着かない人。決められない人。自分が何を望んでいるか分かっていない人。

この図書室が読み取るのは、それとは別のものである。この映画の主題は一人の女性の優柔不断ではない。ある文化が「まだ分からない」という状態に対して起こす、静かな道徳の騒ぎのほうである。

ユリヤは、周囲の人々からも、そしてやがて彼女自身からも、決めていないことがひとつの欠陥であるかのように扱われる。しかし彼女が実際に行っているのは、それよりずっと狭く、ずっと弁護できることである。自分が選んでいない生活を、選んだものとして承認することを、断りつづけているのである。その二つは外から見ると同じ形をしており、そして内側ではまったく違うことが起きている。

この映画の題は、その混同をそのまま名前にしている。世界で最悪の人間。それは作品のなかで誰かがユリヤに向けて下す判決ではない。ユリヤが自分に向けて下す判決である。そして判決文の中身は、彼女が犯した何かではない。中身は、まだ何も決まっていないという事実そのものである。

「まだ分からない」が、性格の欠陥として読まれるとき

映画に入る前に、それが立っている地面を正直に名づけておく価値がある。ほとんど全員が同じ地面の上にいるからだ。

ある人が三十歳で、職があり、伴侶があり、住まいが定まっている。私たちはそれを成熟と呼ぶ。別のある人が三十歳で、専攻を二度変え、仕事を三度変え、関係を二度変えた。私たちはそれを未熟と呼ぶ。その二語のあいだで比較されているのは、実際には誰かの判断の質ではない。位置がどれだけ動かなくなったか、という度合いである。

この図書室の以前の一篇は、「普通」が、誰も会議で決めていない採点表になっていることを論じた。一度も話し合われたことがないのに、全員が同じ写しを持っている。既婚か否か。正規の雇用か否か。子があるか否か。その欄は口に出されないまま共有され、空欄が見つかると、周囲の人々はほとんど反射のように、それを埋める手助けを申し出る。この映画が扱っているのは、同じ採点表のもうひとつの列である。そしてそれはおそらく、もっとも罰の重い列である。定まっているか、定まっていないか。

その列の厄介なところは、中身を検分しないことである。悪い結婚でも、欄は埋まる。誰にも合っていない仕事でも、続いていれば継続として数えられる。採点表は箱の中身を読まない。箱が塞がっているかどうかだけを読む。そこから出てくる結果は、本来なら驚くべきもので、そして実際にはまったくありふれている。後悔している決定をした人のほうが、まだ決定をしていない人より高く採点される。

ユリヤはその採点の仕方を知っている。彼女が題の言葉に手を伸ばす理由はそれである。あれは自己認識ではない。外側の集計が飲み込まれて、一人称で喋りはじめた音である。

分からない人と、これではないと分かっている人

この映画がほとんどの場面で立てている区別がここにある。そして日常の言葉は、その区別のための語を持っていない。

自分が何を望んでいるか分からない人がいる。方向を指せない。候補を挙げられない。その人に要るのは、時間か、情報か、あるいは自分の内側を読む練習である。

そして、差し出されているものがそれではないと分かっている人がいる。この人もまた方向を指せないかもしれない。しかし目の前にある具体的な一つについて、これは違う、と正確に言える。それは無知ではない。判定である。しかもしばしば良い判定であり、肯定の側の答えよりずっと速く、ずっと確かに出てくる。

日常の言葉は、その二人をどちらも優柔不断と呼ぶ。第二の語がないからである。そして語がないことは、第二の人にたえず不利に働く。代案を出せない拒絶は、外から見るかぎり、何も分かっていないことと区別がつかない。

ユリヤが繰り返し行っているのは、第二のほうである。差し出される生活のそれぞれについて、彼女はかなり精確であり、そしてたいてい正しい。彼女が供給できないのは、代わりのほうである。そして周囲は、その欠けている代案を理由に、拒絶そのものを無効にする。まるで人は、より良いものを手に持っているあいだしか、申し出を断る資格がないかのように。

この図書室は別のところで、「何でもいい」と言うことが、決める仕事を相手に移す言い方であると論じた。ユリヤの困難はその鏡像にある。彼女は「これではない」と言える。しかし「では何か」を言えるようになるまで、最初の一文は情報として受け取られない。徴候として受け取られる。

落ち着いた生活がもつ、静かな重力

アンデルシュ・ダニエルセン・リーが演じるアクセルは、四十代半ばの漫画家である。仕事があり、評価があり、友人の輪があり、これから先の年月に何が入っていてほしいかについて、はっきりした見取り図を持っている。子を持つことも、その見取り図のなかにある。

彼は悪役ではない。この映画はその点をきわめて慎重に扱う。彼は聡明で、率直で、ユリヤをよく見ている。ある場面では、二人の終わり方の形を、居心地が悪くなるほど正確に言い当てさえする。この映画のどこにも、彼を低く見るように求める箇所はない。

それでもこの関係には傾きがある。定まった生活は重力をもつ。家具はすでに置かれている。友人関係はすでに形になっていて、すでにその夜の過ごし方を持っている。週末にはすでに形がある。子についての問いは、片側ではすでに答えが出ていて、もう一方では保留されているだけである。定まっている側は、何も強いる必要がない。その状態で存在していれば足りる。定まっていない側が滑っていく。

外から見ると、その傾きは成熟に見える。実際にはしばしば、単なる慣性である。先に始めた人が速度を決めている。そして先に始めたことは、正しいことと同じではない。

この傾きが語りにくいのは、抗うほうが利己に見えるからである。すでに建っている形に収まらない人は、その建物への感謝を欠いているように見える。その形のほうを疑う人は、そこにいる人々を疑っているように見える。だから収まらない理由は、たいてい感じられてから言われるまでのどこかで飲み込まれ、表に出てくるのは、恣意に見える振る舞いのほうになる。

この映画は、第二の男をそこからの脱出口にしない。ハーバート・ノードラムが演じるアイヴィンは、より若く、より軽く、何も背負っていないように見える。しかし彼にも彼なりの定まった形があり、彼なりの期待があり、彼なりの重力がある。移ることは、その力から自由になることと同じではない。中心が動いただけということがある。

a hall seen close with three pairs of shoes in a row, each for a different life, and a coat half taken off the hook, the door on the latch behinda hall seen close with three pairs of shoes in a row, each for a different life, and a coat half taken off the hook, the door on the latch behind
何が欲しいか分からないことと、これではないと分かっていることは、同じではない。

章に分けるという、形式そのものの議論

この映画は、序章と終章にはさまれた十二の章として組み立てられている。それぞれの章に題がついている。章は終わる。そして章と章の継ぎ目をまたぐと、前の章が確定させたように見えたことが、静かに確定していない。

これは装飾ではない。小説めかした趣向でもない。これは議論であり、台詞ではなく形式で立てられている。

ひとつながりの弧として語られる人生の物語は、あることを前提している。後の出来事は前の出来事から生え、選択は積み上がり、人は次第に「そうなるはずだった人」になっていく、という前提である。その前提のもとでは、進路を変えることは失敗である。成長を中断するからだ。章に分けられた物語は、その前提を拒む。継ぎ目があり、継ぎ目は見えており、それを縫い合わせられるふりを誰もしない。

その形から出てくる主張はこうである。ひとつの人生は一本の弧ではない。暫定的な取り決めの連なりである。それぞれの取り決めは、その時点で手に入る情報と、その時点に存在している人に対して正しく、そしてそれぞれが次の章での更新に開かれている。そして更新は裏切りではない。

この主張は、この図書室が別の方角から何度も辿り着いてきたものの上にそのまま乗る。取り決めは事前に述べられうる。望みは事前には述べられない。望みは、その近くで暮らしてみるまで検分できるものにならない。章立てとは、そのことを目で追える形に変換したものである。

そして章の題は、もうひとつの仕事をしている。題は、ユリヤの内面の段階にではなく、その章で起きた出来事や、その章の空気につけられている。題は、彼女が成長したとは告げない。人生の章は、梯子の段ではない。区切りであり、そして映画は、その区切りが上へ向かっているとは約束しない。

世界が止まる場面について

誰もが憶えている場面で、ユリヤは照明のスイッチに手をかけ、そして街が止まる。人が止まる。車が止まる。注がれかけた珈琲が空中で止まる。彼女はその止まった街を走り抜けて、アイヴィンのところへ行く。

この場面はふつう、恋の高揚の絵として説明される。その説明は正しく、そして足りていない。

この図書室は、これを許可の絵として読む。

その場面でユリヤが手に入れているのは、一人の男ではない。世界が見ていない時間である。採点表が更新されていない時間。他人の予定が進んでいない時間。自分についての説明を誰にも負っていない時間。求める立場にいる人間が、そこには一人もいないからである。その時間のなかで彼女は、許されているかどうかを先に確かめずに、自分の望むことをする。

そして決定的な細部は、その許可が彼女に与えられたものではない、ということである。誰も与えていない。彼女が手を伸ばして、自分でスイッチを操作した。この映画は、たった一つの魔法をその動作のために使う。それは、映画の外側の世界について正確なことを言う仕方である。そんなスイッチは存在しない。人が何かをはっきり望むために要る許可は、誰からも発行されない。取るしかなく、そして取ることがあまりに難しいので、現実の手つきで作られた映画が、それを見せるために自分の物理法則を一度だけ破らねばならなかった。

この絵のもう半分は、それが終わることである。街はまた動きだす。時間は再開し、そして再開した瞬間から、止まっていたあいだに起きたことへの請求を始める。与えられたのではなく取られた許可は、まわりの世界が静止しているあいだしか続かない。だから映画はその場面を長引かせず、そして続く場面を褒美として置かない。

同じ型が、男の人物なら「模索」と呼ばれる

有用な実験がある。ユリヤの行動の系列をそのまま残し、それを行う人物の性別だけを入れ替えて想像してみるとよい。

専攻を変えた。職業を変えた。地位のある年上の伴侶と暮らし、そこを出て、別の相手のところへ行った。何かを書き、書くのをやめ、また書いた。子についての決定をしないまま三十代に入った。

この系列が男の人物のものであるとき、映画にはそれを呼ぶ語彙がすでにある。模索。遍歴。まだ形になっていない若い男が、都市を歩いている。そして形になっていないことは、彼の恥ではなく、物語に登場する資格である。この人物像には長い系譜があり、トリアー自身の以前の作品もその系譜の外ではなく内側にある。観客は、その定まらなさを興味深いものとして受け取るよう求められ、そして実際にそう受け取る。

同じ系列が女の人物のものであるとき、誰もその変更に投票していないのに、語彙が変わる。身勝手。残酷。自分のことしか考えていない。そしてその一覧の最後に、最悪。

この非対称をこの映画が発明したのではない。この映画が行っているのは、それに題をつけることである。その判決を主人公自身に言わせることによって、映画は、判決が外から到着して、そのまま住みついたことを見せる。それは、どんな台詞よりも、ある文化について重い事実である。

ここで一つ、慎重さが要る。そして映画もそれを要求している。これは、物語のなかで誰も傷ついていないという主張ではない。傷ついている。そのことは後の節で、身構えずに正面から扱う。ここでの主張はもっと狭い。同じ量の傷を与えた男の人物が、これらの語で呼ばれることはない、ということ。そしてその語の違いが、同じ振る舞いの理解のされ方に、現実の働きをしているということである。

a kitchen worktop seen close with the kettle boiled and left, a cup with the teabag still in it and a pot of coffee on the stove, both untouched, the toaster, a bowl of fruit and the shelves of jars close behinda kitchen worktop seen close with the kettle boiled and left, a cup with the teabag still in it and a pot of coffee on the stove, both untouched, the toaster, a bowl of fruit and the shelves of jars close behind
街が止まる数分だけが、彼女のものだ。

採点表と、二つの飢え

この図書室の以前の一篇は、日常の言葉が一緒くたにしている二つの望みを分けた。伴侶を望むことと、親密さを望むことは、別々の飢えである。前者は形への望みであり、外から見え、名前があり、社会の承認を受け取れる。後者は状態への望みであり、外からは見えず、手ごろな名前がなく、誰かが祝福できる対象がない。

ユリヤの物語は、その二つが彼女の代わりに混同されている場所で進む。彼女に差し出されるのは、いつも形のほうである。アクセルの生活は完成された形であり、そこへ入ることは本当に可能であり、そしてそれは複数ある選択肢の一つとしてではなく、正解として提示されている。

彼女が断っているのは、その形である。彼女が断れないのは、形を断ることを人格についての所見に変換してしまう仕組みのほうである。

そしてここで採点表は、あまり気づかれない第二の仕事をする。理由を非対称に要求するのである。埋まっている欄は説明を要さない。空いている欄は、何度でも説明を要求される。なぜ結婚したのかを訊かれる人はいない。なぜしていないのかを、人は何年も訊かれる。なぜその仕事に留まったのかを訊かれる人はいない。なぜ辞めたのかは訊かれる。

ユリヤが理由を供給できないのは、理由がまだ言葉になっていないからである。それは、何かを見出している途中にいる人の、ごく普通の状態である。そして言葉になっていない理由は、それを待っている全員によって、理由がないことと同一のものとして扱われる。そこがこの映画のもっとも静かな残酷さであり、そしてそれはほぼすべて、善意の人々の手で執行されている。

後半の一つの章について、控えめに

この映画の後半には、重い病いを扱う章がある。この文章はその章を辿り直さない。議論がその詳細を必要としていないからであり、そして詳細に語ることが、この映画から何かを奪うからである。

ここに置くべきことは一つだけある。その章は、それまでの章がすべてその上に載っていた前提を取り下げる。

その前提は、時間が十分にある、ということだった。暫定的な取り決めは更新できる。更新できるのは、次の章があるからである。更新は裏切りではないという、この文章のここまでの議論はすべて、黙ってその供給に寄りかかっている。

後半のその章は、次の章が保証されていないという事実を持ち込む。そして映画がそれをどう置くかについて重要なのは、それで何をしなかったかのほうである。それはユリヤの選択の帰結として配置されていない。請求書として届くのではない。彼女の決められなさとは何の関係もない軌道の上で起きており、道徳の話にされていない。

その拒否が、この映画が凡庸にならなかった場所である。定まらない女が、定まらなかったことの代価を払わされる版は、手に入りやすく、安く、そして広く賞賛されただろう。取り返しのつかなさは、判定の道具としてではなく、時間の性質として置かれている。そのほうが真実に近く、そして書くのがはるかに難しい。

そしてそのあとでも、映画はユリヤに、どの選択が正しかったのかを告げさせない。終章は彼女を一つの判定に解かない。章が続いていることを見せる。暫定的な取り決めについての映画が示しうる、唯一誠実なことである。

この読みへの、いちばん強い反論

ここまでのすべてに対して、まっすぐな反論がある。そしてそれは弱い反論ではない。

それはこう進む。この文章はユリヤを、構造の圧力の下にいる人として読んできた。採点表があり、傾きがあり、非対称な語彙がある、と。しかし画面の上では、もっと単純なことも起きている。一人の女性が、自分を愛している男を、彼の知らないところで欺き、そして去る。別の人の関係のなかに入っていく。父親に会いに行き、そこで起きたことに傷つくが、その場面でさえ彼女はほとんど自分の失望の側からしか見ていない。彼女は人を粗末に扱う。それは構造の効果ではない。一度に一つずつ、それを感じ取れる具体的な相手に向けて、彼女が選んで行ったことの連なりである。

そしてこの反論には後半があり、そちらのほうが鋭い。構造の語彙は免責に使える。誰かを傷つけた人が、その傷つけを「ある文化の採点表への抵抗」と言い換えられるなら、受け取った側には立つ場所がなくなる。アクセルは重力場ではない。人である。彼が受け取ったのは社会の構造ではない。彼に向けられた具体的な扱いである。そしてそれを力の言葉で記述することは、彼を彼自身の経験から追い出すことである。

この反論の大部分は当たっている。誠実な答えは反駁ではない。分離である。

この文章は、ユリヤが誰も傷つけなかったとは主張していない。傷つけた。彼女が誠実に振る舞ったとも主張していない。振る舞っていない。主張しているのは、二つの別々の評価が行われていて、それらは別々に行われるべきだ、ということである。第一は、彼女が個々の場面で個々の人をどう扱ったかについての評価であり、それは厳しくてよい。第二は、彼女の生活が一か所に固定されていないという事実についての評価であり、そちらは道徳の評価ではまったくない。道徳の言葉で下されてはいるが。

実際に起きているのは、映画のなかでも、その周りでも、その二つが束ねられることである。彼女が特定の人物をどう扱ったかについての正当な批判が、彼女が定まっていないことへの非難と同じ包みで運ばれる。そして一緒に運ばれはじめた瞬間から、後者が前者の証拠のように見えはじめる。落ち着けない種類の人間だから、彼を傷つけたのだ、という筋になる。その推論は成り立たない。定まっている人も、近くにいる人を同じくらい傷つける。違うのは、その傷が、常設された性格の欠陥によって説明される余地を持たないので、個別の出来事の連なりとして処理されるということだけである。そしてそれは、ユリヤの場合にも同じく当てはまる。

そして、この反論のうち無傷で残る部分は、率直に認めるべきである。自分の生を選ぶ自由は、そのなかで人をどう扱ったかの帰結からの自由ではない。ユリヤへの批判のうち、彼女が何を言い、何を言わず、それをいつ行ったかに付いている部分は、この文章のどの議論によっても触れられていない。ここにその弁護は一行も置かれていない。彼女の自律についての文章を書きながら、そこにこっそり無罪判決を紛れ込ませることは、不誠実だからである。

この文章が主張していないこと

これは一本の映画の読みである。臨床の説明でも、助言でも、心理療法でもなく、画面の内でも外でも、誰も診断していない。

事実にあたる言明は公表された資料に拠っており、それぞれこの文章の典拠台帳に記録してある。2021年の作品であり、ヨアキム・トリアーが監督し、トリアーとエスキル・フォクトが脚本を書いたこと。レナーテ・レインスヴェ、アンデルシュ・ダニエルセン・リー、ハーバート・ノードラムが主要な役を演じたこと。2021年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映され、レナーテ・レインスヴェが女優賞を受けたこと。第94回アカデミー賞で脚本賞の候補となり、ノルウェー代表として国際長編映画賞の候補にもなったこと。そして、序章と終章にはさまれた十二の章として構成されていること。

日本語の本文で用いている題『わたしは最悪。』は、この映画の日本の配給会社が公開している表記である。

それらの事実からこの文章が読み取っているものは、すべてこの図書室の解釈であり、誰かの意図についての言明ではない。「まだ分からない」の扱われ方についての映画だという中心の読み、分からないことと「これではないと分かっている」ことの区別、重力と慣性の分離、章立てを形式上の議論として読むこと、止まった街の場面を、与えられたのではなく取られた許可の絵として読むこと。そのいずれも、作り手がそう意図したという主張ではない。

性別による語彙の非対称についての段は、批評の場で広く行われてきた観察を報じている。ここではそれを測定された知見としてではなく文化の徴候として扱っており、数値も研究も示していない。

そしてこれは、ある年代の、あるいはある世代の女性一般についての記述ではない。一本の映画の一人の登場人物についての記述である。外から同じに見える生活は、まったく異なる理由から生じうる。ここに書かれたことを誰かに当てはめて読み返すべきではない。

ここで言及したいかなる作り手、演者、配給会社、映画祭、機関も、この家を知らず、推奨していない。

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