Cinema
『スパイの妻』と、彼女が知ることに同意したもの
満洲から戻った貿易商が、見てしまったものを抱えて動きはじめる。妻は、自分の結婚の観客であることをやめると決める。黒沢清の二〇二〇年作を、入場料についての議論として読む。相手が知っていることの内側に入れてもらうことは、愛への報酬ではなく負債である。そして、片方だけが実質的な事実を握っている結婚は、それより安い条件では対等にならない。
一九四〇年の神戸。貿易商はまだ外国人と商いを続けており、妻はまだ洋装で舶来の酒を飲み、憲兵はその両方に関心を持ちはじめている。夫は商用で満洲へ発ち、予定より二週間遅れて帰ってくる。連れているのは妻に説明しない女で、持ち帰るのは一冊の手帳と一巻のフィルムである。そこから先、この結婚は同じ取り決めではなくなる。理由は嫉妬ではない。
この文章が扱うのは黒沢清監督『スパイの妻』、二〇二〇年の作品である。前提と中心の状況、そして終盤の展開までを含めて話す。夫が持ち帰ったものが何であったか、二人がどうなるかにも触れる。何も知らずに作品と出会いたい読者は、ここで読むのをやめたほうがよい。
この映画についてよく使われる要約は、妻が国よりも愛を選ぶ話だ、というものである。その読み方は映画自身が用意しているし、否定はしない。ただ、この文章はそこに映画の仕事があるとは考えていない。聡子がしていることは、もっと狭く、もっと奇妙である。彼女は、夫の内面の観客であることをやめ、そこへの入場を要求する。安心させてくれと頼むのではない。教えろと言うのである。そして、この映画の残酷さは——胸を打つ映画ではなく、見ていてつらい映画にしているものは——入場が報酬ではなかったという点にある。それは負債であり、まるごと彼女に移され、彼女が選んでいない結果に紐づいていて、もう断ることができない。
それがここでの議論である。彼女の宣言は献身ではない。立場を求める申し出である。そして立場とは、いったん与えられてしまえば感情ではない。露出である。
この映画が何であり、その作られ方がいかに奇妙か
『スパイの妻』はNHKが制作し、まずテレビとして世に出た。二〇二〇年六月六日にNHK BS4KとNHK BS8Kで放送され、尺は百十四分である。そののち、画面サイズと色調をあらためた劇場版が用意された。その版は二〇二〇年九月八日に第七十七回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門でワールドプレミアを迎え、同年十月十六日にビターズ・エンド配給で日本公開されている。劇場版は百十五分。
ヴェネツィアの記録について、ビエンナーレの公式発表は、銀獅子賞(最優秀監督賞)を『スパイの妻』の黒沢清に与えたと記している。その年の金獅子賞は『ノマドランド』であった。ここを正確に書いておくのは、順序が珍しいからである。超高精細の放送規格のために企画され、その規格を受信できる設備を持つ少数の視聴者に向けて国内で放送され、そのあとで色を調え直し画角を切り直して国際映画祭に送られ、そこで監督賞を得た。テレビ番組が映画祭映画になったのであって、その逆ではない。この順序が何をもたらしたかには、あとの節でもう一度戻る。
脚本は濱口竜介、野原位、黒沢清の共同名義である。企画はもともと野原から出ている。黒沢の教え子であった彼が、神戸を舞台にした8Kカメラによるドラマという話を黒沢に持ち込み、同じく教え子であった濱口とともにプロットを組み立てた。昭和初期の街並みは既存のオープンセットを用いて撮影されている。作中には山中貞雄の一九三六年の作品の一場面が現れる。黒沢にとって、自分の同時代を舞台にしない初めての作品である。
黒沢清の仕事は、彼に貼られ続けているラベルよりも長く、そして奇妙である。国際的な評価は一九九七年の『CURE』から始まった。クライテリオン・コレクションはこの作品を、彼の鮮烈な国際的躍進であり、当時立ち上がりつつあった日本のホラーの波を代表する一本であると紹介している。カンヌの公式記録には、二〇〇一年『回路』(ある視点)、二〇〇三年『アカルイミライ』(コンペティション)、二〇〇八年『トウキョウソナタ』(ある視点、同部門審査員賞)、二〇一五年『岸辺の旅』(ある視点、同部門監督賞)、二〇一七年『散歩する侵略者』(ある視点)が並ぶ。『トウキョウソナタ』は世帯の取り決めについての映画である。職を失った男が、それでも毎朝家を出続ける話だ。こちらは取り決めの映画ではない。知識の映画であり、それを誰が持つことを許されるのかの映画である。
夫が見たものと、記録が確立していること
この二つは別のものであり、この文章はそれを混ぜない。
まず映画が描いていること。優作は甥の文雄を伴って満洲へ行く。帰国時には草壁弘子という女性を連れており、彼女はまもなく死ぬ。同時に、ある医師から入手した手帳と、文雄がそれを英訳したもの、そして施設の内部で撮影された短いフィルムを持ち帰っている。聡子がようやく説明を引き出したとき、優作が語るのは、民間人に対して行われた細菌の実験であり、そこには疫病を意図的に広めることが含まれている。そのフィルムがついに映写されるとき、映るのは施設であり、遺体であり、生体解剖であり、遺体の焼却である。責任を負った部隊の名は、画面上では呼ばれない。略称も番号も字幕も、この映画は与えない。
次に、歴史の記録が確立していること。こちらは別であり、はるかに記録が厚く、そして映画が和らげてよいものではない。日本の関東軍は、占領下の中国東北部において、無害を装った名称のもとで細菌戦の計画を運営し、捕らえた人々に対する大規模な人体実験を行った。二〇二六年に『Medical History』誌に発表された楊彦君と王安による総説は、この主題に関する七十年分の研究を概観したうえで、まさにそう記述している。中国における秘密裡の、大規模で、非人道的かつ非倫理的な人体実験であり、アジア太平洋戦争における最も重大な医学上の残虐行為、人道に対する罪の一つである、と。二〇二二年の『Journal of the History of Medicine and Allied Sciences』誌に載ったキャスリン・ジョンソンの論文は、ソ連のハバロフスク戦犯裁判の証言を素材とし、捕虜に対する接種実験および空中散布実験が粗雑なものではなく方法論的に厳密であったこと、そしてその結果が中国での戦時の作戦運用に引き継がれたことを論じている。
そして、映画が優作の計画を通して示唆しながら、最後まで追わない部分がある。ジンバオ・ニーは二〇〇六年の『American Journal of Bioethics』誌において、アメリカ合衆国政府が、データを独占するために関係者へ戦争犯罪訴追からの免責を秘密裡に与え、極東国際軍事裁判から重要な資料を差し控え、ハバロフスクを含む他所で提出された証拠を公に貶めたことを論じている。ニーの論文は提言を伴う議論であり、ここでも議論として引いている。ただし、この免責の取り決めがあったという事実は、優作の計画を「うまくいったはずの筋書き」として読むべきでない理由そのものである。
ここから先はある結婚についての話になるので、その前に一つ、はっきり書いておかなければならない。あの施設にいた人々は人間である。神戸の一家庭の危機を高めるための装置ではないし、夫が妻に隠すものの比喩でもない。以下に続く議論のどの部分も、その人々についての読解として、またその人々に対して行われたことについての読解として差し出されているのではない。映画は、応接間にいる二人という小さな覗き窓から残虐行為を見るという選択をすることができる。その映画について書く文章は、覗き窓のほうが主題であるかのように振る舞わない義務を、そこから相続する。
以前の聡子——最良の席にいる妻
映画が最初に見せる結婚は、不幸ではない。そして対等ではない。映画はその不均衡の形について、きわめて正確である。
聡子は、良い結婚の証拠として誰もが挙げるものを、ひととおり持っている。慈しまれ、甘やかされ、温かく話しかけられる。美しい家があり、舶来の品があり、彼女を面白がり、話し相手としてきちんと扱う夫がいる。夫が甥と撮る素人映画では、華やかな女盗賊を演じる。序盤のどの場面でも、彼女はその部屋でいちばん注意を向けられている人物である。
持っていないのは、入り口である。夫には事業があり、仕事仲間があり、打ち明ける相手である甥があり、彼女の同行しない旅があり、そして彼女が「自分のために演出された上演」として経験するほかない内面がある。映画はこれを、ひとつの細部でほとんど整いすぎるほどに示す。彼女は夫の事務所の金庫の暗証を知っている。撮影の小道具として使われたから知っているのである。夫の職業生活で最も私的な物の鍵を、彼女は女優が台詞を覚えるようにして手に入れている。情報が、娯楽として彼女のところへ届いている。
これがこの文章の名指したい状態である。珍しくもないし、問題のようにも見えないからだ。人は、愛され、相談され、面白がられ、物質的に世話をされていて、なおかつ、相手の人生の当事者ではなく観客として配置されていることがある。何も拒まれていない。ただ申し出がないだけである。そして申し出の不在は、何も賭かっていないあいだは見えない。
やがて何かが賭かる。すると、その座席の配置が耐えがたいものになる。


彼女が実際に要求するもの——それは安心ではない
疑いはじめてからの聡子が何を求めているかを見てほしい。愛しているかとは訊かない。自分を選べとも言わない。何があったのかを話せと言い、話されるまでそれを言い続ける。
この区別は見た目より重い。安心を求める要求は、結婚の構造をそのまま残す。片方が事実を握り、もう片方が管理される。話せという要求は、その構造を解体する。情報は返却できないからである。安心は何度でも供給できる。知識はできない。
そして映画は、彼女がなぜそれを欲するかについて、珍しく目が冷えている。旅館での文雄との場面が蝶番である。彼は壊れかけていて、彼女に向かって荒れる。そこで彼が突きつけるのは不実ではなく、見ないままの安楽である。あなたの心地よい暮らしは、見ないという選択によって支払われている、という告発だ。それが彼女に対して公正かどうかは別として、この言葉は届く。人格ではなく位置を名指しているからである。悪い人間だと言われているのではない。観客だと言われているのである。
ついに優作に詰め寄るとき、彼女は自分に思いつく最悪の解釈をぶつける。あなたは外国のために働くスパイで、私たちがどうなろうと構わないのだろう、と。夫の答えは、どこの国のためにも働いていない、自分は見たものを正義の名において世に出すつもりだ、というものである。その答えをどう評価するかはさておき、それが彼女に何をしたかに注目してほしい。それは彼女をこの説明の内側へ入れる。安全にはしない。
この文庫は『ある人生の記録』についての読解のなかで、「なぜ気づかなかったのか」という問いはたいてい誤った問いであると論じたことがある。人をある取り決めのなかに留めるのは愚かさであることはまれで、たいていは「ここで拒めば明らかに正しかった」と言える一点が存在しないことだからである。『スパイの妻』は逆の実験を行う。主人公にその一点を与えるのである。取り決めを、声に出して、ひとつの部屋で、ひとつの会話のなかで拒ませる。そして残りの上映時間をすべて、それがいくらかかるかを見せることに使う。
入場料の明細
知ったその瞬間から、映画で起きるすべての出来事は彼女が背負う結果になり、映画はそのどれからも彼女を免除しない。
彼女は小道具として覚えた暗証で金庫を開け、日本語の手帳を持ち出す。チェスの駒を倒し、元の位置に戻せず、それによって露見する。彼女はその手帳を津森泰治に渡す。幼馴染であり、いまや夫を監視する憲兵隊を率いている男である。文雄は口を割らないという自分の読みに基づいて、そうする。文雄は逮捕され、拷問を受ける。そして単独犯であると自供する。読みは当たっている。当たった代償を払ったのは、彼女が勝手に価格を決めた他人である。
ここは初見では素通りしやすく、そして映画の核心である。聡子が誤るのは、愚かだからでも嫉妬しているからでもない。不完全な情報のうえで、取り返しのつかない状況で、急いで判断したからであり、そして彼女がそうできるのは、入れてもらったからである。観客はこの種の誤りを犯す位置にいない。当事者だけが犯せる。
その後も明細は伸びる。二人は現金を時計や宝飾に換える。渡航の算段をする。彼が別行動を提案する。彼女は実験のフィルムを持って貨物船の木箱で、彼は上海から。ところが木箱に入った彼女は、密航を請け負った男に売られ、発見され、津森の前に引き出される。津森は彼女を打ち、反逆者は死んで当然だと言う。そして憲兵隊は彼女が運んでいたフィルムを映写する。映るのは、あの素人映画である。優作がすり替えていた。彼女を有罪にする証拠はなく、彼女は釈放される。
残りの戦争の大半を、彼女は病院に収容されて過ごす。一九四五年三月、二人を知る医師が訪ねてきて、噂を聞いたと告げる。優作がボンベイでロサンゼルス行きの船に乗るのを見られたが、その船は沈んだらしい、と。その晩、神戸への空襲で病院が焼ける。彼女は裸足で歩き出し、浜へ行き、そこで壊れる。終幕の字幕が告げるのは、優作が一九四六年に死亡と認定されたこと、ただしその死亡証明には偽造の痕跡があったこと、そして聡子が数年後にアメリカへ渡ったことである。
入れてもらうことと、共同者であることは同じではない
すり替えられたフィルムのところで、この文章の議論は避けようがなくなる。だからここは遅く進む。
木箱の時点で、聡子はすべてを告げられている。夫が何を見たか、なぜそれをするのか、手帳が何であるか、フィルムに何が映っているか。そしてその知識に基づいて行動し、代償を払い、そのうち一つは他人を独房に送った。通常の意味では、彼女はもうこの企ての内側にいる。ところが最後の瞬間、彼は何も言わずに一巻を別の一巻に入れ替える。彼女が運んでいると信じていたもの——証拠であり、理由であり、すべての目的であったもの——は、最初から木箱になかった。
それを保護として読むことはできるし、映画はその読みを開いたままにしている。作戦上正しい判断として読むこともできる。しかし、共同者として読むことはできない。共同者とは、箱の中身を知っている人のことだからである。優作が聡子に与えたのは、説明への入場であって、その説明の著者性ではない。彼女は知識に入れてもらい、そのうえで、知識の内側で取り扱われている。
ここが、忠実な妻を描いたたいていの映画が知らないことを、この映画は知っている点である。入場と立場は別の財である。入場は贈り物として与えられ、思いやりとして取り上げられ、予告なく改訂されうる。立場とは、彼女の判断が計画に入り、計画を変えうるということである。彼女はそれを受け取らない。そして、この結末が悲劇的というより耐えがたいものになる理由の一つは、彼女がそれを要求したのかどうかさえ、はっきりしないことである。
二〇二一年五月に『Ultra Dogme』で往復書簡の形で論じたパトリック・プレジオージとライアン・スウェンは、この文章がどうしても超えられない一句を書いている。フィルムを見たあと、彼女は「自分ではそう認識するところの対等な共同者」になる、と。認識しているのは彼女である。映画はそれを追認しない。
だから、取り出せる命題をできるだけ平たく書く。片方が実質的な事実を握っている関係において、告げられることは必要であり、十分ではない。不均衡は開示によって閉じない。閉じるとすれば、もう片方がその事実に付随する露出を引き受けることによってであり、同時に、握っていた側が「相手にどこまで露出させるかを、事後に、単独で決める権利」を手放すことによってである。この後半を欠いた開示は、対等ではない。よりよく知らされた観客である。
この文庫の二つの旧稿と、どこが違うのか
この家はしばらく前からこの一帯を回っている。だから、新しい土地がどこなのかを言っておく必要がある。
『さざなみ』についての稿で、この文庫は、ケイトの危機は恋愛的ではなく認識的であると論じた。新しい事実が一つ入ることで、四十五年ぶんの蓄積された証拠が第二の読みに開かれ、結婚のなかで何ひとつ変わらないまま、すべてが変わる。あそこでの主題は、すでに終わった過去の意味である。事実は古く、確認済みで、それに対して行動することはできない。争われているのは、それが結婚を何にしたのか、である。
『落下の解剖学』についての稿で、この文庫は、法廷が実際に調べているのは死ではなく結婚であり、録音された口論の恐ろしさは、それがありふれた喧嘩であること、そしてそのありふれていることが動機として読まれる部屋で再生されることにあると論じた。あそこでの主題は、手続きを持ち判決を下す第三者へ引き渡された説明である。争われているのは記述であり、その争いは制度が決着させる。
『スパイの妻』はそのどちらでもない。ここでは何も事後的に争われていない。事実がまだ動いているからである。聡子が読ませろと言っているとき、その説明はまだ書かれている途中である。だから入場が高くつく。彼女が引き受けるよう求められているのは、すでに生きられた人生についての改訂された物語を受け入れることではなく、まだ起こり終えていない一連の行動についての責任を負うことである。先の二本では、女は結婚が何であったかを確定させようとしている。ここで彼女は、結婚がこれから何をするかについての持ち分を得ようとしており、そして得た持ち分は、彼女を有罪にできる程度には現実で、彼女に間違ったフィルムを抱えさせる程度には部分的である。
違いを、膨らませずに書けばそうなる。三本とも、二人のあいだの記述の非対称についての映画である。値札をつけているのは、これだけである。


持ち出せる部分
読解は、その一部を映画館の外へ持ち出せるのでなければ書きとめる意味がない。だから持ち出せる部分を、指示の形を取らず、特定の誰かについての主張もせずに書く。
第一に、話してほしいと思うことと、安心させてほしいと思うことは同じではなく、その二つは当事者双方によってしばしば取り違えられる。求めている側も、自分がどちらをしているのか分からないことが多い。求められた側は、たいてい後者だと想定する。後者のほうが安く、自分の位置を保てるからである。ひじょうに多くの会話が、まさにこの置き換えのところで失敗している。
第二に、関係のなかの知識は不活性ではない。いったん手渡されればそこに座って安心させ続けてくれる親密さの記念品、ではない。それは、受け取った側が何に責任を負うか、何を問われうるか、何に晒されるか、そしていつか第三者が何を強いうるかを変える。これは秘密を勧める議論ではない。手渡されているものが何であるかを正確に記述せよという議論である。
第三に、事実を握っていた側は、開示したあとも一種の著者性を保持し、その残余のなかに不均衡が生き延びる。順序も、枠づけも、時機も、省略も、握っていた側が決める。聡子は真実を告げられ、それでもどちらのフィルムが木箱に入っているかを知らない。ある説明の内側にいることは、その説明を変えられることを自動的には意味しない。
そして第四に、映画が自ら稼いだ観察があり、この文章はそれを和らげない。彼女が立場を得る地点は、そのことで罰されはじめる地点でもある。映画のどこにも、入りたいと望んだ彼女が間違っていたとは書かれていない。書かれているのは、いくらか容赦のない形で、入ることと安全でいることが同時に手に入る局面はもともと存在しなかったということ、そしてどちらの側にどれだけ愛があっても、それを手に入れさせはしなかったということである。
この家が売っているものと、主張してはならないこと
媒体は、説得を終えたあとではなく、終える前に自分の利害を申告すべきである。
この家は私的な同伴を売っている。ここで買われるものの一つは、ある人の分割されない注意が向けられている時間である。したがって、他人の内面への入場は稀少で、価値があり、そして高い、と論じる文章は、この家の商売の方向に流れる文章である。読者はそれを踏まえて重みづけしてよい。
そこから出てくる制約は、断り書きではなく拒否として並べておくほうがよい。この家は、支払われた一夜が聡子の求めたものを供給するとは主張しない。しない。そして映画はその理由のかなり手荒な例示である。彼女が欲したのは、結果を伴う共有された生のなかでの立場であり、区切られ、予定され、支払われる取り決めは、設計上その正反対である。ここで差し出されるものは、映画において入場を価値あるものにしていた、あの負債を伴わない。
この家は、いかなる成果も主張しない。以上のどこにも、一夜が結婚を改善する、沈黙を修復する、誰かに「話してほしい」と言う方法を教える、とは書かれていない。その一文を書くのは簡単で、そして真実ではない。
この家は、読者を診断しない。連れ合いが仕事の領域を遠ざけている人の関係が損なわれている、とはどこにも書いていない。その取り決めを好む人は多いし、この映画は、自ら作り出した一組の結婚以外の何についても証拠ではない。
そしてこの家は、この映画と何の関係もない。監督も、脚本家たちも、出演者も、NHKも、ビターズ・エンドも、ここで名を挙げたどの批評家も、この家を知らず、是認していない。この映画は公表された作品として論じられている。それは誰にでもできることである。
この読解に対する、最も強い反論
四つの反論を、答える前にそれぞれ最大の強度で述べる。
第一に、この文章は、映画が意図的に不透明に保っている人物を美化している、という反論。黒沢は聡子に様式化された時代がかった話法を与えており、その古風な台詞回しは脚本家たちの発案であった。そして彼女をほぼ一貫して、内面を拒む撮り方で撮っている。読者は、認識上の要求を突きつける女性ではなく、自分が何に踏み込んだのかほとんど分かっておらず、文雄についての判断は自己都合で、その名高い決意は映画がのちに罰することになる恋愛的な身振りである、という像を見る自由がある。それを「立場を求める申し出」と呼ぶのは、テクストが承認していない格上げかもしれない。誠実な答えは反駁ではなく限定である。この文章は彼女の行為が何を成し遂げるかについての読解であって、彼女が何を考えているかについての主張ではない。そして映画は後者をあまりに徹底して伏せているので、それを断言する者は誰であれ創作している。議論は状況の構造の上に立っている。聡子の内面の上には立っていないし、それを知っているふりもしない。
第二に、メロドラマと歴史的主題が噛み合っていない、という反論。この映画は結局のところ、美しい夫婦と、港町と、破滅する航海と、浜辺の絶叫の物語であり、その物語の動力として残虐行為を使っている。批評はこの居心地の悪さを、それぞれの仕方で記録した。二〇二一年九月の『Film Threat』でスワプニル・ドゥルヴ・ボースは、黒沢には日本の戦争犯罪の生々しい衝撃を検討する機会があったのに別の方法を採った、人間の醜悪さの見世物ではなく戦争の記憶に焦点を合わせたのだ、と書いている。ボースはこれを、作品を高く評価しつつも逃した機会として扱っている。同じ月の『In Review Online』でM・G・マイユーは、この作品を、恋愛的な情熱と政治的な情熱を対立させる落ち着きの悪いメロドラマと評した。この反論は、映画が見せるものについて節度があると指摘しても打ち返せない。節度があってもなお重みを借りていることはありうる。映画の側で言えるのは、実験を見世物として演出することを拒み、あのフィルムの内容を大半は画面の外に置いた、ということまでである。反対の側で言えるのは、見ないという判断はそのまま、結婚を前景に置き続ける判断でもある、ということである。その両方が同時に本当である。
第三に、映像についての反論。超高精細の放送のために作られた結果、この作品はきわめて高価なテレビ番組のように見え、複数の批評家がそう書いた。二〇二一年九月の『Deep Focus Review』でブライアン・エガートは、もともと日本のテレビ向けに作られたものであること、室内と街路の場面は芝居がかって見え、演者は衣装を着ているように見えることを指摘し、その効果を『マスターピース・シアター』に喩えている。マイユーは8Kの撮影を端正で堂々としたものと評し、それをNHKの寄与として明記した。プレジオージとスウェンはフレームレートを形式上の問題として論じ、毎秒三十コマ版と二十四コマ版が存在することと、時代物を高いほうのレートで撮ることの妙な震えについて書いている。黒沢自身は二〇二一年十月の『Filmmaker Magazine』のインタビューで、テレビ版が8Kの高解像度だったのでそうせざるをえなかったこと、機材の都合でその版を見られた人は多くないこと、そして映画版のほうがある意味で落ち着いており、自分の過去作の調子に近いことを語っている。この映像を無菌的だと感じる読者は、何かを見落としているのではない。製作の来歴を見ているのである。
第四の反論は、こちらに向けられたものである。ある人の注意への入場を女性に売る商売は、入場が貴重で高くつくという命題に明白な利害を持っている。入れてもらうことが安く、ありふれたことであれば、この家はもっとつまらないものを売っていることになる。この反論はその限りにおいて正しく、気の利いた返答は存在しない。できることは、利害を読者に見える場所に置き続けること、それを儲けに変えるような成果の主張を拒むこと、そして、映画自身の判定はこの命題にまったく好意的ではないと明言することである。『スパイの妻』において、入場は与えられ、それは本物で、高価で、そして誰も救わない。これは売り文句ではない。警告に近い。そのまま立たせておく。
この文章が主張していないこと
これは一本の映画についての読解である。歴史記述ではなく、助言ではなく、治療ではなく、いかなる読者の結婚についての記述でもない。
『スパイの妻』のなかで何が起きるかについての記述は、すべてこの映画についての記述である。聡子、優作、文雄、津森、草壁弘子は登場人物である。実在の誰かについての主張はしていない。登場人物の内面を確定した事実として帰属させてもいない。行為が何を成し遂げるかを述べている箇所は読解であり、読解として明示している。
歴史の材料は、本文を通じて映画とは別に扱った。意図的にそうしている。映画は責任を負った部隊の名を画面上で呼ばない。日本の関東軍による細菌戦計画、占領下中国における人体実験、そして戦後の免責の付与についての記録は、本文中で名を挙げた三つの査読論文から取っている。二〇〇六年『American Journal of Bioethics』のニー、二〇二二年『Journal of the History of Medicine and Allied Sciences』のジョンソン、二〇二六年『Medical History』の楊と王である。それぞれを、そのものとして、すなわち記録された資料から議論を立てる論文として報告しており、確定した集計としてではない。犠牲者の数はこの文章のどこにも記していない。流通している数字は定義と出典によって幅があり、この文庫はそれを検証していないからである。殺された人々は比喩ではなく、装置ではなく、結婚についての議論の一部ではない。
製作と受賞の記録について。二〇二〇年六月六日のNHK BS4KおよびBS8Kでの放送、同年九月八日のヴェネツィアでのプレミア、同年十月十六日のビターズ・エンド配給による日本公開、および上映時間は、作品の公表された記録と映画祭自身の掲載に依っている。銀獅子賞(最優秀監督賞)は第七十七回ヴェネツィア国際映画祭の公式受賞発表に依る。受賞と候補は区別している。キネマ旬報ベスト・テンは本作を二〇二〇年の日本映画ベスト・ワンに選び、脚本賞を濱口竜介、野原位、黒沢清に与えた。第十五回アジア・フィルム・アワードは作品賞、主演女優賞(蒼井優)、衣装デザイン賞を与えた。エル シネマアワード二〇二〇はベストアクトレス賞を蒼井優に、ベストディレクター賞を黒沢清に与えた。第七十五回毎日映画コンクールでは本作が最多十部門の候補となったが、女優主演賞は蒼井優が候補で受賞は水川あさみ、監督賞は黒沢清が候補で受賞は河瀨直美である。第四十四回日本アカデミー賞については、同賞自身が公表している一覧に本作はいずれの部門にも現れない。この文章はその不在を記録するだけで、理由を説明しない。理由はこの文庫が読んだどの資料にも記されていないからである。
批評上の見解は、批評家名と媒体名を付して引いている。掲載しているのは反対側の主張を述べるためであって、この文庫がそれらを是認しているからではない。黒沢自身の8K製作についての見解を報告している箇所は、公表されたインタビューからの報告である。
作中の台詞を長く再現してはいない。この文章の中心命題に対してこの家が持つ商業上の利害は、ここだけでなく本文のなかで申告している。そして、この映画に関わったいかなる人物も、この家を知っているとも、この家を認めているとも示唆していない。