Cinema · Moonlight Library
『ハッピーアワー』、四人の女性が互いに言うこと
五時間十七分は、この映画の風変わりな点として語られる。それは方法である。実際の会話にかかるだけの時間を場面に与えれば、嘘ではないのに何も伝えない文が、ようやく見えるようになる。そして、一度も破綻しなかった友情に、その文が十五年かけて何をするのかも見えるようになる。
嘘を一つもつかないまま一週間を渡りきる文、というものがある。家のほうはどうかと訊かれて、まあ相変わらずです、と答える。何かあったのかと訊かれて、べつに、と答える。どう思いますかと訊かれて、そうですね、と答える。どれも狭い意味では本当である。そしてどれも、訊いたほうの手元に、訊く前と同じもの、つまり何も残さない。
これは欺きではない。飾りとしての礼儀でもない。よくできた社会の技術であり、その仕事において驚くほど有能である。おかげで二人の人間は、同じ部屋に、同じ婚姻に、あるいは十五年の友情のなかに、互いが実際に何を考えているかを知らないまま留まっていられる。誰も騙されていない。そして誰にも届いていない。
映画はこれを映すのに向いていない。度胸の問題ではなく構造の問題である。九十分か百二十分しかなく、運ぶべき話がある。だから会話は、何かを前に進める数行に圧縮される。ところがここでは、圧縮こそが的外れな道具になる。逃げの文が見えるようになるのは、それが言われたあとの数秒だからだ。続く間。話題の変わり方。会話がどこにも行かず、しかもそのことを誰も口にしないという事実。
濱口竜介監督の『ハッピーアワー』は二〇一五年に初めて公開され、三百十七分ある。神戸に暮らす三十代後半の女性四人を追う。長さはたいてい、この映画の見出しとして、ときに奇癖として語られる。ここで述べるのは、その長さが方法であるということ。二つの長い場面でその方法がもっとも明瞭に働くということ。そしてこの映画の本当の主題が、社会がいつも曖昧にしておく区別、すなわち誰かと一緒にいることと、誰かに何かを打ち明けることの違いであるということである。
この映画が何であり、記録に何が残っているか
『ハッピーアワー』は神戸ワークショップシネマプロジェクトの製作、濱口竜介の監督である。脚本は濱口竜介、野原位、高橋知由の三名の名義。撮影は北川喜雄、音楽は阿部海太郎。上映時間は三百十七分、すなわち五時間十七分であり、日本での公開は二〇一五年十二月十二日である。中心となる四人は、あかり役の田中幸恵、桜子役の菊池葉月、芙美役の三原麻衣子、そして純役の川村りらである。
世界初上映は二〇一五年八月、第六十八回ロカルノ国際映画祭。主演の四人はこの映画祭の最優秀女優賞を分け合い、脚本にスペシャルメンションが与えられた。この映画祭で得たのはその二つである。正確に書いておく意味がある。これだけの評価を得た作品には、ゆるい言い方が寄ってくるからだ。一つの映画祭での共同受賞の演技賞と脚本への言及、そのあといくつかの小規模な映画祭での受賞。それが記録である。十分に大きな記録であり、そして、繰り返し語られるときの形とは少し違う。
主演の四人は職業俳優ではなかった。この映画は、濱口が神戸市のデザイン・クリエイティブセンター神戸、通称KIITOで開いた即興演技のワークショップから生まれている。期間は二〇一三年九月から二〇一四年二月にかけて。応募者のなかから十七名が選ばれ、流通している記述によれば、そのうちおよそ三分の二はそれまで演技の経験がなかった。撮影はその参加者たちを主役に据えて神戸で行われた。ロカルノでの取材に答えて、監督はこのワークショップの主題を、人の話をどう聞くかという問題であったと述べている。
長さのために、この映画は通常、休憩をはさんだ三部構成で上映される。国によっては、週をまたいで分割公開された。ふつうなら興行の作法についての脚注にすぎない。ここではそうではない。持続によって議論を運ぶ映画は、その持続を切り分ける取り決めと、複雑な関係を結ばざるをえないからである。
五時間十七分は放縦ではなく方法である
なぜこの長さなのかについて、監督自身が率直な説明を残している。それは遅さについての宣言ではない。二〇一五年のロカルノで彼は、アメリカの映画作家ジョン・カサヴェテスから、撮るに値するのは人が本当に言いたいと思っていることを言えないでいる状態だ、という考えを引いている。それを主題に選んだなら、台詞は効率的ではいられない。回り、止まり、言い直し、また回る。どこにも到達しないよう懸命に働いているときの話し言葉とは、そういうものだからである。
公開直前に日本で受けた取材では、映画はさらに長い形で組み上げられており、短くしても締まるのではなく重さが変わってしまった、と述べている。短い版は、同じものの贅肉を落とした版ではなく、別のものになった、という言い方である。編集の判断としての評価は措くとして、そこに見えるのは、持続を使い切るべき予算ではなく素材の性質として扱う作り手の姿勢である。
実際の帰結として、『ハッピーアワー』の場面は、同じことが現実に起きたときにかかるのとほぼ同じだけ続く。食事は、食事にかかるだけの時間をかける。口論は三往復では終わらない。口論とはそういうものだからである。そして場面が、必要な情報を渡し終えた地点を越えてなお続けられると、別のものが見えはじめる。会話のうち情報をまったく運んでいない部分、すなわち関係の維持だけをしている部分である。
この文章が関心を寄せているのはその部分であり、それは通常の上映時間がまっさきに削る部分でもある。四人の友人を描く九十分の映画なら、告白を残し、それを取り巻く四十分の付き合いを切るだろう。その四十分は何もしていない、という脚本上の正しい原則にしたがって。『ハッピーアワー』はその四十分を残す。そして残したうえで示すのは、一緒にいることと打ち明けることが一本の連続線上の二点ではないということ、そして前者は、後者に転じることのないまま、きわめて大量に積み上がりうるということである。
ワークショップ。正式に本当のことを求められる場
映画がはじまってそれほど経たないうちに、四人は鵜飼という名のパフォーマンス・アーティストが主宰するワークショップに参加する。主題は重心である。参加者は自分の軸を見つけるよう促され、背中合わせに座って互いの体重を使って立ち上がるよう促され、相手の腹に頭をあてて、内側で起きていることを聞くよう促される。監督自身の説明によれば、この一続きは画面上でおよそ三十分を占める。撮影は三、四十人が同じ部屋にいる状態で行われ、彼はその撮り方をドキュメンタリー的と呼んでいる。それだけの人数がいると、反応がどこから来るかをカメラは事前に知りえないからである。
この場面を戯画として読むのはきわめて容易であり、実際そう読む観客もいる。語彙は自己啓発のセミナーの語彙であり、主宰者はその職種に特有の、照れのない温かさをもっており、そして課題は、言葉にして並べればばかげて聞こえる。映画はその出口を使わない。課題を長く、正面から撮り、参加者が目に見えてぎこちなくあることを許したまま、そのぎこちなさを笑いの材料に変えない。部屋のなかの誰も滑稽にされないし、誰も救い上げられもしない。
この一続きが実際に何をしているかは、そこに何が欠けているかに気づくと見えてくる。課題のほとんどに言葉が関わらないのである。寄りかかること。釣り合うこと。腹の音を聞くこと。相手と一本の線を合わせること。ここにいるのは、互いに接触するというまさにその目的のために集められた大人たちであり、そのために選ばれた方法は、言語を完全に迂回している。映画はその理由について論評しない。ただ、その不在が課題の癖ではなく部屋についての事実として登録されるまで、長く回しているだけである。
そして正式な部分が終わり、そのあとの集まりがあり、言葉が戻ってきて、本当のことが一つ口に出される。純が、離婚することを告げるのである。内容よりも順序のほうが重要だ。その打ち明けは、誰かが正しい問いを立てたから現れたのではない。人をふだんの構えから降ろすためにまるごと設計された長い正式な場のあとに、それでもなお斜めに現れる。そのために建てられた場の内側ではなく、場が終わったあとの社交の残骸のなかに。
嘘ではないが、何も明かさない文
それに対して、この四人がふだん互いにどう話しているかを見てみる。会話は温かく、頻繁で、情のあるものであり、そしてほとんどすべてが、反論しようのない文でできている。大丈夫。べつに。まあ、そうかもね。どれも正確である。どれも答えではない。
濱口の仕事の方法はここに関わるし、この図書室はそれについて以前に書いている。『偶然と想像』についての文章で私たちは、彼が演技に入る前に、抑揚をつけない読みを俳優たちに繰り返させ、意味を事前に演者の側で決めさせず、状況のほうから到来させるやり方を記した。台詞に生じる効果は独特の平坦さである。そしてこの素材には、平坦さこそが正しい表面になる。感情をこめて発された逃げの文は、もはや逃げの文ではなくなるからだ。それは合図になり、合図は受け取られうる。平らにされたとき、それは現実におけるそれのまま留まる。目立たず、咎めようがなく、そして空である。
この図書室の別の二つの文章が、同じ地面に別の側から近づいている。『ドライブ・マイ・カー』についての文章は、二つの異なる沈黙があり、慎みだったのは一方だけだと論じた。聴くことは身体の行為であるという文章は、話し手が話し続けるかどうかを、聞き手の言葉ではなく身体を読んで決めていると論じた。『ハッピーアワー』はその二つに三つめを加える。逃げの文が出来事ではなく媒質であるとき、何が起きるのかを示すからだ。一つの関係のなかの一つの沈黙ではなく、互いを実際に好いている人々によって何年も維持されてきた、四つの関係の織地そのものであるとき。
そしてそれが、居心地の悪い観察である。やわらげずに書いておく。この女性たちは冷たくない。彼女たち自身が認めるどんな基準によっても、互いに対して不実ではない。会い、一緒に出かけ、約束の場に現れる。交わされる文は嘘ではないし、特定の事実を隠すという意味での逃げですらない。それは人とうまくやっていくための、ごく普通の文法である。そして五時間の果てに明らかになるのは、この文法が、四人のうちの誰一人として他の誰が何を生きているかを知らないまま、いつまでも回りつづけうるということである。
朗読会、そして二度目の招待
この映画のもう一つの長い山場は、のちに置かれる。若い書き手である梢の公開朗読会であり、ワークショップの主宰者であった鵜飼が聞き手を務める。ワークショップと同じく、ほぼ実時間に近い速度で進む。そしてワークショップと同じく、人が他人の前で本当のことを声に出すことを、形式のうえで許されている場である。
二つの出来事は韻を踏んでおり、その韻がこの映画の骨組みである。どちらも構成され、司会があり、客席がある。どちらも、日常が供給しないものを供給している。すなわち、打ち明けることが、聞かされる側への押しつけではなく、期待される振る舞いであるような枠組みである。ワークショップはその枠組みを身体を通じて差し出し、朗読会は文学を通じて差し出す。文学とは、自分の声では言えないことを言うための、もう一つの社会的に承認された乗り物だからである。
そしてどちらの場合も、枠組みは保たない。ワークショップにおける本当の打ち明けは、進行表の外の非公式な時間に起きる。朗読会の質疑は、文学の催しの構えから滑り落ちて、私的で手に負えない何かに変わり、部屋にいる人々はその場を、それが担うように作られていなかった目的のために使いはじめる。映画が言っているのは、これらの場が失敗するということではない。これらが唯一手に入る道具であり、それは粗雑であり、それでも人がそこに手を伸ばすのは、棚に他に何も置かれていないからだ、ということである。
長さについての主張を現金化しなければならないのはここである。どちらの山場も、通常の編集では生き残らない。脚本の基準からすれば途方もなく非効率である。だがモンタージュは別のものを示してしまう。登場人物がその催しに出席した、ということを。持続の全体が示すのは労力のほうだ。部屋がほぐれるまでにどれだけかかるか。意味のある一文の前に、何も起きない何分が置かれているか。そして、練習をしたことのない者にとって、正直であるよう招かれることがどれほど疲れる仕事であるか。
純が去る。ついに声に出された問い
純の離婚は映画の底を流れつづけ、やがて法廷に姿を現す。審理は長く与えられる。そこで露わになるのは、裁定しうる個別の非ではない。ほとんど何も率直に言われてこなかった婚姻であり、そしてそれは、記述を要求する部屋においてきわめて記述しにくいものであることが判明する。そののち彼女は、何も決着しないまま去る。そして映画は、彼女が向かった先へはついていかない。
ここでは慎重さがいる。映画は純が何をするかを示し、何を言うかもかなりの程度示す。だが彼女の内側を語らない。彼女の考えについてのいかなる説明も、この文章のそれを含めて、彼女についての確定した事実として受け取られるべきではない。言えるのは心理ではなく構造のことである。四人のうち、問いを最後まで開いた場所へ押し出したのは彼女だけであり、そして集団の外に出ることになるのも彼女である。この二つの事実が結びついているかどうかを、映画は語らない。
後半で壊れる二つの婚姻も、同じ仕方で壊れる。この映画に不貞は出てくるが、不貞は機構ではない。いずれの場合も決定的な出来事は、問いがついに声に出されたことである。発覚ではなく、言語化である。言われずにいるあいだは耐えられていたものが、一つの文にされた瞬間に耐えられなくなる。そして映画はそれを本当に両義的なまま置いておくだけの誠実さをもっている。問うたことが勇敢だったとは言わない。黙っていたほうがよかったとも言わない。
その拒否こそが、この映画のもっとも大人びたところである。正直さについての主張をもつ映画なら、正直な者に報い、逃げた者を罰し、観客は教訓を持ち帰っただろう。この映画が示すのは、本当のことを言うのが、帳簿の両側に費用の記される決断であるということ。そしてそれを下す人間には、下す瞬間にその帳簿が見えていないということである。
一緒にいることと、打ち明けることは別である
この映画が組み立てられている区別を書く。それは、周囲の社会が保っていない区別である。
一緒にいることとは、誰かのかたわらにありつづける実践である。共有された時間、共有された食事、共有された道行き、そして、言ったときに現れるという証拠の蓄積。打ち明けることとは、見ているだけでは推測できない何かを、自分について相手に伝えることである。この二つは別の財である。別の振る舞いによって生産され、別の必要に応え、そして――痛いのはここだ――一方は、他方をまったく生まないまま、きわめて大量に製造されうる。
『ハッピーアワー』の四人は、前者の膨大な蓄えをもち、後者をほとんどもたない。五時間かけてこの映画が上演するのは、彼女たちがそれを知る瞬間である。そしてその発見は、友情の失敗としては枠づけられていない。書くに値するのはまさにそこである。観察しうるあらゆる指標において、彼女たちはよい友人だった。欠けているのは、互いのためにしたことのなかにではない。互いに話しかけるために使える形式が、何を手渡すことを許していたか、そのなかにある。
この領域の研究は薄く、多くは間接的である。振り回すのではなく、報告しておく。ナンシー・コリンズとリン・キャロル・ミラーによるメタ分析が一九九四年に『サイコロジカル・ブレティン』に出ており、自己開示と好意のあいだの三つの関連を報告している。親密な開示をする人はより好かれる傾向があること。人はすでに好いている相手により多く開示すること。そして人は、開示した相手を好きになるようになること。これらは設計の異なる多数の研究をまたいで見いだされた関連である。特定のいかなる友情についても何も確立しないし、いかなる読者についても何も予測しない。ここで引くのはささやかな一点のためだけである。親密さと開示は、それを研究する人々によって切り分けうる変数として扱われている。この映画が五時間をかけて上演しているのは、まさにその切り分けだという一点である。
二つを合わせると、この映画のもっとも暗い含意が見えてくる。そしてそれは誰の道徳的な落ち度でもない。一緒にいることは供給しやすく、打ち明けることは供給しにくい。そして友情が――外部からだけでなく当事者たち自身によって――一緒にいたことの証拠で評価されるのなら、友情は、自らに課したあらゆる試験に合格したまま、深夜三時に問題になるあの意味において、誰も住んでいない状態でありうる。
高文脈は説明ではなく、言い換えにすぎない
この段階で自明に見える手がある。よく知られた用語に手を伸ばすこと。ここは高文脈の文化であり、意味は言明ではなく状況によって運ばれるのだから、『ハッピーアワー』は日本的な問題についての映画なのだ、と言うことである。この図書室はその手を打たない。理由は繊細さではなく、証拠にある。
高文脈と低文脈の区別は人類学者エドワード・T・ホールに由来し、きわめて大きな影響力をもってきた。それに付随する国別の分類のほうは、はるかに支えが弱い。ピーター・W・カードンは、一九九〇年から二〇〇六年にビジネス・技術コミュニケーション分野の学術誌に出た二百二十四本の論文を検討し、文脈化の枠組みがこの分野で最も多く引かれている一方、その命題の多くは経験的に検証されておらず、最も頻繁に検証された命題――とりわけ直接性に関わるもの――はしばしば支持を得られなかったと報告した。マルクス・キトラー、ダヴィッド・リグル、アレックス・マッキノンは、二〇一一年の系統的レビューにおいて、国別分類を用いた先行研究の大半が十分とは言えない証拠に基づいており、分類そのものに欠陥があるか、よくても著しく限定的であると結論している。
だからこの用語は、求められている仕事をこなせない。手触りに名前をつけることはできる。手触りを説明することはできないし、この国の人は、という書き出しの文を許すことなど、なおのことできない。『ハッピーアワー』が差し出すのは、一つの国についての証拠ではない。一つの都市に生きる、作られた四人の人物についての、長く、きわめて具体的な肖像である。自分の話し方を役に持ちこんだ演者たちとともに作られた。その権威は、調査の権威ではなく、一つの事例の権威である。
空気を抜いたあとに残るものは、より小さく、より役に立つ。二人の人間が、実質的には何も交換しないまま無期限に接触を保っていられる話し方が存在する。それは誰にでも利用でき、安価で、礼儀正しく、そして多くの場面において、選択ではなく既定値である。それは国民性ではない。ある語域の性質である。そしてこの映画は、その語域について誰かが画面に収めたもののうち、もっとも忍耐強い研究である。
この家が売っているもの、そして主張できないこと
この刊行物は、私的な同伴を売る家に属している。支払われ、境界が引かれ、日程の決まった時間であり、そのあいだ一人の注意は、それを手配した人のものになる。一緒にいることと打ち明けることのあいだにはっきりとした線を引く文章は、したがって利害関係者の書いた文章である。そして利害は一つの方向に走っている。だから読者が末尾で自分で気づくのに任せず、ここで名指しておく。
この議論の都合のよい版はこうなる。ふつうの友情は一緒にいることしか供給しない。人が静かに飢えているのは打ち明けることのほうである。そしてここに、それを買える場所がある。その版はここでは述べないし、それは本当ではない。支払いを伴う取り決めが供給するのは枠組みである。終わりの定まった、区切られた場であり、そこでは一人の仕事がもう一人に注意を向けることであるような場。それは、この映画のワークショップや朗読会と同じ範疇のものである。ある種の発話を許容可能にする構造。発話そのものではない。関係でもない。
だから制約は、拒否として述べる。この家は、売っているものが友情であるとも、友情の代わりになるとも主張しない。いかなる読者にも何かが不足しているとは主張しない。知りようがないからである。取り決めた時刻に終わり、代金の支払われる場が、この映画の四人が十五年かけて生み出せなかったものを生み出しうるとは主張しない。そしてこの映画がそれらのいずれかを支持しているとも主張しない。この映画はこの家と何の関係もなく、これに類するものを念頭に作られてもいない。
利害の正直な言明はこうである。境界の引かれた場を売る家は、困難な発話が可能になるのは境界の引かれた場においてである、と読者が信じることによって商業的な利益を得る。その信念は正しいかもしれない。この映画自体がそれを支持する議論である。そしてそれは私たちにとって、きわめて都合がよい。読者はそのぶん割り引いて受け取ってよい。
この映画とこの文章へのいちばん強い反論
第一の反論は接近可能性についてのものであり、これが最も強い。五時間十七分は、大半の大人が満たせない要求である。空いた一日を要求する映画は、何かを言う前に、観客を余暇によって選別し終えている。そこに含まれる洞察は、きわめて不平等に分配された資源の向こう側に置かれる。働く女性たちのありふれた生活を扱う作品にとって、これは居心地の悪い位置である。作中の二人には、誰にも請求されていない時間がほとんど存在しないのだから、なおさらである。三部に分けて観られるという応答は事実だが、告発に完全には答えていない。主張されている効果の一部は、途切れずに積み上がった持続に依存しているからだ。
第二の反論は演技についてのものである。職業俳優でない者の演技は真正さとして読まれる。そしてその読みは、いつも正当に獲得されたものとは限らない。磨かれていない発話と、本当のことを言っている発話は、外から見れば似ている。そして、これがワークショップの参加者であって俳優ではないと事前に知っている観客は、ためらいを正直さとして、平坦さを慎みとして採点しがちである。この映画の例外的な自然さとして讃えられているものの一部は、技術の不在にすぎないかもしれない。ロカルノの賞は実在する事実だが、これを決着させられない。審査員も、客席の他の全員と同じ枠づけのもとにあるからである。
第三の反論は、映画にではなくこの文章に向けられる。遅さを称える議論は、ほとんど反証不可能である。長い場面が引きつければ、長さは正当化される。退屈させれば、その退屈こそが眼目だと言われ、書き手はあらゆる結果から守られる。それは分析ではなく、負けようのない構えである。正直な譲歩としてこう書く。この文章は、持続についての主張が誤りとなりうる試験を提示していない。ワークショップの場面をただ長いと感じた読者は、ここに書かれた何によっても訂正できる種類の誤りを犯してはいない。
より狭い不満もある。しかもそれは、否定する側ではなく讃える側から来る。ニック・ピンカートンは二〇一六年に『リバース・ショット』で、この映画の人間的な注意深さを讃えつつ、結末は不十分であり、悲劇の側へ調子を移すときに失速すると評した。マイケル・シシンスキーは『シネマ・スコープ』で、ワークショップの場面と、演劇的な探究と社会観察の混淆とを讃えつつ、最後の一続きは出来事に引っぱられすぎており、やや型どおりだと述べている。二人は同じ継ぎ目を指している。忍耐を方法とする映画が、その最終楽章において、出来事が予定どおりに到着しはじめる場所で、通常の映画になる。長さが方法であるのなら、筋が主導権を握る部分は、その方法が静かに手放される部分である。これは、この文章が吸収できる反論ではなく、負うべき譲歩である。
この文章が主張していないこと
これは一本の映画の読解である。日本人についての主張ではなく、日本の婚姻についての主張でもなく、この国の誰かが友人とどう話すかについての主張でもない。高文脈についての節はそれを明示し、その範疇を説明として信用しない、公刊された理由を挙げている。
上に記した配役、クレジット、上映時間、製作と公開の詳細は、映画自身の資料と、配給、映画祭、会場の記録から取っており、いずれも二〇二六年九月に閲覧した。ワークショップの場面と朗読会の場面についての記述は、公刊された批評の記述と、その撮影について監督が語った記録に依拠している。この図書室はそれらを一コマずつの検分によって裏づけてはいない。そして映画の台詞は、ここで一行も引用していない。
監督の意図についての言明は、二〇一五年の取材に基づいており、彼の公表された発言として報告しているのであって、彼の内心についての事実としてではない。登場人物が何を感じているかについての言明は避けている。この文章があかり、桜子、芙美、純について述べるとき、それは映画が示すものを述べている。彼女たちの内面は確定しておらず、確定したもののようには提示していない。作中の婚姻についても同じ抑制を置いている。
受賞の記録は意図して狭く述べている。主演の四人が一つの賞を分け合い、脚本がスペシャルメンションを受けた。いずれも二〇一五年のロカルノである。そののち、小規模な映画祭での受賞が続いた。監督のその後の作品については、『偶然と想像』が二〇二一年のベルリン国際映画祭で銀熊賞、審査員グランプリを受賞し、『ドライブ・マイ・カー』はアカデミー賞で作品、監督、脚色、国際長編の四部門に候補となり、そのうち一つ、国際長編賞を受賞した。それに先立ちカンヌで脚本賞を得ている。候補は受賞ではなく、ここでも受賞としては報告していない。
引いた研究は、それが報告していることのためにのみ引いている。自己開示についてのメタ分析は、複数の研究をまたぐ関連を記述しており、いかなる個人も記述していない。ホールの文脈化モデルについての二本のレビューは、一つの文献群についてのレビューであって、いかなる国についての知見でもない。ここにあるいかなるものも読者を診断しない。そして、大事なことを友人に話したことがないという人が、友情に失敗しているとも、何かが足りないとも、ここでは述べていない。
ここに名前の挙がったいかなる人物、映画、映画祭、刊行物、研究者も、この家と関わりをもたず、この家を知らず、この家を是認していない。この家自身がこの議論にもつ商業上の利害は、ここだけでなく本文のなかで述べている。議論がその働きを終えたあとに現れる申告は、申告ではないからである。