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Moonlight Journal · Library

「セックスレス」は、判定ではない。

日本では、この言葉に正式な定義がある。そしてその定義は「1か月」である。その1か月が数えているもの、数えられないもの、言葉に手が伸びる前にたいてい揃っている五つの静かな力学、そして長い関係のなかで誰かが責められる前に向けられる四つの問い。

  • 身体と、判定
  • 長い関係のなかの欲望
  • 結婚
  • 欲望
  • 取り決め

その言葉は、ほとんどの場合、内側からやってくる。誰かに言われる必要はない。最後はいつだったかを数えて、自分が数えていたとも知らなかったある数字を越えたとき、自分の声でその名前が浮かぶ。

そうやって現れたとき、それは記述には聞こえない。認定のように聞こえる。うちは、そうなのか。私たちは、もうそういう二人なのか。

この文章は、その認定をほどこうとするものであり、この書庫がこの言葉を扱う三篇目にあたる。以前の一篇は、セックスレスは判決ではなく区分であると、言葉そのものの水準で論じた。もう一篇は、日本はなぜそれを数えるのか、その数字が何を隠すのかを、国家の水準で問うた。この文章が働くのは、部屋の水準である。言葉が到着する前にたいてい成立していること。そして、責める相手を探す代わりに自分に向けられる問いは何か。

ここには、性を取り戻すための方法は書かれていない。それは主題への遠慮ではない。拒否である。最初に一度だけ述べておく。処方で終わる文章は、その状況が不具合であるとあらかじめ決めている。そしてその前提こそが、ここで検められているものだ。

定義は「状態」を記述している。結婚を記述してはいない。

日本は、そもそも正式な定義を持っているという点で珍しい。この言葉がここで重く着地する理由の一部はそこにある。英語圏の多くの国では、セックスレスは曖昧な社会的用語にすぎない。日本では、それは一つの文である。

一般社団法人日本性科学会は、セックスレスを、特殊な事情が認められないにもかかわらず、カップルの合意した性交やセクシャル・コンタクトがいずれも1か月以上なく、その後も長期にわたることが予想される場合、と定義している。同会は、この定義が1991年に最初に案として示され、1994年に整えられたものだと記録している。

ゆっくり読んでほしい。この言葉を使う人のほとんどは、この文を読んだことがない。

数えられているのは、性交や性的な接触があったかどうかと、それがない状態がどれだけ続いているかである。測定はそれで全部だ。「合意した」という語が静かに働いていることに注目してほしい。この定義が記述しているのは、二人が合意したものの不在であって、どちらかが受け取る権利のあったものの不在ではない。

そして、この文が含んでいないものすべてに目を向けてほしい。二人が互いをどう思っているかについては何もない。どちらかが触れられたいのか、あるいははっきり触れられたくないのかについても何もない。その状態が悲しみの源なのか、それとも二人で納得した静けさなのかについても何もない。愛についても何もなく、何かの質についても何もない。

これは、臨床と研究が同じものについて話せるようにするための、共通の物差しである。診断ではないし、失敗の認定でもない。

物差しは、長さを測る

よい測定の厄介なところは、測られたものこそが大事なものだと読者に思わせてしまうことだ。

物差しは長さを測る。重さも、温かさも、その物が役に立つかどうかも測らない。測られた長さを見てその物の価値を結論する人はいないだろう。ところが、この言葉が結婚に当てはめられた瞬間に起きるのは、まさにその動きである。

1か月という単位は、それが記述するよう求められているものに対して短くもある。病気は1か月より長く続く。新生児のいる時期も、死別も、引っ越しも、試験の期間も、仕事の悪い季節も、ある種の服薬期間もそうだ。四週間で作動する定義は、それが記述するために作られた状況とともに、ごく普通の速度で進む生活そのものを、きわめて大量に拾い集めることになる。

これは、定義の作りが悪いという議論ではない。それは研究のために作られたものであり、研究では、感度の高い閾値よりも明確な閾値のほうが価値をもつ。これは、研究の道具が言語のなかへ逃げ出したという議論である。そこでその道具は、形づくられたことのない問いに答えるために使われている。どれだけの期間かではなく、これは私たちについて何を意味するのか、という問いに。

数字が言えること、言えないこと

もっとも頻繁に引用される数字は、日本家族計画協会が2016年に実施した「男女の生活と意識に関する調査」の第8回にさかのぼる。16歳から49歳の3,000人を対象とし、有効回答は1,263人、そのうち既婚者655人が分析された。その既婚回答者のうち、過去1か月間にセックスをしていない人は47.2パーセントであり、協会はこれを、調査が始まった2004年から15.3ポイント増えた数字として示した。

第9回は2023年9月に実施された。その主要な結果は、この文章を書いている時点で一次資料に当たって確認できなかったため、ここでは引用しない。2016年より先の傾向についても、何も主張しない。

この数字が立証するのはただ一つであり、それは持っておく値のあることだ。日本で、過去1か月間にセックスのなかった既婚者は、珍しくもなければ例外でもない。他に何が真であろうと、彼女はひとりではない。

立証できないことのほうが、はるかに大きい。そのうち何人が苦しんでいるかは言えない。何人が納得しているかも言えない。何人が、質問されるまで考えたこともなかったかも言えない。生まれたばかりの子がいて三か月目の夫婦と、四年間触れ合っていない夫婦を区別することもできない。そして読者については、何ひとつ知らない。

この書庫の他の文章は、「普通」という語が記述から採点表へと漂流していく過程を追ってきた。「セックスレス」という語も同じ道を辿る。しかも、より速く辿る。数字を伴って到着するからであり、数字は、ただの計数であっても判定のように感じられるからだ。統計は文脈である。特定の家についての裁定ではない。

「性がない」と「親密さがない」は、別の文である

ここがこの文章の中心であり、それは関係についての論点である前に、文法についての論点である。

性がない。親密さがない。欲望がない。愛がない。日常の会話では、この四つは一つの言明に溶けてしまう。そして推論があまりに滑らかに走るので、それが推論であることにさえ気づかれない。性がないなら、愛はもうないのだろう、と。

これは四つの別々の文であり、そのそれぞれが、他の三つとは独立に真にも偽にもなりうる。

性がなくても、毎晩同じ食卓に着き、相手が疲れていることに気づき、通りすがりに背中へ手を置く関係がある。性は十分にあっても、何年も互いをきちんと見ていない関係がある。欲望がまぎれもなく存在していて、それをこの相手に向けられない時期があり、この相手への愛情はまぎれもないのに身体が閉じている時期がある。

この書庫の以前の一篇は、統計を付けずに一般原則のほうを述べていた。欲望は命令ではなく、情報である、と。ここでも同じだ。性が遠のいたという事実は、誰かに何かをせよと命じる信号ではない。この部屋に何かがあると知らせる灯りである。その灯りが何を照らしているかは名前からは見えないし、1か月という単位から読み取ることもできない。

疲労と、一日の算術

以下に挙げるのは、言葉に手が伸びる前にたいてい成立している五つの力学である。診断ではなく、段階でもない。人がもっともよく語る風景であり、そのどれも、どちらかが悪いという話ではない。

一つめは、いちばん平凡で、いちばん論じられない。説明として感じられるほど劇的ではないからだ。

ごく普通の平日の算術を考えてみてほしい。仕事と、その前後の移動。食事と、その食事に先立つ算段。夜に片づけられるように朝に始めた洗濯。誰かの頭のなかに保持されている子どもの予定。かけた親への電話。四時に返せなかったので十一時に返した連絡。

一日が空いたとき、残っているのは四十分かもしれない。そしてそのなかにある身体は、中立ではない。起きた瞬間から他人に対して開かれつづけてきた身体である。そういう身体にとって、触れられることは初期設定では休息ではない。何も求められていなかった唯一の一時間に、もう一つ届いた要求である。

それは欲望の喪失ではない。現れる余白のない欲望である。内側からは二つが同一に感じられる。だからこの地点で人が自分について最初に下す結論は、たいてい間違っている。

役割には、それぞれの顔がある

二つめの力学はもっと微妙で、積み上がるのに時間がかかる。

長い関係のなかにいる人は、めったに一つのものではない。従業員であり、母であり、娘であり、嫁であり、近所の人であり、予定を覚えている側の人である。そのそれぞれに付随する顔があり、そのどの顔も有能である。

年ごとに減っていくのは、そのどれでもないものとして見られる時間のほうだ。うまくやってくれる人としてではなく。ただ、彼女自身として。

性的に応じうる状態は、その有能な顔たちが供給できないものを人に求める。朝から有能であることを要求してきた一日のなかで、無防備であることを求め、しかもその切り替えを、最後の一時間に、求められた時点で、移行なしに行えと求める。それができる人もいる。多くの人にとっては、真夜中に第二言語で話せと言われるのに似ている。嫌なのではない。合図に応じてそこへ手が届かないだけだ。

外側から見ている側には、これは拒絶として見える。実際に起きているのは、その一日のなかに戻り道が一度も作られていなかった、ということである。

触れることが、いつも性へ向かうようになるとき

三つめの力学は、いちばん分かりにくい理由でいちばん損害を与えるものであり、そしてほとんどの場合、偶然に作られる。

関係の初期には、触れ方はさまざまである。肩に置かれた手は、肩に置かれた手である。のちに、どちらが決めたわけでもなく、触れ方は狭まる。確実に起きる接触は、どこかへ向かっている接触だけになる。

そうなった時点で、肩はもう肩ではない。それは問いであり、しかも即座に答えなければならない問いである。だから、疲れていて、抱きしめられるのならむしろ嬉しいという人が、その手から身を引くことを覚える。受け取ることは、今夜その資源のないものまで引き受けることになるからだ。

反対側からは、これは「そもそも触れられたくない女性」として読まれる。内側から見れば逆である。触れられたいのに、そのあとに続くすべてを一緒に引き受けずには触れられることを受け取れなくなった人である。

その結果、その二人はあらゆる種類の接触を減らす。性とは関係のなかった種類の接触も含めて。そしてそれこそが、もう一方の種類を起こりやすくしていたものでもあった。

誘うことを終わらせた、二度か三度の断り

四つめの力学は短く、たいていは一か月足らずのうちに起きる。

誰かが誘う。答えは、今日はいい、である。上に挙げたような、ごく普通の理由のどれかによって。二週間後にまた起きる。おそらく三度目もある。

何も決定されてはいない。だが誘った側は、自分が誘ったときに何が起きるかについての小さな証拠をいま持っている。そして誘うことは中立な行為ではない。守ってくれる言い回しが一つもないまま、断ることのできる相手に、何かを求めていると告げることだからだ。三度断られれば、たいていの人はその役を志願するのをやめる。

だから誘うことは止まる。そしてここからが、それを固定させる部分である。断った側は、その停止を安堵として経験しない。もう求められていないこととして経験する。自分の三度の普通の断りが判定として受け取られたことを知る術はない。彼女にとって、それは疲れた三つの夜だったのだから。

いまや二人はそれぞれ、相手についての私的で、整合的で、そして誤った説明を持っている。彼は、彼女が自分を求めていないと信じている。彼女は、彼が自分を求めなくなったと信じている。どちらの説明も検証されない。検証するにはその話題を持ち出さねばならず、その話題はいまや家のなかでもっとも危険なものだからだ。

それぞれが、同じ沈黙をひとりで読む

五つめの力学は独立したものというより、他の四つが放置されたときに変わっていく先である。回避と、その下で育つもの。

話題にしないことが、言葉で合意した覚えのない取り決めになる。その主題は部屋のなかで形を持ち、二人ともそれを避けて進むようになり、やがて避けること自体が習慣になる。しばらくすると、彼らはその会話を避けているのではなく、単にその会話をしない人たちになっている。

起こらないのは、言われなかったものが消えることだ。それは沈む。そして沈む途中で性質を変える。言われなかった疲れた一夜は、疲れた一夜である。言われなかった疲れた百の夜は、相手が自分をどう思っているかについての信念になる。

この状況全体についてもっとも重要な構造上の事実はこれである。二人は同じ沈黙を、別々に解釈しており、そしてどちらも正確には解釈していない。一方はそれを拒絶と読む。他方はそれを安堵、あるいは準備されつつある非難と読む。どちらの読みも現実の証拠から組み立てられており、どちらも誤っている。そしてそれを正しうる唯一の道具は、その沈黙が起こさせないためにある会話そのものである。

ここで一つ、推測に委ねずにはっきり述べておかねばならないことがある。理由が身体にあることもある。性交時の痛み、身体の変化、薬の影響、病気、出産のあとの時期。それらはこの文章の及ぶ範囲の外にあり、専門の医療者とともに見るべきものだ。そして上のどれも、身体的な原因を関係の問題として解釈する理由として読まれてはならない。

「健康」の定義に、頻度は書かれていなかった

この言葉を、別の目的のために作られた定義の隣に置いてみる値がある。

世界保健機関(WHO)は、性の健康を、病気や機能不全がないことではなく、性に関わる身体的・感情的・精神的・社会的なウェルビーイングと定義し、快く安全な性的経験が、強制や差別や暴力から自由であるという可能性を必要とするとしている。

その枠組みのどこにも、月に何回という数字はない。閾値もない。その枠組みは、数えることを軸に作られていないからだ。

これは、人が見落としがちな方向に切れる。自分の関係を頻度で採点する必要はない、という意味である。性がないことに本当に苦しんでいる人に、気にしなくていいと告げてよい、という意味ではない。

もう一つの区別がここに属する。そしてそれは、同会の定義自身が「合意した」という語で供給しているものだ。欲望と同意は別のものである。関係のなかでもっと性を望むことは、それを受け取る権利があることと決して同じではないし、性のない期間は、断る権利が停止された期間では決してない。不在によって裁かれない権利を擁護する文章が、誰かが何かを供給し損ねているとひそかに含意するなら、その文章には価値がない。

この文章への、いちばん強い反論

答える値のある反論は、平気でいる人からのものではない。平気ではない人からのものだ。

それはこう進む。文をこう丁寧に切り分けてみせるのは、現実の悲しみから人を言いくるめるやり方である。彼女は定義について混乱してなどいない。親密さと性が別のものであることは知っているし、その両方を望んでいる。四年間触れられたいと思ってきたし、そう言ってもきた。「セックスレス」という語は測定にすぎないと告げられることは解放ではない。気にするのをやめてくれという、洗練された頼み方である。しかもこの文章が前へ進む道を一切示さないのは、敬意というより、結果に対して責任を負いたくない家のふるまいに見える。

これは当たっている。そして誠実な答えは、反駁ではない。

これで苦しんでいるなら、その苦しみは正確であり、上のどれも、それが小さくあるべきだという議論ではない。この文章の主張は狭い。名前は説明ではないということ。そして五つの力学は知っておく値があるということ。それがきわめてしばしば実際の仕組みであり、しかもそのどれもが、誰かの人格ではなく、起きた出来事だからである。三度の普通の断りのあとで相手が誘うのをやめたのだと理解した人は、慰められているのではない。まだ抱えている問題について、より正確な説明を手渡されているのである。

反論の後半について。ここに処方がない理由は、原因が特定されていない状況に向けられた処方とは、何かをしているように見えるための方法だからである。仕組みが疲労なら、もっと努力することはまさに間違いだ。仕組みが狭まった触れ方なら、もっと誘うことはまさに間違いだ。以下の問いは、助言のやわらかい版ではない。どんな助言であれ価値を持つために、先に来なければならない段階である。

判定の代わりに、四つの問い

この家にも、他の誰にも、読者の関係を裁く資格はない。だから以下は結論ではない。四つの問いであり、それぞれを答えられるものにする文脈を添えてある。

私たちの場合、性がないことは、本当に親密さがないことと同じだろうか。四つの文は分かれる。そして悲しみを生んでいるほうが、数えられているほうではないと分かることは珍しくない。

最後に、性へ向かわない触れられ方をしたのはいつで、それを私は望んでいるだろうか。触れることが一つの意味に狭まっているなら、この問いは実際に失われたものを特定する。それはしばしば、あの言葉が名指しているものではない。

この状況で苦しんでいるのは誰だろうか。私か、相手か、両方か、それとも外から見られている私のほうか。これについての苦痛の驚くほど多くは、家のなかの誰かにではなく、想像上の観察者に属している。どちらがその感情を生んでいるのかを知る値がある。

言葉にできるとしたら、いちばん最初に言いたい一文は何だろうか。会話全体ではない。最初の一文である。何もないところから組み立てなければならないのは、そこだけだ。

答えは早く来なくてかまわない。誰かと話してもいいし、ひとりで考えてもいいし、当分は何も決めなくてもいい。そのどれも、行動しそこねたことではない。

「セックスレス」は、ある期間に何が起きていないかを記述するために作られた語だった。それ以上のことを、この語に言わせる必要はない。特定の家で実際に何が起きているかは、その名前には見えていない。そしてそれを見ることのできる者は、言葉ではない。

この文章が主張していないこと

これは医学的助言でも、臨床的な指導でも、カウンセリングでもなく、誰も診断しない。性交時の痛み、身体の変化、薬の影響、病気は、専門の医療者とともに見るべきものであり、この文章はそれらを取り込むのではなく名指すにとどめている。

五つの力学のなかで、誰も悪くない。それらは積み上がる仕組みとして記述されており、相手において矯正すべき行動としては記述されていない。ここに書かれたものが口論の証拠として使われてはならない。

2016年の数字は文脈であって、判定ではない。その年、対象、範囲は、それを担う文のなかに記してある。その版より先の傾向は何も主張していない。第9回の主要な結果は、一次資料で確認できなかったため意図的に載せていない。

欲望は同意ではない。もっと望むことは、もっと受け取る権利があることでは決してないし、上のどこにも、誰かが何かを供給し損ねているという含意はない。

納得も苦しみも、この状況に対する「正しい答え」ではない。落ち着いた静けさは本物であり、本物の悲しみも本物である。この文章はそのどちらにも冠を与えない。

この家はそのどれの治療法でもなく、そう名乗ってもおらず、そう読まれることに明白な商業的利害を持っている。この文章が道筋ではなく問いで終わるのは、そのためである。ここで引用したどの機関も、この家を推奨しておらず、その存在を知らない。

もう少し静かに考えてみる

別の入口から読む