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Moonlight Journal

「彼氏はいらない。でも、デートはしたい。」その気持ちは、矛盾していない。

相手とは、融けて到来するいくつもの願いであり、そして束は一覧ではない。いくつかはひとつで運べる。注意、問いを向けられること、交渉にならない触れ方。いくつかは持続に溶接されており、まったく整えられない。そして一つの反対の事実が、自分の必要の正確な読みと、閉じた扉との理にかなった和解とを分ける。

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恋人がほしくないことと、誰かと過ごしたいことは、同じ話ではありません。

仕事が忙しい。自分の時間を守りたい。恋愛の駆け引きに疲れた。将来の約束までは求めていない。それでも、ときどき誰かと食事をしたい。少し遠くまで出かけたい。手をつないで歩きたい。自分の話を聞いてほしい。女性として見られる感覚を思い出したい。

そういう願いは、ひとつの関係の名前にきれいに収まるとは限りません。

そして収まらないとき、多くの人は願いのほうを疑います。自分は中途半端なのではないか、と。疑うべきなのは、たぶん名前のほうです。

言葉は、社会が管理しやすい形で用意されています。交際しているか、していないか。その二つがあれば、周囲は状況を把握できます。把握される側の実感が、その二つに収まるかどうかは、また別の問題です。

「恋人がほしい」の中には、いくつもの願いが束ねられている

恋人という言葉には、たくさんの機能が詰め込まれています。

話し相手。食事の相手。週末の予定。身体的な親密さ。励まし。安心。ときめき。将来への期待。家族との関係。連絡頻度。嫉妬。責任。時には、生活そのもの。

けれど、人がその全部を同じ強さで求めているとは限りません。

いま欲しいのは会話かもしれない。誰かと街を歩くことかもしれない。恋人のような空気を少しだけ味わうことかもしれない。でも、毎日の連絡や将来の約束までは必要としていない。

それは「中途半端」なのではなく、必要としているものの輪郭が少し具体的になっている、と考えることもできます。

そして、束ねられているという事実自体は、悪いことではありません。多くの人にとって、それらが一人の相手に集まっていることは大きな安心です。ただ、集まっていないと欠けていることになる、という前提だけが、正確ではありません。

ひとつずつ、分けて考えてみる

試しに、束をほどいてみます。

話を聞いてもらうこと。 これは恋人でなくても成立します。ただし、聞く側に時間と注意がある場合に限ります。忙しい友人に長い話をするのは、多くの人にとって申し訳なさが先に立ちます。

一緒にどこかへ行くこと。 友人とも行けます。ただ、二人で夜に、少し特別な場所へ、という形は、日本では友人関係の中でつくりにくい。

魅力的だと感じられること。 これは相手が誰でもいいわけではありません。関心を向けられているという実感が要ります。

触れられること。 恋愛関係の外側では、大人が穏やかに触れられる機会はほとんど残っていません。日本ではとくにそうで、挨拶にも友人関係にも、その習慣は残っていません。

覚えていてもらうこと。 前に話したことを相手が覚えている。これは一回きりの出会いでは得にくいものです。継続のある関係でなくても、同じ相手に何度か会う形であれば、少しずつ積み上がります。

将来を一緒に組み立てること。 これは交際でなければ成立しません。住む場所、お金、家族、老いていく時間。これらを共有する相手は、代わりが利きません。

並べてみると、六つのうち五つは、交際という形を必ずしも必要としていません。最後の一つだけが、本当にそれを要求します。

だから「恋人はいらないが、これは欲しい」という言い方は、矛盾ではなく、かなり正確な自己申告です。

ひとつで運べる願いと、時間に溶接されている願い

束をほどくことは記述するのが易しく、行うのが難しい。そしてその理由は、失望によって見出すのではなく率直に述べる価値があります。

束は一覧ではありません。一覧の項目は、定義からして別々に取れます。束は融けて到来し、そしてどの部分が互いに溶接されているかは、一つを外そうとしたときに初めて分かります。だからこの地図の誠実な版は、どの願いが実際にひとつで運べて、どれがそうでないかを言わなければなりません。

いくつかは完全にひとつで運べます。そしてそれがこの議論の実際の内容です。注意をもって見られること。問いを向けられ、その答えが聞かれること。交渉にならずに触れられること。段取りについてではない一晩を持つこと。誰の面倒も見ていない場所にいること。そのどれも、共有の住所も、共有の未来も、誰の許可も要さず、そしてそのすべてが意図して整えられます。

いくつかは切り離せません。そしてそうでないふりをする地図は、何かを売っています。十五年のあいだ自分が変わるのを見ていた誰かによって知られていることは、務めではありません。それは持続を要し、そして持続は買えず、日程に入れられず、濃くもできません。十年後に自分が病むときにそこにいる誰かについても、別の人と子を育てることについても、実際に人を守る法と金の相互依存についても、そして誰かの既定であること——毎回選ばれるのではなく、最初に告げられる人であること——についても同じです。

それらは時間と約束に溶接されており、そして誠実なことは、十分に良い一晩が積み上がればそれらになると含ませるのではなく、この道では手に入らないと名づけることです。

それは地図をより有用にします。より無用にはしません。五つの願いのうち三つが今月満たされうると知り、二つがいま自分の持っていない何かを要すると知っている女性は、五つすべてに相手が必要だと告げられた人よりも、一つにも必要でないと告げられた人よりも、はるかに良い位置にいます。

two smooth river stones set down beside each other on a worn wooden table, close but not touchingtwo smooth river stones set down beside each other on a worn wooden table, close but not touching
近くにいることと、結ばれていることは、別のこと。

先に言葉にできることが、安心をつくる

通常の恋愛では、関係が始まる前にすべてを説明することはほとんどありません。

どのくらい会いたいのか。何を期待しているのか。どこまで近づきたいのか。何をされたくないのか。関係を続けたいのか。まだ分からないのか。

多くは、相手の反応を見ながら少しずつ探っていきます。その曖昧さは恋愛の魅力でもありますが、疲れることもあります。

一方、時間や目的、境界線を先に確認できる関係には、別の安心があります。

「今日は話したい」「一緒に食事をしたい」「少し恋人のような時間を過ごしたい」「ここから先は望んでいない」。

こうしたことを最初から言葉にできるなら、親密さは必ずしも曖昧さの上に成り立たなくてもいいのかもしれません。

もっとも、言葉にすること自体に慣れが要ります。何年も「相手の様子を見て決める」やり方で過ごしてきた人にとって、希望を先に述べるのは、わがままを言っているような感覚を伴います。その違和感は、実際にわがままだからではなく、単に経験がないところから来ています。

そしてこの安心は、望みを言えることより、望まないことを言えることから来ています。日常の関係では、後者のほうがずっと言いにくい。断ることには、必ず関係への影響がついてくるからです。

終わりが決まっているから、丁寧になれる

終わりが決まっている時間は、どこか寂しく見えることがあります。

けれど、終わりがあるからこそ、その時間の中で何を大切にするかが明確になることもあります。

次の約束を暗黙に要求しない。連絡を返さないことで相手を不安にさせない。将来の期待を持たせるために好意を演出しない。

限られた時間の中で、目の前の人をきちんと見る。

それは、長く続く関係とは別の種類の誠実さです。

もうひとつ、見落とされやすい効果があります。将来がないと分かっているとき、人は自分をよく見せる必要が減ります。相手に選ばれ続けるための演技をしなくていい。その分だけ、その場にいる自分に近いものが出てくることがあります。

同じことが、別れ方にも及びます。続きがある関係では、その日の終わりに次を確認する作業が入ります。いつ会えるか、連絡はどうするか。終わりが決まっている時間には、その作業がありません。だから最後の十分間が、交渉ではなく、まだ時間のままでいられます。

日本で「食事だけ」を頼みにくい理由

この願いは特別ではありません。ただ、日本ではかなえる手段が少ない、という事情があります。

マッチングアプリの多くは、目的を先に選ばせます。真剣な交際か、そうでないか。その中間にある「一度だけきちんと過ごしたい」は、どちらの箱にも入りません。中間を選べないので、多くの人は真剣な交際の側に自分を寄せて登録し、そのあとで疲れます。

婚活という枠組みも同じ方向に働きます。目的が結婚に固定されているぶん、そこに至らない願いは語りにくくなります。

職場や地域も関係します。私生活の話が、思っているより早く伝わる環境では、試してみること自体に費用がかかります。都心から離れた住宅地ではなおさらです。さいたま市やその周辺のように、通勤圏でありながら生活圏が小さい場所では、匿名でいられる範囲が限られます。

そして、大人の男女が恋愛を前提にせず気軽に過ごす社会的な層が、日本には厚くありません。学生時代を過ぎると、その種の場は急速に減ります。職場は残りますが、そこには別の力関係が働きます。同僚と二人で夜に食事をすることの意味は、本人たちが決められるものではありません。

現実的な費用も無視できません。誰かと出かけるには、時間、移動、服装、そして翌日の体力が要ります。仕事と家のことで一日が埋まっている人にとって、成果の見えない出会いを何度も重ねることは、感情より先に、単純に難しい。だから「一度で、きちんと」という形が求められます。これは贅沢ではなく、資源配分の話です。

だから「彼氏はいらないがデートはしたい」という願いは、気持ちの問題というより、供給の問題であることが多いのです。

海外から来た人にとって、この地図は読みにくい

日本で暮らす外国出身の女性にとっては、さらに一段ややこしくなります。

出身地によっては、dating という言葉が交際の約束をまったく含みません。複数の人と会っている段階を指すこともあります。その語彙のまま日本の状況に入ると、こちらの「デート」に含まれている前提が見えません。

逆に、日本の側の慎重さも伝わりにくい。誰に知られてよくて、誰に知られてはいけないか。その感覚は、住んでいる人にとって説明する対象ですらないので、言葉になりません。

そして、外国出身であること自体が関心の理由にされる経験があります。関心を向けられているようで、実際には一つの属性だけを見られている。その区別は、会う前に確かめにくいものです。

だから求められているのは、日本の作法を理解していて、なおかつ国際的にも通じる形の時間であることが多くなります。

長く続くつながりを、軽く見ているわけではない

もちろん、恋人との関係だからこそ生まれる深さがあります。

長い時間を共有し、変化を見届け、うまくいかない時期も一緒に越えていく。そうした親密さは、短い出会いでは代替できません。

だから、軽さと深さを競わせる必要はありません。

問題は「どちらが本物か」ではなく、今の自分がどの種類のつながりを必要としているかです。

恋人がほしい日もある。ひとりでいたい日もある。誰かと出かけたいけれど、その人と人生を組み立てたいわけではない日もある。

そして、この言葉の意味は年齢によっても変わります。二十代の「彼氏はいらない」は、多くの場合、今はその優先度ではない、という意味です。四十代の同じ言葉は、もう少し込み入っています。誰かを自分の生活に入れることの実務量を知っている。前の関係で失ったものを覚えている。そのうえで、それでも誰かと過ごしたい夜がある。若い頃より欲しいものは減っていて、その減った分だけ、輪郭がはっきりしている。

同じ文なのに、後ろにある計算がまったく違います。だから、この言葉を聞いた側が「本当は寂しいのでしょう」と一括りにするのは、たいてい的を外しています。

大人になるほど、その違いを認めてもいいのではないでしょうか。

a single length of dark silk thread laid straight across pale linen, cut clean and square at one enda single length of dark silk thread laid straight across pale linen, cut clean and square at one end
はじめから見えている終わりは、欠けているものではない。

この整理が、心地よすぎるとき

ここまでの説明には、都合のよさがあります。

第一に、境界のある時間は、知られることの危険を取り除きます。恋愛のしんどさの一部は、相手に本当に知られて、それでも選ばれるかどうかが分からないところにあります。その試験を受けずに親密さの感触だけを得られるなら、それは楽です。楽であることと、必要であることは違います。

第二に、「忙しいから」「疲れているから」という説明は、本当のことであると同時に、身を守る物語でもあります。実際に忙しい。同時に、忙しくなくなっても同じ選択をするかもしれない。その可能性は、自分では確かめにくいものです。

第三に、対価のある場では、相手はこちらに好意的である仕事をしています。だから、その夜がうまくいったことは、自分が誰かに好かれうるかどうかの答えにはなりません。人によっては、まさにその答えのほうが必要なことがあります。

四つ目に、この整理は「一人でいることを選んだ」という物語を、実際より滑らかにします。選んだのか、うまくいかなかった結果そうなったのか。その二つは本人の中でも混ざります。混ざったまま進むこと自体は問題ではありませんが、整理された説明が、確かめる機会を先に閉じてしまうことはあります。

そして、この記事はMoonlightが書いています。「交際でない親密さには価値がある」という結論は、私たちの事業と一致します。読む側は、そのことを踏まえて読むべきです。

この地図は両方向に切る。そしてそれが試しになる

この枠づけについてもう一つ言うべきことがあり、そしてそれがそれを誠実に保つ部分です。

体験を関係から切り離すことが議論として成り立つのは、二つが互いに独立しているからにほかなりません。関係は構えです。共有された生活、義務、そしてほかの人々が受け入れる記述から成るもの。そしてこの文章が実際に扱っているのは、そのなかで起こるかもしれないし起こらないかもしれない状態です。

けれど独立は両方向に切ります。そして第二の方向が、このような文章から抜け落ちるほうです。注意が関係なしに存在しうるなら、関係が注意なしに存在しうる。そして実際にそうです。頻繁に、安定して、何年も。何も悪くなく、誰も見られていない家のなかで。それはこの文章が記述する事例より稀ではありません。おそらくより一般のほうです。

そう言うことが重要なのは、それが含みとしての慰めを取り除くからです。これは劣った位置からより良い位置への地図ではありません。それは、人々が一つのものとして扱うよう教えられてきた二つの変数の記述であり、そしてそれらを分ける理由は心地よさではなく正確さです。

そしてそれが、この文章がさもなければ欠いている試しを与えます。束をほどくことは、自分が何を必要としているかの正確な読みでありうるし、自分が手に入れられると思うものへの譲歩でもありうる。そしてその二つは内側からは同一に感じられます。だから反対の事実を問うこと。もしその全体が明日、自分が実際に受け入れる条件で手に入るとしたら、それでもほどかれたままを望むか。

「はい」なら、ほどくことは選好であり、そしてそれはきわめて多くの人が抱く正当なものです。「いいえ」なら、あなたが行ったのは閉じた扉と理にかなった和解をすることであり、それは立派なことであり、そして自分がそれを行ったと知る価値があります。その二つは続く五年のあいだに異なる決定へ導くからです。

数字で言えないこと

この話題については、断定できることが多くありません。

未婚者の交際意向や結婚意向については、国立社会保障・人口問題研究所の全国調査が最も信頼できる情報源です。ただし本稿は、最新回の結果を精査したうえで書かれていません。したがって、割合や増減の数字は一切示していません。示さないことのほうが、古い数字を引くより正確です。

また、こうしたサービスの利用実態を示す公的な統計は存在しません。事業者が公表する数字には目的があります。

本稿で述べた心理的な整理——束をほどくという読み方——は解釈です。測定された事実ではありません。

それから、ここで書いたことは日本全体の話ではありません。地域、年齢、収入、家族の形によって、事情はまったく異なります。典型的な圧力をいくつか挙げただけであって、誰かの生活の説明ではありません。

何が必要かを、もう少し具体的に

「彼氏はいらない。でも、デートはしたい」と感じたとき、すぐに関係の名前を決める必要はありません。

まず考えてみたいのは、どんな時間なら心が少し軽くなるかということです。

会話。食事。外出。寄り添い。ときめき。触れ合い。非日常。安心。誰にも説明しなくていい時間。

もし手がかりが欲しければ、こんな問いがあります。

その夜の終わりに、どんな気持ちで家に帰っていたいか。

「彼氏はいらない」と思うとき、いらないのは相手なのか、それとも相手に対して負う責任のほうなのか。

答えが出なくてもかまいません。

MoonlightのGuided Discoveryは、サービス名から選ぶのではなく、「今、何が必要か」から考えるための入口です。

ほかの章から読む

『Mating in Captivity』が問いかける、愛しているのに欲望が薄れるのはなぜか安心と刺激、親密さと距離。そして解く価値のある緊張。親密さが正確に知られることであり、情欲が完全に地図化されていない相手を望むなら、二つのうちどちらかが折れなければならない。だがどちらも折れない。欲望を平らにするのは知ではなく終結であり、いまの像ではなく閉じられた書類だからである。さらに、その処方が避けている問い。その家で、それが勧める距離を実際に払えるのは誰なのか。愛について意見が合わないとき、それでも共有しているもの。既婚の女性、ひとりで生きる女性、同性のカップル、ポリアモリーの家、離婚した母、独身を誓った修道女、トランスジェンダーの人、気軽に人と会っている人、そして恋愛をまったく望まない人。まるで別々の道徳の宇宙に住んでいるように見える。だが多くの場合、同じ小さな問題の集合を、違う道具で解いている。『The Souvenir』と、彼女に向けてはならない問いジョアンナ・ホッグのこの映画は、ふつう、目の前にあるものが見えなかった聡明な若い女性の肖像として語られる。実際にはもっと厄介で、もっと使えるものである。小さな譲歩の積み重ねから一つの生活が組み上がっていく記録であり、その譲歩は一つずつ見れば、どれも筋が通っている。そして、ここで断れば明らかに正しかった、と言える一点はどこにもない。この映画は彼女に気づきの場面を与えない。その拒否が、議論のすべてである。