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Moonlight Journal

「セカンドパートナー」という言葉が映しているもの。結婚の外に親密さを求めることを、どう考えるか

友達以上、恋人未満。プラトニックな婚外関係。定義さえ揺れている言葉が広がる背景には、単なる流行ではなく「結婚にすべてを求めること」への問いがあるのかもしれない。

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「セカンドパートナー」という言葉を聞いて、同じ関係を思い浮かべる人はまだ多くないでしょう。

既婚者が配偶者以外に持つ、恋愛感情を伴うプラトニックな関係。

友達以上、恋人未満。

身体の関係を持たない婚外パートナー。

媒体やサービスによって定義には幅があります。

だからこそ、この言葉そのものより、なぜ新しい名前が必要とされているのかを見るほうが興味深いと思います。

新しい名前は、たいてい、新しい行動のために作られるのではありません。すでに起きていることに、まだ呼び名がないときに作られます。

そして名前がつくと、それは急に「一つの選択肢」のように見え始めます。

その見え方こそが、この記事で考えたいことです。

結婚に、すべてを求めるという前提

現代の結婚には、とても多くの役割が集まっています。

生活共同体。 経済パートナー。 家族。 親友。 子育ての共同責任者。 恋人。 性的パートナー。 精神的な理解者。

ひとりの配偶者がこれらをすべて満たすことが理想だとされることもあります。

でも、人間関係を長く続ければ、得意な部分と不得意な部分が出てきます。

生活はうまくいっている。 家族としては大切。 でも、会話のある部分だけが寂しい。

あるいは、異性として見られる感覚がなくなった。

その不足をどう扱うかは、夫婦によってまったく違います。

そして、多くの場合、その不足は結婚の失敗ではありません。八つの役割のうち六つがうまくいっている関係を、私たちは「うまくいっていない」と呼ぶべきなのか。

呼び方が決まっていないから、静かに困ることになります。

一人にすべてを求める結婚は、そう古いものではない

ここで一度、前提のほうを疑ってみます。

配偶者が同時に親友であり、恋人であり、精神的な理解者でもあるべきだという考えは、人類がずっと共有してきたものではありません。生活の単位として、家の存続として、経済の仕組みとして結婚が語られてきた時代のほうが、はるかに長い。

心の深い部分まで満たしてくれる相手であることが結婚の中心的な条件になったのは、比較的近い時代のことです。

これは歴史の細かい検証ではなく、大きな流れについての見立てです。ただ、見立てとしても意味があります。

なぜなら、期待が高くなったぶん、足りなさも感じやすくなっているからです。

昔の結婚が良かった、という話ではありません。多くの人にとって、選べることが増えたのは明らかに良いことでした。

ただ、一人の相手に求めるものの総量は、確実に増えました。

もう一つ、見落とされやすいことがあります。

これらの役割は、もともと一人が担っていたわけではありません。親族、近所、同僚、友人、地域。役割は、もっと広い輪に分散していました。

その輪が薄くなったぶんが、配偶者一人のところへ移っています。

負荷が増えたのは、結婚そのものが変わったからだけではありません。結婚の周りが減ったからでもあります。

その総量に無理があるとき、人は二つの方向に動きます。求めるものを減らすか、求める先を増やすか。

「セカンドパートナー」という言葉は、二つ目の方向に名前をつけたものです。

名前をつけると、関係が安全になるわけではない

「セカンドパートナー」と呼べば不倫ではない。

そう単純には言えません。

身体の関係がないとしても、配偶者との約束や価値観によっては、大きな裏切りと受け取られることがあります。

逆に、夫婦がどこまでを許容するかを話し合っている関係もあります。

重要なのはラベルではなく、その結婚の中でどんな約束が存在しているかです。

秘密にしているからプラトニックなら安全、ということでもありません。

秘密には、本人の自由を守る面と、相手から選択する権利を奪う面の両方があります。

名前は、許可のように見える

新しい言葉が持つ力は、説明する力だけではありません。

あらかじめ許されているように見せる力があります。

「不倫をしている」と「セカンドパートナーがいる」は、同じ状況を指すこともあれば、まったく違う状況を指すこともあります。けれど、口に出したときの重さは、はっきり違います。

前者は行為の名前です。後者は、身分の名前のように聞こえます。

そして身分には、いちいち交渉が要りません。

これが、新しいカテゴリーが持つ、いちばん静かな効果です。カテゴリーは、まだ誰も同意していないことを、すでに決着したことのように見せてしまう。

けれど、許可を出せるのは言葉ではありません。

自分の結婚の中で何が約束されているかを決められるのは、その約束をした二人だけです。辞書にも、記事にも、サービスにも、それを代わりに決める権限はありません。

言葉は、状況に名前をつけます。合意の代わりにはなりません。

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一人に、家じゅうの部屋をやれと言っている。

「身体がないなら軽い」とも限らない

身体的な関係がなければ、感情的には安全。

これも単純ではありません。

人は会話だけで深くつながることがあります。

自分を理解してくれる。 毎日考える。 まずその人に話したい。 その人の存在で生活が変わる。

感情的な親密さは、性交の有無だけでは測れません。

だから、「どこまでしたか」だけで関係の重さを決めることは難しい。

実際、多くの人が最も強く傷つくのは、身体のことそのものよりも、「自分に話されなくなったこと」のほうだと言います。

夜に何があったかより、日中の出来事を最初に誰に話したか。そちらのほうが、関係の中心がどこにあるかを正確に示していることがあります。

隠していることの重さは、何をしたかでは測れない

自分の関係をどう考えればいいか分からないとき、行為の内容を数えても、あまり答えは出ません。

代わりに使えるものが一つあります。

隠さなければならない量です。

会ったことを言えるか。頻度を言えるか。何を話しているかを言えるか。相手の名前を言えるか。読んだメッセージを見せられるか。

言えないものが増えていくとき、増えているのは行為ではありません。情報の非対称です。

そしてこれは、外から判定するのが難しい代わりに、自分では正確に分かります。誰かに聞く必要がありません。

隠す量が増えているという事実は、すでに、その関係について何かを教えています。

内容が「プラトニックかどうか」より、その事実のほうが先に立っています。

ただし、ここで一つ区別が必要です。

秘密と、私的な領域は違います。

誰にでも、話していないことがあります。それは関係の欠陥ではなく、人が人であるための余白です。自分の考えをすべて配偶者に報告する義務は、誰にもありません。

違いは、隠す相手が特定されているかどうかです。

誰にも言っていないことは、私的な領域です。ある一人にだけ言えないことは、その一人に関わる情報です。

この区別だけで、判断はかなり楽になります。

相手が知っていたら、選び方が変わるか

もう少し具体的に確かめたいときのために、一つの問いがあります。

相手がこれを知っていたら、相手の選択は変わるか。

変わらないなら、それは共有されていない情報にすぎません。

変わるなら、それは相手が自分の人生について判断するための材料です。そして、その材料を持っているのは自分だけです。

この問いには、良いところが二つあります。

一つは、道徳の言葉を使わないことです。裏切りかどうかを判定しません。ただ、相手の選択肢が減っているかどうかを見ます。

もう一つは、自分の側だけで実行できることです。相手が何を考えているかを知らなくても、この問いには答えられます。

答えが出たあと、どうするかは、この記事が決めることではありません。ただ、答えを見ないままでいることは、選んでいるようで、選んでいません。

足りないものを外で満たすと、結婚はどうなるか

もう一つ、あまり語られない側面があります。

不足が外で満たされると、その不足は、しばらく痛まなくなります。

痛まなくなることは、良いことのように見えます。実際、家庭が穏やかになったという話は珍しくありません。

ただ、痛みには機能があります。何かを変えるべきだという合図です。

合図が消えると、変える話も消えます。

十年後に残るのは、静かで、丁寧で、けれど何も話し合われなかった結婚かもしれません。

これは「だから外に求めてはいけない」という結論ではありません。そう言えるほど、他人の生活は単純ではない。

ただ、外で満たすという選択には、こういう副作用がありうる、ということです。副作用を知って選ぶことと、知らずに選ぶことは違います。

話し合えば解決する、とは限らない

ここで、正直に書いておかなければならないことがあります。

「配偶者と話し合いましょう」は、いつでも使える助言ではありません。

話し合いが成立しない関係があります。話したことが後で使われる関係があります。伝えることが安全ではない関係もあります。

そういう場合、問題はもう「関係の設計」の話ではなくなっています。安全の話です。

そして安全の話は、この記事が扱える範囲を超えています。

だから、ここでは一つのことだけを書いておきます。

話し合えないという事実は、その結婚について、すでにかなり重要なことを示しています。それを「自分の伝え方が下手だから」と自分の側の欠点として片づけないでください。

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隠されたことのほうが、したことより重い。

この言葉は、本当に広がっているのか

セカンドパートナーについては、既婚者向けサービス事業者による大規模なインターネット調査も公表されています。

2024年のある調査は全国の20〜59歳の既婚者約1万4千人を対象に、この言葉の認知や考え方を調べています。

ただし、ここには注意が必要です。

調査主体は既婚者向けマッチングサービスの運営企業です。

したがって、社会全体の「新常識」を証明する中立的な統計としてではなく、この言葉について市場と利用者の関心が生まれている方向的な信号として読むのが妥当です。

流行という言葉だけで大きく見せる必要はありません。

一万四千人という数字は、たしかに大きい。けれど、大きな数字が答えているのは「何人に聞いたか」であって、「その言葉が社会でどう機能しているか」ではありません。

言葉を知っているかと、その言葉を自分に使うかは、別の質問です。

言葉が、市場から来るとき

ここには、もう少し立ち止まる価値があります。

ある関係の名前が、その関係へのアクセスを売る企業から広まるとき、その名前は中立ではありません。

企業には、その関係を、ありふれていて、扱いやすく、すでに社会に受け入れられているものとして描く理由があります。それは陰謀ではなく、単に、そう描いたほうが商売になるからです。

だから、こういう言葉を読むときには、二つを分けて考える必要があります。

その言葉が指している現象。それは、おそらく実在します。人が結婚の外に理解を求めることは、名前がつく前から起きていました。

その言葉が運んでいる感触。ありふれている、深刻ではない、みんなやっている——これは、現象そのものではなく、言葉のほうについてきたものです。

現象は事実であり、感触は商品です。

Moonlightが関心を持つのは、「婚外関係」そのものではない

Moonlightがこのテーマに関心を持つ理由は、不倫を肯定するためではありません。

もっと広い問いがあります。

人は、一つの関係にすべてを求めなければいけないのか。

会話、友情、恋愛感情、身体的な親密さ、共同生活は、必ず同じ相手と一つのパッケージでなければならないのか。

そして、もし分けるなら、どんな合意と責任が必要なのか。

この問いは、セカンドパートナーを選ぶ人だけのものではありません。

友人関係、夫婦、恋愛、コンパニオンシップ、すべての関係に関わります。

独身の人にも関係があります。一人の相手にすべてを求める前提は、結婚の中だけで働いているわけではないからです。

この文章を書いている側の立場

前の節の続きとして、書いておくべきことがあります。

Moonlightは、時間と注意に対して支払いを受け取る仕事です。この記事の読者には、既婚の方もいます。

だから、はっきりさせておきます。

Moonlightは、誰かのセカンドパートナーにはなりません。ここで起きるのは、時間が決まっていて、合意があり、支払いのある時間です。継続する関係ではなく、日常を共有する相手でもありません。結婚に足りないものを埋める装置としては、設計されていません。

そして、ある予約がその人自身の約束と両立するかどうかは、その人が決めることです。Moonlightはその約束の当事者ではありません。当事者ではないからこそ、「大丈夫です」と言う資格もありません。

言えるのは、この記事の中でいちばん重要なことと同じです。

外から来た名前は、許可ではない。サービスの名前も、同じです。

欲しいものだけでなく、守りたいものも考える

「誰かに理解されたい」という欲望は自然です。

でも、欲望には影響があります。

自分の自由。 配偶者の知る権利や選択。 家庭。 子ども。 第三者の感情。

何が正解かを一つに決めることはできません。

だからこそ、MoonlightのJournalでは「なぜ惹かれるのか」と「何を傷つける可能性があるのか」を同時に考えたいと思います。

理解することと、無条件に肯定することは同じではありません。

そして、責める必要もありません。結婚の外に理解を求めたくなる気持ちには、たいてい、ちゃんとした理由があります。理由があることと、その先の選択に責任が伴うことは、両立します。

考えないままでいることだけが、どちらにもならない選択です。

ほかの章から読む

『Mating in Captivity』が問いかける、愛しているのに欲望が薄れるのはなぜか安心と刺激、親密さと距離。そして解く価値のある緊張。親密さが正確に知られることであり、情欲が完全に地図化されていない相手を望むなら、二つのうちどちらかが折れなければならない。だがどちらも折れない。欲望を平らにするのは知ではなく終結であり、いまの像ではなく閉じられた書類だからである。さらに、その処方が避けている問い。その家で、それが勧める距離を実際に払えるのは誰なのか。『よこがお』と、関わりだけで解体される人生訪問看護師の女は、何ひとつ問われていない。疑われてもいない。それでも生活は解体される。子どもを連れ去った男が、彼女の甥だったからである。深田晃司は、彼女の以前と以後をどちらとも告げずに切り返す。観客は断片から一人の人間を組み立てることになる — 映画の中の全員が彼女に対して行っているのと同じ作業を。評判とは手元にある所有物ではなく、他人が出し続けている許可にすぎない。その意味を読む。慎重さを売り、したがってこの恐れから利を得ている家による読解である。法があるべき場所にある空白について。日本は代理懐胎を禁じてはいない。それについての法律をまったく持っていない。この領域を規律しているのは、職能団体の見解と、立法を国会に求めて得られないままの最高裁の判断である。そして日本で婚外に生まれる子どもは約二パーセントであり、ヨーロッパの多くでは四割から六割である。つまり、夫を持たずに子を望む女性は、制限に出会っているのではない。制度の外にいる。

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