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Books · Moonlight Library

『地球星人』——「工場」という言葉を、比喩ではなく説明として読むこと

十一歳の子どもが、自分の住む町を見て、これは人間をつくる工場だ、と言う。村田沙耶香が二〇一八年に発表したこの長編は、その言葉を印象的な比喩としてではなく、事実の説明として扱い、読者が安心していられる地点をはるかに越えて、その説明の帰結を追いかける。最終盤が怯えでも悪ふざけでもない理由について。そして、そこまで付いていけなかった読者が、本を読み違えたわけではない理由について。

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この小説には、読み過ごそうと思えばいくらでも読み過ごせる一語がある。十一歳の子どもが、自分の住む町を見て、これは工場だ、と言う。工場のある町、ではない。工場そのものである。一つの機械があり、その製品は人間である。人間はそこで製造され、規格どおりに育てられ、しかるべき年齢で出荷され、二人ずつに組み合わされ、次の一群を生産する作業に配置される。彼女は自分をその記述の外に置かない。自分は部品であり、部品が何のためにあるかを知っている。

これを、子どもの誇張として片づけるのはたやすい。あるいは、語り手が不幸であることを読者に知らせるために小説が用意する種類の印象的な比喩として、受け取ることもできる。しかしこの本は、その言葉をそこに留めておかせない。「工場」は装飾ではないし、しばらく感心してから置いてよい比喩でもない。それは、世界が実際にどうなっているかについての説明として差し出され、そのあとに起こることのすべてが、その説明が正しいという前提のもとで進行していく。

この文章の主張はそこにある。村田沙耶香の『地球星人』は、自分自身の中心にある説明を、比喩としてではなく文字どおりに受け取ったとき何が帰結するのか、という一点を書いた小説である。多くの読者が最も許しがたいと感じた暴力は、良質だった小説が終盤で判断を誤ったことの結果ではない。それは前提に対して請求された代金であり、その請求を一円も値引きしなかったことが、この小説の最も真剣な部分である。

議論に入る前に、二つだけ先に述べておく。末尾の注釈ではなく、ここで述べる。第一に、この小説は子どもに対する性的虐待を描いている。この文章はそれを虐待と呼び、小説の内容として記述し、何かの例証として使うことを拒否する。第二に、この議論は結末のおおよその形に触れずには成り立たない。作品からの引用は一切せず、場面を細かく再現することもしないが、最終盤を何も知らずに迎えたい読者は、ここで読むのをやめ、読了後に戻ってきてほしい。

書誌と、受賞と落選を分けて数えること

村田沙耶香は一九七九年、千葉県の生まれである。『地球星人』は文芸誌『新潮』二〇一八年五月号に発表され、同年八月三十一日に新潮社から二四八ページの単行本として刊行された。新潮文庫版は二〇二一年三月二十七日に出ている。英訳は Ginny Tapley Takemori の訳により Earthlings として、英国のグランタ、米国のグローヴ・プレスから二〇二〇年秋に刊行された。グローヴ版の刊行日は十月六日である。竹森は二〇一八年に『コンビニ人間』の英訳も手がけており、つまり英語圏の読者は、この二冊を同じ訳者の声で受け取っている。これは聞こえるより重い事実である。

受賞歴は、正確に述べておく価値がある。しばしば大づかみに語られるからである。村田はデビュー作で二〇〇三年の第四十六回群像新人文学賞優秀作を得た。二〇〇九年に第三十一回野間文芸新人賞を受賞した。二〇一三年に第二十六回三島由紀夫賞を受賞したが、それ以前に二〇〇九年、二〇一〇年、二〇一二年と三度この賞の候補になり、受賞していない。二〇一六年、『コンビニ人間』で第百五十五回芥川龍之介賞を受賞した。二〇二五年には第七十八回野間文芸賞を受賞している。

そして『地球星人』は、何も受賞していない。文学賞のデータベースは、二〇一八年の第三十五回織田作之助賞の候補作としてこの作品を記録している。候補は受賞ではない。この作品に日本の文学賞が与えられた記録を、当館は見つけていない。国外では、審査ではなく一覧の側で評価された。TIME誌は二〇二〇年の必読書百冊にこの作品を挙げ、新潮社の広報はBBCによる同年の年間ベストへの選出を伝えている。一覧は賞ではなく、出版社のプレスリリースは宣伝の文書である。どちらも、そういうものとしてここに記す。

この落差自体が、一つの情報である。村田を国際的に読める作家にしたのは、この前の一冊だった。彼女の立場を最も完全な形で述べているのはこの一冊であり、それまで彼女を評価してきた制度は、この一冊を評価しなかった。

置いてよい比喩と、置けない説明

比喩と説明の違いは、それぞれが読者に何を要求するか、という違いである。

比喩は、類似に気づくことを求める。社会は機械のようなものだ——ある面ではそのとおりで、ある面ではそうではない。そしてこの観察の快さは、まさにその半分だけ当たっているという点にある。そうではない半分を、読者は手元に取っておける。気づいてしまえば、あとはその像をしまい込み、たったいま機械にたとえたばかりのその中で、これまでどおり暮らしてよい。小説における社会批評のほとんどはこのように機能しており、だからこそそれは居心地がよい。読者は、鋭い指摘を受け取る満足と、指摘はあくまで指摘にすぎないという安心とを、同時に手にする。

説明は、そうは働かない。もしその町が本当に人間を製造する工場であるなら、そこから一群の帰結が出てきて、そのどれも選択の余地がない。身体は設備である。愛着は予定された投入物である。家族の情は品質管理である。結婚は工程の一つであり、たまたま多くの人がするだけの私的な出来事ではない。そして、それに対して自分はどうするのか、という問いはもはや趣味の問題ではなくなる。人は工場と美学的に意見を異にすることはできないからだ。そこで働いているか、働いていないか、そのどちらかである。

『地球星人』は後者の道を選ぶ。奈月は「工場」という言葉を気の利いた皮肉として持ち出し、そのあと平凡な生活に戻る、ということをしない。彼女はそれを自分の状況の作業モデルとして使い、それに従って行動する。そして小説は、彼女を訂正しないし、もっと分かっている正気の語り手を用意して読者を助けもしない。物語の少し外側に立って、世界はそんなに単純ではないのだと述べる人物は、この本には一人もいない。説明は保たれ、筋とは、その説明が実行されていく過程そのものである。

この小説についての多くの読解が柔らかくなるのは、ちょうどここである。「工場」は社会的圧力の強烈なイメージであり、村田は効果のために誇張しており、本当の主題は孤独であり、同調圧力であり、要求の多い社会における女性の立場である——そう言いたくなる誘惑は非常に強い。そのどれも間違ってはいない。そしてそのどれも足りない。なぜなら、そのいずれの言い方も、この本が取り外した非常口を、こっそり元の位置に戻してしまうからである。

当館はすでに村田を二度読んでいる。そのうえで、これは別の本である

当館にはすでに『コンビニ人間』について書かれた二篇がある。一篇は、この小説を「普通」を演じることについての研究として読み、店のマニュアル、恵子が服装と話し方を写し取る同僚たち、そして彼女のような人生に何の価値があるのかを告げにやってくる男を、順に扱っている。もう一篇は、この小説を恵子についてよりもむしろ彼女の周囲にいる人々についての本として読み、誰かを案じる気持ちが「治す」ことの要求という形をとってしまう経路を追っている。どちらもよい議論であり、この文章はそれを繰り返さない。

ただし、両者の違いは正確に述べておく必要がある。二冊はほとんど必ず一対として語られ、その対にする語り方が、たいていの場合この二冊を平らにしてしまうからである。

古倉恵子は、使える部品になりたいと思っている。ここが、彼女について最も目を引き、そして最も見落とされやすい事実である。店は彼女にマニュアルを与え、制服を与え、台詞を与え、身体の時間割を与え、自分が何のためにあるのかを正確に告げる体系の中の場所を与える。彼女はそれを抑圧ではなく、救いとして受け取る。彼女の困難は、機能を割り当てられたことにあるのではない。割り当てられた機能が、世間の求めるものと違うことにある。この世界は、彼女を労働者として受け入れる条件として、同時に妻であること、母であること、少なくともそのどちらかへ向かっている途中であることを求めてくる。彼女は、使える種類を間違えた者として罰せられる。だからあの小説は、結局のところ適合についての本であり、ほとんど勝利に近い調子で閉じることができる。彼女が適合できる場所は、現に存在するからである。

奈月は、部品になりたいと思っていない。彼女は自分の配属先を読み違えたのではない。配属というものが行われる仕組みそのものを、丸ごと辞退している。工場の側に、彼女を受け入れるための調整の余地は一つもない。彼女が異を唱えているのは、その中における自分の位置ではなく、それが存在していることそのものだからである。そしてそのような拒絶をする人物を主人公にした小説は、もう一方の小説のようには終われない。彼女を置くための棚がないのである。先の本は、この仕組みの内側に生きられる場所を見つけられるかを問う。この本は、その外側へ出るとは実際には何をすることなのかを問い、そしてその答えが扱いやすいものであるふりを、しない。

二冊のあいだの距離はそれがすべてであり、前作を愛した読者が本作に裏切られたと感じることが多い理由も、そこにある。彼らが出会ったのは、制御を失った作家ではない。同じ作家が、同じ観察を、別の深さまで追ったものである。

この本の中で子どもに何が行われるのか、はっきり書く

奈月は序盤で十一歳である。塾の教師が彼女に性的虐待を加える。それがそれであり、この一文に手を入れる必要はない。子どもに対して権限を持つ大人が、その権限を使って子どもを傷つけた。この小説についての英語と日本語の書評はこの部分に触れており、村田自身も日本語のインタビューで、これは書きはじめると葛藤があり苦しい主題だったこと、以前の作品では軽く触れるにとどめていたこの主題に、今回は正面から向き合ったことを語っている。

この文章は、以降について三つのことを自分に禁じる。

美的に扱わない。文芸の書き手には、描かれた被害を質感として扱う習慣がある。作品の中心にある闇、目を逸らさない視線、その文章の勇気。そうした語彙は、傷害を効果へと変換する。そして効果になってしまえば、それは称賛できるようになる。当館はそれを称賛しない。

証拠として使わない。ここまでの議論を踏まえれば、誘惑は明らかである。ここに、工場が自らの課題に失敗している場面がある。子どもを処理するために作られた制度が、その内部で子どもが傷つけられていることを登録できずにいる。この観察は手に取れるところにあり、この本が示しているものの記述としては正確ですらある。それでもなお、それは子どもへの虐待を社会についての議論の展示品にしてよいという許可ではない。この文章はその取引を辞退する。

誰も診断しない。そのあと奈月は、自分がこの星の生き物ではないという物語、ぬいぐるみのハリネズミが別の星からの使者であるという物語、周囲の人間には見えない仕事が自分にはあるという物語に、いっそう強くつかまる。読者も批評家も、これに臨床の語彙を差し向けてきた。彼女の従兄弟についても同様である。この文章はそれをしない。この小説が示しているのは、傷つけられ、そして一つの物語を手放さなかった子どもである。その物語に診断名を与えることは、読者が必要とする何ものをも加えず、この本が意図的に分類しないままにしている人物から、何かを奪う。

言うに値することは、もっと単純である。この本の大人たちは、それに気づかない。誰一人として、彼女を見て、事態を開くはずの問いを口にしない。「工場」が他に何であるにせよ、それは最も肝心な地点に検査工程を持たない体系である。小説はそれを早い段階で、論評を加えずに確立する。

書類としての結婚

この小説の成人期の部分には、村田が書いたうちで最も冷たい冗談がある。そしてそれは、書類についての冗談である。

奈月は結婚する。相手の男は、この取り決めについての見方をほとんど正確に彼女と共有している。この結婚は、同じものを望む二人のあいだで結ばれる。望まれているのは、放っておかれることである。そこに恋愛はなく、恋愛があるふりもない。これは、正しい外観を提示することによって、二組の親族が尋ねるのをやめ、案じるのをやめ、手を伸ばすのをやめるようにするための合意である。二人は結婚しているように見える。したがって二人は、静かにしておいてもらえる。

ある読み方をすれば、これは非常に可笑しい。実際、書評家たちはそう読んだ。別の読み方をすれば、これはこの本の中で最も痛烈な指摘である。二人が発見したのは、工場が実のところ製品を必要としていない、ということである。工場が必要としているのは書類である。ある結婚に愛情や欲望や、そもそも何かが入っているかどうかを、誰も確かめていない。親族の集まりが求めているのは正しく記入された用紙であり、用紙さえ整えば圧力は下がる。人間を気にかけている体系であれば、結婚とアリバイの違いに気づいたはずである。この体系は気づかない。もともと人間を見ていないからである。

そしてここが、読者が安心していられる小説内の最後の場所でもある。この取り決めには見覚えがある。かなりの数の大人が、もっと小さな単位で、その一種を作っている。正月の食卓のために用意しておく無難な答え。誰かの結婚式に連れて行く相手。親のために保たれる曖昧さ。ここまでのこの本は、読者が安全な距離から楽しめる風刺である。提示されている妥協が、たいていの人に想像できる程度のものだからである。

そして、まさにそれゆえに、この小説はそこで止まらない。アリバイは出口ではない。二人は依然として工場の中におり、その内部で小さな欺瞞を運営しており、その欺瞞は、彼らが守ろうとしていたものを彼らから奪っていく。本の次の楽章が問うのは、本当に出ていくには何が要るのか、である。

最終盤が、感じのよい別の暮らしにはなりえない理由

この小説が自らに課している試験がある。そしてそれは厳格な試験である。

もし「工場」という説明が正確であるなら——この社会が労働者と子どもを生産するために存在し、人間をその生産の部品として扱っているのなら——そこから出ていくことは、魅力的に見えてはならない。田舎に移り住み、野菜を育て、蜜蜂を飼い、より穏やかで、より価値観のよい共同体を見つける。そういう姿になってはならない。そのどれもが、同じ体系の内部での異動だからである。別の部署、下の階、静かな勤務時間帯。もし出口が快いのなら、前提のほうが偽である。快い出口を許す機械は、そもそも奈月が言ったような種類の機械ではなかったことになる。

だからこの小説は、手元にある唯一の誠実なことをする。三人の登場人物を、そのまま外へ連れて行くのである。彼らは山あいの家へ行く。序盤の夏がそこで過ぎた、あの場所である。そして彼らは、あらゆる区分の外側で生きることを試みる。一つの規範の外、いくつかの規範の外、ではない。人が役割を交付される仕組みの全体の、外側である。何を食べてよいか。身体は何のためにあるのか。誰が親族に数えられるのか。どのような触れ方が存在するのか。そのいずれもが同じ体系の部品であることが判明し、そして一つずつ捨てられていく。

その結果として現れる最終盤には、殺害が含まれ、人の肉を食べることが含まれる。そしてそれは、この本の他の部分とまったく同じ、動じることのない事務的な調子で書かれている。書評家たちは一様に、ふつうなら小説が声を張り上げるはずの地点で、この作品の文章が平坦なままであることに注意を向けてきた。その平坦さは、手落ちではない。恐れおののく語り手がいたなら、この本が三百ページかけて取り外してきた道徳の枠組みを、その場で復旧させてしまっただろう。

この結末についてこの文章が何を主張しているのか、はっきりさせておく価値がある。その主張は、争われているものだからである。

これは、怯えではない。怯えとは、むしろ逆の動きである。土壇場で生きられる妥協へ退却すること。和解を用意すること。結局のところ工場とは交渉できるのだと示唆すること。そちらの本のほうがはるかに多くの読者に愛されただろうし、そして最後の二十ページで自分自身の前提を偽にしていただろう。

そして、悪ふざけでもない。悪ふざけとは、議論から切り離された効果のことである。過激化が記憶に残るという理由だけで行われる過激化のことである。『地球星人』の終わりに起こることは、この小説が冒頭で確立したものから導かれている。人間が部品であるなら、人間を統べる区分は製造上の慣行であり、その製造を本気で拒む者には、慣行のどれ一つとして保持する原理的な理由がない。読者が最も保持してほしいと願うものも含めて、である。最終盤とは、前提の代金が、全額、公然と、耐えやすくするための留保を一切残さずに支払われる場面である。

それが書かれてよいものであったかどうかは、別の問いであり、答えは明らかに肯定というわけではない。しかし異議は、正しい異議でなければならない。読者は、前提が誤っていたと論じてよい。小説家は読者に対して、この小説が拒んだ何かを負っているのだと論じてよい。しかし、この本は怯えたのだ、とは論じられない。怯えることこそ、この本が目に見えてしなかった唯一のことだからである。

そこで本を閉じる読者と、それが誤りでないこと

そう述べたうえで、この文章は、そこまで付いていけない読者に対して負っているものがある。その読者は、一文で処理してよい例外ではない。

読者の嫌悪を、洗練の不足として扱う文芸的な論法がある。神経質さとして、字義どおりにしか読めないこととして、描写と是認を区別できないこととして扱う論法である。これは安価な手であり、たいていの場合、動揺していない人間が、動揺している人間について用いる。ある本に付いていかないことは、その本を理解できないこととは違う。ここまでに述べた議論を把握し、結末が恣意ではなく必然であることを認め、そのうえで本を閉じることは、十分に可能である。何かが筋が通っていると納得することは、その中で一晩を過ごすことに同意することとは、別だからである。

また、嫌悪とはまったく関係のない形の異議もある。一つの主張を検証するために制約を残らず取り払う小説は、小説が得意とすることをやめてしまったのではないか、という異議である。小説が得意とするのは、自分についての主張を超え出てしまう人間に注意を向けることである。その見方に立てば、最終盤は衝撃的なのではなく、痩せている。命題を証明し、人物を失っている。これは文学上の判断であり、証拠の上で成立しうるものであり、この文章はそれを論駁しない。

したがって、ここでは二つの立場がともに誠実である。ある読者は読み終え、この結末は必要だったと考える。別の読者は本を置き、必要であることは十分な理由ではないと考える。当館は前者の立場をとるが、後者を劣った読み方だとは考えていない。不誠実なのは中間の立場である。この本を勧めながら、難しい部分は飛ばしてもよい、あるいはそこはこの小説の意味するところより小さい部分だ、と暗に伝える立場である。それは小さい部分ではない。それがこの小説である。

評価は実際に割れた。ただし均等にではない

「賛否が分かれた」という言い方が、書評家の反射ではなく事実として当てはまる稀な例がここにある。そして、その割れ方は記録として読み取れる。

一方には、広く、真剣な称賛があった。フィナンシャル・タイムズは、不条理な幻想と乾いた現実とが結びついた忘れがたい作品と評した。小説家リディア・ミレットはニューヨーク・タイムズ・ブックレビューで、調子の平坦さを意図的かつ有効な技法として扱った。ガーディアンの評者は、この本を『コンビニ人間』の邪悪な双子と呼んだ。困難さを認めつつ連続性を与える言い方である。アイリッシュ・タイムズは、この本が前作の抑制を欠いていることを指摘しながら、結末の生理的な強度を評価した。TIME誌はこの本を年間の百冊に含めた。

他方で、異議は実質的であり、しかも一点に集まった。『コンビニ人間』を好意的に扱っていた業界誌カーカス・レビューズは、本作を繊細さと深みを欠いたものと判断し、その衝撃的な場面は啓発的というより猥褻に近いと述べ、そして最も鋭い定式化として繰り返す価値のある判定で締めくくった。過剰であると同時に不足している、という判定である。シカゴ・レビュー・オブ・ブックスは、村田が他者性の含意ではなく他者性そのものに耽っており、絶えざる過激化が本来支えるはずの社会批評を掘り崩していると論じた。オブザーバー紙の評は、主人公以外の人物の造形が弱く、最終盤は扇情的で、うまく着地していないとした。

この割れ方は対称ではなく、対称であるかのように提示してはならない。英語圏の媒体を集める書評集約サイト Book Marks では、絶賛と好意的評価を合わせた数が、賛否混合の評を大きく上回っており、当館が参照した時点で明確な酷評は記録されていなかった。誠実な要約はこうである。この本はおおむね称賛された。そしてその批判者たちは、具体的で反復可能な議論を提出し、その議論に称賛者の側はおおむね応答しなかった。

日本側の様相はより静かで、外からは読み取りにくい。本は売れ、話題になり、一つの賞の候補になり、受賞はしなかった。村田はインタビューで、日本の読者が登場人物に思いのほか寄り添ってくれたことに驚いたと語り、『コンビニ人間』を愛した国外の読者にはこの作品が拒まれるのではないかと案じていたとも語っている。これは自作の受容についての著者の印象であって、測定ではない。そのようなものとして、ここに記す。

この家が売っているもの、そしてこの議論がそれに好都合であること

利害は、この文章が説得力を持ちはじめる前に申告する。あとから行われる申告は、申告ではないからである。

この家は私的な同伴を売っている。結婚の外側、家族の外側、そしてこの小説が「工場」と呼ぶ義務の連なりの外側に配置された、注意の時間を売っている。ということは、従来の家族が生産ラインであり、そこで配られる役割が自然の事実ではなく製造上の慣行にすぎないと論じる本は、その主張が信じられることによってこの家が利益を得る本である。この文章を読み終えて、標準的な取り決めをわずかにでも疑わしく思うようになった読者は、最も露骨な商業的意味において、私たちにとってより有望な見込み客である。それは事実であり、書き記そうと記すまいと事実であり続けたのであって、末尾でそれに気づいた読者が、ここまでの全部を割り引くのは正しい。

したがって申告は、安心ではなく制約を伴って行われる。この家は、いかなる読者もここで売られているものを必要としている、とは主張しない。いかなる結果も主張しない。誰かと過ごす一晩が、何かを和らげ、直し、正し、あるいは答える、とはここで一言も述べない。述べない理由は、それが裏づけられないからであり、そして反証不可能な約束こそ、この種の仕事をする者が、その相手を食い物にするときの手口だからである。

第二の制約があり、そしてこちらが重要である。ここで売られているもののうち、この小説が記述する取り決めの外側にあるものは、一つもない。それは有料で、日程が決まり、範囲の定まった取引であり、家族も家賃も義務も持つ人間たちによって、他のあらゆるものと同じ経済の中で行われている。奈月の「工場」という説明が正しいのなら、この家はその一部署であり、いくつかの部署よりは正直かもしれないが、やはり一部署である。ここから出された文章がそれ以外のことをほのめかすなら、それはこの小説が供給を拒んだ当のもの——快適な出口——を読者に売っていることになる。

第三に。ここまでのどこにも、読者が自分の結婚、自分の家族、自分の取り決めについて何かを結論すべきだ、という含みはない。この小説は架空の女性についての本であり、固有の意図を持つ作家によって書かれたものであり、その読解は指示ではない。それは一冊の本についての提案である。

この読解へのいちばん強い反論

四つの反論があり、それらを最も強い形で述べないなら、この文章は見かけよりも悪いものになる。

第一は、この小説を社会批評として読むことが、この小説を飼い慣らしてしまう、という反論である。これが最も重い。『地球星人』は、まさにこの文章が行っている操作に抵抗するように作られているように見える。平坦な調子、説明することの拒否、正気の語り手も道徳の枠組みも用意しないこと。そのすべてが、読者がこの本を一つの立場へ変換するのを妨げるように働いている。そこへこの文章がやってきて、結局それを立場へ変換する。ここに主張があり、ここに結末が必然である理由があり、ここにそれが社会について論じている内容がある、というふうに。読者がその段落を手にした時点で、本は安全なものになっている。恐怖は証拠になり、結末は結論になり、同化不能であるように設計されたものが、同化することに商業的利害を持つ媒体によって、礼儀正しく同化されている。この反論はおおむね当たっている。誠実な応答は、主張の水準を下げることだけである。ここで差し出されているのは、読者が断ってよい一つの読解であり、この本は読解なしで出会われたほうがよいと考える読者は、誤っていない。

第二は、「工場」は十一歳の子どもの造語であり、この本はそれを承認していないかもしれない、という反論である。この語は、怯え、孤立し、そしてその直後にひどく傷つけられる子どもの頭の中に現れる。それは、聡明で不幸な少年少女が作り出す、全体を一息に説明する種類の像そのものである。小説はそれを、独立した視点からは一度も裏づけない。どの大人の登場人物もそれを認めないし、奈月の外側に立って、彼女の世界の図式は正しい、と述べる語り手もいない。この本を、説得力のある、そして真ではない現実の説明を、それを必要とする理由のある人物が保持している様子を描いたものとして読むことは、十分に可能である。そして結末を、真なる説明が最後まで貫かれたときに起こることではなく、そのような説明が実行に移されたときに起こることとして読むことも、可能である。この文章の応答は部分的なものにとどまる。この小説はある種の裏づけを与えてはいる。周囲の大人たちが、そのモデルの予測どおりにふるまうからである。しかし物語の配置による裏づけは弱い証拠である。その両方を配置したのは作者だからである。「工場」は奈月のものであってこの本のものではない、と考える読者には、相当の根拠がある。

第三は、結末を思春期的な挑発として読んだ真剣な批評家が現にいるのであり、それは読解力の不足ではない、という反論である。カーカスはこれを繊細さと深みを欠き、啓発というより猥褻に近いと判断した。シカゴ・レビュー・オブ・ブックスは、過激化が批評を掘り崩していると論じた。オブザーバーは最終盤が着地していないとした。これらは衝撃への反応ではない。技術についての判断である。そしてそれが述べているのは、過激化とは小説家の手元にある最も容易な道具であり、それに繰り返し手を伸ばすことは、より難しい道具を使い果たした本の徴候だ、ということである。この文章はこれに対して、過激化は前提から導かれていると答えた。ただし、導かれていることは価値ではない、と付け加えておくべきである。前提は、書かないほうがよかった結論を導きうる。

第四は、すでに独立した節で全面的に認めたものであり、単純に正しい。親密さを売る家は、従来の家族を告発する本に利害を持っている。ここまでのすべては、その光の下で読まれるべきである。その利害を消し去る答えは存在しない。可能な埋め合わせは、それを読者に見える場所に置き続けることと、それを儲かるものにするたぐいの主張を拒むことだけである。

そして四つすべての下に、構造上の問題が一つある。結末は前提の代金である、という議論は、容易には反駁できない。読者が最終盤を過剰だと感じれば、この文章は、その過剰こそが要点だと言える。必然だと感じれば、この文章は裏づけられる。そのように作られた読解は、深く感じられ、何も確立しない。この文章のうち検証可能な部分は、書誌の記録、受賞の記録、受容の記録である。解釈の部分は、ある小説がなぜそのように終わるのかについての提案であり、他の説明よりもよくその結末を説明しているように見えるという理由で差し出されている。そして、反証しにくいことによって真になるわけではない。

この文章が主張していないこと

この文章は一篇の小説の読解である。いかなる種類の助言でもなく、いかなる状態も記述せず、いかなる結果も約束せず、誰も診断しない。読者も、この本の登場人物も、である。

『地球星人』は子どもへの性的虐待を描いている。それはこの文章の本文で述べられている。末尾に置かれた警告は警告ではないからである。この小説の描写は虚構であり、実在の人物を記述していない。ここではその素材を、像としても、雰囲気としても、例証としても扱っておらず、それに依拠する議論も行っていない。

この文章に含まれる小説の内容についての記述は、すべて出版社の内容紹介、英語と日本語で公刊された書評、および日本語の書評・インタビューのページから得たものであり、そのいずれも当館が直接参照し、当館の証拠台帳に記録している。当館は現物を検分していない。作品からの引用はいずれの言語でも行っておらず、登場人物名のローマ字表記が資料間で異なる箇所については、この文章はどちらかを選んでいない。

書誌と受賞の記録は、出版社の書籍ページと文学賞のデータベースから報告している。受賞と候補は全体を通じて区別してある。『地球星人』は日本の一つの賞の候補として記録されており、受賞の記録は見つかっていない。そしてデータベースにおける不在は、存在しないことの証明ではない。雑誌や放送局の一覧への掲載は、賞ではなく一覧への掲載であり、そのうちの一つは出版社自身のプレスリリース、すなわち宣伝の文書から報告している。

受容についての記述は、媒体名を挙げた書評と、英語圏の媒体を集める書評集約サイトから得ている。集約サイトは、ある一日に参照された自己選択的な標本である。それが支えるのは、ある一群の媒体がこの本をどう書いたかについての言明だけであり、それ以外の誰がどう読んだかについては何も支えない。

著者に帰される発言は、公刊されたインタビューから、当館が日本語の記事より要約したものである。自作の意図についての著者の説明は、著者についての証拠であって、本の意味を確定するものではない。

村田沙耶香、その訳者、およびその出版社のいずれも、この家と関係を持たず、この家を知らず、この家を推奨していない。本文で言及した『コンビニ人間』についての二篇は当館自身の仕事であり、権威としてではなく、先行する議論として参照している。

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