Books · Moonlight Library
『アウトライン』と、周囲によって描かれる自己
一人の作家が教えるためにアテネへ行き、十の章のあいだ、他人が話し、彼女は聴いている。通常の説明はこれを形式上の実験と呼ぶ。しかしこれは、ある問題への答えとして読むほうがよい。その二年前、彼女は一人称で書き、そのことで攻撃された。代わりに作られたのは、推し量ることしかできない語り手だった。残る問いは手放さないほうがよい問いである。何も明け渡さない注意は、実践なのか、それとも避難所なのか。そして外から、誰かにそれが見分けられるのか。
一人の女性がアテネ行きの飛行機に乗る。隣の席の男が話しはじめる。少年時代のこと、所有してきた船のこと、いくつもの結婚とそのそれぞれの終わり方を、彼は長く、そして何度も語ってきた者の確信をもって話す。彼女は時折、質問をする。彼の説明が辻褄の合っていないところに気づく。訂正はしない。飛行機が着陸するころ、読者はこの男についてかなりのことを知っており、その隣に座っていた女性については、夏期講座を教えるためにアテネへ向かっていること、そして聴くことが並外れて上手であること以外、ほとんど何も知らない。
これがあと九回くり返される。学校の同僚、近所の住人、教室にいる学生たち、夕食で会う友人、最後に部屋を引き継ぎに来る女性。十の章、十人の語り、そして小説が通常その上に組み立てられるはずの一人称の言明を、ほとんどすべて差し控える語り手。彼女の名前は一度だけ、終わり近くで、ほとんど通りすがりのように示される。フェイという。そこに何もかかっていない。
この本は、レイチェル・カスクの『アウトライン』で、二〇一四年にフェイバー・アンド・フェイバーから刊行された。三部作の第一作であり、二〇一六年に『トランジット』、二〇一八年に『クードス』が続き、あわせてアウトライン三部作と呼ばれるのが通例である。カスクがそこで何をしたかについての標準的な説明は、形式についての説明である。筋を手放した。十九世紀の小説が遺したような意味での人物造形を手放した。聴き手としては現前し、主題としては不在である語り手を書いた。
その説明は正確であり、そして足りない。というのもそれは、この技法を、形式に関心をもつ作家が真空のなかで行った選択として扱っているからである。『アウトライン』の二年前、カスクは自分の結婚の終わりについての本を一人称で刊行しており、それに対する反応は、文学作品の受容という基準に照らしても異例に敵対的だった。そのあとに彼女が書いたのは、攻撃されえない語り手である。自分自身について、争えるような主張を何ひとつしないからである。そう読むなら、『アウトライン』は第一には実験ではない。一人称が自分を標的にしたと知ったあとで、一人の書き手がすることである。
そしてそここそが、この家がこの本に関わる理由である。文学上の問いの下に、はるかに古い問いが置かれているからだ。部屋のなかに居るあり方のうちに、まるごと他者への注意だけで成り立っているものがある。それは実際の能力であり、身につけるには年月がかかる。そしてそれは同時に、身を置く場所でもありうる。外からは、自分が見ているのがどちらなのか、確かなことは言えない。多くの場合、内側からも、当人にそれは言えない。この文章は、どちらかを選ぶのではなく、両方の読みを開いたままにする。そして、開いたままにすることが代償のない手ではないことも述べる。
この本が何であり、何を差し控えているか
『アウトライン』は二〇一四年にロンドンのフェイバー・アンド・フェイバーから刊行され、初版は二四八ページである。翌年にはアメリカでファラー・ストラウス・アンド・ジルーから出ている。単行本になる前に、二〇一四年のあいだ『パリ・レヴュー』誌に分載されていた。十の章から成り、舞台は語り手が夏の創作講座を教えるためにやってきたアテネでの数日間である。
差し控えは、気取りではなく体系である。語り手には生活がある。近い過去の離婚、家に残した息子たち、改修中の住居、話をしなければならない編集者。読者はそれらを、パーティで会った他人について知るのと同じ仕方で、横から、断片として、他人の話のなかからこぼれ落ちるものとして知る。彼女は自分を説明しない。自分が何を望んでいるかを読者に告げない。そして最も際立っているのは、いま聞かされたことについて自分が何を考えたかを、記録すべきものとして何を選んだかという形以外では、決して告げないことである。
本の終わり近くで、一人の劇作家が、飛行機で隣り合った男との会話について語る。男が自分について語ることのすべてが、彼女のうちに対応する陰画を生み、やがて彼女は自分自身を、周囲に細部がすべて描き込まれ、その形そのものは空白のまま残された輪郭としてしか見られなくなった、という話である。題はそこから来ている。そしてそれは、この本が自身の方法を他人の口を借りて声に出して説明している箇所であり、その借り方自体がこの本らしい。
受容については、言葉を正確にする必要がある。評判というものは、動詞の選び方ひとつで容易に膨らむからである。『アウトライン』は二〇一四年のゴールドスミス賞、二〇一五年のフォリオ賞、同年のベイリーズ女性小説賞の最終候補に挙がった。そのいずれも受賞していない。その年のゴールドスミス賞はアリ・スミスの『両方になる』に、翌春のベイリーズも同じ作品に、フォリオ賞はアキル・シャルマの『ファミリー・ライフ』に贈られている。三つの最終候補と受賞ゼロは文学上の相当な出来事であり、受賞とは別の出来事である。この家は、絶賛という語に静かに仕事をさせるより、そう述べるほうを選ぶ。
日本の読者にとって、この本は翻訳で読める。三部作の三冊はいずれも榎本義子の訳で図書新聞から刊行されている。『アウトライン』にあたる第一作が二〇一九年、続く二作が二〇二〇年と二〇二一年である。『アウトライン』に与えられた日本語の題は、英語の題の翻訳ではない。形ではなく、ある種の人間を名指している。それが何をするかについては、のちの節で戻る。
その前に何があったか
『アフターマス 結婚と別離について』は二〇一二年にフェイバーから刊行された。カスクと写真家エイドリアン・クラークの結婚の終わりについての一人称の記述であり、その終わりを教訓のある物語へと整えることをしない。論じ、逸れ、ギリシャ悲劇に手を伸ばし、ある種の離婚の語りが当然のように供給する悔悟の演技を拒む。
その受容は解釈ではなく公的な記録の問題である。この本は複数の場所で厳しく評され、なかでもカミラ・ロングがサンデー・タイムズ紙に書いた一篇は、議論を批評の言葉で扱うのではなく、著者本人を人格の言葉で攻撃した。そしてその書評は、文学サイトのオムニヴォアがその年の最も辛辣な批評に与える賞、ハチェット・ジョブ・オブ・ザ・イヤーを受け、二〇一三年二月に発表された。この仕組みには立ち止まる価値がある。その年の最も人を傷つけた書評を顕彰することを目的とする制度が存在し、その制度が顕彰することに決めたのが、一人の女性による自分自身の離婚についての記述をめぐる書評だった。
その後の時期についてカスクが述べたことは活字で読むことができ、推測なしに報告できる。二〇一四年八月にケイト・ケラウェイの聞き手でガーディアン紙に掲載されたインタヴューで、彼女は『アフターマス』のあとに来たものを創作上の死と呼び、完全な沈黙へ向かっていたと述べている。同じインタヴューで彼女は、人を作り出して互いに何かをさせるという小説の通常の機構が、十分に苦しんだあとでは馬鹿げたものに見えるようになった、と述べている。二〇一五年にフランチェスカ・ウェイドの聞き手でホワイト・レヴュー誌に掲載されたインタヴューでは、外側の人間として世界に存在したくない、そうした露出はもう要らない、と述べている。
それらは彼女の公にされた言明であり、この文章はそれをそのように扱う。それらは彼女が何を感じたかへの窓ではなく、ここで書いている者にその感情への通路はない。露出はもう要らないとインタヴューで述べた人は、自分が公的にとっていた位置について実在することを告げたのであって、内面を差し出したのではない。そうでないふりをすることは、誤りであると同時に無礼である。
この技法を、装飾なしに述べる
この本をその機構まで剥ぎ取れば、きわめて単純である。誰かが長く話す。語り手は聴き、時折何かを尋ね、時折、聞かされている内容を掘り崩すような細部を書き留め、そして章が終わる。彼女が自分の状況を誰かに説明する場面はない。自分の生活について自分の感情を読者に告げるという意味での内面は存在しない。別の意味での内面は大量に存在する。彼女が気づくことのすべてが、一つの決定だからである。
それが達成であり、それは本物である。一つの自己が、一度も主張されることなく生み出されている。読者はこの語り手をよく知るようになる。その厳密さ、自分に都合のよい語りへの許容度の低さ、話し手が自分の物語の角を丸めはじめる瞬間への特有の注意、慰めることへの気の進まなさ。四時間、車のなかで相手が運転し自分が話しつづけた、その相手を知っているのと同じ仕方で、読者は彼女を知る。彼女は何も告げていない。それでもどこで会っても分かるだろう。
カスク自身はこの目的を形式の言葉で述べている。ホワイト・レヴュー誌に対して彼女は、問題はその時点で自分がもっていた固有の真実を担える形式を見つけることだったと述べ、それは通常人に小説を書かせるものの反対だと言い、その通常のものを豊かさ、そして自分を空間へ押し出す欲望と名づけている。『アウトライン』については、表面までしか行っていない、読めるのは表面だけだ、と述べている。のちの二〇二二年、イェール・レヴュー誌でメルヴェ・エムレに対しては、もはや人物造形というものは存在しないと思う、と端的に述べている。
つまり、方法についての作者自身の説明は形式についての説明であり、それは筋が通っており、そこで止めたい読者が何かを捏造していることにはならない。次の節は、そこで止めることが、より興味深いものを取り落とす理由についてである。
これが実験だけではない理由
この技法が不可能にするものを考えてみる。自分について決して記述しない語り手を、自己陶酔だと責めることはできない。身近な人々を自分のものとして紙の上に載せないのだから、彼らに冷酷だと言うこともできない。明かしすぎだとも、明かさなすぎだとも言えない。それらの範疇は、測定のために差し出された自己を必要とするのに、そのような自己が差し出されていないからである。『アフターマス』に向けられた告発はどれも、掴まえるための一人称を必要とする。『アウトライン』はそれを供給しない。
この読みはこの家だけのものではない。二〇二一年にプロスペクト誌に書いたミランダ・フランスは、この三部作を極度の引き下がり、あるいは禁欲の行為と呼び、その一部は『アフターマス』への敵対的な反応への応答だとし、この方法を、書くと同時に沈黙していられるやり方と呼んでいる。二〇一八年にロサンゼルス・レヴュー・オヴ・ブックスに書いたジョジー・ミッチェルは、この三部作の語り手が得るものを、露出も危険もともなわない知、見つめ、値踏みし、隠れたままでいる者の知と記述している。いずれも名のある書き手による批評上の読みとして提示されたものであり、露出はもう要らないというカスク自身の言葉と同じ方向を向いている。
ここで明瞭にしておかねばならないのは、誰も確立していないことである。この家が読んだかぎりのどこにおいても、カスクは、攻撃されにくくするためにこの方法を設計したとは述べていない。ある本の受容と次の本の形式とのあいだの結び目は、推論である。それは十分に支えられた推論であり、複数の批評家が独立に引き、露出と沈黙についての彼女の公の言明とも整合するが、それでも推論である。そうでないふりをする文章は、自分が異議を唱えているはずのことをしている。
それでも推論を立てる価値はある。この本が何の例であるかが変わるからだ。形式上の実験としてなら、『アウトライン』はある系譜に属する。筋と人物造形を失って小説が生き延びられるかという長い論争である。問題への答えとしてなら、それはもっと日常に近いところに属する。自分の声で話すことの代価が払える額を超えたと判明したとき、それでも部屋に留まるために人が何をするかの実演である。
現前の一形式としての注意
この家はしばらく同じ領域のまわりを回ってきたので、以前の仕事がどこまで行ったかを述べておく。この文章がそこから始められ、繰り返さずに済むためである。以前の一篇は、聞き届けられることは直されることではないと論じ、相手が言い終える前に問題を解くことが、その人をそのなかに独りにする最速の方法だと述べた。別の一篇は、聴くことは頭のなかで保たれる態度ではなく、話し手が絶えず読んでいる身体によって行われる物理的な行為だと論じた。『ドライブ・マイ・カー』の読解は二つの沈黙を区別し、両方を称えることを拒んだ。ケイティ・キタムラの『インティマシーズ』の読解は、他人の一人称における完全な流暢さは、自分の一人称の著者であることとは別の能力だと論じた。
『アウトライン』が加えるのは、それらがもたなかったものである。すなわち、ほとんど何も主張しない人がそれでも完全に現前しうること、そしてその現前が読み取れることの、長さをもった実演である。語り手は空白ではなく、中立でもない。気質があり、判断があり、それらは、何を書き留める価値があると考えたか、どこで話を終わらせたかという形で、どのページにも見えている。この水準で行われる注意は、人の不在ではない。別の配置をとった人である。
それが使える発見であり、本を離れた形で述べておく価値がある。現前するために、自分についての言明を産出する必要はない。自分の一週間をその部屋で記述しなかったからといって、その部屋にいるあなたの量が減るわけではない。ほとんど話さない人は自分を出し惜しんでいるという通念は、現前についての信念ではなく、慣習についての信念である。よい聴き手は目減りした参加者ではない。慣習が名前をもっていない仕方で参加している。
そして同じ発見を、もう一段だけ長く保持すると、それは問題に変わる。
同じ実践には、外から見て二つの記述がある
どんな場でも、尋ねる側であって告げる側ではない人を考えてみる。全員の困りごとの細部を知っていて、自分の困りごとは誰にも共有されていない人。長い夕べを終えるとき、その場の全員に、異例によく理解されたという感覚を残し、自分については後で誰かが繰り返せるようなことを何も言わなかった人。
その人には二つの記述があり、どちらも当てはまる。第一は、この人には実践がある、という記述である。あの質の注意は難しく、学ばれたものであり、力を消費し、四時間持続できる人はそう多くない。それをよく行うことは寛容さの一形式である。第二は、この人には防御がある、という記述である。主張しない人は反駁されえない。記述されない人は誤って記述されえない。自分が何を望むか決して言わない人は、それを拒まれることもなく、後でそれに縛られることもなく、三年後の口論で自分の言葉を引かれることもない。
この二つの記述は、証拠の到来を待って決着する競合者ではない。同じ振る舞いについて、同じ瞬間に両方が真であることは頻繁にあり、時間のなかで互いに転化しうる。傷のあとに採られた防御は、練習されるうちに本物の技能になりうる。その時点でそれを傷と呼ぶのは誤りである。何年も維持された実践は、いつのまにか唯一可能な位置になりうる。その時点でそれを選択と呼ぶのは誤りである。カスクの場合は前者の明快な例である。彼女は自分の声で、長く話し、その報いを受け、そのあとに築いたものは、いかなる文学上の尺度でも後退ではなく達成である。そのことは、それが同時に何であったかを決着させない。
ゆえにこの文章は裁定を降ろさない。そして、降ろさないことが無償ではないことも、ただちに言っておくべきである。二つの読みのあいだで選ぶことを拒むのは、文章を上品に保ちながら読者に何もすることを残さないやり方でありうる。ここでの弁護は狭い。この特定の事例においては、決定不能であること自体が発見だからである。注意が寛容さなのか避難所なのかを外から見分けられないのなら、特定の誰かについての確信ある判定は、それが午前二時に自分自身について下す判定であっても、上等な外套を着た推測である。
自己消去は権力の不在ではない
『アウトライン』の語り手は、誰が記録されるかを選ぶ。章がどこで始まりどこで終わるかを決める。話し手のどの一文がその人を露わにする一文であり、どの三百文が要約して消してよいかを決める。矛盾に気づき、それを持ち出さない。この本に出てくる人は全員、彼女が置いていった状態で紙の上にいる。そして彼女だけが、この本のどこにも紙の上にいない。
それは巨大な権力であり、申告されていない。申告されていないことが、それを巨大にする。ミッチェルがこの位置に与えた語は覗き見る者であり、その語をどう思うにせよ、構造上の要点は保たれる。聴き手は知のすべてを取り、危険はいっさい引き受けない。部屋にいる他の全員は、自分に対して使われうるものを手渡している。彼女は何も手渡していない。
日常版はよく知られている。家族のなかで決して希望を述べない人は、それによって家族のなかで無力になっているわけではない。むしろ多くの場合、他の全員がその述べられない希望のまわりに配置を組んでいる。そして述べられない希望は、述べられた希望よりはるかに反論しにくい。卓上に置かれたものが何もないからである。この家は以前、明確であることは自分に対してと同じだけ相手に対する親切だと論じた。その議論の鏡像がこれである。明確であることを拒むのは中立ではないし、つねに慎み深さでもない。
失ってはならない区別は、聴くことが何でありうるかと、聴くことが何であるかの区別である。ここにあるいかなるものも、よい聴き手が密かに部屋を動かしていると述べてはいない。述べているのは、そうでありうること、その位置がそれを許すこと、そしてその許しは外から見えないことである。それはこの文章を、自らの裁定拒否へと引き戻し、その拒否を少しだけ居心地の悪いものにする。
選ばれた実践と、割り当てられた役割は別物である
この本には可能な誤読があり、それが最も警戒に値する。関係する全員にとって心地よいからである。それは、すでに聴き手であることを要求されている人にとっての是認として『アウトライン』を受け取ることである。
聴く側であることは、選ばれるのではなく割り当てられることがある。どの成員が物分かりがよいかを決めてしまった家族によって割り当てられうる。職場によって割り当てられうる。結婚のなかで、誰も宣言しないまま少しずつ割り当てられ、やがて一方の一日は会話の主題になり、他方の一日は天気のようなものになる。そういう配置になっているとき、注意深い沈黙を芸術上の達成のように見せる本は解放ではない。誰かが置かれた位置に、より上等な語彙を与えるものである。
試金石は振る舞いではない。振る舞いは同一だからである。試金石は、その人がやめられるかどうかである。明日、同じ部屋で、同じ人たちに向かって、自分が何を望んでいるかを平叙文で述べ、それが事件ではなく情報として着地するか。着地するなら、その聴くことは実践である、それが同時に何であるにせよ。正直な答えが、それを言えば一場面になる、というものなら、その聴くことは位置であり、それを実践と呼ぶのは制約に払われた世辞である。
カスク自身の位置が示唆に富むのは、まさにそれが例外的だからである。彼女は一人称を、公に、長く用い、その帰結をくぐった。輪郭は二番目に試したものであって、唯一使えた手ではない。それは、最初の選択肢をもったことのない人とは別の状況である。この本を使うために読むことの正直な限界の一つは、その著者が、読者の多くには差し出されていない選択をもっていたことである。
日本語版についてここで一文を割く価値があるのも同じ理由による。英語の題が形を名指し、それを満たすものについて何も言わないのに対し、日本語の題はある種の人間と、ある状態を名指している。愛しつづけられない人々、である。題は出版上の決定であり、解釈上の理由と同じくらい商業上の理由で下されるので、それを主張として扱うのは読みすぎである。だが、その題を通してこの本に出会う読者に生じる効果は実在する。原題が方法を告知するところで、それは主題を告知する。そして方法についての本は、ある範疇の女性についての本とは別のことをしている。
この家が売っているもの、そして主張できないこと
申告は弁護に先立つ。この家は、女性が、そこにいるために報酬を受け取っている者によって、決められた時間のあいだ注意深く聴かれる、私的な同伴を売っている。注意が現前の本物の一形式であると論じる文章は、その商品を好意的に記述する文章である。これはきわめて凡庸で、きわめて失格に値する種類の利害衝突であり、名指すことで解消されはしない。名指すことが意味するのは、読者が後になって割引が必要だったと知るのではなく、自分で割引を当てられるということだけである。
そこからいくつかのことが従う。それらは主張ではなく制約である。この家は、聴かれることが何かを修復するとは主張しない。その根拠をもたず、確かめる手段ももたないからである。何年も適切に聴かれてこなかった女性が何らかの状態にあるとは主張しない。この文章のいかなる部分も、どの読者の生活の記述でもない。ここで整えられるものが友情であるとも、その代替であるとも主張しない。この取り決めは、区切られ、予定され、支払われている。その三つは、恥じるべきところではなく、これを正直なものにしているところである。
そしてこの文章自身の議論は、他のどこよりもここで深く切り込む。決して主張しない聴き手が、話すすべての人に対して申告されない権力をもつのなら、それは報酬を受け取る同伴者について特に強く当てはまる。非対称が取り決めに組み込まれており、それがこの家の側に有利に働いているからである。一方は何を開示するかを事前に決めて来て、他方は何も開示しないと事前に決めて来る。そこに良いところがあるとして、それは偶然によってではないし、自動的にでもない。それは、条件が事前に述べられること、そしてその夕べが何のためのものかを支払う側が定めることの理由である。
この文章で言及したいかなる本も、ここにいる誰かが売っているものではなく、この頁のいかなるものも読者をどこかへ誘導しない。読むことは役務ではない。そう言えない家は、読むに値しない。
この文章へのいちばん強い反論
第一の反論は中心を狙う。聴くだけの語り手は完全な著者的権力をもち、露出をいっさい引き受けない。その位置を注意の実践として装うのは洗浄である。彼女は選び、枠づけ、差し控え、危険をまったく負わない。彼女に話す人々がそのすべてを負う。この読みにおいて、慎ましさは衣装であり、この文章はその衣装を称賛してきたことになる。反駁は存在せず、提示もしない。狭められる点は二つだけである。この文章は権力についての節ですでにこれを自らの声で述べていること、そして実際の主張は寛容な側ではなく、両方の記述が生き残るという弱いほうであることである。
第二の反論は文学上のものであり、広く行われている。『アウトライン』の対話者たちは全員が同じ抑揚で話す。同じ仕方で明晰であり、同じ仕方で脱線し、同じ数少ない主題に取り憑かれている。プロスペクト誌のミランダ・フランスは端的に述べている。人物たちはほとんど区別されておらず、同じ声で、同じ好奇心と同じ弁舌をもって話している、と。それが正しいなら、聴くことの本に見えるものは腹話術の本であり、他者の声への見かけの寛容さは、どこにも同じ一つの声があるということになる。この反論には実際の力があり、この文章はそれを認める。認めたあとに残るものは小さく、それでも保つ価値がある。すべての話し手が聴き手の抑揚で戻ってくるのなら、この本は、聴き手が他者からどれほど僅かしか持ち帰らないかの実演であり、それは心地よいほうの発見より厳しい発見で、同じ方向を指している。
第三の反論はこの文章の背骨を切る。方法を伝記的に、『アフターマス』とその受容を通して読むことは、形式上の達成を傷へと縮小する。それは、一人の女性が傷ついたゆえに異例の本を書いたと述べることであり、敵対的な批評家たちが、小説めいた回想録を日記として読み、議論を症状として読んだときの動きと構造的に同じである。筋と人物造形を手放した男であれば、小説についての主張をしていると読まれただろう。この文章は、言い逃れるのではなく、そこに留まるべきである。使える狭め方は薄い。ここでの議論は、彼女の感情についての推測ではなく、露出と沈黙についての公にされた言明に依拠していること、因果の結び目を推論として明示していること、そして形式上の達成は実在し、それを採った理由が何であれ実在しつづけると言明していることである。薄く、そして告発に完全には答えていない。
第四の反論は商業上のものであり、単純に正しい。注意深く聴くことを売る家は、聴くことが現前の一形式であると論じる文章に、明白で直接的な利害をもつ。どれだけ反対読解を積んでも、この議論が都合よくできているという事実は変わらないし、その都合よさが仕事の一部を担っていると結論する読者は、何も読み違えていない。唯一正直な応答は、それを注ではなく本文で申告したこと、そしてこの節を無傷で残したことである。
第五は、この文章の方法に向けられる。二つの読みのあいだで選ばずに両方を生かしておくことは、決して負けない修辞上の位置であり、まさにそこが疑わしい。ある実践が寛容なのか防御的なのかを言わない文章は、反証不能であるように整えられている。上で提示した弁護、すなわち決定不能性そのものが発見であるという弁護は、誰でも何についてでも使える。読者には、この文章が自らに課したより厳しい基準でこの文章を測る権利がある。
この文章が主張していないこと
この文章は一つの小説の読解である。臨床の指導ではなく、いかなる治療も記述せず、いかなる結果も約束せず、そして誰も診断しない。ここにあるいかなるものも、どの読者の結婚、家族、話し方の記述でもなく、ここに何も見出さなかった読者が要点を取り逃がしたわけでもない。
レイチェル・カスクの意図、感情、私生活について、いかなる主張もしていない。彼女に帰せられるすべての言明は、彼女の名で公刊されたインタヴューから取られており、内面の状態の証拠としてではなく、公にされた発言として報告している。『アフターマス』の受容と『アウトライン』の方法とのあいだに引いた結び目は推論であり、推論として述べられ、名のある批評家たちが独立に引いたものであって、彼女が述べたことではない。
書誌の細部は、実物の検分ではなく、図書館、出版者、保存記録から取っている。章の構成と終盤の像は、ここで数えた結果ではなく、この本についての公刊された記述から報告している。『パリ・レヴュー』誌への分載は、号数がこの家の基準で確認できなかったため、号数を伴わずに述べている。この本のいかなる一節も、この文章のどこにも引用していない。
賞についての言い回しは意図的である。『アウトライン』は二〇一四年のゴールドスミス賞、二〇一五年のフォリオ賞とベイリーズ女性小説賞の最終候補となり、そのいずれも受賞していない。ここにあるいかなるものも、そうでないと述べるものとして読まれるべきではなく、受賞者を本文で名指しているのはそのためである。
この文章のいかなるものも、日本の人々についての言明ではなく、英国の人々についての言明でもなく、女性についての言明でもなく、その他いかなる集団についての言明でもない。ある位置、すなわち常に聴く側である人について記述しているところでは、特定の人々がそのなかに置かれている配置を記述しているのであって、人間の類型でも、国民の特性でもない。
レイチェル・カスク、その出版者、日本語の訳者と出版者、そしてここに引いたすべての批評家と雑誌は、この家と関わりをもたず、この家を知らず、この家を是認していない。ここに名を挙げたいかなる本も、この家に連なる誰かが売っているものではなく、いかなる小売や紹介の導線もこの出版物のどこにも現れない。
最後に、これは身の処し方についての推奨ではない。この文章は、注意が現前の一形式でありうること、そして同時に避難所でもありうること、その二つは見分けがたいことを論じている。どの読者の注意がどちらであるかは告げていない。ここで書いている者に、それを知る立場はない。