Cinema · Moonlight Library
『秘密の森の、その向こう』と、母と対等に出会うこと
八歳の娘が、祖母の家の裏の森へ入り、自分と同じ年ごろの少女に出会う。その少女が、母である。仕掛けの説明はなく、規則もなく、種明かしもない。上映時間は七十二分。この映画が差し出すのは、娘と母のあいだの隔たりのすべては年齢差である、という提案である。そこで短いあいだ見えるようになるのは、隠されていた秘密ではない。誰にも占めることのできない位置である。まだ何ひとつ決まっていなかった人としての、母。
八歳の娘が、介護施設の一室を片づけている。廊下を進みながら、ほかの入居者たちに一人ずつ別れを告げ、それから両親の車に乗り、母が育った家へ向かう。その家もまた、空にしなければならない。祖母が亡くなったのである。作業が始まって数日後、母は多くを言わずに去り、娘は段ボールのあいだに父と二人で残される。
娘は家の裏の森へ入る。かつて母が枝で小屋を建てた森である。そこで、自分と同じ年ごろの少女が枝を引きずっているのに出会う。少女は娘を家へ招く。それは同じ家である。中にいる女性は少女の母であり、そしてたったいま亡くなった祖母であり、まだ誰の祖母でもなかった年齢の姿をしている。森の少女はマリオンという。車で去った女性と同じ名前である。映画はこれを種明かしとして演出しない。二人の子どもに自分たちで見当をつけさせ、そしてそのまま午後の続きをさせる。
説明は何もない。装置も、儀式も、決まった作法で越えるべき境もない。どれだけ留まってよいか、何を言ってはならないかという規則もない。事情を知っている年長者も出てこないし、最後に誰かが仕掛けの名を告げる場面もない。森はただの森である。映画は七十二分走り、そして止まる。
ここから先は要約ではない。あの前提が何のためにあるのか、そしてそれが短いあいだだけ手に入るようにする、どの娘も持っていない一つのものについての議論である。短い言い方は映画自身のものだ。娘と母のあいだの隔たりのすべては年齢差であり、その差を取り除いたら、あとに残るのはたぶん互いを気に入るであろう二人の人間である、と。長い言い方こそがこの文章の主題である。娘に届かないのは、母の秘密ではない。届かないのは母の同時代性である。すなわち、その女性がかつて自分と同じ背丈の一人の人間であり、子どももおらず、履歴もなく、何ひとつ決まっておらず、人生がどう転んだかについての判定もまだ下されていなかった、という事実である。映画はそれを一時間ほど手に入るようにし、もしそれが一般に手に入るなら喪失も相続も別のものになるだろうと提案し、そのうえで、それが手に入るふりをすることを断る。
記録を、そのまま述べる
『秘密の森の、その向こう』は、セリーヌ・シアマが脚本を書き監督した。製作はベネディクト・クーヴルールで、製作会社はリリーズ・フィルムズ。撮影はクレール・マチョン、編集はジュリアン・ラシュレ、音楽はパラ・ワン。上映時間は七十二分で、ある種の観客は自分がこの映画をどう思うか決める前に見終わってしまう短さである。ネリーをジョゼフィーヌ・サンス、マリオンをガブリエル・サンスが演じる。母をニナ・ミュリス、父をステファン・ヴァルペンヌ、祖母をマルゴ・アバスカルが演じる。
世界初公開は二〇二一年三月三日、第七十一回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門である。その年のベルリンはそれまでのどの回とも違っていた。映画祭は二〇二一年を二つの段階に分けた。三月一日から五日までの業界向けのオンライン開催で、審査員はここで作品を見て賞を発表した。そして六月九日から二十日まで、劇場と野外での一般向けのサマー・スペシャルが行われた。つまり、二人の子どもが同じ部屋にいることに方法のすべてを賭けたこの映画は、客席に誰もいないコンペティションで初公開されたのである。
金熊賞に候補として挙がり、そして受賞しなかった。この区別は保っておく値がある。金熊賞はラドゥ・ジューデの『アンラッキー・セックス』に贈られた。銀熊賞の審査員グランプリは濱口竜介の『偶然と想像』に贈られている。こちらについてはこの図書室が別に書いている。『秘密の森の、その向こう』はベルリンから何も持ち帰らなかった。
この映画が集めたものは、あとから、審査員ではなく観客と批評家から来た。フランス公開は二〇二一年六月二日、配給はピラミッド。同年九月、サン・セバスティアン国際映画祭で観客賞を受けた。ロサンゼルス映画批評家協会は二〇二一年の外国語映画賞にこの作品を選んだ。英国アカデミー賞では英語以外の映画部門に候補入りし、『ドライブ・マイ・カー』に敗れている。こちらについてもこの図書室は書いている。日本公開は二〇二二年九月二十三日、邦題は『秘密の森の、その向こう』で、日本の記載は上映時間を七十二分ではなく七十三分としている。クライテリオン・コレクションは二〇二三年の収録を告知した。
この映画は仕掛けを持たない
別の時代の人間に出会う物語は、ほとんどの場合、根のところで工学である。規則があり、その規則が筋を生む。自分自身に見られてはならない、何時までに戻らねばならない、これを変えればあれが起こる、留まればこれだけの代価がかかる。この機械仕掛けが危機を生み、そしてこの種の映画のほとんどは実のところその危機についての映画である。
この映画に機械仕掛けはない。破りうる規則がなく、したがって破ることをめぐる緊張もない。越える瞬間すら印づけられていない。子どもが木立へ歩き入れば別の年におり、歩き出れば自分の年にいる。映画は両方向を同じように、同じ光で、同じ森で撮る。二人の少女がやがて事情について話すとき、それは短く、実務的で、子どもが遊びの取り決めをするときのやり方に近い。そして話し終えると、二人は別のことをしに行く。
帰結は簡単に述べられるし、簡単に軽く見られる。規則がなければ、解くべきものがない。注意の向かう先は目の前の二人以外にない。この物語の標準版は出会いの危険についての映画になっただろう。逆説、損傷、干渉の代価。そしてその危険に費やされる一分は、一方が他方の母である二人の子どもが一緒にいるとどうなるかに費やされなかった一分である。装置を取り除くことは映画を単純にしていない。間違った問いを取り除いて、正しい問いに場所を空けている。
同じ規律が他のすべてを貫いている。音楽はほとんどない。曲はおおむね不在で、まとまった一節は終盤、水の上の場面に現れる。だから鳴ったときそれは内装ではなく出来事として届く。説明する大人も出てこない。場所は事実上一つの家とそれを囲む木立だけである。衣裳も室内も、どちらの時代かを言い当てにくい程度に曖昧に保たれており、それによって観客が気を取られうるもう一つの手がかりが静かに外されている。
抑制という褒め言葉は批評家が安く配るものであり、たいていはその映画があまり何もしなかったという意味である。ここでのそれは気質ではなく構造である。自分を説明した映画は、その説明についての映画になっていただろう。主題は年齢差が何をするかから、時間はどう働くかへ移っていただろう。そしてこの図書室が関心をもつ議論は、真っ先に失われるものだっただろう。
娘に届かないのは、秘密ではない
この主題がふつう扱われるやり方は、映画でも小説でも、人が実際に交わす会話でも、情報の模型の上で動いている。子どもが親について何かを知る。結婚前の恋人、一度も口にされなかった悲しみ、戦争、ある決断、簞笥の奥の箱に入った手紙。何かが伏せられていた。それが出てくる。その光のもとで関係が置き直される。暗黙の理屈はこうだ。二人のあいだの隔たりは欠けた事実でできており、事実が供給されれば隔たりは閉じる。
この映画はそれではない。そしてその違いは程度の問題ではない。ネリーは確かにいくつかのことを知る。八歳の母が何を怖れていたかを知り、これから受ける手術のことを知り、誰が小屋を建てたのかを知る。しかし映画はそのどれも積荷として扱わない。それらはすべて、台所の食卓で大人が二十分もあれば話してやれたことである。そしてその語りが何をし、何をしなかったかは正確に言っておく値がある。それは中身を移したであろう。それが語られる位置を変えることはなかったであろう。
そしてその位置こそ、移せないものである。母は、つねに、そしてもっぱら、すでに子どもを持った人として出会われる。決断のあとに、その内側で生きていて、人生がどう進んだかについての定まった収支と、自分自身についての定まった収支をもち、その収支の動かせない前提の一つであるような者によって、下から観察されている。娘はその背後へ回れない。隠されているからではない。隠されている説は気楽な説である。隠されているなら扉があることになるからだ。回れないのは、娘こそが扉を閉じたものだからである。娘は、自分が見たいと思っている出来事の、向こう側に立っている。
だから映画が差し出すのは、どれほどの打ち明けによっても供給できない唯一のものである。すなわち同時性。同じ年齢の二人が、同じ年に、同じ家にいて、どちらも相手の未来について何も知らず、どちらも相手の帰結ではない。それは率直さとは別の財であり、より良い質問をすることで手に入るものではない。
これは、娘が母を一人の人として見られるようになった、ということを飾って言い直したものではない。その言い方はどこにでもあり、そしてほとんど何も意味しない。娘は抽象的には、母が一人の人であることをとうに知っている。ここで固有なのは、そしてこの映画が推薦ではなく一篇の文章に値する理由は、娘が母に、まだ何ひとつ決まっていなかった人として会うということである。守るべき帰結も、申し開きすべき人生も、その母であるべき娘も、まだ存在していなかった時点の人として。
年齢差が据えつける判定
三十年を隔てた二人のあいだの関係は、当人たちが望むと望まざるとにかかわらず構造をもつ。そしてその構造は裁きの構造である。一方はすでに出来上がっており、他方は査定している。時とともに役は入れ替わるが、消えることはない。
子どもは親を、最初から、絶え間なく、膨大な注意と、きわめて粗い道具で査定する。親は完成した状態で到着する。これがこの人であり、この人はこういう人であり、この人はこれをしこれをしなかった。査定は何十年もかけて精緻になる。同情が加わり、文脈が加わり、大人としての制約の感覚が加わる。しかし査定であることをやめはしないし、観察者が到着する前にすでに形の定まっていた人についての観察以外のもので出来ていたことは一度もない。そしてやがて向きが反転し、老いた親が、はるかに多くの証拠と、少しも減らない確信をもつ成人の子によって査定される。
この関係がその全長のどの時点でも生み出せないのは、判定が形づくられうる前の出会いである。八歳が二人いても、互いに判定を下す立場にない。どちらにも履歴がない。どちらも誰かの帰結ではない。そのかわりにあるのは交渉である。遊びで誰がどの役をやるか、クレープを焼くかどうか、舟を出すかどうか、小屋はもう出来上がりか。二人は平らな関係の中にいる。そして親と子のあいだのこの種の平らさは、珍しいというより、構造として手に入らないものである。
やさしいと呼ばれる箇所で映画が実際に描いているのは、これである。そのやさしさは口当たりの甘さではない。序列の不在であり、この二人のあいだの序列の不在は、世界がほかに含んでいないものである。映画がこれほど静かでいられる理由でもある。劇的にする必要が何もない。恒久の構造が短いあいだ切られている、というのが興味深い出来事のすべてだからだ。
そこへ至るために映画が支払ったものに気づいておく値がある。支払いは大きい。判定を取り除くために、映画は母の成人期をまるごと取り除かねばならない。この場面が二人の成人女性のあいだで成り立つ版は存在しない。映画はそれがあるとは主張しないが、その点を吟味もしない。ある命題が、起こりえない条件のもとで示された、という事実に読者は気づいておいたほうがよい。
双子の姉妹、そして配役そのものが議論であること
ネリーとマリオンを演じるのはジョゼフィーヌとガブリエルのサンス姉妹で、二人は姉妹であり双子であり、これが初めての映画だった。シアマは公に、この役のために姉妹を探したと述べており、サンス姉妹は自分たちを双子とは考えておらず同じ日に生まれた姉妹と考えている、と語っている。そして重要だったのは似ていることではなく対等であることだったとも述べている。それは監督自身が自分の仕事の運びについて述べた言い方であり、ここではそのようなものとして報告する。
この配役が果たす構造上の仕事は、映画が一度もしなくて済んでいる事柄でできているので、見落としやすい。似ていることが端から与えられている。それを作るための化粧もなく、そこを強調する照明もなく、それを指す台詞もなく、共通する特徴に観客が気づくよう構図された画もない。この二つの顔が二つの年齢における同一人物のものだと観客を説得しなければならない映画は、七十二分のかなりの部分を説得に費やしただろう。そしてその種の説得は退屈であり、しかも的を外している。
そのかわりに配役が買っているのは、この映画の主題そのものである。同じ年齢、同じ背丈の二人の演者がいて、どちらも他方を導いていないし、どちらも画面の中で権威をもっていない。小屋を建てるとき、二人は一緒に、へたに建てる。料理をするとき、どちらも監督しない。対等さは演技されていない。そこに立っているのが誰かという事実であり、映画はただそれを撮っている。
ここに一つ注意を置いておきたい。この図書室は、省いて褒められるよりは述べておくほうを選ぶ。子どもの自然さとして画面に映るものは、作られた効果である。監督、配役の過程、撮影者、子どもにできることに合わせて組まれた進行、そして多くのテイクから選ぶ編集者によって生み出される。子どもの演技を、媒介なしの振る舞いであるかのように讃えることは、関係者全員の労働を、働いていた当の子どもたちを含めて、誤って記述することである。ここでの演技はきわめて良い。そして構築されている。そして構築こそが、讃えられているものの一部である。
この図書室がすでに書いたこと、そしてこれがそれではないこと
この図書室はシアマについてすでに一篇を出している。『燃ゆる女の肖像』についての文章で、portrait-gaze-without-possession という符号のもとにある。その議論は固有のものであり、ここでなされる議論ではない。あの文章はこう論じた。あの映画の実際の主題は、誰かを見ることが許されるかどうかではなく、隠れて見ることが観察する側に何を失わせるかである。秘密の視線が得るのはポーズであり、申告された視線が得るのはこちらの仕事を訂正してくれる共同作業者である。だから同意こそが、観察をより悪い情報ではなくより良い情報を生むものへ変える。あれは見ることの倫理と認識についての文章である。
そのどれも、この映画の問題ではない。ここで繰り返すのは一本の映画の無駄づかいになる。二人の少女のあいだに、見ることの非対称はない。森で誰かが誰かを隠れて観察してはいないし、誰もポーズを取っていないし、何も引き出されていない。『秘密の森の、その向こう』が取り除く非対称は、誰が見てよいかの差ではない。時間における位置の差である。それは別のものであり、同意によって直せるものではない。双方がどれほど進んで応じても、隔たりはそのままそこにあるからだ。
シアマ自身は公の発言で二本を結びつけ、これは『肖像』のあとの映画であり、以前ならこのやり方では作れなかったと述べている。それは自身の仕事の運びについての監督自身の説明であり、ここではそのままにしておく。この文章はそこから、先の映画の意味について何かを引き出したりはしない。
この図書室には、この文章の隣に立つ別の二篇がある。違いが見えるように名を挙げておく。『アフターサン』についての文章は、aftersun-what-a-child-could-not-have-seen という符号のもとにあり、近いことは届くことではないと論じた。誰かを近くで見つめても、愛しても、傍らで暮らしても、その人の内側は渡ってこない、と。『秘密の森の、その向こう』は、あの文章の反復ではなく、その反実仮想である。『アフターサン』は、子どもの立つ場所からは内側に届かないと言う。この映画は、そもそも届くようにするには何を取り除かねばならないのかと問い、そして答える。変わらねばならないのは愛でも注意でもない。年月である。
そして『ロスト・ドーター』についての文章は、the-lost-daughter-a-mother-who-left という符号のもとにあり、母にもっとも欠けているのは、自分の母であることについての両義的な思いを言えるだけの、社会的に用意された言い方そのものである、と論じた。『秘密の森の、その向こう』はそこに反対側から触れる。マリオンが恐れについてネリーに語るとき、彼女はまだ誰の母でもない。そしてそれが、そうしたことを言っても何も代価がかからない唯一の位置である。その言葉に傷つけられる子どもが、まだ部屋にいないからだ。二本の映画は、難しさがどこに住んでいるかについて一致している。何かができるかどうかについては一致していない。そして答えを得るためにずるをしているのは、一方だけである。
喪失と、相続が渡せないもの
この映画のすべての機会をつくっているのは一つの死であり、映画は、死の数日後に喪失が実際にとる形について正直である。それは事務の形をとる。部屋が片づけられる。歩行器が畳まれる。引き出しが検められ、物は残すものと出すものに分けられ、家具については誰かが決めなければならない。映画はこれにかなりの尺を与え、そして哀切をほとんど与えない。配分として正しい。
相続は二つのものを渡す。物を渡す。物は一つの生の残余であり、受け取る側にはたいてい読めない。そして情報を渡す。日付、逸話、写真、同じく死んでしまった人々の名前。決して渡さないもの、そして渡しえないものは、まだあなたの起点ではなかった年齢のその人である。相続されるのは帰結である。そしてあなた自身がその帰結を構成する項の一つであり、だからこそ、それ以前の人は手の届かないところにいる。
この映画の提案は、もしそれが手に入るなら、親を悼むことは別のものになるだろう、というものである。軽くなるとは言っていないし、映画もそう主張しない。別のもの、である。親への服喪のかなりの部分は、会ったことのない人を悼むことである。その人の存在は写真と、他人の語ることから推し量るほかなく、その人と知り合いでなかったことは誰の落ち度でもなく、いっそう強く思い出すことでは埋め合わせられない。
この映画のもっとも露出した素材はここにある。森の少女はこれから手術を受ける。それにかかわる状態を、彼女自身の母も抱えている。映画はそれに臨床上の名を与えないし、見通しも語らない。そしてこの文章も与えない。映画の寡黙は潔癖さではないからだ。要点は、一人の子どもが怖れているということ、そしてその怖れが母についてのものであると同時に自分自身の身体についてのものである、ということにある。ネリーは、二つの生の全長のうちで唯一、その怖れにその帰結としてではなく対等な者として立ち会える瞬間に、そこにいる。彼女はそれを直せない。八歳が別の八歳に対してするやり方で応じる。つまり、そばにいる。
そして映画は断る。ネリーは戻る。この訪問によって現在の何かが修復されることはない。母は帰ってきて、そして映画は、何かが片づいた、解決した、癒えたと言い立てることなく終わる。提案はなされ、そして換金されない。これが映画のなかでもっとも誠実な点であり、そしてこの議論をまじめに受け取れる理由である。関係が直った状態で帰ってくる版があったなら、それは広告だっただろう。
記述にとどめ、指示に変えないこと
ここには明らかな次の一手があり、この図書室はそれを打たない。娘は母の同時代性に届かないと述べたあと、たいていの刊行物の次の段落は、読者にどうすべきかを告げる。二十代のことを訊きなさい、手遅れになる前に会話を記録しなさい、もっと会いに行きなさい、まだできるうちにもっと良い質問をしなさい。
それを断る理由は二つあり、二つ目のほうが重い。一つ目は、それがこの刊行物のまったく何も知らない特定の関係についての助言になるからである。事情も、経緯も、理由も、ここではまるで分からない読者に向けて。この文章のどこも、誰かの家族についての評価ではないし、誰かの母についての推奨でもない。
二つ目は、その助言が議論と矛盾するからである。届かないものが事実の集まりであるなら、聞き取りはそれを取り戻すだろうし、この文章は親と話しなさいと言うための手の込んだ言い方だったことになる。しかしここでの主張は、届かないのは事実の集まりではなく位置である、というものだ。人は母の若い頃についてのあらゆる事実を知ることができる。仕事、住まい、男たち、怖れ、別の道を選びかけた年。それでもなお会っているのは、すでに自分を産んだ女性であり、語りは向こう側からなされている。事実は届く。見晴らしは届かない。
あとに残るのは記述であり、記述はそれ自体として値をもつ。それは難しさの置き場所を変える。親との隔たりを、一方の率直さの不足か他方の努力の不足として読んできた人は、誰かに落ち度があるという模型を使っている。そしてその模型は、双方向に、低い温度の恨みを生み続ける。隔たりが構造であるなら、誰にも落ち度はない。残るのは、関係がどう組まれているかについての事実であって、その中にいるどちらかへの告発ではない。
対称性も述べておく値がある。映画はそれを持っているからだ。母は子によって同時代の者として出会われないし、同じように、子を同時代の者として出会うこともできない。彼女が出会うのは、その存在のすべてが自分の決断よりあとに来た人であり、収支が締められたあとに到着した人であり、そして彼女には占めることのできない位置から彼女を査定することになる人である。この取り決めの中の誰も、あの午後に森が二人に与えたものを持っていない。これは観察であり、観察のままにしておく。
この家が売っているもの、そしてそれがこの議論に及ぼすこと
これは註ではなく本文に属する。そして何かを引き出す前に、まず自分の利害に反する側から述べる。
この家は、区切られた私的な同伴を売っている。時間は前もって取り決められ、条件は予約する側が定め、そしてその一晩、誰かが心を向けられる。それを念頭に置いて上の議論を読めば、都合のよさはただちに見える。人に欠けているのは、自分についての判定を持たず、蓄積された履歴を持たず、自分の人生がどう転んだかに利害を持たない誰かとの関係である、と主張する文章は、見知らぬ相手との有料の一晩を、構造の問題への答えのように見せる文章である。この映画について、これ以上に私たちの立場に好都合な読解を組み立てるのは難しいだろう。
だから申告には、そこから何を取ってよいかについての制限が伴う。示唆ではなく列挙する。
私たちは、森が与えるものを供給すると主張しない。一晩ぶん買われた取り決めは、判定のない関係ではない。それは、支払いと時計によって判断が停止された関係であり、別のものであり、より小さなものである。両方を経験した者なら違いはすぐに分かる。この映画の主題は、互いの未来について何も知らず、互いに対する力も持たない二人である。商業的な取り決めには明示された非対称が入っている。一方は働いている。
私たちは、誰かの母、誰かの家族、誰かの喪失について助言をしない。理由は前の節で長く述べた。私たちはいかなる成果も主張しない。ここで買われる注意が孤独を和らげる、悼みを楽にする、誰かの親族との関係を改善する、とはどこにも書いていないし、それを含意するものとして読まれるべきでもない。
そして私たちは、この映画とのいかなる関係も主張しない。セリーヌ・シアマ、出演者、製作者、配給者は、この家と何のつながりもなく、相談を受けてもおらず、ここに書かれた一語にも同意する理由を持たない。
この文章と、この映画への、いちばん強い反論
四つの反論を、力を抜かずに置いておく値がある。二つはそのまま当たり、一つは部分的に当たり、一つは主張を狭めることによってしか答えられない。
第一は映画に対するもので、もっとも検証しにくい。そしてそこが反論である。『秘密の森の、その向こう』はやさしく、短く、美しく作られている。そしてその種のやさしさには、きわめて反論しづらい。メタクリティックは、二〇二六年九月十七日に閲覧した時点で、この映画に三十七件の批評による九十三点を与えている。うち三十七件が肯定であり、中間も否定も一件もない。その標本の中の職業的な観客の誰一人として、部分的にすら失敗を見出さなかった映画は、それゆえに偉大な映画なのではない。異論を社会的に気まずくした映画である。子どもと亡くなった祖母についての小さくやわらかな物語に悪口を言うことは、言った者を、そういう物事に悪口を言う種類の人間として位置づける。それは実在する利点であり、そして作品の質とは何の関係もない。この反論は当たる。そして誠実な応答は、この文章自身がいま記述したばかりの型の一部である、と気づくことだけである。
第二も映画に対するもので、こちらが重い。この映画は中心の難しさを、吟味するのではなく宣告によって解いている。難しさとは、娘は母と対等に出会えない、ということである。映画の応答は、方法を明示しないまま、出会えるように手配し、そしてそれがどれほどうまくいくかを見せることである。それは問題の探究ではなく、問題の停止であり、その停止が愛らしいことは、それを議論にはしない。懐疑する者はこう言える。起こりえない条件のもとでなら何でも示せるのであり、この映画が確立したのは、作り手がその出会いがうまくいくさまを想像できた、ということだけである。これはほぼ完全に当たる。生き残る狭い点は、その宣告が見かけとは別の仕事をしている、ということだ。映画が取り除くのは年齢差だけであり、ほかのすべては一定に保たれている。それは願望よりは統制された仮定に近い。しかし仮定は証拠ではないし、それに寄りかかる文章はそう述べるべきである。いま述べた。
第三も映画に対するもので、映画が褒められているまさにその点にかかわるので居心地が悪い。これは母の内面についての七十二分の映画でありながら、その母にきわめて少ないことしかさせていない。大人のマリオンは冒頭の短い区間にいて、去り、終盤までおおむね不在である。子どものマリオンは、自分自身の内面を画面上で持つというより、ネリーと何かをしているところとして見られることが多い。そして三人目の女性である祖母には、さらに少ない。この読みに従えば、この映画はそもそも母についての映画ではない。娘の側からだけ撮られた、母への娘の接近についての映画であり、母は娘が必要とする量と時点において供給される。この反論は部分的に当たる。部分的な弁護は、この映画の主題は本当に娘の位置であり、母の内側を直接に開いてみせる映画は、届かないと言うために存在するはずのその接近を、みずから主張してしまっただろう、という点である。しかし弁護はこの項目を消さない。見終えてマリオンについてほとんど何も教わらなかったと感じる観客は、実在するものを記述している。
第四はこの文章に対するもので、この図書室がもっとも落ち着かないものである。『秘密の森の、その向こう』はおとぎ話である。短く、単純で、自分を説明せず、そして監督自身はその前提を、構造の言葉ではなく神話の言葉、時代を超えたものの言葉で語ってきた。同時代性と判定と親子関係の建築についての主張をそこに見出す数千語の文章は、小さくあることに満足している映画の上に、好みの主題を重ねているだけの商業刊行物かもしれない。これには答えられるが、主張を縮めることによってしか答えられない。擁護できる版は、映画がこの文章の論じたことを論じている、というものではない。映画は、ある種の手に入らなさが見えるようになる状況を組み立てており、その手に入らなさは、作り手の誰かがそれを念頭に置いていたかどうかとは無関係に実在する、というものである。それは一つの読解であり、自分の理由をもつ刊行物によって生み出されたものであり、この映画をただ美しく、こうした荷を負わないものとして受け取る読者は、間違ってなどいない。
この文章が主張していないこと
これは一本の映画の読解である。臨床の指針ではなく、いかなる状態も記述せず、いかなる成果も約束せず、誰も診断しない。ここには読者の状況についての評価はなく、読者の母、家族、喪失についての助言もない。
この文章は映画の台詞を一行も引用していないし、他のいかなる著作の一節も再現していない。画面で起きることについての記述は、記述である。祖母と母が抱えている状態について、映画は臨床上の名を与えておらず、この文章も与えない。ここのどこも、いかなる医学的状態を特定し、説明し、一般化するものとして読まれるべきではない。
製作と映画祭についての事項は、私的な情報源ではなく公表された記録から取っている。『秘密の森の、その向こう』は二〇二一年三月三日に第七十一回ベルリン国際映画祭コンペティション部門で初公開され、金熊賞の候補となり、同映画祭では受賞していない。その年の金熊賞はラドゥ・ジューデに贈られた。上に挙げたのちの賞は、受賞と候補を正確に区別して記している。英国アカデミー賞については候補入りであり、受賞には至っていない。
セリーヌ・シアマに帰した発言は、インタビューにおける公表された発言であり、自身の仕事の運びについての監督自身の言い方として報告している。それらは映画の意味として扱われておらず、監督の意図についての主張は何もしていない。監督も、この映画に関わった誰も、この家と何のつながりもなく、この家を知らない。ここに挙げたいかなる個人、会社、映画祭による推奨も含意されていない。
この文章の中心の議論、すなわち、娘に手の届かないのは母の秘密ではなく母の同時代性であり、年齢差はどれほどの率直さによっても除けない判定を据えつける、という議論は、この図書室の解釈である。研究の知見ではなく、すべての家族についての主張でもなく、いかなる人の集団についても何も述べていない。自分の生活の中にそのどれも見出さない読者は、例外を記述しているのではない。
反論の節で引いた批評の集計値は、一つの集計媒体から一つの日付に読み取ったものであり、その媒体が採録していた批評を反映している。受容の形を記述するために引いたものであって、映画の質を測るために引いたものではない。