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Books · Moonlight Library

『星の時』と、彼女に届かない語り手

一九七七年のブラジルの短い小説は、貧しいタイピストの話を語りながら何度も中断する。語っている男が、彼女に届かない、そもそも語る権利があるのか分からない、と言い出すからである。この中断はふつう枠組みとして読まれる。ここでは議論そのものとして読む。そしてその読みを、制約された生を記述して生計を立てている出版物に向け直す。

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その小説は何度も止まる。とても短い本で、ブラジル北東部から出てきてリオデジャネイロで貧しく暮らす十九歳のタイピストの話なのだが、数頁ごとに、語っている男が話を置いて自分のことを喋りはじめる。

止まったときに彼が言うことは一貫している。彼女に届かない。自分の持っている言葉は彼女の言葉ではないし、最初からそうなる見込みもなかった。彼女を書き記すこと自体が一種の奪取であり、その権利が自分にあるのかどうか確信がない。それでも書き続けるのは、もう彼女をもとの場所に置いて立ち去ることができないからである。

これをどう読むか。ふつうは枠組みとして読む。モダニズムの仕掛け、機構をわざと見せる手つき、作家が自分の作業を開いてみせているのだ、と。そう読めば、中断は本の外側で、マカベーアが内側ということになる。読者は仕掛けの巧みさを味わい、そのあと悲しい話のほうに戻ればよい。

この文章は逆に読む。その居心地の悪さは議論を囲む枠ではない。議論そのものである。そしてこの本を書いたのは、まっすぐ書くこともできた女性だった。材料は自分の子ども時代のなかにあった。にもかかわらず彼女は、それをやりたくてできない男をひとり作り、その失敗を、誰にも見落としようのない位置に置いたのである。

本と、その事実

『星の時』は一九七七年十月二十六日、リオデジャネイロのジョゼ・オリンピオ書店出版社から刊行された。クラリッセ・リスペクトルは同じ年の十二月九日、五十七歳の誕生日の前日にリオで死んだ。日付は以上の二つである。近接している。それは暦についての事実であり、この文章はそこに意味を負わせない。この本は遺書として読んだほうがよく読めるわけではないし、そう読もうとした人はきわめて多い。

成立の経緯については、異例の方法だったという点で記述が一致している。リスペクトルは断片で書いた。ばらばらの紙片に書き、その断片を助手のオルガ・ボレッリの助けを借りて一冊の順序に組み上げた。結果として、流し込まれたのではなく組み立てられたものとして読める本になっている。あらゆる不連続を設計の結果と見なす前に、知っておく価値のある事実である。

起きる出来事は小さい。マカベーアは十九歳、身寄りがなく、北東部アラゴアス州の出身で、学校はほとんど出ておらず、リオでタイピストとして働いているが仕事はできない。ホットドッグを食べる。コカ・コーラとラジオが好きである。オリンピコという恋人は彼女を粗末に扱い、同僚のグロリアのもとへ去る。グロリアは彼女を占い師マダム・カルロタのところへ行かせ、占い師はあなたの人生はこれから一変すると告げる。彼女は通りへ出て、メルセデスに撥ねられる。

筋よりも重いのは二つの形式上の特徴である。扉には題が一つではなく十三並んでいる。リスペクトル自身が一九七七年二月に収録されたテレビのインタビューでそう述べ、全部を挙げることは断っている。記録に残るものには、刊行時の題のほかに「わたしのせいです」「彼女の勝手にさせろ」「裏口からの目立たない退場」がある。そして献辞は「著者の献辞」と題されたうえで、括弧のなかで著者が実はクラリッセ・リスペクトルであると訂正されている。彼女は、自分の作った男に割り当てた頁に、自分の名で署名しているのである。

ロドリゴ・S・Mとは誰で、何のためにいるのか

ロドリゴ・S・Mは通常の意味での筆名ではない。階級的な位置と気質と問題を持った登場人物である。彼は男性の作家で、暮らし向きは悪くなく、北東部から出てきた娘の話を書くと宣言し、そのあと本のかなりの部分を、書き進められないままに費やす。

ブラジルの論評には、このイニシャルの読みがいくつかある。男性名詞の略だという読み、陛下の略だという読み。いずれも批評家が提出した解釈であって著者の言明ではない。解釈として報告すべきものであり、本文についての事実として扱うべきものではない。

彼の中断は装飾ではない。彼は、この話は作り物だが本当だと述べる。両方が同時に真でありうる文ではなく、その成立しなさによって働いている文である。彼はまた、文章を美しくすることを意図的に拒むと説明する。自分の言語が触れれば、彼女の持っているものは彼女に使えないものへ変わってしまうから、という理由である。うまく書かれた貧しい女は、女である前にうまく書かれた物になる。その懸念に対する的確な言い方である。そして彼は一定の間隔で、自分は失敗していると告げる。

献辞が構造上の手がかりである。ロドリゴが単なる仮面であったなら、つまりクラリッセを意味せずに「わたし」と言うための装置であったなら、献辞は彼のものであり、冗談はそこで閉じていたはずである。ところが実際には、その頁は彼に手渡す当のその動作のなかで、彼を作った女の名で署名されている。彼女は継ぎ目を読者に見せている。彼は彼女の口実ではない。彼女の陳列物である。

居心地の悪さは枠ではなく議論である

書かれなかったほうの版を考えてみるとよい。リスペクトルは北東部で子ども時代を過ごしている。語彙も、気候も、飢えも、訛りも持っていた。マカベーアを三人称の近い位置から、共感と精度をもって書くことはできた。そうすれば、短く、打ちのめすような小説ができあがっただろう。すでに存在していた種類の小説であり、読者がどう称賛すればよいか知っている種類の小説である。

彼女はそうしなかった。読者と女のあいだに男を一人置き、その仕事に合わない道具を持たせ、道具との格闘のほうを実際に起きる出来事にした。この小説の出来事はメルセデスではない。出来事は、ある人物が別の人物の内面を描き出そうとして、公衆の面前で、長い時間をかけて、できないと判明することである。

これは限界についての主張であり、平たい言葉で述べておく価値がある。自分が一度も共有したことのない条件のもとにいる人の代わりに語ることはできない。そして、非常にそうしたいと思っていることは、その事実を変えない。ロドリゴが持っているのは、そうしたいという思いだけである。それだけを持っていて、本はその全体を、それでは足りないと示すことに費やされる。

これが文学の外まで届くのは、この問題に対する文化の標準的な解決が共感だからである。十分に深く感じれば理解したことになる、他者をうまく描けないのは心の不足であり、もっと心を寄せれば直る、という理屈である。リスペクトルの語り手は途方もなく心を寄せている。動かされ、後ろめたく、優しく、取り憑かれている。そしてどこにも到達しない。この小説は標準的な解決に反論しているのではない。頁の上で、緩慢に、それを不成立にしてみせている。

共感は接近ではない

ロドリゴの感情には、この本が片づけずに残しているものがもう一つある。彼の憐れみには食欲が混ざっている。彼は彼女を必要としている。彼自身がそう言う。書けずにいる物語は、彼が欲しい物語でもあり、その欲しさは同情から切り離せない。自分についての描写が本当であってほしいと相手が必要としていた、そういう愛情深い描写をされた経験のある読者には、この形に見覚えがあるはずである。

研究もこれを文体上の癖としてではなく真面目に扱っている。アメリカ民族学会が二〇二六年一月に公開した論考は、語り手の不適格さこそがマカベーアを不可知のものとして保っていると論じる。過剰な自意識が読者を彼の説明に懐疑的にさせ、その懐疑が彼女を解釈による支配から守る、という筋である。二〇一七年の雑誌INTIの論文は、同じ本を貧困と他者の表象という主題のもとで正面から扱っている。

どちらの読みも、失敗が単に起きているのではなく何かをしている、という点では一致している。寛大な読みであり、この文章はそれを採る。ただし一つ留保があり、後ろから二番目の節でそこに戻る。主題を守る失敗は、同時に本を届けてもいる。そして本は刊行される。

小説を書くわけではない人にとって使える区別は、もっと狭くて厳しい。ある人生についての記述に本当に心を動かされながら、その人生を知らないままでいることはできる。心を動かされることは自分のなかの状態である。それは文を生み、ときに気前のよさを生み、そして情報ではない。この小説は二百頁に満たない分量のあいだ、その二つを離して持ち続ける。困難な人生についての文章の大半は――この図書室が出しているものの大半を含めて――その二つを静かに一つに崩している。

リスペクトル自身の位置を、正確に述べる

彼女は一九二〇年十二月十日、現在のウクライナ、ポジーリャ地方のチェチェルニクで、ハヤ・ピンハソヴナ・リスペクトルとして生まれた。ロシア帝国の崩壊後のポグロムで被害を受けたユダヤ人の家族である。一家は一九二一年の冬に発ち、一九二二年の初めにブラジルへ着いた。彼女は一歳を少し過ぎたところだった。ヨーロッパの記憶はなく、移民作家として自分を呈示することもなかった。

一家はまずアラゴアス州のマセイオに落ち着いた。マカベーアの出身州である。その後レシフェへ移り、彼女は十五歳までそこで育った。母は彼女が九歳のときに死んだ。彼女は法学を修め、外交官と結婚し、数年を国外で過ごし、結婚が終わった一九五九年にブラジルへ戻った。二人の息子を育て、ジャーナリズムで生計を立て、時期によっては別の女性の名前で新聞のコラムを書いていた。

したがって、よくある反論――裕福な女が貧しい女を書いた――は、通常の言い方のままでは正確ではない。彼女は教養があり、各地を見て、有名でもあった。そして成人後の長い期間、金のために圧力のもとで働き、書いたものを常に世に出せたわけでもなかった。この訂正が重要なのは、不正確な反論は簡単に退けられてしまうからであり、この反論の正確な版は簡単には退けられないからである。

正確な版はこうである。距離は現実にあった。ただしそれは富の距離ではなかった。彼女は読者と出版社と名前を持つ文学者であり、ほとんど字の読めない女について書いていた。そして彼女自身の言葉が、さらに事態を複雑にする。ここは均してはならない。同じテレビのインタビューで彼女は、あの子は北東部の人間であり、自分はいつか自分の生きた北東部を外に出さなければならなかった、という趣旨を語ったと伝えられている。これは近さの主張として聞ける。自分はここでは観光客ではない、という主張である。同時に用途の記述としても聞ける。ある女の生が、別の女の片づいていない用事の乗り物になった、という記述である。どちらの聞き方もその一文のなかに入っている。この文章はどちらが正しいかを決めない。

二つの英訳と、受容がそれをどう扱ったか

この小説には英訳が二つある。ジョヴァンニ・ポンティエーロ訳は一九八六年にマンチェスターのカーカネットから、一九九二年に合衆国のニュー・ディレクションズから出た。ベンジャミン・モーザー訳は二〇一一年にニュー・ディレクションズから、コルム・トビーンの寄稿を添えて出て、以後も版を重ねている。

二つめは予定ではなく介入によって生まれた。二〇一一年九月のパブリッシャーズ・ウィークリーで、クレイグ・モーガン・タイカーは次のように報じている。ニュー・ディレクションズは当初、ポンティエーロ訳にトビーンの序文を付けて再刊する計画だった。二〇〇九年にリスペクトルの伝記を書き、同社のリスペクトル叢書の編者を務めていたモーザーが、発行人バーバラ・エプラーを説得して新訳を発注させ、自分でそれを訳した。タイカーは、既存の英訳の大半は英語としてほとんど読めない代物だったというモーザーの言葉と、ポンティエーロ訳にもそれなりの美点があり、二つのうちではあちらのほうが滑らかだというエプラーの言葉を、それぞれ引いている。

その後の書評に流通している比較はこの線に沿っている。ポンティエーロはより文学的で落ち着いて読め、モーザーはより奇妙で、より都市的で、ポルトガル語の表面に近い、という比較である。これは公表された意見の傾向であって調査の結果ではなく、そのように報告されるべきものである。

別の筋からの異議もある。二〇一九年八月のロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックスで、リスペクトルの『シャンデリア』を訳したマグダレーナ・エドワーズが、その仕事で自分が受けた扱いについての記述と、モーザーが叢書の編集権をどう行使し他の訳者をどう扱ったかについての批判を公表した。同じ文章のなかで彼女は、影の長い小さな本文上の問題を指摘している。マカベーアを轢く車は、ポンティエーロの英語では黄色である。モーザーの英語にその色はない。この図書室はポルトガル語の原文を読んでおらず、したがってどちらの英語がより忠実かについても、そこで記述されている職業上の振る舞いについても、判断を述べない。両当事者の名を挙げて、争いがあるという事実を報告する。

この文章に属するのは、党派的な点ではなく構造上の点である。英語の読者は、ポルトガル語の読者よりもう一段隔てられたところでマカベーアを受け取る。彼女に届かないと述べる架空の男によって描き出され、さらに、他の訳者から選択を争われている翻訳者によって描き直されている。この本の主題が、その伝達のされ方によって再演されている。翻訳で読むなという議論ではない。よい翻訳が誘うほどにはその完成品を強く握らないでおく理由である。

日本語では、そしてこの夏の画面では

ここの読者が実際に持つ問いなので、何を探して何が見つかったかを明示しておく。日本語訳はある。『星の時』、福嶋伸洋訳、河出書房新社、二〇二一年三月二十七日刊、一九二頁。二〇二二年五月十七日に発表された第八回日本翻訳大賞を、クオンから出た韓国の一冊と同時に受賞している。二〇二六年七月七日には改訳を収めた河出文庫版が出て、著者の息子による文章と解説を収めている。この小説がブラジルで刊行されてから日本語の読者に届くまで四十四年かかっている。

映画化はスザナ・アマラルによる一九八五年の作品で、九十六分、マカベーア役はマルセリア・カルタッショ、占い師役はフェルナンダ・モンテネグロである。カルタッショは一九八六年の第三十六回ベルリン国際映画祭で銀熊賞の女優賞を受けた。この作品は第五十九回アカデミー賞の外国語映画賞にブラジル代表として出品され、候補には入らなかった。4Kレストア版が二〇二六年八月二十一日から日本で公開され、新宿武蔵野館、Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下ほかで上映された。日本の配給・興行の告知はこれを日本初公開と記している。ここではそれを、告知がそう述べているという形で報告するのであって、独立に確認された事実として述べるのではない。

記録のある相違が一つある。映画はマカベーアの舞台をリオデジャネイロからサンパウロへ移している。記録が取れなかったことも一つあり、推測するよりそう言うほうが誠実である。この文章は、映画が語り手ロドリゴ・S・Mをどう扱っているか、あるいは扱っていないかについて、信頼できる記述を得られなかった。これは小さな欠落ではない。語り手のいない版は、問題そのものを取り除いた版だからであり、読者は切符を買う前にそれを知りたいと思って当然だからである。ここではどちらとも述べない。

この節はいかなる推薦でもなく、本にも翻訳にも映画にも関わった人々は、この家と何の関係も持たない。小説を称賛しておきながら読者がそれを手に取れないままにする書評頁は仕事をしていないので、日本の読者にとっていまこの作品がどこにあるかを記録として置いている。

この図書室が制約された生を書くとき、していること

この文章が存在する理由である一文を、締めくくりの飾りとしてではなく平たく述べる。この図書室にある、女性の制約された生を記述している文章はすべて、ロドリゴがしていることをしている。

私たちは、書いている当人よりも選択肢の少ない女性たちについて、流暢で、よく作られた散文を書く。自分が居たことのない内面を組み立てる。望みを言えない女、狭くなった結婚のなかの女、金も部屋もない女。それを、理解として読めるだけの丁寧さで行う。私たちの文章の読み心地は、ロドリゴが作り出そうとしている読み心地である。彼と私たちの違いは、彼はうまくいっていないと声に出して言い、私たちはたいてい言わない、という点にある。

この図書室は、他人の本の内側で、この問題の周囲を以前にも回っている。その先行の仕事は、黙って繰り返すのではなく明示して受け継ぐべきものである。ハン・ガン『菜食主義者』についての読解は、家族が受け取れる語彙で説明できない拒絶が病として再分類されること、そしてこの小説が中心にいる女の内面を意図的に差し控えていることを論じた。三人の語り手が彼女を読み損ない、その読み損ないこそが作品だった。ケイティ・キタムラ『親密さ』についての読解は、一人称の完全な流暢さは著者性と同じではないと論じた。通訳は、自分のものではない「わたし」を口にするからである。リサ・タデオ『三人の女』についての読解は、望みの代価はそれが獲得する観客によって決まると論じ、どの章にも四番目の観客として本そのものがいると指摘した。

いずれも、ある作品のなかにこの問題を見つけた。三度見つけたことから出てくる一文を言ったものはない。その一文とは、この図書室はこの型の観察者ではなく参加者だ、というものである。リスペクトルの本は、それを心地よいものにする代わりに見えるものにする一冊である。ここでの用途はそれである。称賛する本としてではなく、私たち自身の手つきが自分に見えなくなるのをやめる鏡としてである。小説に払われた褒め言葉としてではなく、この出版物についての所見として述べている。

この家と、その利害と、主張できないこと

この家は日本の成人女性に向けた私的な同伴を売っており、この図書室を出している。二つはつながっている。人が文章を読み、その一部が客になる。制約された生を記述し、そこからの緩和に隣接するものを売る出版物は、それらの生が制約されたものとして記述され続けること、そして読者がその記述のなかに自分を見出すことに、利害を持っている。その利害は本文のなかで、ここで申告する。末尾の注記では、議論が働き終えたあとに届くことになり、役に立たないからである。

そこから四つのことが、拒否として出てくる。この家は、ここにあるものを読むことが誰かを改善するとは主張しない。読者の事情を知っているとは主張せず、上に書かれたいかなるものも特定の誰かの生の記述ではない。自分の取り決めについては、あるがままに述べる。区切られ、日程が決まっており、支払いのある時間であって、関係でもなければ処方でもない。そして、表象の限界についての文章を出したことによって、他の文章が誰かをよりよく表象できるようになったとは主張しない。

さらに述べておくべきことがある。利害を申告しても、利害は消えない。ロドリゴは絶えず申告しており、それによってマカベーアへの通路を得ているわけではない。得ているのは良心的に見えるという体裁であり、そのあいだ奪取は進行している。それこそがこの小説の示していることであり、彼だけでなくこの節にも当てはまる。開示は情報の一片であって道徳上の達成ではない。この図書室はやっていることを続けるためのより洗練された方法を身につけただけだ、と読者が結論するなら、それは次の節が答えるのではなく真剣に受け取る議論である。

この文章に名前の出てくる著者、翻訳者、出版社、監督、俳優、研究者は、いずれもこの家と関わりを持たず、この家を知らず、この家を是認していない。本と映画は、読者がそれを見つけられるように挙げている。

この読みに対する反論

第一の反論がもっとも強く、本そのものに向いている。表象の不可能性についての小説も、やはり表象している。マカベーアは頁の上にいる。この本は刊行され、称賛され、教えられ、英語に二度、日本語に一度訳され、映画になり、4Kで修復され、再公開された。そのどれも語り手の逡巡によって妨げられていない。むしろ逡巡こそがそれを許容可能にしたのだ、という議論は十分に立つ。十分に早い位置に置かれた告白は許可として機能する、そして私にはこれをする権利がないと述べてからそれをすることは、その行為が誠実さとして称賛されるように段取りを整えることだ、という議論である。この読みでは、中断は奪取に反対する議論ではない。奪取のもっとも有効な免許である。

第二の反論はそこから続く。仕掛けが何をしようと、マカベーアは貧しくない読者のために描き出された貧しい女のままであり、描いたのは執筆当時すでに公的な文学者だった書き手である。リスペクトルの経済状況についての先の訂正は、この反論を狭めはするが解消しない。彼女は裕福ではなかった。それでも筆を持っていたのは彼女であり、出版社と読者と名前を持っていた。力の差を前景化することは、それを変えることと同じ行為ではない。どれだけ形式上の誠実さを尽くしても、書き手から対象へ何かが一単位でも移るわけではない。

第三の反論は、この文章のようなものに向いている。この本を方法についての本として読むことは、それがブラジルの貧困について述べていることを迂回する手口かもしれない。日々の条件としての飢え、来た人間に用のない都市への北東部からの移動、ほとんど学校を出ていない女を採っては捨てる労働市場、そして他人の富に属する車の下での死。それらすべてを書くことの倫理についての寓話に変えれば、内容を犠牲にして小さな慰めを実行したことになる。飢えた女についての本を、私たちのような人間が仕事をしながら複雑な気持ちになる本に変えた、ということである。

第四の反論は、この図書室が答えられないものであり、答えられるふりもしない。この文章は、他者の代わりに語ることの不可能性についての小説を取り、他者の代わりに語ることを職業として、金を取って行っている出版物に、良心を目に見える形で掲げたうえで免許を与えるために使った。それはまさに第一の反論が名指した手口である。許可としての告白である。私たちは自分の方法を可視化し、それによって自分の方法をより弁護しやすいものにした。そして私たちが書いている女性たちについては何一つ変わっていない。これに対する応答で、同じ手口のもう一度の実演にならないものはない。ここでは認める。

誠実な狭めが一つあり、差し出せるのはそれだけである。この文章は、認めたことによってこの実践が正当になるとは主張しない。反対されている当のもののなかに反対を印刷すれば片づく、とも主張しない。主張しているのは、反対が本文のなかにある状態で行うほうが、反対が不在の状態で行うよりましだ、ということだけである。きわめて小さな主張であり、弁護ではない。読者はそれを不十分と判断してよいし、この議論に対する正しい応答はリスペクトルを読んで私たちを読むのをやめることだ、と結論してもよい。

この文章が主張していないこと

これは文学と編集についての分析である。臨床の指導ではなく、いかなる治療も記述せず、いかなる結果も約束せず、誰も診断しない。ここにあるいかなるものも、読者の生活、境遇、能力についての言明ではない。

刊行と死去の日付を挙げているのは、それが記録上の事実だからである。小説は一九七七年十月二十六日にリオデジャネイロのジョゼ・オリンピオから出され、クラリッセ・リスペクトルは同年十二月九日に死んだ。その近接に解釈上の重みは置いていない。この文章はこの本を遺書としても、別れとしても、予感としても提示しない。

ロドリゴ・S・Mは小説の登場人物であり、そのようなものとして論じている。マカベーアも小説の登場人物であり、そのようなものとして論じている。上のいかなる箇所も、この二人を実在の人物として提示していない。また、リスペクトル自身を含め、実在の人物の内面を確立した事実として提示してもいない。彼女の見解を報告している箇所は、一九七七年二月に収録され死後に放送された一度きりのテレビのインタビューにおいて彼女に帰されている発言として報告しており、この図書室が検分した一次の書き起こしからではなく、その放送についての二次的な記述からの報告である。

この小説のいかなる一節も、いかなる翻訳においても、この文章のどこにも引用していない。語り手が何を言うかについての記述は立場の言い換えであり、議論を追えるようにするために置いているのであって、本文の代わりになるものではない。イニシャルS・Mについての読みは、批評家の提案として報告しており、著者の言明としてではない。

二つの英訳については、刊行上の事実と、名前の分かる論者がそれについて書いたことによって記述している。この図書室はポルトガル語の原文を読んでおらず、どちらの英語がより忠実かについての判断も、ロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックスの記述にある職業上の振る舞いについての判断も述べない。後者は一方の当事者が公表した記述として報告している。

映画についての詳細は、参照記録と日本の配給・興行の告知から取っている。この図書室はこの修復版を観ていない。舞台がサンパウロへ移されていることは述べ、映画が語り手をどう扱っているかは典拠が得られなかったのでその点については何も述べない、ということも述べている。

制約された生についての文章にこの家が持つ商業上の利害は、ここではなく上の本文のなかで申告している。議論が働き終えたあとに現れる申告は、申告ではないからである。この文章が、記述している当の実践に免許を与えているという反論については、反対の節が反駁ではなく承認を行っている。

この文章は日本語が源の語法であり、英語は翻訳ではなく併走する文章である。日本語は独立の校閲を受けていない。

ここから続く問い

別の入口から読む