Books · Moonlight Library
「エロティックの用途」は許可ではなく、物差しである
オードリー・ロードが一九七八年に読み上げた一篇は、望むことへの温かい許可として流通している。初めから読めばそれは逆である。彼女はエロティックなものを物差しとして提案した。ひとたび満ち足りを感じてしまえば感じなかったことにはできない内側の基準であり、その基準に照らせば仕事も結婚もありふれた火曜日も採点の対象になり、そして大半は落第する。いちばん引かれる行が、いちばん柔らかい行である。有償の親密さを売る家による読解。この文章に対してこの家が抱える不都合は、議論のあとではなく先に申告する。
この一篇は、読まれる回数よりはるかに多く引用されている。トートバッグに刷られ、ニュースレターの冒頭に置かれ、ウェルネス系ブランドの宣伝文に紛れ、それが収められた本を開いたことのない人の自己紹介欄に並ぶ。その流通のなかで、この文章には定まった意味が与えられた。そしてその意味は親切である。あなたは望んでよい。快さは軽薄ではない。心地よく感じることそれ自体が抵抗の一形態である。温かく、許可を与え、肩に手を置いてくる。
しかし、この論考はそう言っていない。初めから読めば、「エロティックの用途 力としてのエロティック」は、二十世紀のフェミニズムの散文のなかでもっとも人を慰めない文章の一つである。オードリー・ロードがエロティックなものに与えた語は、物差しである。彼女はそれを、内側にある満ち足りの感覚として提示する。ひとたび経験してしまえば、それが到達しうるものだと知ってしまう感覚であり、そして知ったあとは、当てることをやめられなくなる感覚である。
そこから彼女が引き出す帰結は明示的であり、柔らかくない。その深さの感情の充溢を経験した以上、名誉と自尊において、自分自身にそれ以下を求めることはできない、と彼女は書く。求めることができない、である。許される、でも、値する、でもない。この文章は読者に定規を手渡し、これですべてを測れと言う。仕事を、結婚を、友情を、何の変哲もない火曜日を。その大半は寸法に足りないだろう。それは慰めではなく要求である。
議論が説得的に響きはじめる前に、一つ申告しておく。この家は有償の私的な同伴を売っている。ロードの論考の中ほどには、善を人間の必要ではなく利潤によって定義する仕組みへの批判があり、そうした仕組みは営みから、まさに彼女が語っている質を奪うのだと書かれている。この家の一晩には値段がついている。あの一節をどう読んでも、値段のついた一晩が無傷で出てくる読み方はない。後段の反論の節では、これに答えるのではなくそのまま認める。
その論考がどこで読まれ、誰によって書かれたか
まず事実から述べる。この文章の評判は、その機会からずいぶん遠くまで漂流してしまった。「エロティックの用途 力としてのエロティック」は、一九七八年八月二十五日、マウント・ホリヨーク大学で開かれた第四回バークシャー女性史会議で読み上げられた。この文章に付されている前書きは、それがアウト・アンド・アウト・ブックスからパンフレットとして刊行され、クロッシング・プレスから入手できたと記している。ただしパンフレットの刊行年については、図書館目録と古書業者の記録が一致しない。一九七八年とするものも、一九八〇年代初頭とするものもある。ここでは調べたうえで確定できず、確定できなかったこと自体を報告する。この論考は一九八〇年、ローラ・レダラー編『テイク・バック・ザ・ナイト 女たちがポルノグラフィを語る』に再録され、一九八四年、クロッシング・プレス刊の『シスター・アウトサイダー 随筆と講演』に収められた。
オードリー・ロードは一九三四年に生まれ、一九九二年に没した。グレナダから渡ってきた両親のもと、ニューヨーク市に生まれ、合衆国領ヴァージン諸島のセントクロイ島で亡くなった。第一に詩人であり、第二に随筆家であって、散文は詩と同じ企図に仕えている。
彼女は黒人でレズビアンのフェミニストの書き手であり、この論考は終盤で自らそう述べている。激しく踊り、遊び、争いもした女たちに対して自分が抱く特有の感覚と知があると書き、そしてエロティックなものは他人を介して感じることはできないと述べる。それは、それなしでも成り立つ議論にあとから付けられた伝記的な装飾ではない。何が、誰によって、誰の利益のために抑えつけられてきたのかという説明は、特定の抑圧についての説明であり、特定の聞き手に向けられており、特定の生から出ている。
このことは、他の誰かがこの文章をどう使ってよいかにかかわる。その位置から物差しだけを取り出し、どこか別の場所の一般の読者に差し出す読み方は、この文章が許していないことをしている。そしてこの文章は、まさにそういう読み方である。それをここで先に述べておく。後段の反論の節はこの点に戻り、そして手放さない。
物差しは、許可ではない
この論考が要とする区別は、言うのは簡単で、見失うのも簡単である。許可は、何をしてよいかを変える。物差しは、何に気づかずにいられなくなるかを変える。前者は贈り物であり、後者は据え付けに近い。
ロードはエロティックなものを、自己という感覚の始まりと、もっとも強い感情の混沌とのあいだに置き、それを内側にある満ち足りの感覚と呼ぶ。ひとたび経験すれば、そこへ向かいうるとわかってしまうものだと。この一文の重みはすべて、経験してしまえば、という節にかかっている。それ以前には、何かを何かと比べるための当てがない。それ以後には基準がある。そしてその基準は、都合が悪くなったからといって切れてはくれない。
その基準が何をするのかについて、彼女の記述は曖昧でない。それは、自分の存在のあらゆる側面を精査するための一つのレンズとなり、それらが自分の生のなかで実際にどれほどの意味をもつのかを、正直に評価することを強いる。彼女はこれを重い責任と呼び、これ以上受け入れ続けることができなくなる四つのものを名指す。都合のよいもの、粗末なもの、慣習として期待されているもの、そして、ただ安全なだけのもの。打撃を与えるのは最後である。都合のよいものと粗末なものは切り捨てやすく、誰も擁護しない。しかし、ただ安全なだけのものは、大半の大人が選ぶよう勧められているものである。家族から、雇い主から、世間一般の実際的な助言から。ロードはそれを同じ一覧に入れている。
だからこそ、この文章の評判とこの文章の主張は離れてしまった。流通するのは、何も要求しない箇所である。戦時の人造バターの挿話は、白い脂の入った袋のなかに黄色い着色の粒があり、袋ごと揉んで色を全体に行き渡らせるという、この論考でもっとも多く引かれる場面であり、たしかに魅力的で、そして彼女が書いたなかでもっとも要求の少ない段落でもある。要求は二頁手前にあり、トートバッグには収まらない。
この図書室は以前、毎年繰り返される儀式が二人についての測定として働くこと、そして望みを言葉にすることは価値ではなく測定を支払うことだと論じてきた。ロードの版はそのどちらよりも大きい。測られているのは一晩でも一つの頼みごとでもない。生そのものであり、測定器は、かつて満たされたことがあるという記憶である。
寝室は、物差しが無害化されるために送り込まれる場所である
この論考でもっとも影響の大きい観察は、性についてのものではない。エロティックなものが、どこで作動してよいとされているかについてのものである。
ロードは、女たちが、エロティックな要求を性以外のあらゆる生の重要な領域から切り離すよう教えられてきたこと、そしてエロティックなものは、認められる場合ですら寝室のみに追いやられていることを指摘する。彼女はこれを潔癖さではなく封じ込めとして扱い、その論理は通っている。一つの部屋でしか当ててはならない基準は、ほかの部屋には当てられない。物差しを寝室に閉じ込めておけば、仕事はそれに触れられずに済む。
したがってこの論考の大きな部分は労働について書かれている。彼女は、人はどれほどの頻度で、もっとも困難な局面においてすら自分の仕事を本当に愛しているのかと問い、その問いを修辞ではなく診断として扱う。善を人間の必要ではなく利潤によって定義する仕組み、あるいは人間の必要をその心的・情緒的な成分を除外して定義する仕組みの、もっとも大きな害悪として彼女が名指すのは、そうした仕組みが労働からこの質を奪い、労働を糧を得るための義務に切り下げてしまうことである。それが人に何をするかについて彼女が示す像は、目を潰されたうえで、絵をもっとうまく描け、描く行為を楽しめと言われる画家である。彼女はそれを、深く残酷だと呼ぶ。流通の過程で脱落するのはこの労働の議論であり、理由を察するのは難しくない。身体を楽しんでよいという主張には支払いがなく、有償の労働の通常の組み立てが同じ能力への攻撃であるという主張は、請求書である。
彼女の文中にある一つの留保が、この全体が業績への要求になってしまうことを防いでいる。エロティックなものは、人が何をするかだけの問題ではなく、その行いのなかでどれほど鋭く、どれほど十全に感じうるかの問題である、と彼女は明言する。したがってこの物差しは、立派な活動の一覧ではない。同じ作業をしている二人が、必ずしも同じことをしているとはかぎらず、その二人の差こそが測られているものである。彼女は本棚を組み立てること、詩を書くこと、一つの考えを吟味することを同じ位置に並べる。それは意図された平板化であり、思いつきではない。
感じることのない感覚
ここからが、この論考でもっとも歪めて伝えられている部分であり、正確に述べる必要がある。ロードはエロティックなものをポルノグラフィ的なものから区別する。根拠は狭く、具体的である。ポルノグラフィ的なものは、真の感情の抑圧を体現しているがゆえにエロティックなものの力の直接の否定であり、それは感じることのない感覚を前面に出す、と彼女は書く。
この一文が実際に含んでいるものを読み取ってほしい。基準は、その経験をしている当人において感情があるかないかである。何が描写されているか、性的にどれほど露骨か、どの産業のことか、何を刊行してよいか、といった基準ではない。彼女が記述しているのは、感覚の水準では多くのことが起きているのに、当人は自分が何を感じているかから目をそらしている、そういう注意のあり方である。
論考の残りは、道徳的な読みではなくこの狭い読みを支える。終盤で彼女は、深い感情が別の名のもとで経験される機会について述べ、宗教、群衆の暴力、子どもの医者ごっこを例に挙げ、そうした機会がほぼつねに、同時に目をそらすことと、それを何か別のものと呼ぶ見せかけによって特徴づけられると言う。必要と行いを取り違えて名づけることが、感情の濫用を生むのだと。そして彼女は、内容ではなく振る舞いについての線を引く。他人の感情を分かち合うのではなく用いることは用いることであり、用いられる者の同意のない使用は濫用である。つまりこの区別は、注意と同意についてのものである。性的な題材についての立場として読むには、その前後の文を無視しなければならない。
この誤読には辿れる原因がある。この論考は一九七八年、ポルノグラフィをめぐるフェミニズム内部の論争のただなかで書かれ、配られた。そして一九八〇年、『テイク・バック・ザ・ナイト 女たちがポルノグラフィを語る』に再録された。あの本のなかに置かれた文章は、内部の論理がどうであれ、あの運動への寄与として読まれる。そこで初めて出会った読者は、一行も読まないうちにそれが何であるかを告げられている。
あわせて言わねばならないのは、彼女が残したままの形では、この区別は詰めきられていないということである。適用の手続きがない。頭の外にいる誰も、そこに感情があったかどうかを判定できない。そして頭の内側にいる当人は、少しの動機さえあれば望む答えに辿り着ける。これは本物の弱点であり、後段の反論の節はここに戻る。
この図書室は以前、性的に見えることと官能を感じることを切り分け、ジャック・モリンの『ジ・エロティック・マインド』を刺激の本ではなく想像力の本として読んできた。ロードの区別はその隣にあり、別の仕事をしている。彼女の問いは、何が人を昂ぶらせるかではなく、その部屋にいる誰かが、そもそも何かを感じているのか、という問いである。
この論考でないもの、三つ
この文章の旅の仕方を見れば、それが何でないかを明示しておく値がある。三つの誤読はいずれも、原文を慰めの方向へ改良している。
それは許可証ではない。人の望みが正当だとは一度も言っていないし、正当性という範疇をそもそも使っていない。言われているのは、女には判断の能力があり、そしてそれを信用しないよう組織的に訓練されてきた、ということである。この二つは別の命題であり、後者のほうがはるかに愉快でない。判断の能力は、許可とちがって、望まない判定を返してくることがあるからである。
それは快さがよいものだという主張ではない。ロードの単位は快さではなく、満ち足りである。内側で完了したという感覚、あるものを十全に感じ切ったという感覚である。人は大量の快さを得ながら、彼女の物差しにまったく届かないことがありうる。そして彼女はその場合を直接名指している。感じることのない感覚とは、背後に何もない快さの量のことである。この論考は、とりわけ、快さと満ち足りは離れうるという議論である。
それは性の解放の宣言ではない。性は出てくるし、周縁でもないが、より大きな範疇のなかの一領域である。この論考でもっとも意図的な一文において、彼女はよい詩を書くことと、愛する女の身体に向かって陽光のなかへ入っていくことを同じ位置に置き、塀を塗ることと詩を書くことの差は量の差でしかないと述べる。この一文の眼目は、その同じ位置のほうにある。
そしてそれはセルフケアではない。いま最も多く引かれているのがその調子であるにもかかわらず、である。セルフケアは、何がなだめてくれるかを問う。ロードの物差しは、何が満たすのかを問い、そのうえで、一日の大半は満たさなかったと気づくことを強いる。休息になるのは一方だけである。
物差しは、機会がなければ使えない
物差しは、何かに当てなければならない。当てるためには、本物の満ち足りが実際に起こりうる機会が要る。約束されている、でも、目指されている、でもなく、起こりうる、である。ロードはそうした機会を前提している。もっとも困難な局面でも愛される仕事、踊ること、本棚を組み立てること、吟味される一つの考え、陽光のなかの身体。物差しを持ちながら、それを置く場所をほとんど持たない人に何が起きるかについて、この論考は何も言わない。彼女が書き込んでいた状況がそれではなかったからである。
この図書室は日本の成人読者に向けて刊行しており、以下の観察は機会の供給についてのものである。誰かの感じる能力についてのものではなく、日本の女性についての、あるいはどの集団についての言明でもない。これは取り決めについての言明であり、取り決めは数えられる。
いくつかは公的に数えられている。厚生労働省の就労条件総合調査、二〇二四年十二月に公表された回によれば、労働者一人平均の年次有給休暇の付与日数は十六・九日、取得日数は十一・〇日、取得率は六五・三パーセントで、一九八四年以降で最高と説明されている。記録上もっとも良い年において、法的に付与された権利のおよそ三分の一が使われないまま残った。この数字が記述しているのは企業であり、契約であり、職場の規範である。いかなる個人も記述しておらず、日数を取らなかった誰かへの判定でもない。
その隣に、位置づけのより緩い民間調査がある。ギャラップは、二〇二二年に日本の労働者のうち仕事に前向きに関与している者は五パーセントであり、世界平均が二十三パーセント、経済協力開発機構加盟国平均が十八パーセントであったと報告している。およそ千人の成人への電話調査で、うち七百人超が就業者である。自己申告の態度を国をまたいで比較することは回答尺度の使い方の差によって撹乱されるため、これは粗い目安であってそれ以上ではない。引くのは一つの目的のためだけである。これは欲求の測定ではなく、機会の測定だからである。
もう一つ、言葉についての小さな観察がある。値するぶんだけ狭く述べる。日本語には、耐えることについて際立って使い勝手のよい日常語彙がある。我慢する、辛抱、頑張る。文学的にならずに、自分について、同僚について、短い連絡のなかで使える普通の動詞である。ロードの物差しが必要とする文、つまり、これは自分を満たした、だから自分はこれ以下を求めない、という文に対応する同じくらい普通の動詞はない。これは、ある特定の文がどれほど容易に組み立てられるかについての観察であって、その言語の話者が何を感じるかについての観察ではない。どの言語にもこの種の空隙はある。ただこの空隙は、物差しが声に出されねばならないその一点に位置している。
そしてこの論考そのものが、まだ届いていない。国立国会図書館の目録をオードリー・ロードおよびシスター・アウトサイダーで検索したところ、単行本としての日本語訳は見当たらなかった。二〇二二年に立ち上げられたクラウドファンディングの企画は、『キャンサー・ジャーナルズ』と『シスター・アウトサイダー』所収の四篇を組み合わせた一冊を予告していた。四篇とは、詩は贅沢品ではない、主人の道具は決して主人の家を解体しない、エイドリアン・リッチとの対話、目と目を合わせて、である。エロティックの用途はそこに含まれていない。別の論考である怒りの活用の日本語訳は、二〇二四年に学術誌に掲載された。ここで調べた範囲での記録は以上であり、目録に記載がないことは存在しないことの証明ではない。
したがって、日本でこの論考に出会った読者は、おそらく英語で、断片として、断片が運ばれるときの許可を与える調子とともに出会っている。物差しだけが届き、要求は外されている。この文章はその欠落に向けて書かれている。
使い道のない物差しを持つことの代償
ここまでの全体に明らかな危険がある。機会のない基準は資源ではない。語彙のよくなった不満である。
ロードはこの反論を予期し、ほとんど引用されない一文で備えている。留保は流通しないからである。エロティックなものから学ばれる卓越への内的要求は、自分自身にも他人にも不可能を要求することと取り違えられてはならない、そのような要求は関わるすべての者を行動不能にするからだ、と彼女は書く。
この備えが働くのは、彼女の物差しの定義のしかたによる。それは成果の基準ではなく、その行いのなかでどれほど鋭く、どれほど十全に感じられるかの基準であり、したがってごく小さなものでも満たしうる。彼女は本棚を組み立てることを挙げる。機会の少ない生は、ゆえに機会のない生ではなく、この測定器は、ふつうの境遇では届かない目盛に合わせて作られてはいない。
この防御を過大に売るべきではない。この論考は、物差しが優しいとは約束していない。責任は重いと言っている。この種の帳簿をつけはじめた人は、その帳簿が自分に不利であると知ることになるかもしれず、ロードはそれを和らげる申し出をしていない。彼女が代わりに差し出すのは、それを一度でも感じたことのある人は、それが存在するという証拠を手にしている、という観察である。一度も感じたことのない人には、それが手に入らない。
ここからできるささやかなことが一つあり、それは指示ではない。帳簿を、失望した側ではなく満たされた側につけるということである。物差しはそれに届いた事例から組み上がるのであり、この一年からそうした事例を三つ名指せる人は、誰かから与えてもらうことはできないと論考が言うものを、すでに手にしている。
この家は、彼女の論考が問題として名指すものを売っている
冒頭で行った申告の支払いを、議論が説得的に響き終える前に、ここで済ませる。この家は私的な同伴を売っている。一晩は取り決められ、日時が定まり、区切られ、値段がつき、そして終わる。これは正確な記述であり、控えめな記述ではない。
ロードの論考には、善を人間の必要ではなく利潤によって定義する仕組みについての一節があり、そうした仕組みは営みから、彼女が記述してきたエロティックな価値を奪うと書かれている。それは同伴について書かれた一節ではない。そうである必要もない。この家の一晩には値段がついており、あの一節を正直に読んで、値段のついた一晩が無傷で出てくる読み方はない。
ここから続くのは、弁明ではなく拒否の一覧である。この家の一晩がロードの物差しを満たすとは主張しない。満たしたかどうかを知る手立てが私たちにはなく、その知は内側にあると論考が述べており、そうでないと言う者はあなたに何かを売っている。彼女がこの家の売るものを、自身の意味でのエロティックなものとして認めただろうとも主張しない。原文には、認めなかったと考える十分な理由があり、彼女を弁護側の無言の証人として立たせるのは不誠実である。
彼女の名を推薦として用いない。彼女は一九九二年に亡くなり、この家のことを何も知らず、遺産管理者も出版社もこの家と何の関係もない。そして、物差しが購入できるとは主張しない。この論考の中心の仕組みは、基準は内側にあり、他人を介して感じることはできない、というものである。それが正しいなら、私たちの価格表に載っているどれ一つとして、この論考が語っているものではない。
自分の利害に反することをもう一つ述べておく。読者の側から見れば、この文章のもっとも有用な帰結は、あなたが一円も使わず、そのかわりに、最近のありふれた一週間のどの二時間がすでに基準に届いていたかを割り出すことかもしれない。それは私たちにとって商業的により悪い帰結であり、そして誠実な勧めである。
この文章へのいちばん強い反論
反論は四つある。飾りではない。はじめの三つには絞り込みで応じる。四つ目には応じない。
第一に、ロードを要求として読むことは、この図書室が、彼女にではなく私たちに属する緊縮を密輸しているだけかもしれない。エロティックなものが与えるものについての彼女自身の語彙には、満たし直す力の泉、生命の力、喜びの能力が含まれる。私たちの語彙は定規である。両方の調子が論考にはあり、後者を選ぶことには性格がある。基準や閾について書き慣れた家が、喜びについての文章のなかに測定を見出すことには、明白な文体上の利害がある。この反論は当たる。使える絞り込みは小さい。物差しという語は彼女のものであり、自分にそれ以下を求めることはできないという一文も、受け入れ続けてはならない四つのものの一覧も彼女のものである。この読みは捏造ではない。しかし強調は私たちのものであり、別の家なら同じ頁から別の文章を引き出しただろう。
第二が重いものである。これは黒人でレズビアンである経験に根ざした文章であり、エロティックなものは他人を介して感じることができず、書き手の知は共に生きてきた女たちに固有のものだと、自らについて述べている。その位置から物差しだけを取り出し、日本の読者に一般的な道具として差し出すことは、まさにこの文章が抵抗している操作であり、この文章は全編にわたってそれを行っている。問題を名指すことは解決ではない。正直に言えるのは、ここで差し出されているのが、この論考が語りかけていた位置の外から、商業的な刊行物によってなされた読みであり、読者はその理由でこれを割り引く権利がある、ということである。あわせて記しておくべきこととして、ロードはエロティックなものを、深く女性的な次元に横たわる資源として枠づけており、二〇二三年に『ハイパティア』誌に書いたケイレブ・ウォードは、それをこの論考のもっとも論争的な二つの側面の一つとして扱っている。物差しを持ち出す家が、そのうえで彼女の枠づけのうち都合の悪い部分だけを静かに落とすのは筋が通らない。この段落は、それを処理するのではなく認めるための場所である。
第三に、エロティックなものとポルノグラフィ的なものの区別は詰めきられていない。これは端的に正しい。感じることのない感覚は、外から誰かが当てられる基準ではない。同じ部屋にいた二人の食い違いを裁定できないし、動機のある人の手にかかれば、嫌いな仕事にも、切り捨てると決めた相手にも、ほとんど何にでも向けられる。ウォードの論文は、ポルノグラフィについてのロードの立場を、保持が難しくなった二つの側面の一つとして名指している。そして二〇二三年、『ザ・ブラック・スカラー』誌は、この論考の遺産をめぐって黒人フェミニストの研究者による座談を掲載しており、そこにはポルノグラフィと性労働を自ら研究し、この種の二分法に抗する固有の理由をもつ者が含まれている。この文章はこの区別を修復しない。報告し、狭い版を使い、それがどこで尽きるかを述べるだけである。
第四は、認めるほうである。有償の親密さを売る家が、善を利潤によって定義することへの批判を含む論考を引くのは、論じて消せない不都合である。それは正しく、ここに答えはない。利害を早く申告しても溶けず、成果の主張を拒んでも溶けず、拒否の一覧を並べても溶けない。そのどれもが、不都合を減らしはしても取り除きはしない。この反論は、以上のすべてを述べたあとにも立ったままであり、意図して立たせている。刊行物が認める余裕のある反論を認めずにおくなら、それは認めるのに要したはずの一段落ほどの値打ちもないからである。
この文章が主張していないこと
この文章は一つの読みである。指針ではなく、何も処方せず、いかなる成果も約束せず、誰も診断しない。ロードを読むことで何かが変わるとも、有償であれ無償であれ何らかの取り決めがこの論考の述べる満ち足りを生むとも、ここでは述べていない。
この論考の文章を長く引用してはいない。正確な語が議論を担っている箇所でのみ短い語句を用い、それは論考に帰している。それ以外はすべて記述である。この論考の確立された日本語訳は見つからなかったため、ここに置いた日本語の言い回しはこの場でなされた記述的な訳であり、定訳ではない。
この論考が読まれた機会、すなわち第四回バークシャー女性史会議、マウント・ホリヨーク大学、一九七八年八月二十五日は、論考に付された前書きから取っている。アウト・アンド・アウト・ブックスのパンフレットの年は、目録と古書業者の記録が一致せず、ここでは解決できなかったため未確定として報告している。一九八〇年の『テイク・バック・ザ・ナイト』への再録は、現物ではなく書誌的記述に拠っている。『シスター・アウトサイダー』のクロッシング・プレス版は一九八四年である。
日本についての節のいかなる部分も、日本の女性についての、日本的な慎み深さについての、あるいはいかなる種類の国民性についての言明ではない。有給休暇の数字は省庁が調査した企業を記述している。関与の数字は民間の電話調査に答えた標本を記述しており、自己申告の態度を言語をまたいで比較することの既知の困難によってさらに弱められている。耐えることの語彙についての観察は、ある特定の文がその言語でどれほど容易に組み立てられるかについてのものであって、その話者が何を感じるかについてのものではない。日本語訳の状況は、目録検索とクラウドファンディングの記録、別の論考の学術誌掲載訳一点という、ここで調べた範囲として報告しており、記録がないことは存在しないことの証明ではない。
オードリー・ロードは、その議論がその位置と切り離せない、黒人でレズビアンのフェミニストの書き手として、ここでは表されている。彼女の内面について、彼女の著作の現代における用いられ方について、そしてこの刊行物を彼女がどう見たであろうかについて、いかなる主張もしていない。彼女は一九九二年に没しており、この家と何の関係もない。遺産管理者も、出版社も、上に挙げたいかなる研究者も同様であり、そのいずれもこの家を推薦しておらず、知らない。この家の商業的な利害は、この末尾の節だけでなく本文のなかで述べている。議論が仕事を終えたあとに現れる申告は、申告ではないからである。