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『ブルーツ』と、正面からは言えないものの器

青という色についての二百四十の番号つきの断章。それは一つの恋の終わりを通り、事故で身体の自由を失った友の介助のかたわらで書かれた。色はこの本の主題ではない。耐えがたい二つのものに斜めから近づくあいだ、書き手が握りつづけていられる唯一のものである。ある悲しみがそもそも語りうるものになる条件についての議論。そしてその議論への反論も、削らずに置く。

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あなたの生活のなかに、正面から見ることのできない事実が二つある。見ないと決めたからではない。否認しているからでもない。否認という言葉は、人があまりに早く手を伸ばす言葉である。あなたは二つとも完全に知っている。口に出して述べることもできる。ただ、どちらかに注意を全部向けた瞬間に、見ないことよりも悪いことが起きる。それが場面になるのだ。自分がそれを語っている声が聞こえてくる。悲しみに観客がつき、その観客は自分であり、生活についての一つの事実が、生活についての上演に変わる。そしてその上演は、事実が耐えがたくなかったやり方では耐えがたい。

だから人は、実際に人がすることをする。何かに関心をもつ。それは小さく、少し馬鹿げたものでありうる。ある鳥。ある道順。繰り返し流す一曲。ある種類のタイルの歴史。対象そのものにはまったく釣り合わない真剣さで、それに注意を注ぐ。傍から見ていれば、気を紛らわせていると言うだろう。違う。二つの事実が通り過ぎていくあいだ、何かに手を置きつづけているのである。

二〇〇九年、詩の出版社ウェーブ・ブックスがマギー・ネルソンの短い一冊を出した。『ブルーツ』。二百四十の番号つきの断章からなり、一つ一つは一文か短い段落で、そのどれもが青という色に関わっている。青についての本、と紹介される。失恋についての本、とも。あるいは叙情的エッセイの一例として。いまでは一種のカルト的な位置にあり、広く教えられ、十周年版が出され、舞台に翻案され、十を超える言語に訳されている。詩の版元から出た百十二ページの本としては、悪くない。

この文章はそれより具体的なことを提案する。そして要約ではない。青は『ブルーツ』の主題ではない。青は器である。この本には近づけない主題が二つある。終わった恋と、事故で身体の自由を失った親しい友。そして一つの色への傾倒は、その二つに斜めから近づくあいだ、書き手が握りつづけていられる唯一のものである。番号つきの形式は、色とまったく同じ働きをしている。断章は置いて、そのまま手放せる。段落ならば、どこかに到着しなければならない。以下は、その配置が何を可能にするのか、なぜそれが回避ではないのか、そしてそう述べることの何が間違っているのかについての議論である。

この本が何であり、何が入っているか

『ブルーツ』は二〇〇九年、詩の出版社であるウェーブ・ブックスから刊行された。百十二ページ。執筆はおおむね二〇〇三年から二〇〇六年のあいだに置かれると記録は伝える。そしてこの本は通しで書き下ろされたのではなく、組み立てられた。断章の順序が定まるまでに、幾度となく並べ替えられている。十周年の上製版が二〇一九年九月に出た。

二百四十の単位には、それぞれ番号がついている。ネルソンはそれをプロポジション、命題と呼ぶ。借りてきた語であり、意図的な語である。どれも短い。報告書の番号つきの項目が議論を積み上げるようには、議論を積み上げない。前の一つから直接続くものもある。まったく話題を変え、その理由を説明しないものもある。章はなく、筋もない。この本は詩として、回想録として、叙情的エッセイとして、オートセオリーとして分類されてきた。どの棚に属するかについての不一致は、解決すべき問題ではなく、この文章が扱おうとしている事柄の症状である。

中身は大きく三種類で、区分されてはおらず編み合わされている。第一に青そのもの。顔料、空、鳥、ある特定の青の短い歴史、この色について他の人々が書き、描き、考えてきたことについての覚書。第二に読書。それも大量に。そしてこの本は、自分に含まれるものの多くが自分の青ではなく他人の青であることを率直に認めている。第三に一つの生。断片として差し出される。去った男が一人。そして病床の女が一人。

記録のために書いておく。しばしば誤って伝わるからである。英国版はジョナサン・ケイプから二〇一七年六月一日に出ている。フィッツカラルド・エディションズは、この種の本と、また同世代の何人かの書き手との結びつきから読者が自然にそう推測しかねないが、『ブルーツ』を出してはいない。この本はトルコ、フランス、ドイツ、スウェーデン、韓国、スペイン、ノルウェー、ロシア、フィンランド、イタリアで版を得ている。日本語版はない。この点には後で戻る。誰がどのように読んでいるかに関わるからである。

この本が正面から歩み寄らない二つのもの

二〇一六年にネルソンをフェローに選んだマッカーサー財団は、その紹介文のなかで『ブルーツ』を、青という色と、ある関係の終わりと、友の重い負傷についての哲学的な瞑想と記している。三つの要素を挙げた公正な記述であり、それが何をしているかに気づく値がある。色が先に来ている。二つの人間的な事実は二番目と三番目に、あたかも追加の話題であるかのように置かれている。この本が存在する理由であるのに。

一つ目は終わった恋である。本はそれを物語らない。関係がどう始まり、何から成り、終わりに何が言われ、誰が決めたのか。その説明はない。あるのは余波だけで、それが断章のあいだに小さな電荷として配られている。そこにいない誰かを望みつづける状態。まだ追いついていない身体の物理的な愚かさ。いまだ望んでいることの固有の屈辱。読者は何が起きたのかを言えないまま本を閉じる。それは手落ちではない。

二つ目はより難しく、そして書き手ではない一人の人物が関わる。二〇〇三年十月、ウェズリアン大学で英文学とフェミニズム・ジェンダー・セクシュアリティ研究を教えていたクリスティーナ・クロスビーは、自転車の輻に枝を巻き込み、路上に投げ出され、頸椎を折った。五十歳だった。以後、四肢の麻痺とともに残りの十七年を生き、二〇〇五年に非常勤として教壇に戻り、二〇二一年一月に亡くなった。彼女は一九九〇年代のウェズリアンでネルソンを教えており、二人は友人だった。『ブルーツ』は彼女の名を挙げていない。刊行された批評は挙げている。そしてクロスビー自身が、負傷とその後の生についての一冊を、音声認識ソフトを用いて書き、二〇一六年にニューヨーク大学出版局から刊行している。『A Body, Undone』、大きな痛みのあとを生き延びることについての本である。

このことは、この本をどう読むべきか、そしてこの本について何を誠実に述べうるかに関わる。負傷はネルソンのものではない。彼女は寝台の脇にいた友であって、寝台にいた人ではない。ネルソンはその数週間について直接に書いてもいる。二〇〇七年の詩集『Something Bright, Then Holes』には、友の病床で書かれた長い詩が収められている。そして二〇一五年の『アルゴノーツ』でもクロスビーに戻っている。『ブルーツ』はそのどちらとも違うことをする。旋回するのだ。友は断片として、間隔を置いて現れ、事例としては決して現れず、章としても現れない。そして本はその出現と出現のあいだ、色に戻りつづける。人が見舞と見舞のあいだに、ふだんの用事に戻るように。

青は主題ではない。器である。

主張をここに、反論できるように平たく述べる。

青という色についての本。それが『ブルーツ』の正体ではない。一つの色はそれ自身の面白さで二百四十の断章を支えられない。青にそれほど興味深いところはない。そして本は半ばそれを認めている。そこにある青の多くが引用され、借り受けられ、調べられたものだからである。色が供給しているのは内容ではない。崩れない、注意の置き場所である。去った男は注意を保持しない。彼に向けられた注意は、渇望か自責のどちらかを生み、そのどちらもが頁を閉ざすからだ。友の負傷も注意を保持しない。そこに向けられた注意はもっと悪いものを生む。健康な女が、他人に起きた破局を眺めるという見世物である。青は保持する。青は長いあいだ見つめることができ、何も返してこない。そしてそれこそが青の有用性である。

色を話題ではなく器として理解した途端、この本のいくつかの特徴が奇癖に見えなくなる。青について他人が書いたものへの重い依存は水増しではない。耐えがたい二つのものと同じ部屋に立てるだけの、大きく非人称な構造の建設である。どちらの出来事も物語らない拒みは、もったいぶりではない。もっとも痛切な断章における語調の平坦さ——友の身体についての一文が、顔料についての一文と同じ強さで到着するその様——も、冷たさではない。それは器が仕事をしているということである。すべてを一つの温度に保ち、そのなかのどれもが全力で近づかれずにすむようにすること。

そしてこれが、この本の実際の効果を説明する。読者が報告し、書評がしばしば美しさと呼び間違えるあの効果である。『ブルーツ』が生むのは慰めではない。二つの破局のかたわらに立ちながら、そのどちらにも正面から向き合うことを要求されずにいる経験である。百十二ページのあいだ、同じことをしている誰かと一緒に。それは珍しい申し出である。悲嘆の文学のなかで、それを差し出すものはほとんどない。

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正面から向き合えば悲しみの演技になってしまう悲しみがある。

断章は置いて手放せる。段落は到着しなければならない。

番号つきの形式は色と同じ働きをしている。その仕組みを正確に述べておく値がある。仕組みこそが、持ち運べる部分だからである。

通常の散文における段落は義務を負う。何かを開く最初の一文があり、それに応えなければならない最後の一文があり、その二つのあいだで何かが解決されるか、複雑化されるか、前進したことを読者は期待してよい。難しい主題を開いてそのまま止まる段落は、怯えの表れとして読まれる。だからこそ、連続する散文で悲しみを書くことは結論へ向かう圧力をこれほど強く働かせるのであり、そしてだからこそ、その種の文章の多くが、当事者の誰も実際には学ばなかった教訓で終わるのである。

番号つきの断章はその義務を負わない。一つのことを述べて、止まれる。番号は許可証である。この単位はたまたまの長さのままで完結していること、次の単位はこれに何も負わないこと、連続性を望む読者はそれを自分で補わねばならないことを、番号が告げている。断章は置いて、手放せる。だからこの形式は、段落なら歪めてしまう材料を保持できる。どこにも行かない、友についての一つの思考。それ自体を正当化しない、あの男についての一つの観察。ただの一文であって、洞察になるつもりのない一文。

ネルソンは形式の出所について率直に語っており、その説明は通説より具体的である。二〇〇九年十月、『ボム』誌でスージー・デフォードに答えて、彼女はウィトゲンシュタインの『哲学探究』の形式と語調と言い回しにあまりに惹かれていたため、『ブルーツ』の形式が目の前にあることに気づくのに時間がかかったと述べている。そして本の言い回しのおよそ半分をウィトゲンシュタインから、残り半分をゲーテから取ったと言う。知覚についての逸話的な語り口は『色彩論』から。そして『哲学探究』からは、彼女の言葉で言えば、語り手が腰を落ち着けるたびにその足元の敷物を引き抜く、容赦のない自己審問の形式である。

この最後の一句が技法のすべてである。『哲学探究』は番号つきの覚書からなり、自らの立場を繰り返し解体していく本である。番号つきの命題が体系を築いていく『論理哲学論考』ではない。そしてその違いが要点である。ネルソンは結論する形式ではなく、揺さぶる形式を取った。ゲーテがもう半分を供給する。色を、光についての事実としてではなく、見ている人に起きる出来事として書く方法である。この二つの源が彼女に、観察を序列づけずに保持でき、一つの思考の筋を放棄してもその放棄が敗北として読まれない器を与えている。研究者ジョージア・ウォルトンは二〇二三年の『English: Journal of the English Association』において、番号つきの断章は語り手が世界を見るための連続した レンズとして働いていると論じ、その仕掛けをさらに遡らせて、人生とは数珠の玉のように連なる気分の列だというエマソンの像に結びつけている。ウォルトンの読みとここでの読みは両立する。レンズと器は、同じ物体を二つの側から見たものである。

正面から向き合うと上演になってしまう悲しみがある

これが読者の時間に値する理由は、詩とは何の関係もない。それは悲しみについての主張であり、この文章の実際の議論である。

難しい感情について私たちの文化が与える指示は一様であり、いつも同じ一文の変奏である。向き合え。名づけよ。声に出せ。避けるな。この指示は間違っていない。きわめて多くの状況でそれはまさしく正しく、この図書室も別のところで、物事を平たく名づけることを支持して論じてきた。しかしそこには、つねには成り立たない前提が含まれている。何かに正面から向き合う行為は、その何かを変えずに残す、という前提である。

ある種の悲しみについては、それは成り立たない。見られることによって変質する種類の喪失がある。見ることは説明を要求し、説明は形を要求し、形はそれを与える人が一つの位置を占めることを要求するからである。位置が占められた瞬間に、感情はジャンルを得る。そしてジャンルは自前の語彙と、自前の抑揚と、何をどの順で感じるべきかについての自前の期待を連れてくる。出てくるものは悲しみではない。悲しみの巧みな再現であり、作っている本人が作りながらそれを知っている。だからすでにそこにあるものすべてに、自己嫌悪が加わる。

『ブルーツ』における友の負傷が、もっとも明瞭な事例である。もしこの本がそれに正面から向き合ったら何が起きるかを考えてほしい。健康な女が友の麻痺について長く書くとき、使える語調はほとんどない。打ちのめされることはできる。するとその人が物語になる。称えることはできる。すると負傷した女が教訓になる。世界に怒ることはできる。それは一つのジャンルである。自分を中心に置かないよう細心であることもできる。するとほかのどれよりも徹底して自分が中心になる。細心さが、目に見える上演になってしまうからである。正面からのどの経路も、友を材料に変え、書き手を一個の像に変える。斜めの経路がこれを解決するわけではない——後の節でこの反論を真剣に受け取る——が、正面の経路にはできないことをする。事実を、機会に変えずに、事実として本のなかに留めておくのである。

そして『ブルーツ』のもう一つの悲しみ、終わった恋も、別の理由から同じように扱われている。そこでの危険は不作法ではなく、紋切型である。去った男をなお望む女の語りほど、徹底して台本化されたものはない。正面から近づくと、材料はあらかじめ解釈された状態で到着する。文が終わる前に読者は形を知っている。別のものについての二百四十の断章に分散されると、それは台本なしで、読者が自分で組み立てねばならない断片として到着する。そして届く。

何かが語りうるものになる条件

二つの仕組みを合わせると、主張を一般の形で述べられる。斜めの器は、主題からの逃避ではない。ある種の主題については、それがそもそも語りうるものになる条件である。

これは徳についてではなく条件についての主張であり、その区別は重要である。間接であることが平たい言葉より趣味がよい、とか、勇敢である、とか、洗練されているということではない。ある事柄には閾値があり、閾値の下では語れて、上では語れない。そしてどちら側にいるかを決めるのは、どれだけ正直であるかではなく、それを語るためにどんな構造が手元にあるかである。構造を変えれば、同じ正直さをもつ同じ人が、より多くを語れる。

働く構造には共通の特徴がある。難しい材料が通り過ぎるあいだ、読者の注意を運んでくれることである。色ならできる。毎日歩く道順、一覧、分類、他人の持ち物の目録、繰り返し行われる実務の記述。どれもできる。器は本当に人を引き込むものでなければならない。そうでなければ保持しない。だから『ブルーツ』における青への傾倒は皮肉ではありえないし、皮肉であってはならない。書き手が実際にはその色を気にかけていなければ、配置の全体は仕掛けに崩れる。そして読者にはそれがわかる。

代償もある。そしてこの文章はそれを議論の内側に隠しておきたくない。何かを語ることを許す器は、それについて語りうることを同時に限る。『ブルーツ』の読者は、何が起きたのかをついに知らない。以前その友情がどのようなものだったかも、友が何を考えていたかも、あの恋が何だったかも知らない。手に入るのは二つの破局があるという事実と、その近くを動いている一つの精神の温度だけであり、それ以外はない。それは情報の実質的な喪失である。そして温度ではなく説明を必要とする人は、別の本を読むべきである。この場合には、負傷した当人が書いた本を含めて。

この家がすでに述べたこと、そしてここが分かれる地点

この図書室の以前の仕事のうち二つが、この文章のすぐ隣に立っている。そしてここでの議論は、それらとどこで異なるかを述べるまで使いものにならない。

この図書室はリサ・タデオの『Three Women』を、欲望についてではなく観客についての本として読んだ。ある望みを軸に組まれた生において決定的な変数は、望むことではなく、誰が見ていたか、あとから誰がそれを語る権利を得たか、そして他人が説明を握った瞬間に私的な望みが何に変わるかである。あの文章は、唯一使える梃子を、誰に目撃されるかの選択に置いた。

この図書室はまたアニー・エルノーの『シンプルな情熱』を、内容からではなく文体から恥を抜く本として読んだ。材料は最大限に恥じうるまま残され、変わるのは説明に使える文法のほうである。それは目録であり、したがって裁こうとする読者に、判決を置く面を与えない。あの文章は梃子を、説明が取る形のうちに置いた。観客をまったく選べない人にも残されている梃子である。

この文章はその両方から分かれる。そしてその違いこそ、これを書く値があった理由である。『ブルーツ』は誰が見ているかを気にしていない。ネルソンの名で一般の読者に向けて刊行され、十五年にわたって教えられ、翻案され、翻訳されてきた。考えうるかぎり最も制御されていない観客である。またその問題は、何かがどの文体で語られるかでもない。『ブルーツ』の文体はエルノー的な意味で平坦ではない。温かく、ところどころ可笑しく、渇望について照れがない。この本の問題は、その両方より手前にある。それを損なわずにそれに向き合える位置が、そもそも存在するのかという問題である。本が与える答えは、そのような位置は存在しない、というものであり、代わりに必要なのは器である、というものである。それ自体として本当に興味を引く第三の対象。材料がその脇を通り過ぎるあいだ、注意が握っていられるもの。

したがって三つの議論は、梃子を三つの異なる場所に置いている。そして一つしか持っていない読者は、残る二つを欠いている。観客は希少な梃子であり、ときおりしか使えない。文体はつねに、誰にでも使える。器もつねに使えるが、他の二つにはない前提を一つもつ。ほかの何かを実際に気にかけていなければならない。それは技法ではない。むしろ幸運に近い。そしてそれが意図して用意されうるという事実が、この文章の差し出せる唯一の実際的なものである。

もう一点、読者が自分で見つけるままにしないために記しておく。この図書室はすでにネルソンの『アルゴノーツ』の読解を出している。手に入る名前を追い越してしまう関係についての本として、戸籍と婚姻届を出さない関係を日本での適用として読んだ文章である。ここではそれを繰り返していない。あの文章は名づけについてであり、こちらは正面から近づくことの不可能性についてである。別の問題であり、ネルソン自身の年譜のなかでは、より早い問題である。

a bedroom seen close with a blue bedspread and a blue bottle on the sill, a numbered manuscript on the pillow and a pair of reading glasses, the window close behinda bedroom seen close with a blue bedspread and a blue bottle on the sill, a numbered manuscript on the pillow and a pair of reading glasses, the window close behind
斜めの容器は回避ではない。それがあって初めて、そのことは言えるようになる。

すでにここにある形式と、まだ届いていない本

日本の読者は『ブルーツ』に、めずらしい角度から出会う。その角度についての二つの事実を、平たく述べておく値がある。

第一に、形式は外来のものではない。本のおおよそ半ばで、ネルソンは清少納言に向かう。『枕草子』は西暦一〇〇二年ごろに成り、一覧と覚書と苦情と目録と観察からなり、それらは緩やかにしか、あるいはまったく、互いにつながっていない。随筆はここでは翻訳された仕掛けではない。千年来の在来の仕掛けである。主題のまわりを回りながらそこに到着しない二百四十の番号つきの断章に出会う日本語の読者は、英語圏の読者が実験的と呼ぶ地面ではなく、日本の伝統が本の取りうる普通の形の一つとみなしてきた地面に立っている。ネルソンがこの遺産に加えたのは、番号である。それは哲学から来ている。そして一つの強迫的な対象である。それはゲーテから来ている。不連続そのものを、彼女は発明する必要がなかった。そして彼女はその負い目を名指している。

第二の事実は、この本がまだ届いていないということである。『ブルーツ』の日本語訳は存在しない。そしてこの文章は、否定を断言するのではなく、何を検索したかを述べる。国立国会図書館サーチで「マギー・ネルソン」を検索すると三件が返り、そのすべてが二〇一六年の西山敦子による『すばる』掲載の『アルゴノーツ』についての一篇に関わるものであり、単行書はない。同じ目録で「ブルーツ」と「アルゴノーツ」を検索しても、どちらの翻訳も返らない。ウェーブ・ブックスは『ブルーツ』の海外版を十一挙げており、二〇一七年の韓国版を含むが、日本はそのなかにない。この文章の日付の時点で、『ブルーツ』を読みたい日本の読者は、英語で読むか、母語でない別の言語で読むか、読まないかである。

その不在は醜聞ではないし、日本の読者について何かを示す証拠でもない。翻訳権は特定の編集者が特定の刊行目録について下す商業上の決定であり、詩の版元から出た番号つき断章の短い本は、どこにおいても難しい商材である。しかしその不在には、名指す値のある帰結が一つある。ネルソンの考えが日本語の読者に届くのは、主に間接経由だということである。この文章のようなものを通じて、大学の授業を通じて、言語の境を越える考えのゆるやかな移動を通じて。そして間接の伝達は、議論を運び、手触りを落とす傾向がある。『ブルーツ』の議論は、その手触りから切り離せない。『ブルーツ』の要約は、これを含めて、器の記述であって、器の内側にいる経験ではない。

この本への、そしてこの文章への最強の反論

実際に力をもつ反論が四つあり、そのどれも右の議論によって片づいてはいない。答えやすいように弱めた形ではなく、もっとも強い形で置く。

第一に、斜めの器は読者を心地よい距離に留めておく手口でありうる。恋を物語らない書き手は、そのなかで自分がふるまい悪くしている姿を見せずにすむ。破局に斜めから近づく書き手は、その近くで不体裁な姿勢を捉えられることがない。断章の一つ一つが美しくありうるのは、まさにそのどれ一つとして実際の説明の重さを担わずにすむからである。そして積み重なった効果——大きな痛みの近くを動く、きわめて繊細な精神——は、検証できる主張を一つも出さずに作られた、たいへん魅力的な自画像である。この読みによれば、間接性は上演の問題への解決ではない。より洗練された上演であり、称賛されるもっとも確実な道が、差し控えているように見えることだと学んでしまった上演である。

第二は友に関わるもので、これが深刻なものである。負傷しなかった女が、他人に起きた負傷から文学を作った。どれほど注意が払われても、その配置は非対称である。一方は寝台にいて、他方は本をもっている。斜めの扱いはこれを溶かさないし、おそらくはむしろ鋭くする。断章は他人の破局から必要なものを取り、いかなる義務も生じないうちに立ち去れるからである。本はそれを知っている。居心地の悪さは本のなかに読み取れる。知ることは解決することではない。緩和として述べうる最大のものは、弁護ではなく一つの事実である。クリスティーナ・クロスビーは黙してはいなかった。彼女は書く人であり、自らの条件で、大学出版局から、自分の負傷についての一冊分の説明を刊行した教授である。非対称を感じる読者はそれを読みに行くべきである。それが実際に存在している訂正だからである。

第三は形式と、その後の十五年についてである。番号つきの断章はいまや一つの定型である。この様式は回想録とエッセイのなかであまりに広く反復され、単位のあいだの余白は、何かの帰結ではなく真剣さの合図になった。そして読者は、番号と間隙を与えられた短い段落に、深遠さを自分で補うことを学んでしまった。小説家であり批評家であるローレン・オイラーはこの告発を強く押し出している。断片的な様式は流行であり、芝居がかっており、曖昧で、剽窃的で、水増しされている、と。そしてルイーザ・ホールは二〇二一年の『ロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックス』で、それらは形式そのものの欠陥ではなく形式の使われ方への異議である、と応えた。ホールは正しく、それでも告発は『ブルーツ』に届く。『ブルーツ』がこの様式を使えるものにした本の一つだからである。形式はその模倣者たちの責めを負わないが、影響力をもった本は、もたなかった本とは別の位置にいる。そしていま『ブルーツ』が集めている敬意のいくらかは、この本の固有の用法にではなく、一つの様式に向けられた敬意である。舞台に翻案されたときに何が起きたかに注意する値がある。マーガレット・ペリーによる版は、ケイティ・ミッチェルの演出で二〇二四年の五月から六月にかけてロンドンのロイヤル・コート劇場で上演されたが、材料を三つの声に分け、少なくとも一人の評者の記述によれば、番号つきの部分の連なりではなく一本の斜めの物語になった。つまり番号は、最初に落ちたものだった。

第四の反論は本ではなくこの文章に向けられており、これがもっとも手強い。あるものは斜めにしか語りえない、という主張は、述べられたままでは反証できない。実験がない。ネルソンが書かなかった『ブルーツ』の正面版を作って、それが失敗すると示せる者はいない。批評家が指し示しうる同じ材料の正面からの扱いは、より劣った書き手による扱いだとして退けられうるし、成功した正面からの扱いは、本当は同じ材料ではないとして退けられうる。間違いようのない議論は知見ではない。知見の装いをした記述であり、読者は、愛されている本がすでにしていることを正しいとする優雅な説明を差し出してくる刊行物を、疑ってよい。

その反論は認める。答えてはおらず、そうでないふりをすればこの文章は不誠実になる。差し出せるのは狭めることである。強い主張——これらのことはこのやり方でしか語りえなかった——は確かに反証不能であり、撤回する。弱い主張は違う。悲しみへの正面からの言及は、固有の、そして予測できる代償を課す、というものである。その代償はあらかじめ名指せる。説明を要求されること。位置を占めてしまうこと。ジャンルが到着すること。そしてそれに続く自意識。これらの代償は、教訓で終わる膨大な量の悲嘆の文章のなかに観察できる。斜めの器はそれらの固有の代償を避け、別の代償を負う。それもこの文章は名指してきた。これは差し引きについての主張であり、差し引きは議論の対象になりうる。それがこれについて主張しうる最大である。

この家が売っているもの、そして主張できないこと

この家は私的な同伴を売っており、その利害は右の議論をじゅうぶん近いところで貫いている。読者はそれを自分で割り出させられるのではなく、述べられて当然である。

あるものは器の内側でしか語りうるものにならない、という議論は、それ自体が器である取り決めにとって都合がよい。ここでの一晩には始まりと終わりがあり、価格があり、形があり、条件の一揃いがある。そして人は実際に、その構造の内側で、ほかでは言わなかったことを言う。読者が、一冊の本についての文章から、区切られた取り決めこそ語りえないものが語りうるものになる場所だと結論してくれれば、この家にはたいへん都合がよい。その都合のよさは実在する。そしてその議論が、この図書室の見るかぎり擁護しうるものでもあるという事実によって、帳消しにはならない。

したがって制約を、事後の免責の文言としてではなく、何を主張してよいかの制限として述べる。この家は誰も診断しない。右のどこにも、ある喪失について語れない読者がそれを避けているとも、不調であるとも、有料の一晩が対処する問題を抱えているとも書かれていない。この家はいかなる成果も主張しない。安堵も、決着も、以前は言えなかったことをあとで言えるようになることもである。ここにあるものは悲嘆のカウンセリングではなく、死別を抱えている人、重い負傷を負った誰かを介助している人は、それを助ける資格をもつ人々と話すべきである。この家はその資格をもたない。

そしてこの家は、この本にも、そこに登場する誰にも、いかなる関係も主張しない。マギー・ネルソン、ウェーブ・ブックス、ジョナサン・ケイプ、クリスティーナ・クロスビーの遺族、ニューヨーク大学出版局、そしてここに名を挙げたすべての批評家と研究者は、この家と関わりを持たず、この家を知らず、この家の述べることのいかなる部分にも関与していない。本を挙げることは発見のためだけである。この推薦の背後にいかなる取り決めもなく、そこからここで購えるものへのいかなる導線もない。

この文章が主張していないこと

この文章は一つの読解である。臨床の指導ではなく、いかなる治療も記述せず、いかなる結果も約束せず、誰も診断しない。右のいかなる部分も、特定の誰かが死別や、介助の状況や、関係の終わりをどう扱うべきかについての助言として受け取られるべきではない。

中心の主張——斜めの器はある種の悲しみが語りうるものになる条件である——は、この図書室による一冊の本の解釈であって、人がどう悲しむかについての知見ではない。その強い形は反証不能であり、この文章はそれをここだけでなく本文で述べており、強い形は撤回して、代償と差し引きについてのより弱い主張に置き換えている。そのいずれについても、割合も、分布も、頻度も主張していない。

クリスティーナ・クロスビーは二〇二一年に亡くなった実在の人物である。ここで彼女について述べていることは公開の記録から来ている。ウェズリアン大学での職、負傷の日付と原因、四肢の麻痺、教壇への復帰、死、そして二〇一六年にニューヨーク大学出版局から刊行された彼女自身の本『A Body, Undone』である。『ブルーツ』は彼女の名を挙げておらず、刊行された批評が同定しており、この文章は私的な知識ではなくその批評に従っている。彼女の内面についても、ネルソンの本についての彼女の見解についても、二人のあいだに何があったかについても、何も主張していない。友についての断章の効果を記述しているところでは、それは本による描出の記述であって、彼女の経験の記述ではない。

ネルソン自身の出典についての説明は、彼女の公表された発言から取っている。具体的には二〇〇九年十月の『ボム』誌におけるスージー・デフォードとの対話であり、そこで彼女はウィトゲンシュタインの『哲学探究』とゲーテの『色彩論』を名指している。刊行された他の記述のなかには、番号つきの形式を『論理哲学論考』に帰するものや、『色彩について』に結びつけるものがある。この文章は書き手自身の発言に従い、その不一致は解決せずに記す。

書誌の詳細は、実物を検分したのではなく、出版者と図書館の記録から取っている。英国版はジョナサン・ケイプ、二〇一七年である。フィッツカラルド・エディションズはこの本を出しておらず、そう思わせる印象はここで訂正している。『ブルーツ』のいかなる一節も、この文章のどこにも引用していない。そしていかなる断章についても、単独での読解を差し出していない。

日本語訳について。この文章がそれは存在しないと述べるのは、執筆日に行った、国立国会図書館サーチにおける「マギー・ネルソン」「ブルーツ」「アルゴノーツ」での検索と、出版者自身の海外版一覧の確認に基づく。目録の検索は記録を取り逃しうるし、刊行予定のものは現れない。したがって不在は、確実なこととしてではなく、それらの検索が返したものとして述べている。ここにあるいかなるものも、日本の読者についての言明でも、日本の出版についての言明でも、いかなる国民的な趣味についての言明でもない。

この問いから、次へ