Books
『デプト・オブ・スペキュレーション』と、結婚が実際にとる形
番号のついた短い段落でできた小説がある。小さな子どもと、ひとつの不貞を抱えた結婚についての本だ。その断片はふつう文体として語られる。だがそれは報告として読むほうが正確である。それほどの中断にさらされた結婚は、物語としては経験されない。そしてこの本は、そうでないふりをすることを拒む。半ばで、語り手は「わたし」と言うのをやめ、「妻は」と言いはじめる。その一文がこの本である。そしてそれを形式上の出来事として名づけることは、彼女は自分を見失った、と言うよりも多くを語る。
小さな子どもが家にいた一年について、説明を試みてほしい。その説明はある特有の仕方で失敗する。そしてその失敗の仕方こそ、まず気づかれるべきものである。何も起こらなかったから失敗するのではない。たくさんのことが起こった。失敗するのは、起こった事どもが、文が抱えられる形をとって到着しなかったからである。ひとつの考えがはじまる。断ち切られる。四十分後、別の部屋で再開される。再開するのは、はじめたときとは違う疲れ方をしている人であり、その考えが何のためのものだったかをもう思い出せない人である。
物語には、ほとんど口に出されない隠れた要件がある。自分の人生について物語るには、どこかの時点で、それについて考え終えることができていなければならない。はじまりに気づき、なかほどを量り、終わりに到る。それだけの、途切れない一続きの時間が要る。その一続きは物質的な資源である。奪われうる。そしてそれが何年にもわたって奪われる、ごくありふれた、取り立てて語られもしない、広く分布した事情が存在する。
二〇一四年に出た短い小説が、まさにその問題から組み立てられている。ジェニー・オフィルの『デプト・オブ・スペキュレーション』は、番号のついた段落でできている。その多くは数行の長さで、四十六の短い章にわたって端から端へ並べられている。扱われるのは、求愛、結婚、眠らない赤ん坊、行き詰まる仕事、不貞をもつ夫、そしてそのあとである。この本はふつう、断片的、省略的、箴言的と形容される。作家が印象的な文体上の決定を下したもの、として。
ここでの読解は別のことを提案する。この本の断片形式は、内容の上に置かれた装飾ではない。それは内容そのものが、頁の水準で言い直されたものである。そして、この本を推薦ではなく論考に値するものにしている事柄が、およそ半ばのある一文で起こる。前半のあいだずっと「わたし」と言ってきた語り手が、そこでやめる。以後、彼女は自分を「妻は」と呼ぶ。それを告げるものは何もない。筋のなかにそれを説明するものも何もない。この本でもっとも大きな出来事でありながら、それはまったく文法のなかだけで起こる。
この本が何であり、記録が実際に何を述べているか
『デプト・オブ・スペキュレーション』は二〇一四年一月二十八日にアルフレッド・A・クノップフから刊行された。一七九頁。のちにヴィンテージ・コンテンポラリーズから普及版が出ている。オフィルにとって二作目の長編であり、一作目の『ラスト・シングズ』は一九九九年に出ている。表題は、作中の夫婦が互いへの手紙の差出欄に書きつける文句から来ている。決着のつかない事柄を扱う部署、という二人だけの冗談である。
受賞の記録は正確に述べておかなければならない。出版社の惹句や読書会の紹介がそこを曖昧にしがちだからである。この本は二〇一五年のフォリオ賞の最終候補に残った。受賞したのはアキール・シャルマの『ファミリー・ライフ』である。二〇一五年のPEN/フォークナー賞の最終候補にも残った。受賞したのはアティカス・リッシュの『プレパレーション・フォー・ザ・ネクスト・ライフ』である。二〇一六年の国際ダブリン文学賞の最終候補にも残った。受賞したのは、ふたたびアキール・シャルマの『ファミリー・ライフ』である。最終候補が三度、受賞はなし。またニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー編集部による二〇一四年の十冊にも選ばれている。これは賞ではなく一覧であり、『ファミリー・ライフ』も同じ一覧に入っていた。
これらは本への評定ではないし、評定として差し出してもいない。差し出す理由は別にある。ある本が形式の上で重要なことをやったと主張しようとする文章は、まず公の記録が何を立証し何を立証しないかを示すべきだからである。記録が立証するのは、きわめて短くきわめて型破りな一冊が、二つの国の三つの審査団によって真剣に扱われたということである。それが正しかったことは立証しない。
頁の形について。刊行された批評は、四十六の短い章を報告している。各章は、短く番号を振られたり空白で隔てられたりした段落の連なりからなり、結婚の場面のあいだに、引用、事実、諺、宇宙探査機についての覚え書き、哲学者や詩人に帰される言葉が差し挟まれる。これらの記述は批評から取っており、ここで数え直したものではない。そしてこの文章の議論は、その数に依存していない。
断片は文体ではなく、報告である
この種の本を褒めるときの常套は、その形式を勇敢と呼ぶか、作家が意識を写す新しい方法を見つけたと言うかである。どちらの賛辞も、形式を選択可能なものに聞かせてしまう。同じ小説の従来型の版が存在しえて、それが退けられたかのように。
より有用なのは、連続した散文であったなら何を偽らねばならなかったかを問うことである。連続した散文は、連続した注意を含意する。一頁にわたって続く段落は、続いているというその事実によって、誰かが一頁の長さのあいだ一本の思考を保てたと主張している。もしその本の主題が、まさにその能力が取り上げられた生であるなら、連続した散文は中立ではない。それは語り手の内的な条件についての主張であり、しかも偽の主張である。
短い段落が代わりに行うのは、持っていなかった連続性を主張しないという拒否である。ひとつひとつが、実際に完了した思考の大きさをしている。あいだの空白は芸術的な寡黙ではない。それは、語り手が考える機会を得られなかった何かが起きた間隔である。その隙間を渡る読者は、きわめて低い費用で、語り手が高い費用で行っている操作とおなじ操作を行う。前の一つを終えないまま次の瞬間に到着する、という操作である。
だからこの形式は難解に感じられない。難解な近代主義の断片化は、読者に再構成の労働を求める。この本は速く読めることで知られており、その読みやすさこそ議論の一部である。中断は知的な難問として経験されない。それは速度として経験される。物事が到着しつづける。こちらは対処しつづける。対処は有能に行われる。そして、もしその「あと」があるならば、あとになってようやく、この二年のあいだ一つも完全な考えを持てていなかったことに気づく。
並置はもう一つの仕事をしている。ボイジャー探査機についての覚え書きの隣に、赤ん坊の咳についての覚え書きがあり、その隣に、ある哲学者の寝所についての一行がある。同じ平面に置かれることで、家庭のなかの細部は小さいものであることをやめる。この水平化は気まぐれではない。負荷のかかった精神が実際に抱えているものの、正確な記述である。些細なものと巨大なものが同じ大きさで到着する。仕分けに回せる余力がないからである。
作者が、作り方について述べていること
本が行っていることと、作者が意図したと述べていることは、分けておく値がある。二つは同じ種類の証拠ではなく、この文章は前者に寄りかかっているからである。
二〇一四年、メシャ・マレンによる聞き取りが同年五月二十九日にホバート誌に載っている。そこでオフィルは、この本の一部を情報カードに書いたこと、思考の断片的な性質と感情の動き方を捉えようとしたことを述べている。彼女はヴァージニア・ウルフの指示を引く。原子が精神の上に落ちてくるとおりに、落ちてくる順序のままに記録せよ、そしてどれほど連関を欠いて見えてもその模様を辿れ、という指示である。空白については、読者が休み、考えるための場所だと述べ、感情の速度を失わずにどれだけを言わずにおけるかに心を占められていたと述べている。
この最後の言い方こそ、読者が手元に残すべきものである。晦渋ではなく速度。圧縮は速度のためにあり、速度は、それ自体が語るには速く動きすぎている生についての正確さのためにある。
また彼女は、ハンナ・ローズフィールドによる聞き取りのなかで、自分の代名詞の使い方が語り手と夫のあいだの感情的な距離とちょうど呼応していたと述べている。そして重要なことに、それは計画になる前に草稿のなかで気づいたことだった、とも述べている。気づいたうえで、断片をその流れに沿うよう並べ直した。この順序はここでの議論にとって恥ずべきものではないが、装飾でもない。後段の反論はこれを埋めるのではなく、正面から引き受ける。
この図書室は、作者自身による制作過程の説明を、その過程についての証拠として扱い、読み方の許可証としては扱わない。作家は自分がしたことの証人であって、それが何を意味するかの権威ではない。この文章の残りは、本を読む。


人称が変わる一文
この小説について刊行されている批評によれば、およそ中ほどで代名詞が変わる。「わたし」として語り、夫を「あなた」と呼んできた語り手が、「妻は」と呼ばれはじめる。彼は「夫は」になる。声が彼女のものでなくなるわけではない。文は依然として彼女のもので、冗談も彼女のもので、読書も彼女のものである。しかしその中心を占めている人が、いまや外側から指されている。
それを告げるものは物語のなかに何もない。ここから先は「わたし」と言うのが堪えられなかった、と述べる章はない。この変化は記述されず、実演される。そしてそれは、不貞が説明のなかに入ってくる地点に置かれている。
批評家たちはこの動きをいくつかの仕方で読んできた。そしてそれらの読みは競合ではなく両立する。夫婦が役割に呑み込まれ、もはや機能によってしか名指せなくなったのだという読み。この転換は解離であり、一人称では直視できない材料に対する防御なのだという読み。この説明はもはや、彼女が他人について語る寓話になっており、その距離でしかそもそも語りえないのだという読み。
三つの読みに共通しており、この文章が手放したくないのは、この変化が比喩ではないという点である。それは、彼女が距離を感じたと本が述べているのではない。それは、一人の女性から、彼女がそこから語ってきた文法上の位置を、本が取り上げているのである。筋の仕掛けをほとんど持たない本のなかで、それは起こる事のうち最大のものである。不貞よりも大きい。不貞は出来事であり、人称の変化は、形式が報告ではなく提示しうる帰結だからである。
この転換が実際に名づけているもの
ここがこの読解の差し出したい寄与であり、意図して狭くしてある。
こういう境遇の女性についてよく使われる一文がある。彼女は自分を見失った、というものである。それは同情から言われ、そしてほとんど役に立たない。それは何の仕組みも名指さず、何が奪われたのかを特定せず、いつのことかも語らない。聞き手がうなずいて話題を変えることを許す種類の記述であり、そう記述された女性の手には、輪郭のない、うっすら恥ずかしい状態だけが残る。
この本は輪郭を供給する。失われるのは正確には一人称である。人が自分の生を自分のものとして語る、その位置である。そしてこの本は、その位置に収束する圧力を一つではなく二つ示している。持続する中断は、考えを完了させる能力を奪う。それは自己を語るための原材料である。そのうえで裏切りが、語る資格を奪う。彼女が語ってきた物語は部分的に偽であったと判明し、それは遡って、彼女を信頼できる語り手ではなくする。中断は道具を奪う。裏切りは権限を奪う。両者のあいだで「わたし」は使えなくなり、代わりに何かが置かれなければならなくなる。
「妻は」が、そこに置かれたものである。それは無ではない。機能する文法上の主語であり、物事を行え、一日を切り抜けられる。しかしそれは役割名詞である。それは内面をもつ人ではなく、ある取り決めのなかの位置を記述する。そこまで縮められた女性は、不在なのではない。三人称で現前しているのであり、それは見失われることとは別種の、より特定された損傷である。
この言い方の有用さは、自分の経験に照らして確かめられるところにある。人はこう具体的に問える。いま自分の生を説明するとき、自分は文の主語なのか、それとも文のなかの登場人物なのか。この問いには答えがある。ある週について答えられ、三か月後には違う答えが出ることもある。自分を見失ったかどうかという、答え方の手順がまったく存在しない問いとは違う。
この図書室はこれまでにも、別れたのちに自分を作り直す女性について、そして自分の両義的な感情を言い表す一文をもたなかった母について、そして一つの生を解体することの実務について書いてきた。それらの文章は、ある位置が捨てられたあと、あるいは奪われたあとに何が起こるかについてのものだった。この文章は位置そのものについてのものであり、そしてその位置は、ほかのすべてが続いたまま、文の途中で、静かに明け渡されうるという事実についてのものである。
「アート・モンスター」と、その言葉に起きたこと
この本のある一節は、本を離れて、人が口にする言い回しになった。序盤で語り手は、結婚などしないつもりだった、代わりに自分が言うところの「アート・モンスター」になるつもりだったと回想する。芸術にのみ心を向け、日々の手入れには向けない者。歴史的に女性ではなく、女性である場合には、家庭のことを丸ごと手放した者である。
この言葉は移動した。ローレン・エルキンはそれを表題とし出発点として『アート・モンスターズ 女性芸術における御しがたい身体』を書き、二〇二三年十一月にファラー・ストラウス・アンド・ジルーから刊行した。女性の芸術家たちと、怪物と呼ばれる危険についての論集であり、その語をオフィルの小説に帰している。レイチェル・ヨーダーは複数の聞き取りのなかで、同じ一行が自作『ナイトビッチ』の最初の火花だったと述べている。幼い子が昼寝をしているあいだにその言葉を書き写したところから始まった、と。この言い回しは以後、文学の会話のなかで出典を示さずに使えるほど普及した。
それが何を意味するかについて、二つ注意を置く。誤用が容易だからである。
第一に、これは受容であって測定ではない。ある言い回しが広まったという事実が告げるのは、それが持ち運びやすく、人々がすでに言おうとしていた何かを名づけていたということである。それは、何人がそう感じたかを告げない。その根底の状態が以前より一般的になったとも告げない。この本が何かを引き起こしたとも告げない。言い回しの流通は言語についての証拠であり、分布についての証拠ではない。ここにあるどれも、数として読まれるべきではない。
第二に、この言い回しの成功は、それを小説のなかでの働きから部分的に切り離した。頁の上では、それは語り手が自分自身に向けた冗談であり、回顧的で、わずかに苦い。自分が何を断ろうとしているのかを知らなかった若い女性の計画である。流通のなかでは、それはしばしば憧れか、あるいは許可証になった。この漂流自体が興味深い。人々が受け取ったのは小説の皮肉ではなく、皮肉の下にあった願いのほうだった。その願いは、容れ物が現れるのを待っていたということになる。


日本語で読むこと、そして解のない問題
この本を求める日本の読者は、この図書室が確かめうるかぎり、英語で読むほかない。『デプト・オブ・スペキュレーション』の日本語訳は見つからなかった。そして検索は要約ではなく名指しで述べておく。国立国会図書館の目録を著者名のカタカナ表記で検索すると、返るのは二件のみである。どちらも、オフィルがエリッサ・シャペルと共編した女性同士の友情についての実話集の日本語版であり、糸井恵訳、プレジデント社から二〇〇六年と二〇一四年に出ている。彼女の長編はいずれも現れない。邦題を想定した日本語での検索、および日本語の書評媒体の検索は、日本国内で売られている英語版を返しただけだった。記録がないことは不在の証明ではなく、刊行予定の訳や雑誌連載の訳はこの方法では必ずしも浮かばない。ここでの主張は、見つからなかったということだけである。
この空白は、入手しやすさを越えた理由で立ち止まる値がある。この本の中心の動きは、現代英語の小説のなかでも、日本語へ運び込むのがもっとも難しいものの一つでありうるからである。
英語では一人称代名詞が構造上必須である。自分についての文には I が含まれていなければならず、だからそれを取り除くことは目立ち、避けようがなく、即座に効く。読者は気づかずにいられない。日本語では文法上の主語がふつうに表に出ない。自分について書かれた文章の多くは、一人称代名詞を一つも使わないまま何段落も進む。ふだん不在であるものを、劇的に引き上げることはできない。
だから訳者は、きれいな選択肢のない分岐に立つことになる。前半にわたって「わたし」を入れつづけ、のちの「妻は」への交代が断絶として登録されるようにすれば、前半は原文にはない執拗さを帯びる。前半を自然な無標のままに置けば、「妻は」の到来は出来事ではなく語調の移行として読まれる。どちらにしても、荷重を担っている何かが動く。
これは日本語への苦情ではない。日本語にはまさにこの領域について英語が欠いている資源がある。語尾や自称の選択が担う、人称と距離の装置の一式がそれである。ここでの観察は、この本の議論が一つの言語の文法上の特徴に留められていること、そして形式上の出来事はつねに運べるとはかぎらないということである。二つの言語をまたいで親密な生を営んだことのある読者なら、一般形はすでに知っている。自分の言いたいことの一部は語ではなく機構のほうに保持されており、機構は移動しない。
この家が売るもの、そしてここから主張しないこと
この家は私的な同伴を売っている。一人の女性が心を向けられ、言葉を交わされ、役に立つことを要求されない夜である。中断された注意についての議論が、この家にとって真であってほしい議論であることは、率直に述べておく値がある。
だから制約は、末尾の免責ではなく制約として述べる。
私たちは、買われた一夜が一人称を回復させるとは主張しない。数時間耳を傾けられることが何かを修復する、何かを巻き戻す、あるいは人を自分の文の中心に戻す、と述べる箇所はここにない。ほのめかせば金は容易に入るだろうが、私たちはほのめかさない。支えられる主張ではないからであり、そして反証できない約束こそ、まさにこの位置にいる人々に対して用いられる標準の道具だからである。
私たちは読者を診断しない。自分の生についての説明のなかに三人称を見出した女性が、それによって何かの症状を抱えていることにはならない。この文章はいかなる徴候も、症候群も、段階も記述していない。彼女は形式上の仕掛けについての本を読んでいる人であり、何一つ思い当たらないかもしれない。
私たちは、この本が手引きであるとも主張しない。それは小説である。助言を含まず、方法を差し出さず、教訓に収束しないまま終わる。それを読んでも、結婚をどうすべきかは誰にも告げられない。そうでないかのように示唆する刊行物は、読者に偽の用事を売っていることになる。
そして私たちは、この本が記述する型の外にいるとも主張しない。日程に入れられた一夜は、値のついた区切られた取り決めである。もしそれが、ある女性が一週間のうちで文の目的語ではなく主語でいられる唯一の間隔になるなら、それは祝うべき成功ではない。その一週間がどれほど狭くなっているかの記述である。
この文章へのいちばん強い反論
重要な反論は、上のいずれかの事実が誤っているというものではない。この文章が、確かめようのない言葉で一つの形式を称賛した、というものであり、それは四つに分かれる。
第一に、断片は読者にお世辞を言う。白の多い頁は、熟慮されたものとして読まれる。一つの転回で終わる短い段落は、そこに知恵が含まれていようといまいと、知恵として読まれる。簡潔さは、主張を評価しうる接続の組織を取り除いてしまうからである。箴言は散文のなかでもっとも寛大な形式である。言い切ってやめる。すると読者はそれを正当化するはずの推論を自分で補い、そのうえで本が推論を行ったものとして手柄を与える。長い小説は、二百頁の議論を通じて結論を稼がねばならず、その途中で失敗を捕らえられうる。この本は九語で結論を含意し、抑制を称賛されうる。それは浅さの証明ではないが、この形式が通常の検査に対して構造的に守られていることは意味する。そして形式を議論と呼ぶ文章は、そこに答えていない。
第二に、形式上の新しさの下で、筋は月並みである。夫が年下の女性と関係をもつ。妻が知る。怒りがあり、夫婦カウンセリングがあり、田舎の家への退避があり、決着のつかない継続がある。家庭小説でもっとも古い形である。懐疑的な読者はこう言える。断片は、見慣れた物語を新たに観察されたもののように感じさせる仕事をしているのであり、新しさは提示の水準にしかない。私たちは何度も読んだ物語の包装に感心し、その包装を洞察と呼んでいるのだ、と。
第三に、そしてこれがもっとも重い。三人称への転換は過剰に読まれているかもしれない。この本についてのあらゆる論考が飛びつく細部であり、この文章もそうであり、その一致自体を疑う理由がある。オフィルは、代名詞の型は決定になる前に草稿のなかで起きているのに気づいたものであり、あとから断片をそれに沿うよう並べ直したのだと述べている。見出されたのち整えられた型は、実際の芸術的行為である。しかしそれは設計された形式上の議論と同じではない。そしてそれを本の中心の動きと呼ぶ文章は、作者があとから是認した草稿上の偶然の上に伽藍を建てている危険がある。加えてそれは、解釈を気前よく報いる種類の仕掛けでもある。疎外についてのほとんどどんな説明も、そこに掛けられる。それこそ読者を慎重にさせるべき性質である。
第四に、そしてこれには反駁がない。この文章は、自らが誤りでありうる検査を一つも供給していない。断片形式が議論ではなく、単に魅力的な書き方にすぎないことを示すのは、どのような観察だろうか。この主張は、本のどの特徴もそれを確証するように組み立てられている。圧縮は中断を確証する。並置は負荷のかかった精神を確証する。代名詞の変化は置き換えられた自己を確証する。それに不利に数えられる頁が存在しない。それは反証不能な読解の署名であり、この図書室は他人の主張に対してそれを持ち出しておきながら、自分のものを免除するわけにはいかない。
誠実な応答は擁護ではなく狭めである。この文章は、断片化が一般に優れているとも、連続した散文が嘘をつくとも、ほかの小説がこう書かれるべきだとも主張しない。主張するのはもっと小さいことである。この特定の本においては形式と主題が同じ条件を記述していること。そして文法上の人称の変化が、ありふれた経験に対して、通常用意されている言い回しよりも正確な名であること。この小さいほうの主張も、厳密な意味ではやはり反証可能ではない。それは読解であり、読解として差し出されている。ある人はこの言葉を有用と見出すかもしれず、自分にはまったく当てはまらないと見出すかもしれない。そして後者は、その人の理解の失敗ではない。
この文章が主張していないこと
この文章は文学の分析である。臨床の指導ではなく、いかなる状態も記述せず、誰も診断せず、いかなる結果も約束しない。ここにあるどれも、小説を読むことが結婚や気分や生について何かを変えると述べているものとして読まれるべきではない。
書誌は出版社と図書館の記録から取っており、初版を検分したものではない。頁数は版によって異なる。四十六章という数や、代名詞の転換が中ほどに置かれているという記述を含め、本の構造についての説明は、刊行された批評と書評から引いており、この図書室が実物に当たって数えたものではない。そしてこの議論のいかなる部分も、その正確な数値に依存していない。
受賞の記録はそれが何であるかとして述べている。最終候補が三度、受賞はなし。二〇一五年フォリオ賞、受賞はアキール・シャルマ。二〇一五年PEN/フォークナー賞、受賞はアティカス・リッシュ。二〇一六年国際ダブリン文学賞、受賞はアキール・シャルマ。ニューヨーク・タイムズ・ブックレビューの二〇一四年の十冊に入っていることは一覧への掲載であって賞ではない。最終候補に残ったことは、ある審査団がその本を真剣に扱った証拠であり、その本についての読解が正しい証拠ではない。
作者の意図についての言明は、日付のある刊行済みの聞き取りに帰属させており、彼女自身の制作過程についての説明として報告している。本の意味についての権威としてではない。代名詞の型が計画される前に気づかれたものだという彼女の発言は本文に記しており、省くのではなく、この文章自身の議論に不利な材料として用いている。
「アート・モンスター」という言い回しの流通は受容として報告している。それは、ある定式が持ち運びやすく、ローレン・エルキンやレイチェル・ヨーダーを含むほかの作家にとって有用だった証拠であり、両者は公にこの小説に帰している。それは影響力の測定ではなく、誰かの感情の集計でもなく、それが名づける状態が以前より一般的になったという主張でもない。
日本語についての点。この小説の日本語訳は見つからなかった。そして読者が同じ手順を繰り返せるよう、検索は本文に記した。それは証拠の不在であって、不在の証明ではない。代名詞の転換が日本語でどう振る舞うかについての議論は、存在しない翻訳についてのものであり、二つの言語の文法についての所見であって、日本の読者についても、日本語の文章についても、いかなる国民性についても述べたものではない。
この小説のいかなる一節も長く引用していない。アート・モンスターの定式も、全文を再現するのではなく記述している。ジェニー・オフィル、その出版社、そしてここに名を挙げたいかなる批評家、翻訳者、作家も、この家と関わりをもたず、この家を知らず、この家を是認していない。この家がこの文章の主題にもつ商業上の利害は、ここだけでなく本文のなかで述べている。議論がその働きを終えたあとに現れる申告は、申告ではないからである。