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Moonlight Journal

考えているだけでは、自分が何を望むのかはわからない。

好奇心は、欲望の小さい版ではない。人が自分の望みを知るための、唯一の方法だ。それがいま、宣言と同じ値段で売られている。だから、ほとんど誰もそれを使わない。

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四年のあいだ、彼女が気になっていることがある。劇的なことではない。見知らぬ人に平坦に説明したら、退屈にすら聞こえるだろう。一度も口に出していない理由のひとつはそこにある。そうではないかと疑っていて、危険を冒して口にしたものが平凡だった、という事態に耐えられない。

パートナーには言っていない。彼は、いつからなのか、何かが足りないという意味なのか、を知りたがるからだ。友人にも言っていない。それは物語になるからだ。あたたかく、テーブルで、一度ならず語られる物語に。かわりに彼女は読んできた。行くつもりのない国について調べる人のように。四年ぶんの読書のあと、彼女はそれについて非常に多くを知っていて、自分がそれを望むかどうかについては、何ひとつ知らない。

この文章が扱うのは、その隔たりと、それが閉じない理由だ。主張は二つの半分からなる。ひとつめは認識についてのものだ。人は、考えることによって自分が何を望むかを知ることはできない。望むということは、内省が届く種類のものではないからだ。ふたつめは社会についてのものだ。唯一機能する方法、つまり試すこと、が、まるで宣言であるかのような値段をつけられている。だから、ほとんど誰もそれを使わない。どちらも直せる。そして、誰かの落ち度であるのは、ふたつめだけだ。

内省は、道具として間違っている

ここで最も役に立つ心理学は、性についてのものではまったくない。ダニエル・ギルバートとティモシー・ウィルソンは、一九九〇年代から二〇〇〇年代の多くを、感情予測の研究に費やした。これから起きる経験が自分をどう感じさせるかを予想する、というごくふつうの人間の営みのことだ。多くの形で再現された彼らの発見は、人はそれが体系的に下手だ、というものである。人は反応の強さも持続も過大に予測する。この傾向はふつうインパクト・バイアスと呼ばれる。そして最も外すのが、一度も経験したことのないことを予測するときだ。その場合、そこから模擬できるものが、説明のほかに何もないからだ。

何かを気にしている人が持っているのは、まさにその説明だ。言葉があり、たぶん映像があり、しばしば他人の証言がある。そのどれも、それそのものではない。接触が供給し、説明が供給できないのは、結局のところ重要になるものすべてだ。行為ではなく部屋。観念ではなくこの人の手。概念ではなく、自分が見られていると感じるかどうか、寒くないか、おかしくないか、五分たったころに自分自身を意識しなくなっているかどうか。決めるのはそういう変数であり、そのどれも事前には手に入らない。

だから四年の読書は、知識のない専門性を生む。同じ理由で、絶対に嫌だと確信していて外れることもあれば、絶対に好きだと確信していて逆向きに外れることもある。そしてそのどちらの間違いも、自己認識の失敗を示してはいない。示しているのは、道具を間違えた、ということだけだ。

ここから導かれるのは、好奇心が欲望の劣った版でも前段階でもない、ということだ。好奇心が方法である。それを軽薄なものとして扱うこと、あるいは誰かが動く前にもっと注意深く考えて片づけるべきものとして扱うことは、その調査を遂行できない道具で調査を完了せよ、という要求だ。

ひとつ、ただちに付す留保がある。感情予測の研究が扱っているのは一般的な経験だ。引っ越し、賞金、病気、選挙。それを性的な選好に拡張しているのはこの文章の推論であり、妥当ではあるが、実証されたものではない。

口に出した瞬間に起きること

彼女が言ったとしよう。するのではなく、言うだけ。一人に、一度。ほとんど即座に三つの変換が起きる。そしてそのどれも、敵意からではない。

ひとつめは、好奇心が選好に変わる。気になっている、と言った。伝わるのは、好きなのだ、ということだ。疑問の語気は伝達を生き延びない。聞いた側は何らかの形でその情報を格納しなければならず、「気になっている」という引き出しを持っている人は多くないからだ。

ふたつめは、選好が属性に変わる。彼女はいまや「そういうのが好きな人」だ。これは速く起き、そして親切に起きる。しばしば安心させる言葉として。悪いことじゃないよ。そういう人はたくさんいる。話してくれてよかった。そのどの文も寛大で、そのどの文も、彼女が入ると同意していない分類を設置する。

みっつめは、属性が義務に変わる。彼女が「そういうのが好きな人」であるなら、あとで断るには説明が要る。すでに知られている彼女自身と矛盾することになるからだ。快く応じてくれたパートナーには、反応を返す義務ができる。準備をした施術者には、結果を返す義務ができる。暗がりで発したひとつの文から、彼女は、興味を持ちつづけるという小さな継続的義務を手に入れた。

女性にはとくに、四つめの読みが待っている。その好奇心は症状である、という読みだ。何かが足りないに違いない。関係に、あるいは彼女に、あるいは彼に、何か問題があるに違いない。何かに興味があると言った女性は、しばしば「その背景は何か」と訊かれる。それは、好奇心には原因があるはずで、ただそこにあるものではない、と前提した問いであり、ヨットを習ってみたいと言った人には誰も訊かない問いだ。

足し合わせれば、その一文の費用は、その価値を超えている。沈黙は内気さではない。悪い為替レートに対する、合理的な応答だ。

a doorway left ajar onto a dark stair, the gap no wider than a handa doorway left ajar onto a dark stair, the gap no wider than a hand
好奇心は、欲望の小さな型ではない。

答えではなく、迷いのほうを描いた映画

『セクレタリー』は、スティーヴン・シャインバーグ監督、二〇〇二年公開の作品だ。マギー・ギレンホールが演じるリーは、精神科病院を退院したばかりの若い女性で、ジェームズ・スペイダー演じる弁護士グレイの秘書として働きはじめ、タイプと訂正というごくふつうの素材を通して、二人のあいだに支配と服従の力学が生まれていくことに気づく。この文章で触れるのは、その力学が生まれる、というところまでだ。

この作品には本当に異論があり、異論を後回しにせず、最初に付けて紹介するべきだ。リーは自傷をしており、映画は彼女の服従と自傷を同じ物語の領域に置く。それを、一方が他方の代わりになるという主張として読む観客は多い。それは臨床に属する主張であり、ロマンティック・コメディに資格のある主張ではない。関係はまた、雇用主と被雇用者のあいだのものであり、拒否が自由に選べたのかという点について、含意するもののすべてがそこにある。どちらの異論も不当ではない。

それでもこの作品がほとんど他のどれもしていないことをしている。発見を、発見として描くことだ。リーは、起きていることに名前を持たず、共同体を持たず、何も読んでおらず、そして「実はずっと知っていた」ことにされない。何かに気づき、確かめるために小さなことを試し、自分の反応に気づき、少しずつ進む。しばしば確信がなく、ときどき間違える。この領域を扱う映画の多くは、登場人物がすでに到着したあとから始まる。だから面白い部分、つまりまだ知ろうとしている部分は、画面の外で終わっている。ここではそれが映画そのものだ。

分類しておく。フィクション、アメリカ、ロマンティック・コメディの語り口、様式化されており、上記の理由で異論がある。誰がそうした関係をどう営むべきかについては何ひとつ立証しないし、その職場も、自傷の扱いも、治療的な枠組みも、何かの手本として読まれるべきではない。ここで支えるのは狭く形式的な一点だけだ。選好は暴かれるのではなく、たどり着かれることがありうる。そしてたどり着くには時間がかかり、他人の前で確信を持てないでいる時間を含む。配役、監督、年は記憶によるもので、事実確認済みとする前に検証されるべきだ。

「自分には合わなかった」をふつうにした手引き書

リー・ハリントンとモレーナ・ウィリアムズによる『Playing Well with Others』(二〇一二年)は、キンクやレザーの共同体に入っていくための案内書だ。イベントがどう運営されるか、どう自己紹介するか、交渉はどう行われるか、どう求めるか、そして長い紙幅を割いて、どう断るか。

この本が読むに値するのは、その主題とはまったく関係のない理由による。これは行為についてではなく社会的な層についての本であり、この文章が扱っている問題を解こうとした人々によって書かれている。イベントを開く共同体は、好奇心を持って現れ、興味を持たないまま帰る人々の絶え間ない流れを受け止めなければならない。現れることが約束を意味するなら、誰も現れなくなる。だから作法が作られた。参加せずに見ている方法。小さなことを試す方法。そしてあとで、自分には合わなかったと言う方法。それを差し出した誰かへの侮辱にならない形で。

最も移し替えのきく項目は、「試してみて、結局自分のものではなかった」を、ふつうの、予期された、面白くもない結果として、固有の作法つきで扱っていることだ。失敗ではない。取り持った人への拒絶ではない。試行が無駄だったという証拠でもない。そして説明を要するものでもない。たいていの場面では、その文は小さな危機だ。探索のために設計された場所では、それは火曜日だ。

ふたつめに有用な項目は、交渉が「そのあと」を含むものとして理解されていることだ。これが終わったら何が起きるか。誰が何を言うか。会話をするのかしないのか。どちらが何を訊いていいのか。「そのあと」が設計されていない探索は、人が「楽しかったことにする」に同意してしまう道筋だ。

分類しておく。共同体の手引き書、アメリカ、記述する共同体の内側から書かれ、実践的で擁護寄り、研究ではなく蓄積された技芸に基づく。どんな頻度の主張も支えない。ここではその手続き上の作法のためだけに使っており、この文章はキンクについて、どちらの方向にも推奨をしていない。

なぜ日本にはこのための「第三の場」がないのか

ここまでの圧力は国に固有のものではない。より土地の形をしているのは、その問いを置く場所がない、ということのほうだ。

好奇心を持った日本の女性には、おおよそ三つの聞き手がいて、そのそれぞれが問いを別のものに変換する。パートナーは、自分についての判決として聞く。何年も推察で回ってきた関係では、明示された発言はどれも、長年の不満が表面化したものとして読まれるからだ。友人はあたたかさを、そして物語を生む。裏切りではないが、循環である。そして循環こそが、彼女の避けたかったものだ。商業的な店舗は、その問いを九十秒ほどでメニューの項目に変換する。メニューは商業的な店舗の思考の形式であり、メニューは、まだ訊かれていない問いに答えてしまう。

欠けているのは、賭け金の低い中間だ。一度だけ問い、一度だけ試し、そして置いていける場所。どの記録にも何も記入されない場所。文化的な装置はそのために作られていない。「察する」はすでにそこにあるものを読むための技術であり、その点では非常に優れている。だが、まだそこにないものを探索している人には、何も差し出せない。そして明示的に述べることを、装置の使用ではなく、装置の失敗のように感じさせる。

ここには、はっきり述べておくべき皮肉がある。それが、この分野がいまの形で存在している実際の理由だからだ。有料の、境界のある、職業的に守秘された取り決めは、いま日本の大人が、関係の永続的な記録に何も残さずに何かを知ることのできる、最も近い場所のひとつになっている。この狭い一点において、商業的な場は親密な場よりも私的である。それが真であるというのは奇妙なことであり、ふつうの関係が修正のためにどれほど余地を残していないかについて、あまり名誉でないことを語っている。そして、それによって利益を得る側が自分で述べるべきことであって、他の誰かに指摘させておくべきことではない。

a compass needle settling, still swinging a degree either side of northa compass needle settling, still swinging a degree either side of north
宣言と同じ値がついている。だから、ほとんど誰も使わない。

好奇心のために作られた部屋がすべきこと

設計上の要件は一文で足りる。試行が、誰の面目もつぶさずに「いいえ」で終われること。ほかのすべてはそこから導かれる。

始める前に、それを試行だと、声に出して名づける。その語がほとんどの仕事をする。予期される結果の分布を、あらかじめ設定するからだ。これは何にもならないかもしれない。そしてそれは、私たちが予期している結果のひとつであって、残念なほうの結果ではない。

段階の梯子を作らない。試行が約束に変わる最もありふれた経路は、あることへの「はい」が次のことへの一段として扱われ、ひとつの同意が期待される量を静かに増やしていくことだ。好奇心のために設計された部屋は、あらゆる要素を、別途持ち出されるまでは終端として扱う。そのほうが遅い。遅いことが要点だ。

常備の注文を持たない。一度述べられた選好は、その人についての事実として持ち越されてはならない。前回、あることに興味があると言ったとしても、それは今夜叶えるべき選好として記録されてはいない。何も確立されていなかったかのように、最初から、また訊かれる。実際、何も確立されていなかったのだから。

「そのあと」を設計し、「自分には合わなかった」を平坦に言える文にする。告白ではなく、感想でもなく、相手が寛容さを目に見える形で発揮しながら受け止めなければならないものでもない。ただの結果として。

そして最も難しい取り決め。喜ばないこと、そして安堵しないこと。彼女が気に入ったことを目に見えて喜ぶ施術者は、望ましい答えがどちらかを彼女に教えてしまった。気に入らなかったときに安堵して見える施術者も、反対側から同じことを教えている。どちらも次の試行を、正解のある試験に変える。ここでの中立は冷たさではない。その発見が彼女のものであるための、唯一の条件だ。

Moonlight の組み立てはこれに基づいている。Desire & Boundary Map は注文書ではなく地図であり、持ち越されずに毎回書き直される。要素は連続ではなく終端として扱われ、そして振り返りの時間は、「いいえ」に置き場所を与えるためにこそ存在する。利害の対立は明白であり、名指しする価値がある。事業には、好奇心が「はい」で終わることに明白な商業的利害がある。だからこそ中立の取り決めは、善意の問題ではなく、施術者への書かれた指示でなければならない。そしてだからこそ読者は、表明されたものより実演されたもののほうを重く見積もる権利を持つ。

議論していないこと

誰もが探索すべきだ、という議論ではない。好奇心のなさは正当で落ち着いた立場であり、修正を待つ欠損ではない。この領域について一度も気になったことのない人が、発達の一段階を飛ばしているわけでもない。ここにあるどの文も、満ち足りた人が何か別のものを探すべきだ、という示唆として読まれるべきではない。

試すことに費用がない、という議論でもない。接触は、それをした人を変える。知らなかったことに戻れないものはあるし、既存の関係を豊かにするのではなく複雑にする発見もあるし、「いいえ」で終わった試行にも残滓は残りうる。ここでの議論は、その代わりである「決められない手段によって事前に決めること」にも費用がある、というものだ。そしてその費用は、四年間何も起きない、という形をとるから、見えにくいだけである。

あらゆる好奇心が実行されるべきだ、という議論でもない。人が気になっていることのなかには、安全に行うのに本物の技術を要するものがあり、サービスを提供する誰かではなく治療者に持っていくべきものもある。その区別を、離れた場所から文章がつけることはできない。

そして証拠はあるがままのものだ。よく再現された感情予測の知見を、それが測定されていない領域へ推論で拡張したもの。異論のある映画。研究ではなく技芸である共同体の手引き書。そして日本の社会生活についての構造的な読み。これは問題を見るための一つの見方だ。結果ではない。

四年に戻ろう。そのあいだに実際に起きていたのは、優柔不断ではない。抑圧でもない。まして自己認識の欠如ではまったくない。ひとりの人が、与えられた唯一の道具、つまり自分の頭を使って、自分の頭には答えられない問いについて調査を行い、毎年正しく「まだわからない」と結論していた。それだけだ。

彼女に必要なのは、もっと考えることでも、もっと勇気を出すことでもない。一度だけの、一時間だ。その問いを、訊いて、試して、また置いてこられる部屋。答えが「いいえ」であっていい部屋。その結果に誰も喜ばず、落胆しない部屋。そして今夜のことが、次回の彼女に期待されるものとして、どこにも書き込まれない部屋。

その部屋を作るのは難しくない。作りたいと思うことが難しいだけだ。そこにあるすべては、結果を本当に不確かなままにするために設計されている。そして人と人のあいだの取り決めのほとんどは、結果を確かなものにするために、静かに設計されている。

ほかの章から読む

『The Erotic Mind』を、刺激の本ではなく「心がつくる官能」の本として読むこの本は手引き書の棚に置かれ、そしてそれは手引き書ではない。その主張は、興奮が刺激によって生み出されるのではなく意味によって生み出されるということ——ある状況が、特定の種類の張りを帯びたときに官能的になるということである。そしてそれは、演じることに疲れた人にとって即座の帰結を持つ。官能が意味でできているなら、それは目に見える部分に位置していたことが、はじめから一度もなかった。『寝ても覚めても』と、「似ている人」に惹かれる心の危うさ街で一人の男が現れ、誰も決めないまま何かが始まる。数年後、同じ顔をした別の男が現れる。この映画はふつう、似ていることへの警告として読まれる。一度も何かを始めたことのない女性の映画として読むほうが役に立つ。そして、似た顔が静かに果たしている役割について。それは、始まりそのものを省かせてくれるということである。縄と、それが借りてきた系譜。縄の技は、江戸期の捕縛の技術から下ってきた古い日本の芸術として世界に売られている。その武術は実在した。継承のほうは記録されているというより主張されているものであり、そして実在する実践は一世紀ほどの歴史しか持たない。この章が借り物の古さをまとった近代の発明を見つけるのはこれで三度目であり、それがくり返し起きるという事実のほうが、個々の事例より興味深い。

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