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Books · Moonlight Library

『夏物語』が問う、身体は誰のものかということ

豊胸手術、初潮、老い、お金、そして性を望まないまま子どもに会いたいと思う女性。そのすべての下にある問いは一つである。女性の身体が語られるとき、その文の主語になるのは誰なのか。

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身体について語られるとき、その文の主語は、たいていそこに住んでいる人ではない。

胸が小さい。もう若くない。まだ産んでいない。そんなことを気にするなんて。そんなことを気にしないなんて。

身体は、人が住んでいる場所であるはずだ。それがいつのまにか、他人の期待が積もる場所になり、その内側にいる人は、誰か別の人が話している文の目的語になってしまう。

川上未映子の長編は、そこに積もっていくものについての小説であり、同じ段落のなかで可笑しくて痛い。その二つを分けない。これは、この書庫がこの作品について書く二篇目にあたる。以前の一篇は、この小説を、女性の身体を説明するのは誰かという問いとして読んだ。この文章は、その一篇が縁に置いたものを三つ取り上げる。子どもには会いたいが性は望まない女性のこと。この本のなかで身体についてのあらゆる決定が同時にお金についての決定でもあるということ。そして、生活にではなく身体そのものに貼られた採点表のこと。

この本と、その前の本

この長編は、2019年7月に文藝春秋から『夏物語』として刊行された。出版社によれば、第73回毎日出版文化賞の文学・芸術部門を受賞し、2020年の本屋大賞にノミネートされた。2021年8月には文春文庫版が出ている。

これは同じ作者の以前の中編から生まれた。その中編は、2007年下半期の第138回芥川賞を受け、文學界に掲載されたものである。出版社は、この長編を、その本の登場人物たちがあらたに織りなす物語として紹介している。中編を知っている読者は三人のうち二人に見覚えがあるだろうし、知らない読者が前提を欠いているわけでもない。

英訳はサム・ベットとデイヴィッド・ボイドの共訳で、2020年にヨーロッパ・エディションズから、イギリスではピカドールから刊行された。

読み始める前に知っておきたい事実はそれくらいで、この文章は小説そのものからは、どちらの言語でも一行も引用しない。以下にあるのはこの本についての議論であって、この本の代わりではない。

第一部。ひとつの身体に、何人分の視線が乗っているか

第一部の舞台は、30歳の夏子が暮らす東京の小さな部屋である。大阪から、姉の巻子が娘の緑子を連れてやってくる。巻子は豊胸手術を望んでおり、クリニックを訪ねるために上京してきた。

巻子の身体は、着いた時点ですでに混み合っている。それは夜の店で働く女性の身体であり、そこでは見た目は見栄ではなく道具立てである。ひとりで娘を育てる母親の身体である。四十に近づいていく身体であり、文化がその身体に認めていた唯一の資産である若さが、目減りしていく。そして、彼女自身が見て、何かが足りないと感じる身体でもある。

手術を「見栄」や「男のため」として片づけるのは簡単だ。小説はその近道を断る。しかもその拒否は、上品ぶってのことではなく、意図的である。巻子が本当に何を求めているのかは、最後まで完全には読み取れるようにならない。妹にも、読者にも、そしておそらく巻子自身にも。

読み取れるのは、彼女の身体が一度も彼女ひとりのものとして扱われてこなかったということだ。彼女の人生にいる誰もがその身体について意見を持っており、その意見は、彼女が自分の意見を持つ機会よりずっと早く到着していた。

夏子は、いとおしさと当惑の混じった目でそれを見ている。読者はちょうど彼女の位置に置かれる。手術に賛成するよう求められてもいないし、反対するよう求められてもいない。求められているのは、巻子が「何を望んでいるのか」と問われたことがいかに少なく、周囲が彼女にいかに大声で告げてきたかに気づくことである。

緑子のノート

緑子は口をきかなくなっている。話せないのではない。書くことを選んでいるのであり、そのノートは大人の語りの傍らを、第二の楽器のように走る。

彼女が書いているのは、自分に断りなく動きはじめた身体についてである。初潮。胸。人がどうやって作られるのかという仕組み。大人が自分を訓練して見ないようにしてきた明晰さで、彼女はそれを見ている。その苦痛は潔癖さではない。自分が同意していない、止めることもできない過程が進行しており、しかも周囲の全員がそれをよい知らせとして扱っている、という認識である。

その沈黙は症状ではない。戦略であり、しかも精確な戦略だ。話さなければ、答えられることも、訂正されることも、慰められることも、名づけられることもない。ノートは、誰かに定義される前に自分の身体を自分で記述しようとする試みであり、その記述を、誰にも遮れない媒体で行おうとする試みである。

この二人を並べたときの対称性が、第一部全体の要点だ。母は自分の身体に何かを足したい。娘は自分の身体が勝手に足していくことを怖れている。二人の望みは正反対に見えて、根は同じである。それぞれが、自分の身体を自分のものとして扱いたいのだ。

第二部。子どもには会いたい、性は望まない

第二部はその八年後から始まる。夏子は38歳になり、小説家として細々と暮らしている。そして、自分の子どもに会いたいと思いはじめる。

その願いには、多くの人の普通の計算では不可能にしてしまう条件が付いている。彼女は、性的な接触を望んでいない。

通常の配置では、この二つの事実は束ねられている。子どもを望むことと性を望むことは一緒に動くものと前提されており、その前提はあまりに固いので、誰かが二つを切り離すまで目に見えない。だから夏子のような組み合わせは、外から見ると、彼女が真剣に受け取られる前にどちらかへ解消されねばならない矛盾のように見える。

小説はそれを矛盾として扱わない。そして、どのように扱わないかが、この本のなかでもっとも興味深い。

夏子の、性への欲求のなさは、一度も原因に遡られない。理由としての出来事は提示されない。傷として枠づけられることも、一時期として枠づけられることも、その下にある本当の願いが進めるように治療すべきものとして枠づけられることもない。彼女はそれを、自分の身体についての事実として、ただ携えている。38歳であるという事実を携えているのと同じ調子で。

この書庫の以前の一篇は、一般原則をこう述べていた。欲望は命令ではなく、情報である。夏子は自分の情報を、誰かの都合で書き換えずに読んでいる。子どもに会いたいことは情報である。性を望まないことも情報である。どちらか一方を、もう一方のために消す必要はない。

小説が断っている台本

この本が断っている台本に名前をつけておく値がある。読者はそれを即座に見分けるだろうし、それが台本であることには気づいていなかったかもしれないからだ。

その台本では、性を望まない女性は問題を抱えた女性であり、周囲の人びとは彼女に代わってそれを解決しにかかる。まだ本当の相手に出会っていない。何かを抑えている。自分でも特定できていない何かを怖れている。状況が変われば違うふうに感じるようになる。そのどれもが親切に差し出され、そのどれもが同じ構造を持っている。彼女の、自分自身についての言明を、信じるべき報告ではなく、解釈すべき症状として扱うのである。

夏子はそのすべての変奏を聞く。彼女を愛している人からも。

小説が彼女に与え、周囲の人びとが与えないもの。それは、自分の身体についての彼女の説明は正確である、という前提である。小さく聞こえる贈りものだが、これが議論の全部だ。女性の、自分の欲望についての記述は正しいと前提した瞬間、次に何をすべきかについてのあらゆる会話は、別の場所から始めなければならなくなる。

はっきり述べておくべきことがある。この本は夏子にいかなる診断も、いかなる呼び名も与えない。だから読者も、それを補わずに彼女を読むことができる。ある人が自分の身体について語る言葉を、症状としてではなく証言として聞くこと。それがこの小説の求めていることに近く、そして聞こえるよりずっと難しい。

身体は、お金の話でもある

読み終えたあとに残るのは、身体についての一節が、どれほど頻繁に同時にお金についての一節でもあるかということだ。

豊胸手術には費用がかかる。子どもを持つことにも費用がかかり、持たないことにも費用がかかる。巻子の仕事は身体でする仕事であり、その時間は、使える時間そのものである。第一部の夏子の暮らしは、確かめるまでもなく口座に何があるか分かっている暮らしだ。

英語版の出版社は、この小説を現代の労働者階級の女性たちの肖像として紹介しており、その枠づけは値を持っている。自分の身体との関係を自分で決める権利は、平等には配られていない。人が持つ選択肢の数は、居心地の悪いほどの度合いで、通帳の中身によって決まっている。

本はこれを、議論としてではなく、小さく飾り気のない仕方で具体化する。家賃と釣り合わせて量られる施術の費用。東京へ出る旅費。ひと晩の仕事がいくらになるかという算術。そのどれも劇化されない。ただ、あらゆる決定の下に置かれている。多くの人の決定の下に置かれているのと同じように、そして親密さについてのほとんどの書きものから抜け落ちているのと同じように。

だからこの小説は、「自分の身体は自分のもの」という一文を、けっしてスローガンに固めさせない。その一文を、願望としてではなく実務として言えるようになるまでに、どれだけの条件が満たされていなければならないかを、示しつづける。

採点表は、身体そのものにも貼られている

この書庫の他の文章は、「普通」という語が記述から採点表へ変わっていく過程を追ってきた。恋人がいるか。結婚しているか。経験があるか。母親であるか。

この小説が示すのは、同じ採点表が一段下に、生活にではなく身体そのものに貼られているということだ。

胸の大きさ。月経があるかどうか、いつ始まったか。年齢。出産の経験。性的な欲望があるかどうか、どれくらいあるか。そのどれもが、それ自体としては特定の身体の状態にすぎず、身長以上に評価的ではない。採点表の上では、そのそれぞれが点になり、点は合算されてその人についての判定になる。

夏子に向けられる視線は典型例であり、その順序は明示しておく値がある。めったに明示されないからだ。子どもが欲しいなら、まず相手を見つけよ。相手がいるなら、性は自然に続く。性を望まないなら、どこかがおかしいはずだ。採点表は採点するだけではない。順路を敷いている。そして順路を外れた者には、順路へ戻すために設計された言葉が差し出される。

その順路が一方向にしか点検されないことにも注目してほしい。相手のいる女性に、あなたは本当に性を望んでいるのかと問う者はいない。その欄は埋まっているものとされる。採点表に合致する身体を持つ女性に、それを自分で選んだのかと問う者もいない。問いはほとんどもっぱら、道を外れた人のために取ってある。それが、採点表が心配として自らを偽装するやり方である。

しかし身体は、順路を歩くために生きているのではない。

夏子への、いちばん強い反論

夏子の願いを自分勝手だと、あるいは甘いと感じる読者には、退けるのではなく本当の答えが差し出されるべきだ。その反論は愚かではないからである。

それはこう進む。子どもは満たされるべき望みではない。自分がどう到着したかの帰結とともに生きねばならない一人の人である。夏子は裕福ではなく、相手もおらず、自分にさえ完全には言語化できない理由で、通常の生殖の手段を迂回しようとしている。子どもに会いたいというのは美しい一文だが、それでもなお、根のところでは、彼女が何を望んでいるかについての一文である。そのどこかに、一票を持たない人がいる。

小説はこれを避けない。それどころか、第二部が組み立てられているのはこの問いの周りであり、夏子はどの読者よりも厳しい版の問いを自分に突きつける。彼女は、その仕方で生まれた当事者の経験を持つ人びとに会い、その異議を雑音として扱うことを許されない。

この文章がその反論に対して言うことは、擁護よりも狭い。吟味されること自体は正当である。吟味の配分のほうが正当ではない。同じ吟味は、これらの問いを一つも検討しないまま通常の仕方で子をなす二人組には、ほとんど決して向けられない。順路は人を、問われることから守っている。そこから外れることは、その人の思考の真剣さとは何の関係もなく、ただ目に見えるという事実だけによって、ある水準の尋問に人をさらす。

だから誠実な立場は、夏子が明らかに正しい、というものではない。彼女は、順路がほとんどの人に省略を許している推論を実際に行っており、そのことでより厳しく裁かれている、というものである。

これは、私の身体についての誰の文だろうか

読者がこの本から取り出せるのは解決ではない。小説がそれを差し出さないからだ。取り出せるのは、持ち帰ることのできる問いである。

自分の身体についての考えが浮かんだとき、それが誰の文なのかを問う値がある。疑い深くである必要はないし、効果を約束された練習としてでもない。ただ、この記述は私のものだろうか、それとも受け取ったものだろうか、と。

いくつかは明らかに受け取ったものだ。身体の一部に付けられた数値。職場の誰かとの比較。何かが起きているはずだった年齢。そういうものは、耳を澄ませば声が付いてくる。

難しいのは別のほうだ。あまりに長く保持されてきたために、個人的な意見の手触りを帯びてしまったもの。そこがこの問いの有用な縁であり、緑子がその語彙を持つ何年も前から、鉛筆で取り組んでいる場所でもある。

この問いの先に正解が待っているわけではないし、受け取ったものだと分かったからといって、それを捨てる義務が生じるわけでもない。受け取った記述のなかにも、正確で保持する値のあるものがある。要点はただ、どれが外から来たのかを知ることだ。それを知っている人は、知らない人とは別の位置にいる。

この家がこの本から受け取るもの

この家がこの小説から受け取るのは、子どもを持つべきかどうかについての立場ではないし、生殖医療についての立場でもない。それらはこの家の主題ではなく、この家にそこで発言する資格はない。

受け取るものは、そのどれよりも手前にある。

人は、自分の身体との関係を、自分の言葉で書いてよい。触れられたい、触れられたくない。何かを変えたい、そのままにしたい。何かを望み、そしてそれに伴うと前提されているものは望まない。その組み合わせが外から見て矛盾していても、それはその身体についての事実でありつづけるのであって、修正を待つ欠陥ではない。

緑子がノートでしていたのは、それだった。誰かに定義される前に、身体を記述すること。そして夏子が、自分の二つの事実を一つに畳まれることを断るとき、しているのも同じことである。

この小説は、三人の女性がそれぞれ別の方法で、そして別の金額をもって、自分の身体の著者になろうとする物語として読むことができる。だからこそ読者は、次に自分の身体について話している自分に気づいたとき、その文の主語がいつのまにか自分になっていることに気づくかもしれない。

この文章が主張していないこと

これは一つの小説の読みであって、文学研究ではなく、作者の意図についての主張でもない。小説からもその翻訳からも、一行も引用していない。触れているのは各部の設定と出発点までであり、中盤以降の展開にも結末にも踏み込んでいない。

夏子にはここでいかなる診断も呼び名も与えていない。小説が与えていないからである。読者にも与えていない。上のどこにも実在の人物の記述はなく、日常の場面は報告ではなく構成されたものである。

生殖医療についても、いかなる受胎の方法の倫理についても、誰かが子を持つべきかどうかについても、立場は取っていない。反論の節は夏子の願いへの異議をもっとも強い形で述べ、吟味の配分が偏っていることを指摘して答えている。それは彼女に同意することよりも狭い主張である。

この小説は、日本の女性についても、労働者階級の女性についても、未婚の女性についても、いかなる集団についても証拠ではない。三人の登場人物は三人の登場人物である。日本社会についての一般化は提示も含意もしていない。

刊行に関する事実は出版社自身のページと賞の記録から取っており、この文章の典拠台帳に記してある。毎日出版文化賞は、出版社が述べているとおりに述べている。参照可能な資料で確認できなかった書誌情報は、近似せずに省いている。

この本は、見つけるために紹介している。購入リンクも、販売店も、いかなる紹介報酬もなく、この文章のなかにサービスへの誘導もない。川上未映子も、その翻訳者たちも、文藝春秋も、ヨーロッパ・エディションズも、ピカドールも、他のどの出版社も、この家を推奨しておらず、その存在を知らない。この家の読みは、この本の意味としてではなく、一つの立場として述べられている。

もう少し静かに考えてみる

別の入口から読む