世界の親密さ · Library
デンマーク。平等を設備として作った国と、それでも解けないもの。
デンマークは、人々にもっと公平であれと求めたのではない。保育を作り、育児休業を各親に割り当て、一九七〇年に性教育を必修にした。ここでいま議論していることの大半は、あの国では何十年も前に片づいている。だからこそデンマークはこの章でもっとも価値がある。構造的な問題が消えたあとに何が残るのかを、見せてくれるからだ。
この記事を組み立てる言葉は「設備」である。
女性の人生について前進を遂げた国の多くは、人々に許されることを変え、そのうえでさまざまな声色で、もっとよく振る舞ってほしいと頼むことによってそれを行った。デンマークはもっと狭く、もっと効果的なことをした。物を作ったのだ。職員がいる保育の建物。名前のついた個人に週が割り当てられた休業制度。時間割の枠を持つ教科。そして振る舞いが構造のあとから付いてくるのを待った。おおむね付いてきた。
これがデンマークをこの章でもっとも有用な国にしている。ただし、普通に挙げられる理由によってではない。要点は、デンマークが先を行っているから真似るべきだ、ということではない。要点は、デンマークがここでの議論を支配している障害のほとんどを、すでに取り除いてしまったということだ。だからデンマークの親密な生活でなお難しいことは、構造的でない理由で難しいのである。
そして、なお難しいことは非常に多い。それが発見である。称賛する側の物語よりも、切り捨てる側の物語よりも、居心地が悪い。
デンマークが実際に作ったもの
保育から始める。デンマークの体制のほかのすべてが、その上に載っているからだ。
デンマークは、日本には近い比較対象のない規模と価格で、公的に補助される乳幼児期のケアを提供している。そして二〇〇〇年代半ば以降、自治体はひとつの保証のもとで運営されている。席を望む家庭には、定められた待機期間のうちに席が提示される権利がある。親の負担は実費に対する割合として上限が定められている。かなり低年齢の子どもの在籍率は、施設でのケアが例外ではなく統計上の標準であるほど高い。
このひとつの政策が何をしているかを理解してほしい。それは保育を、女性と雇用主と母親と運のあいだの私的な交渉から、公共設備へと変換する。ケアが公共設備であるとき、女性の就労についての決断は、彼女の人格についての国民投票ではない。
第二に休業である。デンマークは二〇二二年に、欧州のワークライフバランス指令に適合させるため育児休業を再編し、各親に相当な週数を、使わなければ失われる形で割り当てた。重要なのはその仕組みであり、それはノルウェーが先に示した仕組みと同じだ。移転できない休業は取得される。移転できる休業は母親へ移転される。推奨は父親を動かさない。留保が動かす。
第三に就労である。デンマークの女性の労働力参加率は何十年も高く、そして税と給付の制度は世帯ではなく個人を単位としている。これは、世帯を単位とする制度が第二の稼ぎ手に静かに課す罰を取り除く。
この何ひとつも、デンマーク人の意識についての言明ではない。建物と、週と、課税単位についての言明である。
誰も挙げない「世界初」
デンマークはまた、ほとんど持ち出されることのない一連の世界初を持っている。そしてそのどれも、読者が想像するより古い。
デンマークは世界で最初にポルノグラフィを合法化した国である。文章によるものが一九六七年、画像によるものが一九六九年。それをどう思うかは別として、つまり性的表現についてのデンマークの議論は、インターネットが存在する前に行われ、決着していた。
性教育は一九七〇年以来、デンマークの学校教育の必修の一部である。健康、セクシュアリティ、家族に関する知識を扱う、教科横断のテーマとして行われている。五十六年である。
デンマークは一九八九年、同性のカップルのための登録パートナーシップを世界で最初に作った。多くの国が動くより一世代早く、そして二〇一二年に同性婚へ進んだ。
さらに二〇二〇年、デンマークは強姦について同意に基づく定義を採用した。スペインより二年、日本より三年早い。
これらを並べると、どの単一の事実よりも価値のある型が見えてくる。デンマークには、問題を行政的に片づけて先へ進むという長い習慣がある。ほかより声の大きい公共的議論ではない。より短い議論であり、法律と時間割の枠で終わる議論である。
鏡。日本の学校が教えないよう定められていること
さて比較である。そしてこれはこの章でもっとも鋭い。
日本の学習指導要領には、しばしば「歯止め規定」と呼ばれる定めがある。義務教育において、生殖の過程は教えられるが、性交そのものは取り扱わないものとされている。妊娠は教えられ、妊娠がどう始まるのかは教えられない。
それをデンマークの一九七〇年という年に照らしてほしい。違いは、デンマークが性についてより自由だということではない。デンマークは、子どもにはその事柄そのものの正確な記述を与えるべきだと決め、日本は、子どもにはその事柄を取り囲むすべての正確な記述を与えるべきだと決めた、ということだ。
そしてこの歯止めが下流で何を生むかを考えてほしい。ここでそれは抽象をやめる。人は仕組みをポルノグラフィから、漫画から、友人から、教育課程も注意義務も持たないインターネットから学ぶ。彼女は、知らせるためではなく興奮させるために作られた材料から組み立てた語彙を持って、自分の最初の親密さに到着する。そして何年ののちに、自分は望むことを言えないと気づき、自分のどこかがおかしいのだと結論する。
彼女のどこもおかしくない。言葉を与えられなかったのだ。この章はこの一文に何度も戻ってくる。なぜならそれは、気質として誤って説明されているものについての、もっともありふれた説明だからである。
付け加えておくべきことがある。日本ではこの歯止めについて長く議論があり、多くの個々の教師がそれを迂回して教えており、そしてこの定めは、同意年齢を引き上げた二〇二三年の刑法改正を含む何度かの改定を生き延びてきた。社会は刑法を変え、教育課程をそのままにしておくことができる。それは別の制度であり、そして後者こそ、すべての子どもに届くほうである。
設備が実際に解決したこと
ここで渋ってはいけない。達成は本物である。
デンマークの女性は、子を持つことと収入を得ることのあいだで選ぶ義務を負わない。デンマークの父親は、意味のある、そして増えつつある割合の休業を取得している。彼らの名前で週が留保されたからだ。デンマークの女性は結婚のなかに経済的に閉じ込められていない。デンマークの離婚率が長く高い理由の一部はそれである。機能する福祉国家を持つ国における高い離婚率は、素直に不幸の尺度ではない。それは部分的に、出口が存在することの尺度である。
デンマークの思春期の子どもは、性とは何かを教えられている。デンマークの同性のカップルは、これを読む人の大半が成人する前から法的承認を持っている。デンマークの強姦法は同意を問う。
もし問題が完全に構造的なものであったなら、デンマークは終わっているはずだ。証拠は、終わっていないということである。そしてそれがこの記事が存在する理由だ。
平等が解決しなかったこと。若者は孤独である
デンマークは一貫して、世界でもっとも高い生活満足度を報告している。同時に、若年層に集中した、公的に把握されている孤独の問題を抱えている。
デンマークの全国健康調査は孤独を追跡し、思春期と若年成人のあいだでそれが上昇していることを報告してきた。そしてそれは文化的な不満ではなく公衆衛生の問題として扱われている。国は飾りのために、全国の健康プロフィールに孤独の指標を加えたりしない。
この二つの事実を、解消せずに並べて持っていてほしい。解消を拒むことこそ誠実な態度だからだ。デンマークの十九歳は、学費が無償で、安全網が機能し、社会的信頼が高く、包括的な性教育があり、彼女が望みうるどんな形の関係にも意味のある法的障害がない社会に生きている。それでも彼女は、きわめて孤独でありうる。
これは日本の読者にとって途方もなく重要である。そして具体的には、防御として重要だ。日本の孤独についての標準的な説明は、それを日本的なものに帰する。控えめさ、上下関係、働きすぎ、断ることの難しさ、間接性のために作られた言語。その一部はたしかに本当だろう。しかし孤独は、構造的な問題を解決したあの社会の若者のあいだでも上昇している。つまり構造的な問題は、どこにおいても説明の全部ではありえない。ここも含めて。
あなたが孤独なのは、あなたが日本人だからではない。その説明は、診断に対して甘すぎ、あなたに対して残酷すぎる。
欲望という問い、そしてデンマークが反証するもの
親密さについての会話のなかに、居心地のよい物語が流れている。こういうものだ。平等はけっこうなことだが、それは欲望を鈍らせる。性的な帯電には差異、距離、わずかな非対称が必要だ。結婚を共同経営者たちの公平な提携に変えれば、よく運営された家庭が得られ、そのなかでは何も起きない。
この物語は魅力的で、洗練された擁護者を持っており、そして北欧の証拠はその強い形を支持していない。
平等な分担をするカップルについての研究は、家事と育児を分け合うことが性的な頻度や満足を減らすとは、おおむね見出していない。いくつかの研究は逆を指し、より分け合うカップルが同等あるいはより良い性的な結果を報告すると述べている。そしてその仕組みは平凡だ。疲れ果てておらず、恨みも抱えていない人のほうが、その両方を抱えた人より欲望のための余力を持っている。
これは慎重に掲げる。文献は本当にまちまちで、尺度は粗く、そして調査データから因果の方向を確立するのは難しい。私たちが述べる主張は狭い。平等が欲望を殺すという命題は確立されていないし、平等においてもっとも遠くまで行った社会において、それは目に見えて起きていない。
デンマークで生き残るのは欲望のずれである。関係のなかの二人が、別の時期に別の量を望むということ。そしてそれは構造的な問題ではなく、もともとそうではなかった。それは、ひとつの寝台を分け合う二つの神経系のありふれた状態である。どの保育の保証もそれに触れない。どの同意の法律もそれに触れない。それは話されなければならない。それが誰もこれまでに見つけた唯一の方法であり、そして話すことは徳ではなく技能である。
残滓。それでも釣り合わないもの
デンマークは無償労働の五十対五十の分割を達成していない。そしてどの国も達成していない。経済協力開発機構の各国にまたがる生活時間の研究は、測定されたすべての加盟国で女性が男性より多くの無償労働を行っていると見出している。北欧の差はほとんどの国より小さく、そして閉じていない。
より興味深い残滓は、生活時間調査が捉えるのが苦手な部分にある。すなわち、先を見越し、覚えておき、段取りをする精神の労働だ。割り当てられた週を取得し、送り迎えをするデンマークの父親も、子どもの靴が小さくなったことに気づく人ではないかもしれない。その労働には時間が付いておらず、したがってデータがない。
第二の残滓は出生率である。デンマークの出生率は何十年も日本よりかなり高く、それでも人口置換水準より低く、そしてデンマーク人自身が調査で望むと答える水準より低い。国は保証された保育、割り当てられた休業、無償の教育、強い安全網を提供することができ、それでも人々は、自分が意図すると言う数より少ない子を持つ。
この発見は注意深く読まれるべきだ。それはしばしば武器にされるからである。これは支援政策が失敗することを示してはいない。意図された出生と実際の出生の隔たりには、子どもの費用を超えた原因があることを示している。伴侶を得る時期、住宅、成人の生活が始まる年齢、そして、抽象的に子を望むことと、特定の相手と特定の年に子を望むことは別の望みだということ。日本自身の隔たりも同じ形をしている。そして日本の隔たりが支援の不足で説明されると主張する者は、デンマークの隔たりの説明を負わなければならない。
ヒュッゲは親密さではないが、その隣にある
ひとつのデンマークの輸出品は検討に値する。それが何であるかよりも、それが偶然に示していることのために。
ヒュッゲは国際的に蝋燭と毛布として売られてきた。それはもっと具体的な何かの商業的な平板化である。すなわち、社会的に認められた、低い強度で共にいる様式であり、そこには議題がなく、演技がなく、その時間が何かを生み出さなければならないという要求もない。
これに注意する理由は、低い強度で共にいることが、近代のほとんどの社会で利用可能な親密さの語彙から、ほぼ完全に欠けているからだ。日本も含めて。差し出される選択肢は、審査であるデートか、約束である関係か、ひとりであることだ。二人が意図的に急がずに部屋にいるための枠には、ほとんど名前がない。
デンマークはそれに名を与え、言葉を作った。そしてその言葉はいま国外で商業的にあまりに劣化しており、その下にある考えを切り捨てるのは容易だ。切り捨てるべきではない。人々が自分の親密な生活から欠けていると述べるものの多くは、性でも恋愛でもない。それは、何かの審査を受けていない、他者との急がない時間である。それは記述できるものであり、そして名前を得たあとなら、整えることのできるものだ。
私たちの見方
デンマークについての称賛的な読みは、あの国が問題を解決し、残りの私たちは遅れているというものだ。切り捨てる読みは、北欧の平等は冷たく、孤独がそれを証明しているというものだ。どちらも誤っており、そして同じ仕方で誤っている。どちらも、親密さを社会が多く持ったり少なく持ったりする単一の量だと想定している。
デンマークが実際に確立していると私たちが考えることはこうだ。
第一に、構造的な障害は現実であり、取り除きうるということ。保育、休業、悪い結婚からの出口、正確な性教育、法における同意の基準。これらは解決可能であり、デンマークは解決した。そしてほかのどの国のどんな文化的な諦めも、この実証を前に生き残らない。
第二に、それらを解決しても親密さは届かないということ。親密さはそれらの下流にはなかったからだ。設備が取り除くのは障害である。設備が供給できないのは能力だ。望むことを言う能力、他者の望みを自分についての判決として受け取らずに聞く能力、時間が何かを生み出すことを必要とせずに、ゆっくりした速度で人と同じ部屋にいる能力。
第三に、これはここの読者に直接向けたい。デンマークの事例はひとつの言い訳を取り去る。そしてその言い訳は構造を支えていた。保証された保育と包括的な性教育と同意に基づく刑法を持つデンマークの女性が、それでも寝台で望むことを言うのが難しいのであれば、その難しさはもともと日本の欠陥ではなかった。それは人間の難しさであり、不均等に配られ、沈黙によって悪化し、そして治し方は改革ではなく練習である。
あなたは伝統に従順である義務を負っていない。あなたは近代を演じる義務も負っていない。あなたは、自分の人生に実際に合うものを見つけてよい。
翻訳の危うさ
デンマークからうまく旅をしないものが二つある。
一つ目は政策の買い物リストだ。デンマークの保育は、高い信頼、高い税、自治体による供給という公共行政のなかで、何十年もの制度的実践を背負って機能している。税の基盤も自治体の能力も信頼もないままに保証だけを持ち上げれば、建物ではなく発表が生まれる。日本自身の父親の育児休業の経験がその証拠だ。法律上の権利は国際的な基準で見れば手厚く、取得の隔たりはよく記録されている。権利は制度ではないからである。
二つ目は感情の語調だ。性と身体についてのデンマークの率直さは、五十六年の学校教育と、身体的な事実を名指すことが攻撃ではない文化の上に載っている。その土台なしに率直さを採り入れる日本の読者は、解放されているのではない。デンマークの同年代が払わない社会的な代価を払うよう求められ、そのうえで、あなたの躊躇は抑圧だと言われているのだ。
旅をするのは診断である。デンマークは、どの難しさが構造的で——したがって誰かが直す責任を負うもので——どの難しさが関係的で、したがって誰の過失でもなく皆の練習であるかを、示してくれる。
限界
ここにある政策上の事実、すなわち保育の席の保証、割り当て週を伴う二〇二二年の休業改革、一九六七年と一九六九年のポルノグラフィ自由化、一九七〇年からの必修の性教育、一九八九年の登録パートナーシップ、二〇一二年の婚姻、二〇二〇年の同意に基づく強姦法は、記憶から述べられている。事実確認済みとする前に、デンマークの法令、省庁資料、経済協力開発機構の家族データベースに照らして確認しなければならない。
日本の歯止め規定は、引用ではなくその効果によって記述している。正確な文言は学習指導要領にあり、改定されてきた。この比較に依拠する者は、この要約ではなく現行の文を読むべきであり、個々の教師の実践がこの定めからかなり異なることにも留意すべきである。
孤独についての材料はデンマークの全国健康調査の仕事から来ている。孤独の指標は質問の文言にきわめて敏感で、国際比較に安全に使えるものではない。だからこそこの記事は、デンマークの孤独を二国の順位づけではなく、日本の孤独についての文化的説明を崩すために用いている。
平等と欲望についての文献は本当にまちまちである。性的な頻度と満足の尺度は粗く、標本はしばしば小さく自己選択的で、因果の確立は難しい。だからこの記事は、平等が欲望を鈍らせるという強い主張が確立されていないということだけを述べている。それは、この証拠がどちらの方向にもしばしば使われるときの主張より弱い言明である。
出生率の数字は動き、ここでは相対的な位置と方向としてのみ述べている。意図された出生と達成された出生の隔たりは、よく記録された型であって精密な量ではなく、この記事は数値を挙げていない。
そしてデンマークは小さく、歴史の偶然によって著しく同質で、そして豊かである。上に述べた仕組みのいくつかは、規模と社会的信頼に依存しており、それが本当に移転不可能なものにしているかもしれない。それは修辞上の譲歩ではなく、この記事の有用性に対する現実の限界である。
デンマークがこの章にいるのは、利用可能な最良の対照実験としてである。
あの国は障害を取り除いた。保育は公共設備であり、休業は父親自身の名前で留保され、子どもは性とは何かを教えられ、法廷は同意を問い、そして結婚を去ることは貧困を意味しない。もし親密さがそれらの下流にあったなら、デンマークは親密さを解決していたはずだ。
そのすべてののちにデンマークに残っているのは、もともと構造的ではなかった部分である。すなわち、二人が互いに、自分が実際に望むことを言えるかどうか。そしてそのどちらかが、言うことを練習したことがあるかどうか。若いデンマーク人は、国が直せるほとんどすべてを直した国で孤独である。それはデンマークの体制の失敗としてではなく、残りの仕事がどこに住んでいるかについての情報として読まれるべきだ。
それは部屋のなかに、二人のあいだに、実時間のなかに住んでいる。それは徳ではなく技能であり、つまり習得できる。そしてどの技能とも同じく、それが高い代価のかかる場で必要になる前に、代価の低い場で習得される。ムーンライトの一夜とはそれである。望むことを言うことが危険ではなく活動である、急がない時間。境界が会話の一部であり、あなたの沈黙から何も推定されない時間。デンマークはあなたに保育園を建ててくれる。この部分を代わりにやってはくれない。そして日本もやってはくれない。