Books · Moonlight Library
『マザーフッド』と、手続きのない決定
二〇一八年の一冊は、子どもを持つかどうかを決められないまま三百頁を費やし、その問いを三枚の硬貨に投げる。この仕掛けは、思いつきとも、責任からの逃避とも読まれた。どちらでもない。証拠が決着させず、答える資格をもつ専門家がおらず、もう一方の人生を試すことができず、そして期限が選ばれたものではなく身体の側にある問い。その問いの正確な絵である。本の読解と、問いのまわりの装置についての文章。
大きな決定のほとんどには手続きがついている。そしてその手続きはあまりに見慣れているので、手続きとして意識されることが少ない。情報を集める。詳しい人を見つけて尋ねる。選択肢を並べて、大事な点で見比べる。できるなら小さく試してみて、様子を見る。大人が下す重い選択のほとんど、どこで働くか、どこに住むか、その手術を受けるか、国を移るかは、この四つのどれかの組み合わせに、少なくとも部分的には応じてくれる。
そのどれにも応じない、きわめて大きな決定が一つある。そしてそれに初めて向き合う人は、しばしば、応じないのは自分の側の落ち度だと考える。読む。読んでも収束しない。人に尋ねる。返ってくるのはその人自身の話である。二つの人生を思い描こうとして、そのどちらも少しも正確には描けないことに気づく。そしてその背後には、自分が設定したのでも、交渉できるのでもない時計がある。だから彼女は、自分は優柔不断なのだ、臆病なのだ、自分の望みに十分に触れていないのだと結論する。
二〇一八年、一人のカナダの書き手が、その位置の内側に最後まで留まり、そこから登り出さない本を出した。シーラ・ヘティの『マザーフッド』である。語り手は三十代後半の女性で、子どもを持つかどうかを決めようとしている。そしてこの本は、どこか別の場所で到達された決定についての報告ではない。決めることそのものが本である。あらかじめ片がついていて、あとから物語の形で届けられる、というものではない。
この本の形式上の仕掛けのうち、最も多く論じられてきたのは、語り手が問いを偶然に投げることである。三枚の硬貨を投げ、それを「はい」か「いいえ」として読む。易経から取られた方法で、その結果が本文の長い区間を、語り手と、語り手ではない何かとの対話として組み立てる。評者はこれを見事だと呼び、そして仕掛け芸だとも呼んだ。この文章は、それが思いつきでもなく、虚無でもなく、現実の構造上の問題に対する誠実な応答であると論じる。そしてその問題は、この本を面白く読めるかどうかとはまったく別に、それ自体として名を与えるに値する。
記録を正確に置く
シーラ・ヘティは一九七六年にトロントに生まれたカナダの書き手である。『マザーフッド』は二〇一八年に刊行された。五月一日にカナダのクノップ・カナダから、同じ日にアメリカのヘンリー・ホルトから、そして五月二十四日にイギリスのハーヴィル・セッカーから。三百頁ほどの本で、出版社はこれを小説として示している。
ヘティは形式について公に語っている。二〇一八年五月、ロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックスのケイト・ウルフとの対話で、彼女はこの企画を最初はノンフィクションとして構想し、そこから離れたと述べている。理由は、彼女にとってノンフィクションは議論のように感じられるのに対し、小説は問いの連なりだから、というものだった。同じ対話で彼女は、語り手の両価性を説明を要する症状として扱うことを断り、その板挟みをむしろ正常なものと呼び、問いそのものを根本的に不条理なものだと述べている。硬貨についても、投げられたのが作り事だと読者が思うならこの本は成り立たない、と語っており、本の冒頭には、この本のなかで硬貨を投げた結果はすべて実際に硬貨を投げた結果である、という趣旨の断り書きが置かれている。
仕掛けの仕組みは単純で、広く報じられている。三枚の硬貨を投げ、表が二枚または三枚なら「はい」、裏が二枚または三枚なら「いいえ」と読む。易経の立て方を簡略に借りたものである。
この本は二〇一八年のスコシアバンク・ギラー賞の最終候補に残った。その年に受賞したのはエシ・エデュジアンの『ワシントン・ブラック』である。いくつかの媒体の年間の一冊にも選ばれている。
批評の受け取り方は実際に割れており、存在しなかった合意へ均してしまわず、書き手の名とともに両側を挙げておく値がある。ニューヨーク・タイムズのドワイト・ガーナーとガーディアンのララ・ファイゲルは最も強い支持者に属し、ファイゲルはこの本がこの主題についての決定的な文学作品になるだろうと述べた。ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに書いたサリー・ルーニーは、子どものいない人生を欠落としてではなく満ちた状態として真剣に扱う哲学的な探究として読んだ。これに対して、ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビューのイレーン・ブレアは、語り手の熟慮を風の通らない、自分に閉じたものと評した。ハーパーズのクリスティン・スモールウッドは、独我論的な実存主義と呼んだものと、形の定まらなさに異を唱えた。ニューヨーカーのアレクサンドラ・シュワルツは、照らすところと苛立たせるところが交互に来ると読んだ。カーカスの短評は率直な退けであった。これらは訂正されるべき誤読ではない。記録のもう半分である。
入手についての事実が一つ、ここの読者には関わるので、前提にせず明示しておく。この文章を書いている時点で、『マザーフッド』の日本語版は国立国会図書館の目録に見当たらず、著者自身のサイトが挙げる翻訳言語のなかにも日本語はない。日本でこの本を読みたい読者は、英語か、ほかの言語の翻訳で読むことになる。これは変わりうるし、変わったとしてもここで告知されることはない。
手続きのない決定
この文章が立っている構造上の主張を、受け入れるのではなく反論できるように、四つに分けて置く。
第一に、証拠が決着させない。子どもを持った人と持たなかった人を、満足度で、収入で、健康で、五十代以降の過ごし方で比べた研究の蓄積はある。それが報告するのは集団の平均であり、平均はここではまったく合わない器具である。平均は分布について語る。ある一人の女性の人生に何が含まれるかを告げることはできない。そうした知見の誠実な使い方は、その散らばりがほとんどどんな個別の帰結も含みうるほど広い、と受け取ることである。自分の代わりに決めてくれる数値を探している人は、それを見つけられない。存在しないからである。
第二に、管轄をもつ専門家がいない。ここは人を驚かせる部分である。大人の生活は、どんな難しい事柄にも専門職がいると信じるように私たちを訓練するからだ。身体とそのおおよその働きを説明できる医師はいる。家計を説明できる会計の専門家はいる。だが、ある人の人生が何から成るべきかについて、訓練によって権限を得ている者は一人もいない。心理の専門家は、その人が自分の声を聞き取るのを助けられる。答えを供給することはできないし、供給する専門家は自分の役割を越えている。この問いは専門知の供給が不足しているのではない。その射程の外にある。
第三に、もう一方を試すことができない。重い決定のほとんどは何らかの試行を許す。移る前の下見、正規の職の前の契約、離婚の前の別居。この決定はその種のものを何も許さない。暫定の一年だけ母であってみて、結果を返品することはできない。比較のために、もう一方の人生をこの人生と並べて生きることもできない。どちらを選んでも、選ばなかったほうは永久に検分できなくなる。つまり、正しく選んだかどうかという問いは、事後にすら答えられない。この図書室は後悔についての文章で、後悔は借り物の知識の上で動いていると論じた。実際の人生を、一度も監査されていない想像上の人生と比べているのだ、と。その指摘はここで、ふだん以上の強さで当てはまる。この場合、想像上の人生は監査されていないのではない。監査しえないのである。
第四に、期限が選ばれたものではない。大人の生活のほかのほとんどの未決の問いは、未決のまま置いておける。これは自分で閉じてしまう。臨床の指針は、妊孕性が集団の水準で年齢とともに低下すると記述している。アメリカ産科婦人科学会とアメリカ生殖医学会が共同で二〇一四年に公にした委員会意見は、受胎能がおおむね三十代前半からゆるやかに、三十代後半以降はより速く低下すると述べている。それは臨床家に向けて書かれた集団水準の記述である。いかなる個人についての予測でもなく、個人差はきわめて大きく、このページのどの読者についても何も述べておらず、そしてこの文章のいかなる部分も、誰かの身体や時期についての助言ではない。ここで引くのは一つの狭い目的のためである。窓が閉じることが社会の取り決めではなく生物学の事実であること、したがって期限の圧力は理屈で消し去れる種類のものではないこと。それを確かめるためだけである。
四つを合わせると、形は珍しいものになる。証拠が決着させず、いかなる権威も裁定できず、もう一方を試せず、それでいて本人が選んだのではない期日までに答えねばならない問い。そのような決定は多くない。名を与えるに値する。この文章はそれを、手続きのない決定と呼ぶ。
なぜ硬貨は思いつきではないのか
ここまで来ると、あの仕掛けは別の意味をもちはじめる。
安易な退け方は二つある。硬貨は仕掛け芸であり、日記を形式らしく見せるための道具にすぎない、というもの。そしてそれは責任の放棄であり、書き手が引き受けたくない責任を偶然に担わせているふりだ、というもの。どちらも活字になった。どちらも、その仕掛けが紙の上で実際に行っていることに触れると残らない。それは何も決めていないからである。
偶然が供給するのは対話の相手である。ヘティはこの作業を、一人でいながら対話のなかにあり続けるための方法だと述べており、それを取材と区別している。取材には、取材される人に関心をもつ聞き手が要る。こちらでは、向こう側に、自分より面白い何かがあったわけではない、と。控えめな言い方に聞こえるが、正確である。硬貨は源泉ではない。それは中身をもたない第二の当事者であり、その働きのすべては、独白を交換に変えることにある。
なぜそんなものが要るのか。手続きのない問いには特徴的な壊れ方があるからだ。それは、いつまでも問いにならない、という壊れ方である。それは気分のまま留まる。それを何年も抱えている人は、それを問うて答えるのではない。そのまわりを回り、我慢し、結婚式や病院で思い出し、また下に置く。硬貨を投げるには、硬貨が応じられる何かを組み立てなければならない。この仕掛けは、形をもたない懸念に対して、「はい」か「いいえ」を受け取れる形で名乗りを上げるよう強いる。それを何百回も、しかも本人が自力では決して切り分けなかったであろう側面について繰り返させる。
評者たちはまさにここで割れた。そしてその不一致は、どちらか一方の立場よりも有用である。ニューヨーカーに書いたアレクサンドラ・シュワルツは、硬貨は語り手の相手がこの問いに向き合うことを避けたところから生じたのだと示唆した。これは仕掛けを、二人のあいだで起こるべきだった会話の代用として読む読み方である。バッフラーに書いたローレン・オイラーはその読みを退け、硬貨を意図して選ばれた組み立ての原理として扱った。子どもを持つこともまた人生の組み立ての原理であり、その形式上の対応こそが眼目だというのである。この図書室は二人のあいだを裁定しないし、その必要もない。この論争が露わにするのは、その下にある本当の問いである。形式上の制約は思考の本当の方法でありうるのか。それとも、どのみち起こったはずの思考の上に置かれた装飾にすぎないのか。
その問いを一方へ傾ける細部が一つある。そしてそれが、本の冒頭の断り書きが効いてくる理由である。投擲は実際に行われた。つまり書き手は、自分の制御しない結果に自分を縛り、望まなかったほうの結果も書き抜かねばならなかった。覆せる仕掛けは装飾である。あらかじめ従うと決めた仕掛けは制約であり、そして制約は芸術における最も古い実働の方法の一つである。ほかでもなく、好みが濾し取っていたはずの素材を生み出すからである。
硬貨に問えること、問えないこと
この種の仕掛けに何ができるのかは正確に述べておく値がある。誇張した版は作りやすく、そして誤りだからである。
硬貨は情報をもたない。問う人についても、その境遇についても、相手についても、身体についても何も知らず、どれだけ投げ続けても事実は一つも出てこない。硬貨が自分の人生について何かを教えてくれると信じる人は誤っており、この文章は占いの擁護をしていない。
その操作にできることは、もっと狭く、そしてこの本より古い。硬貨を投げるときに有用なのは結果ではなく結果への反応である、という観察は、この小説よりずっと前から、これとは何の関係もない文脈で繰り返し述べられてきた。落胆している自分に、あるいは安堵している自分に気づく半秒。内省では届かなかったことがそこで分かる。硬貨は刺激を生む。情報はまるごと本人から出てくる。
それは本物の操作であり、同時に限られた操作である。小さく単一の問いには効く。何十年も保たねばならない決定には届かない。そして半秒の反応は気分についての証拠であって、命令ではない。この文章のいかなる部分も、読者が何かを偶然によって決めることを勧めていない。ここからそれを受け取った読者は、書かれていることの逆を受け取っている。
本そのものも、公にされているかぎりの自己説明において、その方法を提案してはいない。硬貨は文章を組み立てる。文章を結論させはしない。そして、紙の上で働く仕掛けと、人生のための方法とのあいだには差がある。紙の上では、書き手は記録を保ち、失敗を公にし、その難しさに対して報酬を受け取れる。人生ではそのどの条件も成り立たない。二つを混ぜる文章は、読者に対して不誠実である。
問いのまわりの装置
この本が最も鋭いのは決定そのものではなく、そのまわりのすべてについてであり、支持した評者の何人かは価値をそこに見ていた。ニュー・リパブリックのマギー・ドハティは、母であることを人生の決定的な出来事として扱うことを拒む女性についての稀な記述だと述べ、サリー・ルーニーは、子どものいない人生を不在としてではなく一つの人生として真剣に扱っていると読んだ。それがこの本の第二の運動であり、その観察が最も持ち運びやすい場所である。
まず、その問いがどう問われるかから。それは社交の場で、答えを受け取る資格をもたない人から、答えが当然払われるべきものであるかのような言い方で、何度も何度も届く。結婚式で、職場で、親族から、ほとんど見知らぬ人から。そして世間話として問われる。そこが害をなす部分である。ある人が子を産む意志があるかどうかという問いが、休暇の予定を尋ねるのと同じ会話上の重さで扱われている。問う側はたいてい敵意をもっていない。まさにそれゆえに断りにくい。指し示せる無礼がなく、答えないこと自体が一つの答えとして読まれてしまう。
次に、返せる二つの答えのあいだの費用の差に気づいてほしい。「まだ」は安い。それは問う側の人生観をそのまま保ち、事柄を漠然とした将来へ繰り延べ、誰も何も考えないまま会話を閉じる。「いいえ」は高い。それは聞き手に見取り図の書き換えを要求し、書き換えは議論を招く。理由を求められ、理由を査定され、そのうち気が変わると請け合われ、世間話であったはずの会話が弁明になる。だから「まだ」は、そう思っていない多くの人によって口にされる。そして公には未決のままでいることの戦略的な価値は、この種の決定の実際の分布が見えない理由の一つである。
そして、子どものいない女性がどう読まれるかに気づいてほしい。彼女の人生は、その事実から逆向きに解釈される。そこにあるすべてが、ある答えの帰結であるかのように。達成は埋め合わせになる。楽しみは気をまぎらすことになる。自由は、いずれ後悔するものになる。知りようのない人々によって、自信をもってそう言われる。同じ解釈の動きは、子どものいる女性には適用されない。彼女のほかの活動が、欠けた何かの代用として日常的に読まれることはない。
そしてそのすべての下に、この文章が名を与えたい構造の奇妙さがある。誰の関わることでもない決定が、それでも公共の関心事として扱われている。誰も、それを自分が下す権利を主張しない。誰もが、それについて意見をもち、尋ね、聞かされ、そして軽く落胆する権利を主張する。その二つは整合しない。そしてその不整合は偶然ではない。
ここから見ると、どう見えるか
これが読まれる地面について、一言だけ慎重に述べる。通例の枠組みは、この図書室が断るものだからである。
この刊行物は、国の出生率を得点板として扱わない。子どものいない女性を、不足として、症状として、政策上の問題として、あるいは貢献しそこねた人として見なすことはない。その種の数値はこの文章のどこにも現れず、その不在は見落としではなく意図である。読者はここで、自分の人生が集計値に変換されるのを目にすることはない。
ただし、地面について頁に置く値のある検証可能な事実が一つある。それは統計ではなく法律である。少子化社会対策基本法、平成十五年法律第百三十三号、同年七月三十日公布。その前文は、およそ次のように始まる。もとより、結婚や出産は個人の決定に基づくものではあるが、と。そして「が」で続き、少子化の進展に歯止めをかけることが、今、我らに、強く求められている、と述べる。第二条は施策の基本理念を定め、その第四項は、社会、経済、教育、文化その他あらゆる分野における施策は、少子化の状況に配慮して講ぜられなければならない、と定めている。
その文の構造をもう一度読んでほしい。構造こそが見出しだからである。決定の私的な性格は従属節で認められ、そして主節によって脇へ置かれる。誰も強制されてはいない。この法律のどこにも、どの女性に何をせよと述べた箇所はなく、そう示唆することは重大な誤読になる。この法律がしているのは、私的な答えの集計を、配慮すべき事柄として扱えと一つの装置の全体に指示することである。つまり、家族の食卓でその問いが出されるときの空気は、中立の空気ではない。その背後には公式の立場があり、その立場は、社会が実際に考えていることを書き留める唯一の場所において述べられている。
だからといって、ここが他所より決めにくい場所だということにはならないし、その比較を差し出してもいない。ヘティの本はカナダのものであり、同じ圧力を別の訛りで描いている。誰が子どもを産み、誰が産まないかについての、その社会なりの落ち着かない論評とともに。場所によって違うのは圧力の有無ではなく、それを記述するために手に入る語彙である。そして語彙を供給する本は、自前の語彙が育っていない言語においてこそ有用である。日本語版が存在しないことを、肩をすくめて済ませずに書き留めておく理由の一つはそこにある。
この図書室がすでに論じたこと、そしてこの文章が始まる場所
この一室はこの領域に四度入っている。そしてこの一篇は、その四つが止まった場所から始まるのでなければ、公にする値がない。
八木詠美『空芯手帳』についての私たちの読解は、五時に退社することを許されるために妊娠を発明する女性を追い、この本は痛快な話ではないと論じた。母であることは、女性の時間に対する要求のうち、文化が認めることを義務づけられている唯一のものであり、それに手を伸ばすのは、棚に何もないことへの告発であって勝利ではない、と。あの文章は、その要求の使われ方についてのものである。この文章は、その要求が指している決定そのものについてのものであり、まったく別の対象である。
ケイト・ショパン『目覚め』についての私たちの文章は、あの小説の醜聞は一度も不倫ではなく、自分の人生を望みながらそれが何のためのものかを言えない女性が引き起こす落ち着かなさであったと論じ、感じる能力が、それを使うための条件より先に到来することは、麻痺よりも悪い位置だと述べた。あれは、名をもたない何かを望むことについての文章である。ヘティの語り手の問題は逆である。彼女の問いは完全に名づけられており、それでも答えられない。
ひとり親であることと恋愛のある人生についての私たちの一篇は、ひとり親の母の親密な生活を縛っているのは烙印ではなく算術である、時間、保育、破れない帰宅時刻である、と論じた。それをこの文章の隣に置くと、ここでの制約が別の種類のものであることに気づく。ヘティの語り手は時間にも金にも立場にも困っていない。算術の文章が縛りとして特定したものはすべて取り払われており、それでも問いは少しも易しくならない。難しさはもともと資源の不足ではなかったからである。
そしてこの図書室は最近、マギー・ジレンホール『ロスト・ドーター』について、母の両価性と、子を愛していながら自分の人生を取り戻したかったと言うための、社会的に用意された一文の不在について公にした。あの文章とこの文章は隣り合っており、混ぜてはならない。だから境界は推測に委ねず、ここに述べておく。あれは「あと」についての文章である。これは「まえ」についての文章である。決めようとしている女性は、決めた女性の位置にはいない。そしてどちらの文章も、その線を越えて持ち運べない。ここにあるものは、どちらの答えが向こう側でどう感じられるかを予測しない。あちらにあるものは、答えにどう辿り着くかについて何も述べていない。二つの文章は主題を共有しており、状況は共有していない。「あと」からの報告を「まえ」のための指針として扱うことは、この話がこじれる最もありふれた道の一つである。
この本への、そしてこの文章への、最も強い反論
四つの反論を最大の強さで受け取る値がある。そして最後の一つは、この文章が答えられないものである。
第一は語り手についてのものである。相当数の読者にとって、その息の詰まるような自己注視こそが眼目である。描かれている圧力は執拗で内側にあり、それを心地よい距離から描いた本があるとすれば、それは別のものを描いている。ローレン・オイラーはその擁護の一つの版を示し、その狭さは自己愛ではなく代表性だと論じた。同じく相当数の読者にとって、イレーン・ブレアやクリスティン・スモールウッドを含めて、その同じ性質こそが欠陥であり、この本は風が通らず、繰り返しが多く、一つの意識の外側にあるものへの関心が足りない。この文章は裁定しない。そして否定的な読みが理解の失敗であると見なされるべきではない。内面についての本でありながら読んで退屈であることはありうるし、退屈さは散文の実在の性質であり、三百頁の旋回に耐えられない読者は何も誤解していない。
第二は仕掛けについてのものであり、ここでの反論は仕掛け芸という非難より鋭い。硬貨は、方法の装いをまとった責任からの逃避である、というものだ。この読みに従えば、決定を決して産まないまま、真剣な取り組みの外観を産み続ける手順は、選びたくない人にとって理想の道具である。文章が生まれ、働いている感覚が生まれ、そして何も結論されず、誰も結論の責任を負わないことが保証される。そしてこの反論は、この文章自体にそのまま及ぶ。ここが居心地の悪いところである。硬貨が本物の決定不能性を上演していると論じることは、洗練された回避の擁護がまさにそう見えるであろうものであり、外側から二つを区別する検査は存在しない。この文章が言える最大のことは、ここで引いた区別、すなわち難しい問いと、手続きのない問いとの区別を、読者が自分の場合に当ててみて、退けられるということだけである。
第三は特権についてのものであり、留保なく認める。長く熟慮することは、多くの女性がもたないものを要する。費やせる年月、金、健康、確実な避妊と中絶への到達、法的な位置、待ってくれる相手あるいは相手なしで進める自由、そして不確かさに耐えてくれる仕事。オイラーはこれを、本への非難としてではなく擁護のなかで述べ、未決のままでいられる贅沢それ自体が政治的だと記した。二つは同時に真である。境遇によって、相手によって、雇い主によって、法によって、金によって、あるいは応じてくれなかった身体によって決定が下されてしまった女性は、この本が描く位置にいない。そして三百頁の開かれた熟慮を、自分には差し出されなかった余裕の記述として受け取るのは、まったく筋の通ったことである。この文章のいかなる部分も彼女の状況には当てはまらない。そして熟慮がこの経験の正常な形であるとも、上等な形であるとも、ここからは読み取られるべきではない。それは一つの形であり、一部の人に手が届く形であり、この本はその形の記録であって一般の場合の記録ではない。
第四は、答えのないものである。決定不能性を称える文章は、実際に選ばなければならない女性に、しかもおそらく名指せる期日までに選ばなければならない女性に、何も与えない。彼女は、この問いに手続きがないと教えられる必要がない。それを発見したのが彼女である。自分の難しさが個人のものではなく構造のものだと知らされても、期限は延びず、相手は現れず、二つの想像上の人生が見やすくなるわけでもない。その反論は正しく、この文章はそれを全面的に認める。残るのは慰めより小さく、そしてこれが差し出せる唯一の誠実なものである。この議論は、誤った説明を一つ取り除く。決定を易しくはしない。ただ、問いを解けないことが自分の欠陥の証拠だという結論、すなわち胆力の、自己認識の、成熟の失敗だという結論に至るのを、止められるかもしれない。それは欠陥ではない。決定不能な問いを内側から見ると、そう感じられるというだけのことであり、有能で決断力のある多くの人がまったく同じ位置にいて、まったく同じ誤った結論を自分について下している。
ここでの一晩が差し出せるもの、差し出せないもの
申告を一つ。議論の下に押し込むのではなく、議論と突き合わせられる場所で述べる。
この家は私的な同伴を売っており、読者がどちらの答えに辿り着くかについて利害をもたない。それは率直に述べておく値があるほど珍しい。女性にこの問いを投げる人のほとんどは、二つの答えのどちらかを望んでいる。どちらにも無関心な商売は稀な位置にいる。ここから、圧力を離れた一晩は物事を明晰に考える助けになる、と書くのは容易である。その一文は書かれていない。支えられる主張ではないからである。
一晩がなりえないのは、決める場所である。ここの誰も、この問いについての資格をもたない。どこの誰ももたないのと同じ理由による。そして見解を差し出す同伴者は、買われたものの外側にあることをしている。この家は助言せず、指導せず、誰かが子どもを持つべきかどうかについて、いかなる立場も取らない。
一晩がなりうるのは、その問いが出されない数時間である。それは小さく具体的なことであり、実際の大きさのまま述べる。治療ではなく、明晰さでもなく、視野でもなく、何かが前に進んだということでもない。
そして自分たちに不利な反論を、脚注ではなくここに置く。問われずにいる時間を売る商売は、問いが続くことに利害をもつ。圧力からの解放が商品でありうるのは、圧力が存在するあいだだけである。それは本物の利益相反であり、申告したところで消えない。それについてできる最大のことは、商品を大きくするであろう効果の主張を断ること。そしてこの文章がしてきたように、差し出されているものは区切られ、支払われるものであり、このページに書かれた何ものの解決でもないと述べることである。
この文章が主張していないこと
この文章は、どの読者にも、その人自身の決定についての助言をしない。誰も診断せず、いかなる女性の選択についても、どちらの方向にも判定を下さず、どちらの答えがより良い、より勇敢である、より責任がある、より自由であるとも述べない。子どもを望む読者も、望まない読者も、分からない読者も、ここでは等しく記述の対象であり、誰も評価されていない。
この文章は、この本についての新たな批評的読解を主張しない。『マザーフッド』の形式、硬貨の仕掛け、冒頭の断り書きについてのあらゆる言明は、出版社に、インタビューにおけるシーラ・ヘティの公の発言に、あるいは公にされた批評に帰属されており、どれがどれかは証拠の台帳に記録されている。この本のいかなる一節も、長さをもって引用していない。
批評の受け取り方は、実際に割れていたので割れたものとして報告している。支持した者も退けた者も媒体とともに名を挙げ、否定的な読みは誤りとしてではなく真剣な立場として示し、いかなる評者にも、その評者が公にした以上のことを帰していない。
臨床の材料は狭く、限られている。アメリカ産科婦人科学会とアメリカ生殖医学会の共同の委員会意見は、臨床の読者に向けて集団水準での妊孕性の低下を記述している。それはいかなる個人についての予測でもなく、個人差は大きく、この種の指針は時とともに改訂され、団体によっても異なる。そしてここにあるいかなるものも、どの読者の身体、時期、選択肢についての指針でもない。自分の状況について問いのある人は臨床家に持ち込むのがよい。これは権限がどこにあるかについての言明であって、何をすべきかの勧めではない。
法律は、その条文が述べていることのために引いており、それ以外のためには引いていない。出生率も、合計特殊出生率も、人口推計も、この文章のどこにも現れない。ここにあるいかなるものも、出生率の低下を読者が関与している問題として扱っていない。そして子どものいない人生を、不足としても、症状としても、別の人生の不完全な版としても扱っていない。
刊行の詳細、版の年月、賞の記録は、実物の検分ではなく出版社と賞の記録から取っている。日本語版が存在しないことは、執筆時点で行った目録検索を反映しており、その後に変わっている可能性がある。
シーラ・ヘティも、その出版社も、ここに名を挙げたいかなる評者、研究者、専門団体、公の機関も、この家と関わりをもたず、この家を知らず、この家を是認していない。それらの仕事は、公にされた仕事として記述されているにすぎない。