Books · Moonlight Library
『密やかな結晶』と、気づく者の残らない喪失
一九九四年の一冊。ある島で、ものが消えていく。人はその物だけでなく、それがあったと思い出す能力までも失う。この小説はふつう監視についての本として読まれる。その読みは狭すぎる。この本がほんとうに提出しているのはもっと厄介な命題である。名指せない喪失は、苦情も、政治も、抵抗も生まない。そして題にある警察には、ほとんど仕事が残っていない。
島にひとつの朝が来て、人々は何かが消えたと知った状態で目を覚ます。何が消えたのかは、正確にはわからない。わかっていられる時間も短い。人々は、その消えたものの手持ちを探し出す。帽子であり、リボンであり、香水であり、薔薇である。そしてそれを外へ運び出し、焼くか、川に流す。夕方までには、物は消え、その名も消え、そしてその名がかつて開いていた何かも消えている。誰も抗議しない。誰も戸口から引きずり出されはしない。作業は普通の手で行われる。悲しげに、そして手際よく。家族が死んだ者の家を片づけるときのような手つきで。
本は『密やかな結晶』。一九九四年に日本で刊行され、二〇一九年から英語圏では The Memory Police の題で知られている。英語の読者のもとに届いたとき、この本はほとんど即座に、国家による監視を描いた小説として読まれた。その読みは無から生じたものではない。作中には秘密警察がいる。家宅捜索をする。連れていかれた者は帰ってこない。
しかしその読みは狭すぎる。そして狭いことの代償を払わされているのは、この本の本当の主題のほうである。ここで提出されているより厄介な命題は、見られることについてのものではない。喪失への同意についてのものである。島の人々が消滅に抵抗しないのは、抵抗できないからだ。恐怖ゆえではない。すでに折られているからでもない。掴んでおくための何かが、文字どおり内側に残っていないからである。名指せない喪失は、政治をもたない。苦情を述べる文が組み立てられない。対象とともに名詞が消えているからだ。
その結果、記憶狩りをする警察はほとんど余剰になる。彼らは物語の動力ではない。後始末である。そして、島についての寓話にこの家が用があるのは、この寓話が、どんな議論よりも明快に、この出版物が何年も回りつづけている一点を述べてしまっているからだ。すなわち、もはやそれを指す言葉をもたない能力は、喪失として経験されない。それは正常として経験される。
この本が何であり、どのように英語に渡ったか
小川洋子は一九六二年に岡山に生まれ、早稲田大学第一文学部を出ている。一九八八年に「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞。一九九一年一月に発表された芥川賞を「妊娠カレンダー」で受けた。二〇〇四年、『博士の愛した数式』が読売文学賞と第一回の本屋大賞をともに獲り、同じ年に『ブラフマンの埋葬』が泉鏡花文学賞を受けている。二〇〇六年には『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、二〇二〇年には『小箱』で野間文芸賞。
『密やかな結晶』は一九九四年一月、講談社から刊行された。一九九九年八月に講談社文庫に入り、英訳が国際的な注目を集めたのちの二〇二〇年十二月に、同じ文庫で新装版が出ている。表題は、静かな、あるいは密やかな結晶化、という意味をもつ。
英訳はスティーヴン・スナイダーによる。ミドルベリー大学で日本研究を教える研究者であり、英語で読める小川作品の大半を訳してきた訳者である。二〇一九年八月十三日に、米国のパンテオンと英国のハーヴィル・セッカーから The Memory Police の題で刊行された。
そののち二つの評価が続いたが、どちらも正確に述べておく必要がある。どちらも、実際とは違うかたちで報じられることがきわめて多いからだ。この本は二〇一九年の全米図書賞翻訳文学部門の最終候補になった。受賞はしていない。その年の受賞はラースロー・クラスナホルカイ『バロン・ヴェンクハイム帰郷』、オッティリー・ムルツェット訳である。次いでこの本は二〇二〇年の国際ブッカー賞の最終候補に残った。こちらも受賞していない。感染症の流行で延期され八月に発表されたその賞は、マリーケ・ルカス・ライネフェルト『居心地の悪い夕べ』、ミシェル・ハッチソン訳に与えられた。最終候補は受賞ではない。その区別を保てない出版物には、それ以外の何かについて厳密であると称する資格がない。
題が変わり、それとともに主題が変わった
日本語の題に警察は出てこない。そこで名指されているのは過程である。沈着し、形をとって固まっていく過程。しかも結晶という語は、消去とは正反対のことを指している。何かが定まりつつある、という語なのだ。フランス語版はこの含みを保った。英語の題は、過程のかわりに機関を名指した。
これは不注意ではないし、誤訳でもない。ブッカー賞財団自身がこの本のために作った読書ガイドには、原文が秘密警察という語を繰り返し用い、それとは別に、その者たちの行う活動として記憶狩りという語を用いていること、そして訳者が速さと便宜のためにその二つを一つの造語へと畳み込んだことが記されている。著者も相談を受け、これを了承している。現実の本のなかの現実の問題への解として、この判断は擁護できる。
とはいえ題は読解の指示書である。そしてこの題は指示を出している。機関は政治をもつ。職員があり、序列があり、予算があり、思想があり、敵対者がある。過程は物理をもつ。速度と向きがあり、意見はない。題に機関を置けば、読者は職員を探しにやってくる。
当時の批評もこれに気づいていた。英国のジャパン・ソサエティに寄せた書評で、ジル・ドブソンは、オーウェル風の英題がこれを政治小説だと期待させるが、実際にはもっと捉えがたく繊細な何かであると述べ、国家の抑圧の研究としてではなく記憶についての寓話として読むほうがよいと示唆している。二〇一九年十月、ロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックスに寄せたディラン・ブラウンは同じ不満をより鋭い形にし、出版社が与えたオーウェル的な枠組みは、この本が実際にやっていることを覆い隠しかねないと論じた。
したがってここでの立場は狭く、具体的である。英語の題は良い解決であり、そして代償があった。代償を払ったのは本のほうである。以下は、機関ではなく過程を読もうとする試みである。
消滅は、実際にはどこで起きているのか
消滅の朝に起きることの順序を、細かく見ておきたい。この手順の順序が、議論のすべてだからである。
第一に、島の人々はすでに知っている状態で目覚める。その知は、天候のように、説明もなく朝とともに来る。第二に、人々は消えたものの手持ちを探し出す。第三に、彼らが自分でそれを壊すか、放つ。帽子は焼かれる。鳥は放たれる。薔薇は川を下る。この作業を行うのは人間の手である。批評家デイヴィッド・ヘブルスウェイトはストレンジ・ホライズンズ誌の書評で、この点をこの小説のもっとも印象的な特徴のひとつとして指摘している。物体が島を去るためには、誰かがそれを運び出さなければならないのだ。そして第四、最後に、あとに残るのは対象の不在だけではない。意味も消える。消滅を経たあとでは、その物を手に持っても、何にも届かない。
記憶狩りの警察が登場するのは、そのあとである。そして彼らが相手にするのは残余である。彼らの対象は住民ではない。第四段階が失敗したごく少数の人々、消滅の朝に、他の全員が手放したものへまだ手が届いてしまう人々である。警察はそうした人と、その人が隠した物とを求めて家を捜索し、連行する。彼らの機能はそれで全部である。
ブラウンは彼らを、通常の敵役ではなく周囲に漂う存在として正確に描いている。予告なく現れ、動機は説明されず、その間ずっと礼儀正しい。この礼儀正しさは装飾ではない。住民を折らねばならない組織であれば、大声を出す必要がある。この組織にはその必要がない。何も折っていないからだ。片づけているだけである。
つまり因果の順序は、英題が示唆するものの逆である。忘却が強制のあとに来るのではない。強制が忘却のあとに来る。しかも、忘却が完全ではないという理由だけで存在している。
名指せない喪失は、政治をもたない
この順序がなぜ重要なのか。それは、そもそも苦情というものが成立する条件についての論点である。
何かに抵抗するには、不服の申し立てが要る。申し立てには決まった形がある。これが奪われた、これは私のものだった、返してほしい、そして奪ったのはあなただ。この文のどの節も名詞を必要とする。名詞を外せば、文は組み立てられない。不完全にでも、部分的にでもなく、まったく組み立てられない。劣化した版の苦情さえ残らない。
島では、その日のうちに名詞が物とともに消える。つまり島の人々の従順は、実のところ従順ではない。従順とは、原理上は満たしそこねうる要求があってはじめて成り立つ語である。ここには要求がなく、したがって失敗もなく、勇敢であるべき対象もない。彼らは屈服しているのではない。屈服するための手がかりを持っていない。
だからこの本には、標準的なディストピアの語彙がまるで効かない。恐怖では説明できない。喪失の瞬間に彼らは怯えていないからだ。無関心でも説明できない。彼らは無頓着どころか、注意深く、丁寧で、処分をほとんど儀式のように行うからだ。教化でも説明できない。何も教えられていないからだ。この小説は、三つの説明がいずれも前提にしている一点を、静かに取り除いてしまっている。すなわち、対象をなお頭のなかに保持したうえで、行動するかしないかを決める人物である。
そしてこれが、警察がほとんど余剰になるという意味である。記憶された不服を大規模に抑え込まねばならない体制は、巨大で、費用がかさみ、目に見えて残酷でなければならず、しかもまさに自らが止めようとしている抵抗を生み出してしまう。物とともに名も奪える体制は、強制をほとんど必要としない。残余のための小さな部署があれば足りる。小川の島は監視の絵ではない。監視が何のためにあるのかを、ほとんど何も残っていない極限において示した絵である。
歯止めをひとつ、末尾ではなくここに置く。これは寓話であり、その機構は創作である。人間の記憶はこのようには働かないし、この文章のいかなる部分も認知についての主張ではない。ここでの議論は苦情の成立条件についてのものであって、脳についてのものではない。
床下の部屋
この小説の語り手は小説家である。担当編集者、Rとだけ呼ばれる人物が、忘却の効かない側の人間であることがわかる。語り手は、古い家族ぐるみの友人である元フェリー技師の老人の助けを借りて、自宅の床下の空間に隠れ部屋を作る。絨毯の下の跳ね上げ戸から入る部屋である。この筋書きを指して床下の作家という言い方がされることがあるが、最後の一頁まではそれは正確ではない。そしてこの不正確さは覚えておく価値がある。訂正そのものが要点だからである。
小川はこの部屋を、負債だと語っている。『アンネの日記』を読んだことで自分は作家になったのだと意識してきたと述べ、その物語を自分の内側で組み立て直したかったと語っている。さらに、ひとつの具体的な細部を移し替えたことも説明している。隠れ家への移動が雨の日に行われるのは、雨のなかでは誰もが頭を下げて足早に歩き、人目につかないからだ、と。部屋はその種のオマージュである。ホロコーストの表象ではないし、両者を等置するものとしてここを読むべきではない。
この筋書きが果たしている役割こそ、多くの読者がもっとも受け止めにくいと感じる部分である。そして受け止めにくいのは、何ひとつ救出されないからだ。
ここに仕掛けられている反転を見てほしい。Rには記憶があり、世界がない。床下を出られず、町を歩けず、知っていることの何ひとつ使えない。語り手には世界があり、記憶がない。Rは彼女の記憶を返そうとする。隠しておいた品物を取り出し、彼女の手のひらに載せ、それが何のためのもので、何をしたのかを語る。彼女はそれを持つ。何も来ない。この場面がこの小説の本当の議論であり、そしてそれは失敗の場面である。この本が差し出す証明は否定形であり、それを届けるのは、失われたものを記述できる唯一の人物であり、かつそれについて何もできない唯一の人物なのだ。
この部屋には、本が解決を拒む力関係もある。読者がここに居心地の悪さを覚えるのは当然である。彼女は彼を匿う。食べさせ、跳ね上げ戸をいつ開けるかを決め、彼の存在条件のすべてを握っている。彼は彼女に全面的に依存しており、同時に、家のなかで何かの意味を知っている唯一の人間でもある。彼女は彼に恋をする。彼には島のどこかに妻と生まれたばかりの子がいる。小説はそのいずれについても裁定を下さず、罰も与えず、逸脱として差し出しもしない。処分の場面と同じ温度で、それを報告する。
そして結末が来る。ここで筋書きは支払いを済ませ、床下の作家という言い方がようやく正確になる。消滅が物を取るのをやめ、身体を取りはじめると、あの隠し部屋に入ることになるのは語り手のほうなのだ。床下の、作家。記憶できる男を守るために作られた空間が、記憶できない女が最後に占める場所になる。そして彼女が最後にすることは、もう出てきていい、と彼に伝えることである。
読者はあの部屋に、抵抗の拠点を期待して到着する。そこにあるのは容器である。外へ運び出される伝言はない。生き延びる証言はない。後の世代のために埋められる文書もない。Rは記憶を無傷のまま床下から出てきて、その記憶が指し示す世界はもうどこにもない。保存された記憶が、それだけで何ほどの価値をもつのかについて、この本が述べるもっとも正確な言明がそこにある。
身体が最後に消える。そこで議論が肉体になる
終盤にさしかかると、消滅は物のことではなくなる。カレンダーが消え、島は終わらない冬に置き去りにされる。小説と本が消え、もう書くことのできない語り手はタイピストとして働く。それから喪失は身体に達する。左脚が消える。右腕が消える。声が消える。島の人々は身体をもたない声に還元され、やがて何もなくなる。
この箇所をほとんど耐えがたいものにしているのは、損壊ではない。静けさである。
その静けさの理由が、この文章の主張そのものを肉のかたちで述べている。概念が能力とともに去るため、脚を失った者は欠落を経験しない。覚えている歩き方に向かって引きずるということが起きない。幻肢は生じない。幻肢には基準が要り、その基準もまた持ち去られているからだ。不在は、通常の喪失では決して到達しない仕方で完全である。疼くために残っているものが、何もない。
この本における消滅とは、そういうものである。かつての形を保ったまま続いていく生活からの差し引きではない。形そのものの引き直しであり、その結果、突き出るものもなく、欠けるものもない。島の人々は自分の喪失を喪失として経験しない。彼らはそれを、いまの生活の形として経験する。
だからこそ、同意という語は、島で起きていることに対してまさに正しく、同時にわずかに間違っている。正しいのは、喪失の瞬間に強制がないからである。誰も何かを手放すよう強いられていないし、処分は観察可能なあらゆる意味で自発的である。間違っているのは、同意には、記述して拒むことのできる選択肢が要るからだ。そのような選択肢は存在しない。実際にそこにあるのは、考えうるかぎり平坦な種類の合意である。反対する材料を何ひとつ持たない人々の合意。この小説に戦慄があるとすれば、それが棲んでいるのはそこであって、幌をかけたトラックのほうではない。
この家がすでに述べたこと、そしてここが分かれる地点
この出版物は長いあいだ同じ鉱脈を掘ってきた。だから読者には、この文章がすでに述べられたことのどこに位置するのかを見る権利がある。
かつての一篇「その言葉は、別の誰かのために作られた。」は、自分が何を求めているかを完璧な精度で説明できる女性が、それでもその名詞だけは言えない、と論じた。手に入るどの語も別の客を中心に組み立てられているからであり、そうした場合の最初の障壁は道徳ではなく文法にある、と。二篇目、アニー・エルノー『シンプルな情熱』を読んだ一篇は、エルノーが達成したのは内容からではなく文体から恥を抜くことだったと論じた。何の態度もとらずに置かれた欲望、恥の置き場所が文法的に存在しない調子、そしてそれを行うための語調がこの土地では薄い、と。三篇目、受け取ることの語彙を扱った一篇は、うまく受け取ることは現実の技能でありながら、それに付く名誉ある名詞が存在しないため、実践はできても名乗ることも讃えられることもできない、と論じた。四篇目、関係が段取りに変わるとき最初に何が失われるかを扱った一篇は、最初の喪失が見えないのはそれが増加によって覆われているからだと論じた。家庭を回している二人は、かつてないほど多く話している。だから何も欠けているようには見えない。
ここからが違いである。そしてそれが、この本が、右のどれかに段落をひとつ足すのではなく、独立した一篇を要する理由である。
右の四つの議論では、いずれも当のものが生き残っている。欲望はそっくり無傷で、欠けているのはそれを述べる語調だけである。技能は毎日きちんと行使されており、欠けているのは称賛だけである。目的のない会話をする能力はそこに使われないまま置かれており、欠けているのは気づきだけである。どれも記述の問題であり、記述の問題には手立てがある。語調は作れる。名詞は鋳造できる。何が止まったかに気づくことは学べる。状況の内側には、語彙が届ききれていないその当のものを、なお手にしている人がいる。その人には、より良い語彙を渡すことができる。
小川が提出するのは、そのかわりに極限の場合である。手に入る語調のない欲望ではなく、対象そのものが消去された欲望。名指されないままの能力ではなく、名とともに去ってしまう能力。島には残余がない。うまく記述されないまま、より良い語を待って置かれているものが、何もない。より良い語を使うはずの当人が、そこにいないのである。
だから先の手立てはどれもここに届かない。持っていないものの名を、人に渡すことはできない。そしてこれはまた、四篇目の、最初に何が消えるかを論じた一篇が四つのうち最も近く、それでも同じではない理由でもある。増加が喪失を覆っているというのは注意の問題であり、注意は原理的には向け直せる。小川は対象とともに、注意のほうも取り去ってしまう。
一九九四年と、この本が読まれた時点
この小説は一九九四年一月に日本で刊行され、二十五年後に英語へ渡った。渡った先は米国と英国の特定の政治的な天候であり、その時期が果たした仕事の大半は、本そのものとは何の関係もない。
小川自身はこの点についてきわめて率直である。二〇二〇年三月に公開された日本語のインタビューで、彼女は、政治的な告発をしたいと思って悲観的な近未来を描いたつもりはないと述べ、むしろ自分が生まれる前の過去を描こうとしたのだと語っている。同じインタビューで彼女は、英訳が出たのちに米国の記者たちから、二十五年前には聞かれなかったような政治的視点の質問を受けた、とも述べている。
訳者の側からも、それに対応する説明が出ている。日本語版と英語版のあいだの時差は、出版の事情と自身の予定によるものであって本の内容とは関係がなかったが、結果としては幸運だった、というものである。新しい種類の現実を経験しつつある読者のただなかに、この本が落ちたからだ、と。
この家は、それらのすべてを、意味ではなく受容として扱う。ある本がある時点の別の国の読者にとって何を意味するようになるかは、現実の事実である。そしてそれは読者についての事実である。誰が読んでいたのか、何を恐れていたのか、宣伝がどの棚を選んだのか、についての資料である。頁の上に何があるかについての発見ではない。
同じ規律は、この文章自身にも適用しなければならない。だから反論の節に取り出させるのではなく、ここで適用しておく。この小説を語彙についての本として読むこともまた、ひとつの産物である。何年ものあいだ物につける言葉について論じてきた出版物の産物であり、したがってこの本が自分を裏づけていると見出す準備ができていた読み手の産物である。それによってこの読みが誤りになるわけではない。それはひとつの読みになる。特定の読み手が特定の時期に生産した読みであり、それが反論している監視の読みと同じだけの緩さで保持されるべきものである。
なお二〇二〇年には映画化が発表され、以後も企画として報じられている。脚本はチャーリー・カウフマン、監督はリード・モラーノとされる。この文章はその映画について何も主張しない。この家はそれを見ておらず、公開についても確認していない。
この本への、そしてこの文章への最強の反論
四つの反論を、それぞれ最も強い形で置く。最後のひとつには答えがない。
第一に、ディストピアを認識論として読むことは、目の前にある政治から逃げているのではないか、という反論。この小説には武装した国家機関がある。家を捜索する。語り手の母、記憶しつづけた彫刻家を連れていき、彼女は戻らない。面白いのは認識論のほうだと宣言することは、警察に消された一人の女の横を通り過ぎることである。しかもそれは、手入れについて考えるより言葉について考えるほうを好む読者にとって、たいそう居心地のよい身ぶりでもある。ここで出せる応答は狭く、反論を片づけはしない。この文章は警察が重要でないとは言っていない。下流にいると言っている。だが下流というのは、家から連れ出されつつある人が決して経験しない位置であり、体系の水準で真であることが、逮捕の水準では下劣でありうる。
第二に、受動性はこの本の主題であるだけでなく、現実の美的な欠陥ではないか、という反論。誰も抵抗しない小説とは、あまり何も起こらない小説でもある。退屈だと感じた読者が理解に失敗しているわけではない。平坦な本を、平坦さは主題だと宣言することで擁護することはいつでも可能であり、その擁護は、まさに読者が警戒すべき仕方で反証不能である。この文章には、意図して感情を抜いた小説と、あまり何も生み出していない小説とを、外側から区別する手立てがない。公開された受容には、同じ頁から出てきた両方の読みが並んでいる。ブラウンは、料理をし、犬を散歩させ、親切であり続けようとする努力にこそ本当の葛藤があると読み、ドブソンは、より字義通りに読む読者はこれを単に困惑させる陰鬱な本だと感じるかもしれないと警告する。どちらも誠実な反応であり、この家に裁定する資格はない。
第三に、西側の受容は一九九四年の日本の小説を歪めたのであり、この文章はその歪みの内側から書かれているではないか、という反論。英題は、日本語の題が名指していない機関を差し入れた。宣伝はオーウェルに手を伸ばした。そしてその枠組みに文句を言う文章は、その枠組みのなかで作動している。両方の言語で読む家が書いているとはいえ、英語圏の受容に反論しており、英語の書評を用いており、その議論は、異議を唱えている当のその枠組みなしには組み立てられなかった。ここに清潔な外部はない。言えるのはせいぜい、この反論は取り消されたのではなく記録された、ということだけである。
第四に、そしてこれには答えがない。何かを指す言葉を失うとその喪失が見えなくなる、と論じる文章は、それを失った者によっては反証されえない。それがこの文章の構造である。主張の根拠が、当の人々が根拠を生み出さないことだというのなら、苦情の不在が証明へと換算されたことになり、沈黙によって裏づけられる命題は、誤りでありうる命題ではない。これは本物の欠陥であり、認めたところで修復されない。言えるのは反駁ではなく限定である。この文章は一篇の小説の読みとして差し出されている。その小説は寓話である。そして読者は、自分には検出できない何かが欠けているのだ、という命題をここから持ち帰るべきではない。その命題こそ、この家が商業上の利害をもつ当のものであり、それが次の節の主題である。
この家が売っているもの、そして主張できないこと
この家は、境界があり、日時が決まっており、代金が支払われる私的な同伴を売っている。上の議論に対してこの家がもつ利害は直接的であり、読者にはそれを察知するのではなく述べられる権利がある。
しかもこの場合、利害は異様に具体的であり、通常の種類より悪い。もはやそれを指す言葉をもたない能力は喪失として経験されない、という議論は、商業的に読めば、満足から需要を製造する機械である。それは要するに、欲していないことは必要としていないことの証拠にはならない、と述べている。いかなる事業も託されるべきでない主張であり、それをこの事業が述べている。
だから制約を、安心のためではなく、主張しうることへの制限として置く。この家は誰も診断しない。この文章のどこにも、欠落を感じていない読者に欠落がある、とは書かれていない。自分の人生について誤っている、とも、有料の一夜が扱う何かを抱えている、とも書かれていない。この家はいかなる結果も主張しない。回復も、快復も、何かが戻ってくることも。一夜は能力を与えず、言葉を供給しない。
そして、利害に最も強く反する形で述べればこうなる。この文章の議論が正しいとするなら、それが自分に当てはまるかどうかを、いかなる一夜も読者に教えることはできない。その検査は、構造上それを実施できない当の人物によって実施されねばならないからである。したがってこの家は、確かめる方法を提供できない。提供できると称する事業があるなら、それは自らが述べているのとは別の何かを売っている。これは提案に添えられた但し書きではない。この頁に提案が置かれていない理由である。
この家はまた、この本およびそれに関わるいかなる人物とも、いかなる関係も主張しない。小川洋子、講談社、スティーヴン・スナイダー、パンテオン、ハーヴィル・セッカー、賞の運営団体、そしてここで名を挙げたすべての評者は、この家と関わりをもたず、この家を知らず、この家が述べることのいかなる部分にも加わっていない。本の名を挙げることは発見のためであり、それ以外の何でもない。背後に取り決めはない。
この文章が主張していないこと
この文章は読解である。臨床の指導ではなく、何も処方せず、いかなる結果も約束せず、どの読者も診断しない。
ここにあるいかなるものも、人間の記憶がどう働くかについての主張ではない。島は寓話であり、その機構は創作である。概念が物とともに消えることはないし、心理学や神経科学のいかなる知見もここでは援用されていない。依拠していないからである。名指せない喪失は苦情を生まないと論じているところでは、それは、言語のなかで不服がどのような条件で組み立てられうるかについての議論であり、研究上の結果ではなくこの家の解釈上の主張である。
書誌の事実は、講談社の掲載情報、国立国会図書館の書誌記録、出版社の頁から取っている。賞の事実は全米図書財団とブッカー賞の記録から取っている。この本は二〇一九年の全米図書賞翻訳文学部門の最終候補であり、二〇二〇年の国際ブッカー賞の最終候補であった。どちらも受賞していない。この文章がその二つの賞の受賞作の名を挙げているのは、区別を紛れないようにするためであって、作品を比較するためではない。
英題がどのように決まったかについての記述は、ブッカー賞財団がこの本のために作った読書ガイドから取っている。執筆時点でそのページを直接取得することができず、内容は一段隔てて報告されている。読者はこの一点については、検分されたものではなく報告されたものとして扱うべきである。
この本のいかなる一節も、日本語でも英語でも引用していない。筋、構造、結末は、出版社の資料、賞の運営団体による要約、参考事典の項目、公開された書評といった公開の記録から記述しており、日本語原文と英訳を突き合わせて読み直した結果ではない。いずれかの本文を手にしている読者が、力点や順序の細部について異なる判断をもつことは十分にありうる。
小川自身の意図についての発言は、公開されたインタビューからの報告であり、彼女が述べたことである。それは著者についての証拠であって、この本が何をしているかの証明ではない。著者が自作の意図について語ったことをもって小説の意味が決まると扱う文章は、この文章が異議を唱えているのとは別種の誤りを犯すことになる。
ここにあるいかなるものも、日本の人々についての言明ではなく、日本の読者についての言明でもなく、いかなる種類の国民性についての言明でもない。受容についての主張は、二〇一九年と二〇二〇年に英語圏の報道と賞の文化に現れたものに関するものであり、語彙についての主張は、言語と文学の伝統があらかじめ用意している慣習に関するものである。
この小説は実在の人物を描いていない。この文章が『アンネの日記』に触れているところでは、その本への負債について小川が公に述べたことを報告しているにすぎず、この寓話の島と、その日記が記録する歴史上の出来事とのあいだに、いかなる比較もここでは提示していない。
反論の節の第四の項目には、この文章のどこでも答えていない。それは立ったままである。