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BODYWORK 資料室

世界で実際にどう実践され、どう売られているのかを報告したうえで、読み手にとって本当に重要な問いへ。市場が売るのは「入門」です。しかしそれは、力関係そのものを扱う場において、新参者を情報の少ない側に置くことを意味します。必要なのは入門ではありません。彼女自身が条件を決められるようにする語彙と構造です。

  • 現代の実践
  • Moonlightにおける用法

この領域の市場は、ひとつの物語を売っています。ほかの何を述べるより先に、その物語の形を見ておく値打ちがあります。好奇心を持った初心者がいて、経験のある実践者がいる。知識を握っているのは彼のほうです。言葉、何が安全かの判断、何がふつうなのかという感覚。そして彼女は、そこへ紹介され、案内され、手ほどきを受ける。使われる言葉はたいてい「入門」であり、その言葉はあたたかい調子で使われます。

その仕組みの形を、平たく述べておきます。それは、情報を持たない側を情報の少ない位置に置くものです。しかも、誰が進行を決めるのかを主題として掲げている場面の内側で、そうしています。ほかのたいていの商取引であれば、それは是正すべき問題と呼ばれるでしょう。ここでは、それがサービスと呼ばれています。

このページは、その反転です。ここには、誰かを手ほどきするものは何もありません。以下にあるのは、平たく定義された語彙と、ひとつの構造です。何を、いつ、誰が合意するのか。そして、何かを決める前に、彼女が尋ねてよいことは何か。あわせて、市場そのものも報告します。この領域で国際的に実際に何が売られているのか、それらの提供はどう組み立てられているのか、売っている側はそれをどう説明しているのか。これを調べている女性にとって、警告より正確な地図のほうが役に立つからです。全体を通しての前提は、条件を定めるのは彼女であるということ。そして彼女に手渡して役に立つのは、入門ではなく、それを行うための言葉と問いだということです。

利害は、議論のあとではなく先に申告します。この家は、この領域にひとつの体験を販売しています。したがって、語彙は整っていて、構造は機能し、危険は管理できる——読み手がこのページをそういう印象で読み終えることで、利益を得ます。以下で、この分野を扱いやすいものに聞こえさせる段落はすべて、利害関係者が書いたものです。限界を、主張と同じ分量で印刷すること。それが、ここで取りうる唯一の埋め合わせです。

  • 現代の実践
  • 研究が示していること

キンクは、このなかでもっとも広く、もっとも緩い言葉です。通常の用法では、その土地の主流から外れた性的・官能的な関心を指します。そして主流は土地ごとに違うのですから、この語には定まった内容がありません。相対的な語が、範疇の衣をまとっているのです。この語のもとで売られているものの多くは、その混同を頼りに売られています。

フェティッシュは、狭い、そして古い意味では、特定の物、素材、身体の部位に依存した高まりを指します。それを好むということではなく、それに依存しているということです。通俗的な用法では、強く具体的な好みであれば何でもこの語で呼ばれるようになりました。こちらはずっと弱い主張です。広告のなかで、この二つの意味は絶えず入れ替えられます。そしてほぼ常に、ありふれた好みを症状のように聞こえさせる方向へ、です。

BDSMは、三つの重なり合う対を組み合わせた語です。ボンデージとディシプリン、ドミナンスとサブミッション、サディズムとマゾヒズム。この語は、それが覆っているどの実践よりもはるかに若い。頭字語としての記録上の初出は、一九九一年六月二十日のUsenetへの投稿です。そしてこの語は、権威が発行したものではなく、使っている人々が組み立てたものです。

パワーエクスチェンジは、合意した期間のあいだ、合意した範囲の内側で、進行の一部を相手が決めることに一方が同意する、その取り決めを指します。この語における「交換」という語は、実際に働いています。それは、意図的に、かつ一時的に手渡されるものを指しており、つまり手渡し返せるものだということです。手渡し返せない取り決めは、何と呼ばれていようと、交換ではありません。

ドミナンスとサブミッションは、その取り決めのなかの二つの位置を指します。トップとボトムは、ある時間のなかで、誰が働きかけ、誰が受け取っているかを指す言葉であり、これは別の区別でありながら、しばしば前者と取り違えられます。スイッチは、その両方を取る人を指します。これらの語はいずれも、どこかの権威が定義しているものではありません。共同体の慣習であり、集団ごと、国ごとに揺れ、そして、それを使う二人が合意した意味を持ちます。

このページは、これらをすべてふつうの小文字で書きます。この文化圏ではしばしば、崇敬をこめた大文字が用いられます。その大文字は仕事をしています。実務的な用語の集まりを、入門儀礼の語彙のように見せるのです。そしてそれは、すでにその言葉を話せる側の地位を引き上げます。これらは、取り決めを記述するための便利な語です。典礼ではありませんし、それを知っているというだけで誰かに負うものは何もありません。

臨床の分類体系は、この十五年のあいだに二つとも立場を変えました。古い語彙がなお広く流通しているため、その変更は知っておく値打ちがあります。米国の診断マニュアルは、二〇一三年の第五版で、パラフィリア——非定型な高まりの様式——と、パラフィリア障害とを切り離しました。後者は、臨床的に意味のある苦痛または機能の障害、あるいは同意していない相手の存在を、さらに要件とします。その体系においては、関心を持っていること自体は診断ではありません。

世界保健機関は、さらに踏み込みました。国際分類の第十一版を準備する作業部会は、フェティシズム、フェティシズム的服装倒錯、サドマゾヒズムを診断項目からそもそも削除するよう勧告し、残るパラフィリア障害を、同意していない相手が関わるもの、あるいは著しい苦痛や負傷の危険をともなうものに限定しました。デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドは、その勧告に先立って、これらの項目を自国の一覧から削除していました。

それが立証していることは狭く、膨らませてはなりません。それが立証しているのは、分類体系が、合意にもとづく関心をそれ自体として障害とみなすのをやめた、ということです。これが誰かにとって良いものであることを立証してはいませんし、そのような主張はこのページのどこにもありません。

どの程度ありふれているのかについて、使える数字はひとつだけで、しかも古く、一国のものです。二〇〇一年から二〇〇二年にかけてオーストラリアで行われた一九,三〇七名への全国電話調査は、性的に活動のある回答者の一.八パーセント——男性の二.二パーセント、女性の一.三パーセント——が、過去一年間にBDSMに関わったと答えたと報告しています。このページを書くにあたって、日本についての比較可能な数字は見つかりませんでした。ここで作り出すこともしません。

そして、このページが平たく、一度、早い段階で述べておかなければならないことがあります。これはいずれも治療ではありません。何かを処理する方法でもなく、癒しでもありません。そのように枠づけるページは、支える手立てのない医学的主張をしていることになります。この主題が、好奇心ではなく苦痛をともなって訪れているのであれば、適切な先は資格をもつ精神保健の専門家です。有償の予約は、それではなく、それになることもできません。

  • 現代の実践

これを調べている女性にとって、警告よりも地図のほうが役に立ちます。ですからここでは、国際的に存在しているままの市場を、推奨としてではなく報告として記します。この節はこの家を記述したものではなく、いかなる形式の推奨でもなく、どの事業者の名前も挙げず、どこへも案内しません。これは共通して見られる形の記述であって、調査ではありません。割合についての主張は行いません。

もっとも一般的な商業形式は「セッション」です。進行を担う役割を取る職業実践者との予約で、事前に押さえ、時間で値がつきます。多くの市場でこれらは、性的なものではないと明示して広告されています。これは奥ゆかしい言い回しではなく、表明された職業上の規範です。そして、その場の即興ではなく、あらかじめ特定された筋書きに沿って組み立てられます。予約は通常、書面での問い合わせ、望むことと望まないことを列挙する記入用紙、双方向の身元確認を経ます。実践によっては、予約そのものが存在する前に、有償の事前相談が置かれます。

「入門」あるいは「はじめての方へ」と銘打たれたセッションは、経験のない人に向けて売られ、地形を知っている人に導かれる最初の体験として枠づけられます。これは、このページが冒頭で問いに付した形式です。その商業的な論理は、平たく見ておく値打ちがあります。売られているのは、次に何が来るかについての実践者の知識です。つまり商品は、情報の落差そのものです。

「メンターシップ」と呼ばれる連続形式は、複数回のセッションを一括の商品として、あるいは継続的な取り決めとして売るもので、予約ではなく教育として枠づけられます。期間は長く、総額は大きくなり、そして、一方が最初から「知っている側」と定められた継続的な関係が生まれます。これが自動的に悪い取り決めだというのではありません。入る前に見ておく値打ちのある構造だということです。そこで割り当てられる位置は、内側からあとで取り決め直すのが難しいからです。

ファンタジーあるいはフェティッシュのセッションは、依頼者が事前に指定した筋書きに沿って組み立てられます。役柄、場面設定、関心の向かう特定の対象。交渉のための書面がもっとも発達しているのは、たいていこの形式です。理由は単純で、指定しなければ成り立たない筋書きは書き出さざるをえず、書き出すことが記録を生むからです。

教育と実演の形式は、ほかの講座と同じように券売されます。ワークショップ、入門講座、大会での講義、そして公開の実演。会場は、個人のスタジオから借り上げた会館まで幅があり、縄の練習を公開の作業時間として行うものも含まれます。その隣には、会費、公表された館内規則、そして室内を見守ることを職務として明示された人員を備えた、会員制の場があります。

コーチングの形式は、もっとも新しく、もっとも輪郭が定まっていません。一括の商品や定額の購読として売られ、予約ではなく生活の指針として枠づけられ、その多くは対面せずに行われ、このページが確認できたどの法域でも規制されていません。ここで「コーチング」という語がしている仕事は、この語がほかの場所でしている仕事と同じです。職業的な関係の形だけを借り、通常それにともなうはずの説明責任は、いっさい持ち込みません。

そして、値段のつかない形式があります。誰も宣伝しないからこそ、報告する値打ちがあります。非公式の公開の集まりは、ふつうの場所——奥の一室、喫茶店、夕方早い時間の酒場——で開かれ、注文したもの以上の費用はかかりません。会話は会話であり、何も起こりません。そして、それこそが目的です。入門講座とあわせて、実際に多くの人がここから入っていきます。そしてこれは、このページが扱っている非対称に対する、もっとも安価な是正手段です。予約をともなわずに語彙を供給するからです。

金額については、このページは構造を報告し、数字を控えます。価格表が公表されていることは多くありません。料金は問い合わせに応じて提示されるのが通例で、時間、場所、実践者が借り上げなければならないものによって変わります。手付金は標準的で、それが返らなくなる期限が設けられているのもふつうです。一括の商品は、含まれる回数分の合計より安く値づけされます。これは一括販売のありふれた経済ですが、同時に、二回目を望むかどうかを知る前に、人が連続した予定に縛られていく、ありふれた仕組みでもあります。ここに具体的な数字は現れません。市場をまたいで確認できたものがなく、幅を作り出すのは、書かないことより悪いからです。

  • 安全と限界
  • 現代の実践

この分野において、実践の名に値するものがひとつあるとすれば、それは手で行われる何かではありません。何かが行われる前に交わされる会話です。親密な生活の大半において、その会話は任意であり、たいていは省かれます。ここでは、それが前提条件です。そしてこの文化圏において本当に借りる値打ちのあるものは、すべてその下流にあります。

持つ値打ちのある版において、合意される内容は、雰囲気ではなく具体です。何が行われ、何が行われないか。身体のどの部位か。どの言葉が使われ、どの言葉が使われないか。どれだけの時間か。誰が、どのように終わらせられるのか、そしてそのあとどうなるのか。何が、どの期間、手渡されるのか。そして、何を合意しようと彼女のもとに残るものは何か。事前にふつうの文で述べられないことは、まだ合意される段階にありません。

なぜその場でではなく事前なのか。これは、この書庫が触れることについて一般に述べている議論であり、ここではその力が弱まるどころか強まります。事前に述べられる境界線は、背筋を伸ばして座り、服を着て、ふつうの気分でいる女性が、「いいえ」と言うことに何の代償もない時刻に述べるものです。同じ境界線をその場で守るとなると、それは、すでに進行の一部を手渡してしまった人が、しかもたった今それを引き受けてほしいと頼んだ当の相手に向けて、口にしなければならないものになります。それは何かを測る公正な試験ではありません。そして、彼女がそれに合格することを前提とする構造は、設計としてすでに失敗しています。

境界線と好みの区別は、鋭く保っておく値打ちがあります。この二つは日常的に同じ引き出しに入れられ、しかも挙動が違うからです。好みは、どう行われるかについてのものです。速さ、圧、順序、空気。そしてそれは、進みながら調整されるためにあります。境界線は、そもそも行われるかどうかについてのものであり、ほかの何かとの兼ね合いで最適化される入力ではありません。境界線をひそかに好みとして扱う構造は、誰がそう決めたわけでもないまま、それを少しずつ削っていきます。

境界線のなかで、慣習はハードとソフトを区別します。ハードリミットは絶対であり、今回も、今後も、議論の対象になりません。ソフトリミットは、いまは応じる気がない、あるいは条件が足りなければ応じない、というもので、のちに変わることもあれば変わらないこともあります。この区別は成文化されたものではなく共同体の慣習ですが、その本当の値打ちは後者にあります。イエスでもノーでもない答えを置く場所を女性に与え、それを黙って上へ丸めさせずに済ませるからです。

そして、たいていの一覧が逆にしている点があります。行われないことの一覧は、行われることの一覧より、よく守ります。「含まれるもの」の一覧は、書き漏らしによって許容的になります。それは誰かが思いついたことを記録したものにすぎず、言及されなかったすべては曖昧な空間に置かれ、その空間は実際の場面では、自信のあるほうの人によって解決されてしまいます。「含まれないもの」の一覧は、その空間を閉じます。ですから、自分の一覧を書く女性への実用的な助言はこうです。労力は二つめの一覧に注ぐこと。そして一つめの一覧の沈黙は、利用可能なものではなく、未合意として扱うこと。MAYBEはYESではありません。言及されなかったことも、YESではありません。

  • 安全と限界

標準的な慣習は、信号機から借りています。赤は、いま止める。黄色は、速度を落とす、何かを変える、あるいは一度確認する。緑は、続ける。その有用性は、短く、曖昧さがなく、いちばん言葉の回らない状態で下手に口にされても意味が壊れないことにあります。この慣習には、記録された単一の起源も、背後にある権威もありません。機能するから広まった慣習であり、それは正確な記述であって、価値を下げる言い方ではありません。

「やめて」という語ではなく別の語が使われるのは、ふつうの抗議そのものが合意内容に含まれる取り決めがあるからです。この発明の技術的な理由はそれがすべてであり、平たく知っておく値打ちがあります。その理由が好ましくないと感じる読み手は、「やめて」が文字どおりやめてを意味する、より単純な取り決めを求めてかまいません。そしてそれを述べる場所は、あとで気づくことではなく、事前の会話です。

非言語の合図も必要であり、それを必要とすることは特殊ではありません。言葉はいつでも使えるわけではないからです。口がふさがれていることもあれば、意識が半ば遠のいていることも、方向感覚を失っていることも、気まずいことも、静かな部屋で騒ぎにしたくないだけのこともあります。慣習としては、合意された身体的な合図が用いられます。落とせるように何かを握っておく、決めた回数だけ叩く。それが事前の会話に属するのは、その場で思いついた合図は、そもそも合図ではないからです。

ここからが正直な部分で、この種の資料はたいていここを省きます。セーフワードは装置ではありません。機構を持ちません。それ自体は何もしません。それが機能するのは、それを聞く側の人間が、何かが始まる前にすでに、この語は議論なく直ちに事を終わらせるものだと決めている場合だけです。その決定は彼のものであり、事前に行われるか、まったく行われないかのどちらかで、語はその決定が取る形にすぎません。セーフワードは、相手が結ぶ約束です。それが持つ値打ちはすべて、相手に由来します。

だからこそ、それは直接尋ねられますし、その答えは多くを語ります。私がそれを言ったら、何が起きますか。先に何かを終わらせますか。理由を尋ねますか。その決定を本当に済ませている人は、即座に、平板に答えます。考えることが何も残っていないからです。ためらいは情報です。そして、気の利いた答えもまた情報です。

これがどれほどの頻度で失敗するかについては、いくらかの測定があり、そして実際の限界をともなって届きます。二〇一二年に米国の権利擁護団体が行い、のちの臨床向けの指針に引用されている、キンクに関わる五,六六七名へのオンライン調査は、一四.九パーセントがセーフワードまたは安全の合図を無視された経験を持ち、三〇.一パーセントが事前に取り決めた境界線を無視あるいは侵害された経験を持つと報告しました。これは、立場を持つ団体が集めた自己選択の標本であり、確率標本ではありません。いかなる一般人口の比率も支えられません。それが支えられるのは、もっと狭い、しかしなお有用な結論です。すなわち、同意について最も温かく語る文化の内側で、その文化が自分自身を調査する程度には、この失敗はありふれている、ということ。

  • 安全と限界
  • 研究が示していること

アフターケアは、合意した部分が終わったあとに起きることを指します。つまり、戻ってくることです。実際の中身は平凡です。あたたかさ、水、静けさ、何か食べるもの、ふつうの会話。そして、終わりから借りてきたのではなく、あらかじめ確保された、急がない時間。その中身よりも、それが計画されていたという事実のほうが重要です。即興で組み立てるしかない終わり方は、短くなりがちだからです。

ドロップは、そのあとに訪れうる気分の落ち込みを指します。数時間のうちに来ることもあれば、数日後に来ることもあります。共同体の用法ではこれを役割ごとに区別し、害の徴候や、何かがうまくいかなかった印ではなく、想定される出来事として扱います。この枠づけは、感傷ではなく実務として重要です。それがありふれたものだと伝えられていない女性は、それを、自分が判断を誤った証拠として読んでしまいやすいからです。

その正直な位置づけは、次のとおりです。これは記録された実践です。この文化圏自身の文献のなかで一貫して記述され、キンクに関わる相談者を扱う治療者向けの臨床指針にも名前が挙がっています。ただし、生理学的に確立された機序ではありません。二〇一六年、Sprott と Randall が Journal of Positive Sexuality に発表した概念的な論文は、これを総称する語を提案し、直後に生じるものと、数日後に現れるものとを区別しました。それは理論的な整理であり、実証研究がなお必要であると、論文自身が述べています。

これをめぐって引かれる小規模な研究が二つあります。Sagarin らは、二〇〇九年の Archives of Sexual Behavior で、五八名の実践者について前後の唾液中コルチゾールとテストステロンを測定し、受け手の役割にあった人ではコルチゾールが上昇したこと、そして、その時間がうまくいったと述べた組では、事後にコルチゾールの低下と関係の近さの増加がみられたことを報告しました。Ambler らは、二〇一七年の Psychology of Consciousness で、経験のある実践者一四名を対象に、役割ごとに異なる意識状態を報告しました。一四名と五八名はきわめて小さな数であり、いずれも自己選択による経験者を用いており、そしてどちらの著者らも、自分たちの仕事を予備的なものと述べています。

ですから、擁護できる文は控えめなほうです。人々が一貫して報告する何かがあり、その近辺で生理的な変化を見つけた小規模な研究が二つある。これは、アフターケアが何かを防ぐという実証ではありません。健康に関するいかなる主張も、ここでは行いません。この実践が、生物学をいっさい必要とせずに確立しているのは、それ自体として持つ値打ちのある規範です。すなわち、合意した時間の終わりは、義務の終わりではないということ。そしてそれが終わりであるかのようにふるまう人や家は、自分が何であるかをすでに述べています。

  • 研究が示していること
  • 安全と限界

古いほうはSSC——安全で、正気で、合意にもとづく(safe, sane and consensual)——です。その起源は具体的で、しかも異例なほどよく記録されています。一九八三年半ば、ニューヨークの団体 Gay Male S/M Activists の三人からなる委員会——David Stein、Martin Berkenwald、Bob Gillespie——が、団体の理念と目的についての文書を起草しました。この語句は、自分たちの会員が行っていることを、当時「サドマゾヒズム」という語が呼び起こしていた、虐待的あるいは自己破壊的なふるまいから区別するために書かれたものです。それは外へ向けた政治的な言葉であり、特定の時代の、特定の論争のために書かれました。

この語句は、そこをはるかに越えて広まりました。そして、その主たる書き手は、続く数十年の多くを、それがどう使われたかに活字で異議を唱えることに費やしました。「安全」が「危険がない」と読まれるようになったこと。そして、商品に刷られる標語になったこの語句が、倫理上の問いを開くものではなく、それを決着させたものであるかのように扱われるようになったこと。

新しいほうはRACK——リスクを理解したうえでの合意にもとづくキンク(risk-aware consensual kink)——で、一九九九年、Gary Switch が The Eulenspiegel Society の運営するメーリングリストで提案しました。その主張は、意味のあるものに安全なものなどないということ、誠実な語は「理解している」であるということ、そして危険は、標語によって消えるのではなく、学習、訓練、技術、反復によって減らされるものだということです。示された比喩は登山でした。危険は、取り除くべき不幸な副作用ではなく、その活動が何であるかの一部であり、そして技量によって扱われるものだ、と。

三つめの頭字語もあります。PRICK——個人の責任と、情報を得たうえでの合意にもとづくキンク(personal responsibility, informed consensual kink)——で、これは重心をもう一度ずらし、決定がどう記述されるかではなく、その帰結を誰が引き受けるのかに置きます。

最初の二つのあいだの本当の論争は、頭字語が示唆するより狭く、そして正確に述べておく値打ちがあります。それは、「安全」が到達しうる状態なのか、それとも常に「理解」でしかないのか、という問いです。SSCを擁護する側は、平たい基準こそ初心者が実際に使えるものであり、危険を受け入れることを土台にした枠組みは、そうしたい者によって容易に免罪符へ変えられる、と言います。RACKを擁護する側は、果たせないことを約束する語は、真実を認める語よりも、情報の乏しい初心者を生む、と言います。そして、そうでないふりをすることこそ、規則に従っていた実践者のもとで人が傷つく経路なのだ、と。

どちらの批判も、相手について正しい。だからこの分野は四十年かけてこれを決着させておらず、このページもまた決着させません。二つの枠組みが一致している部分は、そもそも荷重を担っている唯一の部分です。どちらの真ん中にもある「合意にもとづく」という語と、行う前にそれが何であるかを知っておく義務。読み手にとって役に立つのは、勝者を手渡されることではなく、ある実践者がどちらの語を手に取るかを見て、なぜその語なのかを尋ねることです。

  • 安全と限界

このページのどこにも、手で行う何かについての手ほどきはありません。この省略は、上品ぶっているのではなく意図的なものです。ここには実技の案内はありません。それを求めて来た読み手には、代わりに理由を持ち帰っていただきたい。理由のほうが、役に立つからです。

制限をともなうもの——動きの制限、呼吸の制限、血流の制限——はいずれも、実在し、記録された負傷の危険をともないます。制限は神経を圧迫し、その帰結は一時的なしびれから、数週間にわたる機能の喪失にまで及びます。姿勢と時間は、直観に反する仕方で効いてきますし、まずい方向へ進んでいる最中にそれを知らせてくれることもありません。その場ではまったく心地よく感じられた状態から、負傷が生じることがあります。首や呼吸に関わるものは、別の、はるかに重い範疇に属し、このページはそれをいっさい記述しません。

これがウェブページの主題にならない構造的な理由は単純です。制限されている人は、行動できない人だからです。何かがまずくなり始めたとき、対応する能力はすべて別の人間の側にあり、その人の注意、技量、そして中断して解く意思にかかっています。これは、段落によって和らげられる危険ではありません。必要なのは、技量のある人から、対面で、実際の解剖を目の前にして受ける実地の指導です。学びたい読み手は、その道でのみ学ぶべきです。

この書庫には、縄とそれが借りてきた系譜についての一篇があり、この議論の歴史版を詳しく述べています。そこで得られている知見は、ここで繰り返す値打ちがあります。その実践の安全についての文献が実際に書かれた場所は、崇敬の伝統の側ではなく、交渉と解剖の伝統の側だった、ということです。どの神経が危ういかを教えたのは、セーフワードを生んだのと同じ文化でした。神秘性と安全は別の場所から来ており、読み手の役に立つのは、そのうち片方だけです。

  • 安全と限界

このページが存在しているのは、この節のためです。この市場のありふれた場合を考えてください。女性の依頼者、男性の実践者、有償の予約、そして、誰が進行を決めるのかを明示的な主題とする内容。以下の非対称は、非難ではありません。それがこの取り決めの構造であり、関わる全員が誠実であっても、それで消えたりはしません。

彼は経験を握っています。彼は何度もこれを行っており、彼女は行っていない。そして外から見たとき、自信のほとんどは経験の姿をしています。彼は語彙を握っています。言葉を知っているということは、どんな問いが存在するかを知っているということであり、問いの存在を知らない人は、その問いを立てられません。彼は部屋を握っています。選んだのは彼で、どこに何があるかを知っているのも彼で、彼女はそこの客です。そして彼は枠組みを握っています。この時間が何であるか、その内側で何がふつうか、何をもってうまくいったとするか、何が妥当な異議とみなされるか、という説明です。最後のものがいちばん大きく、そして、提供されたものの一覧に決して現れない唯一のものです。

ここには、この章の姉妹篇——官能的な触れ方についての一篇——が相手にしなくてよい要素が、もうひとつあります。この領域では、次に何が来るかを知らないこと自体が、魅力の一部として提示されうるのです。何が起きるか知らない女性は、知らないことこそが要点なのだと告げられうる。それはまったく本当で、合意されていて、何の問題もないかもしれません。あるいはそれは、情報の欠落を長所へ変換する枠組みかもしれない。そして内側からは、その二つを見分けられません。見分けるのは、その「知らなさ」が事前に特定されていたかどうかです。述べられた境界線の内側にある、合意された不確かさは、ひとつのことです。述べられていない境界線は、別のことであり、それを神秘と呼んでも前者にはなりません。

これを是正するのは、自信でも相性でもありません。何かを予約する前に尋ねる、いくつかの問いです。そして、その眼目は実のところ答えではありません。眼目は、それを尋ねることが、彼女を条件を定める側の位置に置くということです。市場の枠組みが、そっと取り上げてしまう位置に。

彼が何をしないのかを尋ねること。含まれるものではなく、含まれないもの。どこが縁なのか。そして、誰が求めようと断るのは何なのか。これを考え抜いた実践者は、即座に、具体的に答えます。除外は、彼が声に出して守らなければならなかった部分だからです。ここでの曖昧さは、それ自体が答えです。

途中でやめた場合に何が起きるかを尋ねること。直ちに終わるのか、先に何かを終わらせるのか、理由を述べる必要があるのか。そして、別立てで、平たく、それにいくらかかるのか。支払ったお金は返るのか、一部返るのか、戻らないのか。お金についての問いに答えを用意していない場所は、ページの別のところで同意について何を書いていようと、彼女がやめることを真剣に考えていません。

自分がそこにいることを、ほかに誰が知っているのかを尋ねること。これは彼にではなく、自分に向けた問いです。住所と時刻を知っている、名前のある誰か。そして、終わったあとに送ると決めておく連絡。これは少しも詩的ではありませんし、この一覧のなかで単独ではもっとも役に立ちます。そしてこれは、秘密にしておきたいという気持ちと完全に両立します。この点は重要です。省かれる理由がたいていそれだからです。伝えられる相手は、何を予約したのかを知る必要がありません。

そして、この一覧を機能させる規則があります。これらの問いを、面倒だ、色気がない、疑っている、雰囲気を壊す、と感じる実践者は、すでに答えています。無礼にではないかもしれませんし、意図してすらいないかもしれません。しかし、依頼者が条件を定めることを軸に実践を組んでいる人にとって、この会話はふつうのことです。自分の手順をそのまま読み上げられているだけだからです。尋ねられたことへの苛立ちは、彼が条件を何のためのものと考えているかについての情報であり、しかもそれは、お金が動く前に手に入ります。

  • 安全と限界
  • 現代の実践

これに対する免許制度は存在しません。日本にもなく、そしてこのページが確認できたかぎりでは、どこにもありません。この分野の実践者を試験し、登録し、検査し、あるいは資格を取り消せる国家機関はありません。これを平たく述べておく値打ちがあるのは、この不在が見落とされやすいからです。この分野は専門性の語彙を流暢に話しますし、その種の語彙は通常、背後に制度が立っていることを含意するからです。

証書は存在しますし、それは無ではありません。民間の団体が講座を開き、修了した人に資格を発行しています。しかしそれらの団体は、自分たちで課程を定め、自分たちの基準で試験し、自分たち以外の誰にも説明責任を負いません。その種の証書は、ある講座を受けたという記録です。認定を下す権限を持つ誰かによる認定ではありません。

その帰結は正確であり、この節が存在しているのはこの一文のためです。この分野における経験の主張は、構造上、検証できません。照合すべき登録簿がありません。年数は確認できません。師事した相手も確認できません。そうであるために、悪い出来事が起きている必要はありません。これは、制度を持たない分野の性質であって、そこで働く誰かへの非難ではありません。

そのことが、尋ねる値打ちのある事柄を変えます。何年やってきたかではありません。それは確認できないからです。確認できるもの——いま観察できるという意味で——は、手順です。お金を受け取る前に、範囲が書き出されているか。除外が、求めに応じて説明されるのではなく、誰でも読める場所に公表されているか。途中でやめた場合についての答えが、用意されたものか、その場で作られたものか。前節の問いに対して返ってくるのが、手順なのか、それとも安心の言葉なのか。安心の言葉は、この市場でもっとも安価なものです。そしてそれが確実に示すのは、それが求められていると誰かが知っていた、ということだけです。

  • 日本の制度

この章のほかのページは、免許の制度を扱っています。あん摩・マッサージ・指圧は、昭和二十二年法律第二百十七号にもとづく免許業であり、その隣には医業類似行為という法律上の枠組みがあります。このページが述べている領域の商業サービスは、その制度が取り扱う対象ではありません。ボディワークの免許についての問いをそのままここへ持ち込む読み手は、当てはまらない問いを立てていることになります。

当てはまる枠組みは、別の法律です。風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(昭和二十三年法律第百二十二号)は、そのなかで、性風俗関連特殊営業という区分を規制しています。その仕組みは、職業資格ではなく、都道府県公安委員会への届出を土台としており、店舗型と無店舗型で規定が分かれ、場所、広告、業務のあり方に制限がかかります。これとは別に、売春防止法(昭和三十一年法律第百十八号)が、売春およびその周辺の行為を、それ自体の定義と構造をもって扱っています。

読み手にとっての意味は、ひとつだけです。この二つの領域は別々の法令によって規律されており、前者における資格は、後者について何も述べていません。指圧の免許は、その人が提供しうるほかのサービスについての言明ではありません。どちらの方向へも、そう読まれるべきではありません。

このページは、地形を述べてそこで止まります。これは見取り図であって、法的助言ではありません。特定の事業者——この家を含みます——について、何が適法で何がそうでないかを主張しません。このサイトのどこかに名前のあるサービスについて、その法的な位置づけを性格づけることもしません。その種の問いを持つ読み手は、答える資格のある人から助言を受けてください。そして、自分の立場について尋ねられた実践者こそが、それに答えるべき人です。

  • Moonlightにおける用法
  • 安全と限界

このページのここまでが向かってきた区別があります。そして、この主題についてこの家が言えるもっとも強いことは、それです。公開されたメニューと、私的に合意された範囲は、別の対象です。両者は程度ではなく、種類において違います。

メニューは、すべての人に向けられた申し出です。特定の誰かが尋ねる前に書かれ、宣伝を行い、まだ誰とも話していない人のなかに期待を作ります。範囲は、名前のある一人が、事前に、一度きりの機会のために、会話を経て書くものです。そして一方向に拘束します。何が行われるか、そしてそれ以上に重要なこととして、何が行われないかを記録します。

この家が公表しているのは、メニューではなく仕組みです。大きな体験の前には、デザイア&バウンダリー・マップがあります。非公開で、事前に記入していただくもので、要素ごとにYES、MAYBE、NOを記し、絶対にされたくないこと、そして安全のために知っておくべき身体のことを添えます。公表されている規則は、YESはいつでもNOに変えられること、MAYBEがYESとして扱われることはないこと、沈黙は同意ではないこと、そして好みが変わった理由を説明する必要はないことです。中止のことばがあり、別のものを選ばなければ「赤」。ペースを落とすことばがあり、既定は「黄色」。そして、言葉が使えない場面のために、事前に取り決める非言語の合図があります。さらに先へ進む体験については、何かが確定する前に範囲を書面にし、当日、始める前にそれを読み返す、というのが公表されている運用です。

ですから、このページでここまで報告してきたすべての、誠実な枠づけはこうなります。その会話のなかで、女性は何を持ち出してもかまいません。好奇心を口にすることは約束ではなく、それが何かの一覧に載ることもありません。それが何なのかを尋ねるのは、要求ではなく質問です。会話とは、よそで読んだ何かを、何の代償もなく声に出せる場所です。そして会話が存在する理由の大半は、それです。

そして、同じ息のうちに述べておかなければならない限界があります。そうでなければ、右の段落は広告になってしまいます。合意されたことが、行われることです。そして合意されうる範囲は、彼女が何を挙げるかではなく、この家が範囲内であり、訓練を受けており、適法であると公表しているものによって限られます。公表されている立場は、この家の訓練と道具の範囲内にある、ソフトで低リスクな技法だけを用いるということ、そして呼吸の制限、首への圧迫、高リスクな行為は、どんな名前であっても提供しないということです。その外側にあるものが、求められたことによって利用可能になることはありません。範囲の外にある求めには「いいえ」が返りますし、その答えは、どれほど上手に求められたかによって変わりません。

これが構造のすべてであり、その値打ちは、まさにそれがメニューでないところにあります。名前のある一人が事前に合意した範囲は、公衆に向けて広告されたサービスとは別の、より良い対象です。それが適用される当人が、それを書くことに何の代償もかからない日に、自分で書いたものだからです。

この家は、この領域にひとつの体験を販売しています。冒頭の段落で申告し、ここで繰り返すのは、そのためです。Soft Bondage は、Fantasy の第二階層に位置する専門的な体験として公表されており、合意された軽い拘束、期待感、そして穏やかに取り決められた力関係の演出として記述されています。

公表されている要素は、順序としてではなく、事前に合意されうる可能性として述べられています。合意した場合の目隠しやソフトな拘束、訓練の範囲内での軽いロープや手首・足首の拘束、導かれた姿勢、感覚的な待ち受け、やさしいリード、ゆっくりとした触れ合い、そしてアフターケア。公表されている流れは、詳細な境界線の話し合いと、中止の合図の確認を、その夜のほかのすべてより前に置いています。

公表されている除外のほうが重要であり、ここでは同じ分量で並べます。呼吸の制限と首への圧迫は、この形式の外です。範囲外の高リスクまたは上級の技法は含まれません。不意の拘束と、前提とされた同意は含まれません。そしてこの家は、この形式をあえてハードなBDSMとしては位置づけていない、とページ自体に明記しています。これは謙遜ではなく、範囲の宣言です。

それを越えるものは、ここでは提供されていませんし、このページが含意してもいません。この家は自らを学校として提示せず、技術を教えず、資格について述べた節で挙げた種類の資格を持ちません。持てるようなその種の資格が、そもそも存在しないからです。

そして、ここまで報告してきたすべてに対して、この家が取る立場について。この家は、この分野を国際的に、注意深く読み、その分野が積み上げてきたものを、ここでの一夜の運び方に反映させています。交渉が何よりも先に来るという頑固さ。書面にされた範囲。言葉が働かないときに働く合図。終わりを任意のものとして扱うことへの拒否。ある実践に学ぶことは、その実践を行うことではありません。この家は、報告した内容を自分が行っているとは主張しませんし、報告の分量から、そこに記されたものが提供されていると推測されるべきでもありません。これは、ある国やある文化が何を決めたかを報告するとき、この書庫がほかの場所でも用いている規律と同じものです。その決定を記述し、ここで行われていることに接続し、そして、この家がその場所であるかのようなふりはしません。

そして利害を、冒頭と同じく末尾でも、自らに逆らうかたちで述べ直します。この領域で商いをする家は、このページが数千語をかけて作り出してきた、まさにその印象から利益を得ます。この分野には整った語彙があり、機能する構造があり、管理できる危険がある、という印象です。それらは実際にあります。同時にこの分野には、規制機関がなく、登録簿がなく、確認できない経験の主張があり、そして同意についてもっとも注意深く語るその共同体の内側に、記録された同意の失敗の比率があります。どちらの半分も本当です。そして後ろの半分こそ、この家が印刷することで損をする半分です。

  • 研究が示していること
  • 安全と限界

このページのどこにも、医療的、臨床的、心理的な主張はありません。ここにあるものは、何かを治療し、癒し、調整し、修復し、処理したりはしませんし、誰の診断も行いません。これはトラウマに取り組むための道ではまったくなく、そのように用いられてはなりません。この主題が、好奇心ではなく苦痛をともなって訪れているのであれば、適切な先は資格をもつ精神保健の専門家です。この家には、逆を勧めることに明白な商業的利害があります。だからこそ、この勧めを脚注に畳み込まず、独立した一段落として印刷しています。

確かめられなかったことは、主張していません。日本についての有病率にあたる数字は見つかりませんでした。信号機の慣習には記録された単一の起源がなく、ここでは歴史としてではなく慣習として報告しています。ハードリミットとソフトリミット、ドロップ、そして役割の語彙は、成文化された基準ではなく共同体の慣習であり、本文でもそう明示しています。二〇一二年の調査の数値は、権利擁護団体が集めた自己選択の標本を記述するものであって、人口比ではありません。ドロップの生理学的な機序については、確立したものが見つからなかったため、主張していません。

市場についての記述は、複数の国における、公開されている実践者の資料と共同体の文書から報告したものです。それは繰り返し現れる形式の記述であって、割合の記述ではありません。どの形式がどれほど一般的か、何人が利用しているか、それが誰に何をもたらすかについて、主張は行いません。どの事業者の名前も挙げず、案内もせず、推奨もしません。そして、ある形式を記述することは、それを是認することではありません。具体的な金額が現れないのは、市場をまたいで確認できたものがなかったためです。

本文で挙げた研究は次のとおりです。Richters、de Visser、Rissel、Grulich、Smith(Journal of Sexual Medicine、二〇〇八年)。Sagarin ら(Archives of Sexual Behavior、二〇〇九年)。Ambler ら(Psychology of Consciousness、二〇一七年)。Sprott と Randall(Journal of Positive Sexuality、二〇一六年)。そして、Wright、Guerin、Heaven による二〇一二年の調査は、二〇二三年に Journal of Sex and Marital Therapy に掲載された、キンクに関する臨床指針での報告によります。述べた診断上の変更は、米国のマニュアル第五版(二〇一三年)のものと、国際分類の第十一版に向けて準備された勧告です。いずれの知見も、効果としてではなく関連あるいは提案として報告しており、ここに名前の挙がる研究者、学術誌、団体のいずれも、この家を推奨しておらず、その存在を知りません。

SSCとRACKについての記述は歴史的なものであり、両者の対立は、決着したものとしてではなく、対立として報告しています。このページは、どちらの枠組みが正しいかについて立場を取りません。どちらを採るべきか教えてほしいと思った読み手は、意図的に断られています。この領域において結論を手渡されることこそ、このページ全体が反対している習慣だからです。

日本の制度についての記述は、公表されている法令を説明したものであり、法的助言ではなく見取り図です。この家を含め、いかなる事業者についても適法性の主張は行いません。この家が提供しているものについての記述は、公表されている体験のページがすでに述べている内容——除外を含みます——を述べ直したものにとどまり、それを越える何かの申し出として読まれるべきではありません。

そして最後に、このページ全体を一文にしたものを。これを検討している女性は、欲望ではなく、使える語彙と一組の問いを持って立ち去る権利があります。もしひとつだけ持ち帰るとすれば、役に立つのはこれです。条件を定めるのは、「行われないことの一覧」を書いた側の人間である、ということ。

Moonlightは、伝統がそれ自身をどう説明しているか、研究が何を支え何を支えていないか、日本の制度がその言葉をどう扱っているか、そしてこの家が実際に何を提供しているのかを、混ぜずに分けて示します。上の各セクションには、それがどの視点から書かれているかのラベルが付いています。ここには治療、診断、リハビリテーションの主張はなく、特定の症状に対して手技を勧めることもしません。体調に関わる判断が必要なときは、資格を持つ専門家にご相談ください。