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『夫のちんぽが入らない』が問い直す、「できる夫婦」が普通なのかということ

性交がうまくいかないことと、夫婦としてつながれないことは同じではない。こだまの私小説から考える、痛み、羞恥、普通という圧力、そして「親密さ」を一つの行為に閉じ込めないための視点。

  • セックスレス
  • 痛み
  • 結婚
  • 「普通」という圧力
  • 親密さ

タイトルだけを見ると、とても直接的な本です。

けれど、こだまの『夫のちんぽが入らない』が長く読まれてきた理由は、身体的な問題そのものより、その問題をめぐって二人が抱える沈黙と、「普通の夫婦ならできるはず」という圧力を描いたからではないでしょうか。

講談社は本作を、恋人になった二人が身体の関係を結ぼうとしたとき「入らない」という問題に直面しながら、その後も精神的な結びつきを深めて夫婦になる物語として紹介しています。

そこにある問いは、かなり根源的です。

夫婦を夫婦にしているものは何なのか。

この記事では、この本を「性の悩みの解決本」としては読みません。解決していないからです。二十年近く解決しないまま、それでも関係が続いた記録として読みます。その読み方をすると、この本は助言の書が届かない場所を照らしてくれます。

「できない」が、人格の評価に変わるとき

身体のことは、本人の努力で何とかできる問題として扱われがちです。

もう少し我慢すれば。 もっとリラックスすれば。 正しい方法を試せば。 相手を愛しているなら。

そうして、一つの身体的な困難が、いつの間にか「女性として足りない」「妻として失格なのでは」「相手を満たせない」という自己評価へ変わっていくことがあります。

この移動は、静かで、速い。

はじめは「この行為がうまくいかない」という事実だけだったものが、数か月のうちに「私はそういう人間だ」という結論に置き換わります。行為についての言葉が、人格についての言葉になる。そして人格についての言葉は、行為ほど簡単には訂正されません。

本作で苦しいのは、単に性交が成立しないことではありません。

「普通ならできる」という基準が、二人のあいだに第三者のように入り込んでくることです。その第三者は誰かの顔をしていません。実在の親でも医師でも友人でもない。想像された、平均的な、名前のない夫婦です。

「入らない」という日本語

タイトルの動詞は自動詞です。

「入らない」には主語としての加害者がいません。誰かが失敗したとは書かれていない。英語の won't fit も同じで、責任の所在をぼかしたまま、ただ起きていることだけを述べています。

言葉の形としては、これはとても正確です。実際、この困難は誰かの落ち度ではありません。

問題は、その正確な言い方が日常の日本語にほとんど存在しないことです。

この領域について話そうとすると、選択肢は限られます。医学の言葉を使うか、露骨な言葉を使うか、あるいは何も言わずに婉曲へ逃げるか。中間がない。

中間の語彙がないということは、診察室の登録か、ポルノの登録でしか話せないということです。どちらも、夫婦が寝室で使うには適しません。だから黙る。黙ることが選ばれているのではなく、話すための言葉が用意されていないだけ、ということがあります。

もう一つ、日本語の側の事情があります。

「夫婦」という語には、結婚していない形がありません。英語の couple は婚姻を含みませんが、夫婦は定義として婚姻を含みます。だからこの本の中心にある問い——夫婦を夫婦にしているものは何か——は、日本語では自動的に「結婚とは何か」という問いに直結します。性の問題が、制度の問題に接続されてしまう。逃げ場が一つ少ない。

名前をつけないという選択

読んでいるあいだ、読者はどこかで診断名を探しています。

これには名前があるはずだ、と。

作品はそれを与えません。原因も特定しないし、治療の物語にもしない。

これは書き手の無知ではなく、選択だと思います。名前をつけた瞬間、一つの人生が一つの症例になるからです。症例には経過があり、予後があり、成功と失敗があります。そこに乗った時点で、その人の二十年は「治らなかった二十年」として要約されてしまう。

ただ、公平に言えば、逆の人もいます。

名前がついて初めて楽になる人。「私が弱いのでも、努力が足りないのでもない。これには名前があって、同じ人が他にもいる」と知ることが、いちばん効く救いである人。その人にとっては、名前をつけない態度は救いではなく孤立です。

だからこの本の拒否は、万人への処方ではありません。一人の書き手が自分の物語について下した判断です。読む側は、自分にとって名前が檻なのか手すりなのかを、自分で決めていい。

痛みは、証明のために耐えるものではない

親密さについて考えるとき、ここは大切な境界線です。

痛みがあるのに続けることを、愛の証明にしてはいけません。

痛みには、二つの種類があります。

一つは症状としての痛みです。身体が何かを伝えている。これは医療の領域で、適切な診察と相談につながる選択肢があります。

もう一つは、証明として耐えられている痛みです。痛いかどうかではなく、「痛くても続けられるかどうか」が愛情の指標になってしまっている状態。ここでは、身体が出している情報を、関係のほうが握りつぶしています。

この二つは同時に起きることがあります。だから難しい。

身体的な痛みや性交の困難にはさまざまな原因があり、強い痛みや持続する問題がある場合には、自己判断だけで抱えず、適切な医療や専門的な相談につながる選択肢があります。相談することは、失敗を認定することではありません。

Moonlightが扱えるのは医療ではありません。

だからこそ、この作品から受け取りたいのは「どうすればできるようになるか」という技術ではなく、「できないことによって人の価値が下がるわけではない」という視点です。

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一つの行為に、全体を支えろと言う。

沈黙する夫と、行き場をなくす怒り

この本で読んでいていちばん静かに苦しいのは、夫が責めないことです。

彼は要求しない。責任を問わない。出ていかない。

普通に考えれば、それは救いです。実際、救いでもあります。

けれど同時に、それは怒りの行き先を消してしまいます。

責められれば、怒れます。理不尽な相手には抵抗できるし、抵抗すれば少なくとも自分は被害者の側に立てる。責められないと、その位置がありません。誰も自分を責めていないのに苦しいなら、苦しみの原因は自分の中にしかない、という結論に追い込まれていきます。

優しさが恥を深めることがある。これは、関係についての助言の中でほとんど語られません。

パートナーの側にとっての含意は、はっきりしています。「気にしていないよ」と言うだけでは足りない、ということです。それは相手を一人にする言い方になりうる。必要なのは、何を一緒に引き受けるつもりなのかを言葉にすることです。

「これは君の問題じゃない」ではなく、「これは私たちが一緒に持っているものだ」。

主語が変わるだけで、負担の置き場所が変わります。

相談室からは見えないもの

前の二本で、二冊の本を扱いました。

エミリー・ナゴスキーは、身体は脅威が減ったときに開く、と書きます。ブレーキを外せ、と。

エステル・ペレルは、すべてが安全になった場所では欲望が静かになる、と書きます。距離を作れ、と。

どちらも臨床の観察です。そして前回書いたとおり、相談室のサンプルには偏りがあります。相談室には、うまくいっている関係も、すでに諦められた関係も来ません。

こだまの本は、その二つの助言がどちらも効かなかった生活の記録です。

安全はありました。夫は脅威ではありません。距離もありました——というより、距離は最初から強制的に存在していました。それでも身体は変わらなかった。

そして、関係のほうが変わりました。

助言の書は、たいてい「変えられる身体」を前提にしています。この本が書いているのは、変わらなかった身体と、それでも二十年続いた関係です。

一例は統計ではありません。この本から一般則を引き出すことはできない。

けれど一例は、助言が届かない領域が実在することの証明にはなります。「この方法で解決します」という文章の外側に、解決しなかった人たちの生活があって、その生活も生活である、ということ。それを見せるのが、臨床ではなく私小説にできる仕事です。

二十年という時間

助言の書には、暗黙の時間軸があります。

数週間。長くて数か月。演習をして、会話をして、試して、改善を測る。

この本の時間軸は、年です。二十年近く。

この落差は、実際に効きます。

数か月で解決する前提で書かれた言葉を、何年も続いている困難に当てると、残るのは「自分は遅れている」という感覚だけです。渡されていない時計で、自分の速度を測ることになる。

長く続く困難には、別の問いが必要です。「いつ終わるか」ではなく、「終わらないとしたら、この関係はどう組み立てられるか」。

前者は希望の問いに見えて、実際には毎年更新される失望の装置です。後者のほうが冷たく聞こえて、生活には使えます。

性交は、親密さの唯一の中心ではない

大人の関係では、性交が重要な意味を持つ人もいます。

その事実を薄めるつもりはありません。ある人にとっては、それが関係の中心にあり、なくなれば本当に何かが失われます。

一方で、親密さはそれだけではありません。

話すこと。 一緒に眠ること。 手をつなぐこと。 相手の疲れに気づくこと。 恥ずかしいことを言えること。 触れない日にも安心できること。 「今日はやめておく」が、関係全体の審判にならないこと。

最後の一つは、意外に大きい。断ったときに何が起きるかが、断る前から分かっている関係は、それだけで呼吸がしやすくなります。

身体の関係がうまくいかないとき、こうしたものまで「不完全な夫婦」という言葉で消してしまうのは、とても乱暴です。

『夫のちんぽが入らない』が静かに示すのは、二人の関係が「入る/入らない」の二択では説明できないということです。二択で説明できないものを二択で採点しているから、点が低く出る。問題は関係ではなく、採点表のほうにあることがあります。

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一点で保たれていたことなど、はじめからない。

「普通」という言葉は、誰のためにあるのか

この作品には、性だけでなく、仕事や社会生活の中でも「普通」に合わせられない苦しさが流れています。

普通に働く。 普通に結婚する。 普通に夫婦生活を送る。 普通に幸せになる。

「普通」は、人が安心するための目安にもなります。

でも、自分を採点するための物差しになった瞬間、かなり残酷です。

注意して読むと、この本には「普通」を強制してくる制度上の人物がほとんど出てきません。跡継ぎを迫る親のような、分かりやすい加害者がいない。圧力の出所は、ほとんど想像です。

自分で自分に課す普通が、いちばん効率がいい。監督者が要らないからです。誰も見ていない時間にも作動しますし、反論する相手もいません。

特に性や親密さは、他人の生活が見えにくい領域です。

見えないからこそ、みんなは自然にできているように感じる。

自分だけが遅れている、壊れている、足りないと思いやすくなる。

周囲からの「子どもができれば変わる」という善意の予測も、同じ装置の一部です。それは解決の提案に見えて、実際には「今の状態は解決を要する」という判定を毎回配り直しています。

実際には、親密さの形も、欲望の強さも、身体の反応も、関係の作り方も人によって違います。比較をやめるのは難しい。ただ、比較している相手が実在しないことには気づけます。あの「普通の夫婦」を、誰も見たことがない。

同じ場所にいる人に、実際に役立つこと

読み物としてではなく、いま同じ状況にいる人にとって使えることを書きます。

一つ目。症状としての痛みは、医療へ。 相談することは、努力が足りなかったという認定ではありません。むしろ逆で、原因が分かるかどうかにかかわらず、痛みを一人で抱える期間を短くします。

二つ目。主語を変える。 「あなたが入らない」ではなく「私たちにこの状況がある」。これは言葉の遊びではありません。困難を一人の欠陥として置くか、二人が持っている条件として置くかで、その後に取れる行動の数が変わります。一人の欠陥は治すしかない。二人の条件は、組み立て直せます。

三つ目。成功の定義を、外から借りない。 何ができたら今日はよかったのか。それを二人で言葉にしてある関係は、うまくいかない日にも壊れません。定義がないと、既定値として世間の定義が入ってきます。

この三つは、どれも「できるようになる」ことを目指していません。目指していないことが、この三つの効き目です。

「できるようになる」以外の出口

悩みがあると、私たちは解決を急ぎます。

できなかったことをできるようにする。

それが本当に本人の望みで、安全に取り組めることなら、その選択は大切です。専門的な支援によって状況が変わる人もいます。

でも、もう一つの出口があります。

何を成功と呼ぶかを、自分で決め直すこと。

性交が成立することだけが親密さの成功なのか。 頻度が多いほど愛が深いのか。 夫婦なら同じ欲望を持たなければいけないのか。 一つの行為が難しいと、その結婚は本物ではなくなるのか。

その前提を問い直すだけで、見える景色が変わることがあります。

これは諦めとは違います。諦めは、望んだものが手に入らないまま望み続けるのをやめることです。定義の変更は、そもそも何を望んでいたのかを見直すことです。多くの場合、望まれていたのは特定の行為ではなく、その行為が意味するとされているもの——受け入れられていること、選ばれていること、拒まれていないこと——のほうでした。

この記事が、この場所にあることについて

ここで一つ、正直に書いておきます。

触れ合いを扱う場所が「性交だけが親密さではない」と言うのは、都合がよすぎます。利害があるからです。この主張は、そのままMoonlightの営業文句にもなりうる。

だから、はっきりさせます。

身体的な困難や持続する痛みがある場合、行き先は医療であって、ここではありません。Moonlightは治療ではないし、治療の代わりでもありません。この記事は、専門的な相談を先延ばしにするための材料として使われるべきものではない。

この本から受け取りたいのは、サービスの根拠ではなく、判断の枠組みです。

自分の身体に起きていることと、自分の価値についての結論を、分けて置いておくこと。前者は変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。後者は、前者に連動しなくていい。

親密さを、一つの正解から解放する

Moonlightがこの作品から受け取りたいのは、性の問題をサービスへ結びつけることではありません。

むしろ逆です。

何かが「普通にできない」と感じたとき、すぐ自分を直そうとする前に、どんな親密さなら自分にとって本当に意味があるのかを考えてみる。

触れ合い。 会話。 安心。 官能。 距離。 ファンタジー。 何も求めない時間。

この本が二十年かけて示したのは、関係は一つの行為の上にだけ立っているのではない、ということでした。立っていられた理由は、二人が別の場所に体重を分けたからです。

What Is Tantra? と Journalでは、親密さを一つの行為や一つの速度に限定せず、その人の身体と境界線から考えていきます。

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