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Moonlight Journal

女風、恋人代行、プライベートコンパニオン。その「あいだ」に、どんな需要があるのだろう。

それらの名前は、業界がどう組織されているかを記述しており、人が何を必要としているかを記述していない。実際に変わるのは二つのものの比率である。どれだけ正確に知られるか、そして相手の応答がどれだけ予測できるか。それが買い物の問いを使える問いに置き換える。私は二つのうちどちらを欠いているのか。そしてそれが、供給の地図を調べることが、それに決して答えないための、生産的に感じられる仕方になりうる理由を説明する。

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検索するとき、人は必ずしも自分にぴったりの言葉を知っているわけではありません。

「女風」と検索する人もいれば、「恋人代行」「レンタル彼氏」「彼氏代行」「男性コンパニオン」「デート相手」と入力する人もいます。もっと曖昧に、「誰かと話したい」「恋人はいらないけどデートしたい」「安心して触れ合いたい」と、文章のまま探す人もいるでしょう。

言葉は違っていても、その奥にある希望が一部重なることがあります。

そして重なり方は、業界の側が引いた線とは、必ずしも一致していません。

名前が示すのは、供給の地図であって、需要の地図ではない

業界の名前は便利です。ある程度、何が提供されるのかを予測できます。料金体系や時間の使い方、出会い方も想像しやすくなります。

ただ、その地図が描いているのは、事業者の側がどう組み立てているかであって、利用する人が何を必要としているかではありません。

たとえば、いくつかの言葉を並べてみます。

「女性向け風俗」「女風」は、女性を対象とした性風俗サービス全般を指す言い方として広まりました。身体的な接触を前提に構成されていることが多く、時間と料金が明確です。

「恋人代行」「レンタル彼氏」「彼氏代行」は、恋人という役割を一定時間、演じてもらう形を指します。外出やデートが中心で、身体的な親密さを含まない設計のものも多くあります。

「プライベートコンパニオン」は、日本ではまだ耳慣れない言い方かもしれません。会話、同行、時間の共有を、私的で慎重な条件のもとで受け取るという意味合いが強い言葉です。

「疑似恋愛」は、サービス名というより、体験の説明として使われます。

こうして並べると、線がはっきりしているように見えます。

実際に区分を分けているのは、たいてい四つの条件です。どこで会うか。何時間か。身体的な接触を前提に組まれているかどうか。そして、その日の流れを主に決めるのがどちらか。名前が違っても、この四つが近ければ体験は似ますし、名前が同じでも、四つが違えばまったく別の時間になります。

けれど実際には、「女風」と検索した人が求めているのが、必ずしも身体的なことだけとは限りません。注目されること、安心すること、久しぶりに緊張すること、遠慮なく希望を口にできる環境。そのどれかが中心にあることもあります。

「恋人代行」を探している人が、本当に恋人を演じてほしいとは限りません。気を遣いすぎずに誰かと外出したい、というだけのこともあります。

そして「プライベートコンパニオン」という言葉を一度も見たことがなくても、明確な時間と境界線の中で、会話と親密さを持てる相手を探している人はいます。

言葉を知らないことと、必要としていないことは、別のことです。

共通しているのは、意図してつくられた一時間があること

これらの区分にひとつ共通点があるとすれば、出会いが偶然ではないということです。

誰と会うか。 どのくらいの時間を過ごすか。 何を望んでいるか。 どこまでが心地よいか。

普通の恋愛では、こうしたことは関係が進みながら、少しずつ分かっていきます。分からないまま進むことも多い。

設計された時間では、順序が逆になります。最初に確認することが、失礼ではなく前提になる。

この違いは、思っているより大きいかもしれません。

日常の関係の中で「私はこれが苦手です」と伝えるには、たいてい理由の説明が要ります。相手の気分を損ねないための前置きも要ります。伝えたあとで、関係がどう変わるかという心配も残ります。

明確さが前提になっている時間では、その負担が減ります。

減るのは、望みを言う負担だけではありません。望まないことを言う負担も、同じだけ減ります。むしろ後者のほうが、日常では言いにくい。

その静かな軽さを、安心と呼ぶ人がいます。

これらの提供を実際に分けているもの

名前が供給の地図であるなら、その供給が実際に何に沿って変わるのかを言う価値があります。範疇の名そのものがそれを隠しているからです。

異なる比率で供給されているものが二つあります。一つめは、どれだけ正確に知られるか。相手が自分について真で今の情報を抱えているのか、それとも役に関わっているのか。二つめは、その応答がどれだけ予測できるか。明かしたものが何に使われるかを見通せるか、そしてその取り決めが転じ、悪く終わり、あるいは同意していない請求を帯びうるか。

そう並べ替えると、その範疇たちは趣味の問いであることをやめ、実務の問いになります。

役を演じる借りられた同伴者は、きわめて高い予測可能性と、ほぼ皆無の正確さを供給します。それはそれへの批判ではありません。よく演じられた役は、そのなかで自分について何も賭けられていないからこそ安らぎます。そして評定されることに疲れた人にとって、自分が主題でない一時間は持つ値があります。

長く続く私的な取り決めは反対の形です。時とともにそれは現実の正確さを蓄えます。誰かが実際に自分が変わるのを見ているからです。それが手放すのは予測可能性です。そこには感情が入っており、終わりうるし、そして誰も書き留めなかった請求や非対称を育てうる。

区切られ、述べられた一晩は第三の位置にあります。予測可能性はほぼ全面的で、正確さは小さく、しかし演じられたものではなく真正です。そこで言うことは真であり、ただそのほとんどが蓄積しないだけだからです。

それが読者に、買い物の問いに代わる使える問いを与えます。このうちどれが品位があるか、どれが関係にもっとも近いかではなく、こうです。私は二つのうちどちらを実際に欠いているのか。予測可能性を欠いている人と、知られることを欠いている人は異なるものを必要とし、そしてその範疇たちは、その下にある変数が名づけられないあいだだけ紛らわしいのです。

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分類は供給の地図であって、必要の地図ではない。

恋人らしさを望むことと、交際を望むことは違う

誰かと食事をする。手をつないで歩く。話を最後まで聞いてもらう。少し照れるような距離で見つめられる。日常から離れた時間を一緒に過ごす。

こうした体験には、たしかに恋人らしさがあります。

でも、恋人らしい時間を望むことと、実際に交際関係を築きたいことは、同じではありません。

ここを区別できると、「疑似恋愛」という言葉も少し違って見えてきます。

偽物の恋愛、という意味ではなく、恋愛の中にある感覚のいくつかを、限られた時間の中で選んで体験すること。約束の重さを引き受けずに、感触のほうを受け取ること。

そう捉えたほうが、実際の気持ちに近い人もいるでしょう。

そして、この区別は誰かをごまかすためのものではありません。むしろ逆で、区別がついているほうが、期待の置き場所を間違えにくくなります。

官能もファンタジーも、同じ帯の上にある

親密さには幅があります。

話すだけの日もある。出かけたい日もある。寄り添いたい日もある。少し官能的な時間を求める日もある。普段の自分とは違う役割を試してみたい日もある。

それらをすべて別々の人格、別々の業界として扱う必要はない、とMoonlightは考えています。

同じ人の中で、日によって必要なものが変わる。それは矛盾ではありません。

重要なのは、何を望むかだけではありません。

何を望まないか。 どんな速度がいいか。 どんな雰囲気なら安心できるか。 途中で気持ちが変わったら、どうなるか。

親密さは、内容よりも、扱われ方によって大きく変わります。

同じ行為でも、条件が違えば、まったく別の記憶になります。

なぜ、この検索が今、日本で起きているのか

需要の形は、その社会の形と無関係ではありません。

日本で働く多くの女性にとって、時間は自分だけのものではありません。勤務時間の外側に、家事、介護、家族の予定、人間関係の維持が積み重なります。無償の労働が偏っていることは、繰り返し指摘されてきました。

そこに、恋愛の手続きが加わります。

マッチングアプリでのやり取り、時間をかけた見極め、うまくいかなかったときの消耗。恋愛が楽しみではなく、もう一つの業務のように感じられることがあります。

結婚している人の中にも、別の静けさがあります。関係は続いていても、触れ合いや会話が長く止まっている場合があります。それを誰に相談するのかという問題も残ります。

そして、discretion——慎重さ——の要請があります。

日本の多くの職場や地域では、私生活の話が、思っているよりも早く広がります。都心から離れた住宅地ではなおさらです。さいたま市やその周辺のように、通勤圏でありながら生活圏としては小さいところでは、匿名でいられる範囲が限られます。

だから、「誰にも知られずに、きちんと扱われる時間がほしい」という希望が生まれます。

これは特別な願いではありません。ただ、既存の恋愛の枠組みでは、かなえにくい形をしているだけです。

年齢によっても、形は変わります。二十代の「出会いがない」と、四十代の「もう説明するのが面倒だ」は、同じ言葉では語れません。前者は選択肢の問題であることが多く、後者はしばしば、自分の事情を最初から共有し直す労力の問題です。長く生きるほど、説明しなければならない前提が増えます。何も説明せずに済む時間の価値は、そのぶん上がっていきます。

ここで注意しておきたいことがあります。日本の女性を一つの集団として語ることはできません。年齢、地域、収入、家族の形、健康、性的指向によって、事情はまったく違います。ここに書いたのは、いくつかの典型的な圧力であって、誰かの人生の説明ではありません。

日本で暮らす、外国出身の女性にとって

日本で暮らす外国出身の女性には、また別の層が重なります。

第一に、言葉の問題があります。日常会話に不自由がなくても、感情の細かいところを母語以外で言うのは難しいものです。「嫌ではないけれど、今日はそういう気分ではない」——この程度の機微が、うまく伝わらないことがあります。

第二に、距離の問題があります。家族が遠く、長い友人関係が別の国にあると、日常の中で気軽に触れ合う機会そのものが減ります。孤立は、寂しさとは少し違う形で現れます。

第三に、扱われ方の問題があります。外国出身であることが、そのまま好奇の対象になることがあります。関心を向けられているようで、実際には一つの属性だけを見られている、という経験は少なくありません。

だから、求められているのは「日本の文脈を理解していて、なおかつ国際的にも通じる形の親密さ」であることが多いのです。

どちらか一方では足りない。日本の作法だけでも、海外の率直さだけでも、届かない場所があります。

もし、この読み方が間違っているとしたら

ここまでの説明は、いくらか都合がよすぎるかもしれません。

反対側から見てみます。

明確さは、たしかに負担を減らします。しかし、恋愛の価値の一部は、まさにその不確実性の中にあるという見方もあります。相手がどう応えるか分からないまま差し出すこと。断られる可能性を引き受けること。そこにしか生まれない種類の信頼がある、という考え方です。

条件を先に決めた時間は、その危うさを取り除きます。取り除いたぶん、何かが軽くなる。同時に、何かが手に入らなくなるかもしれません。

もう一つ、より厳しい指摘があります。

対価のある関係では、相手が断る自由の形が変わります。プロフェッショナルとしての境界線は当然あり、Moonlightもそれを明確に置いています。それでも、日常の関係で相手が「今日はやめておく」と言うときの自由とは、同じではありません。この非対称は、丁寧に運用することで小さくできても、消えるものではありません。それを消えたことにするのは、誠実ではないと考えています。

三つ目に、業界の側の動機があります。

こうした事業には、あらゆる感情を「自分たちが応えられる需要」として説明したくなる誘因が、構造的に存在します。寂しさも、疲れも、好奇心も、すべてサービスの入口として描くことができてしまう。この記事自体が、その誘因の中で書かれています。

だから、「今、何が必要か」という問いは、優しく響く一方で、避けることを肯定する装置にもなり得ます。向き合ったほうがいい関係から目をそらす理由に、この言葉が使われることもあるでしょう。

四つ目に、この記事自身の枠組みへの反論があります。

「すべては同じ帯の上にある」という言い方は、実際に存在する違いを平らにしてしまう危険があります。会話を求めていた人が、身体的な接触を前提とした場に行き着いてしまうことは、起こり得ます。連続性を強調する語り方は、その移動を自然なことのように見せてしまいます。

だから、帯という言い方をするなら、その上のどこにいるのかを、毎回はっきりさせる責任が事業者の側にあります。曖昧さを出発点にしてよいのは、途中で曖昧なまま進まないという前提があるときだけです。

私たちは、これらの可能性を否定しません。

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共通しているのは、誰かが意図してつくった一時間だ。

分かることと、分からないこと

この領域について、確かなことは思っているより少ないものです。

女性向けのこうしたサービスの利用者数について、信頼できる公的統計は存在しません。事業者が公表する数字は、営業上の目的を持っています。

検索の多さは、関心の量を示しますが、必要の量を示すわけではありません。調べることと、利用することのあいだには、大きな距離があります。

体験談は貴重ですが、話す人は話せる状況にある人です。話さない人の経験は、そこには含まれていません。

この記事の中で、心理や社会構造について書いたことは、解釈です。診断でも、測定された事実でもありません。無償労働の偏りのように、公的な調査で繰り返し確認されている事柄と、私たちの読み取りは、区別して読んでいただくのが正確です。

そして、この記事は法的な定義ではありません。ここで挙げた業界名がどのような規制の下にあるかは、それぞれ別の問題です。同じ言葉で語ったからといって、同じ内容だという意味ではありません。

名前があなたに代わって答えられない問い

この種の読みには罠があり、そしてこの文章がそれを仕掛けうるので、それを名づけるべきです。

供給の地図を調べることは没入させます。理解すべき区別がつねにもう一つあり、位置づけるべき言葉がもう一つあり、何かが本当は何を伴うのかについての説明がもう一つある。そしてそれはほとんどつねに、もう一方の問いより易しいのです。その問いとは、自分が一時間に何を含んでほしいのか、です。

その非対称は見ておく価値があります。範疇を調べることが、需要の問いに答えないための仕方として、しかも生産的に感じられながら働きうるからです。人は手に入るあらゆる取り決めについてよく知るために何ヶ月も費やし、そして自分が何を欠いているかを知ることに少しも近づかないままその月々を終えられます。

そして需要の問いが難しいほうであるなら、その理由はふつう回避ではありません。この図書室は、何もないところから望みを述べることが難しい作業であり、提案に応じることがはるかに易しいと繰り返し論じてきました。つまり通り抜ける道は、より多くの読書でもより多くの内省でもありません。

自分が近づく相手に、発しはじめることをさせることです。具体的な提案を求め、そしてそれを修正すること。述べられた形——これが長さで、これがその一時間が何から成るかで、これがその一部ではないもの——は、即座に正確に反応できるものであり、そしてあなたの反応が、調べることによって生み出そうとしていた情報そのものです。

だから実務の順序は、直観の順序の逆です。尋ねはじめるために、自分が何を望むかを知っている必要はありません。それが自分に向けて記述されたときにそれと分かれる必要があるのです。そしてそれはほとんど誰もができることであり、そしてどれだけ名前を見比べても決してその代わりにはなりません。

Moonlightの立場

Moonlightには、女性向け風俗や女風、恋人代行、レンタル彼氏、プライベートコンパニオン、疑似恋愛、デートサービスと重なる部分があります。

でも、それだけに限定することはしたくありません。

一つ、はっきり述べておきたい考えがあります。

この領域では、「本物の親密さ」と「代わりの親密さ」を分ける語り方がよくされます。私たちは、その分け方をとりません。

一時間のあいだ実際に注意を向けられ、実際に話を聞かれ、実際に丁寧に扱われたなら、その時間に起きたことは本物です。続かないことと、偽物であることは、違います。

同時に、その時間が人生の代わりになるとは考えていません。誰かとの関係を修復したい人には、修復のほうが要ります。医療や心理の支援が必要な状態であれば、そちらが先です。私たちには、扱える範囲があります。

関係の名前から選ぶのではなく、「今、何が必要か」から時間を組み立てる。

それが、Moonlightがこの区分の「あいだ」にいたい理由です。

自分の言葉から始める

まだサービス名を選べなくても大丈夫です。

「誰かと話したい」でも、「デートがしたい」でも、「少し親密な時間がほしい」でも、「自分でもよく分からない」でもいい。

もし、いま考えてみるとしたら、こんな問いが手がかりになるかもしれません。

最後に、何かを説明せずに一緒にいられたのは、いつだったか。

自分が望まないことを、前置きなしに言えたのは、どんな相手だったか。

「触れられたい」と「話を聞かれたい」は、自分の中で同じ場所にあるのか、別の場所にあるのか。

答えが出なくてもかまいません。問いのほうが、業界名より正確なことがあります。

Guided Discoveryでは、その曖昧さをそのまま出発点にできます。

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