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ウェルビーイング

誰もが教わったモデルは、望むことを最初に置きます。だからそれがひとりでに訪れることのない人は、この過程全体が自分には閉ざされていると結論します。少なくとも同じくらいよくある第二の順番があります。そこでは欲望は、高まりの前ではなく、あとに現れます。そしてその説明に照らせば、彼女はごくふつうの人であり、抱えているのは欠陥ではなく段取りの問題です。

とても多くの女性が、一九六〇年代に描かれた一枚の図をもとに、自分のどこかがおかしいのだと静かに結論してきました。その図はこう言います。まず欲しくなる、次に身体が応える、それから何かが起きる。欲望、高まり、解放。その順番で、いくつもの扉が並んでいるように。もしその最初の扉が、ひとりでに開いたことが一度もないなら──どこからともなく突然欲しくなることも、まったく別のことをしている最中に前ぶれなく食欲のようなものが訪れることもないなら──その図に照らせば、あなたはこの過程のいちばん最初を欠いていることになります。

この図は間違ってはいません。部分的なのです。そしてそれが定義と取り違えられてきました。少なくとも女性のあいだでは同じくらいよくある第二のパターンがあります。そこでは扉が別の順番で開きます。そしてその説明に照らすと、自分は壊れていると思っていた人は、ごくふつうの人であり、抱えているのは欠陥ではなく段取りの問題だということになります。

  • 歴史的伝統

マスターズとジョンソンは六〇年代に、生理的反応の四段階の周期を記述しました。のちにヘレン・シンガー・カプランがその前に欲望の段階を加え、いま多くの人が持ち歩いている順序ができあがります。欲望、高まり、オーガズム。当時としては前進でした。そしてこの図には、注目しておく価値のある構造上の特徴がひとつあります。それは、望むことを最初に、点火装置として置いているということです。そこから先のすべてがそれに依存するので、そこが欠けていることは、すべてが欠けていることとして読まれます。

こうして、記述のためのモデルは、誰がそう決めたわけでもないのに診断のためのモデルになります。最初の段階がある過程を図に描けば、その最初の段階を経験しない人は、この過程は自分には使えないのだと、もっともな理由で結論することになります。

  • 一般的なウェルビーイング情報

世紀の変わり目のころ、ロザマリー・バッソンは別の形を提案しました。線ではなく円です。彼女の説明では、多くの女性は欲望からではなく、中立に近いところから始まります。応じる用意はあり、開かれてはいるが、いま何かを特に欲しているわけではない状態から。そこで何かが起きます。近さ、触れること、注意を向けられること。食欲とはまったく関係のない、そこにいる理由かもしれません。身体の高まりが始まります。そして欲望は、高まりのあとに、それへの応答として訪れます。引き金として、その前に来るのではなく。

バッソンのモデルはその後も議論されてきましたし、決着のついた置き換えではなく、影響力のある別の説明として扱うべきものです。けれど、ここで大事な部分は、その議論に勝つかどうかに依存していません。別の順番が存在し、よくあることであり、故障ではない──それだけのことです。とても多くの人が、自分にとっては決して最初には来ないはずの合図を、何年も待ち続けてきました。そしてそれが来ないことから、その先は自分には閉ざされているのだと結論してきたのです。

もしそれがあなたの順番なら、実際的な帰結は大きく、そして少しおかしなものになります。何かを整える前に「その気になる」のを待つのは、失敗が保証された戦略だということです。あなたにとって、その気持ちは整えることの下流にあるからです。段取りをつけることは、欲望がないときの妥協ではありません。それこそが、欲望が組み立てられる過程なのです。

a kitchen table seen close with a sheet of paper on which a straight line and a circle are drawn in pencil, one crossed out, a cup of coffee and an eraser, the dresser close behind and the window soft beyonda kitchen table seen close with a sheet of paper on which a straight line and a circle are drawn in pencil, one crossed out, a cup of coffee and an eraser, the dresser close behind and the window soft beyond
欲望は、高まりのあとに、それへの応答として訪れる。引き金として、その前に来るのではない。

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二つ目の有用な知見は、キンゼイ研究所のジョン・バンクロフトとエリック・ヤンセンによるもので、二重制御モデルと呼ばれます。性的な興奮と性的な抑制は、ひとつのダイヤルの両端ではなく、同時に走っている別々の系である、という考えです。エミリー・ナゴスキによる普及版はこれをアクセルとブレーキと呼びます。うまい言い回しですが、モデル自体は彼女のものではありません。

いったんこれが見えると、市場の姿は奇妙に見えてきます。この領域で売られているもののほとんどは、アクセルに働きかけます。より多くの刺激、より多くの目新しさ、より上手な技法、新しい道具、週末の旅行、下着。ところが、きわめて多くの人にとって、アクセルはもともと問題ではありませんでした。ブレーキがしっかり踏み込まれていたのです。そしてブレーキを踏むのは、華やかさのないものたちです。片づいていない口論、鍵のかかっていない扉、廊下の先で起きている子ども、明日の締切、ベッドから見える洗い物、見られていること、評価されていること、少し寒いこと。

ブレーキが踏まれたままアクセルを強く踏めば、生まれるのは騒音と労力と、失敗したという感覚です。効くほうの介入は退屈で、誰も瓶に詰めて売ることができません。何がブレーキを踏んでいるのかを見つけて、それを外すこと。たいていそれは、情熱ではなく段取りの話です。

  • 一般的なウェルビーイング情報

低い欲望には臨床的な名前があり、承認された薬もあります。フリバンセリンは二度の却下を経て二〇一五年にアメリカで承認されましたが、その効果の大きさをめぐって実際に論争がありました。ブレメラノチドが二〇一九年に続きます。どちらかが特定の人に適しているかどうかは医師と話すことであり、このページはそれについて意見を持ちません。

このページが意見を持つのは、その下にある枠組みの問いのほうです。それが、そもそも何を問題と数えるかを決めてしまうからです。正直な境目は、苦しさです。自分の欲望の水準が自分を苦しめていないなら、平均からどれほど離れていようとそれは疾患ではありませんし、平均は目標でもありません。もし苦しめているなら、ほかの何より先に尋ねる価値のある問いがあります。それは、得られていない何かを自分が望んでいるから苦しいのか。それとも、何を望むべきかを告げられてきたから苦しいのか。この二つは、解決策を売るほとんどの人によって同一に扱われます。そしてそれらは、まったく別の問題です。

  • 日本の社会的文脈

日本は、世界中を回る見出しの数字を生産しています。そしてたいてい、その数字を解釈可能にする唯一の但し書きが剥ぎ取られたまま回ります。日本家族計画協会の調査は、既婚者の四割以上が自分たちをセックスレスだと答える状態をくり返し報告してきました。そしてここでのセックスレスの定義は、一か月以上性的な接触がないこと、です。一か月。一年でも十年でもありません。

定義を数字と並べて述べると、その数字の語ることが変わります。小さな子どもがいて、二人とも働いていて、通勤が長く、義理の家族と壁を共有している夫婦は、忙しい時期にはその境目を越えます。二人のあいだに何か問題があるわけでなくてもです。この四割のうちいくらかは本物の距離であり、心を向ける価値があります。そしていくらかは、定義がふつうの生活を捕まえているだけです。

そして、実際に持ちこたえる部分、そしてここまでのすべてに直結する部分は、ブレーキです。日本の住まいは距離が近く、壁が薄い。労働時間は長く、通勤は現実的な負担です。家事労働の配分は、どの指標で見ても偏っています。そこへ、段取りを担っている可能性のいちばん高い人が、同時に絶えず空気を読むよう訓練されている文化を重ねれば、ブレーキを踏み続けさせる装置としてはほぼ完璧なものができあがります。にもかかわらず、この問題をめぐる会話の全体は、助けにならないほうの、アクセルに固定されたままなのです。

a kitchen seen close with the counter wiped and clear, one bowl in the rack, a folded cloth and a bottle of wine unopened with two glasses beside it, the stove close behind and the doorway soft beyonda kitchen seen close with the counter wiped and clear, one bowl in the rack, a folded cloth and a bottle of wine unopened with two glasses beside it, the stove close behind and the doorway soft beyond
文脈は「本番」の前の感じのよい前置きではない。それが仕組みそのものだ。

  • 一般的なウェルビーイング情報

二つの知見を重ねると、めったに平たく語られないことが導かれます。もし欲望が応答的であり、そして抑制が別の系で走っているのなら、文脈は「本番」の前の感じのよい前置きではありません。文脈こそが、そのことが実際に起きている場所です。

これは、ある種の苦情の一群の意味を組み替えます。まず台所が片づいていないと無理だ、と言う人は、面倒なのでも、ロマンがないのでも、避けているのでもありません。自分のブレーキの状態を、正確に報告しているのです。片づいた台所は、何かを先延ばしにするために発明された前提条件ではありません。それはブレーキがひとつ外れることであり、あとで起きるどんなことにも劣らず、仕組みの一部なのです。

そしてこれは、多くの人が、自分の親密な生活のいちばんよい時間は自宅以外のどこかで起きたと語る理由も説明します。ホテル、旅先、借りた部屋で。よくある説明は目新しさで、目新しさは実在します。けれど、より退屈な説明のほうが、たいてい多くの仕事をしています。その部屋には洗濯物がなく、呼び鈴がなく、壁に予定表がなく、誰かの母親がおらず、決めなければならないことが何ひとつなかった。ブレーキが一斉にすべて外れていて、変わった変数はアクセルではなかったのです。

  • Moonlightにおける用法

このページに照らして読むなら、Moonlightはアクセルではありません。目新しさも技法も強度も売っていませんし、誰の欲望の水準についても主張しません。正確に記述するなら、それは、ブレーキがあらかじめ書面で外されている部屋です。立てるべき計画がなく、決めるべきことがなく、片づけるべきものがなく、読むべき相手がおらず、誰かが待っている結末もなく、終わり方は始まる前に決まっているので、あとから問いになることもありません。

そうした部屋で欲望が現れるかどうかは、要点ではありませんし、約束もしていません。応答的な説明に照らせば、現れることもあれば現れないこともあり、そのどちらもふつうのことです。差し出されているのは、それが可能になるための条件です。そして何年もブレーキを踏み込まれたままだった人にとって、それはおそらく、実際に変えられる唯一の変数だったのです。

ですから、欲しくなるのを待っていて、それが来なかったのなら、待つ扉を間違えていたのかもしれない、と考えてみてください。多くの人にとって最初に開く扉は、欲望ではありません。自分に何も求められていない一時間を、整え終えていることです。望みは、来るとすれば、そのあとに来ます。それは劣った版ではありません。これを読んでいる人のおよそ半分にとって、それははじめから、そういう順番だっただけのことです。

Moonlightは、歴史、現代的解釈、サービスへの応用を混ぜずに分けて示します。このページのどこにも、系譜、伝授、臨床的効果の主張はありません。各セクションには、それが書かれている視点のラベルが付いています。