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『女坂』と、調達係にされた妻
夫の金を持たされて東京へ送り出される。用件は、自分に代わって夫の寝間に入る娘を選んでくることである。屈辱の話として読むのはやさしい。難しいのは事務の話として読むことだ。彼女はただ退けられたのではない。自分が退けられていく過程の管理者にされ、しかもその仕事がきわめてよくできる。その有能さが、彼女以外の全員にとってこの取り決めを成立させ、同時に、誰もその代償に気づかずに済む条件をつくる。ある構造にとって不可欠であることと、その構造のなかに地位を持つこととは、別のことである。
一人の女が、夫の金を荷に入れて汽車に乗る。言いつけられた用件は、はっきりした言葉で渡されている。東京へ行って娘を一人見つけてくること。若く、健康で、相応の家で暮らせる程度の躾があり、金を受け取る事情のある家の娘であること。見立ては任せる、と言われている。任されるのは当然である。夫は自分の目より妻の目を信用しており、そのあとに起こる一切を見れば、その判断は正しい。
この用件の難しさとして誰もが最初に思い浮かべるのは屈辱である。屈辱は現実にある。だがその下にもう一つ、感情とはまったく別種の難しさが敷かれていて、この文章が扱うのはそちらのほうだ。用件をきちんと果たすためには、夫が何を好むかを正確に考えなければならない。夫の目で娘たちを見て、しかも夫より上手に見なければならない。選び損ねれば、その後何年も家が回らなくなるからである。旅のあいだ彼女は、夫の欲望がこれまで持ったことのないほど確実な道具にならなければならない。わざと下手にやることもできない。その結果の内側で暮らすのは、彼女自身だからだ。
これが、一九五七年に東京で世に出た一冊の小説の出発点である。書き手は当時五十代に入ったばかりで、この作品に八年かけていた。妻の名は倫。夫は白川行友、地方長官の書記官である。彼女が選ぶ娘は十五歳で、須賀という。小説はその取り決めが三十年ほどのあいだに関係者の全員に何をしたかを追い、誰がその仕事を引き受けることになるのかについて、驚くほど正確である。
ここで示す読みは、倫が退けられた、という話ではない。退けられることは最初の数十頁で済んでしまう事柄であり、この本のなかでいちばん面白くない部分である。ここで言いたいのは、倫が自分の退けられていく過程の管理者にされたということ、その管理が実にみごとであること、そしてその有能さこそが、家のなかの彼女以外の全員にとってこの取り決めを持ちこたえられるものにしているということだ。これは時代についての主張ではなく、仕組みについての主張である。その区別は重要なので、後半に一節を丸ごと割いて、この文章がこの読みを根拠に何を主張できないかを書く。
読みの前に、記録を置く
作品は円地文子『女坂』である。日本の書誌記録によれば、構想は一九四〇年ごろに始まり、一九四九年から八年をかけて連作長編として書かれた。最初の一篇は一九四九年十一月の『小説山脈』に、のちに改題される題で発表され、以降は主に『小説新潮』に断続的に載った。単行本としてまとめられたのは一九五七年三月、角川書店の新書の一冊としてである。同年の野間文芸賞を、宇野千代『おはん』と分け合って受けている。
この成立の経緯には、飾りではない事実が二つある。一つは、連載中この作品が批評からほとんど無視されたことで、理由は、載っていた雑誌が文芸誌ではなく中間小説誌だったからである。もう一つは、その雑誌を出していた新潮社が、完成した作品の単行本化を断ったことだ。引き受けたのは角川書店で、安価な新書の一冊として出したところ圧倒的な評判を得てベストセラーになり、その後、三島由紀夫『金閣寺』や谷崎潤一郎『鍵』を含む有力候補を押さえて受賞に至った。
英訳は The Waiting Years、訳者はジョン・ベスター、一九七一年に東京の講談社インターナショナルから二百三頁で刊行された。その後、この分野の学術誌で書評の対象になっている。英国ではヴィンテージ・クラシックスの文庫版が版を継いでいる。
円地文子は一九〇五年から一九八六年。上田萬年の次女である。父は東京帝国大学の国語学の教授で、のちに近代国語学の基礎を据えた人物と評される。この事実をここに書くのは彩りのためではない。理由は一つで、この小説の底に流れる古典の素養を説明するからだ。その素養は生涯にわたり、五年半をかけた『源氏物語』の現代語訳に行き着く。全十巻、新潮社、一九七二年から七三年。一九八五年に文化勲章を受章した。日本側の記録は、この小説が母方の祖母の半生を下敷きにしていると伝えている。
以上が記録である。ここから先はすべて読みであり、読みとして明示する。
その地位には公の形がなかった。だから誰かが手で作るしかなかった
この小説を組み立てている事実は、一つ、法律の事実である。そして英語圏の議論では、たいていそこが抜け落ちる。白川家が営んでいる家のなかで、妾という立場は、国家がちょうど公認をやめたばかりの位置にある。
経緯は記録に残っている。明治初年の刑法典である新律綱領は、妻と妾をともに二等親に置いた。両者の権利を等しくしたわけではないが、妾という存在を公に認めた。一八八〇年に公布され一八八二年に施行された刑法からは、妾に関する条項が消える。ただし内務省は、施行前にすでに戸籍に入っていた者はそれまでどおり扱えと指令した。そして一八九八年、戸籍法の改正によって、その語は戸籍の上から消える。同じ年、明治民法が家制度を定め、一九四七年まで続く。家の長は、家のなかの他のどの成人も持たない統率の権限を法律上与えられた。
この二つを並べると、白川家の形が見えてくる。一方には、一人の男に屋根の下の全員に対する公的な権限を与える法の構造がある。他方には、その構造の内側に、法がもはやいかなる区分も、書類も、序列も、保護も用意していない位置に住んでいる女がいる。
公の形を持たない地位は、そのぶん簡単になるわけではない。手で、私的に、家のなかの誰かによって構築され、そのうえで、家の外の何ものもそれを支えてはくれないという事実に抗して、毎日維持されなければならない地位になる。誰が誰の上に座るのか。それぞれをどう呼ぶのか。誰の着物に誰が責任を持つのか。近所には何と説明するのか。娘をどこかに記載しなければならないとき、何と書くのか。訪ねてきた客の目に、この家は家族として映るのか、それとも醜聞として映るのか。
そのすべてが仕事である。この小説のなかで、それは一人の人間の仕事であり、小説はそのことを知っている。
自分が退けられていく過程の、管理者にされる
この本がしていることのうち、どんなあらすじにも収まりきらない一点がここにある。あらすじにすると一度きりの残酷な使いのように聞こえるが、実際には三十年続く職務の内容だからだ。
倫はこの取り決めを被っているのではない。築いている。旅をし、見て、値踏みし、娘の家と交渉し、値を決め、連れ帰り、住まわせ、戸籍の始末をつけ、家中への披露を差配し、二人の、やがて三人の女が一つ屋根の下で暮らして家が破裂しないための日々の段取りを作る。刊行された解説類は、須賀が家の養女として入籍されることも記録している。当時それに名のある方式で、地位を与えるものではなく、書類上の困りごとを解決するものだった。二年後には由美という二人目の娘が同様の条件で入る。さらにのちには、息子の結婚が家に持ち込むものまで吸収しなければならない。そのたびに、仕事をするのは同じ人間である。
しかも、うまくやる。ここははっきり書かねばならない。倫を被害者としてだけ読む読み方では、この小説の肌理が説明できないからだ。彼女は本物の、恐るべき管理者である。家は回る。金は合っている。取り決めは何十年も、外の人間が気まずくならずに眺められる形で保たれる。夫が自分本位で金のかかる欲望を持った男でいられるのは、まさに、その欲望を機能する家の秩序に変換し続ける人間が背後に立っているからである。
この文章の題にある「調達係」という語は、驚かせるために置いたのではない。調達係とは、ある人が欲しがりながら自分では取りに行かない物を、その人のために手に入れてくる人間のことだ。倫はそれにされる。その役は、名と地位と報酬を伴う役として彼女に提示されるのではない。ただ割り当てられ、割り当てには肩書がつかない。彼女はその地位の責任だけを全部引き受け、その地位に名前があれば当然ついてきたはずの立場を、何一つ受け取らない。
退けられた女には、少なくとも、苦情の輪郭がきれいに残る。自分が退けられていく過程の管理者にされた女には、それすらない。自分が不当に扱われている証拠の一つ一つが、同時に、自分が有能であることの証拠でもあるからだ。
有能さが、代償を隠す
この小説から取り出す値打ちのある仕組みは、明治の家についてのものではない。こうだ。ある取り決めを保たせるために使われる技能は、それを保たせることの代償に誰も気づかないようにする技能と、同じものである。
これはほとんど機械的に導かれる。下手に運営された取り決めは事故を生む。事故は注目を生む。注目は、何が起きているのかを誰かが声に出して言い、それが許容できるかどうかを決めなければならない場面を生む。うまく運営された取り決めは事故を生まないので注目も生まず、その場面は永久に来ない。管理者が優れているほど、その取り決めは言葉にされない。そして言葉にされない取り決めは、誰も同意する必要も、擁護する必要も、改める必要もない取り決めである。
つまり有能さへの報酬は、問いが立たないことである。倫の夫は、自分が何を取り決めたのかを座って説明する必要に、ただの一度も迫られない。説明が要るほどの不首尾が起きないからだ。彼の快適さは、彼が維持しているものではない。彼が見なくてよい過程を通って、組み上がった状態で到着するものである。
この図書室は、別の角度から近い議論をしたことがある。桐野夏生『OUT』の読み、out-the-night-shift-and-what-it-costs は、家庭の衝撃吸収材であることが女に何を支払わせるか、そして吸収材の余力がゼロに達したとき何が起きるかを追った。『女坂』は、余力がゼロに達しない場合である。吸収材はただ吸収し続ける。三十年、みごとに。だから代償は、誰かが応答しなければならない出来事に、ついに変換されない。
この図書室の蔵書のなかで最も近いのはフェランテ論、days-of-abandonment-the-self-that-was-load-bearing で、これは唯一機能していた成員が倒れたとき家庭に何が起きるかを問うた。この文章は逆を問い、答えは静かなぶんだけ悪い。倒れなければ、何も起きない。危機も、清算も、取り決めが点検される瞬間も、来ない。ただ、回っている家があるだけである。
不可欠であることと、地位があることは別である
ここで言う「地位」の意味を正確にしておく価値がある。議論全体がこの区別の上に乗っており、この語は専門的な働きをしているからだ。
この文章で地位とは、敬意より狭く、法的権利より広いものを指す。あなたの異議が、気分ではなく異議として登録されること。あなたがその取り決めの道具ではなく当事者であること。つまり、あなたの同意がその取り決めの継続条件になっていること。あなたの有能さが継続条件になっているのとは、まるで別のことである。この二つは別の位置だが、外から見ると何十年も同じに見えうる。
倫は不可欠である。家の誰も彼女の代わりはできず、彼女の判断なしにこの取り決めは一週間ももたない。だが不可欠であることは、当事者であることではない。夫は彼女の同意を取りつける必要がない。同意を必要としていないからだ。必要なのは執行であり、それは手に入っている。彼女が欠かせない存在であることこそ、夫が彼女と何一つ交渉しなくてよい理由である。なしで済ませられない相手は、説得しなくてよい相手でもある。仕事を渡せば、いつもどおり、うまくやってくれるのだから。
それが時間に何をするかを見ておきたい。倫の時間はただ埋まっているのではない。彼女が設計に関わっていない構造によって、あらかじめ、恒久的に、押さえられている。この家のミッション記事 time-that-belongs-to-you-is-not-left-over は、他の誰にもまだ取られていないだけの時間は自分の時間ではないこと、そしてその差こそが、空いた時間が来ても多くの人がそれを使えない理由であることを論じた。倫には、空いた時間そのものがない。三十年のうちに、自分が受け入れるかどうかを尋ねられたことのない取り決めの維持のために待機していない時刻は、一つもない。
そして、これは失われた古い配置ではない。この家の現地報告 the-woman-holding-up-the-fiction は、その女の身分こそが構造全体の耐力要素でありながら、まさにその女を保護の外に置くように設計された仕組みを検討した。一つの構造が二つの効果を生み、どちらも別の誰かに有利に働く。あの文章が扱ったのは法令と契約であって、一八九〇年代の結婚ではない。仕組みは同じ仕組みであり、それに気づくことがここでの要点である。
須賀と、この文章が彼女にしかけていること
ここまでの議論はすべて倫を中心に置いている。その選択は弁護されなければならず、正直な答えは、部分的にしか弁護できない、である。
須賀は買われたとき十五である。彼女に選択の余地はない。実家の困窮が売買の機構であり、売買は比喩ではない。金が動き、子どもが引き渡される。彼女は、四十代の男に性的に使われ、その妻に管理され、着物と食事と屋内の生活を与えられ、それ以外は何も許されない家に住む。夫はなく、自分の立場で持つ子もなく、自分が主となる家もなく、出口もない。彼女は、書類の上でその家の娘になる方式で入籍される。これは昇格ではない。彼女の実際の立場に法的な名前がなくなったことで生じた事務上の問題への、処理である。
物質的な指標のすべてにおいて、須賀の位置は倫より悪い。倫には権限があり、自分が差配する金があり、息子と娘があり、承認された婚姻上の身分があり、命令を出す立場がある。須賀にあるのは、快適さと監禁である。刊行された解説類は、後年の彼女が、なぜ親は自分を、せめて手に職のつく世界へ売らなかったのかと考える場面を記録している。これは小さな思いではない。自分がありうる未来のうち最も少ないものしか残さない仕方で処分されたのだと見えている人間の思いである。
そして倫は、これの傍観者ではない。倫が選んだのである。どれほどの圧力の下にあったにせよ、その使いが彼女に何を支払わせたにせよ、十五の娘を選び値を決めたのは倫の手だった。その選択を、主として、それを行った女が負った傷として読む文章は、少なくとも、家がそこに置いたのと同じ場所に注意を置き続けている。妻に、戸籍に、家の体面に。子どもにではなく。
これがこの読みに対する最も強い反論であり、これへの正しい応答は反駁ではない。承認である。ある加害の管理者を、管理が構造的に面白いという理由で中心に置くことは、家が行ったのとまったく同じ操作を縮小して反復することだ。娘を、他人の状況の一要素にする。この文章はそれをしている。いま、している。それに対して差し出せるのは、脚注ではなく本文でそう言うこと、そして角を丸める一文、すなわち倫と須賀を等しく囚われていたと書く一文を、拒むことだけである。二人は等しく囚われてなどいなかった。一方は、命じられて、みごとに、囚える側の仕事をしていた。
吸収されなかった唯一の行為
ここで議論は本の終わりに達する。そして、感傷的に読めてもおかしくない結末が、なぜ感傷的でないのかに達する。
倫は死の床で一つの願いを口にする。刊行された解説類はそれを一致して記録している。葬式は出すな、自分の骸は海へ放り込んでくれ、と。これは全篇を通じて彼女が自分のために求める最初の事柄であり、何も求めずに過ぎた数十年ののちに来る。
これがこの本のなかで唯一、彼女の有用性に吸収されえない行為である理由は、その情動の強さではない。強さはある。理由はその事務的な形にある。倫が三十年のあいだにする他のすべては秩序を生む。困りごとを一つ取り除き、問いを一つ決着させ、隙間を一つ埋め、誰かにとって家を住みやすくする。この願いは逆を生む。葬儀とは、家が世間に対して自分が何者であるかを示す、最後の、そして最も公的な自己呈示の機会である。それを拒み、代わりに儀礼も場所もない処理を指定することは、家に、彼女に差し戻して解決させることのできない問題を渡すことだ。もう、彼女はそこにいないからである。
だからこれは効く。痛みの叫びだからでもなく、読者が心を動かされるよう招かれる隠れた内面を明かすからでもない。効くのは、これが、彼女が生涯に出した唯一の、仕事を取り除くのではなく仕事を作る指示だからである。三十年のあいだ、彼女の有能さは、誰もこの取り決めを見ずに済む理由だった。最後の一文で彼女はその役務を引き上げ、取り決めはついに、そして遅すぎる形で、他の誰かが見なければならない問題になる。
それが何でないかも書いておかねばならない。これは脱出ではなく、勝利ではなく、何かを取り消すものでもない。彼女に返されるものは何もなく、修復されるものも何もない。三十年道具であった人間は、死ぬことによって当事者にはならない。彼女が達成するのはもっと狭く、もっと厳しいことだ。生まれて初めて、彼女の位置が、役務としてではなく位置として登録される。そしてそれが可能になったのは、拒むことに何の代償もかからない唯一の時点、すなわち、拒んで失うものがもう何も残っていない時点だったからである。
この家が売っているもの、そしてこの読みが疑わしい理由
取り決めについて論じる媒体は、自分が何を売っているかを申告しなければならない。しかも異論の前に申告すべきであって、あとではない。
この家が売っているのは、範囲が区切られ、日時が定められ、代金の支払われる私的な同行である。したがって、この文章がいま行った議論に、直接の商業的利害がある。この文章は害の所在を、取り決めが存在することではなく、倫に地位がなかったことに、当事者ではなく道具であったことに置いた。これは、取り決めは明示的で、範囲が区切られ、まともでありうるという命題、そして取り決めを有害にするのは条件の存在ではなく条件の不在であるという命題を、事業の全体とする商売にとって、あまりにも都合がよい。読者は、結論が版元に媚びていることに気づき、そのぶん割り引いて読むべきである。
この図書室は別の場所で、paid-or-unpaid-is-the-wrong-axis と題した一篇において、構造は温かさの反対物ではないこと、無償の取り決めはしばしば無構造なのではなく単に文書化されていないだけであることを論じた。『女坂』はその例として、これ以上ないほど澄んでいる。白川家では何一つ書き記されず、何もかもが構造化されており、文書がないことこそが、誰もそれを正当化せずに済む理由である。そしてこれは、この家が利益を得る読みである。真であろうとなかろうと、利益を得る。
だから、主張しないことを、拒否の一覧として書く。この家は、明示的な取り決めがこの小説の描くものへの解決だとは主張しない。支払われることが地位を与えるとは主張しない。支払われることと当事者であることは別であり、それを混同するのは、この文章が数節を費やして批判してきたのと同じ誤りである。この小説の女たちが、この家の差し出しうるどんな形のもとでならもっとましだったとも主張しない。そもそも差し出されなかっただろうし、十九世紀日本の一家に対して自分を答えとして提示する商売は、あまりに大きく、あまりに反証不能な主張をしていることになり、それを口にした時点で読者の信用は終わるべきだからである。そして、利害を申告すれば利害が中和されるとも主張しない。申告は、どこに懐疑を向ければよいかを教えるだけであって、懐疑を持ったのが間違いだったとは教えない。
この読みへの反論を、最も強い形で
以上のすべてに対して、まじめな反論が四つある。そのいずれにも、ここでは答えない。
第一に、この小説自身の共感の幅は、この読みが必要とするほど広くないかもしれない。円地が書いていたのは、特定の祖母を下敷きにした特定の家であり、女の忍苦と執念、そして抑えられた生の霊的な重みを扱う系譜のなかにある。倫の有能さを構造的な現象として読むことは、この本が関心を持たない語彙、すなわち地位、当事者、条件という語彙を持ち込むことかもしれない。小説は何かを示すために作者が配置したものであり、それを取り決め一般についての証拠として使うのは範疇の誤りである。その誤りは、ここで犯されている。
第二に、倫の有能さを悲劇として読むことは、彼女が認めないであろう近代的な枠組みを持ち込むことかもしれない。彼女が自分の管理を地位の侵害として経験したと考える理由はなく、務めを果たしたこととして経験したと考える理由は十分にある。それは別のことであり、明らかに劣ったことでもない。彼女が一度も使わなかった言葉で密かに不当を被っていたことを要求する読みは、彼女の内面に何が入っていなければならないかを先に決めている読みである。この文章は彼女の内面について何も確定した事実として提示していないが、用いている枠組みはこの文章自身の作りものであり、彼女はそれを拒むためにここにいない。
第三に、須賀についての反論。これは上に一節を与えてあるが、読後に残るべきものなのでここで繰り返す。妻を構造的に面白いと見なし、十五の娘を物質的に不運だと見なす文章は、家が二人を並べたのと同じ順序で二人を並べている。この失敗はこの文章のものであり、名指したことによって是正されてはいない。
第四に、時代についての反論。二〇二六年の日本の読者が最も強く押すべきなのはこれである。これは一八九〇年代を描き、一九五七年に世に出た本であり、扱われている法と家の秩序は一九四七年に廃された。この文章は類似ではなく仕組みを論じてきたが、ここではっきり言わねばならない。その仕組みが現代日本のいかなる生活、家庭、結婚に対応するとも、この文章は主張できない。その種の資料を持っていないし、探してもいない。差し出しているのは、読者が自分の状況のなかに見出すかもしれないし、見出さないかもしれない型である。見出さないのなら、この文章はただ一冊の小説についての文章であり、文章がそれについてのものであることは、まったく結構なことである。
この文章が主張していないこと
この図書室は、この文章のために日本語の原本を読み通してはいない。上に記した筋の細部、すなわち使いの内容、年齢、二人目の妾、入籍、最後の願いは、刊行された解説類、書評、版元の紹介文から組み上げたものであり、どれも細部で誤っている可能性がある。小説の本文はいずれの言語でも引用しておらず、議論のどこもジョン・ベスターの英訳の語選びに依存していない。翻訳は選択を含む翻訳であって、本文ではない。
法に関する記述は、法令と戸籍の記録が示すところとして書いてあり、人々が実際にどう生きていたかの記述ではない。ある区分を廃する法は、その慣行を廃さない。ここから、妾がどれほど一般的だったか、どの階層においてか、どのような帰結を伴ったかについての主張を読み取ってはならない。野間文芸賞は回次ではなく年で記した。日本側の資料が、戦前分を含めるかどうかで二通りの数え方をしているからである。
円地文子については、記録が支えるところにかぎって書いた。彼女が自分の素材について何を意図し、何を信じ、何を感じたかについて、この図書室は何も主張しない。父のこと、古典の素養、『源氏物語』の訳業がここに現れるのは、それらがこの本について何かを説明するからであって、作者の生涯が作品を説明するからではない。
ここに書かれたことは、いかなる読者についての記述でもなく、いかなる診断でもない。上に名の挙がった作家、版元、訳者、研究者のいずれも、この家と関係がなく、この家を知らない。この家は取り決めを売っており、そのことは本文のなかで述べた。この段落ではなく本文で述べたのは、媒体が読まれたくないと思っているものが置かれる場所が、この段落だからである。
そして、有能さは罠であるとか、物事をうまく回す女は定義上搾取されているとか、そういう主張でもない。物事をうまく保つことに長け、かつ自分が保っているものの当事者でもある人は大勢いる。それが普通の、取り立てて言うことのない場合である。ここでの主張はもっと狭い。この二つの条件は切り離しうること、外からは非常に長いあいだ同じに見えうること、そしてその違いを最もよく判別できる位置にいる人が、たいてい、最後まで誰にも尋ねられない人であること。