Cinema
『空気人形』と、満たされることと見られることのあいだ
東京の古いアパートで心を持った人形は、自分に触れた二人の男、つまり自分を使った男と、しぼんだ自分に息を吹き込んでくれた男から、愛し方を覚える。映画はその愛し方を、どんな命も欠けたところを抱えてつくられていると語る一篇の詩と並べて置き、最後の朝まで、満たされることを見られることと取り違えさせない。
「お前の代わりなんていくらでもいる」。秀雄は、働いているファミリーレストランでそう叱られている男だ。
古い木造アパートに帰ると、秀雄は待っている相手にその日の愚痴を聞かせる。よく聞いていると、愚痴はどれも自分の失敗の話だとわかってくる。いつもより百円高いシャンプーで髪を洗ってやり、お前は歳をとらなくていいな、と話しかける。今日もキレイや、とも言う。夜は抱いて眠る。
相手は空気で膨らませるラブドールで、のぞみと名づけられている。
ある朝、秀雄が仕事に出かけたあとで、のぞみは瞬きをする。ゆっくり起き上がって窓辺へ行き、軒先から垂れる雨の雫に指で触れ、最初の言葉をつぶやく。「キレイ」。秀雄が彼女に向けていた言葉だ。それがいま彼女のものになって、別のものに向けられている。
この映画のすべては、この場面に小さく畳みこまれている。使うために買われたものに心が宿り、その心が最初にしたのは、見ることだった。
ここから先は、結末を含めて、映画の全体に触れる。
この文章は『空気人形』を、満たされることをめぐる映画として読む。そこには二通りの満たされ方があり、さらに、満たすことではまったくない三つ目のものがある。
ひとつ目は、誰かが栓を握っている満たされ方だ。空気入れ、愛した男の息、雇い主が突きつける条件。いちばん残酷なときには使用になり、いちばんやさしいときには救命になる。けれど、どちらにしても流れは一方向で、満たされる側は取り替えがきく。入る息は、誰のものでもかまわないからだ。
ふたつ目は、空き地のベンチで老人が彼女に手渡す一篇の詩のなかにある。どんな命も、自分では埋められない欠けを抱えてつくられていて、その欠けは、他人どうしの行き来のなかで、誰のものでもないまま横から満たされる。満たす側も、たいていはそれを知らない。のぞみは、ひとつ目から愛し方を覚える。彼女がされてきたことは、それしかなかったからだ。そして、それを返そうとしたとき、愛した男は死ぬ。
三つ目は、最後の朝にやってくる。一度も会ったことのない女性が窓から見下ろして、のぞみが雨の雫に向けたのと同じ言葉を口にする。そこでは誰も、誰かを満たしていない。ただ、見ている。
そのすべての底に、映画が答えを出さないまま残す問いがある。使われることでしか愛を教わらなかった者にとって、心を持つことは何を意味するのか。
この映画について、そして結末の扱い方
『空気人形』は二〇〇九年の日本映画で、是枝裕和が脚本・監督・編集を手がけた。原作は、業田良家の漫画『ゴーダ哲学堂 空気人形』に収められた、同じ題の短い一篇である。のぞみを演じるのはペ・ドゥナ。彼女が恋をするレンタルビデオ店の店員・純一を井浦新が、持ち主の秀雄を板尾創路が演じる。撮影は台湾のリー・ピンビン。二〇〇九年五月にカンヌ国際映画祭のある視点部門で上映され、日本では同じ年の九月二十六日に公開された。
評価は割れた。カンヌではペ・ドゥナの演技が称えられる一方、長さへの不満も出た。九十分ほどに縮めればものになるかもしれないと書いた業界紙もあれば、都会の孤独とあこがれをめぐる、胸が痛くなるほど美しい瞑想だと書いた批評家もいる。日本ではペ・ドゥナがこの役で、いくつもの主演女優賞を受けている。
映画祭で是枝は、一見すると恋愛映画だが、扱っているのは人間の本質をめぐる問いだと語った。人は自分の空洞を満たすことができるのか。生きることの意味は何か。人間とは何か。そして、この映画が語っているのは男女を問わない都会の孤独だ、とも述べている。この最後の一言は、あとで効いてくる。
この映画では二つの命が終わり、そのひとつは彼女自身のものだ。どちらもここではっきりと書き、その様子は描かない。映画が最初の夜からはっきり見せていることも、はっきり書いておく。この人形は性の相手として使われる。持ち主に、そして弱みを握った雇い主に。
彼女が知っていることは、みな誰かに教わった
のぞみは、秀雄が買い与えたメイド服のまま街へ出て、出来事の起きる順に世界を覚えていく。学校へ出かける女の子が父親に「いってきます」と声をかけると、のぞみも同じ言葉をまねる。園児の散歩の列についていくと、ひとりが手をつないでくれて、すぐに離す。冷たい、と言って。ネオンのきれいなレンタルビデオ店に吸い寄せられるように入り、レジの若い男に声をかけられて、そのまま立ちつくす。
のぞみはその店で働きはじめる。純一は、彼女が何を聞いても、知らないのが当たり前であるかのように答えていく。映画とは何か。空には何があるのか。昼間は見えなくても、そこにあるのだということ。海のこと。タンポポはなぜ枯れなければならないのか。いつかは死なないと、世界が生き物であふれてしまうから、と彼は言う。レストランで隣の席の女の子が誕生日を祝ってもらうのを見て、のぞみは、誰にでもこの世に生まれてきた日があることを知る。年をとるとはどういうことか。死とは何か。
自分が何なのかも知っていく。押し入れで、自分が入っていた箱を見つけ、自分が型遅れの安物だとわかる。夜になると秀雄のベッドに戻り、じっと動かずにいる。そこで彼女は、自分が何のためのものなのかを言葉にする。「性欲処理の代用品」。心を持ったので、嘘もつくようになる。心を持ったから嘘をついた、と彼女は自分でつぶやく。
けれど、最初の先生は秀雄だった。のぞみの台詞には秀雄の関西弁がまじる。純一に星座の話をするとき、彼女は秀雄の口ぶりのまま話してしまい、どこで関西弁を覚えたのかと聞かれて、映画で観たとごまかす。のぞみという名前、キレイという言葉、少し高いシャンプー、公園、手を温めるために握らせてくれた缶コーヒー。彼女が最初に受け取ったやさしさは、すべて彼女を使っていた男から来ている。最初に受けた救命は、彼女の体に息を吹き込む男から来る。この二つを覚えておいてほしい。結末は、その上に立っている。
満たされ方には、二通りある
ひとつ目は、機械的な満たされ方だ。空気入れがある。空気が減れば、足される。お前は歳をとらなくていいな、と秀雄は言うが、それを本当にしているのは空気入れである。いつまでも入れ直せる体は老いない。手入れされるだけだ。
年が明けて客の少ない日、店で脚立から落ちかけたのぞみは、什器の角で腕に穴をあけ、純一の目の前でしぼんでいく。見ないで、と言うのが精一杯だった。純一は見る。穴をふさぎ、彼女がふくらむまで息を吹き込む。のぞみは彼にしがみつく。是枝は、原作でこの場面を読んだとき強くエロティックだと感じた、息を通して愛し合うことだと思った、と語っている。同時にそれは救命でもある。映画はどちらかを選ばせない。そしてそこから先のすべては、のぞみがこの二つを見分けられないことにかかっている。いちばん無防備な瞬間に、見られることと満たされることが一緒にやってきた。それ以来、彼女にとって二つはひとつのものになる。
翌日、のぞみは空気入れを捨てる。公開時の資料に収められたインタビューで、是枝はこの選択を年齢の言葉で説明している。人形は空気入れを置いていく、年をとることを気にしなくなるのだ、と。ここで少し立ち止まりたい。空気入れがなければ、彼女は尽きることのあるものになる。命になる、と言い換えてもいい。同時に彼女は、これから先の息のすべてを、ひとりの男に頼ることを選んでいる。その二つが、同時に起きている。
是枝は、自分の原案でしか撮らないと決めていたのに、この話だけは例外にしたと書いている。その文章で彼が引いているのは、原作の次のような一節だ。愛する男の息で満たされた人形が夜の街を歩きながら、もう自分では膨らめないかもしれない、それで命が終わってもかまわない、と自分に言い聞かせる。悲しくて、同時にうれしい、と人形は言う。
ふたつ目の満たされ方は、ベンチの上でやってくる。空き地のベンチで、のぞみは死期の近い元国語教師の敬一と話す。私は空っぽなの、と彼女が言うと、老人も、自分も空っぽだと答える。ほかにもいるのかしら。今どきは多いだろう、こんな街に住んでいれば皆そうなる、君だけじゃない。そう言いながら、老人は対岸の高層マンションを眺めている。そして彼女に、吉野弘の詩「生命は」を教える。
詩は、花の受粉を手がかりに考える。花はめしべとおしべを両方そなえていても、虫や風がそのあいだを行き来しなければ実を結ばない。命というものは、はじめから自分ひとりでは閉じないように、欠けたところを抱えてできている、と詩は見る。その欠けを埋めるのは他者だが、埋めている側はたいていそのことに気づかない。互いに無関心なまま、ときには鬱陶しく思いながら、それでも人は知らずに誰かの欠けを埋めている。詩は最後に、一匹の虻とひと吹きの風の姿で、その考えを結ぶ。
是枝は、この詩を映画のなかで象徴として使っていて、それが登場人物たちの生き方と、私たちの暮らす世界を映していると語っている。店の場面の隣にこの詩を置くと、映画の議論が見えてくる。ひとつは、ひとりが栓を握り、ひとつの体に息を吹き込む満たされ方。親密で、そして所有である。たとえそれが愛であっても。もうひとつは、誰のものでもなく、誰にも知らされないまま、他人どうしのあいだを横へ横へと渡っていく満たされ方。映画はこの二つを、同時にのぞみの手に渡す。残りの物語は、彼女がそれをどう使うかである。
代わりのきく人たちの街
この映画は、何度も「代わり」という言葉に手を伸ばす。秀雄は職場で、お前の代わりなんていくらでもいると言われている。敬一は代用教員として働いてきた。のぞみが「代用品」とつぶやくと、そうだよ、ずっと空っぽな代用品だ、と彼は答える。のぞみが自分につける名前は「性欲処理の代用品」だ。是枝は、脚本を書くとき、自分の独自性を疑い、自分は誰かの代わりにすぎないと感じている人たちを配したと語り、東京はそういう人でいっぱいだとも言っている。
この映画で「使われる」とは、そういうことだ。扱われる、抱かれる、というだけではない。誰が入ってもいい場所に置かれ、入れ替わっても気づかれないということである。その証拠は遅れて、しかも残酷なかたちでやってくる。のぞみが物置に隠れるようになると、秀雄は部屋じゅうを探し、それから新しい人形を買ってきて「のぞみ」と呼び、ケーキで誕生日を祝う。名前はそのまま残り、取り替えられるのは彼女のほうだ。誕生日、つまり、特定の誰かがこの世に来た日だと彼女が覚えたばかりの日が、代わりの人形に与えられる。階段を上がって電気をつけたのぞみが、私のどこが好きだったのかと尋ねても、秀雄は答えられない。
そのすべてに逆らう一文が、ひとつだけある。君が誰かの代わりなんてことはない、と純一は言う。映画のなかで彼女にかけられる、いちばんやさしい言葉だ。けれど、それを言う男の部屋には、映画が何も説明しない女性の写真の束がある。のぞみはそれを見つけ、そっと元に戻す。映画はそこで止まる。この文章も、そこで止まる。
そして、人形を一体ずつ違うものとして見る人物が、ひとりだけいる。のぞみを作った人形師の園田だ。訪ねてきた彼女を、園田は家に帰ってきた子を迎えるように迎える。戻ってくる人形はどれも違う顔をしていて、どんなふうに扱われてきたかが顔でわかる、だから人形にも心はあると思う、と彼は言う。是枝によれば、この人物の台詞の多くは、等身大の人形をつくる職人から実際に聞いた話にもとづいている。奇妙で、正確なやさしさだ。使われるためのものをつくる人が、戻ってきたものの顔から、それがどう使われたのかを読みとる。古くなった人形を燃えないゴミとして出すのも、この人だ。のぞみは彼に、生んでくれてありがとう、と言う。
心は面倒くさい、と彼は言った
秀雄は、この映画でいちばん軽蔑しやすい人物だ。そして映画は、それを許さない。彼はごく当たり前のかたちで孤独である。職場では取り替えがきくと言われ、家に帰って、決してそうは言わない唯一の聞き手に話しかける。人形は女性がモノとして扱われるありさまを見せているのではないか、と聞かれたとき、是枝は、映画のなかの何人かの男がこの人形をそういうふうに使っていることは認めたうえで、取材で会った男たちの話をした。人形と暮らし、公園へ連れ出し、人形は食べないのに食事を用意する男たち。自分の孤独や空虚を埋めるために、と。
やがて、彼女が何かを望む。秀雄は、元の人形に戻ってくれと頼む。心を持たれると面倒くさい、こういうのが面倒くさいから人形がよかったのだ、と。この映画でいちばん正直な台詞だ。彼が愛していたのは、望まないということだった。彼女が自分の望みを持った瞬間に、取り決めは壊れる。そして彼の答えは悲しみではない。取り替えである。
この図書室には、「機械を愛すること。合成された親密さは、何のためにあるのか。」という文章がある。合成された伴侶の慰めは、どれも同じひとつの性質、すなわち自分自身の利害を持たないという性質に行きつき、その同じ性質が、それを関係であることから遠ざけている、と論じた文章だ。人に愛されるとは、ほかを選べたはずの誰かに選ばれることだから、と。あの文章は、愛する人間の側に立ち、その機械は何のためにあるのかを問うた。『空気人形』は機械の側に立つ。そしてそのものが自分の利害を持った日と、持ち主がそのあと何をするかを見せる。
『her/世界でひとつの彼女』も、同じ日を別のかたちで描いている。孤独な男が買ったプログラムは男を追い越し、去っていく。男には、誰かを失った悲しみが残る。『空気人形』では、人形が男を追い越すと、男は同じ名前の人形を買ってくる。一人は誰かを失い、もう一人は何かを取り替える。二本の映画が違うのは、伴侶の側というより、男がその二つを見分けられるかどうかだ。
そして、望むことのできない相手を前提に組まれた取り決めの害は、それを組んだ人のところにとどまらない。移っていく。のぞみはその内側で愛し方を覚える。満たすこととして。
払わされたもの、差し出したもの
映画は、痛いところをぼかさない。この文章もぼかさない。
秀雄は彼女を性の相手として使う。そのために買われたのであり、それは映画の最初の夜から描かれている。心を持ってからも、それは止まらない。昼の彼女は街を歩き、夜の彼女は秀雄のベッドに戻ってじっとしている。そこに誰かがいることを、秀雄は知らない。心を持つ前に彼がしていたことは、モノに対して行われていた。心を持ったあとのことは、同意しておらず、拒めば正体が知られてしまう誰かに対して行われている。彼は知らない。それこそ彼が選んだ取り決めであり、彼女の同意とは別のものである。
店長は知っている。秀雄と一緒にいるところを見ていた彼は、純一に黙っていてほしければ、と体の関係を迫る。のぞみは拒めない。ここには何の曖昧さもなく、この文章もそれを持ちこまない。秘密を盾に取り立てた代価は同意ではない。それに従うことも、合意ではない。
そして、いちばんつらい場面がくる。やさしい場面だからだ。のぞみは純一に、誰かの代わりでもいい、そのために生まれてきたのだから、と言っている。君が誰かの代わりなんてことはない、と純一は返す。何でもしてあげる、とのぞみが言うと、純一が望んだのは、彼女の空気を抜いて、また吹き込むことだった。何度も、何度も。彼は涙を流したまま眠ってしまう。
その行為を彼女自身が望んでいたのかどうか、映画は語らない。知っているふりをしても意味はない。映画が見せているのは、「何でも」という言葉がどこから来たのか、である。誰かの代わりになるために生まれてきたと言ったばかりの者が、これまでに受け取った唯一のものを、それしか差し出せるものがないかのように差し出している。何でもいいという申し出は、何かを望むことと同じではない。
眠る純一に、のぞみは彼がしてくれたことを返そうとする。彼が自分を満たしてくれたように、彼を満たしたいと思う。純一は目を覚まし、彼女を止めず、そして死ぬ。なぜ止めなかったのかを映画は語らず、誠実に推し量る手立てもない。はっきりしているのは、彼女がどんな教えに従って動いたかである。のぞみは、自分がこれまで愛されてきた唯一のかたちで彼を愛した。そのかたちは、人形のためにつくられたものだった。そのあと彼女は、彼をゴミ集積所に置いてくる。人形は最後にはそこへ行くのだと、人形師が教えた場所に。
燃えないゴミの日の朝
最初の朝、のぞみは収集車の作業員がゴミを、燃えるゴミ、燃えないゴミと分けていくのを、飽きずに眺めていた。最後の朝は、燃えないゴミの日である。のぞみは集積所へ行き、ゴミ袋のあいだに座り、やがて横になって、もう起き上がらない。彼女の命は、そこで終わる。通りはいつもの朝を始め、誰も彼女に目をとめない。
終わる前に、彼女は夢を見る。誕生日の夢だ。出会った人たちがみんないる。秀雄がケーキを運んできて、純一がろうそくを吹き消すよう促す。のぞみが息を吹くと、その息はタンポポの綿毛を舞い上げ、風が綿毛を、彼女の知っている人たちのところへ運んでいく。ひとりの男を満たせなかった息が、全員のところへ軽く届いていく。詩が言っていたとおりに。横へ、誰のものでもなく、誰にも知らされないまま。
それから、通りの上で窓が開く。そこに住む美希は、のぞみに一度も会ったことがない。是枝の言葉を借りれば、食べることで空虚と闘おうとしている女性で、映画はそれとひとりで向き合う彼女を映してきた。美希は集積所を見下ろす。色とりどりの空き瓶、りんご、そのあいだに横たわる姿。すべてが光を受け、風にかすかに揺れている。そして、つぶやく。「キレイ」。
のぞみが最初の朝、雨の雫に向けて言った言葉だ。その前には、秀雄が彼女に向けていた言葉だった。映画はこの一語を、三つの口に通してきた。持ち主の口から、手もとに置いたモノへ。人形の口から、見つけたばかりの世界へ。見知らぬ人の口から、彼女へ。何も求めていないのは、最後のひとつだけである。この映画で見られるとは、そういうことだ。よりよい満たされ方ではない。誰かが誰かを見ていて、満たす必要も、満たされる必要も、まったく感じていない。そういう瞬間のことである。
その光景が美希に何をもたらすのか、映画は語らない。美希を、何もかもうまくいくというしるしにしてはいけない。美希はのぞみの生まれ変わりではないし、教訓でもない。自分の空虚を抱えたひとりの人が、ある朝、何かを見て、キレイだと思った。それだけだ。あの詩の言うとおり、人が知らないうちに互いを満たしているのなら、その朝、美希には何か本当のものが届いたのかもしれない。のぞみには、間に合わなかった。それが、この結末の悲しみである。
東京の古い一角と、そこに暮らす人たち
この映画は、東京の中心部の古い一角、聖路加国際病院の近くで撮られた。住人のほとんどいない古びた建物の向こうに、ウォーターフロントの高層マンションが並ぶ場所である。是枝は、いずれ消えてしまう土地で撮りたかったと語っている。こんな街に住んでいれば皆そうなる、と敬一が言うとき、彼が見ているのはそのタワーだ。
のぞみのまわりに、映画はそれぞれ別のかたちで孤独な人たちを置いている。その別々であることに意味があるので、ひとりずつ見ておきたい。身なりを整えた未亡人は、毎日同じ道をめぐり、書き写したニュースを持って交番に寄る。巡査に話し相手になってもらうためだ。年をとることを恐れる受付の女性は、路上で携帯電話越しに同僚をなぐさめているが、それはひとり芝居で、家に帰ると自分で吹き込んだ録音の声を再生している。窓辺の美希。戻らない母親を待つ父親と、小さな娘。やたらと覗きたがる浪人生は、のぞみのスカートの中まで覗こうとする。誰もが、本来なら人がいるはずの場所に何かを置いている。ニュースの切れ端、録音された自分の声、食べもの、人形、棚に並んだ映画。
何も知らないのぞみは、そのうちの何人かに、横からささやかなことをする。受付の女性の脚にある線を自分と同じ継ぎ目だと思いこみ、それを消すためのコンシーラーを手渡す。熱のある老人に頼まれて、その額に冷たい手をあてる。手の冷たい人は心が温かいんだよ、と老人は言う。冷たいと言って園児が離した手が、熱を冷ます手になる。あの詩が語っていた満たし方を、彼女はその名前も知らないまま、見知らぬ人たちを相手に練習している。
是枝は、この構造を平たい言葉で語っている。暮らしが便利になりすぎて、人と深く関わらなくても生きていけるようになった。けれどそれでは満たされず、人は苦しんでいる、と。映画が描いたことの一部は、いまでは数字や法律のかたちでも示されている。二〇二〇年の国勢調査では、東京都の一般世帯のうち単独世帯が半分をわずかに上回った。二〇二四年四月には孤独・孤立対策推進法が施行され、その第一条は、社会の変化のなかで個人と社会や他者との関わりが希薄になっている、という認識から書き起こされている。
とはいえ、どの数字も法律も、映画の誰かを説明はしないし、いまこれを読んでいる誰かを説明もしない。ひとりで暮らすことは孤独であることと同じではなく、孤独な人の集まった一本の通りは、一つの国ではない。この映画が描いているのは、この通りだ。是枝自身、男女を問わない都会の孤独の映画だと言っている。「日本人」の肖像として読んだとたん、これは絵葉書になってしまう。
この映画の東京は、少し外側からも見られている。撮影監督は台湾の人、主演は韓国の俳優だ。是枝は、外国の俳優にこの役を任せられると考えたのは、この人物がほんのいくつかの言葉から話しはじめるからだと語っている。大人になってから、ある街の言葉を一つずつ覚えなければならなかった人には、これは何と呼ぶのか、あれはどういう意味か、ここではなぜこうするのか、というのぞみの問いが、設定から想像するよりずっと近くに響くかもしれない。そしてアメリカの近い映画は、逆向きに進む。『ラースと、その彼女』では、小さな町の人々が、ひとりの男のために、彼の人形を人として扱うことにする。人形は誰のことも見返さない。『空気人形』では、人形が街の全員を見ている。そして最後の朝まで、誰も彼女を見ない。
この文章が採らない読み方と、答えきれない反論
『空気人形』のもっとも一般的で真剣な読み方は、この人形を、女性が置かれてきた扱いの形象とみなすものだ。男が使うために製造された女の体。男が選んだ服を着せられ、男に名づけられ、使われ、修理され、何かを望んだとたんに新しい型へ取り替えられる。この読み方は、ものの形については間違っていない。映画は、あの部屋に何をしまい、誰のためにしまったのかを、正確に知っている。
インタビューでこの読み方を向けられたとき、是枝はその一部を認めたうえで、取材で出会った男たちの話をした。監督の答えが映画の意味を決めるわけではない。それでもこの文章は、自分自身の理由でこの読み方を採らない。その理由は、映画そのものの議論にある。のぞみは女性の象徴だと言えば、彼女を代わりにしてしまう。そして代わりにされることこそ、映画が彼女に何度も何度も起こるのを見せていることであり、その果てに彼女は空き瓶のあいだに横たわる。のぞみは、あらゆる女性ではない。一本の通りで、ひとそろいの言葉を覚えた、ひとりの存在である。そして彼女がそこで見つけた空虚は、通りの全員のものだ。男たちも含めて。是枝の覚え書きは、映画の孤独を性別で分けている。女性たちには空虚と不在、男性たちには代用、というように。けれど映画は、その図式にさえ収まらない。映画でいちばん完全な「空っぽな代用品」は老人であり、代用品はのぞみ自身なのだから。
二つ目は、カメラについてである。是枝は、しぼんで息で満たされる場面を強くエロティックだと感じたと語り、そのように撮ろうとしたとも述べている。この映画は、認めている以上に秀雄の見方に近いのではないか。男に使われる女の形をしたモノについての映画が、その形を観客にも差し出しているのではないか。そう感じる観客は正当である。これに十分な答えはない。言えるのは、映画が彼女の視点に寄り添って組み立てられていて、私たちが見るものの多くは、彼女が見ているから見えている、ということだけだ。
三つ目。カンヌでこの映画を長く散漫だと感じた批評家たちには、一理ある。近所の人たちはそれぞれ数筆で描かれるだけで、未亡人、受付の女性、浪人生、若い女性を、それぞれ孤独のひとつの型として主人公のまわりに置く映画は、この文章がのぞみにはしないと言っていることを、彼らに対してしているとも言える。物語よりも詩のほうが、彼らをしっかりつないでいる。この文章は、映画におおむね気分しかないところに、議論を見つけてしまっているのかもしれない。
四つ目、もっとも重い反論。映画は彼女の最期を「キレイ」と呼んで終わる。光を当て、見知らぬ人に最後の言葉を与え、全体を誕生日の夢で包む。死を美しくしてしまっている、と感じる読者は正しい。死に与えてはならないものがあるとすれば、それは美しさだろう。この危うさは本物であり、その美しさは答えにはならない。彼女の最期は、映画のなかで何ひとつ解決していない。それは、まなざしがどれほど遅れて届いたかを測る目盛りである。
最後に、この図書室自身に向けられる反論。この家が売っているのは、私的な同伴である。だから、買われて使われた伴侶についての映画は、この家にとって中立の場所ではない。悪いのは所有で、善いのは見られることだという読み方は、この家のような場所がいかにも好みそうな読み方でもある。その分を差し引いて読んでほしい。ここで主張するのは、ひとつだけだ。何かを望んだとたんに人形に戻ってくれと頼まれる人がいてはならない、という映画の基準は、自分たちが測られるべき物差しとして正当だということ。それは誇りではなく、基準である。
この図書室が受けとるもの
満たされなければならない、ということではない。老人がのぞみに手渡した詩は、その逆を言っている。どんな命も欠けたところを抱えてつくられていて、その欠けは、つくりそこないではない。つくり方そのものなのだ。『空気人形』で害を生むのは、いつも空虚そのものではない。ひとりが栓を握り、相手がいつ満ちていて、いつ多すぎるのかを決めてしまう取り決めである。
見られることは、よりよい満たされ方ではない。誰かが、相手を満たす必要をまったく感じなくなったときに起きることだ。
人が自分を手のかからない存在にしておくのには、ちゃんとした理由がある。望まないから求められるほうが、望んで断られるより安全に感じられることがある。何も頼まない人は、しばらくのあいだ、頼んで断られる危険から守られる。秀雄が自分の取り決めを組んだのにも、理由があった。家のなかでまで、取り替えがきくと言われないためだ。どれも愚かな選択ではない。取り替えがきくと言われつづける街で、人はそうやって持ちこたえている。映画が言うのはただ、それには代償があり、いつも誰かがそれを払っている、ということである。
だから一度だけ、あなたに向けて書く。もし誰かに、言葉はどうであれ、何かを望むようになる前のあなたに戻ってほしいと頼まれたことがあるなら。もっと楽で、もっと静かで、もっと手のかからないあなたに。そのとき問題だったのは、あなたではない。相手が拒んだ面倒は、あなたのなかの、あなた自身のものだった部分だ。そして、あなたが受けとった愛の多くが、使われるというかたちで届いたのだとしても、そのかたちを覚えてしまったのはあなたの落ち度ではない。のぞみも同じかたちを覚えた。彼女に与えられなかったのは、別のかたちを覚えるための時間だった。
持ち帰る問い
いちばん近い関係のなかで、栓を握っているのは誰だろう。自分がいつ満ちていて、いつ多すぎるのかを、決めているのは誰だろう。
あまり多くを求めてこないから、という理由も込みで愛している人はいるだろうか。その人が何かを求めた日、自分のなかで何が起きるだろう。
愛がどんな姿をしているのかを、どこで覚えただろう。自分の愛し方は、ただ自分が愛されたやり方をなぞっているだけではないだろうか。
何も求めていない誰かに、最後に見られたのはいつだろう。そして、誰かを最後にそんなふうに見たのは、いつだろう。
ほかの章から読む
この問いから、次へ
もう少し静かな、次の一歩
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。