Moonlight Journal
愛は結婚から去っていない。彼女が、その中で呼び名を変えられたのだ。
結婚は、愛情があって、同時にセックスレスでありうる。そしてほとんど誰もが、後者を前者についての証拠として読む。そうではない。愛と欲望は別々の帳簿をつけている。愛のある結婚が静かになったとき、たいてい起こったのは、何かが引き上げられたことではない。彼女が呼び名を変えられたのだ——彼の口の中で彼女が「お母さん」になった日、その結婚は、誰が求められてよいかについての規則を得て、家の誰もそれを書き留めなかった。戻る道は、もっと多くの愛ではない。愛は一度も足りなくなかった。戻る道は、彼女のものである名前だ。
その結婚はよい結婚だ。彼女は誰にでもそう言うだろうし、本心からそう言うだろう。彼は彼女に優しく、子どもたちのそばにいて、二人は同じことで笑い、彼女の家族に何かが起きたとき、部屋にいてほしいのは彼だ。そして二人は、彼女が口に出して言うより長いあいだ、家族としてのほかには互いに触れておらず、そのことを考えるのを自分に許すとき、やってくる考えは性についてのものではない。愛についての問いだ。彼が自分を愛しているなら、こうなっているだろうか。自分が彼を愛しているなら、それを欲しないだろうか。
この文章は彼女の側から、ワークブックが愛情とセックスレスと名づけた行の上で書かれ、その問いを分解するために存在する。その問いは、欲望が愛についての証拠であること——静かになった結婚には、どこかに、もう一方の不足があること——を前提にしている。この書庫はすでに、日本のセックスレスの公式の数え方が何を測り何を隠すかについて、セックスレスがなぜ評決ではないかについて、触れることがどのように欲望より先に去るかについて、そして朝から働いている顔について公にしてきた。それらは帰され、繰り返されない。この文章が付け加えるのは、静かになった愛のある結婚でたいてい何が起こったかについての一つの観察であり、それは、何かが引き上げられたということではない。
彼女は呼び名を変えられたのだ。最初の子どもと今とのあいだのどこかで、彼女は彼が欲する人であることをやめ、彼が住みたい家を回す人になった。そしてその変化は、ありうる限りもっともふつうの仕方でなされた。彼が彼女を何と呼ぶかにおいて。その結婚は、どちらも決めることなく、その中で誰が求められてよいかについての規則を得た。愛は一度も足りなくなかった。足りなかったのは、名前だった。
二冊の帳簿
種として与えられた本は、不倫についてのあるセラピストの記述であり、上の女性にとってもっとも揺さぶられる知見はこれだ。道を逸れる人の大きな部分が、自分の結婚を幸せだと記述する。隠れ蓑としてでも、妄想としてでもなく、愛されていて、愛していて、そして何年も身体として求められていない結婚の、素直な真実として。それらの記述において、不倫はよりよい愛の探索ではない。別の見出しの下に収められ、それから失われたものの探索なのだ。
その本の根底にある主張は、この書庫がすでに書評したそのセラピストの以前の著作と共有されているもので、愛と欲望は一つの量の二つの形ではない、というものだ。それらは異なる必要を持つ二つの仕組みである。愛は近さ、安全、知っていること、世話を欲する。欲望は距離、少しの危険、他者性、テーブルの向こうの人が完全には自分のものではないという感覚を欲する。前者にたいへん優れた結婚は、まさにその優秀さによって、後者を飢えさせがちであり、夫婦はその結果を謎として経験する。間違った帳簿を見ているからだ。
この文章の女性にとって、二冊の帳簿という説明は、ある特定のことをする。推論を取り除くのだ。彼女の結婚の沈黙は、彼女がどれだけ愛されているか、どれだけ愛しているかについての事実ではない。それは養われていない第二の仕組みについての事実であり、それが養われていない理由は、第一の仕組みの不足ではない。その推論が消えれば、問いは、愛が本物かどうか——本物である——から、もう一冊の帳簿に何が起こったのかへ変わり、それは答えのある問いだ。
間違った人に読まれた日記
種として与えられた番組は、一つの仕掛けの上に組み立てられている。二児の母である妻が、夫の前に付き合っていた男性について、そしてその男性と一緒にいたときの自分について、細かく書いた日記をつけている。夫がそれを見つけ、読む。番組の最初の、そして最良の着想は、彼が次に何をするかだ。彼は問い詰めない。日記になろうとする。彼女が書いたことを、家で演じる。そしてそれはうまくいかず、番組は、勇気を失って別の何かになる前に、それがうまくいかないことを見せるだけの正直さを持っている。
それがうまくいかない理由は、この文章が存在する理由だ。日記の中で、彼女の欲望は無傷である。それは具体的で、明瞭で、ページの上では現在形、人生の中では過去形だ。彼女にないのは、それのための時制を持つ結婚——あのページを書いた女性と弁当を詰める女性が同じ人であり、一人として求められる文法——である。夫は日記を読んで、彼女は日記の中にあるものを欲しているのだと結論する。正確には、そうではない。彼女は、今住んでいる家で、そこに住んでいる男性の前で、あれを書けたはずの人でありたいのだ。
欲望は文書ではない。それは、その対象になると決めた誰かによって、読まれてから演じられることはできない。夫の誤りは愛のある誤りであり、この文章の冒頭の問いと同じ誤りだ。彼は第二の帳簿を、努力と注意と世話によって第一の帳簿から埋め合わせられるかのように扱う。それらは愛の通貨である。もう一冊の帳簿はそれを受け付けず、番組の妻は、最初の数時間、彼女を愛する男性から間違った通貨で支払われている女性の、テレビの上でもっとも明瞭な絵である。


彼女が「お母さん」になった日
この国では、子どもができれば、夫が妻を「お母さん」と呼び、妻が夫を「お父さん」と呼ぶのはふつうのことだ。子どもの前でだけではない。二人のあいだで、台所で、寝床で、電話で。この慣わしは古く、愛情のこもったもので、この国に限られたものでもないが、ここではそれが気に留められないほど当たり前であり、だからこそ気に留める価値がある。女性は、自分の家の中で、何年も名前で呼ばれずに過ごしうる。
この文章は、この慣わしが一般に何をするかについても、それを使う人々についても、何も主張しない。それが何を聞こえるようにするかを観察するだけだ。この書庫の種となっている本の著者であるセラピストは、母と恋人の分裂について書いている——男性が、自分の子どもの母でもある女性を欲することを難しく感じうるのは、二つの役割が彼の中の別々の部屋にあり、一方の部屋がもう一方についての規則を持っているからだ、と。ほとんどの夫婦はその分裂を、静かに自分たちに起こった何かとして経験する。彼が彼女を「お母さん」と呼ぶ家では、それは静かには起こらなかった。それは毎日、彼の持つもっとも優しい声で、言われていたのだ。
それが、呼び名の変更である。それは愛の引き上げではない。しばしばその逆で、彼女がつくった家族を愛する男性の音だ。しかし名前は、人が何のためのものであるかについての規則であり、家の中のただ一人の大人に「お母さん」と呼びかけられる女性は、誰も決めないまま、自分の二冊の帳簿のどちらが開いているかを告げられている。彼女は愛されていると感じ、愛されていて、そう思うのが正しくて、それでも何年も、夫から女性として話しかけられていないことがありうる。彼女の結婚をセックスレスと名づける数え方は、結果を測っている。これは原因、あるいはその一つであり、一文の長さしかない。
家のものになった身体
この書庫は、触れるのをやめた夫婦のほとんどで、触れることが先に去り、欲することがあとに続いたこと、そして顔は朝から働いていることを論じてきた。どちらもこの文章の女性について本当であり、この節が付け加えるのは、それらがとりわけ彼女について本当になった仕組みだけだ。彼女の身体は、幼い子どもたちの年月のあいだに、配置換えされた。それは家のものになった。よじ登られ、手を伸ばされ、寄りかかられ、乳を吸われ、起こされるもの。受け取るどの触れも要求であり、彼女は要求に応え、子どもたちがやめられる年になるころには、彼女の身体は、触れることは奉仕だと学んでいた。
それを学んだ身体は、夫によってそれ以外のものとして容易には触れられえない。回路が一つに合流したからだ。彼の手は、家が彼女に求めるもう一つのものとして届き、彼女は、要求だらけの一日の終わりにさらなる要求を断るのと同じ仕方でそれを断る——参照されていない第二の帳簿からではなく、疲労から。疲労は第一の帳簿についての事実だ。そして彼はその断りを欲望についての証拠として読み、彼女は彼の読みを愛についての証拠として読み、推論は両方向に走り、沈黙は、両方向において間違った物語によって説明される。
セラピストの記述は、これが生む夫婦のための言い方を持っていて、それは残酷なものではない。愛ゆえにセックスレスなのだ、と。二人は安全なものを、危険なものから守ってきた。優しさは抑制する、と彼女は論じる。二人が互いに注意深くなるほど、どちらも、欲望が要求する不注意さで相手を欲することができなくなる。愛のある結婚は、愛にもかかわらずセックスレスなのではない。それはしばしば、愛が取った形のゆえにセックスレスであり、それは形であって、不足ではない。
彼女のものである名前
呼び名の変更が仕組みであるなら、戻る道は、もっと多くの愛ではなく——愛は一度も足りなくなかった——もっと多くの努力でもない——それは間違った通貨で支払う。戻る道は、彼女のものである名前だ。それは答えと呼ぶには小さすぎるように聞こえ、実際に小さく、そして夫婦が実際に始められる場所である。名前は、結婚についての話し合いなしに、火曜日に二人が変えられる、結婚の中のただ一つのものだからだ。
それは実践的には、彼が彼女を名前で呼ぶこと、そして彼がやめてしまっていたなら、彼女がそうしてほしいと頼むことを意味する。一週間のどこかに、彼の家を回す事務所としてではなく、彼が結婚した女性として話しかけられる部分が存在することを意味する。この書庫は前回、二人が互いの保管庫になるとき会話は結婚を去り、近さはまだ知られていないものでできていると論じた。呼び名の変更は、その保管庫の背表紙の札だ。札を変えても保管庫は空にならない。しかしそれは、どちらの帳簿がテーブルの上にあるかという問いを、開き直す。
それはまた、彼女が一人で、彼より前に、彼と別に、できることも意味する。「お母さん」としての彼女に何の権利も持たない誰かに、女性として話しかけられること——以前の彼女を知っていた友人、彼女の身体から誰も何も必要としたことのない部屋、彼女が名前で話しかけられることを設計のすべてとする取り決め。それは結婚を修復せず、この文章はそうだとは言わない。それは、頭ではなく身体における思い出しだ。第二の帳簿が存在し、彼女のものであるという——「お母さん」と呼ばれた年月が静かに片づけてしまっていた、そのことの。


彼女が誰にも負っていないもの
愛のあるセックスレスの結婚にいる女性は、しばしば、自分自身によるものも含めて、責められる側になる。断ったのは彼女であり、欲しないのは彼女であり、数え方が語る物語の中では、彼女が差し控える側だ。この文章は何も差し控えられていないと論じてきたのであり、そこから何が続くかについてはっきりしておく価値がある。彼女は、自分が書いたのではない沈黙について、結婚に説明を負っていない。要求できない通貨で、要求に応じた欲望を、夫に負っていない。そして、性のない結婚は愛のない結婚だという結論を、誰にも負っていない。その結論は一冊の帳簿をもう一冊の灯りで読んでいて、単に間違っているからだ。
彼女が自分自身に負っているかもしれないのは、第二の帳簿だ。それが存在すること、「お母さん」の下に収められる前にそれが彼女のものだったこと、そしてそれが閉じていることは名前と形についての事実であって、彼女についての事実ではないことの認知。それを読んで、結婚の中でそれを、一つずつの呼びかけによって開き直そうと決める女性もいるだろう。そこにあると知るだけで十分だと決める女性もいるだろう。結婚は結婚であるとして、帳簿を開けられる場所で、自分の選ぶ条件のもとで開きたいと決める女性もいるだろう。どれも間違った読みではない。間違った読みは、彼女が始めたところの読み——静けさは愛への評決だという読み——だ。
ここでどの結婚も、続くべきだ、変わるべきだ、終わるべきだとは言われない。この文章の唯一の指示は、あるとすれば、推論に向けられたものだ。第二の帳簿に第一の帳簿について証言させるのをやめること。愛は本物だ。沈黙は名前だ。二つは同じ事実ではなく、それらを一つとして抱えてきた女性は、結婚が求めた以上のものを抱えてきた。
この家が売るもの、そして負うもの
まず言っておくべきは、この家が前の節の名指したものを売っていることだ。母として、妻として、家を回す事務所としての彼女に何の権利も持たない誰かに、女性として話しかけられる一夜。それはまさに、呼び名を変えられた女性が欠いているものであり、それを売る家は、呼び名の変更に利害を持つ。結婚が彼女を「お母さん」の下に徹底して収めているほど、この家の提供するものはその隙間に正確に合い、その位置にある家は、結婚の文法を見つけたままにしておく——彼女が名前を持つ唯一の場所であり続ける——据え置きの理由を持つ。
だから義務を記録する。この家はどの一夜も、夫から女性として話しかけられることの代わりとして記述せず、彼女が欠いているのはそれだと言うところでは、家はそれを彼女に言い返し、自分のほうへ向け直さない。二冊の帳簿という説明は、彼女の結婚の読み方として差し出されるのであって、その診断としてではなく、どの一夜も、セックスレスの結婚の処置としても、結婚が失敗しつつある証拠としても記述されない。家は、帳簿が家で開かれるべきか、ほかの場所でか、まったく開かれないべきかについて、どちらの側にも立たない。それは彼女の決定であり、彼女の条件でなされ、家の条件はそれができるように見えるかたちにされている。
この家はまた、この文章が論じてきたことも、売り文句を添えずに彼女に負っている。彼女の結婚の愛は一度も足りなくなかった。静かになったのは第二の帳簿であり、それは優しさの中で与えられた名前によって閉じられ、閉じられているという事実は、彼女への、彼への、愛への評決ではない。ここでの一夜は、数時間、彼女を名前で呼ぶことができる。家で彼女の呼び名を変え直すことはできず、そう主張もしない。それができる二人はそこに住んでいて、その一人は彼女である。
この文章が主張しないこと
この文章は夫婦のセラピーでも性の健康の指導でもなく、処置を記述しない。結婚の沈黙が痛み、病、服薬、強制、説明のつかない変化と並んでいるところでは、問いは臨床のもの、あるいは安全の問題であり、この文章は当てはまる読み物ではない。論じられる体験は述べられた非医療の範囲で差し出されており、ここにあるものはそれを広げない。
種の本は実践から引かれたセラピストの記述であり、ここで用いた二つの主張——不倫は当事者が幸せと呼ぶ結婚でしばしば起こること、優しさは欲望を抑制すること——はその記述の水準で報告されている。数値は与えられず、含意もされない。番組は番組として、その最初の仕掛けとそれが見せるもののために読まれており、作り手や演者について何も主張しない。夫婦間の「お母さん」「お父さん」という呼びかけは、聞こえるようになったふつうの用法として読まれ、この慣わしが一般に何をするか、それを使う人々、国民性については何も主張しない。日本のセックスレスの公式の数え方はこの書庫の以前の文章に帰され、繰り返されない。数え方、評決、先に去る触れ、働く顔、保管庫についてのこの書庫の文章は帰され、繰り返されない。
この家についての節は、まず家が女性として話しかけられることを売り、したがって呼び名の変更に利害を持つことを述べ、それから義務を記録している。どの一夜も夫の呼びかけの代わりでも結婚の処置でもないこと、二冊の帳簿は読みであって診断ではないこと、家は帳簿がどこで開かれるかについて側に立たないこと、そして家は家で彼女の呼び名を変え直すことはできず、そう言うこと。何も約束されない。愛は一度も足りなくなかった。それはこの文章が留保なしに立てる唯一の主張であり、それは彼女が持っていてよいものだ。