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『阿修羅のごとく』と、言っても負けない場所
老いた父にもうひとつの家庭があると知った四姉妹は、母には黙っていようと決める。その母はとうに知っていて、女は言ったら負け、という掟を胸に暮らしてきた。向田邦子が一九七九年に書いたドラマを是枝裕和がよみがえらせたこのシリーズは、その掟を守りながら、言い負かされずに言える場所を探す女たちを見つめている。
女が、夫のコートにブラシをかけながら、のんびりと唱歌をうたっている。でんでん虫々、かたつむり。ポケットから何かが落ちて、畳の上を転がる。ミニカーだ。小さな男の子への贈り物だが、竹沢家の子に宛てたものではない。夫には別の女がいて、その女には息子がいる。彼女はミニカーを手のひらに載せ、しばらく黙って眺める。お前のあたまはどこにある。畳の上で走らせてみる。それから、力いっぱい襖に叩きつける。穏やかだった顔が、ほんの一瞬、別人のものになる。角出せ、やり出せ、あたま出せ。そこへ電話が鳴る。彼女はいつもの声に戻って受話器を取る。「もしもし、竹沢でございます」。末の娘からだ。元気なの、と母は尋ねる。
これは、是枝裕和がネットフリックスで手がけたシリーズ『阿修羅のごとく』の第一話にある場面で、一九七九年に向田邦子がテレビのために書いた脚本のとおりに演じられている。竹沢ふじは、ミニカーのことを夫に尋ねない。四人の娘たちにも言わない。娘たちのほうはちょうどそのころ、父の秘密を母に知られないように、ひどく慎重に、そしていくらか浮き立ちながら、段取りを組んでいる。ふじは知っていることをおもちゃと襖に預け、いつもの声を電話に預ける。そして家は、そのまま回っていく。
やがてふじは、娘のひとりに自分の掟を手渡す。出版された脚本では、それはこう書かれている。「そうだよ。女はね、言ったら、負け」。これを口封じの言葉として、あるいは古い時代の名残として聞くのはたやすい。すべての元凶として聞くこともできる。ドラマはそう聞かない。ふじは、知らない女ではない。すべてを知ったうえで、それをどこで使うのか、そもそも使うのかどうかを、自分で決めてきた女である。
この文章が言いたいのは、ふじの掟ははじめから知ることについての掟ではなく、黙ることについての掟ですら半分でしかなかった、ということだ。それは、返ってくる答えについての掟だった。夫に面と向かって言えば、勝ち目のない勝負が始まる。夫は否定するか、言い訳をする。そして彼女のほうが、焼きもち焼きの妻になり、波風を立てて家を壊した張本人になる。だから竹沢家の女たちは、掟を守りながら、それでも知っていることを言う。言い返されない場所を選んで。襖に、名前の載らない新聞の投書欄に、生け花教室の看板に、客でいっぱいの広間に。ドラマはこの掟を生き延びるための知恵として重んじつつ、その代償がどれほどのもので、誰が払っているのかも見落とさない。そして、娘たちがひとりずつ、言っても負けない場所を探していくさまを見つめる。
読む前のおことわりと、物語のあらまし
この文章は、結末を含めてドラマの全体に触れる。先に竹沢家の人々に会っておきたい人は、そうしてから戻ってきてほしい。
まず記録から。『阿修羅のごとく』は二〇二五年一月九日、全七話が一挙にネットフリックスで世界配信された。監督・脚色・編集は是枝裕和で、原作・脚本には向田邦子の名が掲げられている。元になったのは、NHKの土曜ドラマの枠で二部に分けて放送された向田のドラマだ。第一部の三話は一九七九年一月十三日から、第二部の四話は一九八〇年一月十九日から放送された。新しいシリーズも、オリジナルと同じく一九七九年を舞台にしている。長女の綱子を宮沢りえ、次女の巻子を尾野真千子、三女の滝子を蒼井優、四女の咲子を広瀬すずが演じ、父の恒太郎を國村隼、母のふじを松坂慶子が演じる。
向田はそれまで、TBSで長く続くホームドラマをいくつも書いていた。一九八〇年に直木賞を受け、一九八一年八月、取材先の台湾で航空機事故に遭って亡くなっている。是枝は、向田を最も尊敬し、いちばん影響を受けた人として繰り返し名を挙げてきたが、会うことはかなわなかった。シリーズの発表に寄せたコメントでは、このリメイクは向田邦子とは何だったのかをより深く理解するための試みだったのかもしれない、自分なりの決着のつけ方とでも言うのか、と述べている。
一九七九年一月、図書館で司書をしている三女の滝子が、姉と妹を呼び集める。興信所に父の身辺を調べさせたところ、父の恒太郎には友子という女がいて、その女には幼い男の子がいるという。四人は、母のふじには知らせないと約束する。けれど、四人ともそれぞれに秘密を抱えている。夫に先立たれ、生け花を教えて暮らす長女の綱子は、妻のある料亭の主人・貞治と長く関係を続けている。中学生の息子と娘を育てる専業主婦の次女・巻子は、夫の鷹男と会社の部下との仲を疑っている。四女の咲子は喫茶店で働きながら、まだ芽の出ないボクサーの陣内と暮らしている。
やがて新聞に、匿名の主婦による投書が載る。書かれているのは竹沢家そのものだ。姉妹は巻子を疑うが、鷹男が見抜く。書いたのは母のふじで、母ははじめから知っていたのだ。夫のことを相談しに来た巻子に、ふじは掟を口にする。そのあと巻子は、友子のアパートの前で母と鉢合わせる。ふじはその場で倒れ、そのまま亡くなる。友子に別れを告げられたばかりの恒太郎は、妻の枕元で涙を流す。
第二部で、糸はほどけては結び直される。滝子は自分が雇った調査員の勝又と結婚し、ふたりは父の暮らす実家に住む。陣内はチャンピオンになり、咲子は地味な姉を見下す華やかなチャンピオン夫人になるが、陣内は滝子の結婚式の場で倒れ、防衛戦のあと意識が戻らなくなる。最終話で、それぞれの糸はひとところに行き着く。ドラマは、冬の白菜を漬けながら言い合う四姉妹と、それを眺めて、女は阿修羅だと勝又に言う鷹男の姿で終わる。
ひとつの家、四つの暮らし方
是枝は、四姉妹を描き分けるために四人の住まいも作り分けたと、公開のころのインタビューで語っている。巻子の家は、当時の部長クラスが住むような一戸建てで、東京から少し離れている。いちばんお金のない咲子が住むのは、風呂のないアパートだ。
四人を並べてみると、一九七九年の東京で女が暮らしを立てていく道筋の、ほとんど地図のようになる。自分の小さな教室を営む寡婦。管理職の夫の給料で家を守る専業主婦。公の職場で働く独身の女。男の出世にすべてを賭ける若いウェイトレス。向田がこの地図を意図して描いたと言うつもりはない。けれどそれは、掟と無関係ではない。妻が何を口にできるかは、妻の暮らしを誰の稼ぎが支えているかと、切り離せないからだ。
その中心に実家がある。四人が娘に戻り、子どものころのように言い合う家であり、冬が来るたびに白菜を漬ける家だ。そこでは、誰も長くは驚いていない。父のもうひとつの家庭は、事件というより、よけて暮らすべき事実として扱われる。竹沢家の浮気は出来事ではなく、状態である。そしてその状態の内側で暮らしているのは、女たちである。
是枝は、父の浮気を、池に投げこまれた小石にたとえている。対立は、小石が落ちる前から水面下で起きていた。第一話で、皆が父の浮気にざわついているあいだにも、巻子は父のことより自分の夫の浮気のほうが気になっていて、鷹男に遠回しに毒を吐いている。滝子と咲子の根深い確執も浮かび上がるが、それは父の浮気とは何の関係もない。小石は原因ではない。水がすでにどこで動いていたのかを、見えるようにするだけだ。
向田は、この一家の文法を、最初の数分で示している。批評家の小野寺系がリアルサウンドの評で引く脚本では、物語は、赤電話をかける滝子から始まる。話がある、みんなが集まったところで話す、と姉に言いながら、滝子は曇ったガラス窓に大きく「父」と書き、その字をどんどん太くなぞっていく。シリーズも同じ電話から始まる。この家族が自分たちに向けて最初に言わなければならないことは、口に出されるのではなく、書かれるのである。
ふじが知っていたこと
姉妹を呼び集めたのは滝子だが、いちばん多くを知っているのは、ふじである。ドラマはそれを、三つに分けて見せる。
ひとつめはミニカーである。ふたつめは、綱子が妹たちに打ち明ける昔の記憶だ。父の浮気はこれが初めてではない、前のときには、母が怖い顔で石臼をひいていた、と。ふたつを重ねると、ひとつの歴史になる。人に向かって言えないことを、人はしばしば物に向かって言う。石臼は、力をぶつけられても文句ひとつ言わないように作られた道具だ。長い年月ののち、ミニカーが襖にぶつかる。竹沢家から怒りが消えたことは一度もない。ただ、物のほかに行き場がなかったのだ。
みっつめが投書である。ひとりの主婦が、名前を伏せて新聞に書く。いくつかの細部を変えただけの、竹沢家とそっくりな家族のことを。英紙ガーディアンでこのシリーズを評したレベッカ・ニコルソンは、字幕で観たこのドラマから、投書が最後に行き着く問いを引いている。私たちのような女にとって、波風を立てずに生きることは、本当に幸せなのか、という問いだ。
投書が何をしているのかを考えてみたい。それはすべてを、すべての人に向かって言い、しかも誰からも言い返されない。問いつめる相手の名前もなければ、焼きもちだと責められる妻もいない。夫が釈明する場面もない。打ち明けた人だけを抜き取った、打ち明け話である。この図書室の「することは許され、言うことは許されない。」は、ひとつの道徳の秩序を描いてみせた。行為には寛容で、開示には厳格な秩序である。することはつねに許されていたが、言うことはけっして許されなかった、と。ふじの投書は、その秩序の内側で言うための方法である。誰もが黙って許している浮気は、そのまま続く。誰にも許されていない打ち明け話は、それでも行われる。活字になって、責められる語り手のいないまま。
そして、掟そのもの。小野寺が引く出版された脚本では、巻子が母のもとへ来て、こう打ち明ける。「どこに、誰といるか、うすうす知ってるのよ。でもね、あたし、黙ってるの」。ふじが答える。「そうだよ。女はね、言ったら、負け」。順番に目をとめておきたい。巻子は、母のもとへ来る前から、すでに掟を守っている。ふじは掟を押しつけているのではない。娘がもう作りはじめている料理の味を見て、それでいいのよ、とうなずく母のように、請け合っているのである。
掟を、公平に聞く
もし言っていたら、ふじは何を手にしただろう。何年ももうひとつの家庭を持ち、否定するだけの理由をいくらでも持つ夫との、正面からの対決である。夫が否定すれば、彼女は知っていることを無駄に使い、夫にもっとうまく隠すことを教えただけになる。夫が認めれば、今度は彼女が何かをしなければならない。その世代の妻に残された道は、行くあてがあるとも限らないまま家を出るか、もう口に出されてしまったことが居座る家に留まるか、そのどちらかに近かったかもしれない。どちらを選んでも、彼女のほうが物語の主役にされる。焼きもち焼きの妻、家族が壊れた原因に。黙っていれば、彼女は知っている者のままでいられる。口に出せば、言い返される者になっていた。
負け、とはそういう意味である。間違っている、ということではない。自分が決めたのではない規則の勝負で、より多くの金と、より大きな身動きの自由と、表面を平らに保ちたいという家じゅうの思惑を味方につけた相手に、やりこめられるということだ。小野寺も、同じ趣旨のことを書いている。女性にとって不利な条件がそろった社会では、気づかないほうが勝ちだという価値判断に、納得しかねるところがありながら、現実味を感じもする、と。掟は、女とはこういうものだという信念ではない。ある種の勝負を、人生の大半をかけて間近に見てきた人がはじき出した、計算である。
そしてこの掟は、ふじ自身だけを守っているのではない。四人の娘が帰ってくる家を、言い合いの絶えない食卓を、娘たちがいまも慕う父を守っている。この図書室の「『Thappad』と、誰も彼女に尋ねなかったこと」は、平手打ちを受けた妻に、耐えなさいと言った女たちの声に耳を傾けた。そして、どの人も自分自身の忍耐の内側から忍耐を求めていたこと、拒めば何を払うことになるかについては、それぞれのやり方で正しかったことを見いだした。ふじも、その女たちの列に連なる。ただし、ひとつ大きな違いがある。伝えられているかぎり、ふじに耐えろと言った人はいない。彼女はひとりでそれを割り出し、その答えを、自分の暮らしを立たせてきた唯一の方法として、娘に手渡すのである。
また、この掟は取り決めでもない。この図書室の「『1122 いいふうふ』と、決まりが肩代わりしたひと言」は、欲望についての夫婦の決まりを、ふたりが話さないと合意したことの地図として読んだ。ふじの掟に合意したのは、ふじひとりだった。掟は、ひとりがもうひとりに対して採った戦略であり、彼女はそれを、愛情から、娘に遺したのである。
だからといって、掟が正しいことにはならないし、ドラマも正しいとは言わない。ドラマが言うのは、それが彼女の掟だったこと、それが彼女をまっすぐ立たせていたこと、そしてそこに代価があったことだ。
もうひとりの女の戸口で
ふじは最後まで掟を守り、その最後は、ある戸口でやってくる。巻子は、友子のアパートの前で母と鉢合わせる。ふじはそこで倒れ、そのまま亡くなる。病院で、巻子は父の胸ぐらをつかむ。
ここは平明に書いておきたい。読みが道を誤りやすい場所だからだ。一度も口に出さなかった女が、最後に、見に行った。そこで何をするつもりだったのか、記録は語らないし、この文章も推し量らない。掟は、彼女が言い返されることを防げた。見に行くことまでは、止められなかった。
小野寺は、第一部のこの結末を、浮気した夫にこのうえない悔恨を味わわせる一種の復讐として読んでいる。評はその言葉を引用符でくくっているが、それでも、この文章はその読みをとらない。死は発言ではない。ふじの死を彼女の最後の言葉として読めば、生涯こばんできた種類の発言を、最後の最後に彼女に持たせることになる。しかも、彼女の代わりにその言葉を語ってしまうことになる。
是枝版は、ここにひとつ、母の死の受けとめ方を左右する変更を加えている。向田の脚本では、女は阿修羅だという鷹男の台詞が、第三話、つまり第一部の終わりに置かれていた。是枝はそれをシリーズの最後の最後に移し、第三話の結びには代わりに、夏目漱石『虞美人草』の終わりの一節を、画面に文字で映した。悲劇は喜劇より偉大である。粟か米か、あの女かこの女か、それらはすべて喜劇であり、最後にひとつの問題が残る。生か死か。これが悲劇である、と。こうして、母の死のあとに、男が女を総括するひとことが続くことはなくなった。
是枝はシネマトゥデイの取材に、このシリーズと自作の『海街diary』は表と裏のようなものだと語っている。あちらは、父親がいなくなることで三姉妹が四姉妹になり、家族になっていく物語であり、こちらは、母親がいなくなることで、結束していたかに見えた四姉妹が対立していく物語だ、と。もし彼の読みが正しいなら、ふじが支えていたのは、自分の結婚だけではなかったことになる。
言われなかったことの行き先
掟には代価がある。ドラマは、それをもっともよく守る娘が、代価を払っていくさまを見せる。
夫の相手は部下の啓子だと思いこむようになってから、巻子は、小さく、しかし具体的なかたちで崩れていく。スーパーで万引きをして捕まる。電話が鳴るたびにびくりとする。自分の娘が啓子と親しくなるのが許せない。いずれも、追いつめられていく女に起きたことだ。この文章は、そのどれにも病名をつけない。言われなかったことの行き先を見れば、それで足りる。行き場を失ったものは、彼女の手と神経に出た。棚から取った品物に、鳴るたびに身をすくませる電話に、どうしても耐えられない娘の交友に。その交友が耐えがたいのは、口にすまいと決めた女の名前に、いちばん近づいてしまう場所だからかもしれない。
この図書室の「はじめから備えつけられなかった怒りについて。」は、怒りは、ある予期が破られたときの学習された応答であり、予期は、破られるより前にまず備えつけられていなければならない、と論じた。外からの観察者が日本の女性の暮らしに怨みを見つけそこなってきたのは、感情がないからではない。感情はずっとそこにあり、行き場がなかっただけだ、と。竹沢家は、この一文を芝居にしたようなものだ。ただし、ひとつだけ補いがいる。あの家の怒りは隠れていない。石臼をひき、ミニカーを投げる。あの家に備えつけられなかったのは、怒りではない。その宛先である。怒りが届いてもよいとされる相手である。
あの文章は、もうひとつ、もっと居心地の悪い指摘もしていた。こうした暮らしの仕組みは、その相当の部分が女たちによって保たれている、と。掟は、母から巻子へ届く。レシピを伝えるように、台所で、愛情とともに手渡される。だからこそ、それを下ろすのは難しい。掟を破ることは、夫に逆らうことだけではない。もう言い返すことのできない母に、あなたのやり方では足りなかったと告げることでもある。このドラマの来歴にも、その手渡しの一場面がある。二〇〇三年の森田芳光の映画では、一九七九年と八〇年のテレビ版で巻子を演じた八千草薫が、母の役で戻ってきた。
代価を払っているのは巻子だけではない。夫が意識の戻らないまま横たわり、入院費がかさみ、姑に責められる咲子は、姉たちの前では気丈にふるまう。同じ方法の、もっと若い顔である。表面を平らに保ち、残りはひとりで払う。この文章は陣内の容体について推測しない。見つめたいのは、家族が、病床にいちばん近い女に何を期待するかである。
言って、それでも隣にいた娘
やがて、啓子が巻子を訪ねてくる。結婚するので、自分の結婚式の仲人をお願いしたいという。そして、真実はご自分で確かめてください、と告げる。
啓子がどういうつもりだったにせよ、この頼みは、掟を外側からほどいてしまう。巻子が疑ってきた当の女性が、問いを巻子の手に返し、それを尋ねるのはあなたなのだと言ったのだ。だから巻子は尋ねる。夫を問い詰め、鷹男は何もかも否定する。彼が嘘をついているのかどうかは、記録からは決まらない。大事なのは、そのあと巻子が何をするかだ。
式の当日、夫の隣に立ち、ほかの客たちと一緒に新郎新婦へ拍手を送りながら、巻子は笑顔のまま夫に告げる。あなたの言うことなんて、何ひとつ信じていない、と。
ここが、娘が母の掟を破る瞬間である。どう破ったのかを、正確に見ておきたい。巻子は言う。新聞にでも襖にでもなく、夫本人に言う。けれど、夫がけっして言い返せない場所で言う。人前で、式の最中に、手は拍手を続けたまま。夫は、他人の結婚式で騒ぎを起こさずに、もう一度否定することはできない。言い争うこともできない。巻子は、言っても負けない場所を見つけたのである。
ドラマは第一話で、その伏線を張っていた。シネマトゥデイの記事が、リメイク版で加わった台詞として紹介している場面だ。浄瑠璃を観た帰りに実家に集まり、寿司を囲む席で、綱子が、このうちでいちばん怖いのは巻子じゃないの、と言う。鷹男は余裕を見せる。「うちだってもうすぐ20年だ。大体女房が何考えてるかくらいわかりますよ」。綱子は、甘い甘い、それじゃ後ろからグサッとやられちゃう、とからかう。巻子はすかさず返す。「あら、やるなら正面からよ」。そしてその時が来たとき、巻子は隣からやった。夫の隣に留まり、しかも、言った。彼女の立ち位置は、その像ひとつに収まっている。
是枝は、そうしたかったのだと、はっきり語っている。シネマトゥデイの取材に、最初の設定のままだと巻子はおそらくいちばん共感しづらい人物になってしまうと思った、と答えた。専業主婦で、夫の帰りを悶々としながら待つ女性を、大きく変えずに、どうすれば今の人物にできるか。「最終的には夫をやり込めて勝つ方向に着地させてみようというふうに」。勝つ。母の言葉の、ちょうど裏返しである。巻子が勝ちとったのは、告白でも離婚でもない。最後のひとことと、彼女が知っていることを今は夫も知っている、という事実である。
ここに判定はいらない。巻子は家を出るべきだったのか。ドラマはその問いを立てないし、この文章が答えることでもない。巻子は留まる。そして、言った。どちらも本当であり、どちらかを選ばずにふたつを抱えたままでいるところに、このドラマの胆力がある。
妻たちは何を知り、それをどうしたか
巻子のやり方だけが、ドラマの見つけた方法ではない。妻たちを並べて、それぞれにふたつのことを尋ねてみる。何を知っていたのか。それを、どうしたのか。
貞治の妻の豊子は、興信所に金を払うだけのことは知っている。夫の足の裏に、ひらがな七文字で描くあの落書きの顔、へのへのもへじを見つけた豊子は、同じ顔を綱子の生け花教室の看板に描く。言葉はひとつもない。町じゅうでたったひとりにしか読めない伝言を、その人が見落としようのない場所に残したのである。
ドラマのなかでいちばん鮮やかで、いちばん冷たい一手であり、ふじの掟を研いで刃にしたような一手でもある。豊子は、言わずに言う。知っていることを愛人に知らせ、しかも誰にも何ひとつ求めない。これは勝利ではない。言っても負けない場所を見つけた妻が、言ったところで何も変わらない結婚のなかにいる、ということだ。
そして、その看板の向こう側にいる綱子。このドラマは、どの女にも、浮気の片側にだけ立つことを許さない。綱子は裏切られた妻の娘であり、何年ものあいだ、他人の結婚のなかの、もうひとりの女でもあった。豊子が勝又に夫の身辺を調べさせると、綱子は相手は自分だと認め、もう切れていると言い繕う。切れてはいない。見合い相手と出かけた雅楽の会を途中で抜け出して、貞治のもとへ戻る。是枝によれば、向田はホームドラマにセックスを持ちこみたいという構想から、このドラマを書きはじめたという。綱子のなかで、向田はそれをやってのけた。綱子の欲望は本物であり、それは別の女に本当の痛みを負わせてもいる。
最終話、夜中に隣人から巻子へ、綱子と貞治がふたりで死のうとしたという知らせが入る。綱子は、ただの事故だと言い張る。記録はふたつの話を並べたままにしている。この文章もそうする。これを恋物語の結末として読むことはしない。それが何であったにせよ、それは何ひとつ終わらせなかった。関係は続き、豊子は看板に顔を描く。
そして、すべての中心にいる友子には、幼い息子がいる。その子と笑い合う父を見て、滝子はどうしても父を許せない。「することは許され、言うことは許されない。」は、見られないことを軸にした道徳は、暮らしを隠せる人には心地よく、隠せない人には残酷だと警告していた。この一家にとって、隠しようのない暮らしとは、ひとりの小さな男の子の暮らしである。竹沢家の表面は、その子を表面の外に置いておくことで、平らに保たれてきた。
姉妹のために声を上げる
掟を破るやり方は、もうひとつある。掟が思いもよらなかったやり方だ。ふじのひとことは、妻と夫についての言葉である。姉妹については、何も言っていない。
滝子と咲子は、子どものころ同じ部屋でいがみ合って以来、ずっと張り合ってきた。是枝は、第二部があってはじめてこのふたりが生きてくると語っている。ふたりの暮らし向きも、女としての輝きのようなものも、そこで逆転していくからだ。生真面目な司書は恋をして結婚する。ウェイトレスはチャンピオン夫人になり、外車と毛皮で現れて、姉を見下す。滝子の結婚式で陣内が新郎に酒をこぼすと、滝子はふたりに帰ってと怒鳴り、防衛戦のあと陣内が倒れると、妹を妬んだせいではないかと自分を責める。
そして運命は、もう一度ひっくり返る。陣内は意識が戻らず、入院費はかさみ、咲子は街で出会った男と関係を持って、金を要求される。その男と陣内の病室で向き合い、追い払ったのは、滝子だった。
このドラマで交わされる言葉のうち、これがいちばん平明で、滝子にとって本当に高くつく言葉である。病室で、ひとりの男に向かって、ずっと疎ましく思ってきた妹のために、声を上げる。妻の言葉ではないから、掟の外にある。けれどそれは、掟が禁じるまさにその行為だ。本人に向かって、声に出して言うこと。それを滝子は、別の誰かのためにする。ドラマがふじに返す答えがあるとすれば、たぶんこれだろう。言っても負けない場所は、ときに、もうひとりの女の隣にある。
ドラマは、ふたりをそれぞれの場所に残して終わる。滝子は身ごもっている。咲子は、自分を責めた陣内の母と並んで病床に付き添い、彼の足が動いたとき、ふたりで喜ぶ。
題名は男のもの、最後のまなざしは女たちのもの
題名の言葉には、長い来歴がある。阿修羅は、サンスクリット語のアスラを音で写した言葉だ。古代インドの神話で、アスラはもともと神的な存在だったが、やがて神々、とりわけインドラ、日本の仏教でいう帝釈天の敵とされるようになった。名前を神ならざるものと読む俗な語源解釈が広まり、辞書には「非天」という訳語も記されている。仏教はアスラを二重に取りこんだ。生きものが生まれ変わりをくり返す六道のひとつとして、そして仏法を守る八部衆のひとりとして。
向田の脚本は、自前の定義を掲げている。リアルサウンドの評が引くそのくだりには、こうある。「外には仁義礼智信を掲げるかに見えるが、内には猜疑心強く、日常争いを好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口を言いあう。怒りの生命の象徴」。
是枝版の最後の場面で、鷹男と勝又は、白菜を漬けながら言い合っては笑う四姉妹を眺めている。批評家の碓井広義が書き起こしているところによれば、勝又が、仲がいいんだか悪いんだかわかりませんね、とこぼすと、鷹男は、阿修羅だねえ、と応じる。聞き返す勝又に、彼は言う。「女は阿修羅だよ」。そして、「阿修羅はインドの神様でさあ、外っかわは仁義礼智信を標榜してるけどねえ、人の悪口言うのが好きでさあ」。すると四姉妹が、笑いながら睨む。「何か言った?」
つまり題名は男のものであり、それも、妻に笑顔で、何ひとつ信じていないと告げられたばかりの男のものである。ドラマは彼にそれを言わせたうえで、最後のまなざしを女たちに渡す。四人の問いは冗談であり、同時に、このドラマ全体をひとことにしたものでもある。何か言った? 第一話で、二十年近く一緒にいれば女房の考えていることくらい大体わかる、と高をくくっていた男が、いまは、自分の口にしたことを見張られる側に立っている。
辞書類が日本の阿修羅として名を挙げるのは、奈良・興福寺にある天平の乾漆像である。三つの顔と六本の腕を持ち、その表情は、怒りではなく、愁いを含んだものとして記されている。竹沢家の女たちの象徴としては、鷹男の冗談よりも、こちらのほうがふさわしい。顔が三つあることは、裏表があることと同じではない。家を立たせておき、知っていることを知ったまま、それでもどこかで言う場所を探す人には、それくらいの顔が要るのだ。
日本で観る、あのころといま
まず、巻子のような世帯から。内閣府の『男女共同参画白書』令和三年版は、夫が農林業以外の雇用者で妻が職に就いていない世帯と、夫婦ともに農林業以外の雇用者である世帯の数を並べている。第二部が放送された一九八〇年、前者は千百十四万世帯、後者は六百十四万世帯で、専業主婦のいる世帯のほうが倍近く多かった。一九九七年以降は共働きの世帯のほうが上回り、二〇二〇年には前者が五百七十一万世帯、後者が千二百四十万世帯になっている。なお白書自身が、二〇〇二年を境にもとになる調査が変わっているので、前後を比べるには注意が要る、と書き添えている。
次に離婚。厚生労働省の人口動態統計によれば、一九七九年の離婚件数は十三万五千二百五十組、離婚率は人口千人あたり一・一七だった。二〇二四年は十八万五千九百四組、一・五五である。もっと大きく変わったのは、どんな結婚が終わるのかのほうだ。厚生労働省は、結婚式を挙げたときか同居を始めたときの早いほうから、同居をやめたときまでを同居期間として数えている。一九七九年、同居期間が二十年以上の夫婦の離婚は九千五百四十組で、離婚全体のおよそ十四組に一組だった。二〇二四年には、十八万五千九百四組のうち四万六百八十四組、五組に一組を超えている。
これらの数字については、言えないことをはっきりさせておきたい。数字が語るのは国のことであって、ある家族のことではない。誰がなぜ留まり、なぜ出ていったのかを、数字は何ひとつ説明しない。長い結婚のあとの離婚が増えたからといって、女たちが声を得たことの証明にはならない。寿命は延び、法律や年金の仕組みは変わり、結婚を終える決断は、勇気と同じくらい事情によってなされる。数字が示しているのは、もっと狭いことだ。ふじの掟がもっとも理にかなっていた暮らし、つまり自分の収入を持たない妻が、夫の給料で回る家を守る暮らしは、一九八〇年には二つの型のうち多いほうだった。いまはそうではない。掟を理にかなったものにしていた計算は、もう成り立たない。それでも掟は残り、娘たちはそれを受け継ぐ。
日本の外の視聴者は、このドラマに字幕を通して出会う。語られないことが多くを運ぶドラマにとって、それは小さなことではない。日本語を話さないニコルソンは、字幕を追ううちに見落とした瞬間のために、もう一度観たくなると書いた。是枝は、シリーズの発表に寄せたコメントでこう語っている。「会話で交わされる表面上の毒と、その背後に隠された愛、その両方があるから向田邦子のドラマは豊かなんです」。そして、「言葉になっているセリフを伝えるだけでは芝居じゃない」とも。第二言語で日本に暮らす女性や、台所の決まりごとをまだ覚えている途中の家に嫁いだ女性にとって、それはなじみのある状態かもしれない。言葉は届く。重さは、別のところにある。
この読みへの反論
ここから、以上の読みに対する反論を、できるかぎり強く述べておく。
第一に、この文章は、遠回しに言うことの巧みさに感心しすぎている。感心は、言い訳に変わりうる。投書も、へのへのもへじも、笑顔も、鮮やかではある。けれどどれも、暮らしの仕組みをそっくりそのまま残していく。豊子の描いた顔は何も変えない。関係は続く。ふじの投書も何も変えない。彼女はもうひとりの女の戸口で倒れる。このドラマは、そしてこの文章も、檻の格子に美しさを見いだしているだけではないか。そう言われても仕方がない。返せる言葉は多くない。生き延びる方法を重んじることは、それを勧めることと同じではないし、ドラマはその代償を隠さずに見せている。それでも、この批判は一部において成り立つし、成り立つべきでもある。
第二に、この読みのなかでいちばん胸のすく場面、巻子の笑顔は、半分は現代の願いである。是枝は、巻子を勝つ方向に着地させようとした。批評家の碓井も、オリジナルの女性たちはどこか男性に遠慮していて、それは当時の価値観の反映でもあったが、是枝版ではそれが微調整され、随所に彼女たちの見事な自己主張が見てとれる、と書いた。もしそうなら、言っても負けない場所は、一九七九年の女たちが見つけたものというより、二〇二五年が彼女たちに与えたものであり、この文章は改訂を発見と読み違えていることになる。
第三に、判定を下さないことは、見ないことと紙一重である。男たちには柔らかな着地が用意されている。何年ももうひとつの家庭を持っていた恒太郎は泣き、鷹男は何もかも否定したうえで、シリーズを締めくくる台詞まで与えられる。このドラマは男たちに甘く、この文章はそれに遠慮しすぎている、と感じる読者もいるだろう。ここで試みた答えは、道徳で裁かないことは、気づかないことと同じではない、というものだ。この文章は、そのしわ寄せが誰に行くのかを言おうとしてきた。ふじに、豊子に、表面の外に置かれた小さな男の子に。それで足りるかどうかは、読者が決めることである。
第四に、この読みは、鷹男と同じやり方で一般化している。竹沢家の女たちは言い返されない場所で言う、というのも、やはり女についての主張である。掟は、ある年のある一家のものであって、国のものでも、国民性でもない。これは七話のなかに読みとった型であって、ほかの誰かについての発見ではない。
最後に、ふじの死について。この文章は、それを伝言として読むことをこばんだ。けれどドラマはまさにそれを、ふじのただひとつの発言、夫がようやく聞いた言葉として描いているのだ、と考える読者もいるだろう。ここでのこばみは、ドラマ以上にふじをかばっているのかもしれない。それは同じ場面の公正な読み方であり、作品を観ずに記録に拠っているこの文章には、それを退けることはできない。
この図書室が受け取るもの
知っていることと、それを言うことは、別々の行為である。ドラマはこのふたつを一度も混同しない。何かを口にしない女は、それを知らない女ではない。当たり前に聞こえるかもしれない。けれど物語のなかでも家族のなかでも、黙っている女はたいていそうは読まれない。それが、この図書室が『阿修羅のごとく』から受け取る第一のことだ。
第二に、沈黙の掟は性格の欠点ではなく、方法であり、方法には理由がある。ふじの方法は、何十年も一軒の家を立たせてきた。反論する前に、まずそれを重んじたい。そのうえで、その代償からも目をそらさずにいたい。ドラマも目をそらしていない。スーパーの棚に伸びた娘の手からも、もうひとりの女の戸口まで歩いた、母の最後の道のりからも。
第三は、結婚と長い愛についてである。長い結婚のなかの誠実さは、告白と同じものではない、とドラマは示している。鷹男は何も認めない。それでも巻子は、自分が信じていることを夫の顔に向かって言い、隣に留まった人の立ち位置を手にした。結婚がそれを支えきれるかどうか、ドラマは彼女に委ねている。この図書室の考えは、ただ、言うことと出ていくことは別々の決断だということ、そして女には、言ったからといって出ていくことまで決めたとみなされずに、言う権利がある、ということである。
もしあなたが、何かを知っていながら口にせずにいるのなら。結婚のなかで、家族のなかで、皆がそしらぬふりをしている食卓で。このドラマはあなたに助言をしないし、この文章もしない。ひとつ、気づいたことがあるだけだ。黙っていることは、知らないことと同じではなかった。あなたに沈黙の掟を手渡した人は、たぶんあなたを愛していて、その掟はたぶん、その人をまっすぐ立たせていた。守ってきたことは愚かではなかったし、下ろすことも愚かではない。言う場所がもしあるのなら、それを見つけるのはあなただ。姉妹の隣かもしれない。一枚の紙の上かもしれない。人でいっぱいの部屋の、あの人の顔の前かもしれない。まだ、どこでもないのかもしれない。そのどれを選んでも、あなたは負けた人にはならない。
この文章が拠っているもの、主張しないこと
これはテレビドラマの読みであり、臨床的、法的、治療的な助言ではない。登場人物を含めて誰も診断せず、どの読者の結婚についての助言でもない。
このドラマそのものは、この文章のために観ていない。拠っているのは、シリーズの公表された記録とクレジット、是枝のコメントとインタビュー、オリジナルの放送についてのNHKアーカイブスの記録、向田の出版された脚本を引き、あるいは場面を描写した批評、そして本文で名を挙げた公的な統計である。台詞は、脚本か、それを引用した批評から引き、それ以外はすべて要約した。
鷹男が浮気をしていたのかどうかは、その記録からは決まらないし、この文章も決めない。向田邦子の私生活や、演者の誰かについて、何かを主張することもない。
もしこの物語が、死にたいという思いに触れるなら、それがあなた自身のことでも身近な人のことでも、文章ではなく人に話してほしい。厚生労働省の「まもろうよ こころ」には、電話や文字のやりとりで相談できる窓口がまとめられている。
ここで名前を挙げた監督、演者、批評家、放送局、出版社のいずれも、この出版物とは関係がなく、この出版物を推奨してもいない。
持ち帰る問い
知っていながら、一度も口にしたことのないことはありますか。それは、代わりにどこへ行きましたか。
話すことについてのあなたの掟は、誰から手渡されたものですか。その掟は、その人の何を守っていましたか。
もし言うとしたら、相手に答えてもらう必要はありますか。それとも、言ったということだけで足りるでしょうか。
言っても負けない場所は、ありますか。あなたが言うとき、隣に立ってくれる人はいますか。
一度も仲よくできなかった姉妹であっても、その人のためになら声を上げられる。そういう相手は、いますか。
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