EN
メニュー

Cinema

『1122 いいふうふ』と、決まりが肩代わりしたひと言

  • 取り決め
  • スクリーンの女性
  • 結婚
  • セックスレス
  • 沈黙、言葉、触れ方
  • 同意

何でも話せるのにセックスのことだけは話せない夫婦が、話し合う代わりに、婚外恋愛は許可制、デートは毎月第三木曜日という決まりをつくる。ドラマは夫婦が手を伸ばしうる抜け道をひとつずつ試し、そのどれもが誰かに、しかも選んだ本人とは限らない誰かに代償を払わせること、そしてどの抜け道にも、決まりが肩代わりしていたひと言だけは言えなかったことを見せていく。

第一話のはじめのほうで、夫がお茶をいれ、甘いものを出す。妻はパソコンに向かって仕事をしている。ふたりは互いを「おとやん」「一子ちゃん」と呼び合う。結婚七年目。親友のように仲がよく、何でも話せる。ただ、ひとつのことを除いて。ふたりのあいだには、もうセックスがない。妻が夫を拒んだところから始まったレスだった。ふたりは、その理由を話し合う代わりに、ひとつの決まりをつくった。

決まりは、ふたつの条項と、ひとつの日付でできている。嘘はつかない。家に持ち込まない。デートは毎月第三木曜日。その夜、文具メーカーに勤める相原二也は、生け花教室で知り合った恋人に会いに行く。相手は夫と子どものいる女性だ。ウェブデザイナーの妻、一子は、夫がいまどこにいるのかを正確に知っている。この取り決めには、書類のような名前までついている。「婚外恋愛許可制」。書類めいていることこそが要だった。何もかもをきちんと整えておくことで、夫婦の仲を円満に保つための制度なのだから。

そして結婚記念日の旅行の夜、一子は何年ぶりかで、自分から夫に手を伸ばす。二也は断る。好きな人がいるから、と。

『1122 いいふうふ』という物語の蝶番は、この拒絶にある。なぜそれがこれほど痛いのかを、正確に見ておきたい。二也は決まりを破ったのではない。守ったのだ。夫婦を守るためにつくられた取り決めは、約束したとおりのことを約束したとおりに果たした。そして、それが守っていたもののなかに、一子にはもう開けられない扉が含まれていた。

この文章が言いたいのは、あの決まりは誠実さの欠如ではなく、ある特定の誠実さの肩代わりだった、ということだ。決まりは、夫の欲望がどこへ行ってよいかを、公平に、正確に定めていた。けれど妻の欲望に何が起きたのかは、一度も言葉にしなかった。第三木曜日の向こう側にいる女性に何を背負わせることになるのかも、一度も尋ねなかった。許可とは、話し合いを不要にするための合意である。ドラマは全七話をかけて、飛ばされたその話し合いのつけを、決まりを書いたふたりと、決まりに加わってさえいなかったひとりの女性に、順に回していく。そして最後に、どんな決まりも想定していなかった一手で終わる。ようやくそのひと言を口にしたふたりが、愛情は手放さずに、形のほうを手放すのである。

このドラマについて、そして先に断っておくこと

事実を一度だけ確かめておく。『1122 いいふうふ』は全七話の日本のドラマで、二〇二四年六月十四日からプライム・ビデオで世界に向けて配信された。監督は今泉力哉、脚本は今泉かおり。ふたりは夫婦で、これが初めての夫婦合作だった。夫婦のあいだで言えることと言えないことを描くドラマについて、知っておいてよい事実だろう。脚本の今泉かおりは、原作を初めて読んでから脚本ができあがるまでずっと考えていたのは、「良い夫婦」とは何かということだった、と語っている。

一子を高畑充希、二也を岡田将生が演じる。二也の恋人の柏木美月は西野七瀬、その夫の志朗は高良健吾。一子がのちに出会う青年、池端礼は吉野北人。原作は渡辺ペコの漫画『1122』で、講談社の『モーニング・ツー』に二〇一六年から二〇二〇年まで連載され、全七巻にまとめられた。

題名は日付であり、語呂合わせでもある。十一月二十二日は「いい夫婦の日」とされている。渡辺ペコは、「いい夫婦」という言葉が持つ欺瞞や難しさ、それを作品に冠してしまうことの危うさを強く感じていたという。取材のたびに、いい夫婦とは何かと問われ、何度も問われるうちにたどり着いたのは、その言葉に囚われないこと、そして信頼と敬意があること、だったそうだ。

ドラマは原作と同じく、日本国憲法の一節から始まる。ドラマ化にあたって原作者が頼んだことのひとつが、冒頭にこの条文を映すことだった。第二十四条には、こうある。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」。渡辺はこの条文を、とても前向きで背中を押してくれる言葉だと感じたと語り、これはこういうことを伝える漫画なのだと分かりやすく伝わるよう、冒頭に置いたと話している。

以下では、最終話と結末まで触れる。この文章が読むのはドラマで、原作と大きく違うところは、そう断る。物語はあらすじとして書き、台詞を長く引用することはしない。

ふたつの条項と、ひとつの日付

決まりを誰が書いたのかは、大事なことだ。ドラマの公式の紹介ははっきりしている。「婚外恋愛許可制」は、妻が夫に提案したものだった。寝室の沈黙は一子の「いや」から始まり、二也はひどく落ち込んだ。その二也が生け花教室に通いはじめ、明るさを取り戻し、目に見えて恋をしはじめたとき、守っていたのは一子の書いた条項だった。

それを冷たいと言うのも、うまく立ち回ったと言うのも、たやすい。どちらも公平ではない。この種の決まりが、一子の立場にいる女性に何をしてくれるのかを見てみたい。夫とのセックスを断るのは一子の権利で、決まりがあれば、理由を問われずに断り続けられる。夫は不幸にならず、一子は夫を失わない。感じていない欲望を演じる人もいなければ、相手がしおれていくのを見続ける人もいない。決まりは、そのすべてに一度に答えた。一子に変わることを求めずに、二也を生き返らせた。友だちのような仲も、部屋も、呼び名も、お茶の時間も守った。公平でさえあった。条項はふたりに等しく当てはまる。のちに友人の恵が一子に思い出させるとおりに。

そして、ひとつのことだけは閉じたままにした。決まりは、夫の欲望がどこへ行ってよいかを決めた。妻の欲望に何が起きたのかについては、何も言わなかった。なぜやめたのか。また始めたいのか。何が恋しくて、何が恋しくないのか。そうした問いを、決まりは不要にした。許可というものが静かに果たす仕事は、それだ。話し合わないまま、合意だけはしておくためのやり方なのである。

この図書室は以前、「書いた人が、望んでいる人とは限らない。」という文章で、ふたりの取り決めを言葉にする側について書いた。取り決めを書き記すのは、たいてい家庭の事務を担っている側であって、望んでいる側とは限らない。その文章は、取り決めを推測ではなく明示的な言葉で行った夫婦を描いたもっとも注意深い日本の物語として、ほかならぬこの作品を挙げていた。ドラマは、その論点をもう一歩先へ進める。ここで条項を書いたのは、条項が許したものを本当は望んでいなかったと、あとで分かる側だった。一子がそれを自分で口にするのは、決まりが崩れる夜、泣きながらである。決まりは先にあった。そのひと言には、物語の半分が必要だった。

出口はあって、入口はない

記念日の夜が暴くのは、決まりのたったひとつの設計上の欠陥である。誠実さの欠陥ではない。この種の許可には、出口があって、入口がない。ひとりがどこかへ行くことは許す。けれど、戻ってくるための条項も、許した側が気持ちを変えるための条項もない。一子が二也に手を伸ばすとき、一子は決まりを破っていない。二也が断るときも、破っていない。一子が求めているのは、決まりが一度も口にしなかったものなのだ。

二也の「いや」も、一子の「いや」と同じ重さで受けとめられるべきだ。相手を求めることは、相手に応じてもらえる権利を持つことではない。どちらの方向でもそうだ。結婚も、ふたりの歴史も、決まりも、ある夜に誰かの身体を差し出させはしない。「「セックスレス」は、判定ではない。」という文章は、ありふれた断りが二度三度重なるだけで誘うこと自体が止んでしまうこと、そしてそのあとの沈黙を、ふたりがそれぞれひとりで読み、それぞれに読み違えることを書いた。このドラマは、その沈黙に条項が与えられたあとから始まる。記念日の夜が見せるのは、その条項が沈黙に何をしたかだ。沈黙はもう、どちらかがひと言で直せる偶然ではなかった。取り決めになっていた。そして一子は、その取り決めの向こう側に立っていた。

友人たちは、友人らしいことをする。遠慮なく話し、それぞれの事情を打ち明け合い、ひとりは女性向けのサービスの噂を持ち出す。恵は、決まりは一子にも同じ権利を与えているのだと背中を押す。そのとおりだ。同じ出口を。渡辺ペコは、夫婦の問題を女友だちの集まりでぶちまけてすっきりしても、ストレスがほんの一瞬薄まるだけで問題は残る、相手と向き合わないと何も解決しない、と語っている。一子には出口がある。まだないのは、そのひと言だ。

ほどなく、折り合いの悪い母のもとへ帰省したとき、一子は二也に、幼いころの父の暴力のことを打ち明ける。ドラマはそれを、いちばん信頼している人に話された、一子の人生の一部として置く。一子の身体や、一子の「いや」を解く鍵としては差し出さない。この文章もそうはしない。セックスを望まなくなった女性は、誰に対してもその原因を差し出す義務を負っていない。そして人は、その人に起きたいちばん悪いことで説明されるものではない。

「ひとりが前提ではないとき。開かれた取り決めと、それが実際に要求するもの。」という文章は、こうした取り決めがもっともよく失敗する道筋を名指した。うまくいっていない関係が開かれるのは、何が足りないのかを誰も口にしないまま、それぞれが足りないものを手に入れられるからだ。けれど実際には、開かれた取り決めは閉じた関係よりも多くの話し合いを必要とする。少なくではなく。このドラマは、話すことがとびきり上手なふたりによって、その失敗をゆっくりと語った物語であり、一般論では見えにくいことを見せる。飛ばされた話し合いは、二也の欲望についてのものではなかった。二也の欲望を、決まりは見事に扱った。飛ばされたのは一子の欲望についての話し合いで、決まりは、まさにそこに触れずにおくようにつくられていた。

決まりに加わっていなかった人

決まりには署名がふたつあり、そこに登場する人は三人いた。

柏木美月もまた、結婚している。専業主婦で、発達に遅れのある幼い息子を、ほとんどひとりで育てている。息子は療育園に通っている。夫の志朗は、育児は妻の務めだと考えている。美月が二也と出会ったのは、生け花教室だった。二也が美月にとって何だったのかを、ドラマは推測させない。優しく、よく気がつき、数時間のあいだだけは、美月のものだった。

この図書室は、平日の午後に恋人と会う妻たちを描いた二〇一四年のドラマを、「『昼顔』と、予定の入っていない唯一の時間」という文章で読んだ。不倫は、ある女性の一週間のなかで唯一、誰にも予定を組まれていない時間でありうる、という読みである。このドラマのなかには、その女性がいる。そしてその立場は、裏返されている。二也と過ごす時間は、美月の一週間のなかで唯一、誰のものでもない時間だったかもしれない。けれど同じ時間は、向こう側では、別の人の予定表に書き込まれていた。第三木曜日。許可済みの時間として。

美月がそれを知るのは、人目につかないよう外で会うのは控えようと自分から言い出したときだ。二也は、その必要はない、妻は知っているから、と答える。ドラマは美月の激しい怒りに、正面から重みを与える。笑って眺めるものではなく、理解されるべき怒りだ。美月は、自分が頼って暮らしている結婚のなかで、代償を払いながら秘密を守ってきた。そして、秘密にしていたのは自分だけだったと知る。美月が合意したのは不倫だった。別の夫婦の取り決めのなかの一条項になることには、一度も合意していない。誰も美月に尋ねなかった。

同意は、取り決めが触れるすべての人に届いていなければならない。この取り決めは届いていなかった。一子は二也に許可を与えることができた。けれど美月の代わりに何かを許すことも、志朗の代わりに何かを許すこともできなかった。ふたりのあいだの合意が縛るのは、それを結んだふたりだけだ。三人目を守りはしないし、三人目を縛りもしない。ドラマは次に、そのことを見せていく。婚姻の外での性関係について、また誰が誰に何を請求できるのかについて、日本の法律には法律の定めがある。現実の事情のなかでそれが何を意味するかは弁護士に尋ねることであって、ドラマについての文章が答えることではない。

美月は二也に、息子と三人で暮らそうと言う。この物語のなかで、それまで誰が口にしたどの言葉よりも率直な言葉だ。そしてそれは二也を怯えさせ、自分に一度も向けたことのない問いへと追い込む。自分の気持ちは、ただの欲望だったのではないか。志朗のシンガポール転勤が決まったとき、二也はほっとしてしまう。決まりは二也に、予定表つきの恋を与えた。人生ごと求めてくる人への備えは、与えていなかった。

このドラマには、もうひとつの許可がある。そちらは一度も口にされなかった。志朗は、妻の不倫に気づいていた。気づいていて、目をそらした。息子の療育から目をそらしてきたのと同じように。そして転勤が決まると、母親として胸を張れるようにしてほしいと妻に告げる。ひとつの夫婦は許可を書き記し、もうひとつの夫婦はただ目をそらした。どちらの許可も、許す側を話し合いから免れさせた。

二也の誕生日。決まりを破って美月と最後の夜を過ごした二也は、これからは友だちでいたいと告げる。美月は激高して二也に襲いかかり、二也は傷を負う。ドラマがこの場面をどんな調子で撮っていようと、これを笑い話としても、情熱の証としても読むべきではない。これは暴力である。別の人の合意のなかの一条項として扱われてきた女性がふるった暴力であり、そう扱われてきたことは、暴力の言い訳にならない。その夜がなぜそこで終わったのかを説明するだけで、それ以上のことは何も説明しない。

美月は家に帰り、志朗にすべてを打ち明ける。そして、ドラマがずっと誰かに言わせたがっていた言葉を口にする。私を人間として見てほしい。互いに変わらなければ、一緒にはいられない。渡辺ペコは、この夫婦で描きたかったのは、夫婦のなかで力の弱いほうが、言われて黙って終わるのではなく、言葉で伝え、抵抗し、言い返すようになる場面だったと語っている。女性が黙ってしまうことはまだ多いと思うから、そこで負けないでほしいのだ、と。やがて美月は妊娠し、志朗の子として産むと決める。はじめてひとりで息子の世話をした志朗は、美月が何を抱えてきたのかを知る。美月も、息子に八つ当たりしてきたことを打ち明ける。あの家の張りつめたものは、子どもにまで届いていた。ドラマはそれを隠さず、美月自身の口から言わせている。夫婦は、やり直す。

外に置いておくはずだったもの

二つめの条項は、家に持ち込まない、だった。誕生日の夜、二也は傷を負って帰ってくる。

そこから続くのは、このドラマでいちばんの場面であり、この結婚で最初の本当の話し合いだ。二也はすべてを話す。一子は泣き、謝り、決まりがずっと肩代わりしてきたひと言を、ようやく口にする。夫に恋人がいるのが、本当は嫌だった。いまやっとそれに気づいた、と。ふたりは一緒に泣き、取り決めを終わらせる。

もしドラマがここで終わっていたら、よくできた寓話で済んだだろう。けれど作品は、いちばん大人びた展開を選ぶ。夫婦に戻るのは、壊すより難しい。外に置いておくはずだったものが、すべて家のなかに入ってきている。二也は、別れ際に美月から言われた言葉を振り払えず、妻と体を重ねられない。一子は、比べることをやめられない。打ち明け話は扉を開けた。けれど部屋に家具を入れてはくれなかった。主題歌として流れるスピッツの曲には、「修理のうた」という副題がついている。修理がどれほどゆっくりしか進まないかを見せることで、ドラマはその言葉に見合うものになっている。

渡辺ペコは、体を重ねられない理由を話し合うのは互いにある程度成熟していなければ無理で、そこで向き合える人たちこそが本当の「いい夫婦」なのだと語っている。別のところでは、話し合いはある程度成熟していないとできない高度なコミュニケーションで、それができないから、いきなりキレたり逃げたりする人が出てくるのだ、とも。打ち明け話のあと、相原夫婦はしばらくのあいだ、それをやってのける。そして、片方が逃げる。

二也は、カフェで若い男と向き合い、手を握られている妻を見てしまう。そして声もかけずに、その場を去る。

お金を払った夜と、読者が下した判定

記念日の夜のあと、一子は、自分はどうしたいのかとはっきり自分に問いかける。そして、友人たちの話に出た女性用風俗の店を予約する。そこで若いセラピストの礼に出会い、心を惹かれる。はじめて礼を予約した日、二也から腰を痛めたと連絡が入り、一子は家に帰って、夫の看病をする。二也が決まりを破って美月と最後の夜を過ごす日、一子はもう一度、礼を予約する。そして、大切に扱われていると感じて、思わず涙を流す。

渡辺ペコは、なぜ一子に恋人ではなく、お金を払うサービスを選ばせたのかを説明している。二也はすでに恋に夢中になっている。一子まで恋愛にすると話がくどくなるし、どちらの恋がより純粋か、という物語にはしたくなかった。二也が恋でうっとりしているのに対して、一子は恋ではなく、性的な欲求や心の欠けたところを満たすためにサービスを使う。その対比を描きたかったし、それを知った二也が嫌悪をあらわにする場面も描きたかった、と。ふたりがパートナー以外と関係を持ったのは、どちらも切実な思いを抱えた末のことだった、とも語っている。

連載当時、読者の反応ははっきり分かれたという。渡辺は、笑いまじりにこう振り返っている。二也の公認不倫には非難が殺到し、クズと呼ぶような軽蔑のまなざしが向けられた。一子と礼の場面には、ネット上でも、よかったね、いちこちゃん、という声援が寄せられた。まったく違った、と。決まりに至るまでの過程で、一子のちょっとした乱暴さや思いやりのなさも描いていたのに、何より多かったのは、不倫は最低という一点張りの見方だった、とも話している。ふたつの行為は同じではない。一方は、決まりに一度も合意しておらず、決まりに守られてもいない女性を巻き込んだ。もう一方は、お金を払った、区切りのある出会いで、そこにはそこの問いがあり、ドラマもそれを隠していない。けれど読者の判定は、そうしたことを量って下されたようには見えない。判定がたいていそうであるように、誰の欲望が同情に値するかを先に決めたうえで下されたように見える。

ドラマはこの二重の基準を、登場人物に担わせることで照らし出す。妻の許可を得た恋人と何か月も過ごしてきた二也が、礼が誰なのかを知ると、若い男をお金で買った妻に軽蔑の目を向ける。許可を与えられた男が、許可を与えることはできない。そして一子が言い返すことも、同じくらい大事だ。一子は、あの夜々のことを謝らない。どうしても必要だった、あれに救われたのだと、夫に向かって言う。

そのうえでドラマは、お金を払った時間のほうも、きれいなままにはしておかない。その代償もまた、家に帰ってきた。寝室での比較として、夫の軽蔑のまなざしとして、そして最後には、真剣に付き合ってほしいという礼自身の気持ちとして。区切りは、礼の側からは保たれなかった。一子の側から、一子が保つ。これから一緒に生きていきたいのは夫なのだと、一子は礼に告げる。

不妊治療と、描けなかった未来

三つめの抜け道は、誰も抜け道とは呼ばないものだ。結婚した夫婦が次にすると期待されていることだから。物語のはじめのほう、法事の席で親戚たちは相原夫婦に子どものことをせっつき、二也は、ふたりで十分だと言い返している。やがて、二也が家を出てまた戻り、一子が礼との関係を終わらせたあとで、ふたりは子どもを持とうと決める。

不妊治療は何か月も続く。体外受精は実を結ばない。一子は仕事を減らして治療に向き合い、少しずつ余裕を失っていく。子どもがいなくても、ふたりでいられれば幸せだと二也は言う。一子には、その未来がもう描けない。夫婦でいることがきつくなったと打ち明けて、ふたりは離婚する。

これを失敗と呼ぶのはたやすい。優しい夫の申し出を退けた一子を、わがままだと言うのもたやすい。どちらも冷たい。不妊治療は身体にも仕事にも重く、そのなかで足もとを失った女性は、何ひとつしくじってはいない。一子が本当は何を望むべきだったのかを決めるのは、この文章の役目ではない。ドラマが見せているのは、もっと狭いことだ。しばらくのあいだ、子どもは、この結婚が次にとるはずの形になっていた。法事の席で親戚が尋ねる問いへの答えに。その形がやってこなかったとき、一子には、それ抜きの結婚が見えなくなった。離婚は、どちらかへの判定ではない。出来合いの形が、とうとう尽きたときに起きたことである。

売れなかった部屋

最終話は、家についての話だ。そして、このドラマでもっとも静かに大胆な一時間である。

一子は、離婚のことをまだ母に伝えていない。連絡が返ってこないので実家を訪ねると、母は冷たくなっていた。一子が真っ先に知らせたのは、二也だった。二也は仕事を休み、葬儀を取り仕切り、一子のそばにいる。

ふたりの部屋は売りに出され、買い手が見つかるまで、一子がひとりで住むことになる。三か月後、部屋を見に人が来る。その内見のさなかに、一子は泣き出してしまう。この部屋は売れない。二也と一緒にいたい。二也も泣く。ふたりは離婚したまま、また同じ部屋で暮らしはじめる。最後に二也が帰ってきて、ただいま、おかえり、とふたりは言い交わす。二也は一子に、くちなしの花束を手渡す。

渡辺ペコは、離婚は最初から決めていた展開ではなかったと語っている。いろいろ描いていたら、やはり離婚することになった。離婚という選択も全然悪くないと思っている。けれど物語としては、もう少し頑張ってみたくて、別々に暮らしはじめたふたりがそれでも戻ろうとするなら何が必要かを考え、その形は結婚でなくてもいいのではないかと思い至った。制度が先にあるのではない。その人と一緒にいたいか、生活をともにして一緒に生きていきたいかという思いが本来は先にあるはずで、ふたりはそこに戻ったのだ、と。渡辺はドラマ化にあたって、原作では描けなかったことをひとつ頼んでいる。最終話で、子どものことをあれこれ言われた一子が、私にはもう必要ないのだと、濁さずに言えるようにすることだった。

最後の場面には、覚えておきたい小さなことがふたつある。決まりの二つめの条項は、家に持ち込まない、だった。ドラマは、その条項を破り続けた男が、わざわざ何かを家に持ち帰る場面で終わる。花である。二也は美月と別れたあとも、生け花教室に通い続けている。花は、二也自身のものになっていたのだ。そしてその花の名前は、この国の観客には二重に聞こえる。花屋は、くちなしの花言葉を、とても幸せです、と教えてくれる。辞書は、その名が、熟しても実が口を開かないことに由来すると教えてくれる。たったひとつのことを口にできるようになるまでの夫婦の物語が、口無しという名の花で終わるのだ。それが手渡される戸口では、ただいまとおかえりという、家庭にあるいちばん小さな言葉だけで足りている。それが意図されたものかどうか、この文章には分からない。気づかずにおくには、できすぎている。

日本から見ると、外から見ると

日本で観る人にとって、ドラマの冒頭に映る条文は、結婚にふたつの動詞を与えている。成立する、と、維持される。両性の合意によって成立し、相互の協力によって維持される。相原夫婦は、ひとつめの動詞がとても得意だった。あの取り決めそのものが、ていねいに起草された合意なのだから。途切れたのは、ふたつめのほうだ。それも、よく言われるような途切れ方ではない。ふたりとも働き、家事を分け合い、互いに優しかった。途切れたのは、たったひとつの話し合いの維持だった。渡辺ペコは、結婚をロマンスの結果とも打算とも捉えておらず、お互いが向き合って維持していくものだと考えていた、と語っている。このドラマは、その考えに負荷をかけて試してみせたものだと言える。

言葉も大事だ。この作品には「公認不倫」という短い呼び名がついてまわり、渡辺はその言葉がひとり歩きしたと振り返っている。けれど作中の名前は「婚外恋愛許可制」である。英語圏の観客なら、オープン・マリッジという言葉に手を伸ばすかもしれない。それも当てはまらない。開かれた結婚は、ふたりともが通れる扉の言葉だ。許可制は、ひとりが扉を押さえている言葉である。条項のうえでは、一子にも同じ権利があった。けれど名前は、それが誰の決まりで、誰の欲望を中心につくられたのかを教えてくれる。そしてどちらの言葉も、どちらの言語でも、戻ってくる人のために扉を押さえてはいない。

日本のドラマは、すでに離婚を終わりではないものとして描きはじめていた。二〇二一年の『大豆田とわ子と三人の元夫』では、三度離婚した女性のまわりに、三人の元夫が恨みではなく愛着から、何度も現れる。元夫のひとりを演じたのは岡田将生で、二也を演じる三年前のことだ。『1122 いいふうふ』は、ある方向ではもっと先へ行き、別の方向ではそれほど遠くへは行かない。離婚した夫婦は、相手のまわりを回るのではない。同じ部屋に戻るのだ。

海外でいちばん近い古典は、一九七三年にスウェーデンのテレビのためにつくられたベルイマンの『ある結婚の風景』だろう。離婚して、それぞれ再婚したふたりが、ひそかに恋人として会い続ける。最後に友人の別荘で、夫だった男は、自分たちは不完全に、自分たちなりのやり方で愛し合っているのだと告げる。『1122 いいふうふ』は、同じ発見を隠れ家から連れ出して、ふたりの台所に置いた。どちらでも、愛は形より長く生きる。けれど合鍵まで持たせるのは、片方だけだ。

このドラマは、日本の結婚一般を描いた肖像ではないし、そう観るべきでもない。ひとつの結婚の肖像だ。どこの夫婦もまず書かないような決まりと、どこの夫婦にも覚えのありそうな沈黙を抱えた、ひとつの結婚の。

この読みへの反論

この文章が間違っている道は、少なくとも四つある。ひとつめが、いちばん強い。

第一に、あの決まりこそが話し合いだったのかもしれない。相原夫婦の立場にいる夫婦の多くは、何も言わない。欲望はひそかに外へ向かうか、どこへも向かわず、結婚はその穴のまわりで続いていく。一子と二也は、もっとまれで、もっと勇気のいることをした。状況に名前をつけ、条項を書き、互いに知らせ合った。だからこそ、うまくいかなくなったとき、真実は発覚するのではなく、ひと晩で語られることができた。渡辺ペコは、こうした関係を推奨しているわけではないと断りつつ、人がこれほど長く生きる時代に、性的な関係を含めて婚姻をどう長く運営していくかは、一度考えてみる価値があると語っている。この見方に立てば、決まりは誠実さの肩代わりではなく、誠実さの最初の下書きだったことになる。そしてこの文章は、たいていの夫婦よりずっと多くをしたふたりに対して、不公平だったことになる。この譲歩は本物だ。それでも、より狭い主張は残る。その下書きは夫の側を書き、妻の側を白紙のままにした。

第二に、話し合いは治療ではない。誕生日の夜のあと、相原夫婦はたいていの夫婦よりずっと正直に話した。それでも寝室は元に戻らず、子どもは授からず、法律上の結婚も救われなかった。身体は言葉についてくるとは限らない。傷ついたあとのふたりの寝室で起きること、そして不妊治療の場で起きることのすべては、時間と、必要なら医師にゆだねられるべきことで、ひとつの文章の主張が引き受けることではない。それに結末は、よりよい話し合いからやってきたのではない。ひとりの死と、内見の約束からやってきた。

第三に、この結末は、いいとこ取りかもしれない。離婚したまま一緒に暮らすことは、義務抜きの愛情とも、結婚が与えていた保護を手放して私的な取り決めに退くこととも読める。その保護が具体的に何なのかは個々の事情によるので、弁護士に尋ねることだ。ドラマは、ふたりの新しい暮らしの書類仕事を映さない。戸口で終わる。この結末を甘すぎると感じる人がいても、それは間違いではない。

第四に、ドラマは美月を使っているのかもしれない。この文章は美月を、決まりが一度も相談しなかった人として読んできた。けれど物語は、美月が二也を襲った場面から妊娠と和解へと足早に進み、息子のことも夫の不在も、数場面で片がついてしまう。美月は相原夫婦に教訓を与えるために存在し、ふたりが自由な結末を迎えられるように、美月の結婚のほうが整えられたのだ、と批判することもできる。それはドラマの本当の限界であり、文章が修理できるものではない。

そしてもうひとつ、この文章自身の対比への反論がある。決まりに合意していなかった美月と、お金を払った区切りのある出会いとを、この文章は分けてきた。けれどその区別は、礼という人を平らにしてしまうおそれがある。礼には礼の気持ちがあったことを、ドラマははっきり見せている。対比をきれいにするために、それを取り上げてはいけない。

この図書室の立場と、この家に差し出せないもの

この図書室の立場を書いておく。欲望についての決まりは、その夫婦が話さないと合意したことの地図でもある。だから、何を許しているかだけでなく、どんな問いを不要にしているかという読み方をする価値がある。取り決めは、それが触れるすべての人に対して誠実であるべきで、署名していない人も例外ではない。ふたりのあいだの許可が、三人目の立場を安全にも公平にもすることはない。決まりが肩代わりした話し合いは、それでも果たされるべきものとして残っていた。そしてそれがやってきたとき、交渉としてではなく、悲しみと謝罪としてやってきたというドラマの描き方は正しい。結末もまた、このふたりを越えたところで正しい。愛は、それがやってきたときの形より長く生きることができる。形が愛の証明だったことは、一度もない。

そして、この家にとって不利なことも書いておく。私的な同伴を売るこの家には、一子がお金を払った夜は自分へのいたわりで、害が生じたのは二也のお金の介在しない不倫のほうだった、という読みを好む商売上の理由がいくらでもある。その好みが、原作者の語った読者の声援と、いかにぴったり並んでいるかに、読者は気づいていい。渡辺ペコ自身は、手放しで声援を送ってはいない。女性も買う側になる、それをいいじゃないかと思って描いたと言いながら、いま世の中にある、男性が年の離れた若い女性を買うという現状を考えると全然よく思えない、あれはどういうことなのだろう、と自分に問うている。対談の相手だった漫画家のひうらさとるは、まず歴史がまったく違うし、力の釣り合いがはじめから偏っているからではないか、と応じた。歴史と力の偏りをなぞる非対称は、偽善と同じではない。それでも非対称であることに変わりはなく、その答えに利害を持つ家に、この問いを決着させる資格はない。

この家は、自らが売っているものと一子が見つけたものとを、どちらの方向にも比べない。ドラマも、比べる根拠を何ひとつ与えていない。お金を払った時間は治療ではなく、ドラマもそう装ったことは一度もない。それは一子に本物の何かを与え、そのつけは、ほかのすべてと同じように家に帰ってきた。一子が最後に選んだのは、ひと晩ではなかった。特定のひとりと、特定のひとつの部屋で生きていくことだった。ここで売られているもののなかにも、どこで売られているもののなかにも、それはない。

持ち帰るための問い

一緒に暮らす人とのあいだに、何か決まりがあるだろうか。性のこと、お金のこと、家族のこと、携帯電話のこと。その決まりは、どんな問いを不要にしているだろう。言い出したのは誰で、その人は本当にそれを望んでいただろうか。あなたたちの取り決めのなかに三人目がいるなら、誰かがその人に尋ねただろうか。決まりが肩代わりしているひと言を、最後に口にしたのはいつだろう。そして、いま暮らしている形がなくなったら、あなたは何を残したいだろう。

もしあなたが、こうした決まりを書いた側なら、それは臆病ではなかった。穴のあいた優しさだった。そしてその穴には、いまからでも言葉を入れることができる。決まりにはできないことだ。もしあなたが「いや」と言った側なら、その「いや」が問題だったことは一度もない。それはひとつの事実で、事実については話すことができる。ドラマは、ひとりの男が帰ってきて、ひとりの女性がおかえりと迎える戸口で終わる。誰も、何にも署名しない。それが唯一のよい結末だとは、ドラマは言わない。いい夫婦とは、いい夫婦という資格を目指すのをやめて、ようやくそのひと言を口にできるようになったふたりのことかもしれない、と言っているだけだ。

この問いから、次へ

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

このお便りについて