Cinema
『メイド・イン・ヘヴン ~運命の出会い~』と、取引でしか手に入らなかったもの
南デリーのふたりのウェディングプランナーは、依頼主の一族に、天で結ばれたように見える縁を売っている。彼らが仕立てる婚礼の裏には、かならず取引がある。このドラマがよく見ているのは、女性たちが本来受け取ってよいものが、ほとんど権利としては届かないということだ。花嫁の過去も、尊厳も、結婚の取り分も、嫁いだ家のなかの居場所も、取引して手に入れるしかない。そしていちばん上手に取引するプランナーは、いちばん少ないものしか持たずに育った女性である。ドラマは彼女に目をみはり、同時に、取引のひとつひとつの代価を数えつづける。
『メイド・イン・ヘヴン ~運命の出会い~』の最初の婚礼は、デリーでいちばん大きな婚礼である。花婿の一族がプランナーにまず求めるのは、花の相談ではない。花嫁のことを調べてほしい、というのだ。花婿は自転車で財を成した一族の跡取りで、花嫁のアーリヤーは記者である。花婿の両親は何かがおかしいと感じている。雇われたふたりのプランナー、ターラー・カンナーとカラン・メーラーは、彼女が本当はどういう人なのかを突きとめなければならない。さもなければ、婚礼そのものがなくなるかもしれない。調べて出てくるのは、彼女が過去に中絶をしていたという事実だ。彼女自身の人生の、私的な事実である。それが、ふたつの家のあいだの卓の上に、片づけるべき項目のひとつとして載せられる。
式がご破算になりかけると、ターラーは花嫁をそっと脇へ呼ぶ。ある批評家が伝えるところでは、そこで彼女が持ち出すのは、損得の計算だ。夫になる人が、手放すことになる財産を、いつか惜しまないと言い切れるのか。それに、あの両親だっていつまでも生きてはいない。最後には、あのお金はあなたたちのものになる。冷笑的な助言とも、少し違う。この計算がどう出るかを知っている女の助言である。彼女自身が、一度その計算をしたのだから。ターラーは下位中流の家に育ち、実業家一族の跡取りと結婚した。
この場面に、ドラマ全体が小さく収まっている。このドラマは一話ごとにひとつの婚礼を描き、そのどれの裏にも取引がある。花嫁の過去を調べさせる花婿の一家。式の当日に持参金を要求する両親。政略結婚から花嫁を逃がす計画。華やかな婚礼の裏側を暴いたことで、この作品はよく褒められる。けれど、この作品がいちばんはっきり見ているのは、もっと狭く、もっと厳しいことだ。女性たちが本来受け取ってよいものは、ほとんど権利としては届かない。花嫁の過去も、尊厳も、結婚の取り分も、嫁いだ家のなかの居場所も、どれも取引して手に入れるしかない。そしていちばん上手に取引するプランナーは、いちばん少ないものしか持たずに育った女性である。
この文章は、その一本の糸だけを、ふたつのシーズンを通してたどる。取引とは何か、誰がそれを結ぶのか、そしてその代価は何か。ドラマはその横に、ほかにふたつのものを、ずっと控えめに置いている。ひとつは権利だ。もうひとりのプランナーが、人前で、代償を払って求める権利。もうひとつは、権利でも取引でもない何かである。
読む前に、そしてドラマのあらまし
この文章は、ふたつのシーズンの結末まで書く。結末に入るところは、数節先で改めて知らせる。先に画面で見届けたい人は、その知らせのところで読むのをやめて、観終えてから戻ってくればいい。
『メイド・イン・ヘヴン』は、ゾーヤー・アクタルとリーマー・カーグティが企画し、ふたりがアランクリター・シュリーワースタウとともに脚本を書いた。製作はエクセル・エンターテインメントとタイガー・ベイビー・フィルムズで、監督にはアクタル、カーグティ、シュリーワースタウらが名を連ねる。第一シーズンの九話は二〇一九年三月八日に、第二シーズンの七話は二〇二三年八月十日に、プライム・ビデオで配信された。言葉は英語とヒンディー語である。ターラーをショービター・ドゥーリパーラが、カランをアルジュン・マートゥルが演じ、ターラーの夫アーディル・カンナーをジム・サルブが、親友のファイザー・ナクヴィーをカルキ・ケクランが演じる。第二シーズンでは、ブルブル・ジョウハリーをモナ・シングが、メヘル・チョードリーをトリネートラ・ハルダール・グンマラージュが演じている。マートゥルはカランを演じて、二〇二〇年の国際エミー賞の男優賞にノミネートされた。日本でもプライム・ビデオで見ることができ、題には原題にない副題がついている。「運命の出会い」である。
この文章を書くにあたって、ドラマそのものは視聴していない。筋については、公表されている作品の記録と、各シーズンの配信当時に書かれた批評やあらすじ紹介に拠った。台詞は要約して伝えており、字句どおりの引用ではない。資料によって場面の説明が違うときは、重なっている部分だけを採った。
二〇一九年三月、トロントの週刊紙の取材で、カーグティは婚礼という舞台について、ドラマにはうってつけの背景だったが、自分たちは表面の下まで掘ってみたかったのだと語り、すべては初めから、インドの社会を探り、ある種の社会批評をするための器だったとも述べている。この文章は、表面については彼女の言葉をそのまま受けとり、その下にあるもののうち、ひとつだけを見る。
取引を、運命のように見せる仕事
英語には、結婚は天で結ばれる、という言い回しがある。このドラマの中心にある会社は、その言い回しから名前をとっている。名前が、そのまま商品なのだ。ターラーとカランが南デリーの一族に売っているのは、はじめから結ばれるはずだったように見える縁の姿である。花、音楽、光、そして何年も回し見される写真。花の陰で彼らが扱っているのは、その縁が実際にはどうやって結ばれたのか、ということのほうだ。
ふたりを雇い、代金を払うのは一族である。そして一族が婚礼に寄せる思惑は、花嫁の思いと同じとはかぎらない。第一話は、この仕事がどこまで踏みこむものなのかを見せる。プランナーは嫁ぎ先の一族のために、ひとりの女性の過去を探り、それから、お金の話を持ちだして、彼女の決心にまで口をはさむ。ドラマはそのどちらも、仕事のうちとして描く。肝心なのは、まさにそこだ。
会社そのものも、取引の上に建っている。会社の元手を貸したのは高利貸しのラメーシュ・ジョウハリーで、カランはいまもその借金を返しつづけている。第二シーズンになると、ジョウハリーは共同経営者になり、その妻ブルブルが帳簿に目を光らせる。裕福な家に嫁いだターラーは、お金のためにこの会社を回しているわけではない。ふたりは他人の取引を仲立ちしながら、自分たちもまた、ひとつの取引のなかにいる。
この図書室の「インド。取り決めの内側で、何が交渉されているのか。」は、女性の教育と収入が伸びても、インドの取り決めによる結婚は崩れず、その内側に交渉を抱えこむようになった、と論じた。断る権利があり、顔合わせがあり、いつまでに返事をするのかをめぐる押し引きがある。そしてその交渉が、カーストにまで及ぶことはきわめてまれだ、と。『メイド・イン・ヘヴン』の舞台は、その交渉がいちばん大がかりになる家々であり、しかも物語は、あの文章が扱おうとしなかった側から語られる。交渉を取り仕切るために雇われた人々の側から。プランナーたちは、卓のどちら側にも座っていない。卓の上で決まったことを、運命のように見せるのが彼らの仕事である。
妥協と、取引と、権利
第一シーズンが配信されたとき、インドのウェブ誌ザ・スワドルに寄稿した評者は、この作品を、女性が生き延びるためにする計算ずくの妥協を描いたドラマとして読んだ。見出しにそう掲げていて、その読みは正しい。この文章はただ、その一語を少し研いでおきたい。ドラマそのものが、その一語より鋭いからだ。
妥協とは、何かを手放すことだ。取引とは、何かと何かを引き換えることだ。権利とは、本来受け取ってよいもので、お金を払って買う必要のないものだ。三つは、それぞれ違う跡を残す。妥協の代価を払うのは、妥協した本人だけだ。取引では双方が代価を払い、勝つこともできる。ただし勝ち取ったものには、値札がついたままだ。権利は、持っているだけなら何もかからない。だからこそ手に入りにくい。誰かに、それを尊重させなければならないからだ。そしてこのドラマの世界では、その誰かが、その場にいることはめったにない。だから女たちは取引をする。手持ちのものを差し出して。お金があればお金を。沈黙を。評判を。誠実そうな顔を。
それは、取引をする女性たちの道徳的な欠陥ではないし、この読みでは、ドラマもそうは描いていない。描かれるのは、ほかの扉が閉ざされているか、開くのが遅すぎるか、開ければ危険な世界であり、そのことを周りの誰よりも早く悟った女性たちである。
計算を早く覚えたターラー
ターラー自身の計算は、早くから始まっていた。第一シーズンについての二つの資料によれば、彼女はかつて、礼儀作法を教える学校に通っていた。ある評者の言い方を借りれば、彼女はそこで、これから入っていく世界のナイフとフォークの作法を身につけた。結婚の前、彼女はカンナー家の会社で働いていた。跡取りのアーディルには、別の婚約者がいた。
ふたりのことが表に出たとき、アーディルの父、つまり当時の彼女の雇い主は、息子のことは忘れて黙って去るようにと、まとまった金を差し出した。彼女はそれを断った。
一話ずつ感想を書いているブログ「ドント・コール・イット・ボリウッド」の評者は、この拒絶を、誠実さに賭けた一手として読んだ。アーディルへの想いを、それが本当は何であれ、どんな小切手よりも上に置いた一手だ、と。そしてそれは効いた、とその評者は書く。父親は心を動かされ、息子はのちに彼女を探しに来た。この読みに立てば、拒絶は気持ちでもあり、戦術でもある。確かなのは、計算のほうだ。まとまった金は、小さく、一度きりの値段である。財産のある一族への結婚は、大きく、しかも払いつづけてくれる値段である。彼女は小さな取引を断り、大きな取引を待った。
第二シーズンには、こんな場面がある。オープン誌の批評家が伝えるところでは、付き合いはじめたシェフはいい人だとターラーが話すと、母親は、あなたは郊外で月々のローンを払っているような男のために生まれてきたんじゃない、と答えるのだ。短いやりとりだが、多くを語っている。値踏みは、家から始まっていたのである。
ターラーを成り上がり者と読んで、そこで済ませるのはたやすい。同じ二〇一九年の取材で、カーグティは登場人物たちについて、こう語っている。現実の人間は善と悪の混ざりもので、英雄や悪役がいるわけではない。みんな、ただ生きていこうとしているだけなのだ、と。この読みに立てば、ターラーは、母と、作法の学校と、小切手帳を持った雇い主から、早いうちに学んだのである。自分のような女は、誰と結婚できるかで値をつけられるのだ、と。彼女はその値踏みに異を唱えなかった。その値踏みを、上回ってみせたのである。
式場を出ていった花嫁
第四話は、この仕事のもうひとつの顔を見せる。花婿は行政官で、つつましい式を望み、ふたりは費用を自分たちで払うことに決める。ところが当日、ザ・スワドルの紹介によれば、花婿の両親は持参金を要求して、花婿の行列が式場に入るのをひそかに止めてしまう。途方に暮れた花嫁の両親は、娘の式を台なしにしないためにと金を工面しようとし、プランナーたちは両家を取り次ぐ役回りになる。
そこでターラーは、自分の役目を踏み越える。ふたりを夫婦にするはずの儀式が始まる直前に、何が起きているのかを花嫁に伝えるのだ。花嫁は立ちあがり、会場から出ていく。
花婿の両親がしたことを、正確に言っておきたい。このエピソードはそれを家どうしの話し合いとして描くが、法はそうは見ていないからだ。インドの一九六一年の持参金禁止法は、花嫁の親やほかの親族に対して、直接であれ間接であれ持参金を要求すること自体を罪とし、拘禁刑を定めている。要求されずにすむ権利は、この婚礼の日の六十年近く前から、紙の上にはあった。
その日、その権利に中身を与えたのは、条文ではなかった。婚礼を最後まで運ぶのが仕事であるはずのプランナーが手渡した、ひとつの事実。そして、自分の婚礼から歩き去るだけの胆力と立場をもった花嫁だった。先のトロントの週刊紙の記者によれば、このエピソードは、持参金の要求を聞いて式から立ち去った若い女性たちの、いくつもの実例にもとづいている。それは統計ではないし、この文章も統計は持ち出さない。ただ、思い出させてはくれる。親族でいっぱいの部屋では、権利が現実のものになるかどうかは、しばしば、女性がその部屋を出ていけるかどうかにかかっている、ということを。
第一話と並べると、この仕事のふたつの顔が見えてくる。一方では、ターラーは一族のために女性の過去を掘りおこし、損得の計算で彼女を結婚のほうへ押し戻す。もう一方では、花嫁が拒むためのただひとつのものを、その手に渡す。どちらが本当のターラーなのかは、どちらの場面を見ても決められない。並べてみると、どちらも仕事なのだと見えてくる。
差し出すものを持たなかったカラン
カランには、差し出すものがない。彼はゲイで、そのことを依頼主の一族たちに隠している。第一シーズンの舞台となった時期、インドの刑法典にはまだ第三七七条があった。イギリスの統治下、一八六〇年に書かれた刑法の条文で、自然の秩序に反する性交と呼ぶものを罪としていた。その条文のもとでは、彼の愛し方そのものが犯罪だった。
家主は彼の部屋にカメラを仕掛け、男性といるところをひそかに撮影する。家主の妻がその映像を見つけると、家主は、警察に出す証拠を集めていたのだと言い張り、カランは逮捕される。勾留中、彼は警官から性的暴行を受ける。
カメラが見つかったとき、法がどちらの側に立っていたかを見てほしい。人をひそかに撮影した男は、自分が手にしているものを、法の言葉で呼ぶことができた。証拠、と。撮影された男のほうが、逮捕された。ここは、怒ってよいところだ。怒りを向けるべき先を、間違えずに。カランには、結ぶべき取引もなければ、頼るべき権利もなかった。彼の私生活を守るはずの法が、彼の私生活を犯罪にしていたのである。
やがて家主が訪ねてきて、自分もゲイなのだと打ち明ける。カランは家主への訴えを取り下げ、代わりに、法そのものに挑むと決める。人前で、自分の名前と顔を出して。ここで、ひとりの人間が取引を拒み、権利を求めて表に立つ。そしてドラマは、その代価を彼に払わせることになる。
法は実際に変わった。ドラマの誰かのおかげではないけれど。二〇一八年九月六日、インドの最高裁判所の五人の裁判官は、全員一致で、第三七七条は成人どうしの合意にもとづく性行為を罪とするかぎりにおいて憲法に反する、と判断した。男性どうしでも、男女でも、女性どうしでも、それは変わらない。合意のない行為と、動物との行為については、条文は効力を保った。そして第二シーズンの配信から二か月後の二〇二三年十月十七日、同じ裁判所は、婚姻する権利は基本権ではないとし、特別婚姻法のもとで同性のふたりに婚姻の権利を認めることはできない、と判断した。ほかの人の婚礼を仕立てる男は、裁判所が残したその法のもとでは、自分の婚姻を認めてもらうことができない。
ここから結末へ。第一シーズンが隠していたもの
ここから先は、ふたつのシーズンがどう終わるかを書く。
ターラーは夫の浮気を疑い、その疑いを親友に打ち明けていた。相手の女は、その親友のファイザーだった。自動車事故でふたりの関係が明るみに出ると、ターラーはファイザーに自分の血を輸血する。のちに彼女はファイザーの家に押しかけ、なかを荒らす。どちらも彼女のしたことであり、この文章は、そのどちらかを選ぶつもりはない。
シーズンの終わり近く、回想の場面で、彼女がどうやってアーディルを手に入れたのかが明かされる。彼女は、彼のオフィスでふたりの性行為が撮影されるように仕組み、その映像を流出させた。その醜聞で、彼の婚約は壊れた。これが何であるかを、はっきり言っておく。相手の男性に知らせないまま、性行為が撮影されるように仕組み、その同意もなく公にすること。しかもそれは、彼とほかの女性との婚約を終わらせるために行われた。この文章がターラーに寄せる共感は、この一文を取り消さない。そしてこの一文は、彼女という人間に下す判決でもない。
そう知ると、断られた金の意味が変わって見えてくる。醜聞をつくったのは彼女だった。父親の申し出は、その醜聞に値段をつけようとする試みだった。彼女の拒絶は、もっと大きな値段、つまり結婚そのものを待つためのものだった。このドラマのなかで、もっとも完成された取引かもしれない。しかもその梃子を、彼女は自分でこしらえた。たくさんのお金を持つ一族にも、お金ではたやすく買い戻せないもの、一族の名前を材料にして。
けれど、それをきれいなまま持っていられるほど、このシーズンは甘くない。彼女は宝石を手に屋敷を出て、事務所へ向かう。事務所は、右派の暴徒に荒らされている。ふたりは瓦礫を眺めて笑いだし、ターラーが持ち出した宝石で出直そうと決める。シーズンは、第三七七条がのちに違憲として無効になったことを伝える字幕で終わる。
その笑いを、それまでのすべてと並べてみてほしい。その笑いのなかには、取引がひとつもない。彼女の宝石はふたりの元手で、彼の闘いはふたりの危険で、荒らされた部屋はふたりのものだ。そしていまのところ、それがふたりの持っているすべてでもある。
第二シーズンが届ける請求書
第二シーズンは半年後から始まる。会社は傾いている。ジョウハリーは共同経営者になり、ブルブルが帳簿に目を光らせ、トランス女性のメヘルが制作を率いている。ターラーとアーディルは離婚の成立を待つ身で、ファイザーはアーディルの子を宿している。
カランの母は、がんで死を目前にしている。女性との結婚を拒む息子に、母は、もう来るなと告げる。婚礼であふれたこのドラマのなかで、それはもっとも高くつく婚礼の拒絶かもしれない。嘘になる結婚と引き換えに母に受け入れてもらうことを、息子は拒んだのだ。彼は崩れていく。薬物と賭博に溺れ、会社の金に手をつけ、ターラーと決裂し、嘘がもとで恋人のアクシャイを失う。母は最後まで彼を受け入れずに亡くなる。
ここで、カランが第一シーズンで求めた権利は、その限界に行きあたる。裁判所は法を無効にできる。けれど、死にゆく母に息子を呼び寄せさせることはできない。いま彼に必要なものは、取引では手に入らない。母が受けとる唯一の値段を、彼は拒んだのだから。勝ち取ることもできない。それを裁く法廷は、どこにもないのだから。それは与えられるしかなかった。そして、与えられなかった。
そのころターラーは、シェフのラーガヴと付き合っている。彼女はアーディルを誘惑し、そのうえで、カンナー家の屋敷をもらうと告げる。ザ・リーフレットに寄稿した評者は、その一手を遠慮なく言いあてている。アーディルは、あの夜は双方にとって本物だったと思っている。ターラーはそれを使って、屋敷を扶養料として要求するのだ、と。最終話で、屋敷は財産分与として彼女のものになる。夫を亡くした義母から取りあげたのであり、義母は決して許さないと言う。ラーガヴは、夫を亡くした女性から奪った家には住めないと言って、去っていく。
この取引で何が手に入り、何が失われたかを数えてみる。手に入ったのは、カンナー家の屋敷だ。失われたのは、損得を数えずに彼女を愛したかもしれない男と、その家で暮らしてきた女性の赦しである。ドラマはこの請求書を、人柄という通貨で送りつける。このドラマへのもっとも真剣な批判のひとつは、まさにそこから始まっている。
離婚の取り分が、人柄の審判になるとき
二〇二三年八月、ザ・リーフレットのその評者は、この筋書き全体を逆効果だと評した。女性の相続や扶養料、生活費をめぐる議論を、権利にもとづく枠組みから、より賢く、より鋭い女性だけが交渉で勝ち取れる取引へと移してしまうからだ、というのである。
この文章の糸は、その批判にまっすぐ突きあたる。すり抜けるわけにはいかない。女性の請求が取引として届くことをドラマがよく見ている、と言うのは、ドラマがその事実を問いただしている、と言うことではない。そしてその評者の見立てでは、たいていの場合、ドラマは問いただしていない。ターラーの鋭さに目をみはり、彼女を勝たせ、そのうえで別の通貨で請求する。許さない義母と、彼女が勝ち取ったものには住まない男という通貨で。結婚の取り分は、最後には、彼女がどんな女なのかという問いとして決着してしまう。
別の物語と並べてみる。この図書室の「『Thappad』と、誰も彼女に尋ねなかったこと」は、夫のために開かれたパーティーの席で、その夫に平手打ちされた妻を追った。彼女は、自分の弁護士が勧める妥協を断り、その弁護士が次に求めるよう勧めた多額の和解金も断って、離婚のほかには何も求めない。映画は彼女をそのことで讃えていて、それは正しい。けれど二つの物語を並べると、ひとつの型が浮かびあがる。何も求めない女は高潔で、屋敷を求める女は強欲だ。どちらにしても、彼女が本来受け取ってよいものは、彼女がどんな人間かを測る試験にされてしまう。
権利は、何かを試すものではない。それが権利の値打ちのすべてであり、だからこそあの批判は、一本のドラマを越えて届く。女性が受け取るべきものを、引き出すことでしか手にできないとき、引き出した女は欲深いと呼ばれ、辞退した女は善い人と呼ばれる。そして、それはそもそも誰のものなのか、という素朴な問いは、一度も立てられない。
日本で、「運命の出会い」という副題とともに
日本では、このドラマに、原題にはない副題がついている。「運命の出会い」。美しい言葉であり、このドラマの上に置かれると、皮肉な言葉にもなる。『メイド・イン・ヘヴン』の縁組の多くは、誰かがそれを運命と呼ぶ前に、調べられ、値をつけられ、言い争われている。運命の物語を聞かされて育った人には、どこの国の人であれ、それこそが、このドラマから受けとれるいちばん役に立つ知らせなのかもしれない。
離婚のときの取り分について、この文章が書かれている日本の法律は、はっきりした出発点を置いている。民法の財産分与の規定は、二〇二四年に成立して二〇二六年四月一日に施行された改正で見直され、第七六八条はいま、次のように定めている。離婚をした者の一方は、相手方に対して財産の分与を請求することができる。話し合いがまとまらないときは、家庭裁判所に求めることができる。ただし、離婚の時から五年を経過したときは、この限りでない。そして家庭裁判所が分与を定めるときには、「婚姻中の財産の取得又は維持についての各当事者の寄与の程度は、その程度が異なることが明らかでないときは、相等しいものとする」。
これは二つの国の比較ではないし、誰への助言でもない。デリーに住む架空の女性ターラーが、どこかの法のもとで何を受け取れるのかについては、何も言っていない。一本の物語の横に、法律の一文を置いてみただけである。物語は、結婚の取り分を、ひとりの女性の人柄を裁く場にする。法律の一文は、等しいところから出発し、違いが明らかなときにだけ、そこから離れる。
だからといって、『メイド・イン・ヘヴン』が日本についてのドラマになるわけではない。ドラマもこの文章も、インドの婚礼やインドの女性一般を写した肖像ではない。一本の日本のドラマが、日本の女性一般の肖像にならないのと同じことだ。国を越えて届くのは、仕組みのほうである。女性が本来受け取ってよいものが、取引でしか手に入らないものとして届く、という仕組み。
誰も取引しなかったもの
この文章が追う最後の婚礼は、身ごもっているジュリーと、バークリー音楽大学で学ぶ道をあきらめて彼女のそばに残った、若い音楽家ローマンのものだ。当日、ローマンはパニック発作を起こす。ジュリーは彼を落ち着かせ、行って、自分の人生を生きて、と告げる。彼は去る。それでもジュリーは式を続け、祭壇へと歩き、自分自身に誓いの言葉を述べる。
この文章がたどってきた婚礼のなかで、花嫁が約束を手にしたまま、それを取り立てないことを選ぶのは、この婚礼ひとつである。ローマンは自分の音楽を差し出して、彼女を選んでいた。彼女はそれを返す。取引をほどいたあとに残るのは、からっぽではない。祝福されて祭壇に立ち、ほかの誰も誓う必要のないことを自分自身に誓う、ひとりの女性である。
メヘルの恋人ダーニシュは、家族の目をよそに、彼女のそばにとどまる。アーディルとファイザーは結婚する。そしてドラマは、カンナー家の屋敷に、ターラーとカランがふたりでいる場面で終わる。
ヒンディー語の映画には、ふたりのウェディングプランナーを主人公にした物語が、すでにある。二〇一〇年のあるロマンティック・コメディでは、デリーの若いふたりが、互いに恋はしないという約束で一緒に会社を始め、そして恋に落ちる。それがこのジャンルの型だ。仕事の相棒が恋人になり、恋が婚礼になる。『メイド・イン・ヘヴン』の相棒は、女性とゲイの男性で、ふたりを結びつけているのは恋ではない。ふたりは恋人ではなく、結婚もしない。二シーズンのあいだに、ふたりは会社をともにし、荒らされた事務所をともにし、決裂し、そしてまた戻ってくる。行き着くのは、同じ家である。
この図書室の「一度ではなく、何度も選ばれる」は、結婚式とは、そのあとに続くすべての日に静かに起こりつづけなければならない何かを指し示す、目に見えるひとつの印にすぎない、と論じた。アルバムが引き出しにしまわれたずっとあとも、小さなかたちで何度も下し直される決断を指し示す印だ、と。『メイド・イン・ヘヴン』のプランナーたちが売っているのは、そのアルバムである。ターラーの結婚は、力ずくで一度だけ選ばれ、暮らしのなかでは持ちこたえなかった。カランとの相棒の関係は、誰の前でも誓われたことがなく、アルバムもない。一度壊れ、そしてもう一度選ばれる。この読みでは、それは、このドラマの中心にある結びつきのうちで、一度も取引ではなかったただひとつのものである。
けれど、そこで話を終えるのは不誠実だろう。ふたりが行き着いた家は、取引の戦利品であり、許さないと言う、夫を亡くした女性から取りあげたものだ。ドラマはそれを隠さないし、この文章も隠すべきではない。与えられたものが、奪われたもののなかで暮らしている。それは教訓ではない。けれど、このドラマが差し出す人生の姿として、いちばん正直なものかもしれない。
この読みが外れているかもしれない五つの点
この読みが外れているかもしれない点は、少なくとも四つある。五つ目は、書いている側に向けたものだ。
第一に、この読みは、ドラマがときどきそうするように、プランナーたちを持ちあげすぎているのかもしれない。インドの映画サイト、フィルム・コンパニオンで第二シーズンを評した批評家は、脚本はまるで、よそ者のまなざしさえあれば偏見を打ち負かし、何十年もの社会的な刷りこみを覆せると言っているかのようだと書いた。そして、あらゆる問題に、誰かしらが目を開かれるという結末を与えることは、扱う問題そのものの尊厳を奪うだけでなく、このドラマがはみ出し者たちのためにとっておく自己と主体性を、北インドの人々から奪ってしまう、とも書いている。第二シーズンについての言葉だが、この異論は第一シーズンにもさかのぼって届く。この文章は、まさにそういう場面のひとつ、儀式の前にターラーが花嫁にかけた言葉に寄りかかった。ドラマがプランナーを目を開く側に置くのなら、それを讃える読みは、差し出された餌に食いついたことになる。
第二に、この文章の糸そのものが、ドラマの枠組みをなぞっているだけかもしれない。あらゆる請求を取引として描けば、請求とは取引なのだと受けいれる危険を負う。ザ・リーフレットの評者が異を唱えたのは、まさにそのことだった。この文章は、手の届くただひとつのやり方で答えようとした。物語の横に、法律の平明な一文を置くことで。日本の法律の一文がデリーの何かに決着をつけるふりは、していない。
第三に、温かさ。この文章はターラーに共感をこめて書いてきた。その共感が彼女を免罪していると感じる読者もいるだろう。そうであってはならない。彼女は、男性を本人の知らないうちに撮影させ、それを公にした。ひとりの女性の婚約を終わらせた。離婚を控えた夫との一夜を使って、夫を亡くした女性の家を取りあげた。人がなぜ取引をするのかを理解することは、取引されたものへの許しではない。ドラマは観る者に、その両方を同時に抱えるよう求めており、この文章も同じことを求める。それができない読者は、間違っていない。
第四に、階級。ドラマの舞台は南デリーの富裕層で、この議論もそうだ。ここで描いた取引は、差し出す何かを持っている人にしか開かれていない。はみ出し者のためにとっておかれた主体性についての、あの批評家の一文は、ここにも刺さる。いちばん余地の少ない女性たちは、この文章が見てきた写真には写っていない。この文章は、彼女たちを見つけてはいない。
第五に、書き手に向けて。この文章は日本で、ヒンディー語と英語のドラマについて書かれている。その舞台の街を、書き手はほかの人々の記述を通してしか知らない。台詞のすべてを聞きとれた批評家たちの言葉を越えるところは解釈であり、そのように読まれるべきである。
この図書室が手元に残すもの
三つの言葉を、分けておく。本来受け取ってよいもの、取引して手に入れるもの、そして与えられるしかないもの。内側から見ると、三つはよく似ている。どれも、必要なものを手に入れる話だからだ。けれど、その働き方はまるで違う。
権利は、稼ぐ必要がなく、買うこともできない。むずかしいのは、誰かにそれを尊重させなければならないことだ。取引には勝つことができるが、代価を払わなければならず、それで買ったものには値札がついたままになる。与えられるものは、勝ち取ることがまったくできない。だからこそ持つ価値がある。そして、求めて手に入れることもできない。だからこそ、それなしで生きるのがむずかしい。
ターラーの物語は、あらゆる必要を二つ目の言葉に通したときに何が起きるかを見せる。カランの物語は、三つ目に属する必要を一つ目へ持ちこんだときに何が起きるかを見せる。法廷は彼の言い分を聞くことができる。それでも、母は彼を呼ばない。そして結末は、この読みに立てば、三つ目の言葉について三つのことを示している。それが名指すものは、まれだということ。写真が約束する場所からは、来ないということ。そして、互いに何者でもないはずだったふたりのあいだに、届くことがあるということ。
本来ならただあなたのものだったはずのものを、長いあいだ、取引して手に入れてきたのなら。取り分や、発言権や、住んでいる家のなかでの少しばかりの敬意を。そうして取引してきたあなたは、愚かではなかった。多くの場合、誰もほかの扉を見せてくれなかったのだから。それでも、静かに仕分けてみる価値はあるかもしれない。はじめからあなたのものだったのに、代価を払いつづけてきたものはどれか。与えられるしかないのに、買おうとしてきたものはどれか。一つ目は、あなたの暮らす場所の法律にくわしい人に尋ねてよい問いだ。二つ目は、知っておくだけで意味がある。もう、代価を払わずにすむように。
この文章の拠りどころと、主張しないこと
これはテレビドラマの読みである。インドであれ日本であれ、結婚や離婚や財産についての法的な助言ではなく、登場人物を含めて、誰のことも診断しない。
作品の公表された記録のほか、それぞれ発表された場で読んだ取材記事と批評に拠っている。トロントの週刊紙ナウによるカーグティへの取材(二〇一九年三月)、ザ・スワドルとデカン・クロニクル紙の批評(ともに二〇一九年)、ブログ「ドント・コール・イット・ボリウッド」の各話評、そしてフィルム・コンパニオン、ザ・リーフレット、オープン誌の批評(いずれも二〇二三年)である。評者が伝える場面は、その評者の説明として紹介した。
法律は、それぞれの条文と裁判所が述べるとおりに、記した日付の時点のものとして紹介した。インドの一九六一年の持参金禁止法、インド刑法第三七七条、最高裁判所の二〇一八年九月六日と二〇二三年十月十七日の判決、そして現在の日本の民法である。日本の法は物語の横に置いただけで、登場人物の誰にも当てはめてはいない。どちらの国も、もう一方の上に置いてはいない。
ここに名前の出る作り手、演者、批評家、裁判所は、いずれもこの媒体と関係がなく、この文章を推奨してもいない。
最後に、いくつかの問い
本来なら尋ねなくても自分のものだったはずなのに、取引して手に入れなければならなかったものは、何だろう。
黙って去れと、小さな、一度きりの値段を差し出されたとき、あなたは代わりに何を待ったのか。そして、そのために何を失ったのか。
ただ求めてよいだけのものだったのに、自分の人柄が試されているかのように扱ってきたものはないだろうか。
あなたの人生で、一度も交渉しなくてよかった人は、誰だろう。
日本で読んでいる人へ。性暴力の被害にあった人は、携帯電話から#8891にかけると、最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターにつながる。通話料はかからない。
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週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。