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『卍』と、つなぎとめても確かめられないもの
大阪の弁護士の妻が、美術学校で出会った年下の女に心を奪われ、やがて夫も、その女の婚約者を名乗る男も巻きこまれていく。増村保造が一九六四年に谷崎潤一郎の小説から撮った『卍』は、呼び名や誓約書や、誰と誰をふたりきりにさせないかという決まりで、愛を確かめようとする四人を見つめ、その顛末を、ひとりの女の口から老作家に語らせる。
ひとりの女が老作家に、自分の身に起きたことを語っている。作家は、その話を聞いている。女が話すのは、一枚の絵のこと、噂のこと、年下の女のこと、夫のこと、血で判を押した誓約書のこと、決まりごとで回っていた暮らしのこと、そして新聞のことだ。いちばん答えてほしい問いには、彼女の物語に出てくる誰も答えてくれない。だから彼女は、話しつづける。
女の名は柿内園子。夫の孝太郎が大阪に弁護士事務所を構えたのを機に、女子の美術学校で日本画を習いはじめた。そこで観音を描くと、校長は、顔がモデルに似ていないと言う。では、誰の顔なのか。答えを用意するのは、学校のほうだ。洋画科に通う、織物会社の社長の美しい娘、徳光光子の顔だ、と。やがて、ふたりは同性愛の仲だという噂が立つ。その噂がきっかけで、ふたりは親しくなる。そして噂は、ほんとうになる。
増村保造が一九六四年に谷崎潤一郎の小説から撮った『卍』では、すべてがこの噂から始まる。光子には、婚約者を名乗る綿貫栄次郎という男がいた。やがて、園子の夫もふたりの仲を知ることになる。そうして四人は、ひとつの呼び名と、一通の誓約書と、仕組まれた危険と、誰と誰をふたりきりにさせないかという決まりと、一枚の写真とで、互いに結びつけられていく。どれも、誰かをつなぎとめるために作られたものだった。そしてどれも、それぞれのやり方で、愛の証しのつもりだった。
この文章が考えたいのは、こういうことだ。『卍』は、愛を自分のものにすることで、愛を確かなものにしようとする人たちの映画であり、それがなぜうまくいかないのかを見せる映画である。四人が互いを確かめるために作った道具は、どれも最後には、ほかの誰かの手に渡る。誓約書は証拠になり、決まりは檻になる。そして、四人の誰もがいちばん知りたいこと、つまり、自由に去れるとしても相手はとどまってくれるのか、ということこそ、その道具のせいで確かめられなくなる。離れられないようにした愛は、離れられたとしてもとどまったかどうかを、決して教えてくれない。
それが、この映画が園子の手に残す問いであり、だから語ることは彼女にゆだねられている。答えのかわりに彼女が手にしているのは、話を聞いてくれる相手だけだ。
作品について、そして読み進める前に
『卍』は、一九六四年七月二十五日に公開された。製作と配給は、当時の大手映画会社のひとつ、大映である。監督は増村保造、脚本は新藤兼人、撮影は小林節雄で、カラー作品だ。園子を岸田今日子、光子を若尾文子、孝太郎を船越英二、綿貫を川津祐介が演じている。園子が語りかける老作家、「先生」を演じるのは三津田健だ。
原作の小説は、一九二八年から一九三〇年にかけて、雑誌『改造』に断続的に連載された。同性の魅力のとりこになった人妻が、夫ともども破滅していくさまを、その人妻自身が大阪弁で「先生」に告白する、という形の長編である。増村の映画も、この枠組みを生かしている。この小説の映画化はこれが最初で、その後も何度か映画化されているが、この文章が扱うのは一九六四年の増村版だけだ。
先に二つ、断っておきたい。この文章は、映画そのものを観て書いたものではない。映画のなかで起きることは、公開されている作品の記録やあらすじ、映画評が書いているとおりに記し、登場人物のせりふはすべて言い換えていて、そのままの引用ではない。そしてこの文章は、結末までふくめて映画の全体にふれる。結末の前にはあらためて断りを入れるので、画面で先に確かめたい人は、そこで読むのをやめて、観たあとで戻ってきてほしい。
もうひとつ。この映画は欲望を率直に描き、その率直さが売り物にされてもきた。この文章は誰の体も描写しない。人と人のあいだに起きたことは、ひとことで名指すだけにとどめる。
四人の物語のあらまし
ことは、噂のとおりに進む。園子と光子は親しくなり、やがて恋人どうしになる。光子は園子を「姉ちゃん」と呼ぶ。園子は、夫をないがしろにしていく。
やがて園子は、光子の婚約者を名乗る男、綿貫のことを知る。傷ついた園子は縁を切ろうとするが、光子は仮病を使って呼び戻そうとし、園子はそれを見抜きながら許してしまう。ふたりは孝太郎に隠れて、宿で逢瀬を重ねる。
綿貫は園子に、ふたりで光子を愛そうと持ちかける。ふたりは姉と弟の契りを結び、互いの血で誓約書に判を押す。そして綿貫は、その誓約書を孝太郎に見せる。園子は夫にすべてを話し、孝太郎は光子との仲を清算しろと迫る。ふたりの女は、孝太郎にわからせようと狂言自殺を図る。朦朧とした意識のなかで、園子は、光子が夫の腕のなかにいるのを見る。孝太郎もまた光子のとりこになり、三人は一緒に幸せに暮らそうと決める。
だが、長くは続かない。三人は、ほかのふたりが自分に隠れて会っているのではないかと疑いあう。光子は、毎晩帰る前に夫婦にある決まりを守らせ、自分のいないところでふたりが一緒にいられないようにする。やがて、誓約書をひそかに写真に撮っていた綿貫がそれを新聞社に持ちこみ、三人の関係は新聞に書き立てられる。
あらましは、ここまでにしておく。この先に起きることは、この文章の終わり近くで、断りを入れてから書く。
学校が決めた、絵の顔
映画にならって、絵から始めたい。観音は観世音菩薩の略で、もっとも広く信仰されてきた菩薩のひとつだ。ある国語辞典は、その名を声と結びつけて説明している。世の人々がその名を唱える声を観じとり、大きな慈悲を垂れる菩薩なのだ、と。園子が描いたのは、その観音だった。校長は絵を見て、顔がモデルに似ていないと言う。
すると学校は、自分で立てた問いに自分で答える。モデルに似ていないのなら、あれは誰の顔なのか。噂のなかでは、もう名前が挙がっている。光子の顔だ、と。そして話は、顔からまっすぐ、ふたりの女そのものへと飛んでいく。この恋について最初に語ったのは、園子でも光子でもない。まわりの人たちである。
噂が立つと、ふたりの人間のあいだに何が起きるのか、少し立ち止まって考えたい。噂は、本人たちがまだ名づけていない関係に、先に名前をつけてしまう。相手が何を聞いたのか知りたくて、ふたりには会う理由ができる。そして噂は、ひとつの主張でもある。あのふたりの女がどういう仲なのかを、自分たちは知っている、という周囲の主張だ。『卍』では、噂はほんとうになる。口にされなくてもほんとうになったのかどうかは、どんな物語にも答えられない。けれどここに、はじめから、この映画全体を貫く問題が顔を出している。恋について先に言われたことは、その恋そのものを変えてしまうのだ。
訂正は、もうひとつある。光子は園子に、絵の体は自分の体に似ていないと言う。描き手のつくった自分の像はまちがっている、と本人が告げるのだ。こうした訂正は、ほんとうに見てもらうことの始まりにもなりうる。描かれた女が、描いた女に言葉を返しているのだから。
けれど『卍』では、ことは反対の方向へ進む。訂正はどれも、権利の主張に変わっていく。絵の顔は噂の証拠になり、噂は恋になる。その恋は、やがて紙に書かれ、判を押され、見張られ、最後には活字にされる。終わりには、一枚の絵と、一通の誓約書と、一枚の写真が残る。そのどれも、光子が何を感じていたのかだけは、見せてくれない。
「姉ちゃん」という呼び名
光子は園子を「姉ちゃん」と呼ぶ。この呼び名は、ふたつの役目を同時に果たしている。ひとつは、ふたりの親しさに、人前でも口にできる名前を与えることだ。女どうしが姉妹のように仲がいいのなら、誰もそれ以上は尋ねない。もうひとつは、その親しさを、終わってはならない絆に変えることだ。この物語では、家族の言葉は隠れみのであり、同時に約束でもある。
この物語は、家族ではないものに、何度も家族の言葉を借りてくる。のちに園子と綿貫は、姉と弟の契りを結ぶ。その契りの中身は、ふたりがともに欲しがっている、ひとりの女のことだ。こうした呼び名は、四人がどんな間柄なのかを言い表してはいない。その間柄を、動かないように留めておこうとする試みなのだ。
ここで、この映画が何を描いた映画ではないのかを、はっきりさせておきたい。一九六四年、大手の映画会社が、女性どうしの欲望を正面から主題に据えた。そしてこの文章の読みでは、映画の関心は、その愛が許されるかどうかよりも、愛が所有の奪いあいに変わるとき何が起きるかのほうにある。このあとに続く破滅は、どれひとつとして、ふたりの女が愛しあったことから生まれたのではない。破滅を招くのは、四人が相手をつなぎとめようとしてすることのほうだ。証文を信じる男、清算を迫る夫、決まりで回る暮らし、そして全員の嫉妬。道具を使うのは四人全員で、男たちも女たちに劣らない。この文章は、園子と光子のあいだの欲望を、問題として扱わない。この読みでは、映画もそうしていない。
この文章はまた、女性どうしの愛を、「すべての恋愛」の比喩へと薄めるつもりもない。園子と光子は、何かの象徴ではない。ただ、この映画が見せる所有の道具が、ふたりだけのものではない、というだけのことだ。
最初の道具は、光子のものだ。園子が見抜きながら許した、あの仮病である。その許しを裁く前に、園子の側の理由を聞いておきたい。誰かに戻ってきてほしいとき、口実は思いやりになる。こちらから頼まずに戻ることができるし、頼まれるのを待っていたと認めずにすむ。園子が口実を受けいれるのは、口実があれば、欲しいものが手に入るからだ。けれど、それが何だったのかは見ておきたい。人をつなぎとめるために演じられた、危険である。そうした危険が演じられるのは、これが最後ではない。
血で判を押した誓約書
綿貫は、紙を信じる男だ。光子の婚約者を名乗り、誓約や証文にこだわる。気持ちに約束を守らせるには、その約束を書きつけておけばいい、とでもいうように。だから、ふたりで光子を愛そうという園子への申し出も、一通の文書になる。ふたりは姉と弟の契りを結び、互いの血で誓約書に判を押す。
これを、ひとつの文書として読んでみたい。実際、文書なのだから。署名するのはふたり。署名の対象は、三人めの人間である。この取り決めは、その人がふたりのそれぞれにとってどういう存在なのかを定め、体そのものを担保にして封をされる。この映画に出てくるもののなかで、四人全員の望みをこれほどはっきり形にしたものはない。確かなものにされ、証明書までついた愛。
そして綿貫は、それを孝太郎に見せる。ふたりを結びつけるはずの誓約書が、三人めに向けた武器になり、署名したひとりにも向けられる。さらにのちになって、もうひとつのことがわかる。綿貫は、それを写真に撮っていた。証しの写しを、手もとに残していたのだ。
これが『卍』の最初の大きな反転で、同じ型が最後までくり返される。いったん形になった証しは、それが証すはずだった気持ちのものではなくなる。それを握っている人のものになる。愛がほんものだったと示すために作られた文書は、証拠になる。そして証拠は、その愛を感じていた当人たちに向けて使うことができる。
告白が運んだもの
誓約書を見せられて、園子は夫にすべてを話す。孝太郎は、関係を清算しろと迫る。
ふたりの女は、狂言自殺で応える。孝太郎にわからせるためだ。この文章は、物語が描くとおりにそれが狂言であったとだけ書き、どのようにしてかには一切ふれない。小説と映画のなかで演じられた行為を使って、現実の自殺未遂について何かを言うつもりもない。物語の外では、死をほのめかす言葉や行いは、いつでも真剣に受けとめられるべきもので、芝居として値踏みされてよいものではない。物語のなかで、この狂言が何のためのものかは、はっきりしている。光子が先に使ったのと同じ道具、人をつなぎとめるために演じられる危険が、今度は夫に向けられているのだ。
告白そのものにも、もう一度目を向けたい。「『クローサー』と、すべてを打ち明けても知られないこと」という文章は、ロンドンで互いにすべてを打ち明けあい、打ち明けるたびに遠ざかっていく四人を追った。すべてを知りたいという求めは、ふたを開けてみるとそのたびに、相手を自分のものにしておきたいという求めになっている。すべてを打ち明けることと、知られることは、同じではない。あの文章はそう論じた。園子は二度、すべてを話す。一度は誓約書に追いつめられて夫に、もう一度は、あとになって、老作家に。どちらの告白でも、彼女が必要としているものは手に入らない。夫に打ち明けても、孝太郎が園子を知ることにはならない。打ち明けたことで、孝太郎は奪いあいの当事者になるだけだ。
ここには、ひとつの残酷さがある。告白は、秘密を終わらせるためのものだったはずだ。それがここでは、秘密を別の手に移すことになる。園子が孝太郎に渡したのは、理解ではなく情報だった。そしてこの物語では、情報こそ、誰もが集めている通貨なのである。
引きこまれた夫
次に起きることが、この映画の形を決める。狂言自殺のあと、朦朧とした意識のなかで、園子は光子が夫の腕のなかにいるのを見る。関係を断てと迫った孝太郎もまた、光子に心を奪われていた。三人は、一緒に幸せに暮らそうと決める。
結婚は、不倫によって終わるのではない。不倫のなかに、引きこまれるのだ。外に立っていたはずの夫は、恋敵であると同時に、恋の相手にもなる。不倫を隠しておくはずだった夫婦の暮らしが、不倫をしまっておく場所に変わる。
この新しい取り決めがどこで始まったのかを、見ておきたい。取り決めは、そのあとで三人が結んだものだ。けれど、すでに起きたことを追いかけるように言われる「はい」は、先に言われる「はい」と同じではない。そしてこの取り決めは、園子に尋ねようのない瞬間に始まっていた。
「『The State of Affairs』と、不倫を肯定せずに「なぜ」を考える方法」という文章は、エスター・ペレルの本が不倫のあとに投げかける問いを紹介していた。裏切りを裏切りと呼んだあとで、その関係が何を意味していたのかまで考えられるか。ただし、その問いに価値があるのは、理解が結果を消さないときだけだ、と。そして、二つの文を薄めずに並べて置いた。「裏切りには歴史がある。そして、裏切られた人は、その出来事を通して学ばされることに同意していない。」孝太郎がするのは、問うこととは正反対のことだ。文書を見せられ、終わらせろと迫り、仕組まれた危険に追いこまれ、そして自分も加わる。あの本が夫婦に交わせるようにと願う対話は、取り決めに呑みこまれてしまう。
三人が作ろうとしていたものが何だったのかも、言っておきたい。それは、取るに足りないものではなかった。誰も選ばなくていい暮らし。妻は恋人を失わず、夫は妻を失わず、誰も光子を失わない。この映画でいちばん寛大な取り決めであり、ほかのふたりが自分抜きで会っていないと、三人のそれぞれが信じていられるあいだしか続かない。
毎晩の決まり
誰も、信じきれない。疑いあう三人のあいだで生まれた答えが、ひとつの決まりだった。光子は毎晩、帰る前に、夫婦に睡眠薬を飲ませる。自分のいないところで、ふたりが一緒にいられないように。
それが何であるかは、ひとことで言える。支配である。夫婦がふたりですごせる時間は、光子がその場にいる時間だけになる。それは毎晩、光子の手で差し出され、内側からは、献身に近いものとして受けとられる。夫婦は、光子が差し出すものを受けとる。ふたりは弱っていき、光子をいっそう愛するようになる。内側からは献身に見えうるからこそ、それには名前が要る。
この暮らしのなかで、力を握っているのは誰なのか。映画はこの問いを差し出している。すぐに浮かぶ答えは、いちばん愛されている光子だろう。決まりを作るのは光子で、帰っていくのも光子だ。けれど、その決まりが何のためにあるのかを見てほしい。光子の力は、求められているあいだしか続かない。そして決まりは、自分が求められていることを確かめるための手段なのだ。光子は毎晩、自分のいないところで何も起きないことを、文字どおり確かめている。この決まりは、光子にとっての誓約書である。光子もまた、確かめようとしている。
そう見れば、この決まりは悪女のたくらみではない。この文章は、光子を悪女として読まない。それは綿貫の誓約書とも、園子の嫉妬とも同じ道具で、材料がちがうだけだ。そしてほかの道具と同じく、目的とは逆のものを生む。毎晩見張っていなければならない愛は、見張らなくてもとどまるのかどうかを、一度も示させてもらえなかった愛である。
ふたりの人間が、自分のいないところで決してふたりきりになれないようにすること。それは、内側からどう感じられようと、するほうにとっても、されるほうにとっても、支配である。
新聞が書き立てたもの
そして、あの紙がふたたび現れる。綿貫が撮っておいた誓約書の写真が新聞社に渡り、三人の関係が書き立てられるのだ。
これで物語全体がどんな形になるかを、見てほしい。この恋は、学校の噂として始まった。ふたりの女についての、他人の言葉として。そして、新聞記事として終わる。三人についての、他人の言葉として。そのあいだで四人は、自分たちの言葉を作ろうとした。呼び名、誓約書、暮らしの決まり。最後の言葉は、一通の文書を写した、一枚の写真のものになる。
力は最後にどこへ行きつくのか。いちばん愛される光子のところでもなく、この読みではいちばん愛している園子のところでもなく、証拠を握っている者のところだ。そこから学べることは苦い。綿貫は女を失い、紙を手もとに残した。所有の奪いあいでは、証しの写しを持っている者が勝つ。
そして、表沙汰になったことで、私的な道具にはできなかったことが起きる。四人がどんな間柄なのかという問いが、彼らの手からすっかり取りあげられてしまうのだ。世間は、彼らの愛について、自分たちなりの筋書きを手に入れる。欲望のなかで力を握るのは誰か。映画が差し出すこの問いに、ここで出てくる答えは、いちばん愛される者でも、いちばん愛する者でもない。書きとめる者である。
映画の終わり
ここから先は、この映画がどう終わるかにふれる。
破滅を前に、三人はともに死ぬことを決める。孝太郎と光子は死に、園子は生き残る。
起きたことについて、この文章が言うのはそれだけだ。論にとって大事なのは、そのあとである。園子は、ふたりが示しあわせて自分を置いていったのではないかと疑い、あとを追うことができない。それでもいま光子を思うと、憎しみより恋しさがまさるのだと、園子は老作家に語る。
こういう結末には、なじみの読み方がある。この文章は、それを採らない。アメリカで出たこの作品のソフトを映画サイトで評したジェフリー・アンダーソンは、その様式をダグラス・サークの名作メロドラマになぞらえ、四人の恋人たちを、感情の高ぶりのあまり、誰もが愛のために死ぬことさえいとわない人々として読んだ。ともに死ぬことを恋の極みとする、古いロマンスである。そして『卍』の結末は、そのロマンスに背を向けている。三人が分かちあうはずだったただひとつの行為は、もうひとつの疑いになる。生き残った者は、結ばれたとは感じない。置いていかれたと感じるのだ。
死は、愛について何も証明しない。愛を完成させることも、とどめておくことも、保証することもない。死によって、問いに答えられたはずの人たちはいなくなり、問いだけが、生き残った者の手に残される。この映画で、それを手渡されるのは園子だ。ずっと確かめたがっていた彼女が、いま確かに持っているのは、恋しさだけである。
この文章は、物語のなかでも現実でも、死んだ人を裁かず、残された人も裁かない。
語るために残された人
ここで、枠組みの意味が見えてくる。この物語はすべて、老作家に向けた園子の語りとして届けられている。映画は、園子が語る現在の場面と、彼女が語る過去の場面とを、交互に見せていく。だから、私たちが出会う光子はみな、園子の記憶のなかの光子である。毎晩の決まりについても、誓約書についても、この映画が差し出すのは、光子自身の語りではない。光子に愛されていたのかどうかわからない女の、語りである。
それがこの物語のいちばん深い残酷さであり、いちばん誠実なところでもある。園子に残された問いは、自分は愛されていたのか、ただ使われていただけなのか、というものだ。そして、尋ねられる相手は、もういない。けれど、終わりの前に園子が手にしていたものを、ふり返ってみてほしい。彼女が握っていた証しは、どれも、何らかの縛りのもとで生まれたものだった。人を縛る呼び名。血で判を押した誓約書。誰も選べなかったから成り立っていた暮らし。毎晩差し出される決まり。どれも、光子がそこにいることは教えてくれた。けれど、光子が自分の意思でとどまったかどうかは、どれも教えてくれなかった。どの道具も、一度も光子を手放さなかったからだ。
これが、この文章のまんなかにある主張である。人が人に差し出せる、愛されていることのただひとつの証しは、自分の意思で選ぶこと、それも一度きりでなく、くり返し選ぶことだけだ。いいえと言えた人の、「はい」である。「『この恋は初めてだから』と、終わらせてはじめて本当になった契約」という文章は、契約として書かれた結婚のなかに、同じ条件を見ていた。更新に意味があるのは、更新しないことが本当に可能なときだけだ、と。『卍』の道具は、どれも「いいえ」を取りのぞくために作られていた。だからどの道具も、証しそのものを取りのぞいてしまった。
絵に戻ろう。名を呼ぶすべての声を観じとるという菩薩に、光子の顔が与えられていた。この映画のあいだずっと呼びかけているのは園子で、その顔は答えない。終わりになってもなお、園子は呼びかけている。今度は、話を聞くことはできても、光子に代わって答えることはできない老作家に向かって。それは答えではない。それでも、彼女に残された、聞いてもらうということの、ただひとつの形なのかもしれない。
園子の恋しさを、映画の判決として読むべきではない。やはり愛だったのだという証明として読むべきでもない。それは、確かさが手に入らないとき、あとに残るものだ。園子はまだ、そのただなかにいる。
題名のしるしと、この映画の売られ方
題名の「卍」は、古くからの吉祥のしるしである。辞典類によれば、もとはインドで、ビシュヌ神の胸の旋毛を起源とする瑞兆のしるしとされ、仏教に入って、仏の胸などにあらわれる吉祥の相を表すものになった。日本では、仏教や寺院を示す記号や標識として使われている。英語では、この映画は「スワスティカ」という題でも知られていて、英語圏の読者には、その語が二十世紀にまとった、まったく別の歴史を思い起こさせるかもしれない。けれど、ここにあるのは仏教のしるしだ。四本の腕がひとつの中心をめぐるその形は、互いのまわりをめぐりつづける四人のようにも読める。ただしそれはこの文章の読みであって、谷崎がこの題に何をこめたかについての主張ではない。
一九六四年にこの映画がどんな位置にあったかは、簡単に言えるし、簡単に言いすぎてしまうこともできる。大手の映画会社が、存命の大家の名高い小説を、新藤兼人の脚本で、若尾文子と岸田今日子を主演に映画にした。片隅で作られた映画ではない。
今どう売られているかは、また別の話だ。二〇二〇年に出た修復版のブルーレイは、「性の享楽か、性の破滅か!」と問いかけ、「大谷崎文学だけに許された異様な世界の生々しい映像」とうたっている。ある衛星放送局が二〇二六年三月に若尾文子の主演作五本をまとめて放送するにあたって、それを伝えた記事は、『卍』を「当時はタブーとされた女性同士の愛の行方を描いた衝撃作」と紹介した。ニューヨークのジャパン・ソサエティは、二〇一七年の上映にあたって、この作品を、官能的で暗い笑いをふくんだメロドラマと呼び、破壊的な執着と嫉妬と操りの物語だと書いている(訳はこの文章による)。
どれも、この映画の熱については間違っていない。最後のものは、嫉妬については正しい。けれど、「衝撃」や「異様」という言葉は、見当ちがいのものを指している。ふたりの女が愛しあうことは、『卍』のなかでいちばん異様でないことだ。異様で、悲しく、そして身に覚えがあるのは、四人が愛を確かめるためにすることのほうである。誓約、決まり、手もとに残された写し。この映画に衝撃を受けるとしたら、そこにだろう。
この読みへの反論
この読みがまちがっているかもしれない点は、少なくとも五つある。
第一に、光子のこと。この文章は、毎晩の決まりを支配と呼び、その言葉を取り下げない。けれど、その決まりを作る光子は、嫉妬を抱えて生き残った女が思い出す光子である。映画は園子の語りとして組み立てられていて、自分は使われたのではないかと疑う女は、疑っている相手についての、いちばん信頼できる証人ではない。誰も彼もを自分のまわりに引き寄せて糸を引く、何を考えているのか読めない美しい女というのは、物語の世界では古くからいる人物でもある。ひとりの女を愛した女が、その女の疑いを通してしか見えないとき、その古い人物像がただくり返されているだけなのかもしれない。この文章は、決まりを悪女のたくらみとしてではなく、光子自身の確かめたい気持ちとして読もうとした。それでも、この反論には十分に答えられない。園子の語りと並べて置ける、光子の側の語りがないからだ。
第二に、調子のこと。ジャパン・ソサエティはこの映画を暗い笑いをふくんだものと呼び、高く評価したアンダーソンも、繊細さは入口で預けてくるように、と書いている。血で判を押した誓約書も、誰と誰をふたりきりにさせないかという毎晩の決まりも、メロドラマとして、ときには笑劇としてさえ演じられうる。この文章は、映画が皮肉まじりに差し出したものを、大まじめに読んでしまったのかもしれない。それで仕組みの現実味が減るわけではない。映画は、ばかばかしくて、しかも正確でありうる。けれど、『卍』を観て笑った人は、読みちがえてはいない。
第三に、罰としての結末。『卍』のなかに、なじみの形を見る読者もいるだろう。女どうしの愛は、破滅で終わるかぎりにおいて画面に映してよい、という形である。この文章は、映画の関心は、その愛が許されるかどうかではなく所有のほうにあり、破滅は欲望からではなく道具から生まれる、と論じてきた。それでもこの映画は、そうした物語が長いあいだ迎えさせられてきたのと同じ結末を迎えている、とその読者は言うかもしれない。一九六四年には、まさにその結末が、残りの部分を映せるものにしていたのかもしれない。この文章は、それを否定できない。
第四に、ロマンスのこと。メロドラマはほんとうに、観客に結末を愛の極みとして感じてほしいのかもしれないし、アンダーソンの一文は、それがどう演じられているかの忠実な記述なのかもしれない。この文章がその読みを退けるのは、原則としてである。死は、愛について何も証明しない。ただ、映画の様式が誘っているかもしれないものを退けているのだということは、認めておきたい。
第五に、論旨そのもの。所有されていようと自由であろうと、何ものも愛を証明できないのかもしれない。園子が知りえないことは、愛したことのある人なら誰もが置かれている、ありふれた状態にすぎず、この物語がそれを見えるようにしただけなのかもしれない。それでも、より狭い主張は残る。所有は、ただひとつありうる証し、つまり、ほかの道も選べたなかでなされる選択を、壊してしまう。けれど、自由な「はい」でさえ、この文章が願うほどには何も証明しないと考える読者は、正しいのかもしれない。
この図書室が受け取るもの
三つのこと。どれも、規則ではない。
誰かの愛を確かめたいと思うことは、病ではない。誰を愛する人であっても、その人の欠陥でもない。これほどありふれた願いはない。『卍』の四人は全員がそれを抱えていて、誰ひとり、そのために怪物にされる必要はない。
確かめるための道具は、どれも、愛を見せてくれる代わりに、人をつかんで離さないものに変わりうる。縛る呼び名、書面にした約束、誰と誰をふたりきりにさせないかという決まり、証人、念のために残しておく写し。いったん形になった証しは、それを握っている人のものになる。
そして、愛が差し出せる証しは、いいえと言えた人の、くり返される自由な「はい」だけである。これは同意をめぐる原則を、愛そのものにあてはめたものだ。拒むことのできない「はい」は、何も教えてくれない。
もしあなたが、誰かを確かめようとしたことがあるなら。行き先を気にしつづけたり、約束を求めたり、離れることが相手にとって高くつくように物ごとを整えたりして。あなたは悪人ではない。知りたかったのだ。この映画のいちばんつらいところは、その「知る」が、あなたの手の届かない場所、つまり相手の、去る自由のなかにしかないということだ。それは怖い。自由には、去ることもふくまれているから。けれど、答えがやってきたのは、これまでいつも、そこからだけだった。そしてもしあなたが、そんなふうにつかまれている側で、それが愛の証しとして手渡されたただひとつのものなのだとしたら、扉が開いていたら何がわかるのかを、考えてみてもいい。そうしてつかまれていることが怖くなってきたなら、配偶者やパートナーからの暴力について相談できる内閣府の「DV相談+(プラス)」が、0120-279-889で、二十四時間、日本語の電話相談を受け付けている。
この文章が主張しないこと
これは一本の映画の読みであり、臨床的、法的、治療的な助言ではない。登場人物をふくめて誰も診断せず、演者や、この映画にかかわった誰かの人生について、何も主張しない。
この物語を読んで、死にたいという思いが胸に浮かんだなら、それがあなた自身のことでも、身近な誰かのことでも、文章ではなく人に話してほしい。厚生労働省の「まもろうよ こころ」には、電話や、文字のやりとりで話せる相談先がまとめられている。
ここで名前を挙げた監督、脚本家、演者、批評家、放送局、出版社のいずれも、この出版物とは関係がなく、この出版物を推奨してもいない。
持ち帰る問い
愛していることを証明してほしくて、誰かに何かを求めたことはありますか。もし相手がそうしていたら、その証明は、あなたに何を教えたでしょう。
離れにくくすることで、そばにとどめている人はいますか。それでもとどまってくれたかどうかを知らないままでいることで、あなたは何を失っているでしょう。
あなた自身がそんなふうにつかまれていて、ほかに証しがなかったから、それを愛と呼んだことはありますか。それが別のものだと最初に気づいたのは、いつでしたか。
あなたがその一部だった恋の物語を、語ってきたのは誰ですか。そこから抜け落ちているのは、誰の語りですか。
愛さない自由を持っている人に愛される、というのは、どういうことでしょう。
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。