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『この恋は初めてだから』と、終わらせてはじめて本当になった契約

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住む場所を失った三十歳の補助作家が、家主と二年間の契約結婚をする。契約はふたりのあいだのことならきちんと守ったが、ほかの誰かが結婚に書き込む条件は締め出せなかった。愛が契約の最初の前提を嘘にする日のことも。

物語のなかほどのある晩、ひとりの若い妻が、夫の実家から帰ってくる。自分では引き受けた覚えのない仕事を、一日じゅうしてきたところだ。その日はナム家の祭祀(チェサ)で、彼女は挨拶だけのつもりで顔を出した。気がつけば使い走りをし、果物をむき、供え物のチヂミを焼き、親戚の年長者たちの相手をしていた。夫はその場にいなかった。あとで彼は、ふたりの取り決めに照らせば公平なことをする。彼女が使った時間に、お金を払うのだ。

彼に悪気はない。公平にしたつもりなのだ。それが彼女を傷つけ、しかも彼には、なぜなのかがわからない。彼女がほしいのはお金ではない。同じ仕事を、同じ時間だけ、自分の実家で返してほしいのだ。六時間、ひとりで。こうして、入社以来一日も休暇を取ったことのない男が、その最初の一日を、妻が育った南海(ナメ)でのキムジャンに使うことになる。作業が終わると親戚の年長者たちが次々にマッコリを注ぎ、彼はうまく断れないまま飲みすぎてしまう。

女性の名はユン・ジホ。三十歳のドラマの補助作家で、同居していた弟が妊娠した恋人を部屋に迎えたことで、住む場所を失った。男性の名はナム・セヒ。三十八歳で、猫と三十年の住宅ローンとともに暮らし、結婚するつもりはない。ふたりが夫婦なのは、それが双方にとって都合がよかったからだ。彼女には住む場所が要り、彼には暮らしを乱さない下宿人と、両親の催促を止めるための書類上の妻が要った。ふたりは条件を書き出した。期間は二年、そのあとは、あらかじめ合意しておいた離婚で終わる。

日本ではこのドラマは、「韓国版『逃げ恥』」とうたわれた。契約で妻になる女性を描いた日本のドラマ、『逃げるは恥だが役に立つ』のことだ。前提はたしかに同じである。けれど、たどり着く考えは同じではない。この作品のなかで、契約はふたりのあいだで起きることならきちんと仕切ってみせるのに、結婚が連れてくるほかのすべてには、まるで力が及ばない。三十年の住宅ローン、ふたつの家の親、そして祭祀。祭祀のあとでジホに返されるべきものは、お金では片がつかない。相手が同じ場所に立つことでしか、片はつかない。そして愛が契約の最初の前提を嘘にしてしまったとき、その契約にできるいちばん誠実なことは、終わらせることだ。

『この恋は初めてだから』は、結婚式では終わらない。式は早いうちに、親たちのために済ませてある。終わりにあるのは、ひとつの条項だ。それがどんな条項で、ドラマがどうやってそこへたどり着くのかは、次の注意書きのあとに回そう。そうした条項に意味があるのは、出ていくことが本当にできたときだけだ。この文章はそう考えている。

読む前に、そして物語の輪郭

この文章は、結末まで含めてドラマ全体に触れる。また、性的暴行の未遂、職場でのセクシュアルハラスメント、そして遠い昔に失われた妊娠についても、はっきりと、ただし詳しくは書かずに触れる。先に観ておきたい人は、どうかそうしてほしい。ここに書いたことは、あとで読んでも変わらない。

脚本はユン・ナンジュン、演出はパク・ジュンファ。韓国のケーブル局tvNで、二〇一七年十月九日から十一月二十八日まで、毎週月曜と火曜の夜に全十六話が放送された。ジホをチョン・ソミン、セヒをイ・ミンギが演じ、ふたりのかたわらでそれぞれの恋を生きる友人たちを、イ・ソム、キム・ガウン、パク・ビョンウン、キム・ミンソクが演じている。

韓国語の原題は、おおよそ「今度の人生は初めてだから」という意味だ。放送前、脚本家はその意味をこう説明していた。子どもが失敗すれば、大丈夫、初めてなんだからと慰めるのに、大人にはそのひと言を誰もかけない。けれど二十歳も三十歳も四十歳も、誰にとっても初めてなのだ、と。彼女はジホたち一九八八年生まれの世代を、できるだけ飾らず正直に描きたかったと語り、このドラマが世代と世代のあいだの、小さくても意味のある通り道になればと願っていた。物語はおもにジホの声で語られる。最初の十話のあいだ、ナレーションは彼女ひとりのものだ。

物語のあらましはこうだ。ジホはソウル大学を出て、安い稼ぎの補助作家として五年働いてきた。恋人ができたことは一度もない。三十歳の誕生日に住む場所を失い、友人の紹介でタウンハウスの一室を借りる。家主は女性だと思い込んでいたが、その家主のセヒのほうも、彼女を男だと思い込んでいた。セヒは恋愛アプリをつくる会社の首席デザイナーで、家賃のほかは誰にも何も求めない。勘違いがわかると彼女は出ていき、ほどなく次の部屋も仕事も失う。その事情には、あとで節をあらためて触れる。故郷の南海へ帰るバスに乗っていたジホのもとへ、彼女が置いていった台本を持って、セヒが追いかけてくる。そしてジホは、彼の申し出を受け入れる。二年間の契約結婚だ。

ふたりは両家のために、省くつもりだった結婚式を挙げ、家主と下宿人として暮らしはじめ、しだいに近づいていく。そのかたわらで、ジホの学生時代の友人ヤン・ホランとウ・スジも、それぞれに結婚と向き合っている。契約がどう終わり、何がそれに代わるのかは、この文章の後半で書く。

この文章は、ドラマそのものを観て書いたものではない。物語は、tvNが公開した各話の予告と人物紹介、日本の二つの放送局が放送時に公開したあらすじ、そして放送当時の韓国の報道とインタビューにもとづいている。台詞はすべて言い換えであり、正確な引用として示したものはない。

部屋と、住宅ローンと、先に決めておいた離婚

放送局の人物紹介は、ふたりを住まいの言葉で描いている。ジホのひと言は、カタツムリがうらやましい、というものだ。カタツムリは家から追い出されることがないから。セヒは、家のうち自分のものと言えるのは玄関くらいという、いわゆるハウスプアで、彼のひと言は、この人生で自分の手に負えるのはこの家と猫だけ、というものだ。制作側の企画意図は、もっとあけすけだ。男は家のために三十年ローンを返しつづけ、女は一生、二年ごとに荷物をまとめる借家暮らし。男は空いている部屋がもったいなくて家賃を取りたく、女は手持ちのお金で、いますぐ住む場所が要る。だからふたりは、それぞれの必要のために、結婚という制度を使うことになる。結婚しない者として、自由に生きつづけるために。

それがこのドラマの冗談であり、前提でもある。ふたりは独身でいるために結婚する。条件は、同居人どうしが賃貸の取り決めを交わすように決められる。結婚は二年で、そのあとは合意して離婚する。家族行事の費用は分け合う。互いの暮らしには踏み込まない。そして全体の第一の基準は、効率と合理性だとふたりは合意する。二年ごとに荷物をまとめてきた女性にとって、二年で終わる結婚は、借家人の時計で動いている。

セヒの人物紹介には、そんなことはどれも問題にならないと考える、彼なりの理屈まで書き込まれている。彼が勤める会社がつくる恋愛アプリの名前は、韓国語で「結婚じゃなくて恋愛」を縮めたものだ。彼にとって、人に紹介されて会うデートは市場原理に染まった一対一のマッチング競売であり、恋愛は結婚前の返品受付期間であり、結婚は子どもをつくるための強制的な社会制度にすぎない。そう考える男には、契約がちょうどいい。結婚から自分に必要なもの、つまり家賃と親の沈黙だけを受け取り、残りは断ることができるからだ。

このドラマがつくられたのは、韓国統計庁の「社会調査」の二つの回のあいだだった。この調査は十三歳以上の人に、結婚についてどう考えるかを尋ねている。二〇一六年には、「必ずすべきだ」が一二・五%、「したほうがよい」が三九・三%で、「してもしなくてもよい」が四二・九%だった。二〇一八年には前の二つが一一・一%と三七・〇%になり、合わせても半分に届かず、「してもしなくてもよい」は四六・六%に増えた。二〇二四年には前の二つが一六・四%と三六・一%で、合わせるとふたたび半分を超えた。定規を当てて、この先へ線を引き延ばせるような変化ではない。数字が記録しているのは意見であって暮らしではなく、理由も語らない。示しているのは、このドラマが書かれたころ、結婚がひとつの開かれた問いになっていた、ということだ。

同じ年、ソウルの女性と部屋をめぐるもうひとつの物語が生まれている。俳優もひとり重なる。チョン・ゴウン監督の『小公女』で、ここでスジを演じるイ・ソムは、部屋は手放しても、暮らしを自分のものにしてくれる小さな楽しみは手放さない女性を演じた。ジホは逆の取引をする。書類の上で、独身という形を手放して、部屋を守る。どちらの物語も、ヒロインの取引を愚かなものとしては扱わない。

誰の記憶にも残らないはずの結婚式

契約には、家族行事の費用についての条項はあったが、家族そのものについての条項はなかった。それでも家族はやってくる。ふたりは両家の親をどうにか説得して、結婚式を省くことにする。ところが両家の顔合わせの席で、ジホの母がそれをひっくり返す。うちの娘をそんなふうには送り出せない、と。こうして結局、式は挙げることになる。どんな式にしたいかと友人に聞かれたセヒは、誰の記憶にも残らないくらい短くてありふれた式にしてくれと頼む。ドレスは借り物で、セヒは礼服ではなくふだんのスーツ。当日の朝、ジホはウエディングドレスの上にトレンチコートをはおって、式場へ向かうバスに飛び乗る。

その、記憶に残らないはずの式で、取り決めははじめて、ただの取り決めではなくなる。ジホは新郎のかばんのなかに、母がこっそり入れておいた家族のアルバムと手紙を見つける。手紙は、こんな母のもとで苦労をかけた、という詫びから始まり、婿にふたつのことを頼んでいる。いつかジホがまた書きたいと言ったら、書かせてやってほしい。いったん泣きだすとなかなか泣きやめない子だから、泣いているときはそばにいてやってほしい。ジホはドレスのまま座りこんで泣き、式が始まる前から、セヒはふたつめの頼みを守ることになる。

愛のこもった手紙であり、多くを語る手紙でもある。そして契約をめぐるドラマは、これを一通の文書としても読むよう誘っている。取り決め全体のなかで、ジホ自身の将来について書かれた条項はこれだけであり、それは母の手書きで、夫に宛てて、頼みごとの形で書かれている。母の生きてきた世界では、そうした条項はその形をとるほかなかった。放送局の人物紹介は、ジホの父を、家父長制の守り手で、娘より息子を重んじる人として書いている。父は、女の子なら教育大学に行くものと決めてかかっていた。文学が好きだったジホは、父に言わずに別の大学に願書を出し、入学前に夜逃げのようにソウルへ出てきた。母は娘の条件を、次の男への頼みごととしてしか書けない。ドラマはその頼みをそのまま残し、残りの時間を使って、ペンの持ち手を移していく。

契約に書かれていなかったもの

家族がふたたび入ってくるのは第十話だ。この回を予告した韓国の芸能記事は、夫の実家とその家が支配する世界を指す俗語を使い、ジホは話に聞くだけだったその世界を、いよいよ身をもって知ることになる、と書いた。人物紹介によれば、セヒの母は、息子の妻と友だちのような姑になることを長く夢見てきた。彼女自身は四十年近く、ひとりの夫と暮らしてきた。水仕事で手が乾く日はないだろうが、食べる心配だけはさせないと約束し、その両方を守った夫だ。そのあいだずっと夫は厳しい先生のようにふるまい、彼女は叱られているような気持ちで結婚生活を送ってきた。その母が、ジホをナム家の祭祀に呼ぶ。挨拶だけのつもりで出かけたジホは、気がつけば使い走りをし、果物をむき、供え物のチヂミを焼いている。同じ記事が書いたとおり、それは契約のどの条項にも書かれていない、嫁としての役目だった。セヒはそれをあとから知り、あわてて実家へ駆けつける。

ここまでのところは、「年中行事は、どのように親密さを役割へ戻すのか」を読んだ人には驚きではないだろう。あの文章は、ふたりのあいだの私的な取り決めはふたりにしか読めないのに、儀式には、どの役がどう演じられるべきかを知りつくした観客がいて、観客とは交渉ができない、と論じた。家で何もかも話し合い直してきた人でも、着いて一時間もすれば古い役に戻っている。ジホの契約は、書いて署名までした、これ以上ないほど私的な取り決めだ。それがもったのは、彼女が台所に入るまでだった。

ドラマが付け加えるのは、そのあとのことだ。そしてそのあとには、まちがった答えがふたつ出てくる。どちらもセヒの答えだ。ひとつめは問いだ。なぜ自分を守れなかったのか、そもそもなぜ行ったのか。ふたつめのまちがいのほうが興味深い。彼はお金を払うのだ。ふたりの取り決めの論理からすれば、それは律儀ですらある。彼女の時間は自分の家族のために使われたのだから、その分を埋め合わせる。そして傷つけるのは、まさにその論理なのだ。お金は事を片づけてしまう。彼女が彼の家族のなかで過ごした一日を、ふたりのあいだの取引に変え、貸し借りのない閉じた話にしてしまう。わかるべきことは、もう何も残らない。

ジホの返し方は、このドラマでいちばんの発想だ。彼女は埋め合わせそのものを断るのではない。通貨を替えるのだ。同じやり方で、つまり労働で、自分の実家で、同じ時間だけ、ひとりで返してほしい。そうしてセヒは出かけていき、彼女が口では伝えられなかったことを知る。仕事は想像以上にきつく、慶尚道のお母さんたちの方言にはついていけない。作業が終わると親戚がマッコリを注ぎ、ふだんどこでも使っている軽い断り文句が、ここではどうしても出てこない。いつものように断ればよかったのに、とジホに言われて、彼は自分がかつて投げた問いがそのまま返ってくるのを聞き、彼女がどんな気持ちだったかをはじめて理解する。韓国の報道は、この回をそう伝えている。あの年中行事の文章もすでに書いていた。儀式のなかで、家族の見ている前で断ることは、ふたりのあいだで断ることと同じ行為ではない。ずっと高くつく。セヒはそれを、身をもって学ぶことになる。

この回で、それまでジホだけのものだったナレーションに、はじめてセヒの声が加わる。そしてドラマは一篇の詩に手をのばす。チョン・ヒョンジョンの「訪問客」だ。人がやってくるというのは、じつはとてつもないことだ。その人は過去と現在と未来とともに、ひとりの一生を連れてくるのだから。壊れやすく、だからすでに壊れたこともあるかもしれない心が、やってくるのだから。恋の言葉である。同時にこれは、このドラマが契約について語るもっとも正確なことでもある。ふたりは、ふたりの人間がやってくるかのように契約を書いた。けれど、それぞれが連れてきたのは、家族であり、祭祀であり、整えるべき膳であり、客には断れない酒を注ぐ親戚たちだった。

二年後には、韓国の映画もその台所に立つことになる。『82年生まれ、キム・ジヨン』では、若い母親が秋夕(チュソク)の休みに夫の実家で料理と片づけに追われ、とうとう、自分の母の声で口を開く。このドラマはもっと軽やかで、同じ扉の反対側に立っている。問うのは、台所で起きたことに、夫があとからどう応えるべきか、である。その答えはお金ではない。そしてその答えこそ、この作品のいちばん役に立つところかもしれない。

ふたつの契約結婚、ふたつの発見

日本のドラマとの比較は、きちんとしておく価値がある。二つはそれほどよく並べられるからだ。この図書室はあの作品を、「『逃げるは恥だが役に立つ』と、関係に「契約」を持ち込むと見えるもの」で読んだ。そこでは契約は仕事である。妻は雇われていて、給与があり、休日があり、役割は文書に書かれている。あの文章の発見は、契約は結婚に条件を付け加えたのではなく、どの結婚にもすでにある条件から覆いを取り除き、交渉できるものにした、ということだった。いちばん鋭いのは愛についての指摘だ。同じ労働が愛情として分類し直されると、無償になり、口にすることさえ難しくなる。値段こそが条件を話し合えるものにしておく、とあの文章は論じた。

このドラマに、それを否定するところはない。ただ、ここでの契約は仕事ではない。賃貸借である。韓国の報道はこれを、毎月の家賃(ウォルセ)で成り立つ結婚と呼んだ。お金の流れも逆で、ここでは妻のほうが借家人だ。問いも違う。あの文章が問うたのは、愛が給与に何をするか、だった。このドラマが問うのは、契約に何が収まるのか、である。答えはこうだ。署名したふたりのあいだで起きることはすべて収まり、ふたりが連れてくるものは何ひとつ収まらない。傷をつくる条件は、結婚の内側に隠れて、暴かれるのを待っていたのではない。外側にあった。住宅ローンに、母の願いに、姑の夢に、膳と手順をそなえた祭祀に。そしてそれらは、玄関から入ってきた。

そして傷ができたとき、ドラマは値段という答えを試し、その限界を見つける。セヒはお金を払う。あの台所では、値段は何かを話し合えるものにしておくのではなく、話し合いを終わらせてしまう。だから痛いのだ。同じ種類の仕事を同じ時間だけ、というジホの求めは、条件を拒むことではない。よりよい条件なのだ。求めているのは清算ではなく、立場を入れ替えることだ。そして立場の入れ替えは、料金とちがって、相手をわかることなしには済ませられない。誰かが立っていた場所に六時間立って、何も知らずに帰ってくる人はいない。

もうひとつの違いは、あとからやってくる。あの文章が読んだ日本のドラマでは、契約は覆いを取り除く。このドラマでは、契約そのものが覆いになる。ジホがセヒを愛するころには、ふたりの家でいちばん嘘になっているのは、ふたり自身が書いたあの一文、自分たちは家主と下宿人であってそれ以上ではない、という一文だ。書き出すことで条件は交渉できるものになる、というあの文章の指摘は正しい。このドラマはそこに付け加える。書かれた条件は、本当でなくなったあとも守られつづけることがあり、その時点を過ぎてなお守られる契約は、それ自体がひとつの嘘になる、と。

書く人として、そして奪われた仕事

ジホの物語を、背景に仕事がある恋愛物語として語るのはたやすい。ドラマはそうしていない。彼女は文学が好きで、父の思惑に逆らって、それを学びにソウルへ出た。同級生たちが大企業やロースクールへ進むなかで、毎日放送される連続ドラマの補助作家になった。稼ぎは少なかったが、恨みはなかった。書くことが自分の幸せだったからだ。ジホを演じたチョン・ソミンは放送後、ジホはただその仕事が好きだという理由だけで選んだのだと語り、そこに自分を重ねていた。彼女自身、演技の道を選んだとき、父親に強く反対されたのだという。

三十歳で作家デビューの話は流れ、あいかわらず補助の扱いを受ける。しばらくは、同期の助監督が見つけてくれた作業部屋で暮らすが、その男に性的暴行を受けかけ、そこも失う。ついていたメインの脚本家が謝ってくれたと思ったら、それはその男との無理な和解のための下準備だった。ジホはそれを受け入れず、五年を費やした仕事を手放す。

ドラマはこれを、プロポーズの直前に置いている。けれどこの文章は、それを彼へ向かう一歩としては読まない。それはひとりの男の暴力であり、それを丸く収めようとする職場であって、彼女がそのために失ったのは仕事だ。恋の物語がそれを癒やすわけではない。修復があるとすれば、それはもっとゆっくりやってきて、彼女自身のものである。

のちにジホは、自分の書いた習作が、かつてついていた脚本家とあの助監督の新作として作られていることを知る。ある制作会社から仕事の誘いを受けたとき、彼女はその代表に、仕事を始める前に助監督の件にけりをつけたいと告げる。その会社の代表は、セヒの初恋の人、コ・ジョンミンだった。韓国の報道によれば、セヒはジョンミンに、ジホを自分の妻としてではなく、ひとりの作家として見てほしいと頼む。小さな場面だが、多くを語っている。女性の仕事のために男ができるのは、ここでは、自分をそこから外すことなのだ。

ジホの声は、ドラマ全体を貫いている。韓国の新聞が回を追うごとに取りあげた、あのナレーションだ。そして最後に、彼女はドラマを書いている。母の手紙は、夫に、書かせてやってほしいと頼んだ。最後の場面では、誰も彼女に何かを「させて」はいない。

チョン・ソミンは、ジホから学んだことがあるとも語っている。理不尽なことをされたとき、胸にしまってあとで爆発させるのではなく、その場で、傷ついた、痛い、と言うこと。ロマンティック・コメディから学ぶにしては、ささやかなことだ。けれど、祭祀のあとのお金を前にしてジホがしたのは、まさにそれだった。

三人の女性と、手渡された条件

ジホの学生時代からの友人ふたりは、結婚をめぐるこのドラマの、もうふたつの立場を受けもっている。そしてドラマは、最初の紹介から想像するよりずっと真剣に、ふたりを描く。ヤン・ホランは、妻になり、母になりたい。放送前、制作側は彼女を、「就職」と「嫁ぐこと」を合わせた韓国語の造語で紹介した。職業としての結婚、ということだ。そして人物紹介のなかの彼女は、十八歳のころにはもう、お金持ちの息子とは結婚しないと筋道立てて説明している。親から受け継いだ財産には、夫の実家に仕える嫁としての暮らしが込みでついてくるから、と。彼女は台所について無邪気なわけではない。それを避ける計画を立てていたのだ。

七年つきあった恋人のシム・ウォンソクは、起業した会社がうまくいかず、結婚はあと五年待ってほしいと言う。ホランはその条件では待たず、ふたりは別れる。演じたキム・ガウンは、放送が終わったあと、はっきりこう語っている。ホランはただ待つのではなく、彼といっしょに未来を準備したかったのだ、と。そして最後に、彼女のほうから動いて、ふたりは結局結婚する。結末は彼女の夢を笑わない。その夢の条件を、彼女自身に決めさせる。

ウ・スジは、結婚するつもりがまったくない。放送局の人物紹介は、屈託なく、彼女を「攻撃的非婚主義者」と呼んでいる。有能で率直で、ずっと自分の会社を持ちたいと思ってきたが、母が彼女を頼りにしているから、大企業の高給の職にとどまり、まわりの男たちのハラスメントに耐えている。マ・サングが彼女に惹かれると、スジは先に自分の条件を示し、それを飲むなら付き合うと言う。ドラマ自身の宣伝文は、ふたりの関係を契約恋愛と呼んだ。やがてスジは、職場の男たちが自分の身体を賭けの種にしていたことを知る。彼女は首謀者のパク代理を呼び出し、これまでのセクシュアルハラスメントについて、正式な謝罪を求める。娘がなぜ会社にとどまっていたのかを知っている母は、もう母の分まで羽ばたいていいのだと言う。最終回までに、スジは会社を辞め、下着の会社を自分で立ち上げている。

コ・ジョンミンは、恋敵として描かれてもおかしくなかった女性だ。けれど資料が伝えるのは、別の姿である。彼女はドラマの制作会社を率いていて、ジホに書く仕事への道をふたたびひらくのは、その会社なのだ。学生時代、彼女とセヒはいっしょに暮らしていた。彼女は妊娠し、その妊娠は失われ、セヒの父がふたりを認めなかったことで、関係は終わった。この文章は、その喪失について誰も責めない。何年もたって、彼女は別れぎわに言った言葉を詫び、セヒは、もう気にしなくていいと答える。そしてセヒが思い出すジョンミンの言葉が、結末がよりどころにしている考えを言い表している。言葉は、口に出してはじめて、相手の心に届くのだ、と。

この女性たちをつないでいるのは、結婚についての判定ではない。ホランは結婚を望み、スジは望まず、ジョンミンは若いうちにその機会を失った。三人をつないでいるのは、ドラマがジホに向けて問いつづける、ひとつの問いだ。いまあなたが従っている条件を書いたのは誰なのか。そのうちひとつでも、自分で書くことはできるのか。

ひとつの条項が本当でなくなった夜

契約の最初の前提は、ふたりは家主と下宿人であってそれ以上ではない、というものだった。セヒは長いあいだ、それを律儀に守る。式のあと、ジホは、彼が「僕たち」と言うようになったことに気づき、自分でも思いがけないほどうれしくなる。けれど彼女が妻の役で彼の職場に顔を出し、韓国語で「わたしたち」という意味にもなる「ウリ」という名前を彼の猫につけると、彼は線を引く。家主と下宿人以上の関係は、約束したことではない、と。傷ついたジホは、猫のために作った名札をごみ箱に捨てる。

彼はそれを捨てずに、しまっておいた。何週間かのち、自分の気持ちを伝えるつもりの夜、彼はその名札を猫につける。その夜、ジホは彼に、契約を終わりにしたいと告げる。

彼女の理由は、きちんと聞いておく価値がある。たやすい読み方は、それを取り違えるからだ。彼女は彼を愛さなくなったのではない。ジョンミンのこと、ふたりが失った妊娠のことを知り、その過去がいまも彼に何をしているのかが見えている。そして愛なしに始めた結婚は、彼を愛してしまったいま、ふたりの関係を偽る言葉になっていた。韓国の報道はそれを簡潔に書いている。愛なしに始めたひとつ屋根の下の結婚を、彼を本当に愛するようになったいまだからこそ、彼女は終わらせることにした、と。彼が何かを言おうとしていることにも気づいているが、彼が昔の傷を先に片づけられるよう、そぶりも見せない。これは退却ではない。このドラマで誰かが契約にしたことのなかで、いちばん正確なことかもしれない。本当でなくなった条件を、彼女は守るのをやめる。

契約の最後の日、ふたりは初めて会ったときのように握手をして、互いの健闘を祈る。セヒには言いたいことが山ほどあるが、何も言わず、彼女を引き留めもしない。ジホはひとりで旅に出る。そしてセヒは家を売りに出す。人物紹介が、彼の唯一の世俗的な望みと書いていた家だ。どの隅にも彼女との思い出がしみついたその家では、もう眠ることも、食べることも、暮らすこともできなくなったからだ。気持ちを伝えようとジホが戻ってきたとき、そこには見知らぬ人が住んでいる。

何か月かのち、ふたりはまた出会う。ジホはホランに、セヒはウォンソクに借りた屋上部屋に住んでいた。なぜ黙っていたのかとセヒは声を荒らげ、ようやく、どれほど会いたかったかを口にする。人物紹介が家と猫しか持たせなかった男が、条項のひとつも付かない一文を口にするまでに、ドラマのすべての回と、一軒の家の売却が必要だった。

毎年更新される条項

ふたりは古い契約には戻らない。翌朝の韓国の報道が伝えた最終回では、ふたりは新しい契約を結ぶ。愛をいちばんの優先にした契約で、毎年更新される。報道はそのうち二つの条項を紹介していて、どちらもゆっくり読む価値がある。住まいについての権利は、半分ずつ平等に分ける。そして旧正月や秋夕のような名節には、それぞれが自分の家族のもとで過ごす。

どちらの条項も、ひとつの傷に答えている。ひとつめは家に答える。彼のもので、ローンつきで、この取り決め全体の理由であり、彼女なしでは暮らせなくなって売られた家だ。ふたつめは祭祀に答える。名節をそれぞれ自分の親の食卓で過ごす夫婦は、嫁の台所を、合意のうえで前もって、自分たちの結婚から外したことになる。こうしたことは役が動き出す前に決めておくしかない、とあの年中行事の文章が書いたとおりのやり方だ。どちらの条項も、ロマンスについてのものではない。どちらも、それぞれがどこに立つかについてのものだ。

毎年の更新は、多くの人の記憶に残る場面であり、甘く読みすぎてしまいやすい。この図書室は「一度ではなく、何度も選ばれる」で、結婚の書類は、結婚が続くかぎり、ふつうの日々に、小さなかたちで何度も下し直されなければならない決断を記録するにすぎない、と論じた。このドラマは、その考えを日付入りの条項にする。けれど、あの文章が言う必要のなかった条件をひとつ付け加えていて、この文章が物語をこの順序で語ってきたのは、そのためだ。

更新に意味があるのは、更新しないことが本当に可能なときだけだ。この図書室がウルフを読んだ「『自分ひとりの部屋』を、創作だけでなく親密さの条件として読む」は、その原理を和らげずに述べている。出ていけない女性は、とどまることに同意できない。ジホが最初の契約に署名したとき、彼女には住む場所がなく、ほかの選択肢は実家へ帰るバスだった。二度目の署名は、出ていったあとのものだ。自分の事情に合っていた結婚を終わらせ、その理由だった部屋を失い、何か月も、友人の屋上部屋で、彼なしに暮らしたあとの署名である。更新の条項に価値があるのは、出口が本物だったからだ。

それが最初の契約と最後の契約の違いであり、それは偽物の結婚と本物の結婚の違いではない。どちらも契約だ。最初の契約は必要から書かれ、そのまわりから、ほかの誰かの条件が次々に入ってきた。最後の契約は、互いに相手が立たされた場所に立ったことのあるふたりが書き、出ていけることを示した女性が署名する。三年後、彼女はドラマを書いていて、ふたりはまた、その契約に署名する。

日本から観ると、そしてもっと遠くから観ると

日本での題は『この恋は初めてだから』で、韓国語の「人生」は「恋」に置き換えられている。わかる選択ではあるが、この作品を小さく見せてしまう。原題は人生についての題であり、ドラマも人生についての物語だ。部屋、仕事、借金、ふたつの家族、友人の屋上部屋。恋は、そのなかにある、誰も初めてはうまくできないたくさんのことのひとつにすぎない。

二〇二四年の秋、このドラマはテレビ愛知の平日の朝と、福岡のTVQ九州放送で放送された。両局は番組紹介で、本作が「韓国版『逃げ恥』」とうたわれたことに触れ、「非婚化や就職難、更にはパワハラ問題」にも問いを投げかける作品だと伝えた。どれも正当な見出しだ。この文章はそこに、どれよりもまっすぐ日本に届くものを、ひとつ加えたい。家族である。

韓国の祭祀と日本の法事は別のものであり、同じだと言うつもりはない。ただ、日本の放送局のあらすじは、第十話にあたる場面を、そのまま「法事」と書いていた。そしてその回のかたちに見覚えのある家庭は、日本にもあるかもしれない。夫の実家の法事や正月の帰省に出かけた妻が、一時間もしないうちに台所に立っていて、夫はそれを見ていない。このドラマの答えが海を越えて届くのは、それがあまりに素朴だからだ。お金ではない。お金は話を閉じてしまう。断りなさいという説教でもない。それは、他人の家族のなかで断ることの重さを見ていない。同じ仕事を、逆向きに。

日本で暮らし、自分が育ったのではない家族に、ことによると第二言語で嫁いだ女性にとって、結婚のうちどんな書類にも書かれていない部分は、いちばん読みにくいところかもしれない。家族が何を、誰に期待しているのかは、めったに口にされない。それを言葉にできるただひとりの人は、その家のなかで育った配偶者だ。このドラマの小さな試験は、借りておく価値がある。自分の家族があなたに何を求めているか、彼はそれを内側から知っているだろうか。彼自身が、そこに立ったことはあるだろうか。

ジホとセヒのような契約が法律上どんな意味をもつのかは、韓国でも日本でも、弁護士に尋ねるべき問いであり、ドラマもこの文章も、それには答えない。ドラマが主張しているのは、もっと狭く、もっと反論しにくいことだ。ふたりが書いた条件は、ふたりが書かなかった条件によって試される。そしてその試験は、たいてい、家族の食卓でやってくる。

この読みへの反論

この読みには、まちがっているかもしれない理由が少なくとも五つある。ひとつめは、このドラマを演出した当人から出てくる。

放送中、パク・ジュンファは、厳しい現実をどれほど忠実に描いても、ドラマには希望の、ファンタジーに近い要素が要ると語り、自分にとっていちばん大事なのは、人物どうしの関係のなかに生まれる温かさだと述べていた。そうだとすれば、毎年の更新は、契約についての議論などではない。厳しい現実にいずれ与えられることになっていたファンタジーであり、結末のためのきれいな条項であって、この文章は包装のリボンの上に理論を建てたことになる。

ふたつめ。この文章がたたえる出口は、手の届くものだった。ジホが出ていけたのは、屋上部屋を貸してくれる友人がいたからで、セヒには売れる家があった。ある取り決めから一度出てみて、それでもそれを望むかどうか確かめる、などということができない人は大勢いる。約束の価値を、そこから出ていける自由に結びつける読みは、ひとつの特権を描いているだけかもしれない。この指摘は認めるほかない。それでも、もっと狭い主張は残る。出ていくことができるところでは、それがとどまることに意味を与える。できないところでは、それは条件についての事実であって、その女性についての事実ではない。

みっつめ。ドラマは性的暴行の未遂を、プロポーズの直前に置いている。ひとりの男の暴力が、ジホをセヒの家の戸口まで運ぶために使われている、と感じる視聴者がいても不思議はない。この文章はそう読むことを拒んできたが、その構造はドラマ自身のものであり、この異議は残る。

よっつめ。女性たちの自由は、助けを伴ってやってくる。スジは献身的な男に励まされながら会社を立ち上げ、ジホを書く仕事に呼び戻したのは、夫の初恋の人の会社だった。三組のカップルは、どれもカップルのまま終わる。このドラマは、女性たちが自分の条件を書くことを恋愛の内側でしか許していないし、このドラマが祝う条項は余裕のあるカップルだけが手にできるものだ、と批評家が言うこともできるだろう。

いつつめは、家族について。制作側の企画意図は住宅価格を責め、住まいの不安のために、結婚どころか人間関係さえあきらめる世代を描くと述べていた。最終回の条項は、家族と家の問題を、ふたりのあいだで解決する。家賃を解決するよりは、ずっとたやすい。そして、この文章にも偏りがあるかもしれない。この図書室は以前から、条件を書き出すのはよいことだと論じてきた。このドラマのなかに、探しにいったものを見つけただけなのかもしれない。

この図書室が受け取るもの

受け取るものは三つある。どれも規則ではない。

結婚が拠って立つ条件を書いているのは、ふたりだけではない。貸し手が書き、親が書き、観客のいる儀式が書く。ふたりのあいだの契約は、それらを締め出すことはできない。最初の名節や帰省が来る前に、ほかに誰があなたの条件を書いているのかを知っておくことには、意味がある。

公平は、いつも値段で測れるわけではない。誰かがあなたの家族の台所で過ごした一日への、たったひとつの公平な答えが、同じ時間を相手の家族の台所で過ごすことだ、という場合もある。支払いは、開いたままにしておくべき問いを閉じてしまうことがある。立場を入れ替えることは、相手をわかることなしには済ませられない。

そして契約は、それがあなたたちを正しく描いているあいだだけ誠実である。描かなくなったとき、それを終わらせることは失敗ではない。更新に価値があるのは、更新しないことができるところでだけだ。だから、契約結婚をめぐるドラマのなかでいちばん大事な場面は、戸口での握手なのかもしれない。

だから、一度だけ、あなたに。もしあなたが、そのどれかを受け入れてきたのなら。台所も、祭祀も、そのときの自分の事情に合っていた取り決めも。あなたは弱かったのでも、世間知らずだったのでもない。住む場所か、立つ場所を必要としていたひとりの人だった。あなたの条件は、いまよりも選べるものが少なかったときに書かれた。それを書き直してもいい。

これは一本のテレビドラマの読みである。フィクションの人物も現実の人も、誰ひとり診断しないし、どんな結婚や契約や法律についての助言でもない。統計の数字は韓国統計庁のもので、年と定義を添えて示した。それが記録しているのは意見であって、暮らしではない。

手元に残しておきたい問い

ふたりのほかに、あなたが従っている条件を書いているのは誰だろう。そのうちどれに同意し、どれがただ届いただけなのだろう。

本当でなくなったあとも、まだ守りつづけている条項が、あなたの暮らしのなかにあるだろうか。

もし毎年更新できるとしたら、あなたは更新するだろうか。そして、ほんとうに、しないと決めることもできるだろうか。

誰かがあなたの家族のために時間を差し出したとき、あなたはどう返しただろう。感謝の言葉で、お金で、それとも、その人が立っていた場所に立つことで。

ほかの章から読む

年中行事は、どのように親密さを役割へ戻すのか二人は何年もかけて自分たちに合う私的な取り決めを結び、そしてある行事が到来して、どちらも書かなかった台本を二人に手渡す。既定は結び直しによって打倒されない。それは眠るのであり、そして儀礼がそれを呼び起こす。だからケアの祭りが、確実に一年でもっともケアされない日になる。『自分ひとりの部屋』を、創作だけでなく親密さの条件として読むウルフの議論はふつう書くことについてのものとして覚えられており、そしてそれを持続させているのは、それが物質的であることである。彼女は勇気や許可を処方しない。ひとつの金額と、鍵のかかる戸を名指す。同じ物質主義を、小説ではなく近さに適用すると、結論はより厳しい。親密であれる能力には前提条件があり、そして去ることができない人は、留まることに意味のある同意を与えられない。韓国。美の規範、その反動、そして「降りる」という政治。韓国の女性たちは髪を切り、化粧品を壊した。隠しカメラをめぐってソウルの中心を埋めた。一部は原則として、恋愛と結婚と出産をやめた。そして出生率は〇・八を下回った。これを勝利として読むのも敗北として読むのも間違いだ。これは支払期限の来た請求書である。

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