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『小公女』と、家賃のほかに部屋が求めるもの
家賃が上がり、いちばん売れているタバコが一箱二千五百ウォンから四千五百ウォンになったとき、ソウルで家事代行をして暮らすミソは、ウイスキーとタバコではなく部屋を手放し、昔のバンド仲間の家を訪ね歩く。仲間たちはみな部屋を持ち、それぞれお金ではない何かでその代金を払っている。それなのに説明を求められるのは、彼女の取引だけだ。映画は、その代償がいくらだったのかを言わないまま終わる。
二〇一四年から二〇一五年へ、年が変わろうとしているころ。ソウルでひとりの女性が、スーツケースを机がわりにして家計簿をつけている。部屋は狭く、暖房がない。恋人が来ても、寒すぎて何も脱げない。ふたりは春まで待とうと約束する。スーツケースの上のノートは、一ウォン単位まで正確だ。家賃。早すぎる白髪を抑えるための漢方薬。タバコ。行きつけのバーで飲む一杯のウイスキー。彼女は他人の家を掃除して日当をもらっていて、その日当は上がっていない。
そこへ、ふたつの値段が変わる。何年も家賃を据え置いてくれていた大家が、家賃を上げる。そして二〇一五年の元日、韓国でいちばん売れているタバコが、一箱二千五百ウォンから四千五百ウォンになる。ミソは、用心深い人がすることをする。仕事を増やす。安い銘柄に替える。もう一度計算し直す。それでも年末には足りなくなる。そこで彼女は、暮らしにかかるものの一覧を上から眺めて、部屋に線を引く。
チョン・ゴウン監督の『小公女』の設定はこれだけで、たいていは教訓をくるんだ笑い話として語られる。ウイスキーとタバコのために屋根を捨てた女の話、として。そう語られると、映画はふたつのうちのどちらかになる。倹約の教訓で、結末は彼女への罰だ、という話か。自由のロマンスで、結末は彼女の勲章だ、という話か。この映画はそのどちらでもないし、どちらにもならないよう注意深くできている。ミソはスーツケースと、昔一緒にバンドをやっていた五人の名前を書いたメモを持って、ひとりずつ訪ねては、泊めてもらえないかと頼む。五人にはみな部屋がある。そして五人とも、その部屋の代金を、お金ではない何かで払っている。
ニューヨーク・アジア映画祭にこの映画を持っていったとき、監督はそのことをはっきり語っている。通訳を介したインタビューで、ソウルで自分の場所を持つためには、誰もが人生の何かをあきらめなければならない、ということを伝えたかったのだと。最初の友人は休息をあきらめ、二人目は夢を失い、三人目は借金を背負い、四人目は親の家から独り立ちできずにいる、と彼女は続けた。ところが、周りの人たちが、そして少なからぬ観客が、悪癖と呼んでかまわないと思ってきたのは、ミソの取引だけなのである。
この文章が考えたいのは、その差だ。暮らしのなかのどの項目を「必要」と呼ぶのかを、誰が決めるのか。そして、線を別の場所に引いた女性を、映画がどう扱い、どう扱わないのか。これは家を手放せという話ではないし、ウイスキーを勧める話でもない。家計簿は倫理の記録であり、誰の家計簿にも、これだけは削らないという一行がある。その一行がたまたま一杯のグラスと一本のタバコだった女性は、ほかの誰より不真面目だったわけではない。そういう話である。映画の結末は、彼女の選択が自由だったのか、その代償だったのかを言わない。この文章も、それを言うつもりはない。
この先を読む前に、そして映画のあらまし
この文章は、結末まで含めて映画の全体に触れる。先にミソに会っておきたい人は、どうかそうしてほしい。彼女は一緒にいて楽しい人だ。結末に入るときには、もう一度そう断る。
『小公女』(英語の題はマイクロハビタット)は、チョン・ゴウンが脚本と監督を手がけた初めての長編映画だ。製作は光化門シネマとモット・ピクチャーズ。光化門シネマは、映画をつくる仲間たちが互いの作品を手伝い合う小さな会社で、チョン・ゴウンはその共同代表のひとりである。上映時間は百六分。ミソをイ・ソム、恋人のハンソルをアン・ジェホンが演じ、昔のバンド仲間五人をカン・ジナ(ムニョン)、キム・グッキ(ヒョンジョン)、イ・ソンウク(デヨン)、チェ・ドンムン(ロギ)、キム・ジェファ(チョンミ)が演じている。二〇一七年十月の釜山国際映画祭で初めて上映されて賞を受け、韓国では二〇一八年三月二十二日に公開された。その前の冬のソウル独立映画祭では、観客の投票で長編部門の観客賞を受け、二〇一八年にはチョン・ゴウンが青龍映画賞の新人監督賞を受けている。
物語のあらましはこうだ。ミソは家事代行の仕事をして三年になる。ハンソルは漫画家志望で、工場で働き、その寮に住んでいる。だからふたりの逢瀬は、ミソの寒い部屋で過ごす夜か、献血のお礼にもらう映画の券が頼りだ。いつかふたりで暮らせる家を持つことが、ハンソルのただひとつの望みである。
彼女の理由を、彼女の計算で
数字から始めたい。ミソがそうしているからであり、彼女をいちばん読み違えやすいのは、彼女が計算をしなかったと思いこむことだからだ。
彼女の収入は日当である。映画の予告編が見せる計算では、一日働いて四万五千ウォン。それがウイスキー代、タバコ代、デート代、家賃に消えていく。公式のあらすじは、その先を決定づける一文を添えている。新しい年になると値段は上がり、日当はそのまま、と。上がった値段のうちいちばん大きなものは、映画のために作られた話ではない。二〇一五年一月一日、増税によって、韓国でいちばん売れているタバコは一箱二千五百ウォンから四千五百ウォンになった。彼女の日当でいえば、その一箱が一日の労働の十分の一にあたる。
家賃のほうは、大家が月五万ウォンの値上げをすまなそうに申し出る。映画のこのあたりには、悪人がひとりもいない。
彼女がしないことがひとつある。借金だ。学費の借金をいまも返しているハンソルが、一緒に暮らすためにお金を工面しようと言い出したとき、ミソは、借金をせずに生きるのが自分の目標なのだと答える。聞き流してしまいそうなひとことだが、これが彼女の家計の要である。この映画で部屋を持っている人はみな、何かの通貨でその代金を払っていて、そのうちのひとりは、あとで見るように、二十年という通貨で払っている。ミソが決めていたのは、自分の未来に請求の来る書類にだけは署名しない、ということだった。
部屋そのものをあきらめたわけでもない。この映画を評した三人の批評家、ジェレミー・クラーク、ジャレッド・モバラク、フィービー・チェンが、そろって彼女の計画に触れている。しばらく家賃を払わずに暮らし、もっと安い部屋の保証金を貯めるつもりなのだ。韓国で月払いの部屋を借りるには、ふつう最初に保証金が要る。日銭で暮らす人が、家賃を払いながらそれを貯めるのはたやすくない。五人の名前を書いたメモは、住まいからの逃走ではない。住まいへ戻るための道なのである。
では、倹約の読みが勧めるもうひとつの家計を試してみよう。これは映画ではなく、この文章の計算である。かわりにタバコをやめたとする。一日一箱、四千五百ウォンなら、一年でおよそ百六十四万ウォンになる。試写会でチョン・ゴウンは、一億ウォン貯めるのさえ難しいのに、一億ウォンあっても家は見つからない、と語っていた。この数字どおりなら、ミソの我慢は、すでに足りない金額に届くまでに六十年ほどかかる。チェンはもっと短く、毎日のタバコをやめたところで誰も家の持ち主にはなれない、と書いている。倹約の読みは、彼女が持っている数少ないものを差し出せと求める。倹約では決して手に入らない部屋と引き換えに。
この人物の出発点は自分自身だった、とチョン・ゴウンは語っている。映画誌『シネ21』のインタビューによれば、二十代の彼女は、もっといい家に住むという目標のために、食べず、買わずに暮らすことに慣れていた。そうやって暮らすうちに、ストレスはひどいものになった。ミソは、二十代の自分とちょうど反対の極にいる人物だったという。だからといって、ミソの選択が賢明になるわけではない。けれど、それは選択である。数字を知っている人が、慎重な手をすべて打ち尽くしたあとで、数字を使ってした選択なのだ。
一杯のウイスキーと一本のタバコが担っているもの
この文章はウイスキーもタバコも勧めないし、それについて説教もしない。映画もそのどちらもしない。そして監督は、なぜほかのものではなくこのふたつをミソの家計の中心に置いたのかを、めずらしいほど率直に語っている。
ひとつは、大人であることだ。酒とタバコは大人にならなければ手にできないもので、長い歴史と伝統もある、と監督は試写会で語った。ニューヨークでは、もう少し暗い説明を添えている。何かに酔わなければ持ちこたえにくい現実の比喩でもある、と。そして、これをありきたりの自分へのいたわりとして語ることも避けた。身体をいたわる行為ではないかもしれないが、心のうえでは自分の世話をすることでもあり、そこには二重性がある、と。小さな慰めについて、多くの映画よりずっと誠実な説明である。
ひとつは、階級だ。高い酒は、何も持たない者が見てはいけない夢なのだ、と監督は『シネ21』に語っている。ウイスキーがそこにあるのは、まさにそれがミソの身の丈を超えているからである。そしてもうひとつは、ジェンダーだ。タバコを入れたのは、韓国の社会がタバコを吸う女性をあまりに否定的に描いていると考えたからだという。映画は、強い女を描こうとすると決まってタバコを持たせる。けれど実際には、おとなしい女性も、優しい女性も吸う。ただの嗜好品にすぎないのに、と。そうした設定を通して、自分なりのフェミニズムの視点をほのかに映したかった、と監督は語っている。
公式のあらすじは、こんな一行で始まる。「家はなくても、考えと好みはある」。ここで「好み」と訳した韓国語は、趣味や嗜好、その人が自然と惹かれていくものを指す言葉だ。この一行はミソ自身の声で書かれていて、それは所有についての主張でもある。部屋を失ったとき、彼女のものとして残るのは好みだ。好みは、立ち退かされない。
この図書室は、その根にある考えをすでに論じている。「喜びは、全部終えた人だけがもらえるご褒美ではない。」は、しっかりした大人ほど喜びを「終わらない食事のあとのデザート」のように扱ってしまうことを書いた。仕事を終え、家族を落ち着かせ、連絡を返し、それからようやく許可が来るはずなのに、その日はなかなか来ない。ミソも帳簿をつけている。心のなかの帳簿ではなく、ノートに書く本物の家計簿を。そして彼女は、ほとんどの人がしないことをしている。グラスを、デザートの欄から固定費の欄へ移したのだ。それはよく働いた一週間へのご褒美ではない。もうひとつの家賃なのである。
同じ文章は、誠実な譲歩もしていた。ここでは、それがほかのどこよりも重い。収入がかろうじて家賃をまかなうだけの女性にとって、喜びを先延ばしにすることは、心のゆがみなどではなく、お金の足りない暮らしを正確に言い表しているにすぎないことが多い、と。ミソはまさにその女性である。この映画の静かな挑発は、その議論が例外として脇に置いた人、本当に余裕のない人を連れてきて、それでも待たないと言わせるところにある。映画は彼女をほめない。そうする彼女のそばにいて、その代償を数えている。
もうひとりの、掃除で暮らしを立てる人と並べてみる。ヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』で、東京の公共トイレを掃除する男は、小さく決まった楽しみをいくつか持っている。仕事へ向かう車で聴く古いカセット、眠る前の文庫本、昼休みに撮る木漏れ日。この図書室の「『PERFECT DAYS』と、静かな生活は孤独なのか自由なのか」は、足るを知る人として読まれることを許されるのが誰なのかに気づいていた。小さく整った暮らしに引きこもる男は、厳しく品位ある人と見なされ、同じように暮らす女には弁明が要る。そして、植物を育て、湯に入ることでしのいでいる人は生活が整っていると言われ、酒でしのいでいる人は何かがおかしいと言われる。ミソも掃除で暮らしを立て、一日の終わりに決まって寄る場所を持っている。ただ彼女の楽しみは、たまたま悪癖と呼ばれる側のものだった。映画が終わるまでに、仲間のなかでいちばん裕福な友人が、家もない人にウイスキーもタバコもないでしょう、と彼女に言うことになる。
五つの部屋と、それぞれの値段
メモは、今夜眠る場所のための計画である。そしてミソは、どの戸口にも卵のトレーを抱えてやって来る。批評家のリチャード・グレイが書いたとおり、彼女にはそれさえ贅沢なのに。彼女は、もらいに来るのではない。
最初の友人ムニョンは大企業で働いている。その働きぶりは、昼休みに職場でブドウ糖の点滴を受けるほどで、針は、いつか身につけた手つきで自分の腕に刺す。もっと頑張って、もっといい会社に移るつもりだ、と彼女は言う。人を泊める余地はないし、誰かと部屋を分け合う余力も、たぶんない。ミソは食い下がらない。元気にしているか顔を見に来ただけだ、と言う。ムニョンの部屋の値段は、休息である。
二人目のヒョンジョンは、キーボードを弾き、曲も書いていた。訪ねてきたミソを、夫とその両親と暮らす家に喜んで迎え入れるが、壁の向こうから夫が不満を言うのが聞こえてくる。義父母は三十年も食堂を営んできた人たちで、その人たちのぶんまで料理をつくるヒョンジョンは、それにどれほど疲れているかを打ち明ける。話の途中で、彼女は眠りに落ちる。翌朝、ミソは彼女のために朝ごはんをつくって家を出る。監督がこの友人について使った言葉は、夢を失った、だった。映画は、彼女が結婚すべきだったかどうかを問わない。映るのは、夜に古い友人を迎え入れ、最後まで話し終えられないほど疲れていた女性の姿である。
三人目のデヨンはドラマーで、バンドではミソの後輩だった。彼の結婚は八か月で終わった。妻がマンションを欲しがったので買い、その返済は、二十年にわたって給料の半分以上を持っていく。妻をつなぎとめるために買ったマンションは、彼に言わせれば監獄だ。彼の家には空き部屋があり、ミソは家じゅうを掃除してやる。けれど、男ばかりの寮で暮らすハンソルが、彼女が男の家に泊まることに耐えられないと言い、ミソはそこを出る。デヨンの部屋の値段は、二十年である。
四人目のロギはボーカルだった。いまも両親と暮らしていて、両親は嫁を待ちわびるあまり、ミソを息子の嫁にしようと動き出す。母親は、ミソが家事の仕事をしていると聞いて大喜びする。それで話は決まったとでもいうように。一家はミソのためにちょっとした演奏会まで開き、翌朝、ミソは戸口に鍵がかかっているのに気づいて、別の出口から抜け出す。喜劇として撮られていて、実際おかしい。そして同時に、女の技能がそのまま女の運命と取り違えられるさまを、映画のなかでいちばんはっきり見せる場面でもある。ロギの部屋の値段は、独り立ちである。
五人目のチョンミはギターを弾いていた。いまは裕福な家に嫁ぎ、子どもがいて、大きな家に住んでいる。ミソが訪ねていくと、昔ミソに借金から救ってもらったことを思い出して、好きなだけいていいと言う。子どもは人生でただひとつの苦しみだと朗らかに言いかけて、ただひとつの祝福だと言い直すのも、彼女である。家賃のかからない暮らしになって、ミソはようやくお金を貯めはじめる。ところが夕食の席で、チョンミの夫が妻の大学時代はどんなふうだったのかと尋ね、ミソは昔の奔放な日々のことを話してしまう。チョンミは彼女を追い出す。ウイスキーとタバコについての小言と、保証金の足しにというお金とともに。ミソは、お金を置いていく。
チョンミの部屋の値段は、それ以前の自分である。ここで映画は注意深く、この文章もそうでありたい。夫に明かさずにいる過去は、彼女が守ってよいものだ。しゃべりすぎたミソにも、あの場面での落ち度はある。チョンミの小言はきついが、それは自分なりの計算をすませ、それを自分の食卓で蒸し返されたくない女性の言葉でもある。
五つの部屋を並べてみると、共通するものがはっきり見えてくる。この映画で、家賃だけで部屋を手にしている人はひとりもいない。休息、夢、二十年、独り立ち、過去。それぞれが家賃とは別に払っているものは、目に見えない。ふつうの値段だからだ。目に見える支払いはミソのものだけで、それは彼女がその支払いを拒んだからであり、だから説明を求められるのは彼女ひとりになる。映画は仲間たちを戒めの見本にはしない。彼らは疲れていて、おかしくて、気前がいい。彼らは払った。ミソも払った。映画が問題にしているのは、値段のほうだ。
同じ仕事を、別の条件で
それぞれの家でミソがしていることを、もう一度見てみる。ヒョンジョンのために料理をする。デヨンの部屋を隅から隅まで掃除する。ロギの家では、彼女の生計を支えている技能こそが、母親に嫁として望まれる理由になる。家事は彼女の職業であり、映画は、彼女がそれをどんな条件で引き受けるのかについて、注意深い。
彼女はそれを日当で売る。お礼として贈る。そして、運命としては断る。ヒョンジョンが役割として、かつて料理を生業にしていた義父母のために担っているのと同じ仕事を、ミソは賃金として、また贈りものとして行う。この映画が女性の労働について言おうとしていることの大半は、その取り決めの違いのなかにある。批評家のブルック・ハインツはそれを見ていた。ミソは、家庭的な女性の理想とされる料理や掃除の技能をすべて持っていて、それを世間の基準に合わせるためではなく、人と人をつなぎ、感謝を伝えるために使っている、と。フィービー・チェンは、その裏側を見ていた。心のやりとりでもお金のやりとりでも、ミソが差し出せるものはほとんど掃除だけだ。けれど映画はその労働を、疲労を引き延ばして見せることも、聖人の忍耐に仕立てることもなく描いている、と。
監督は、その分け方への怒りがどこから来たのかを語っている。フランスの映画サイトの取材に答えて彼女が語ったところでは、五歳か六歳のころ、祖母の家に親戚が集まる祝日に、料理をするのが女たちだけだと気づいたのだという。男たちの卓には料理が並び、女たちの卓には残りものしかなかった。映画でそれを告発したい、そして同時に、別の世界もありうると見せることで、女性たちを少し慰めたい、と彼女は語っている。『小公女』は、演説なしにそれをやってのける。ひとりの女性に自分の条件で仕事をさせ、その条件にいくらかかるのかを見せるのだ。
彼女の職業には、もうひとつのねじれがある。ミソの生計は、他人の部屋に支えられているのである。映画の終わり近く、ミソが掃除をしていた部屋に住む若い女性がその部屋を手放すことになり、ミソの仕事もなくなる。そのときミソがするのは、ちゃんと食べているのかと尋ね、彼女が食べたいというものを一緒に食べることだ。自分の家がなく、他人が家を失うせいで仕事まで失う女性が、それでも世話のいちばん最初の問いを口にする。映画は、それで彼女を聖人にはしない。部屋の値打ちを正確に知っている人として描くのである。
ハンソルと、春まで待つという約束
多くの人が覚えているのは、あの寒い部屋である。あれは暖房の場面であり、お金の場面だ。ハンソルを演じたアン・ジェホンは試写会で、あの寒い部屋がまるで世の中そのもののようで、ふたりはそのなかで抱き合っている恋人のようだった、と語っている。
ハンソルには厳しくしやすい。漫画はなかなか芽が出ず、ミソがデヨンの空き部屋に泊まっていると、それに耐えられない。だからミソはそこを出る。実際、彼に厳しい観客もいた。監督はそうではなかった。ハンソルはとても韓国的な男性の人物だと言ったうえで、それでもほかの多くの男より男らしさを振りかざさない人物だ、と論じている。ミソがタバコを吸うことを気にしないのだから、と。監督の見立てでは、彼を押しつぶしているのは、男は愛する女を養わなければならないという慣習と、それができない男を見下す社会である。
やがて彼は絵をあきらめ、学費の借金を数年で返せるというサウジアラビアでの仕事に志願する。危険に見合う手当がついて、給料は三倍になるという。彼は二年と、自分の安全の一部を売って、望んでいた家を買おうとしているのだ。めったに泣かないミソが、別れ際に泣く。アン・ジェホンは、ハンソルは戻ってくるつもりだと自分は信じている、と語った。映画は何も言わない。
この別れに悪人はいない。ふたりを引き離すのは、学費の借金である。映画はそれを、彼女を愛していながらとどまる余裕のない男にいちばんつらい役を負わせることで、はっきり示す。そしてもうひとつのことも。グラスとタバコと自分の考えさえあれば何もいらないように見えた女性は、彼を必要としていた。彼女の家計簿には削れない行が三つあり、三つ目は人だったのだ。
『小公女』と、来なかった魔法使い
韓国語の原題(ソゴンニョ)は、フランシス・ホジソン・バーネットが一九〇五年に出した小説の、韓国での題名で、漢字で書けば同じ「小公女」になる。そしてその言葉は、日本語から来た。韓国の国立国語院が出した文章によれば、この語は、英語の原題を日本語に訳すときに一字一字を直訳して新しくつくられた言葉で、韓国語はそれをそのまま使うようになったのだという。一九一〇年に東京で出た翻訳も、すでに『小公女』という題を掲げている。だからこの映画が『小公女』として日本に届いたとき、言葉は生まれた場所へ帰ってきたことになる。
バーネットの物語はこうだ。ロンドンの寄宿学校にいる裕福な少女セーラ・クルーが、父の死ですべてを失う。暖房のない、がらんとした屋根裏部屋に移され、召使いとして働かされる。彼女を支えるのは、ひとつの考えだけだ。王女をつくるのはお金ではなく、ふるまいなのだ、と。たとえぼろをまとっていても、心のなかでは王女でいられる、と彼女は自分に言い聞かせる。そして、牢獄で黒い服を着せられ、髪が白くなっていたマリー・アントワネットを思い浮かべ、すべてが華やかだったころより、そのときのほうが王妃らしかったと考える。屋根裏部屋をはじめて見たときの彼女について、バーネットは、めったに泣かない子だったと書いている。
韓国の公式のあらすじは、ミソを「愛すべき現代版の小公女」と呼んでいる。批評家のリチャード・グレイは、監督がミソをバーネットの主人公になぞらえたと伝えている。お金に困りながら、それでも友人たちの支えになる女性として。バーネットを知っていると、響き合うところは見逃しにくい。召使いの仕事。寒い部屋。お金に左右されない品位。めったに泣かない女性。白い髪さえ、あの本のなかにある。牢獄の王妃の髪として。
映画が取り除いたのは、結末だ。バーネットの小説では、隣の家に恩人が住んでいて、屋根裏部屋を食べものと暖かさと本で満たす。セーラはそれを魔法のしわざだと考えるが、恩人は実は父の友人で、彼女は財産を取り戻す。この映画では、隣の家に誰もいない。恩人にいちばん近いのは仲間のなかでいちばん裕福な友人で、その人のお金には小言がついていて、ミソはそれを置いていく。映画は、おとぎ話のすべてを残して、救出だけを外した。それが、この映画が自分の題について語っている、いちばん正確なことかもしれない。二〇一五年のソウルでは、ふるまいで部屋は手に入らない。
英語の題は別の方角を指していて、同じ場所にたどり着く。マイクロハビタットとは、小さな生きものが生きていける、ごく小さな特定の生息場所のことだ。『シネ21』の記者によれば、監督はミソの名前を、この言葉にあたる韓国語のなかの「微小(ミソ)」から取ったという。そしてジェレミー・クラークが指摘したとおり、ミソという音は、韓国語で「微笑み」でもある。とても小さな生きもの、そしてひとつの微笑みが、自分が自分のままでいられる、街でいちばん小さな場所を探している。
あらゆる値段のなかにある家賃
この映画の背後にある数字にも、少しだけ触れておきたい。彼女の家計簿が風変わりなものではなかったことを示すためである。
韓国で家を借りる方法は、おもにふたつある。チョンセ(伝貰)では、借り手は最初に大きな一時金を家主に預け、毎月の家賃は払わず、契約が終わればその一時金が返ってくる。ウォルセ(月貰)では、たいていより少ない保証金に加えて、毎月家賃を払う。ミソの物語が始まる二〇一四年、韓国の国土交通部が行った住居実態調査では、借家に住む世帯のうち月払いの家賃を払う世帯が五五パーセントを占め、二〇〇六年に調査が始まって以来もっとも高くなった。そして月払いの世帯の八二・三パーセントが、家賃やローンの返済を負担に感じていると答えている。
映画が初めて上映された二〇一七年の調査では、若い世帯、つまり世帯主が二十歳から三十四歳までの世帯が別に集計されている。借家に住む若い世帯のうち、月払いの家賃を払う世帯は七一・一パーセントで、借家世帯全体の六〇・四パーセントを上回った。そして若い世帯の一〇・五パーセントが、政府の定める最低居住基準を下回る住まいで暮らしていた。この基準は、床面積のほか、専用の台所、専用のトイレと浴室、採光、暖房といった項目を定めている。映画の試写会を伝えたある韓国の新聞は、ミソたちの世代を、夢も希望も、ついには家まであきらめる世代と書いた。
どの数字も、ミソを描いているわけではない。描いているのは、彼女が借りようとしていた部屋のほうだ。そしてこれらの数字は、チェンが気づいたことの理由も説明する。ミソに値上げを告げる人たちは、そろって申し訳なさそうなのだ。家賃を上げる大家、一箱の値段を上げる店、そして映画が終わる前に一杯の値段を上げることになるバー。誰も値段を決めてはいないのに、誰もが値上げを伝える役を負っている。ミソは部屋を手放したが、家賃からは逃れていない。家賃は、彼女が買うあらゆるもののなかに入っている。
結末、そしてミソに似た女性
ここからが結末である。
チョンミの家を出たあと、ミソは次々に部屋を見て回る。どれにも手が届かない。夜は終夜営業のカフェで眠り、公衆トイレで髪を洗う。仕事はなくなり、ハンソルは旅立つ。行きつけのバーでは、一杯の値段が二千ウォン上がる。
そして映画は時間を飛び越える。数年後、昔のバンド仲間たちが葬儀の席で顔を合わせ、ミソはどうしているのかと話す。誰も彼女に連絡がつかなかった。電話も通じなくなっているらしい。
それから、ミソに似た白髪の女性がひとり、街を歩いていく。夜、彼女は道路脇に張った小さなテントのなかにいる。
映画は、それがミソだとは言わない。ミソに似せて、そこで終わる。この文章も、映画が言う以上のことは言わない。
批評家たちは、もっと多くを語ってきた。ある人は、最後の場面を見ればミソがいまもどこかで、ひとりでタバコとウイスキーを楽しんでいるのは明らかだと書いた。別の人は、結末は哀感を狙って無理をしていると感じた。三人目は、最後の画面は希望に満ちていると同時に胸が張り裂けるようだと書いた。監督が『シネ21』に語ったところでは、白髪の設定は多分に視覚的な発想だった。白髪の女性がタバコを吸いながら通りを歩いていく場面を思い描き、その姿を見せるだけでカタルシスがあるだろうと考えた。女性として、持ってはいけないとされる楽しみを持ったまま、それでも最後まで行くという意志を見せたかった、と。
それは作り手が語るひとつの像の由来であり、敬意を払うに値する。けれど映画は、その説明よりも慎重だ。夜、道路脇のテントにいる白髪の女性を見せ、カタルシスと寒さを同じ画面に置いたままにする。観客にとってのカタルシスは、テントのなかの女性にとってのよい暮らしと同じではない。映画はそのふたつを取り違えない。かといって、罰を言い渡すこともしない。倹約の教訓なら後悔で終わるだろうし、自由のロマンスなら自由な魂で終わるだろう。この結末はどちらも差し出さない。差し出されるのは、テントと、道路と、夜である。
ひとつの細部が残る。バーネットのセーラは、牢獄で髪が白くなった王妃を思って自分を慰めた。この映画の最後の女性も、髪が白い。映画は白い髪だけを残し、慰めがあるのかどうかは、観る者に預けている。
この映画の公開から二か月ほどのち、韓国の映画館ではイ・チャンドンの『バーニング 劇場版』が公開された。ソウルの小さな部屋に住む貧しい若い女性が、ある日から連絡がつかなくなり、映画はその不在を、ひとりの男の疑いにゆだねる。『小公女』は、いなくなった女性を謎として解きもしないし、悼みもしない。もしかしたら、いまも歩き続けているのかもしれない、と思わせるのだ。
日本から観る
『小公女』は、日本には遅れて、静かに届いた。二〇二一年六月、配信サービスで、バーネットの小説と同じ題名で。日本の観客は、まずその題に反応するかもしれない。そして、屋根裏部屋の少女を思い浮かべるかもしれない。
日本のホームレスについての数字は、この映画の最後の像について何かを語り、それより前の数か月については、もっと多くを語る。厚生労働省の全国調査は、毎年一月に市区町村が地域を巡回し、目で見て数えるもので、二〇二六年一月には二千四百八十一人が確認され、そのうち女性は百九十二人だった。確認された場所では、道路が、それまで最も多かった都市公園を上回った。この調査が数えるのは、ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法の第二条が定める人々、つまり「都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者」である。
道路脇のテントにいる女性なら、数えられる。けれど、映画のほとんどのあいだのミソは数えられない。友人の家の床や、終夜営業のカフェで夜を明かす女性は、定義の外にいて、数の外にいる。東京都は一度、その見えない数の一部を測ろうとしたことがある。二〇一六年から一七年にかけての冬に行われた調査で、都は、住まいを失ってインターネットカフェや漫画喫茶などで夜を過ごす人が、平日の一晩あたり都内に約四千人いると推計した。そのうち約三千人は、派遣や契約、アルバイトといった不安定な仕事に就いていた。
これらの数字は日本と韓国を比べるものではないし、この文章も比べない。ふたつの国は、ホームレスをそれぞれ別のやり方で定義し、数えている。数字が示しているのは、数えるしくみが、道路脇のテントは見ても、友人の家の床で眠る女性は見落としうるということだ。最後に仲間たちはミソを見つけられなかった。映画のほとんどのあいだ、どんな統計も彼女を見つけていなかった。
家族から遠く離れて日本で暮らしている女性にとって、この映画でいちばん長く心に残るのは、ミソのメモに並んだ五つの名前かもしれない。ああいう一覧は、何年もの友情のなかで前もって書かれていくもので、映画は、それがどれほど多くを支えられるかも、どこで尽きるかも見せている。
この読みに対する反論
ここから、反論をできるかぎり強い形で示す。
第一の反論は、いちばん素朴なものだ。アメリカの映画サイトに書いたある批評家は、はっきりと問うている。これは単に、とても悪い判断ではないのか。住まいよりタバコなのか、と。たいていの尺度で、屋根は楽しみよりも価値がある。部屋は、グラスにはできないやり方で身体を守る。道路脇のテントは生き方の選択ではなく、危険である。この文章は、そのすべてを認める。認めないのは、倹約していれば部屋が手に入ったはずだ、という一点だけだ。先に監督自身の挙げた金額で計算してみたとおり、そうはならない。倹約の読みは、賭け金については正しく、交換レートについては間違っている。
第二の反論は、この映画の魅力そのものに向けられていて、これは効く。『小公女』はやさしく、おかしく、主演はモデル出身の俳優で、監督は、貧しいからといってミソをみすぼらしく見せたくなかったと語り、新人で女性の監督の作品として、この映画は愛されなければならないと決めていたとも語っている。別のインタビューでは、ミソをどこか空想めいた人物だとも呼んだ。ロンドンで評したフィリップ・ゴウマンは、家のない女性が公衆トイレで髪を洗いながら、あれほど優雅に身なりを保てるのかという一点だけが落ち着かないと書いた。恵まれた観客なら、家を失うことにはどこか洒落たところがある、と思って映画館を出ることもできてしまう。それは、この映画の美しさが払わせる本物の代償であり、この文章に言える答えは、最後の像だけだ。あれは少しも洒落てはいない。
第三の反論はフィービー・チェンのもので、いちばん繊細である。彼女はローレン・バーラントの「残酷な楽観」という考えを借りて、ミソを支えているのはウイスキーそのものよりも、選んでいるという感覚なのではないかと示唆した。そして彼女が選ぶ楽しみもまた、彼女を締め出したのと同じ値段のしくみのなかで、カウンター越しに買われるものだ、と。ミソの主体性は本物だが、横へ向かうもの、上へ行く道がふさがれたときの横への一歩だ、とチェンは書く。この文章は、その描き方には同意するが、どれほど重く見るかでは少し考えが違う。横への一歩も、踏み出された一歩ではある。それでも、この映画の反抗がレシートつきで行われているというチェンの指摘は正しい。
第四の反論は、この文章自身の枠組みを逆手に取る。映画のなかの誰もが部屋の代金を払った、と言うことは、払いすぎた、と言うことの一歩手前であり、そこから仲間たちを囚人のように扱うまでは、すぐである。実際、ある熱のこもった批評は、仲間たちが、住宅ローンや家族で人を縛るしくみの奴隷として描かれている、と読んだ。映画はそうしない。ニューヨークで、仲間たちは社会の圧力を戯画化した人物なのかと問われた監督は、もっと単純に言い直した。誰もが何かをあきらめている、と。代償は罰ではない。ヒョンジョンの疲れは、彼女の結婚が間違いだった証拠ではないし、チョンミが若いころについて黙っていることは、本人がむしろ結んでよかったと思っている取引なのかもしれない。この文章がそれを守れているかどうかは、読む人が確かめてほしい。
この図書室が受け取るもの
この図書室の「『自分ひとりの部屋』を、創作だけでなく親密さの条件として読む」は、ヴァージニア・ウルフの議論が一世紀を生き延びたのは、それが物質的な議論だからだと論じた。ウルフは勇気を処方しなかった。一定の額のお金と、鍵のかかる扉を挙げた。そのふたつがそろってはじめて、断ることが可能になるからだ。『小公女』は、その議論を、扉も、扉の内側に守りたい自分も、両方は手に入れられない女性で試してみせる。ミソは自分を守り、扉を手放す。するとそこからは、断るたびにかかる費用が上がっていく。嫁に迎えられるのを断れば、鍵のかかった家から自力で抜け出さなければならない。友人のお金を断れば、カフェで眠ることになる。ウルフの議論は、その値段を正確に言い当てる。言い当てられないのは、彼女がそれでも払い続けることのほうだ。
だから、この図書室の立場は、ミソがよい選択をしたということではない。映画はそうは言わないし、テントの女性の姿も、どちらかの判決ではない。立場はもっと狭い。この映画のどの部屋にも、家賃とは別の値段がついている。そして誰にも問われずにすむのは、ふつうに見える値段のほうだ。昼休みの点滴、義父母のいる台所、二十年の返済、親の家、黙っておく過去。ほとんど誰もが声高に問題にした値段は、ひとりの女性が自分で選んだ、ただひとつの値段だった。この不釣り合いには、少しは怒ってよい。そしてその怒りは、映画が向けている場所に向けられるべきだ。一箱のタバコが一夜で二千五百ウォンから四千五百ウォンになり、日当はそのままで、どれほど我慢を重ねても扉ひとつに届かない都市に。
彼女の理由は、よい理由だった。彼女は自分の未来を担保に借金をしなかった。倹約の計算をして、それが部屋にたどり着かないことを見ていた。そして、自分を借り手ではなくひとりの人間にしているわずかなものを、手放さなかった。どれも、彼女に倣う理由にはならない。どれも、彼女を笑わない理由にはなる。
だから一度だけ、あなたに。紙の上でも頭のなかでも、家計簿をつけているなら、そこにはたぶん、最後まで削らない一行がある。習いごとかもしれないし、帰省の航空券かもしれない。ひとりの午後か、一杯のグラスか、ひとりの人かもしれない。この映画は、そのために屋根を手放せとは言わないし、この文章も言わない。けれど、その一行を持っていることを、誰かに謝る必要はない。そして誰かが、それを削るのが当然だと言ったなら、その人が自分の部屋のために何を手放したのか、そしてそのことを説明しろと言われたことがあるのか、考えてみてもいい。
これは一本の映画の読みである。登場人物も実在の人も、誰ひとり診断しておらず、お金や住まいや健康についての助言でもない。この文章は、映画そのものを観て書いたものではない。物語は、公式の記録と、本文で名前を挙げたり触れたりした批評や観客の記述、そして韓国語、英語、フランス語で行われた監督のインタビューにもとづいている。台詞はすべて言い換えであり、正確な引用として示したものはない。監督の言葉は日本語で語られたものではないため、この文章による訳である。数字には年と定義を添えており、国どうしを比べてはいない。日本で住まいを失いそうなとき、あるいはすでに失ったときは、いまいる地域の自立相談支援機関、つまり生活に困っている人のための相談窓口が、最初の相談先になる。家賃の支援や、一時的な宿泊の支援についても、そこで尋ねることができる。
手元に残しておきたい問い
あなたの部屋は、家賃のほかに、何を求めてきただろう。
家計簿のなかで最後まで削らない一行はどれだろう。そして、どれを先に削るべきかを、誰に教わったのだろう。
誰の小さな楽しみを品位と呼び、誰のものを悪癖と呼んでいるだろう。
明日家賃が上がったら、どの戸口を叩くだろう。そして、どの戸口を開けるだろう。
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読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。