Cinema
『失楽園』と、世間よりも時間を恐れた恋
五十歳で閑職に移された男と、二十五歳で見合い結婚をした女が、ふたりの人生を呑みこむほどの恋に落ちる。映画は、ふたりが後にする二つの結婚、不幸ではないのに黙りこんでしまった結婚をよく見ていて、何より恐れているのは世間の裁きではなく時間のほう、ふたりの恋もいつか同じように黙りこむことだ。
一九九七年のある時期、映画の題名がそのまま動詞になっていた。「失楽園する」。その年、この言葉は不倫をすることを意味した。新語・流行語大賞はこの年の年間大賞に「失楽園(する)」を選び、主催者は、人々が「不倫」を「失楽園する」と言うようになり、「まるで不倫がブームのようになった」と書いている。
言葉の出どころは、日本経済新聞に連載された渡辺淳一の小説と、それを森田芳光が映画にした『失楽園』である。けれど題名そのものは、ずっと古い。失楽園は、日本の読者が長くミルトンの叙事詩を呼んできた名前でもある。はじめの男と女が楽園を失い、ふたりでそこを出て、世界へ歩み出していく、あの詩だ。
この映画の恋人たちは、東京の出版社で脇へ移された五十歳の元編集長、久木祥一郎と、書道を教える三十八歳の松原凛子である。ふたりとも、それぞれに結婚している。どちらの結婚も、不幸ではない。どちらも、黙りこんでいる。
この文章は、この映画を時間についての物語として読む。映画は、恋人たちが何を後にするのかをよく見ている。暴力でも裏切りでもない。何も悪くないのに、何も語られなくなった二つの結婚である。そして映画は、どんな醜聞よりも、ふたりに与えた恋が同じ道をたどることを恐れている。映画のすることのほとんどは、その恐れから出てくる。その恐れに対して映画が見つけられた、ただひとつの答えも含めて。恐れは本物で、この文章はそれを真剣に受けとめる。答えは映画自身のものであって、この文章はそれにくみしない。
これはまた、他人の手で、端正な楷書のように人生を書かれてきた女が、はじめて自分の筆で書きはじめる物語としても読める。そのあと映画が彼女に何を書かせるのか。それが、この文章が何度も立ち戻る問いになる。
この映画について、そして読みはじめる前に
『失楽園』は一九九七年五月十日、東映の配給で公開された。上映時間は百十九分。監督は森田芳光、脚本は筒井ともみ。久木を役所広司、凛子を黒木瞳が演じ、久木の妻・文枝を星野知子、凛子の夫・晴彦を柴俊夫、ふたりを引き合わせる久木の友人・衣川を寺尾聰、結婚して家を出た久木の娘・知佳を木村佳乃が演じている。日本映画製作者連盟がまとめたこの年の配給収入の記録では、邦画で『もののけ姫』に次ぐ二位。黒木瞳はこの役で、日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞を受けた。
原作の小説は、一九九五年に日本経済新聞で連載が始まり、一九九七年二月に講談社から上下二巻の単行本として出た。映画の公開の三か月前である。小学館の『デジタル大辞泉』は、この小説が、同紙の中心的な読者である中年男性のあいだでとりわけ流行したと記している。新語・流行語大賞の主催者は、連載中から評判になっていた作品が、映画化によって日本中の話題をさらったと書いている。この言葉の賞は、渡辺淳一と黒木瞳に贈られた。同じ年の夏には、配役の異なるテレビドラマも放送されている。この文章が扱うのは、映画のほうだ。
先に二つ、断っておく。この文章は、映画そのものを観て書いたものではない。場面は、公開されているあらすじと、作り手たちがのちに語った言葉にもとづいて記し、登場人物のせりふは言い換えであって、そのままの引用ではない。映画は性をあからさまに描いているが、この文章はそのどれも描写しない。そしてこの文章は、結末まで含めて映画の全体にふれる。映画が自分の主張を打ち出すのも、この文章が映画と袂を分かつのも、結末においてだからだ。結末をまず画面で見たい人は、ここで読むのをやめて、あとで戻ってきてほしい。
何も悪くない二つの結婚
まず、二つの結婚から始めたい。物語のすべてはそこから生えてくるし、この映画でいちばん長く立ち止まる価値があるのも、そこだからだ。
久木と文枝は、娘が結婚して家を出るほど長く連れ添ってきた。文枝には自分の仕事がある。家でタイルの図案を描いている。そして自分の不満もある。仕事ひとすじの夫への不満を、彼女は長く抱えてきた。仲は悪くない。ただ、どこかしっくりこない。物語がふたりのあいだの問題として差し出すのは、傷ではなく、噛み合わなさだ。不在を中心に自分の暮らしを組み立ててきた妻と、何年ものあいだ、どこか別の場所にいた夫。
凛子の結婚は、もっと静かだ。二十五歳のとき、彼女は見合いで医学部の研究者・晴彦と結婚した。生真面目で堅物、そして嫉妬深い夫。ふたりのあいだに子どもはなく、夜の営みもほとんどない。外から見れば、きちんと整った結婚である。実際、整っている。それが、この結婚の困ったところだ。
映画が何を用意したのかを、正確に見ておきたい。不倫の物語は、恋人たちを許しやすくするために、どちらかに捨てられて当然の結婚を与えることがある。酒に溺れる夫、手をあげる夫、先に裏切った夫。この映画はそうしない。それぞれの家の問題として映画が名指すのは、落ち度ではなく欠落だ。言葉が消え、凛子の場合は体の触れ合いも消えた結婚である。
ここがこの映画のいちばん誠実なところで、こういう結婚のなかで暮らしたことのある人には、届くかもしれないところでもある。こういう結婚には、出ていく理由もなければ、とどまる理由もない。指させる出来事がない。何かが壊れた夜というものがない。あるのは今夜と、また次の夜と、かつて交わしていた会話が、いつのまにか段取りに置き換わってしまったという、ゆっくりした実感だけだ。誰のせいでもない。だから口にしにくい。そしてだからこそ、不倫がやってきたとき、当人たちにはそれが裏切りというより、窓がひとつ開いたように感じられることがある。そう感じられることがある、というだけだ。それがすべてだというのではない。
五十歳で脇へ移された男
久木は敏腕の編集長だった。雑誌の売上を伸ばしたい営業部と、作品へのこだわりから衝突するまでは。いまは仕事らしい仕事のない調査室に移され、昭和史の編纂を任されて、阿部定事件を調べている。
映画は多くを付け加える必要がない。それだけで形ははっきりしている。次に何を世に出すかを決めることに職業人生を費やしてきた男が、過去を整理する役目を渡された。彼の現在は、自分で下したわけでもない決定によって、外から閉ざされた。それも、もう一度扉を開けるには残された時間の少ない年齢で。これをすぐに「危機」と呼びたくなる。彼のなかの何かが壊れたかのように。けれど物語は、その言葉より正確だ。映画が見せているのは、ひとつの人生が狭まっていくさまと、その内側に立つ五十歳の男である。
彼が打ちこんできた仕事を、なぜ失ったのかにも目をとめておきたい。失敗したからではない。曲げなかったからだ。映画は主人公に小さな誠実さを与え、その代価を払わせる。代価は時間だった。新しいものを作りつづけるはずだった年月が、すでに終わった時代をまとめる仕事と引き換えにされた。そんな場所にいる男が、自分の人生はまだ終わっていないと感じさせてくれる何かに出会えば、それを軽く扱えるはずがない。
その狭まりのなかに、凛子が現れる。カルチャーセンターに勤める友人の衣川が、ふたりを引き合わせる。彼女が久木の人生でただひとつの新しいものだ、と言うのはたやすいし、間違ってもいない。物語が付け加えるのは、その時機である。ほかのすべてが彼の頭越しに決められてしまった、まさにそのときに、彼女はやってくる。
楷書の君
凛子はカルチャーセンターで書道を教えている。楷書は、点や画を一つずつ正確に書き、行書や草書のように続けたり崩したりしない書体で、いまではいちばん標準的な書き方とされている。その楷書があまりに端正なので、彼女は「楷書の君」と呼ばれている。小さな設定だが、設定以上のものとして読まずにいるのは難しい。それは筆跡であると同時に、ひとつの人生の描写でもあるからだ。二十五歳で、見合いで、ふさわしい相手と結婚し、整った結婚を保ってきた。一画一画が、あるべき場所に置かれている。
久木は、ひたむきに、しつこいほどに彼女を口説く。凛子はかわす。久木はやめない。やがて、凛子は「はい」と言う。物語はこのすべてを求愛として語り、この恋の甘さのかなりの部分は、ここにかかっている。
この文章は、物語が見せているとおりに呼ぶ。彼女がかわしたあとも、やめなかった男、と。かわすことは、かわしているあいだは、ひとつの答えである。答えは、相手が求めつづけたからといって、いつのまにか承諾に変わりはしない。凛子がやがて「はい」と言ったとき、その「はい」は彼女のものだ。答えを変えるのは彼女の自由で、この文章はその「はい」を彼女から取り上げはしない。けれどその「はい」は、さかのぼって、それまでの押しを恋に変えはしない。やめなかった男に「はい」と言った女は、その人に「はい」と言ったのであって、やめなかったことが愛だったと認めたわけではない。
いったん「はい」と言ってからの物語は、久木のものであるのと同じくらい、ある意味ではそれ以上に、凛子のものになる。彼女はどんどん深く引きこまれていき、映画は彼女の欲望に、それ自体の重さを与える。彼女は、男が追いかけた末に手に入れる景品ではない。脚本の筒井ともみは、男によって変えられた自分の体に驚いてみせるようなヒロインは絶対に書きたくなかったので、凛子の人物像は変えさせてもらうと伝えた、と語っている。描きたかったのは、本然的な性を経験することで「真実を見る目」を獲得する女性だった、と。
不倫の代名詞になった映画にしては、これは驚くほど志の高い狙いであり、この映画でいちばん擁護する価値のある部分でもある。少なくとも脚本家の言葉によれば、凛子は物語の欲望の対象としてではなく、自分自身の欲望の主体として書かれた。三十八歳の女が、人生のすべてを賭けて、自分が望んでいることを知り、その望みが、ものを見る目にもなりうることを知っていく。
通夜の晩
恋は、ホテルでの逢瀬と泊まりがけの旅のなかで重ねられていく。周りには仕事だと言ってある。やがて、凛子が慕っていた養父が亡くなる。その通夜の晩、久木は会いたいと電話をかける。凛子は夫と母の目を逃れ、喪服のまま彼のもとへ行く。
この文章は、行った彼女を裁かない。悲しみは、ふさわしいとされる相手を求めるとはかぎらない。養父を亡くしたその晩に、誰かに抱きとめられたいと思うことは、醜聞ではない。目をとめたいのは、物語がその晩をどう使うかだ。物語のなかで、罪の意識はふたりを冷ましはしない。かえって燃え上がらせる。
この文章の読みでは、映画の論理が最初に顔を出すのはここである。熱さで自分を測る恋は、燃料を必要とする。いちばん手近な燃料は、一線を越えることだ。家でつく嘘、仕事から盗んだ一夜、そして死から盗んだ一夜。越えるたびに炎は明るく燃え、やがて衰え、次はもっと先へ行かなければならない。その温度に保たれた恋は、長くは保たれない。映画はそれを知っているように見える。その予感は、隣の部屋で時を刻む時計のように、このあとの物語の底でずっと鳴っている。
その通夜には、もうひとりの女がいる。凛子がその目を逃れた母である。物語がひと言もなく置いていく人々の、彼女が最初のひとりだ。この文章は、あとで彼らのところへ戻ってくる。
世間は、文書のかたちでやってくる
世間はまず、文書のかたちで、しかも職場にやってくる。差出人不明の文書が久木の会社に届き、彼が言葉巧みに凛子に近づき、強引に関係を迫ったと書き立てる。常務に呼ばれて事実を問いただされた久木は、会社を辞める。
名前を伏せて男の勤め先に送りつけられた文書を、悪意の産物として読むのはたやすい。けれど、そこに書かれた言葉には目をとめておきたい。近づき、迫った。それは、物語そのものが見せていたもの、つまり彼女がかわしたあともやめなかった男の姿と、それほど遠くない。これは久木への判決ではないし、それで文書の悪意が消えるわけでもない。ただ、物語が混ぜ合わせてしまう二つのものを、分けておく理由にはなる。始まった恋と、その前にあった押しである。
凛子の夫は、興信所の調査で妻の不貞を知る。凛子が離婚を切り出すと、夫はそれを拒む。物語によれば、あえて応じないことで、彼女を苦しめるために。凛子は夫とも実母とも縁を切り、久木のもとへ走る。
久木もまた、妻から離婚を切り出される。脚本の筒井は、のちにこの場面を取り上げている。筒井の記憶では、文枝はすべてをわかっていて、久木のほうは、ばれていることに気づいていない。別れようと切り出されて、急に言われても困ると狼狽える久木に、文枝は、困るのかと、その言葉をそのまま問い返す。ここで共感した女性は多かっただろう、と筒井は語っている。久木ははじめ渋るが、やがて承諾し、家を出る。結婚して家を出ている娘の知佳は、変わっていく両親の姿を理解できずに思い悩む。
ここで立ち止まって、ふたりがどこにいるのかを確かめておきたい。このあとのすべてが、それにかかっているからだ。古い物語で恋人たちを引き離してきた障害を、ふたりはこの時点で、ほとんどくぐり抜けている。久木の妻は彼を手放した。凛子は夫の家を出て、母とも縁を切った。久木は職を失い、凛子の夫は離婚に応じず、ふたりを愛した人たちは傷つき、戸惑っている。立っているのがつらい場所だ。それでもふたりは一緒にいて、ふたりを引き離しているものは、もう何もない。世間はふたりの暮らしを難しくした。けれど、不可能にはしていない。
願い、そして映画の終わり
ここから先は、映画の結末にふれる。
先に願ったのは凛子だった。愛がいちばん高みにある、その瞬間のまま死ねたら。老いてしまう前に。久木もやがて、その願いを自分のものにする。ふたりは誰にも告げずに、ともに命を絶つ。
何が起きるのかについて、この文章が言うのはそれだけだ。議論にとって大事なのは、映画がそれをどんな額縁に入れるかであり、その額縁ははっきりしている。結末は、保存として差し出される。老いや習慣や平凡な日々が届く前に、いちばん高いところで時間の外へ取り出された愛。成就のように演出された、ふたつの死。
二〇二三年に発表された対談で、筒井は、森田監督の妻であり、みずからも多くの森田作品を手がけてきたプロデューサーの三沢和子を相手に、監督がふたりのいる場で口にしたひと言を思い出している。「女も39歳になれば美しいまま死にたいと思うよね」。三沢は、そのときの答えを覚えていた。ふたり同時に、「思わないわよ」と答えた、と。
小さなやりとりだが、問題のすべてがここにある。額縁は、四十歳を前にした女が望むのは保存されることだと言う。美しいまま、いちばん高いところのまま、この先に来るものから守られたまま。その場にいたふたりの女は、それに否と言い、笑いながらそれを思い出している。それでも映画は凛子にその願いを与え、しかも先に与える。この文章は、それをどう受けとめればいいのか、わかったふりはしない。物語のなかで、その願いはただ彼女自身のものなのか。それとも額縁が、彼女の口を借りて語っているのか。言えるのは、彼女を書いた女と、その隣にいた女が、答えを用意していたということだけだ。
保存か、終わりか
この文章は、その額縁を受け入れない。死は恋を保存しない。恋を終わらせ、その恋のなかにいたふたりを終わらせ、ふたりのあいだにあったすべてを、何も尋ねられなかった人々に手渡す。この映画にほかにどんな面があるにせよ、この恋について映画が最後に言うのは終わりであり、終わりは成就ではない。
この額縁は古い。一七〇〇年前後の人形浄瑠璃や歌舞伎には、ともに死ぬ男女を描く心中物と呼ばれる一群の作品があり、一七〇三年に近松門左衛門の『曾根崎心中』が初演されると、大いに流行した。ある事典は、心中物の劇の組み立てを、義理と人情の板ばさみによって主人公が死へ追いこまれるものと説明している。別の百科事典は、男女が社会の制約を死によって破り、愛を貫くという構成に、当時の人々が共感したのだろうと見ている。心中物の流行に目をつけた幕府は、一七二二年と翌二三年に、つづけて禁止令を出している。
この映画を心中物の隣に置くと、ひとつの違いが目に立つ。心中物では、世間があらゆる扉を閉ざし、恋人たちは生きる場所がどこにもなくなって、死へ向かう。この映画では、ふたりが選ぶときには、扉のほとんどがすでにくぐり抜けられている。物語がふたりに与える願いは、ふたりを許さない世間から逃れることではない。時間がふたりの結婚にしたのと同じことを、ふたりの恋にもしてしまう前に、いちばん高いところで止まることだ。映画は敵を移し替えた。敵はもう、世間ではない。時間である。
題名をさかのぼれば、それは逆の方向を指している。ミルトンの詩は、楽園のなかで死ぬアダムとイブではなく、楽園を出ていくふたりで終わる。ふたりはいくらかの涙を流し、すぐにそれをぬぐう。そして、原詩の一行をそのまま訳せば、「世界のすべてが、ふたりの前にあった」。ふたりは手を取り合い、ゆっくりとした足取りで、自分たちの道を歩みはじめる。あの詩は、いつか死ぬ身の、長くてありふれた暮らしが始まるところで終わり、ふたりを一緒にそこへ送り出す。渡辺淳一の小説は、ミルトンの詩と同じ題名を名のっている。けれど、この物語は名前だけを借りて、歩み出すことを拒んでいる。
眠っていることは、死んでいることではない
なぜ、恋はそこまで時間を恐れるのか。答えは映画の前半に、すでにある。ふたりとも、時間に何ができるのかを、自分の家で見てきたからだ。ふたりが見てきたものを正確に言うのに、この図書室がかつて引いた区別が役に立つ。
「誰かと安心していることと、その人を発見し終えたことは、同じではない」という文章は、長い関係には一つではなく、少なくとも二つの軸があると論じた。第一は安心。相手が、自分について知っていることをどうするかを見通せるかどうか。第二は発見。まだ何かが見出されつつあるかどうか。長い結婚は、第一の軸の頂点にいながら、第二の軸の底にいることがある。ある人を、一緒に暮らして安心できる相手にする習慣が、そのまま、その人についての書類を閉じる習慣でもあるからだ。あの文章は、その状態を「死んだ」ではなく「眠っている」と呼んだ。
そして、眠りこんだ人生に文化が差し出す答えも名指していた。新しい人である。新しい人が効くのは、その人があなたについての書類を何も持っていないからで、だから発見はいっぱいに差し出すが、安心はまったく差し出さない。それは自分に戻されることのように感じられる、とあの文章は書いた。けれどそれは、期限のある条件だ。新しい人は、やがて知られた人になるからである。
この映画は、その議論を最後まで押し進めた絵のように読める。二つの結婚は安心ばかりで、発見がない。不倫は発見ばかりで、安心がない。ホテルの部屋、家でつく嘘、通夜から盗んだ一夜。久木と凛子は互いにとっての新しい人で、ふたりとも、しばらくのあいだ、もう終わったと思っていた自分に戻されている。この文章の読みでは、物語が向き合えないのは、その期限である。新しい人が知られた人になり、ホテルの部屋が暮らしの場所になり、盗んだ夜がただの夜になるとき。その時は近づいていた。凛子は久木のもとへ走り、久木は家を出ていた。映画がふたりに与える願いは、その時が決して来てはならない、というものだ。いちばん高いところの向こうにあるのは、ふたりが後にしてきた沈黙だと、ふたりは信じているからである。
その恐れは、愚かではない。ふたりとも、その沈黙のなかで暮らしてきたのだから。けれどそれは、物語がふたりに確かめさせることのない主張に支えられている。眠っていることは死んでいることであり、静かになっていく恋には、行き先がひとつしか残っていない、という主張に。同じ文章は、感傷ぬきで、その逆を書いていた。はじめの一年の感覚は戻ってこないし、その激しさの一部は恐れだった。代わりに手に入るのは、ふたたび開かれた書類であり、それは思い出されているものより静かで、長もちする何かを生む、と。
この図書室は「『The Course of Love』がロマンスの後に始める、本当の物語」で、多くの恋愛物語は火曜日を描くのが苦手だと書いた。出会いも障害も結ばれる瞬間も美しく作れるのに、洗剤を買い、互いを失望させ、冷蔵庫が空だと誰が気づくかを決める段階になると、急に言葉が少なくなる。愛の道のりは魔法から管理へ落ちていく道ではなく、敵は慣れではなく、注意を失った慣れなのだ、と。この映画は、火曜日を描くのが苦手なあまり、火曜日そのものを拒む。恋人たちは、自分たちの火曜日がどんなものになったのかを知るより、終わることを選ぶ。
この図書室がすでに見つけていたこと、そしてこの映画が加えるもの
この図書室にはすでに、黙りこんだ結婚と不倫にじっくり付き合った文章が二つある。何を見つけたのかを確かめておきたい。この映画は、そのどちらも問わずにすんだことを問うからだ。
「『31年目の夫婦げんか』と、求めるのが彼女ひとりではなくなった夜」は、黙りこんだ長い結婚を読み、それが変わるのは、もうひとりもまた断られうる者であることに同意したとき、つまり夫がはじめて、妻の部屋の扉まで廊下を歩いていったときだと論じた。あの映画の沈黙は、家のなかで、誰かがついに口にする問いによって応えられる。この映画で、物語が二つの結婚に与える頼みごとは、どれも、結婚を終わらせるための頼みごとだ。
「『セカンドバージン』と、目を開けたまま落ちる恋」は、四十五歳の女の欲望を欲望として受けとめ、何も尋ねられなかった妻が払ったものを数え、年下の男の死によって、誰も終わらせなくても恋が終わることに気づいていた。それはドラマが恋人たちに与えた慈悲であり、同時に、自分自身に与えた都合でもある、と。この映画は逆へ動く。ここでは何ひとつ、偶然には終わらない。終わりは選ばれたものであり、映画はその選択を、恋の成就として差し出す。この文章が断った、あの額縁である。
どちらの文章も向き合わずにすんだのは、自分の未来を恐れる恋である。家のなかの沈黙も、ほかの人々が払う代価も、この映画にはたしかにある。けれどいちばんの危険は、恋そのもののなかを時間が通り過ぎていくことにある。
告げられなかった人たち
ふたりは誰にも告げなかった。そのことに、しばらくとどまっておきたい。額縁は、私たちがそこにとどまらないことを当てにしているからだ。
ホテルの部屋で始まった秘密は、ほかの人々が背負うものとして終わる。離婚を切り出し、夫を手放した文枝。妻を手放そうとしなかった晴彦。両親に何が起きているのかを理解できなかった知佳。凛子が縁を切った母。それぞれが誰かを失い、誰も、尋ねられもせず、告げられもしなかった。
映画は、彼らをほとんど顧みない。この結末を保存と呼ぶ額縁は、彼らを画面の外に置いておかなければならない。保存の代価が、彼らだからだ。この文章にできるのは、せめて彼らの名前を挙げることである。
もうひとつ、はっきり言っておかなければならない。読む人のなかには、虚構ではない本当の喪失を抱えている人がいるかもしれないからだ。これは一本の映画の額縁についての読みである。物語のなかであれ現実であれ、亡くなった誰かについての判断ではなく、遺された誰かについての判断でもない。そうした死のあとに遺された人は、なぜ告げてもらえなかったのか、自分は気づくべきだったのか、という問いを抱えつづけることがある。それは人として当然の問いであって、何かを怠った証拠ではない。
この読みへの反論
この読みがまちがっているかもしれないところは、少なくとも五つある。ひとつめは、脚本を書いた当人から来る。
第一に、敵はやはり世間なのかもしれない。筒井は、自分が描きたかった凛子を「真実を見る目」を獲得する女性だと語り、そうした女性は男性にとっても社会にとっても都合のよい存在ではなく、いわば「魔女裁判」にかけられてしまうのだと述べている。この読みに立てば、物語は時間を恐れているのではない。見はじめた女を許さない世界のなかで、その女のために恐れているのだ。材料もそろっている。差出人不明の文書、興信所、夫の拒絶、失われた母、失われた職。この文章の答えは狭い。世間の圧力は本物で、映画のすみずみにまで及んでいる。けれど、物語が凛子に与える願いは、世間の裁きについての願いではなく、恋の高みについての願いとして語られる。そして筒井自身、監督は自分が考えた方向性をわかってくれたうえで、「甘やかな作品」に仕上げてくれたと語っている。魔女裁判と甘やかさは、すんなりとは並ばない。そのすわりの悪さこそが、この映画なのかもしれない。脚本家の読みのほうがこの文章の読みより本当だと思う読者は、正しいのかもしれない。
第二に、悲劇は推奨ではない。物語は何百年も前から、ともに死ぬ恋人たちを描いてきた。映画の結末をその映画の助言として読むのは、物語というものを取り違えている。結末を描写しない文章は、検閲者のように見えるかもしれない。そこには一理ある。けれどこの文章は、映画が見せるものを見せることに異を唱えてはいない。異を唱えたのは一つの額縁、終わりを保存と呼ぶ額縁に対してであり、額縁を断ることは物語を禁じることではない。禁じようとしたのは幕府だった。この文章に、そのつもりはない。
第三に、一九九七年の観客は、額縁より賢かったのかもしれない。題名が動詞になったとき、それが意味したのは不倫することであって、死ぬことではなかった。流行語大賞の主催者は、この物語の一般的な受けとめ方を「私も、不倫をしてみたい」だったと書いている。その記述に従えば、読者や観客は物語の真ん中を持ち帰り、終わりは置いていった。それは本当の慰めであり、同時にひとつの警告でもある。人々が持ち帰ったのは熱であり、その熱こそ、映画が続かないと言っているものだからだ。
第四に、ありふれた日々は約束ではない。職も、母も、娘の理解も、それまでの暮らしも失ったふたりに火曜日をすすめる文章は、安全な場所にいる読者のための教訓を差し出しているだけかもしれない。ふたりの火曜日は、きっとつらいものだっただろう。この文章はそれを認める。ふたりの行く手が幸せだったとは言わない。言うのは、それが行く手にあったということ、そして、つらいことは終わりと同じではない、ということだけだ。
第五に、この文章自身に向けて。監督のひと言と、ふたりの女の答えを並べることで、この文章は凛子から彼女の願いを取り上げているように見えるかもしれない。あれは本当は彼女のものではなく、男の考えを彼女の口に入れたものだ、と。それはそれで、別の種類の不敬だろう。映画は彼女にその願いを与え、しかも先に与えている。女が口にする願いはどれも男の考えにちがいない、と決めてかかる読みは、女が何を望みうるかを、前もって決めてしまっている。だから、はっきり言っておく。物語のなかで、その願いは凛子のものだ。この文章が断るのは、彼女がそれを望んだことではない。その願いの行き着く先を成就と呼ぶ、映画の額縁である。
この図書室の立つところ
映画が出発点にしている切実さは本物であり、真剣に受けとめられるべきものだ。結婚は、誰も何ひとつ怠らなくても、黙りこむことがある。五十歳の人も、三十八歳の人も、人生という部屋が狭まっていくのを感じることがある。目を覚ましたいと思うことは、罪でも冗談でもない。
凛子の欲望は彼女のものであり、映画がそれに重さを与えたのは正しい。彼女が「はい」と言う前にあったしつこさは、しつこさだった。その「はい」が、あとからそれを恋に変えるわけではない。
この文章が映画と袂を分かつのは、額縁においてである。恋は、終わらせることでは保存されない。恋のいちばん高いところは、たしかに恋の一部であり、人がいちばん長く覚えている部分かもしれない。けれどそれは恋のすべてではなく、いちばん明るいからといって、いちばん本当の部分であるわけでもない。高みのあとに来るものは、下り坂だけではない。何ひとつ盗まなくてよくなったとき、ふたりが互いにとって何なのかを知っていく場所でもある。ときに眠り、ときに目覚め、それでも、選ぶなら、発見しつづけながら。
そして、遺される人々も数に入れなければならない。ふたりで決め、誰にも告げなかった決断は、多くの人に背負われる。その結末を成就として見るよう求める物語は、その前にまず、彼らを数えるのをやめるよう、私たちに求めなければならない。
持ち帰る問い
黙りこんだ結婚のなかで暮らしたことがあるなら、その沈黙はどう感じられただろう。終わりとして。それとも、まだ誰も口にしていない問いとして。
時間が、あなたの愛するものに何をするのを恐れているだろう。その恐れは、愛するもののことなのか。それとも、あなた自身のことなのか。
いつまでも続いてほしい、何にも損なわれてほしくないと願った瞬間はあるだろうか。それを、覚えていることで守り、そのまま先へ進んでいくとしたら、どんな意味があるだろう。
あなたが抱えているものを、誰が知っているだろう。誰に知っていてほしいだろう。
あの二つの結婚のどちらかに、そのなかの沈黙に、夜ごとの繰り返しに、誰も閉じていないのに何かが閉じてしまったという感覚に見覚えがあったなら、この文章があなたに聞いてほしいことがある。沈黙は、何かが終わった証拠ではない。それは死ではなく、眠りなのかもしれない。それをどうするかはあなたが決めることで、この文章は、どうするべきかを言わない。けれど、あなたが見せられた物語、恋が黙りこむのを防ぐただひとつの方法は恋を終わらせることだ、という物語は、ひとつの物語にすぎず、それは映画のものだ。その題名のもとになった詩は、別の終わり方をする。楽園を失ったふたりが、世界のすべてを前にして、手を取り合い、ゆっくりと歩み出していく。
これは一本の映画についての読みである。虚構の人物であれ現実の人であれ、誰も診断せず、どんな結婚や恋についての助言でもない。
この物語を読んで、死にたいという思いが、望まないほど近くに感じられたなら、それがあなた自身の思いでも、身近な誰かのことでも、文章ではなく人に話してほしい。厚生労働省の「まもろうよ こころ」には、電話や、文字のやりとりで話せる相談窓口がまとめられている。
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