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『セカンドバージン』と、目を開けたまま落ちる恋
二十年、誰も愛さずに生きてきた四十五歳の女性が、十七歳年下の既婚の男性に恋をする。何を失うことになるのか、わかったうえで。このドラマは彼女の欲望を、遅咲きとしてでも醜聞としてでもなく欲望として受けとめ、そのうえで、妻が払ったものを、彼女が払ったものと同じ重さで数えている。
シンガポールから帰る飛行機のなかで、中村るいは決める。終わりにしよう、と。着いたら、彼に出会う前の自分に戻る。四十五歳。二十年前に離婚してから、誰も愛さずにきた。社長とふたりで立ち上げた出版社を最大手と呼ばれるまでに育て、専務として、仕事一筋に生きてきた人だ。
決めることには、慣れている。会社をそこまで大きくするには、物事を決め、決めたとおりに動かせる人が上にいなければならない。一度決めたことが、そのとおりにならない。そんな目にあうことは、これまでの彼女の人生には、たぶんあまりなかった。
この決心は、続かない。ある意味で、二〇一〇年の秋にNHKで放送された『セカンドバージン』は、そのことだけを描いたドラマだと言っていい。四十五歳の女性が、十七歳年下の既婚の男性に恋をし、何度か終わらせようとして、終わらせられない。弱さの物語としても、遅れてきた目覚めの物語としても語れる筋書きだ。けれどこのドラマは、そのどちらとしても語らない。この文章は、その拒み方にこそ作品の核心がある、と考える。
題名は彼女を「セカンドバージン」と呼ぶ。恋からも性からもあまりに長く離れていたせいで、もう一度はじめからやり直すことになった人、というほどの意味だ。けれどこの言葉こそ、彼女についていちばん不正確なものだと、ドラマは示していく。るいの人生に訪れるのは、取り戻された無垢ではない。大人の欲望だ。それは目を開けたまま、壊れうるものであふれた人生のなかへやってくる。ドラマはその欲望を、遅咲きとしてでも醜聞としてでもなく、欲望として受けとめる。そのうえで、受けとめたことを言い訳にはさせない。代償を払うのは、ひとりではないからだ。妻の万理江は、真っ先に、しかも尋ねられもしないまま払わされる。結婚と、自分の身の安全と、始まったばかりの友情で。るいは地位と名前で払う。そして題名からしてそうだが、ドラマはふたりの女性を、ひとりの男との位置関係で呼びつづける。その呼び名は、最終回までたどってみる値打ちがある。
作品について、そして読む前に
事実を一度だけ確かめておく。『セカンドバージン』は、NHK総合の「ドラマ10」の枠で、二〇一〇年十月十二日から十二月十四日まで、火曜の夜十時に全十回が放送された。脚本は大石静の書き下ろし。中村るいを鈴木京香、十七歳年下の鈴木行を長谷川博己、その妻・万理江を深田恭子が演じ、るいの息子・亮を綾野剛、るいとともに会社を育てた社長・向井肇を段田安則が演じている。
初回の世帯視聴率は、ビデオリサーチ調べ、関東地区で五・五パーセント。この枠としては最低の出だしだったが、回を重ねるにつれて数字を伸ばし、最終回は十一・五パーセントと枠の最高を記録した。二〇一二年に同じ枠の別のドラマが上回るまで、これが枠の最高だった。それまで五、六話で完結する作品ばかりだった枠にとって、初めての長編でもあった。テレビではほとんど無名だった長谷川博己は、大石の推薦で抜擢されたという。NHKアーカイブスは今、この作品で彼が「大ブレイクを果たす」と紹介している。二〇一一年には、やはり大石の脚本で映画になり、舞台はクアラルンプールに移ったが、この文章では映画にはふれない。
読み進める前に、ふたつ断っておく。この文章は、作品の映像を見て書いたものではない。場面は、公開されている各話のあらすじ、NHKアーカイブス、放送当時の報道が伝えるとおりに書き、登場人物の言葉は要約で伝える。そして、この先では結末まで含めて作品全体にふれる。この作品の主張が決まるのは、結末だからだ。結末を自分の目で先に確かめたい人は、ここで一度読むのをやめて、見終えてから戻ってきてほしい。
題名になった言葉
まず言葉から始めたい。作り手がこれを題名に選んだのだから。「セカンドバージン」は英語ではない。英単語をふたつ組み合わせた和製の言葉で、辞書はこれにふたつの意味を与えている。小学館の『デジタル大辞泉』は、初めての性体験が不快な記憶として残り、そのあと男性の体を嫌ったり恐れたりするようになって、性行為ができなくなった女性、と説明する。現代の言い回しを集めた辞典のほうは、性の経験はあるが長く遠ざかっている女性のことで、とりわけ、間があいたせいで処女に近い心境になっている、という含みで使われることが多い、と書く。一方の定義では、彼女は怖がっている。もう一方では、しばらく離れている。どちらの定義でも、彼女は「していないこと」で定義されている。
ちなみに英語圏では、いちばん近い言い回しがほとんど逆の意味になる。アメリカの禁欲運動で「二度目の処女」と言えば、性の経験をもったあとで、もうしない、多くは結婚まではしない、と誓った人のことだ。英語しか知らない人がこの題名を聞けば、二十年ぶりの恋に踏みだそうとしている女性の物語に、禁欲の誓いを聞きとることになる。
条件だけを見れば、るいはこの言葉にあてはまる。ドラマもそれを承知している。けれど、この言葉が彼女の二十年に何をするかを見てほしい。二十年を空白に変えてしまうのだ。長い休止のあとで、また最初から始めなければならない人にしてしまう。ドラマは十回をかけて、その空白などなかったことを見せていく。
この図書室は「はじめての時は、若い人だけのものではない」で、世の中にははじめての時の台本がひとつしかなく、それは十六歳のために書かれている、と論じた。だから四十歳で何かをはじめてする大人は、台本と一緒に、自分は遅れている、という判定まで手渡されてしまう。このドラマの題名は、その判定をひと言にしたものだ。そして物語は、その判定がどこで間違っているかを見せる。るいは初心者ではない。あの文章の言葉を借りれば、離れようとしている地形の詳しい地図を携えた大人であり、これが何に触れるのかを正確に見てとれる人だ。息子に、評判に、小さな業界での仕事に。その地図こそが、彼女を苦しめる。これが何を失わせるのか、彼女にはすべて見えている。そして見えていても、止まらない。
遅咲き、というもうひとつの便利な言葉もあてはまらない。咲くというからには、つぼみの時期があったことになる。熟さないまま、この時を待っていた女性、ということになる。るいは待っていなかった。働き、息子を育て、会社を動かしていた。欲望がやってきたとき、それは彼女を完成させたのではない。彼女の人生に、割りこんできたのだ。
二十年を満たしていたもの
ドラマはるいを、まず仕事の人として見せる。第一話の彼女は、活気のない編集会議にうんざりしている。ワインの会で、金融庁に勤める若い官僚が、日本の金融市場を変えたいと語る。興味をもったるいは、本を出さないかと持ちかける。この関係がこのあと何になるにせよ、始まりは彼女の出版人としての目だ。彼が何者になりうるかを見抜いたのは彼女であり、それを世に出す力を持っていたのも彼女だった。
このことが、そのあとのすべての形を変える。年の差の物語は、ふつう逆向きに語られる。地位のある年上の男が、見込みのある若い女を引き立てる。物語がほかに何を言おうと、その組み合わせ自体は自然なものとして扱われる。ここでは、地位を持っているのが四十五歳の女性で、見込みを持っているのが二十八歳の男性だ。彼女が出した本で彼は名を上げ、ドラマのなかでは「金融王子」と呼ばれる有名人になっていく。この物語が醜聞として受けとられた理由のかなりの部分は、ただこの逆転にある。選ばれる女ではなく、選ぶ女がいる、ということに。
その二十年には、独特の孤独もあった。ドラマはそれを正確に言いあてている。公開されているあらすじには、るいは「友達」を持ったことがなく、隣に越してきた若い女性に、相手が誰なのかを知らないまま、友情を感じはじめる、とある。るいは彼女に鍵を預け、ペットの世話を頼む。ドラマは妻をこうして登場させる。障害物としてではなく、友だちになりかけていた隣人として。
二十年は空っぽではなかった。満ちていて、そして狭かった。仕事で満ち、近づける人の少なさで狭かった。欲望は空白のなかへ来るのではない。壊しうるものでいっぱいの人生のなかへ来る。そして、そのいくつかを実際に壊していく。
シンガポールと、機内の決心
第三話の題は「正直な体」。出張先のシンガポールで、行がるいのホテルの部屋に現れ、飾らずに思いを告げる。るいは戸惑う。けれどその深夜、衝動に動かされて行の部屋へ向かうのは、彼女のほうだ。
ドラマがこの一歩を彼女自身のものとして描いていることは、大事だ。押し流され、説き伏せられ、抗えなかった女として描くこともできた。物語はしばしば、そうやって女の評判を、彼女自身の欲望から守ってきた。このドラマはそうしない。描かれているのは、四十五歳の女性が、男の部屋の扉まで自分の足で歩いていく姿だ。断っておいて、それでも行ってしまうのは、これが初めてでもない。第二話で、るいは会いたいという行の申し出をいったん断り、その夜のうちに、彼に会うため証券会社を訪ねている。彼が結婚していることは知っていた。その妻が、自分の鍵を預かる隣人だということは、まだ知らなかった。望んだのは彼女で、その望みに従って動くと決めたのも彼女だった。
翌日、帰りの機内で、るいは関係を断ち切ろうと決める。この図書室は「仕事で有能であることが、私的な欲望を易しくしない理由」で、仕事は結果を確実に生み出すことに報いるが、欲望は誰かが意のままに生み出せる結果ではない、と論じた。るいの帰りの便は、その議論のもう半分を見せている。欲望は、意のままに取り消すこともできない。彼女はそれを、いつもの案件と同じように片づけようとする。そして、それは片づいたままではいない。
第五話には「愚かな女」という題がついている。それがどの女のことなのかを、題は言わない。この言葉には、あとで戻ってくる。いまはただ、自分の気持ちを理屈で説き伏せられない女性は愚かではない、と言っておきたい。それは、人間だということだ。その気持ちをどうするかは、また別の問いになる。ドラマはすぐにその問いを突きつける。るいが次に知るのは、行の妻が誰なのかということだからだ。
もうひとつ言っておくべきことがある。彼女を動かしているのは、寂しさではない。のちに、るいが行を遠ざけているあいだ、ドラマは彼女に、世間がふさわしいと言いそうな相手も用意している。会社を創業のころから支えてきた大作家に紹介された、医師でもある作家の秋夫だ。彼はるいに思いを寄せ、北海道へ誘う。るいは出かけていく。そして、どうしても行のことを考えてしまう。これは、最初に声をかけてきた男にすがる女の話ではない。特定の男への、特定の望みの話だ。だからこそ、軽くは片づけられない。
十七年を、逆向きに数える
報道は、ふたりの年齢を四十五歳と二十八歳と伝えている。十七年はどちら向きでも大きな差だ。けれど、どちら向きならドラマになるのかは、見ている誰もが知っていた。年上の男とずっと若い女の組み合わせを、テレビは長いあいだ、ことさらの説明もなく映してきた。年上の女とずっと若い男になると、話はたいてい、女のほうについての物語にされてきた。アメリカ映画でいちばん知られているのは、『卒業』のミセス・ロビンソンだろう。主人公の父親の共同経営者の妻で、映画は彼女を若い男の側から見ている。彼が流されるように関係に入りこみ、やがて逃げ出していく、危うい相手として。『セカンドバージン』は同じ構図を女の側から語り、見る者にもそこにとどまるよう求める。
大石静は後年、この年の差が仕掛けだったことを率直に語っている。二〇一六年、新しい恋愛ドラマについて聞かれた彼女は、『セカンドバージン』のときは歳の差を設定したが、「時代の方が飛び越えて」、今はそのくらいの歳の差の人がいっぱいいる、と話した。そういう枷がなければ、恋の物語はなんとなく胸がときめいただけの話にしかならない、とも。作り手が、自分の用意した枷は古びたと言うとき、それは観客についても何かを語っている。二〇一〇年には、四十五歳の女性が十七歳年下の男を選ぶというだけで、まだドラマが一本成り立ったのだ。
このドラマが年の差でしたいちばん興味深いことは、それをるい自身のなかに置いたことだ。シンガポールの回で、息子の亮が恋人の愛子を連れてくる。亮より十歳以上年上で、るいと同世代の女性だ。るいは彼女によそよそしくする。自分がまさに破ろうとしている年齢の算術を、その場で他人にあてはめてしまうのだ。このドラマがいちばんやさしいのは、ここからだ。ふたりはやがて友だちになる。若いころバンドで歌い、今はスナックを営む愛子は、るいが恋の話をできる相手になっていく。ドラマは、るいの最初の反応を責めない。彼女がそれを越えていくのを、ただ見せる。
ここでも説教はいらない。年齢の差そのものは、この物語の誰も傷つけていない。傷には別の出どころがあり、名前がある。万理江だ。
隣人としての万理江
鈴木万理江は素麺会社の社長の娘で、娘に甘い両親のもとで狭い世界に育ち、夫は自分のものだと信じて暮らしている。偶然、るいの隣に越してくる。るいの鍵を預かり、るいのペットの世話を引き受ける。自分が親しくなっていく相手が夫を愛しているとは知らない。しばらくのあいだは、るいのほうも、万理江が誰なのかを知らない。シンガポールのあとでそれを知ったとき、るいはもう、彼女を友だちのように思いはじめていた。
万理江を、このドラマの悪役として、あるいは笑いものとして見るのはたやすい。実際、そう見てきた人は多い。映画化が報じられたとき、スポーツ紙は深田恭子のこの役を「陰湿な悪女役」と書き、ドラマを紹介するあるサイトはいまも、その演技を怖さの見せ場として語っている。悪女というのは新聞の言葉で、この文章の言葉ではない。思いどおりにならないとき、万理江は、死んでやる、と口にする。あまりにたびたび言うので、決め台詞のように聞こえはじめるほどだ。
この文章は、そうは聞かない。死ぬと言う人の言葉は、そのつど、言葉どおりに受けとめる。ドラマ自身がその理由を見せている。行に離婚を切り出されると、万理江は彼の携帯電話を壊し、両親を長崎から呼び寄せ、そして自らを傷つける。その場面を、この文章は描かない。大事なのは、癇癪として聞き流されてもおかしくなかった言葉が、癇癪だけではなかったということだ。
ここでは誰も診断しない。言えるのは、もっと狭く、もっと役に立つことだ。万理江の世界は狭く、その世界が彼女に与えた役はひとつ、妻という役だけで、彼女の立ち位置はすべてその上に乗っている。その役が脅かされたとき、ほかに立つ場所がない。それは彼女への判決ではない。どれほど小さな場所しか与えられてこなかったかの記述だ。そしてドラマはそれを真剣に受けとめ、最後には彼女に、もっと広い場所を与えている。
しかも彼女は、二重に裏切られている。夫に欺かれ、ペットに餌をやっていた隣の女性にも欺かれた。このあと万理江がすることには、むごいこともある。けれど、それはすべてここから始まっている。
彼女がしたこと、彼女が払ったもの
やがて万理江は、妊娠したと告げる。のちにそれは間違いだったとわかるが、そのときにはもう、知らせを聞いたるいが、行との連絡をいっさい絶っている。しばらくのあいだ、関係は終わる。終わらせたのは、るいのほうだ。
けれど、終わったままではいられない。夫がるいの部屋に入っていくのを見た万理江は、ふたりに牙をむく。彼女がしたことは、やわらげずに書いておくべきだろう。傷をつけたるいの写真を、るいの職場に送りつける。るいの猫を連れ去る。ふたりの関係を週刊誌に売る。そしてついには夫を警察に売り、行は逮捕される。
その一部は、何もしていない人のところに落ちる。職場の人たちに、一匹の猫に。一部は、した当人たちのところに落ちる。どれも正義ではない。行き場を探している傷が、いちばん手近な、壊せるものを見つけてしまっただけだ。
この図書室は「不倫は、ある必要についての、下手に語られた物語である。」で、不倫についての出来合いのふたつの読み方、恋愛として読むことと判決として読むことは、どちらも問いを終わらせてしまう、と論じた。説明することは、容認することではない。そして誰かが、相談されなかった決定の代価を払い、尋ねられないまま自分の人生の条件を変えられている、とも書いた。万理江は、その誰かだ。彼女のむごさは本物で、その責めは彼女が負う。同時に、自分の人生がまわりで組み替えられていくあいだ、誰も彼女に何ひとつ尋ねなかったことも、本当だ。誠実な読み方は、そのふたつを両方とも手放さない。
拘置中の行は万理江に離婚を求め、彼女はきっぱりと拒む。そして、愛人は妻にはなれない、とるいに言い放つ。
「妻」という言葉が守るもの、縛るもの
勝ち誇った言葉に聞こえるし、実際そうだ。けれど、それは事実の記述でもあり、ドラマはその事実を具体的に見せる。行が逮捕されたとき、るいは彼の身柄がある東京地検まで出向くが、会うことはできない。妻ではないからだ。彼が死んだとき、遺体と遺骨をどうするかを決めるのも、万理江になる。るいには彼の愛がある。万理江には立場がある。そして、立場がものを言う場では、どこであっても万理江が勝つ。
この一言の後ろには、気分だけではない仕組みがある。日本では、夫婦は話し合いで離婚できる。まとまらなければ裁判所を通すことになり、配偶者の不貞は、傷つけられた側が離婚の訴えを起こせる理由のひとつだ。不貞をした側の道は狭い。一九八七年の最高裁大法廷判決は、そうした配偶者からの離婚の請求でも、夫婦の年齢や同居の期間と比べて相当に長い別居があり、未成熟の子がおらず、離婚によって相手が精神的、社会的、経済的にきわめて苛酷な状態に置かれるといった特段の事情がなければ、相手の反対を押して認めうる、とした。裏を返せば、それだけの条件が要るということだ。万理江の拒絶は、意地悪だけではなかった。法が彼女に与えていた本物の力であり、彼女はそれを使ったのだ。現実の結婚で法が何を認めるかは、弁護士に尋ねるべきことで、ドラマについての文章が答えることではない。
同じ仕組みは、彼女のことも縛っている。万理江を守る言葉は、ほかの女性と暮らしている男との結婚に、彼女をつなぎとめもする。ふたりの女性は、それぞれ相手に欠けているものを持っている。そしてどちらも、それだけでは生きていけない。
この図書室は「『昼顔』と、予定の入っていない唯一の時間」で、別の不倫ドラマを、請求書が一つの宛先にしか届かない物語として読んだ。中心にいる女性は結婚も立場も近所づきあいも失い、男は妻と転居して、名前を保ちつづける。そして、その立場に置かれた既婚の男は一つの挿話を得るが、既婚の女は一つの範疇を得る、とも書いた。『セカンドバージン』の請求書は、それほど整ってはいない。万理江にも、るいにも、そして彼なりの理由で、行にも届く。けれど範疇を配ることにかけては、同じくらい気前がいい。るいは、題名では「セカンドバージン」、万理江の口からは「愛人」と呼ばれ、第四話には「二番目の女」という題がつく。そして万理江は、最後まで「妻」だ。
職場と、週刊誌と、さらされた名前
物語の表の側で矢面に立たされるのは、るいの名前だ。週刊誌が一行も書かないうちから、会社を創業のころから支えてきた大作家の秀月が、自分が紹介した作家の秋夫がるいに求婚したと知り、嫉妬から全作品を引き上げる。その作品とともに信用を築いてきたるいは専務の座を外され、総務の机に移される。やがて職場に嫌がらせの手紙と、傷をつけた写真が届きはじめる。そして、週刊誌の記事が出る。
手紙の行き先を見てほしい。届くのは彼女の職場で、中身は彼女についてのものだ。行が公の場で転落するとき、問われるのは恋ではない。彼の商売だ。
そして、週刊誌が万理江に何をしたかも見ておきたい。週刊誌は彼女に、世間という聞き手を与えた。同時に、何かを奪ってもいる。私的な悲しみは、週刊誌に持ちこまれた時点で、見知らぬ人たちが分け前を持つ物語になる。週刊誌が万理江に何を与えたにせよ、結婚を返しはしなかった。返せるはずもない。さらすことは、つぐなうことではない。さらしたことで何かが修復されたと思わせるところは、この物語のどこにもない。
行の物語の終わり方
ここから先は、ドラマの結末にふれる。
行もまた、年上の女性が手に入れた若い恋人、という役だけの人物ではない。ドラマは彼に、それ以上のものを与えている。物語は彼の野心を、半ば認めている。日本の金融市場を変えたいと語った若い官僚で、本で名を上げ、役所を離れて証券会社を興した男だ。妻と別れると決めた彼を、るいが遠ざけると、行は彼女を追いつづける。自分の部屋へ逃げこむるいを、追って入っていく場面さえある。物語はその執着を、思いの深さの証として差し出す。けれど、はっきり名前をつけておきたい。これは、もう断った女性を追いまわすことだ。現実には、連絡を絶った女性は、すでに答えている。一度は受け入れた相手だからといって、その答えが取り消されるわけではない。逃げていく人を追って部屋まで踏みこむのは、愛の場面ではない。ドラマはるいに、もう一度、違う答えを出す権利を与えていて、彼女はそうする。その答えは彼女のものだ。ただ、あとから出た答えが、それまでの追跡を求愛に変えるわけではない。行は家を出て、ふたりはホテルで暮らしはじめ、そのあいだに彼は法すれすれの買収を進めていく。
行は金融商品取引法違反の容疑で逮捕される。情報を漏らしたのはるいではないかと疑うが、警察に売ったのは妻だった。釈放されると、るいと暮らしはじめる。けれど事業で損をさせた男たちに、仲間になれと脅され、彼はるいに冷たくなっていく。るいは、そんな彼を見放すことができない。執行猶予付きの判決が出た翌朝、行は姿を消す。
二年後、仕事で訪れたシンガポールで、るいは目の前で行が襲われるのを目撃する。病院で付き添いつづけるが、行は息を引き取る。
この死は、注意して読まなければならない。古い物語の型が、それを受けとめようと待ちかまえているからだ。結婚の外の恋を描いた昔の物語の多くでは、物語が終わるために誰かが死ななければならず、それはしばしば女のほうだった。ここでは女は生きる。死ぬのは男で、しかもドラマは、その死を、彼女を愛した罰にはしていない。買収から逮捕、脅しにいたるまで、彼の苦境は恋からではなく、商売から来ていた。この文章は、この死を罰としては読まない。ただ、この死が何をするかは言っておきたい。誰も終わらせなくても、恋が終わる。誰も選ばなくてすむ。それはドラマが恋人たちに与えた慈悲であり、同時に、自分自身に与えた都合でもある。
遺骨と、会社と、一冊の本
そのころ万理江は長崎の実家に戻り、ペット用の自然食の事業を始めている。夫の遺体を引き取ろうとはしないので、遺骨はるいが持ち帰る。そのあとで万理江が、葬儀のためにそれを引き取る。日本でふたたび顔を合わせたとき、万理江は以前より自信をつけている。
一年後、醜聞のあいだもるいの味方でありつづけた向井は、恋人の男性とレストランを開くために引退し、るいを社長に指名する。その直後、大手取次会社が倒れ、会社は危機に陥る。るいは、頭を下げなければならない相手すべてに頭を下げて、会社を立て直す。作品を引き上げた秀月に、自分を想う秋夫に、そして万理江に。万理江には、本の執筆を頼む。万理江は書き、ため込んできたものをそこに吐き出して、前へ踏み出していく。
出版人が最後に何をしたかを見てほしい。物語の始まりで、るいは若い男の野心に本という形を与え、その本が彼を世に出した。終わりでは、裏切られた妻の恨みに本という形を与える。傷をつけた写真や週刊誌へ流れこんでいた痛みが、ようやく万理江自身の言葉になる。ドラマは万理江を、用がすめば消えていく脅威として放り出すこともできた。そうはせず、事業と一冊の本を与えている。
そして、各話の題を並べてみてほしい。このドラマは十回をかけて、女を、ひとりの男との位置関係で呼んできた。題名の「セカンドバージン」、第四話の「二番目の女」、第五話の「愚かな女」。どの題がどの女を指すのかは、題そのものは言わない。言わないこと自体に、意味があるのかもしれない。万理江が離婚を拒み、るいが地検の扉の先へ進めない第八話は「愛しているのは私」と題されていて、その「私」は、どちらの女でもありうる。そして最終回は、女たちを男との位置では呼ばない。「誇り高き女達」。複数形だ。るいは、頭を下げなければならない全員に、妻にまで頭を下げたばかりだ。その回に、ドラマは「誇り高き」という題をつける。誇りとは、頭を下げないことではない。何のために下げるのかを、知っていることだ。ドラマは、そう言っているように見える。
るいの欲望についての最後の言葉は、息子に託されている。母の脛をかじり、両親の離婚に反発していた亮は、定職に就いた。そして母に、男を見つけろ、そのほうが俺も安心だ、と言う。遅咲きの花は、一度咲いて終わる。これは、母の望みはまだ終わっていないし、それは母のものだ、と告げる息子の言葉だ。
火曜の夜十時の、四十五歳
どこで放送されたかは大事だ。NHKは日本の公共放送で、このドラマはその総合テレビで、火曜の夜十時に流れた。新聞は、NHKが不倫を主題にすること自体が異例だと書き、NHKとしては大胆なベッドシーンも話題になったと伝えた。視聴者は少なく始まり、放送が進むにつれて増えていった。映画が公開されるころには、映画の記事が、その熱はるいと同世代の大人の女性を中心に広がったと書いている。
そうした女性たちを呼ぶ言葉は、二年前に生まれていた。二〇〇八年の新語・流行語大賞で、ふたつ選ばれた年間大賞のひとつは「アラフォー」だった。主催者は、テレビドラマから広まった四十歳前後を指す言葉で、特に女性を指す、と説明し、この世代に的を絞った商品が次々に当たっていることにもふれている。そして『セカンドバージン』のあらすじは、この作品を「独身アラフォー女性の禁断の恋と苦しみを描く」と紹介している。言葉は二年のあいだに、市場の名前からヒロインの名前になった。そしてこのドラマは、市場がしないことをした。四十歳前後の女性に彼女自身の欲望を与え、その欲望に物語を動かさせたのだ。
大石静は、第一回の放送を控えた会見で、「個人的にプラトニックな恋愛はないと思っているので、裸の触れ合いは当然出てくる。それだけを期待されると困っちゃうけれど」と語った。その日の記事は、彼女が「恋愛は人生の試練」という思いを込めてこのドラマを書き下ろした、と伝えている。六年後、自分の仕事についてもっと広く語ったとき、大石は、常識とか倫理とかの向こう側に真実があると思っている、と言った。不倫が暴かれると色々と言われるけれど、人はやむなく好きになっているのだと思う、と。そして、こう続けている。「もちろん、それだから「みんなやっていいですよ」という訳じゃないけど、その切実な気持ちに嘘はないと思うのね」。ドラマは、この言葉の前半と後半を、両方とも抱えている。この作品を読むなら、読む側もそうすべきだろう。
もうひとつ、この物語は何度も東京を離れる。恋はシンガポールで始まり、シンガポールで終わる。そこでは、るいは誰の専務でもなく、通りの誰も彼女の名前を知らない。彼女が望みに従ってはじめて動くのも、そこだ。万理江は長崎の実家で、自分の事業とともに足場を取り戻す。ふたりの女性はそれぞれ、自分を見ている街の外で、街のなかではできなかったことをする。故郷を離れて暮らしたことのある人なら、その独特の自由を知っているかもしれない。そして、その落とし穴も。誰も自分を知らない場所でしたことも、結局は家まで持ち帰らなければならない。
この読みへの反論
この文章が間違っているかもしれない点は、少なくとも五つある。
第一に、このドラマは、検討するふりをしながら美化しているのかもしれない。ベッドシーンは公共放送の限界ぎりぎりと報じられ、映画の撮影が進んでいたころ、テレビ誌は物語全体を「スキャンダラスな純愛」とまとめている。るいの欲望に敬意を払うこの文章は、ドラマの華やかさを、もっと真面目な声でなぞっているだけだ、と言う読者もいるだろう。そこには一理ある。美しく撮られた欲望は、それ自体がひとつの主張だ。見る側には、それに抗う権利がある。
第二に、ドラマはこの文章よりも、万理江に厳しいのかもしれない。新聞は彼女の役を悪女と呼び、ドラマが彼女に与える行動の多くは、むごい。万理江を数に入れようとするこの文章のこだわりは、ドラマが持ちあわせていないやさしさなのかもしれない。それに対して置けるのは結末だ。結末は彼女に、事業と、声と、自分自身の行く先を与えている。いちばん公平な言い方をすれば、ドラマはその大部分で彼女を脅威として使い、最後になって、人として思い出す、ということなのだろう。
第三に、あの死は、ドラマの逃げ道なのかもしれない。誰も終わらせなくても、関係は終わる。るいは愛人から、喪に服す人へと変わり、そのほうがずっと共感しやすい。そして、ホテル暮らしが終わったあとの彼との生活がどんなものになったかを、物語は問わずにすむ。結末をはぐらかしだと感じる読者は、間違っていない。
第四に、頭を下げる場面は、仕事の顔をした贖罪なのかもしれない。望みすぎた女が、妻まで含む全員に頭を下げて終わる。そして万理江に頼む本は、苦しい出版社が売ることのできる商品でもある。誇りと、贖罪と、商売。最終回にはその三つがそろっていて、題はそのうちのひとつを選んでいる。題は、論証ではない。
第五に、これはこの文章自身に向けた反論だ。欲望には敬意を払い、代償は数える。この立場は、いちばん難しい問いを避けるための、居心地のいい中間なのかもしれない。いちばん難しい問いとは、るいは止まるべきだったのか、というものだ。ドラマは彼女に、止まれる場所をいくつも用意している。帰りの機内。第四話で、半ば強引に招き入れられた一家団らんの席。妊娠を聞いたとき。一度は、止まろうと決めて、止まれなかった。一度は、本当に連絡を絶ち、そして戻っていった。この文章は、戻ったことを正しかったとは言わない。望みは彼女のものだった、と言う。そして、戻ったことの代償の大部分は、一度も尋ねられなかった人のところに落ちた、と言う。
この図書室の立場
四十五歳の欲望は、欲望だ。二度目の何かでもなく、遅咲きでもなく、それ自体が醜聞でもない。二十年をかけて人生を築いてきた女性は、何かを待っていたわけではない。誰かを望んだとき、その望みは彼女のものであり、それを持つのに誰の許しもいらない。このドラマは二〇一〇年に、火曜の夜十時に、公共放送で、そのことを知っていた。そして、それを言った場所の重さの分だけ、評価されていい。
望みをどうするかは、別の問いだ。ドラマは、最初の問いに答えたことで、二番目の問いにまで答えたことにはしない。万理江は尋ねられなかった。結婚と、身の安全と、始まったばかりの友情が、自分のものではない決断の代償になった。そのあとの彼女のむごさは本物だが、それで帳消しになるわけではない。るいの欲望に敬意を払うことと、万理江の傷を数えることは、競いあってはいない。誠実な読み方には、その両方が、どちらも薄めないまま要る。
そして女は、男との位置関係では測られない。一番目か二番目か、妻か愛人か、選ばれたか置いていかれたか。ドラマは十回をかけて、女たちにその呼び名を与え、最終回でそれを取りあげた。物語は、悲しみを抱えながら会社を率い、自分の仕事で測られるるいと、自分の言葉で自分の話を書く万理江で終わる。幸せな結末ではない。けれど、公平な結末だ。
手元に残しておく問い
この物語のなかに、自分の一年を見つけた人のために、いくつか問いを置いておく。
ひとりで過ごしてきた年月を、あなたは何と呼んできただろう。空白だろうか、それとも人生だろうか。いま何かを望みはじめたとして、それが何を失わせうるかまで見えたうえで、それでも自分の望みだと呼べるだろうか。何かを望むのをやめようと決めたとき、その決心はどうなっただろう。あなたがいま生きている物語のなかで、まだ尋ねられていないのは誰だろう。そして、誰かがあなたの立ち位置につけた呼び名は、あなたが自分だと思えるものを、何か測っているだろうか。
もしあなたが四十五歳で、あるいは五十五歳で、もう終わったと思っていた何かが目を覚ましたのなら、年齢のせいでそれが愚かになることはない。あなたは初心者ではないし、遅れてもいない。二十歳のころよりも多くを知っている。望みがほかの人に何を払わせうるかも、知っている。その知識は、望むのをやめる理由ではない。目を開けたまま望み、そして全員を数に入れる理由だ。
これは、一本のテレビドラマについての読みである。虚構の人物も実在の人物も、誰も診断していない。ここにあるどの言葉も、誰かの結婚や離婚についての助言ではない。
この物語を、そして万理江のことを読むうちに、自分を傷つけたいという思いが望まないほど近づいてきたなら、それは文章ではなく、人に話してほしいことだ。厚生労働省の「まもろうよ こころ」のページには、電話や文字のやりとりで話せる相談窓口がまとめられていて、その多くは無料だ。そのひとつ、よりそいホットラインは二十四時間つながる。外国語で話せる窓口もあるが、受付時間はそれより短い。
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週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。