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『うきわ ―友達以上、不倫未満―』と、ふたりを浮かせていたもの
東京郊外の社宅で、隣り合う部屋に暮らすふたり。どちらの配偶者にも、別の相手がいる。ふたりはベランダの仕切り越しに互いを浮かせ、恋人にはならない。副題はその関係を、どこまで進んだかで測る。ドラマ自身は、誰が誰を浮かせていたかで測り、ふたりとも、しがみついていたことを見せる。
東京郊外の社宅。朝早く、ひとりの女性がゴミを出しに降りていくと、隣の部屋の男性もそこにいる。ふたりは、なんでもない言葉を二つ三つ交わす。しばらくのあいだ、それが彼女の一日でいちばんほっとできる時間になる。夜、夫がまだ帰ってこないころ、ふたりはベランダを隔てる仕切り越しに話をする。
彼女の名前は中山麻衣子。人生のほとんどを広島で過ごし、夫の転勤で東京に出てきた。彼は二葉。彼女の夫の上司である。そしてふたりとも、配偶者に別の相手がいる。二〇二一年の連続ドラマ『うきわ ―友達以上、不倫未満―』は、そういう設定から始まる。副題は、このドラマがしないことを先に告げている。このふたりは、恋人にはならない。テレビ東京は番組表で、この作品を「不倫まで壁1枚ラブストーリー」と呼んだ。
こういう副題は、ものさしである。ふたりのあいだに起きたことを、どこまで進んだかで測り、この物語を、目盛りのひとつにぴたりと合わせる。友達より先、不倫より手前。こうした物語について話すとき、人はたいてい同じものさしを手に取る。したのか、しなかったのか。どこまで近づいたのか。悪いのは誰なのか。
この文章は、このドラマが全八話をかけてそのものさしを置き、別の測り方を手に取っていくのだと考える。その測り方は、主人公自身の口から出てきたものだ。題名の、浮き輪である。浮き輪が測るのは距離ではない。誰が誰を浮かせていたのか。誰の息で浮いていたのか。ふたりのどちらかは、自分で泳げたのか。そうやって測ってみると、ものさしには見えない三つのことを、このドラマが正直に描いているのがわかる。ふたりとも、しがみついていた。互いに浮かせてもらっていたから、ふたりはそれぞれ、いまの場所にとどまりつづけてもいた。そしてドラマは、一度も触れ合わなかった恋に、不倫と同じ形の言葉を与えている。
だからといって、ふたりが守った線が軽いわけではない。その線にどれほどの意味があったかは、結末が示している。けれどドラマは、その線に、ものさしのいちばん得意な仕事をさせない。岸に上がった人と、水のなかにいる人とを分けるという仕事だ。『うきわ』では、全員が水のなかにいる。
作品について、そして読み進める前に
はじめに、作品の基本を記しておく。『うきわ ―友達以上、不倫未満―』は、テレビ東京で二〇二一年八月九日から九月二十七日まで、毎週月曜の夜十一時台に放送された、全八話の連続ドラマである。原作は野村宗弘の漫画『うきわ』で、小学館から刊行されている。はじめはウェブで二〇一二年から二〇一四年にかけて発表され、単行本は全三巻。中山麻衣子を門脇麦が、隣人であり麻衣子の夫の上司でもある二葉を森山直太朗が演じる。夫の拓也を大東駿介、二葉の妻の聖を西田尚美、拓也の職場の後輩の福田歩を蓮佛美沙子、陶芸教室の若い講師の田宮悠を田中樹が演じている。
読み進める前に、ふたつ断っておく。この文章は、ドラマそのものを観て書いたものではない。場面は、テレビ東京が公開している各話のあらすじと、公表されている記事が伝えるとおりに記した。登場人物のせりふは、それらのページが書き起こしているとおりにいくつか引き、ほかはすべて言い換えている。そして、この文章は結末を含めてドラマの全体にふれる。ものさしと浮き輪の道がはっきり分かれるのは、結末だからだ。結末が始まる節の冒頭でそう断るので、先に画面で見たい人は、そこでいったん読むのをやめて、観たあとで戻ってきてほしい。
東京郊外の社宅で
まず、場所から始めたい。このドラマは、暮らしの場所をとても正確に描いているからだ。麻衣子は人生のほとんどを広島で暮らしてきて、自分のことを、可もなく不可もない女だと思っている。夫が東京の本社に転勤になると、彼女は仕事を辞めて一緒に上京し、東京郊外の社宅に入る。隣の部屋の二葉夫妻は、ふたりを温かく迎える。麻衣子は夫を「たっくん」と呼び、テレビ東京のあらすじの言葉を借りれば、東京での新生活に胸を弾ませている。
たっくんの帰りは、毎晩遅くなっていく。ある朝、彼は携帯電話を家に忘れて出かける。そこへ「車修理110番」という名前で登録された相手から、メッセージが届く。「今夜もうちに来ますか?」。相手は、職場の後輩の福田歩。大学時代には、拓也のいたラグビー部でマネージャーをしていた女性だ。
麻衣子の東京が、どれだけひとつの会社でできているかに、目をとめてほしい。部屋は会社のものだ。隣近所は夫の同僚とその家族で、仕切りの向こうにいるのは夫の上司である。夏には会社の駐車場で納涼祭があり、社宅の奥さんたちも集まる。麻衣子が焼きそばを作る屋台は、にぎわう。この街で彼女が知っている人は、みな夫の仕事を通して知った人だ。あとでわかるとおり、夫が会っている女性も、そのひとりである。
これは、麻衣子ひとりの話ではない。二〇一七年、法政大学教授の武石恵美子は、労働政策研究・研修機構の公開フォーラムで、自身が委員として加わった厚生労働省の研究会の議論を報告した。転勤をめぐる研究会である。そのなかで武石は、本人の転勤だけでなく配偶者の転勤も、女性が働きつづけるうえでの妨げになりうる、という指摘が出ていると述べている。麻衣子が仕事を辞めたことは、その指摘の、静かなひとつの例だ。夫の転勤についていくために、彼女は自分の仕事を手放した。ドラマは、その転勤で住むことになった部屋から始まる。
この舞台について、誤解のないように言っておきたいこともある。社宅は、日本にいくつもある暮らし方のひとつであって、日本の暮らしそのものではない。このドラマも、日本の結婚の肖像ではない。ドラマが社宅を舞台にしているのは、それが物語に効いてくるからだ。社宅では、夫の上司が壁の向こうに住み、雇い主が、建物じゅうの夫婦にとって、口をきかない第三者になる。
仕切り越しの会話
二葉は穏やかで、物静かな人だ。そして彼の結婚にも、秘密がある。妻の聖が、陶芸教室の若い講師の田宮と、関係を持っているのだ。だから、朝はゴミ捨て場で、夜はベランダの仕切り越しに麻衣子が話しかけるようになったとき、その相手は、この建物のなかでただひとり、彼女と同じことを、同じ側から知っている人である。
テレビ東京のコラムは、ふたりの関係を正確に書いている。一枚の仕切り板をはさみ、「他人の目を気にしながら言葉を交わす」、ごく小さな恋だと。隣近所は同僚で、ふたりは何を話すにしても、誰に聞かれるかを気にしながら話している。
ふたりが互いをどう呼ぶかにも、耳をすませてほしい。このドラマは、名前の扱いが細やかだ。家では、麻衣子は夫を「たっくん」と呼び、夫は妻を「麻衣子」と呼ぶ。隣とのあいだでは、呼び名は会社での呼び方になる。二葉は彼女を「中山さん」と呼ぶ。夫と同じ姓である。民法は「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と定めていて、夫婦はひとつの姓を名のる。二葉は、部下である彼女の夫を「中山くん」と呼ぶ。そして麻衣子は、彼のことを「二葉さん」としか知らない。下の名前を、彼女は知らない。
つまり、夫婦のあいだには親しい呼び名があり、仕切り越しの会話は名字で進む。愛称で呼ぶ相手とは話ができず、話ができる相手は、彼女にとって、名字と、夫の会社での肩書きでしかない。近く聞こえる呼び名は、近さそのものではない。ドラマは、そう言っているように見える。
浮き輪という言葉は、彼女のものだった
題名の浮き輪という言葉を二葉に手渡すのは、麻衣子のほうだ。ある夜、彼女は「思ってること全部言っちゃる」と広島の言葉で自分に言い聞かせ、仕切りを越えて彼の側へ行く。そこは彼のベランダで、誰も彼女を招いてはいない。口にできたのは、全部ではなかった。浮き輪のことだった。ずっと、二葉さんが浮き輪のように自分を救ってくれている気がしていた。話を聞いてもらうと浮き輪で浮いているようで、「救われてたんです」と。それから彼女は、来たときと同じように、自分の部屋へ戻ろうとする。
この言葉は、ドラマが終わるまでに何度か、彼女のもとへ戻ってくる。だからいま、これがどういう種類のたとえなのかを、はっきりさせておきたい。これは、恋の甘いたとえではない。浮き輪は舟ではない。どこへも連れていってはくれない。その場にとどまっているあいだ、顔を水の上に出しておいてくれるだけで、泳ぎ方は教えてくれない。そして浮き輪には、誰かの息が入っている。浮き輪は、誰かが吹きこんだ空気のぶんだけ役に立ち、その人が吹きこむのをやめれば、しぼんでいく。
これを副題と並べると、違いがはっきりする。ものさしは、ふたりがどこまで進んだかを問う。浮き輪が問うのは、誰が誰を浮かせているのか、誰の息で浮いているのか、空気がなくなったら何が起きるのか、である。前の問いには、はいか、いいえで答えられる。あとの問いには、ひとつの経緯でしか答えられない。ドラマは全八話をかけて、その経緯を語る。
このたとえが彼女のものだということには、意味がある。副題は、不倫をめぐるたいていの言葉と同じく、外から書かれている。岸に立って、距離を目で測る人たちの言葉だ。浮き輪は、水のなかにいる人が感じたままの形をしている。
手を握った日と、かけたブレーキ
ふたりがものさしの目盛りにいちばん近づくのは、第四話の、ささやかな出来事だ。初めてふたりで出かけた日、向かい合わせの席で少し照れながら、話題は二葉夫妻の過去に及ぶ。二葉の複雑な思いを知った麻衣子は、衝動的に、彼の手を握ってしまう。
そのあと麻衣子は、悔やみ、迷い、二葉を避けるようになる。話し相手を失ったある朝、ゴミ捨て場から戻った彼女は、玄関でうずくまる。心配した拓也が起こそうとすると、その手を振り払う。数日後、二葉は麻衣子に告げる。「あれはなかったことにしましょう。僕はただの相談相手」。そう頼むのは彼の権利だ。それは、断りなく握られた手への、やわらかな「いいえ」である。
なぜ、線は守られるのか。古い言葉がふたつ浮かぶが、どちらもこのドラマには合わない。純潔のためではない。ここには、自分を清く保とうとしている人はいないし、ドラマは、ふたりが何を望んでいるかを、まっすぐに描いている。臆病のせいでもない。放送二週目にテレビ東京が載せたコラムは、そのブレーキを、一文で言い表している。不倫という裏切りを憎むからこそ、たとえ好きな人ができても、ふたりは自分にブレーキをかける。「相手と関係を持ったら配偶者と同じ土俵に立ってしまう」から、と。
これは、はっきりとした、筋の通った理由だ。ここで守られているのは、立場である。裏切られた人には、少なくとも、裏切られた側という立場が残る。線を越えれば、その立場を手放し、自分を傷つけた人たちと同じ土俵に上がることになる。この図書室は「『花様年華』——抑制の中で生き続ける欲望」という文章で、抑制は清らかさと同じではないと論じ、ウォン・カーウァイの描く人の密集した香港では、裏切られた隣人どうしが守る線を保っているのは、ふたり自身よりも、見張っている建物のほうなのだと書いた。『うきわ』にも、見張る建物はある。社宅、同僚ばかりの隣近所、誰に聞かれるかわからない仕切り。けれどコラムの言う理由は、建物の目が届かないところにまで及んでいる。ブレーキは、見られることへの恐れだけではない。自分を傷つけた人たちと同じにはなるまい、という意志なのだ。
しかも、線を守っているのはひとりではない。彼は手を断り、彼女は彼のベランダから自分で引き返す。抑制は、会話と同じように、ふたりのあいだでやりとりされる。あるときは彼が、あるときは彼女が、それを引き受ける。この抑制について、いちばん確かに言えるのは、そのことかもしれない。ふたりとも、ただ強いだけでも、ただ怖がっているだけでもない。
仕切りの両側で、同じ形の言葉が
ここで、配偶者たちのことをはっきり書いておく。ドラマがはっきり描いているからだ。拓也は福田と、聖は田宮と、関係を持っている。この文章は、どちらにも、人としての判決を下さない。そしてドラマは、どちらにも、障害物という役まわり以上のものを与えている。
プロデューサーの本間かなみは、最終回が放送された日に公開されたリアルサウンドのインタビューで、そのことを語っている。最近、「白か黒かで分断して世界を整理整頓していく怖さ」を感じていて、整理整頓できない人間の不完全さを描ける作品を作りたいと思っていた。野村宗弘の原作に惹かれたのは、出てくる人たちが優等生ではなかったからだ。人間の毒や弱さや矛盾、ずるさも持ちあわせていて、原作はそれを「否定も肯定もせず、ただただ誠実に描いている」と。
その姿勢がどこまで貫かれたかを示す細部がある。聖を演じた西田尚美は、出演が発表されたとき、原作では聖の「顔が一切描かれておらず後ろ姿だけ」なのだと語り、ドラマではその表情や感情を表現できたら、と話していた。ドラマは、夫を裏切っている妻に、顔を与えたのである。
そして、言葉も与えた。その言葉は、このドラマでいちばん大切なもののひとつになる。第五話、陶芸教室の生徒たちのグループメッセージで、田宮が若い女性と並んで歩いている写真が、聖のもとに届く。工房で田宮は、あれは違うと必死に弁解する。気にしていない、と聖は言い、すぐに打ち消す。本当は嫉妬した、でも必死に弁解してくれて嬉しかった、と。そして、こう続ける。「嫉妬なんてそんな資格ないのに。救われてばっかりで」。
次の回、会社の納涼祭で、麻衣子は福田と出会い、トイレでふたりは向き合う。麻衣子は、静かに手を上げる。福田はぎゅっと目を閉じ、平手打ちを受ける覚悟をする。麻衣子は打たない。「怒る権利なんて私にないので」とつぶやき、その代わりに、自分が知ってしまったことを夫には言わないでほしい、と福田に頼む。
ふたつの場面を並べてみる。仕切りの一方には、不倫をしている妻がいる。もう一方には、していない妻がいる。副題のものさしで測れば、ふたりは、このドラマでいちばん大事な線の、反対側に立っている。ドラマ自身の言葉で測れば、ふたりは同じ場所に立っている。どちらも、自分を救ってくれる人を見つけた。どちらも、自分には資格がない、権利がないと言う。不倫と、一度も触れ合わなかった恋に、同じ形の言葉が与えられている。これは偶然ではない。ドラマの主張なのだ。線が何を守るにせよ、救われたいと願う心を消すことはできないし、それを知っている良心を黙らせることもできない。
この図書室は「『セカンドバージン』と、目を開けたまま落ちる恋」という文章で、実際に起きる不倫を読み、一度も尋ねられないまま代償を払う人、つまり妻の側を、いちばん丁寧に数えた。『うきわ』には、そういう人がいない。四人の既婚者は、それぞれ結婚の外の誰かに何かを渡している。ふたりは体を、四人とも心のいくらかを。そして四人とも、同じことをしている相手と結婚している。岸に上がっている人は、誰もいない。だからこのドラマは、見ることをやめずに、判決だけを拒むことができる。判決を下せる乾いた場所が、どこにもないのだ。
夫の相手である福田にさえ、判決ではなく来歴が与えられている。歩という名前の彼女は、子どものころから母親に言われて育った。これからは女性も仕事に行く時代で、「あなたは自分の足で歩くの。負けちゃダメよ」と。何年か前には、社内表彰で「輝く女性賞」を受けた。拓也と会うかたわら、取引先のエリート社員とも付き合っている。自分の築いてきた暮らしについて、彼女はこう言う。「女が社会で勝つためには、必要なものがたくさんあるんだよ」。来歴は、言い訳ではない。ドラマは、その言葉がどこから来たのかを見せている。
元通り、という言葉のあとで
ここから先は、ドラマの結末にふれる。
ふたつの不倫は、どちらも終わる。ベランダで二葉は麻衣子に、うちのほうも落ち着いてきたみたいです、と言う。「お互い元通りですね」。麻衣子は、元通りになれるのかと問い返す。隣では、二葉家の暮らしが元通りになっていく。それが見えてしまう麻衣子には、耐えられない。ある夜更け、彼女は家を飛び出す。
河川敷で風にあたっている彼女を二葉が見つけ、橋の上から声をかける。先に伝えておきたいことがある、と彼は言う。この前、中山さんが言ってくれた浮き輪の話が、とても嬉しかった。「僕にとっても、中山さんがうきわでした」。麻衣子は、自分が浮き輪だったのかと、驚いて聞き返す。
二葉は、拓也にも居場所を知らせていた。拓也が迎えに来る。ふたりきりの帰り道、拓也は言う。最近の麻衣子はおかしい、「思ってることあるんだったら、ちゃんと話してよ」。麻衣子は答える。「ないよ」。拓也は彼女の手を取って、歩き出す。
この帰り道で、少し立ち止まってみたい。この数歩のなかに、この結婚のすべてが入っているからだ。妻に嘘をついてきた夫が、妻に正直さを求める。誰かの浮き輪だったと告げられたばかりの妻が、話すことはないと答える。この場面に悪人はいない。そして、本当のことを言っている人もいない。彼女を浮かせていた男が、浮き輪なしでは浮いていられなかった結婚へと、自分の手で彼女を送り返したのだ。それは、彼女を自分のものにしたい男のふるまいではない。かといって、ただのやさしさでもない。彼女がどの水のなかにいるべきかについての、ひとつの決断である。
そのあと麻衣子は、離婚について調べはじめ、「離婚なんてうちにできるかな。今まで無難な人生だったから」と口にする。けれど結局、離婚を思いとどまる。二葉と離れたくないのだ。このまま同じ場所にいて、遠くから彼を応援しよう、と決める。
これが、ものさしには見えない、ふたつめのことだ。浮き輪は麻衣子を浮かせ、同時に、彼女をちょうどその場所に留めてもいた。結婚のなかに、あの部屋に、仕切りのこちら側に。結婚をなんとか耐えられるものにしてくれるなぐさめがあれば、人はその結婚を続けてしまえる。それに気づくのに、皮肉はいらない。無理のないことであり、同時に、高くつくことなのだ。
ここから、ある沈黙の理由も見えてくる。麻衣子は、拓也の浮気をずっと前から知っていて、何も言わなかった。納涼祭では、自分が知ってしまったことを黙っていてほしいと、夫の相手に頼みさえした。この図書室は「『阿修羅のごとく』と、言っても負けない場所」という文章で、夫のもうひとつの家庭について長く黙っていた母の沈黙を、ひとつの決まりを抱えた方法として読んだ。女は、言ったら負け。麻衣子の沈黙は、別の形をしている。なぜ何も言わなかったのかと最後に問われて、彼女は、最初は傷つくのが怖かったからだと答え、それだけではなかったと言い添える。もうひとつの理由は、隣の部屋にあったのではないか。この文章は、そう考える。何も言わなければ、何も変わらずにすむ。仕切りのこちら側で、話ができるただひとりの人のそばにいられる。彼女の沈黙は、浮き輪の家賃のようなものだったのかもしれない。
カラオケボックスの三〇四号室
それから、会社が二葉を動かす。福岡への転勤が決まり、二葉夫妻は引っ越しの支度にかかる。二葉から麻衣子に、メッセージが届く。「来週の火曜日は空いてますか?」。
ふたりを引き合わせたのは会社で、ふたりを引き離すのも会社である。一度目の転勤で、麻衣子は広島と仕事を離れた。二度目の転勤で、浮き輪がいなくなる。転勤を決めるのは会社で、この建物の誰でもない。このドラマの静かな正確さは、ここにもある。結ばれないまま終わる恋は、いつでも人事異動ひとつで終わりうるものとして描かれ、実際にそうして終わる。
火曜日、麻衣子は少し緊張しながら、二葉が予約した場所へ向かう。カラオケボックスの三〇四号室。受付で予約の名前を聞かれ、彼女は、リアルサウンドで最終回を論じた佳香の言葉を借りれば、「好きな人の名前」を答える。部屋に入ると、ふたりは初対面のように自己紹介をする。彼の下の名前が「一」で、「はじめ」と読むこと。姉がふたりいること。麻衣子はそれを、初めて知る。学生時代の部活の話もする。どこかで彼女は、思わずこぼす。「名前を呼ばれるのいいなぁと思って」。
そして二葉は、話しに来たことを話しはじめる。「僕と中山さんのうきわの話です」。浮き輪は、自分でふくらませられないと、いずれ溺れてしまう。息ができなくなって、きっと苦しくなる。だから、自分でふくらませられるように、浮き輪がなくても泳げるようになれたらいいのではないか。二葉は、そう話す。二葉さんのうきわに頼りきりだった、ごめんなさい、と麻衣子が謝ると、自分もそれに救われていたのだと二葉は言う。頼られて嬉しかった。頼られたいという「下心」があった。「僕の方こそ甘えた男でした。ごめんなさい」。そして最後に、彼女を名字で呼ぶ。「中山さん。うきわ、今までありがとう」。
この話のなかで、三つのことが起きている。どれも、このドラマの主張を小さく映している。ひとつめは、告白である。線を守った男が、自分もしがみついていたと打ち明ける。彼が自分の動機に使う「下心」という言葉は、ふつう、人に対してひそかに抱くたくらみを指す。彼が打ち明けたたくらみは、必要とされたい、という願いだった。助けていた人が、助けていた相手を必要としていた。そして彼は、そう口にする。
ふたつめは、名前である。この一時間、部屋では下の名前が交わされ、麻衣子は自分の名前で呼ばれた。けれど話を締めくくるひと言で、二葉は名字に戻る。夫と同じ、彼女の姓に。ふたりが越えなかった線は、呼び方のなかにも、最後まで残っている。
みっつめは、帰り道だ。幸せに生きていこうと約束して、ふたりは同じタクシーで、少し遠回りをして帰る。その遠回りが、ふたりがしなかった不倫のすべてである。帰り道の、あと数分。
ふたつの結婚と、ひとつの告白
引っ越しの前、二葉は聖に打ち明ける。聖さんのほかに、愛しいと思った人がいる、と。そして、ごめんと謝る。これを隠していたら、きっと聖さんの前で笑えなくなると思うから、と。聖も謝る。自分にも、あなたのほかに愛しいと思った人がいた、と。ふたりは謝りあう。そして笑顔で中山家に挨拶に来て、麻衣子はベランダからふたりを見送る。
それから麻衣子は拓也に、浮気をしていたでしょう、と切り出す。ずっと知っていた、と。いつから、と拓也は聞く。どうして何も言わなかったのか、とも。「最初は傷つくのが怖かったから」と麻衣子は答え、でも、それだけじゃなかった、と言い添える。俺のことを本気で愛していたのか、と拓也が聞く。麻衣子は問い返す。その人の幸せを考えるだけで、自分が嬉しくなるような人が、たっくんにはいるか、と。たぶん自分たちには、そういうところが欠けていた。愛してはいたけれど、大切ではなかった。麻衣子はそう言う。
拓也は言い返す。自分は愛していたし、大切にしてきたつもりだ。欠けていたのは麻衣子のほうだ。一緒にいても向き合おうとしなかったし、好きだ、大切だと伝えても、何も返してくれなかった、と。毎日のごはんは、洗濯は、と麻衣子は聞く。拓也は言う。「それは生活だろ」。麻衣子は返す。「生活は愛情でしょ」。そして、自分たちは案外、似た者同士だったのかもしれない、と言う。思いあっているつもりで、結局はどちらも自分のことばかりだった、と。ふたりは離婚する。
ここに判決はいらない。拓也の不満は本物だ。隣の部屋に秘密を持っていた妻は、たしかに夫と向き合っていなかった。麻衣子の答えも本物で、それは結婚というものの、いちばん古い言い争いのひとつだ。言葉で伝える愛と、毎日のごはんや、洗ってたたむ洗濯物で示す愛とのあいだの言い争いである。ドラマはふたりのそれぞれに言い分を与え、最後のひと言を麻衣子に与える。そのひと言は、夫を責めない。自分も、そこに含めている。
ふたつの結末を並べると、同じ動きが見えてくる。どちらの結婚でも、誰かが、相手と同じだったと認めるのだ。二葉は妻に、自分にも誰かがいたと言い、妻も同じことを言う。麻衣子は夫に、自分たちは似た者同士だったと言う。同じ告白が、ひとつの結婚をつなぎとめ、もうひとつを終わらせる。どちらが幸せな結末なのかを、この文章は言わない。ドラマが見抜いているように思えるのは、どちらの結末にも、その告白が必要だったということだ。隠しごとの上には、続けることも、きちんと別れることも築けないのだ、と。二葉が打ち明けた理由も、隠していたら妻の前で笑えなくなる、というものだった。
麻衣子は、パートで働いていたクリーニング店に挨拶をし、自分の部屋を見つけ、指輪を外し、髪を切る。浮き輪と指輪は、どちらも「輪」という字を持っている。終わり近く、ふたつめの輪が外される。ひとつめの輪は、もう福岡へ行ってしまった。
法が数えるもの、ドラマが数えるもの
副題のものさしは、ただのたとえではない。日本の法律も、ものさしを持っている。民法は、夫婦の一方が離婚の訴えを起こせる場合を挙げ、その最初に「配偶者に不貞な行為があったとき」を置く。一九七三年、最高裁判所はこの不貞な行為の意味について、「配偶者のある者が、自由な意思にもとづいて、配偶者以外の者と性的関係を結ぶこと」だと判断した。これは、行為を測るものさしである。副題の「不倫未満」は、裁判所が引いた線と、ほぼ同じ場所に線を引いている。
実際の結婚について法律が何と言うかは、弁護士に尋ねるべきことで、ドラマについての文章が答えることではない。ここで言いたいのは、もっと狭いことだ。裁判所の言葉が定めているのは、行為である。二葉が妻に打ち明けるのは、ほかの人を愛しいと思った、という気持ちだ。それでも彼は打ち明け、妻は自分のことを打ち明けて応える。一度も触れ合わなかった恋と、触れ合った不倫とが並べて差し出され、ふたりは互いに謝りあう。まるで、はじめから同じはかりに載っていたかのように。
『花様年華』は、アンコール・ワットの寺院の壁の前で終わる。男は、言えなかったことを石の穴にささやき、泥で封じる。ウォン・カーウァイは、触れなかった恋を壁に託した。『うきわ』は、それを妻に託す。これが、このドラマが残すいちばん難しい問い、一度も触れ合わない恋も裏切りなのか、という問いへの答えである。こう読めば、その答えは、はいでも、いいえでもない。ドラマは、その恋を、傷つけるかもしれない相手にこそ告げなければならないものとして扱う。そしてふたつの結婚のうちのひとつでは、その告白が、結婚を救うものになる。
社宅と、広島の言葉と、名前
観る人がどこに立っているかで、響き方の変わる細部がある。日本で暮らす女性には、とりわけ重く響くかもしれないものが、ふたつある。
ひとつめは、夫の雇い主を中心に組み立てられた暮らしである。ドラマは、そういう暮らしそのものを物語の骨組みにしている。転勤のために手放した仕事、会社のものである部屋、隣に住む上司、駐車場の納涼祭、そして、すべてを終わらせる二度目の転勤。パートナーの仕事について、知り合いのいない街へ移ったことのある人なら、日本のなかでの移動であれ、日本への移動であれ、細部が同じでなくても、その形に見覚えがあるかもしれない。
ふたつめは、名前である。日本語を、育った家ではなく、教室や窓口で身につけてきた人にとって、これはいちばん身にしみる細部かもしれない。日本語では、大人どうしが何年も名字だけで隣り合って暮らせる。ドラマもそれを見せている。麻衣子は、打ち明け話をする相手を、最後の午後まで「二葉さん」としか知らない。その決まりを覚えるよりも時間がかかるのは、ようやく教えられたもうひとつの名前に、どれほどの重みがあるのかを知ることだ。麻衣子自身、社宅のなかでは少しよそから来た人である。東京郊外で広島の言葉を話し、自分のことを「うち」と言う。そしてドラマの最後の一時間で、ひとりの男の下の名前を知り、受付で彼の名字を答え、自分の名前で呼ばれるのはいい、と言う。結婚や仕事とともにやってきた名前で何年も呼ばれてきた人なら、あのひと言が何を差し出し、何を求めているのかを、そのまま聞き取るかもしれない。
そして、このドラマを、日本の結婚についての一般論として読まないでほしい。これは、日本の夫婦が沈黙で回っている証拠ではないし、抑制がこの国の美徳だという話でもない。プロデューサーが描きたかったのは、白か黒かに整理できない人たちで、この社宅の四人の既婚者は、まさにそうだ。ひとりひとりがそれぞれに違い、矛盾を抱え、ひとつの建物、ひとつの会社、ひとつの年のなかに生きている。
この読み方がまちがっているかもしれない理由
この読みには、まちがっているかもしれないところが少なくとも五つある。ひとつめは、疲れた読者がいちばん感じそうなものだ。
ひとつめ。抑制は彼のもので、代償を多く払ったのは彼女だった。彼は手を断り、ふたりの会話の条件を決め、河川敷では夫に居場所を知らせ、自分の結婚は手放さなかった。手を伸ばし、夜に飛び出し、最後に出ていったのは彼女だ。しかも彼は夫の上司で、この建物でいちばん失うものの大きい立場にいる。自分の立場のために女性の気持ちを管理した男と、それをやさしさと呼ぶドラマ。そう見る読者もいるだろう。この文章が返せる答えは、限られている。ドラマは彼に、自分もしがみついていたと告白させ、妻に打ち明けさせている。それでも、ふたりの負担が釣り合っていないのは本当で、彼のやさしさに腹を立てる読者は、まちがっていない。
ふたつめ。浮き輪というたとえは、それが名指す恋を、きれいに見せすぎているのかもしれない。恋を浮き輪と呼べば、それは道具になる。役に立ち、しぼみ、礼を言われて、しまわれる。浮き具ということにしてしまえば、恋は返しやすくなる。「うきわ、今までありがとう」は、このドラマでいちばん正直な一文とも聞こえるし、男がドアを閉めるときの、ずいぶん手際のいいやり方とも聞こえる。この文章は前者として聞く。後者を打ち消すことはできない。
みっつめ。物語の終わりに描かれる麻衣子の姿である。自分の部屋、外した指輪、切った髪。それは、自由になった女性を描くときの、ずいぶん古い画で、ドラマ自身の言葉より多くを語ってしまっているかもしれない。この図書室は「自由な女ほど孤独であるべき、という物語を疑う」という文章で、自立とは必要がないことではなく、供給する側に支配されないことだと論じた。そして、誰にも頼らないことにはそれ自体の画がないから、ひとりでいることが女性の自由の図像になったのだ、と。二葉の言葉は、その画より寛大だ。自分で浮き輪をふくらませることと、浮き輪なしで泳ぐことの、両方を差し出している。ドラマの結末は、後者のほうへ傾く。前者のほうがいいと思う読者の足もとは、しっかりしている。しかもドラマ自身が、その証人を用意している。自分の足で歩け、負けるなと言われて育ち、納涼祭のトイレで麻衣子と向き合ったあと、「外野の野次、気にするのやめたんで」と言うようになる福田である。
よっつめ。都合のよさである。ふたつの不倫は、隣の恋がそれを必要とするちょうどそのころに、そろって終わる。配偶者たちは退き、抑制に舞台を明け渡す。人を否定も肯定もしないドラマでも、何人かを、物語の都合で動く背景のように使うことはありうる。この文章は拓也と聖に彼ら自身の言葉を返そうとしたし、ドラマもいくらかは与えている。ベランダのふたりのほうが、多くを与えられている。
いつつめ。これは、この文章自身に向けたものだ。プロデューサーは、『うきわ』は「観る方に委ねる部分が大きい作品で、行間や余白、言葉にできない気持ちを言語化するのではなく、映像的に表現することを大切にしました」と語っている。登場人物の言葉の書き起こしから組み立てた文章は、作り手があえて頼らなかった層を読んでいることになる。あの言葉が交わされるあいだ、顔が何をしていたのか、沈黙が何を運んでいたのか、この文章には見えない。言葉については正しくて、ドラマについてはまちがっているのかもしれない。
この図書室が、ここから受けとるもの
三つある。どれも、決まりではない。
ふたりがどこまで進んだかは、もっともな問いだ。ふたりが守った線には、意味があった。その線が何をもたらしたかは、結末が示している。けれど、それだけが問いではないし、いちばん役に立つ問いでもないかもしれない。浮き輪は、ほかの問いを立てる。誰が誰を浮かせていたのか。誰の息が入っていたのか。その息が福岡へ転勤になったら、何が起きるのか。
必要とされたいというのも、人の必要のひとつだ。支える側に見えていた男が、最後に、自分もしがみついていたと言う。一方向にだけ流れるなぐさめは、見た目ほど多くない。寄りかかられている人も、寄りかかっているのかもしれない。
そして、ものさしより、言葉のほうが大事だ。ドラマは、不倫と、一度も触れ合わなかった恋に、同じ形の言葉を与える。救われていた。自分には資格がない。それは、誰かへの判決ではない。四人の既婚者が一緒に水のなかにいることを、そして誰も岸から裁けないことを言うために、ドラマが見つけた、いちばん飾らない言い方である。
だから一度だけ、あなたに言いたい。もしいま、誰かに浮かせてもらっているなら。隣人でも、友人でも、ほかの誰も様子を聞いてくれない一日の終わりに、聞こえてくる声でも。そこには、あなたなりの理由があるのだと思う。家にいるはずの人が帰ってこなくなって、この人は話を聞いてくれる。手を離せとは、ここでは言わない。ドラマが求めているのは、その浮き輪に誰の息が入っているかを知っておくこと。そしてどこかで、自分で息を吹きこむことを覚えはじめること。それだけだ。それは、誰も必要としないということではない。吸う空気のすべてを、いつ転勤になるかわからないひとりの人に頼らない、ということだ。
これは、ひとつのテレビドラマの読みである。登場人物であれ実在の人であれ、誰かを診断するものではない。誰の結婚についても、離婚についても、法的な立場についても、助言するものではない。ここで引いた法律の条文は、そこに書かれていることを示すために引いたもので、誰かの暮らしに当てはめるためのものではない。
手もとに残しておく問い
いま、あなたを浮かせているのは誰だろう。そこに入っているのは、誰の息だろう。
あなたが浮かせているのは誰だろう。必要とされることは、あなたに何をくれているだろう。
どこかに線を引いたことがあるなら、そのとき、何にだけはなりたくなかったのだろう。
誰かの前でもう一度笑えるようになるために、誰に、何を言わなければならないだろう。
あなたが自分で吸える空気は、どこにあるだろう。
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