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『紅夢』と、女たちを敵どうしにした掟
父を亡くし、実家の財産も失った十九歳の女学生が、高い塀に囲まれた屋敷に、主人の第四夫人として嫁ぐ。主人は毎晩、どの夫人のもとで夜を過ごすかを選び、その選択が、ほかのすべてを決める。提灯も、翌日の献立も、召使いたちの敬意も。映画は主人の顔をほとんど映さないし、映す必要もない。この文章は、女たちのあいだの争いを、彼女たちの性分ではなく掟のしわざとして読み、その掟が何を隠していたのかを問う。
夕方になると、陳家の屋敷の女たちは、今夜自分が数に入るのかどうかを知る。赤い提灯がともされるのは、ひとつの中庭の門だけだ。その門の内側では、年老いた召使いが足のマッサージを始め、その音が外まで聞こえてくる。ある批評家は、その響きが毎晩、屋敷じゅうにこだまする、と書いている。提灯のともった門の内側にいる女は、翌日の献立を選ぶことになる。召使いたちは、彼女に少しだけ気をつかうようになる。ほかの夫人たちは、暗いままの自分の中庭で、その音を聞く。選んだ男は、ほとんど姿を見せない。映画は、彼の顔を一度もはっきりとは映さない。
スンリェンは、この女たちのなかでいちばんの新参者だ。十九歳。学問を身につけた娘で、父は破産して亡くなり、継母に迫られて、富豪である陳家の主人の第四夫人として嫁いできた。オーストラリアの批評家エイドリアン・マーティンの記述によれば、映画が彼女を最初に見せるのは、唐突なクローズアップである。彼女は身をこわばらせたまま、画面の外にいる継母と、家を出て妾になることをめぐって言い争っている。やがて折れたとき、涙が頬をつたう。この文法は覚えておいていい。映画は最後までそれを守るからだ。決める者は、画面の外にいる。決められる者が、画面を埋める。
『紅夢』は、ふつう、夫の寵愛を争う妻たちの物語として紹介される。そのとおりである。ただ、ここではその争いを、一歩うしろから見てみたい。この映画がおそろしく正確に描いているのは、ひとりの男の選択が、毎晩人前でなされ、小さな特権として支払われるとき、その選択の届く範囲にいる女たちが、ひとり残らず互いの敵にされていく仕組みである。そして、いったん回りはじめた争いは、男の仕事をすっかり肩代わりする。彼は声を荒らげる必要もない。姿を見せる必要さえ、ほとんどない。嫉妬に見えるものは、掟が女たちを通して働いている姿なのだ。
掟は、何かを隠してもいる。この読みに立てば、隠されているものは三つある。掟の背後にいる男。掟が支えにしている暴力。そして、女たちははじめから互いの敵などではなかったのかもしれない、という可能性。この文章は、その両方を追う。掟がつくる争いと、掟が見えないところへしまいこむもの。女たちが互いに何をしたのかも、数えていく。映画自身が数えているからであり、何もかもを掟のせいにする読みは、屋敷が彼女たちに最後に残したもの、つまり自分で選ぶということまで、彼女たちから取りあげてしまうからだ。
読む前に、そして映画のあらまし
この文章は、結末まで含めて映画全体を扱う。終わりまでのあいだに、罰を受けたあとで命を落とす人と、殺される人が出てくる。どちらも詳しくは書かない。結末に入るところは、数節先で改めて知らせる。先に映画を観たい人は、そこで読むのをやめて、観終えてから戻ってくればいい。
『紅夢』の監督はチャン・イーモウ(張芸謀)、脚本はニイ・ゼン(倪震)、原作はスー・トン(蘇童)の中編小説『妻妾成群』である。スンリェンをコン・リー、第三夫人メイサンをホー・ツァイフェイ、第二夫人ヅォユンをツァオ・ツイフェン、スンリェン付きの召使いエンアルをコン・リン、陳家の主人をマー・チンウーが演じる。撮影はチャオ・フェイ(趙非)、上映時間は百二十五分。撮影地は山西省、清朝時代の大邸宅である喬家大院だ。資金は台湾の配給会社から香港の子会社を通じて出ていて、一九九二年のアメリカの映画評がそのことに触れている。製作総指揮には、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)の名がある。
一九九一年九月、ヴェネツィア国際映画祭で初上映されて銀獅子賞を受け、アカデミー賞外国語映画賞には香港代表としてノミネートされた。中国本国では、前作『菊豆』に続いて上映禁止となった。一九九二年六月にテキサス州オースティンの週刊紙に載った評は、この映画が自国では上映できないと書いている。のちの記述は、禁止が数年にわたったこと、その後の公開もせいぜいかぎられたものだったことを伝えている。
この文章を書くにあたって、映画そのものは観ていない。筋については、作品の公表された記録と、一九九二年以来書かれてきた批評に拠った。台詞は要約して伝えており、字句どおりの引用ではない。
物語に入る前に、もうひとつ。これは、一九二〇年代のひとつの屋敷を、ひとりの作家とひとりの監督が想像した映画である。誰かが実際にそう生きた記録ではない。当時のことであれ今日のことであれ、この文章は、中国や中国の女性について何ひとつ主張しない。映画でいちばん有名な細部が、そのことをよく示している。提灯は、映画が生み出したものだ。オーストラリアの映画誌に二〇一八年に寄稿したラーダ・オメーラは、チャン・イーモウ初期の作品の中心にある儀式は、歴史上の先例にきちんと基づいたものではなく、映画のためにつくられたものだと述べている。つまり提灯は、この映画の発明なのである。それも、きわめて正確な発明だ。
毎晩、人前でなされる選択
映画が組み立てる制度は、こうだ。主人は毎日、その夜をどの夫人のもとで過ごすかを決める。選ばれた夫人の中庭には、提灯がともされる。彼女は足のマッサージを受け、翌日の献立を選ぶ。そして寵愛がつづくあいだ、召使いたちは、ほかの夫人には向けない敬意を彼女に向ける。
どれも大きなものではない。マッサージはマッサージであり、献立は献立だ。けれど、それらを合わせたものが、この女たちの暮らしの経済のすべてである。そして映画の発明は、そのひとつひとつを人目にさらしたところにある。主人の選択は、男とひとりの妻のあいだの私事ではない。提灯の光で屋敷じゅうに知らされ、夜にはマッサージの音となって響き、翌日には食卓にのぼる。屋敷は毎晩、順位表を貼りだす。女たちはひとり残らず、そこに自分の位置を読む。
だからこの文章は、主人の選択を制度として扱う。見つめるのは、その選択が、門の外にいる全員に何をするかである。誰の献立が料理され、誰の召使いが顔を上げ、誰の中庭が暗いままか。スンリェンは十九歳でこの屋敷に来る。屋敷が最初に彼女に教えるのは、序列である。
スー・トンの小説の原題『妻妾成群』は、女たちを名指している。中国文学の翻訳を紹介する英語のサイトは、これを、妻と妾が群れをなす、という意味に訳している。映画の題は、合図を名指す。原題の『大紅燈籠高高掛』は、大きな赤い提灯が高々と掛かる、という一行だ。英語圏では、のちに小説までもが映画と同じ英題で出版された。映画が生み出した儀式が、いまでは小説に名前を与えているのである。題の付けかえには、この映画のやり方が小さく収まっている。目を、女たちから、女たちを並べる装置へと移すこと。
嫉妬に見えるものは、算術である
このあと起きることを指して、ふつうは嫉妬という言葉が使われる。事典類はこの映画を、四人の妻が年老いた夫の寵愛をめぐって争う物語として要約する。エイドリアン・マーティンは一九九三年、わずかな特権を手に入れようと必死になる女たちのあいだで交わされる、欺きと出し抜きの陰湿な遊戯、と書いた。
マーティンの言葉のなかで手放さずにおきたいのは、わずかな特権、のほうである。ふつうの意味での嫉妬は、愛についての感情だ。愛する人が、ほかの誰かを好むのではないかという恐れ。陳家の女たちが夫に何を感じているのか、作品の記録は語っていない。けれど、彼女たちが争っているものははっきりしている。配給である。中庭は四つ、ともる提灯はひと組。どの夜をとっても、ひとりの得は、そのまま残りの者の損になる。映画が組み立てる屋敷は、彼女たちに、ほかに引き出せる口座をひとつも与えていない。スンリェンには、頼れる実家の財産もない。彼女の立場が生まれうる場所はこの屋敷だけで、そこで通用する通貨は、ひとりの男の選択しかない。
そういう条件のもとでは、争いは性格の欠点ではない。算術である。争うことを拒んだ妻がいたとしても、彼女は気高いのではなく、毎晩、暗いままでいるだけだ。だからといって、このあと起きる残酷な行いが、誰かの務めになるわけではない。そのことには、のちにかならず立ち戻る。ただ、最初にどこを見るべきかは変わる。なぜこの女たちはこうふるまうのかと問う前に、掟が彼女たちに、ほかに何をする余地を残していたのかを、まず問うてみたい。
掟には、もうひとつ性質がある。屋敷をひとりでに回らせているのは、この性質だ。掟は、知っていることを武器に変える。召使いが部屋に隠している、禁じられた提灯。本当ではない妊娠。屋敷の医師との密通。この映画のなかの秘密は、どれも、しかるべき相手に届けば、ひとつの罰と引き換えになる。罰は掟が用意する。知らせは女たちが運ぶ。そのおかげで、主人はどんな手間もかけずにすむ。
四人の女と、ひとつの掟
屋敷の女たちはそれぞれ、掟に置かれた場所から、その掟と向きあう。
第一夫人は年老いて頑なで、この読みに立てば、もう争いから降りているように見える。彼女の立場は、もう提灯では数えられていないのだろう。第二夫人ヅォユンは、若さと美しさをほめ、絹を贈ってスンリェンを迎え、メイサンには気をつけろと忠告する。表向きは、いちばん優しい夫人だ。けれど、スンリェン付きの召使いの部屋に隠された呪いの札に、スンリェンの名を書いたのが彼女だったことを、スンリェンはやがて知る。ヅォユンにとって優しさとは、相手の様子が見えるところまで近づくための手立てなのだ。
第三夫人メイサンは、妻になる前は京劇の歌い手だった。もういちばん若くもなく、いちばんの寵愛を受けてもいない。はじめはスンリェンに冷たい。けれど、スンリェンがヅォユンの髪を切ってやりながら、その耳を切ったと聞くと、メイサンはふたつのことを教える。ヅォユンがかつて、ともに身ごもっていた自分に毒を盛ろうとしたこと。そして、立場を守るには男子を産むしかない、ということ。
その二つ目の一文は、この屋敷の憲法である。しかもそれを口にするのは、黙っていることもできたはずの競争相手なのだ。男子を産んだ妻の立場だけは、提灯にも奪えない。この図書室の「『チャタレイ夫人の恋人』と、世話と跡継ぎしか求められなかった妻」は、妻に世話と子どもを求めながら、彼女が何を望むのかは一度も尋ねなかった結婚を読んだ。陳家の屋敷が求めるものは、それよりさらに少ない。世話さえ求めない。求めるのは男子だけで、男子が生まれるまでは、妻の立場をひと晩ずつ配給し、屋敷じゅうの目にさらしつづける。
スンリェン付きの召使いエンアルは、自分が夫人になるつもりでいた。そして、仕えるべき相手を恨んでいる。部屋には、禁じられた提灯を隠している。彼女を、意地の悪い召使いとして読むのはたやすい。けれど、掟は彼女のところにも届いている、と見るほうが正確だろう。この読みに立てば、屋敷が彼女に見せてきた、上へ行くためのただひとつの道は、同じ提灯だった。だから彼女は、誰の目にも触れない場所に、自分の提灯をしまっておいた。
そして、いちばんの新参者であるスンリェンが、誰よりも早く覚える。学問のある娘であり、この屋敷は飲みこみの早い者に報いる。彼女は呪いの札を見つけ、自分の名を書いたのが誰の手かを知り、ヅォユンの髪を切ってやりながら、その耳を切る。彼女は、屋敷の言葉を覚えつつある。親切のさなかに傷を負わせることのできる、あの言葉を。
映画が必要としない顔
そのあいだずっと、主人の姿はほとんど見えない。顔ははっきり映らない。一九九二年のオースティンの評は、彼はカメラにほとんど映されない、と書いた。同じ年、シカゴの週刊紙で評したジョナサン・ローゼンバウムは、物語がおもに正面からの引きの画で撮られていることを指摘している。
マーティンは、その方法を反復のなかに見た。チャン・イーモウはすべてを儀式めいた反復によって伝える、と彼は書く。銅鑼を打つこと、提灯をともすこと、人が部屋に入り、出ていくときの、その仕方。そして、そうした小さな、逃れようのない身ぶりを通して、主人は一点の曇りもない専制の仕組みを保っているのだ、と。
映画が彼の顔を映さないのは、その仕組みに顔が要らないからだ。それは様式の飾りではない。この映画の主張そのものである。いちいち本人が出てこなければ保てない専制は、弱い専制だ。陳家の屋敷は、彼がいなくても起きることで回っている。ともされる提灯、始まるマッサージ、打たれる銅鑼、言いつけられる献立。主人が口を出すときも、この読みに立てば、掟がすでに決めたことを追認しているにすぎない。彼の顔が映れば、目はかえって、力が本当にあるところからそれてしまうだろう。力は、女たちが互いを見る、その見方のなかにある。
だから映画が見せてくれる顔は、女たちの顔である。私たちは、彼女たちが互いを見るところを見る。観る側にとっても、それは残酷な取り決めだ。二時間のあいだ、私たちは、屋敷が女たちの目を向けさせたい方向を見つづける。横を。互いの顔を。
ここから結末へ。黒い覆いと、雪
ここから先、この文章は、映画の残りを結末まで書く。
スンリェンは妊娠を装う。掟のなかでは、彼女に打てるいちばん理にかなった手だ。男子だけが立場を守ると教えられた彼女は、掟が報いるただひとつのものを、手に入れたと偽る。ヅォユンとエンアルが、それを見破る。妊娠が偽りだという証拠をエンアルから受け取ったヅォユンは、心配するふりをして主人に医師を呼ばせ、医師が嘘を暴く。主人は、スンリェンの提灯に黒い覆いをかけさせる。
黒い覆いは、寵愛と同じくらい公然となされる降格である。この読みに立てば、提灯は取り外されない。覆われるだけだ。屋敷は、彼女の立場のしるしを取りあげはしない。しるしを暗くしたまま、そこに残しておく。誰もが、彼女の失ったものを読めるように。
そしてスンリェンは仕返しをする。その相手は、自分より下にいる者だ。彼女は、エンアルの隠していた提灯を暴く。エンアルは、雪のなかでひと晩ひざまずかされる。病に倒れ、そして死ぬ。
それがどう起きたのかを見てほしい。スンリェンは告げた。あとはすべて、掟がやった。召使いの部屋に提灯を置くことは禁じられていた。罰を与えたのは屋敷であって、スンリェンではない。雪は、誰のものでもない。その連なりのどの段も、主人を必要としなかった。主人がその場にいる必要さえなかった。ここが、この映画の残酷なところであり、怒りを向けるに値するところだ。宛先ははっきりしている。屋敷がそれまで召使いに見せてきた、ただひとつの、上へ行く望み。それを取りあげ、人前で罰する罪に変えた掟である。
けれど、そこで止めるのは不誠実だろう。スンリェンは告げることを選び、エンアルは死んだ。掟は武器をつくり、それをスンリェンの手の届くところに置いた。スンリェンは、それを手に取った。どちらの文も本当であり、一方でもう一方を打ち消すことはしない。スンリェンに寄せる共感が、あとの文を消すことはない。そしてあとの文は、彼女がどういう人間かを裁くものでもない。
エンアルについて、もうひとつ書いておく。この映画は、彼女を置き去りにしたまま観終えることができてしまうからだ。彼女は、屋敷がそこにいるすべての女に望むよう教えたものを、そのとおりに望んだことで罰せられたのだ。
屋上の部屋と、見なかったことにされたもの
二十歳の誕生日、酔ったスンリェンは、メイサンが屋敷の医師と通じていることを口にしてしまう。メイサンは、黙っているよう彼女に釘を刺していた。スンリェンは黙っていた。酒が入るまでは。
ヅォユンが、ホテルで医師と一緒のメイサンを押さえる。スンリェンは、メイサンが召使いたちに、屋上の鍵のかかった小部屋へ引きずられていくのを目にする。かつて不義の女がふたり、命を奪われた部屋だ。メイサンは、そこで殺される。引きずられていくメイサンを前に、ヅォユンは、教えてくれてありがとうとスンリェンに礼を言う。
人殺し、とスンリェンは叫ぶ。主人は、お前は何も見なかった、と彼女に言う。
この一文に、掟のすべてがある。それまで掟は、寵愛を分け与えていた。ここで掟は、何が起きたのかを決める。屋上の部屋は、屋敷が否定するものの保管庫だ。メイサンの前にふたり、そして今度はメイサン。提灯とマッサージと献立の経済は、ひとつの脅しの上に立っている。その脅しは、屋上にしまわれている。そして、何を見てよいかを決める男が、自分の口で、その掟を言う。
ヅォユンの礼の言葉にも、目を留めておきたい。陳家の屋敷では、感謝もまた通貨である。その礼は、いわば、耳寄りな話を教えてくれた同業者に商人が言う礼である。そしてその礼が、起きたことのなかにスンリェンを封じこめる。彼女はもう、告げた者なのだ。ふたりの夫人のあいだに見いだせる、いちばん結びつきに近いもの。メイサンがスンリェンに本当のことを話したことと、スンリェンがメイサンのために黙っていたこと。それが、酔った一言とひとつの礼によって、正反対のものに変えられてしまった。
主のいない中庭にともる提灯
スンリェンが次にすることは、この映画でいちばん奇妙で、いちばん勇敢なことだ。彼女は、主のいないメイサンの中庭に提灯をともし、メイサンの歌声のレコードをかける。召使いたちは、幽霊が出たと騒ぐ。
これを、証言として読んでみたい。お前は何も見なかったと言われたスンリェンは、屋敷がこれまで受けつけてきたただひとつの言葉で答える。屋敷自身の言葉である。提灯は、ひとりの女がそこにいて、数に入っていることを意味する。彼女はそれを、屋敷が消した女のためにともし、その女の声を部屋に戻す。屋敷自身の合図による、公然の声明だ。メイサンは、ここにいた。屋敷は、それを幽霊として聞く。
家の掟が証人をどう扱うかが、ここにある。掟は、争いも、罰も、殺害さえも、のみこむことができる。どれも掟を通って起きるからだ。のみこめないのは、見たものを、見なかったとは認めない女である。だから証人の声明は幽霊話になり、やがて証人そのものが、ひとつの話になる。
翌年の夏、主人は第五夫人を迎える。正気を失ったスンリェンは、女学生のころの服を着て、屋敷の中庭をさまよっている。
映画は、そのさまを見せる。この文章は、それに名前をつけることも、説明することもしない。気づけることは、ふたつある。ひとつは服だ。彼女は、掟が始まる前の自分を、もう一度身にまとっている。門をくぐってやってきた、あの女学生を。もうひとつは、マッサージである。あの音は、別の門の内側で、別の女のために、また鳴りはじめている。その女はもう、屋敷を音から学びはじめている。結末が見せるのは、スンリェンの苦しみだけではない。仕組みが続いていく、ということでもある。そしてその仕組みは、続いていくために、特定の誰かを必要としなかった。エンアルも、メイサンも、スンリェンも。必要だったのは、掟と、五人目の妻だけだった。
掟が隠していたもの
映画の曲がり角を並べてみると、掟が隠していたものは三つになる。
ひとつ目は、男である。掟は、女たちの目をすべて横へ、ほかの女たちのほうへ向けさせ、決めるただひとりの人物からそらせる。映画のカメラも、彼の顔を映さないことで、私たちに同じことをさせる。観終えるころ、私たちは主人の顔よりも、夫人たちの顔をはるかによく知っている。屋敷は、まさにそのように建てられている。女たちには互いの顔がくっきりと見え、男は、全員がその下で暮らす空模様のようなものになる。
ふたつ目は、暴力である。提灯や献立は特権に見えるし、ある意味では特権だ。けれどそれは、屋上に鍵のかかった部屋のある屋敷の特権であり、提灯を分ける掟は、誰を屋上へ連れていくかを決める掟と同じものだ。中庭の美しさは本物である。その美しさの足もとにあるものも、本物である。
三つ目、掟がいちばん隠しておかなければならないもの。それは、女たちがみな同じ立場にいる、ということだ。誰もが、ひとりの男から立場を配給されている。誰もが取り替えのきく存在であり、第五夫人がそれを証明する。争いは、彼女たちがそのことに気づくのを、気づいたとしても動くのを、妨げる。メイサンは、屋敷の本当のことをスンリェンに話した。競争相手なら、黙っていてもよかったはずのことを。スンリェンは、取引に使えたはずのメイサンの秘密を、守った。いくつかの場面のあいだ、ふたりの夫人は同じ側に立っていた。屋敷はそれを壊さなければならず、そして壊した。それも、ふたりのうちのひとりを使って。
この図書室の「『メイド・イン・ヘヴン ~運命の出会い~』と、取引でしか手に入らなかったもの」は、三つの言葉を分けておいた。本来受け取ってよいもの、取引して手に入れるもの、そして与えられるしかないもの。陳家の屋敷では、一つ目の言葉が意味をもたない。受け取ってよいものは何ひとつなく、妻の提灯でさえ、ひと晩で覆われてしまう。ほとんどすべてが取引される。秘密は罰と、妊娠は立場と、引き換えられる。メイサンが本当のことを話したのは、戦略だったのかもしれないし、見返りを求めずに与えたものだったのかもしれない。どちらだったのかは、わからない。けれど、医師のことをめぐるスンリェンの沈黙だけは、この読みに立てば、屋敷のなかで売り物ではなかったただひとつのものだった。そしてヅォユンの礼が、それをあとから、ひとつの売り買いに変えてしまった。
争いにつけられる名前
女どうしの言い争いは、物語がはるか昔から描いてきたものであり、とりわけ読み違えられやすいものでもある。言い争いは目に見えるが、掟は見えないからだ。
観る者がつい引き出したくなる結論を、身もふたもなく言い表す言葉が、日本語にはある。女の敵は女。この言い回しへの反論として、陳家の屋敷ほど強いものを、ほかに知らない。屋敷の女たちが互いに優しいからではない。優しくはない。彼女たちの敵意がどこから来るのかを、一歩ずつ見せるからだ。その敵意の決まりごとを書いた者がいて、それは女たちの誰でもない。この言い回しは、主語を取り違えている。
この図書室の「『阿修羅のごとく』と、言っても負けない場所」は、一九七九年の東京のある家族をたどった。そこでは、女たちの言い争いについての最後のひと言が、夫に与えられる。女は阿修羅だ、と彼は言う。外側では仁義礼智信を掲げながら、人の悪口を言うのが好きな神様なのだ、と。あの文章は、題名が男のものであること、そしてドラマが最後のまなざしを女たちに渡していることを指摘した。そして、居心地の悪い指摘をひとつ受けとめてもいた。ああした暮らしの仕組みは、その相当の部分が女たちによって保たれていて、愛情とともに手渡されていく、と。『紅夢』が見せるのは、そうした夫のひと言の裏側にある機械である。夫の立つところから見れば、陳家の妻たちは阿修羅に見えるだろう。掟の内側から見れば、彼女たちはひとり残らず、掟が報いることをしているだけなのだ。
マーティンの言う陰湿な遊戯は本物であり、映画はそれをやわらげない。けれど、遊戯には規則があり、その規則を書いた誰かがいる。
日本で観るということ、三十年を隔てて
『紅夢』は、ノミネートされたアカデミー賞の授賞式から二週間とたたない一九九二年四月十一日に、日本で公開された。配給は東宝東和である。そして二〇二四年十二月二十七日からは、高精細に修復された版が、チャン・イーモウがコン・リーと組んだ初期三作品の特集上映として、シネマート新宿ほかでかかった。
三つの題名は、三つの方向を指している。小説の題は女たちを、映画の原題は合図を、そして日本語の題は夢を名指す。この日本語の題を誰がなぜ選んだのかは、わからない。そのことについては、何も主張しない。けれど、ほかのふたつと並べてみると、示唆に富んでいる。紅い夢とは、提灯が売っているもののことではないか。選ばれるという夢である。毎晩あらためて差し出されるその夢のために、妻たちは暗がりのなかで、誰が選ばれたかを告げる音に耳をすませつづける。この題は、目を、機械から、その機械を動かしている夢へと移す。
日本で観る人が、自分の暮らしのなかに妾を見つけることはまずないだろうし、見つかるはずだと言われる筋合いもない。見つかるかもしれないのは、仕組みのほうだ。その仕組みには、塀に囲まれた屋敷はいらない。ひとりの人の承認だけが通貨として通用し、何人もがそれを待っているところでは、待つことは、掟の問題に見えるよりずっと前に、性格の問題に見えてしまう。女性がひとりずつしか引き上げられない職場。親の目が、きょうだいのあいだを行き来する家族。ひとりの人の関心を軸にまとまっている友人の輪。この映画は、そのどこにでも使える心得をひとつ教えてくれる。どんな女たちが言い争っているのかを決めつける前に、提灯を探し、それをともしている者を探すこと。
だからといって、この映画が中国の肖像になるわけでも、日本の肖像になるわけでもない。この文章は、どちらの国も、もう一方の上に置かない。
この読みが外れているかもしれないところ
この読みが外れているかもしれない点は、少なくとも四つある。五つ目は、書いている側に向けたものだ。
第一に、寓意。公開当時の批評家の何人かは、これを政治として読んだ。一九九二年、ローゼンバウムは、この映画は中国の封建制をはっきりと批判し、同時代の中国を間接的に批判していると書き、オースティンの評は、時代遅れの老人たちと、中国を支配する有害な伝統についての、ひそかな寓意を読みとった。マーティンは、すぐれた政治的寓話と呼んだ。二〇〇四年、オーストラリアの同じ映画誌でデイヴィッド・ネオは、この映画の女たちは、表現の自由を認めない権威主義的な政府に抑圧された中国の人々を表しており、映画は天安門事件を、暗号のかたちで、しかし明らかに指していると論じた。二〇一八年にはオメーラが、これらの儀式は一九九〇年代の中国で支配的だった社会的な力のありようを象徴しているのかもしれない、と述べている。彼らが正しいなら、この文章は、寓意の乗り物にすぎない物語を、寓意の中身と取り違えたことになる。
これに対する答えは、限られたものになる。寓意が働くのは、文字どおりの物語が、それ自体として成り立っているときだけだ。そしてこの物語は成り立っている。これは結婚のなかの女たちの物語であり、国家の物語としても読めるからといって、そうでなくなるわけではない。とはいえ、寓意の読みには、目を留めておくべきこともある。女たちがひとつの国の人々を表すものとして読まれるとき、彼女たちは何か別のものの比喩になり、雪のなかの召使い、屋上の妻という、それぞれの傷は記号になる。この文章は、彼女たちを女たちのままにしておこうとした。映画がどちらの読みを意図しているのかは言えないし、作り手が何を意図したかについても、何も主張しない。
第二に、発明された儀式と、外からのまなざし。提灯は映画の発明である。オメーラの記述によれば、中国のジャーナリスト戴晴(ダイ・チン)は『紅夢』の儀式を攻撃し、映画の文化的、歴史的な細部に写実性が欠けていることは、文化の誤った表象にあたると論じた。それを、この映画のたどった道と並べてみる。台湾から香港を経た資金、ヨーロッパの映画祭での初上映、アメリカの賞へのノミネート、本国での上映禁止。この映画は、赤い光と残酷な風習から成る、美しく発明された古い中国を世界に売ったのであり、日本で書かれたこの文章は、それを買ってしまったのだ。批評家がそう言うのは、もっともなことだ。これには、こう答えてみたい。その発明があるからこそ、この文章は映画を、記録としてではなく仕組みとして読むのだ、と。けれど、この異論は書き手だけでなく、読み手にも届く。日本でこの映画を観る人も、この映画を美しいと感じた観客の一部なのだ。
第三に、加担。オースティンの評は、この映画に、人々が自らの抑圧にイデオロギーの面で加担する物語を見た。ローゼンバウムは、妻たちと女の召使いたちが互いを陥れることに人生をほとんど捧げていると書き、ヒロインを、チャン・イーモウの前の二作でコン・リーが演じた女たちより、共感しにくい人物とした。この文章は反対側、掟のほうに寄りかかってきた。その危うさは本物である。すべてを掟のせいにする読みは、女たちから選択を奪い、それとともに、自分の意思で動く人間であることまで奪ってしまう。ヅォユンの礼は、彼女自身のものだった。スンリェンが告げたことも、彼女自身のものだった。この文章はそれをはっきり書こうとしてきたが、それでもまだ甘いと思う読者は、間違っていない。
第四に、美しさ。この映画は、映像の美しさで名高い。眺めて美しい牢獄は、観る者に、それを賛嘆することを教えてしまうかもしれない。ローゼンバウムは、この映画が差し出す世界を冷たく、遠く、息苦しいものと受けとめ、感情の解放がほとんどないと書いた。それほどの距離を保った映画は、女たちが互いを破滅させていくさまを、ひとつの模様として観客に眺めさせ、その模様を楽しませてしまうかもしれない。この文章は、その距離こそが要点だと論じてきた。それは同時に、問題でもあるかもしれない。
第五に、書き手の遠さ。この文章は、中国語の映画を、英語と日本語で書かれたものを通して読んでいる。そうした記述を越えるところは解釈であり、そのように読まれるべきである。
この図書室が手元に残すもの
三つのことを、分けて残しておく。
争いは、つくることができる。ひとりの人の選択だけが立場を決め、それが人前で配られ、ひと晩で取り消されることもあるとき、それを待つ人々は、どんな人柄であれ、互いに向かいあわされる。そしてその言い争いは、性格に見える。そういう争いのなかにいる女たちを裁く前に、掟を探し、それが誰の役に立っているのかを探すこと。たいていその人は、その場にいない。
家の掟は、自分が何のためにあるのかを隠す。ここで隠されていたのは、ひとりの男と、鍵のかかった部屋と、ひとつの結びつきだった。探す価値があるのは、最後のものだ。陳家の掟は、どれほどの争いにも耐えられた。耐えられなかったのは、屋敷の女がふたり同じ側に立つことと、なされたことを見て、見なかったとは言わない女だった。
争いは、選択を消さない。掟は武器を手の届くところに置き、それを使うかどうかは女たちが決めた。ある女がなぜ残酷なことをするのかを理解することは、その行いを許すことではない。この読みに立てば、映画はその二つを混同していない。
もしあなたが、第三の誰かが配るもの、居場所や、ひと言の承認や、少しばかりの立場をめぐって、別の女と自分を比べている自分に気づき、そのときの気持ちを恥じたことがあるなら、その恥ずかしさの一部は、あなたではなく、取り決めのほうが負うべきものかもしれない。その気持ちは本物だし、それをどうするかも、あなた自身のことだ。それでも、条件を決めたのは誰なのかと、一度問うてみるといいかもしれない。そして、あなたが見つめているその女も、同じ理由であなたを見つめているのではないか、と。ふたりは、同じ立場にいるのかもしれない。陳家の屋敷が、女たちに決して気づかせたくなかったのは、そのことだった。
この文章の拠りどころと、主張しないこと
これは一本の映画の読みである。登場人物を含めて、誰のことも診断しないし、読む人の結婚や家庭についての助言でもない。
作品の公表された記録のほか、それぞれ発表された場で読んだ批評と参考資料に拠っている。一九九二年のジョナサン・ローゼンバウムとマージョリー・バウムガーテンの評、一九九三年のエイドリアン・マーティンの評、オーストラリアの映画誌に載った二〇〇四年のデイヴィッド・ネオと二〇一八年のラーダ・オメーラの論考、そして銀獅子賞とノミネートについての、ヴェネツィア国際映画祭とアカデミーそれぞれの公式の記録である。批評家が伝える場面は、その批評家の説明として紹介した。台詞は要約して伝えている。
当時のことであれ今日のことであれ、中国や中国の女性について、どこの国のものであれ妾の歴史について、そしてチャン・イーモウやスー・トンの意図について、この文章は何も主張しない。映画の儀式は、映画の発明として扱った。
ここに名前の出る監督、演者、批評家、映画祭は、いずれもこの媒体と関係がなく、この文章を推奨してもいない。
日本で読んでいる人へ。配偶者やパートナーから暴力を受けているなら。「#8008」に電話をすると、お近くの都道府県の配偶者暴力相談支援センターにつながります。ご相談は、各機関の相談受付時間内に限ります。ご利用には、一般の固定電話にかけたときと同じ通話料がかかります。
最後に、いくつかの問い
あなたの立場を決めているのは、誰の選択だろう。その人は、一度でも姿を見せる必要があっただろうか。
掟がしたことのために、ひとりの女に腹を立てたことはないだろうか。
競いあっている相手と同じ側に立つには、何を競うのをやめなければならないだろう。
見たものを、見なかったと言われたことはあるだろうか。そのとき、あなたはそれをどうしただろう。
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。