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『チャタレイ夫人の恋人』と、世話と跡継ぎしか求められなかった妻

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戦争から下半身不随で帰ってきた夫は、身のまわりの世話を妻にしかさせず、やがて跡継ぎを望んで、妊娠のためだけに愛人をつくってはどうかと持ちかける。この結婚は世話と子どもを求めても、彼女が何を望むかは一度も尋ねない。彼女がはじめて彼女自身として求められるのは、森番の小屋でのことだ。

一九五七年三月十三日、最高裁判所の大法廷は、一冊の翻訳小説をめぐる事件で判決を言い渡した。判決文は、その小説の話の発端を、第一次大戦で負傷して性的機能を失った若い貴族クリフォードとその妻コニーの、ラグビー邸での「彼女にとつて不自然で退屈な生活」だと要約している。「不自然」も「退屈」も、裁判所の言葉である。それでも裁判所は、その暮らしを「彼女にとつて」と、彼女の側から言い表していた。そのうえで、それを描いた本の翻訳を猥褻文書と認め、訳者と出版社社長の有罪を確定させた。

判決から六十五年後、同じ物語が映画になった。二〇二二年の『チャタレイ夫人の恋人』は、判決が一行で要約したその暮らしの中身を、コニーの側から、はじめから見せていく。

初夜の翌日、夫は戦地へ戻る。数週間後、彼は下半身不随となり、性的な機能も失って帰ってくる。夫は、身のまわりの世話を妻にしかさせない。彼女自身にも歓びをもたらしうるほかの触れあいを彼女が差し出しても、それは拒む。悲しみが頑なさに変わるにつれて、妻を外へ出そうとしなくなる。そして跡継ぎを望む彼は、ひとつの提案をする。妊娠のためだけに、愛人をつくってはどうか、と。

ふたつの求めを並べてみると、同じ形をしている。ひとつめは彼女の手を求め、ふたつめは子どもを求める。どちらも領地が必要とするもののために彼女を使い、どちらにも、彼女が何を望んでいるかが入りこむ余地はない。この結婚が彼女に求めたのは、世話と跡継ぎだけだった。

この文章が読みたいのは、その形と、映画がその外側に見つける場所のことだ。森番の小屋。初夜のあとではじめて、誰かが、彼女の差し出せる何かではなく、彼女自身を求める場所。この文章の読みは一行で言える。必要とされることは、求められることと同じではない。結婚は前者で満ちていながら、後者の入る余地をまったく持たないことがある。

そして映画は、もう一段むずかしいことをする。コニーが身ごもると、あの取り決めが戻ってきて、小屋さえも、彼女が使われるもうひとつの場所に変えてしまいかける。この映画を真剣に受けとめる理由は、そこにある。

映画のこと、そして読み進める前に

『チャタレイ夫人の恋人』は二〇二二年のイギリスとアメリカの映画で、監督はロール・ドゥ・クレルモン=トネール、脚本はデヴィッド・マギー。コニーをエマ・コリン、森番のオリバー・メラーズをジャック・オコンネル、夫のクリフォード・チャタレイをマシュー・ダケットが演じ、看護人のボルトン夫人をジョエリー・リチャードソン、コニーの姉ヒルダをフェイ・マーセイが演じている。二〇二二年九月二日にアメリカのテルライド映画祭で初めて上映され、十一月二十五日に英米の一部の映画館で公開、十二月二日からネットフリックスで配信されている。日本での題名は、一九五〇年代に裁かれた伊藤整の翻訳と同じである。

原作はD・H・ロレンスの小説で、一九二八年にフィレンツェで私家版として刷られた。その全文がイギリスで公然と出版されたのは一九六〇年、しかも裁判を経てからのことで、日本では翻訳が裁かれた。ふたつの裁判については後で書く。どちらも、この映画が描いているのと同じことをめぐる裁判だったからだ。

監督は、脚本について自分がした提案は、物語をコニーを通して語ること、彼女の感情の経験と視点のなかにとどまることだった、と語っている。映画はその約束を守り、この文章もそれに従う。ただし、後で立ち返る留保がひとつある。結婚の片側から語られる映画は、もう片側に割く場所が少なくなる。そして、もう片側にいるのは、障害のある男性なのだ。

先に断っておく。この文章は、原作とは異なる結末を含めて、映画の全体にふれる。映画は性をはっきりと描いており、それは作り手たちの意図でもあるが、その場面はここでは描写しない。この文章が扱うのは、その場面を取り囲むもの、つまり世話と、階級と、跡継ぎと、ふたりの人間が互いに何を求めるかである。また、この文章は映画を観て書いたものではない。記したことは、公開された作品の記録と、批評と、作り手たちの談話から取っており、台詞は一行も引用していない。映画をつくった人や演じた人の私生活については、何も述べていない。

進歩的な夫と、翌日の戦争

コニーはロンドンから、夫の一族の領地ラグビーへ移り住む。姉のヒルダは、はじめからこの結婚に反対している。コニーは、彼の進歩的なところを愛しているのだと答える。

その言葉は、そのまま受けとっておきたい。コニーを演じたエマ・コリンは、ソーホー・ハウスのウェブ誌のインタビューで、コニーもクリフォードも、この結婚はうまくいくと本気で思っていたのだと観客に信じてもらうことが大事だった、と語っている。そうすれば、その後に起きることが、決まりきった成り行きではなく、思いがけないことになるからだ。映画は、彼女をいちばん安直な読み方から守っている。若い女が爵位と結婚し、その報いを受けただけだ、という読み方から。彼女は尊敬できる男と結婚し、その翌日、戦争が彼を連れ戻したのである。

同じインタビューでコリンは、映画の宣伝の言葉としては珍しいほど本当のことも口にしている。コニーが自分に何が欠けているのかに気づくまでには長い時間がかかる。そしてそれは、多くの人に覚えのあることだ。自分が何を望んでいるのかは、たいてい、それが起きるまで分からないのだから、と。この言葉を覚えておいてほしい。この映画は全体が、まわりの誰からも、そして何よりコニー自身からも尋ねられたことのない望みが、ゆっくりと姿をあらわしていく物語だからだ。

戦争がクリフォードの体に何をしたのかを、映画は平明に示す。この文章もそうする。からかわず、医学的な推測をせず、彼の体を、物語が解決すべき問題として扱わずに。彼の体は、この結婚がこれから抱えて生きていく事実である。彼がそれを何に変えるのかは別の問題で、映画が目をこらすのはそちらのほうだ。

世話は、彼女の手にだけ

夫は、身のまわりの世話を妻にしかさせない。

それは献身のようにも聞こえるし、はじめのうちは彼女自身にもそう感じられたかもしれない。けれど、それが何を求めているのかを見てほしい。四六時中の世話を必要とするようになった男が、そのすべてを一人の人間から受けたいと言い、その一人を自分の妻に決めたのである。彼がもう自分ひとりではこなせなくなった一日のありふれた用事は、ひとつ残らず、ひとりの人の手にかかってくる。交代の当番表はなく、引き継ぐ相手もいない。いるのはコニーだけだ。

映画は、彼女が懸命に努める姿を見せている。自身も障害のある書き手で、この映画を米国の書評サイトで論じたグレース・ラポイントは、コニーが夫を安全に介助するやり方を覚えようとし、自分を憎まないでほしいと夫に頼むところに目をとめている。この細部は大事だ。この後に続くのは、世話を拒んだ女の話ではない。世話をし、ひとりで世話をしつづけ、すり減っていった女の話なのである。

この図書室は「ケアは徳に分類された。そして徳は、疲れることができない。」で、世話が労働としてではなく善さとして描かれるとき、世話は善さの性質を帯びてしまう、と論じた。見返りを求めることができない。疲れれば、劣った徳になってしまう。勤務の終わりに誰かへ引き継ぐこともできない。そしてその文章は、そういう物語が世話をする人に許す筋書きは、倒れることだけだと見ていた。ラグビーの屋敷は、その議論がそのまま建物になったような場所だ。そこでは誰も、コニーのしていることを仕事とは呼ばない。妻なら当然することであり、だから彼女の疲れには、口に出してよい場所がどこにもない。

その次に映画が描くことは、実に的確だ。コニーは倒れないし、休ませてほしいとも言わない。訪ねてきた姉が、妹の疲れきった様子を見て、看護人のボルトン夫人を雇い入れるのだ。救いは結婚の外から来る。内側がもう見なくなっていたものを、内側にいない人が見たからである。

世話が、お金をもらって誰かが担う仕事になったとたん、コニーには自由な午後ができる。映画の語る順序では、看護人が来たあとのある午後、彼女はキジのひなの様子を見に行かされる。この映画の恋は、欲望から始まるのではない。看護人がひとり雇われることから始まるのだ。物語を茶化しているのではない。これは、この映画のもっとも感傷のない観察である。ただひとりで世話を担う人には、ほかの何かが起きうる午後が、そもそもない。

悲しみに、領地という行き場がある

クリフォードは、この映画のなかでいちばん公平に書くのがむずかしい人物で、映画もそれを楽にはしてくれない。

映画が示すのはこういうことだ。体の自由を失った悲しみのなかで、彼はほかのすべてを思いどおりにしようとする。権力と富に執着するようになる。炭鉱で働く者たちにも使用人たちにも冷たく当たり、妻が外へ出ることを、散歩でさえ許そうとしない。配信元のネットフリックスによる人物紹介も、彼を、妻にだけ世話をさせるのを当然と思い、妻の求めるものには気づかず、結婚から恋の甘さが消えたことを問題とも思わない人物として描いている。

けれど、そのどれも、彼の麻痺そのものではない。彼の体に冷たさを代弁させるのは、映画にとっても文章にとってもたやすい。多くの物語が、障害のある体を、魂の貧しさのしるしとして使ってきたように。注意深く読めば、この映画は両者を切り離している。小説のこの点に手厳しいラポイントも、映画はロレンスとちがって、クリフォードの麻痺を、衰えゆく貴族階級の隠喩として使っていないと認めている。麻痺は、戦争が彼にしたことだ。支配は、彼がその喪失を使ってしたことだ。そして彼にそれができたのは、彼がそういう立場にいたからである。領地と、そこで暮らし働く人々を従わせる准男爵。財産をもたない男なら、悲しみを胸のうちにしまっておくしかなかったかもしれない。クリフォードの悲しみには、領地という行き場があった。

これは映画が宣言していることではなく、この文章の読みであり、その代償は後で数えることにする。それでも、この読みがあってはじめて、映画は彼に公平でいられる。ラグビーで何かがゆがんでいくのは、クリフォードが歩けないからではない。喪失に、まわりの人間を小さくすることで応えてしまったからなのだ。

彼の隣に置いておきたいことが、もうひとつある。この物語のふたりの男は、同じ戦争から帰ってきた。ひとりは下半身不随となって。もうひとり、森番のほうは、妻が出ていったあとの住まいへ。戦争は森番を将校にまで引き上げたが、平和が訪れてみれば、彼がいたのは他人の土地にある森番の小屋だった。領地へ帰ってきたのは、ふたりのうち一人だけである。

跡継ぎという取り決め

そしてクリフォードは、あの提案をする。跡継ぎがほしい。自分にはもう子をもうけることができない。だから、妊娠のためだけに、愛人をつくってはどうか、と。

これを寛大さとして、あるいは時代にしては率直な結婚として聞くこともできる。けれど、それが何なのかは正確に言っておきたい。これは、望んでよいという許しではない。身ごもってよいという許しである。彼はすでに、彼女が差し出した、彼女にも歓びをもたらしえたはずの触れあいを退けている。そのうえで今度は、彼自身の目的のために、男を見つけるよう彼女に勧める。この提案が彼女をどういう存在にするのかと言えば、跡継ぎを得るための手段だ。誰かを裁くためにそう言うのではない。その一文が、それを向けられた人に何をするのかを、書きとめているだけである。

この図書室は、困りごとを決まりで片づけようとした別の結婚を読んだ「『1122 いいふうふ』と、決まりが肩代わりしたひと言」で、許可とは話し合いを不要にしてしまう取り決めになりうること、そしてふたりのあいだの許可は、それに署名していない第三の人の立場を、安全にも公正にもできないことを論じた。クリフォードの提案は、同じことのもっと厳しい例である。子どもがどこから来るかは決めても、彼女が何を望むかは外に置く。そして最初から、第三の人をひとり含んでいる。計画のなかでは手段としてしか存在しない男を。映画がその男を見つけると、彼はひとりの人間であり、しかも、使われることを黙って受け入れはしない人間だと分かる。

ひなを見に行かされて

オリバー・メラーズはキジを育てている。森の小屋にひとりで住み、ほとんど口をきかない。戦争から戻ると、妻は出ていっていた。ひなを見にきたコニーとのあいだに、たちまち何かが通いあい、ふたりは彼の小屋で恋人になる。

その先を、映画ははっきりと描くが、この文章は描写しない。大事なのは、その場面が何のためにあるかだ。オリバーを演じたジャック・オコンネルは、米国のニュースサイト、デイリー・ビーストの取材に、原作が際立っているのは、ふたりの関係の美しさを描くためにこそあからさまだからで、そこには心の出会いと、感情と体の引きあいの両方がある、と語っている。監督も、愛の場面は物語と人物を前へ進め、コニーとオリバーのつながりを観客に理解させるためにあるのだと言う。ふたりの言葉は同じ方向を指している。場面そのものが、この映画の議論を運んでいるのである。

映画がいちばん気づいてほしいのは、情熱よりも、やさしさのほうだ。彼のやさしさは、思いがけず彼女の心をとらえる。なぜ思いがけないのかを考えてみたい。何か月ものあいだ、彼女の暮らしのなかの触れあいは、一方向にしか流れていなかった。世話として、彼女の手が他人の体のために何かをする。その向きだけだ。注意をこめて触れられること、それも、ほかの誰かのために彼女から何かを得ようとはしない人に触れられることは、まったく別のものである。初夜のあと、彼女はそれを一度も受けとっていなかった。

そして映画は、それを彼女に何度も選ばせる。彼女は小屋へ通いつづける。ひなのこと、小屋で本を読むこと、長い散歩。口実は自分でこしらえる。最初の一度のあと、彼女を行かせる人はいない。結婚が居場所を与えなかった望みは、彼女が午後をどう使うかのなかに、姿をあらわすのだ。

同意について、映画が見せていること

同意は、この映画でも、ほかのどこででも、気持ちのことではない。人が何をするのか、そして、しないこともできたのかどうか、のことである。

映画が見せていることは、簡単に言える。はじめて会ったふたりの大人のあいだに、何かが通いあう。彼女がまた来る。彼が迎え入れる。彼女は自分の足で、自分の口実で、何度も戻ってくる。そのたびの訪れは、しないこともできた選択だ。彼はやさしく、映画はその言葉に重みをもたせている。ふたりの同意について、この文章が言うのはそれだけである。映画が見せているのがそれだからだ。どちらもやめることのできた場所で、ふたりが繰り返し互いを選んでいる、ということ。

映画は、ふたりが対等に出会ったふりもしない。彼は彼女の夫の雇い人であり、ラグビーでの彼の居場所は、クリフォードの一存で取りあげられる。物語が終わる前に、クリフォードは実際にそうする。彼女には、爵位と、名と、立場という失うものがあり、そのどれもを少しずつ失っていく。ふたりのあいだの力は両方向に流れていて、映画は、この恋の請求書がまず小屋に届くことに正直である。

もうひとつ、ここに置いておきたい事実がある。ただしこれは作品のつくり方についての事実で、登場人物についての事実ではなく、両者を混同してはならない。愛の場面は、性的な場面の調整を担うインティマシー・コーディネーターのイタ・オブライエンとともに、二週間のリハーサルを経て準備された。監督は、映画芸術科学アカデミーのウェブ誌で、その中身を語っている。何を身につけるのか、どう触れあうのか、どこに触れるのか、そしてそれで大丈夫だと感じられるのかどうか。そうした問いを、前もって、声に出して確かめあったのだという。コリンも、オブライエンとともに、それぞれの場面がコニーとオリバーを感情のうえでどこへ連れていくのかを描きだした、どんなことも扇情的なだけのものにはしたくなかったから、と話している。

その実践を、それが支えた物語の横に置いてみる。映画をつくった人たちは、具体的に、前もって、互いに問いかけあった。映画のなかの結婚が、一度もコニーに向けなかった問いを。この比較を押しすぎてはいけない。リハーサル室は結婚ではないし、確認の手順は愛の理論ではない。それでも、この文章の主題が、そこに小さく映っている。一方の部屋では誰かが尋ね、もう一方の部屋では誰も尋ねない。

取り決めが戻ってくる

やがてコニーは、自分が身ごもっていることに気づく。

彼女はヒルダとのヴェネツィア行きを提案する。生まれてくる子を、クリフォード自身が勧めた異国での情事の子だと言えるように。賢い計画であり、悲しい計画でもある。彼女は夫の取り決めの言葉を、その取り決めには一度も含まれていなかったものを隠すための覆いに使っている。そうすることで、取り決めを小屋のなかへ持ちこんでしまう。

計画を聞いたオリバーは、自分は利用されたのだと思いこむ。あのやさしさは、ラグビーの跡継ぎを得るための手段で、自分はその道具だったのだと。これが映画のいちばん鋭い転回だ。結婚のなかでコニーがされてきたことを、いま彼は、自分がされたのではないかと恐れている。彼女は子どものために求められていた。彼もまた、そうだったのではないかと思うのである。

欲しいのはあなただけだ、と彼女は言う。

その答えが、この映画を支えている。未来の約束ではないし、彼が負う危険をひとつも取り除かない。それは、あの枠組みそのものを拒む言葉である。ほとんどすべての関係が、誰かを何かに使うためのものだった物語のなかで、この関係はそうではないと言い、証明する手立てのないまま、信じてほしいと頼む。ヴェネツィアへ発つ妹を迎えに来て、オリバーのことを打ち明けられたヒルダは、落胆しながらも、その夜を妹に彼と過ごさせる。映画はコニーを信じる。やがて、彼も信じる。

請求書は、まず小屋に届く

噂は、金を求めてやってきた男を通ってラグビーに届く。オリバーはまだ離婚しておらず、彼の妻と暮らしている男が、戦争年金の分け前を求めて小屋にやってくるのだ。男はそこでコニーの痕跡を見つけ、酒場で言いふらす。

それを聞いたクリフォードは、コニーがヴェネツィアへ発つ間際に、オリバーを解雇する。代償は、身分の順に届く。使用人は、まず、ただちに居場所を失う。貴婦人の失うものは、もっとゆっくりとやってきて、そのいくつかは彼女自身が選ぶ。

そしてコニーは、ヴェネツィアの計画が避けるはずだったことをする。クリフォードに本当のことを告げるのだ。オリバーを愛している、彼の子を宿している、と。夫は、けっして離婚はしないと言い放つ。

その答えは、彼の支配がとりうる最後の形である。彼女を引きとめることも、愛させることも、子を自分の子にすることもできない。できるのは、結婚を終わらせないことだけだ。結婚は愛よりも長く生き延び、彼女をつなぎとめるための鎖として残される。中に誰もいなくなった、法のうえの事実として。

ひとつの小さな反転が、世話の物語を閉じる。コニーから夫の世話を引きとるために雇われた看護人のボルトン夫人が、のちに、コニーがオリバーを探していると伝え広めることを約束するのだ。世話を仕事として引き受けた女性が、コニーが出ていくための味方になる。ネットフリックスの人物紹介は、ボルトン夫人がコニーを知るにつれて、彼女に同情を寄せるようになると書いている。報酬のある仕事として世話を担う人には、それまで無償で世話をしていた女性に目を向ける余地が残るのかもしれない。

ヴェネツィア、一通の手紙、ロレンスが書かなかった結末

ヴェネツィアでも噂はコニーを追ってくる。森番のためにすべてを捨てた貴婦人がいる、と。数か月後、イングランドに戻った彼女に、オリバーから手紙が届く。スコットランドで仕事と家を見つけた、来てほしい、と。コニーは車で北へ向かい、彼を見つけ、ふたりは抱きあう。

原作の小説は、こうは終わらない。ロレンスは恋人たちを離ればなれのまま、待たせて終えた。彼女は身ごもり、彼は別の土地で働き、彼の離婚はまだ成立せず、彼女の離婚は拒まれている。本が許した希望のすべては、一通の手紙に託されている。映画は、ふたりを会わせる。

それを甘さと呼ぶのはたやすく、この文章も後でそう呼ぶ。けれど、それはひとつの表明でもある。監督はコニーを、家父長制からも、階級からも、社会の圧力からも、噂からも自由になり、家族も友人も地位もお金も、愛のために手放す女性として語り、それは、ありうることだからこそ見せたい例なのだ、と言っている。映画の最後の場面は、その信念を目に見える形にしたものだ。出ていった女が、たどり着くことを許される。

それでも結末は、出ていくことに代償がなかったふりはしない。ラグビーで映画が見せたことは、最後の場面でも何ひとつ消えていない。けっして離婚しないと言った夫。心配した姉。ふたつの国で噂になった名前。スコットランドでの抱擁は、そのどれも帳消しにしない。ただ、それを物語の結びにはさせないだけである。

ふたつの裁判は、何を守ろうとしたのか

この映画のもとになった小説が受けた裁判のうち、ふたつがロンドンと東京で開かれた。そしてどちらも、この映画が描いているのと同じことをめぐるものだった。

ロンドンでは、全文を出版したペンギン・ブックスが、前年に制定されたばかりの一九五九年猥褻出版物法のもとで訴追され、一九六〇年十月二十日から十一月二日まで、中央刑事裁判所で審理された。検察官のマーヴィン・グリフィス=ジョーンズは陪審員に、これは自分の妻や使用人にさえ読ませたいと思うような本だろうか、と問いかけた。六十年以上たった今も引かれる問いである。裁判の背後にあった法を研究したクリストファー・ヒリアードの仕事を、学術文献のデジタル図書館が出すウェブ誌が紹介している。それによれば、ヒリアードはこの問いを、ある古い前提を身も蓋もなく思い出させるものとして読んでいる。そういう本を任せてよいかどうかは読む人が誰かによって決まり、女性と労働者階級には任せられない、という前提だ。ヒリアードの見立てでは、問題はペーパーバックそのものだった。安く、大量に刷られたその本は、あの前提がこうした本から遠ざけておこうとしてきた読者にこそ届きえた。そしてペンギン版の安い値段は、訴追の中心にあったのである。一九六〇年十一月二日、九人の男性と三人の女性からなる陪審は、ペンギンに無罪の評決を下した。

妻と使用人。貴婦人と森番。あの裁判が防ごうとしていたのは、本の読者が、本の登場人物になってしまうことだった。

日本では、事件はもっと先まで進んだ。伊藤整による全訳は、一九五〇年の春に小山書店から上下二巻で刊行され、その年の六月に押収された。訳者と、版元の社長の小山久二郎は、猥褻文書販売の罪で起訴された。一九五二年一月、東京地方裁判所は小山を有罪とし、訳者を無罪とした。同じ年の十二月、東京高等裁判所は訳者も有罪とし、罰金十万円を科した。そして一九五七年三月十三日、最高裁判所大法廷は上告を棄却した。判決は、芸術性と猥褻性とは別の次元に属する概念であって両立しうること、そして性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することは、表現の自由を制限する公共の福祉の内容をなすことを示した。

今この判決を読む意味は、冒頭に引いたあの要約にある。裁判所は、この本が芸術作品として高く評価されていることを認め、貴族階級への批判や、炭鉱で働く人々の悲惨な境遇が描かれていることにも目をとめていた。そのうえで、コニーの暮らしを、彼女の側から見た言葉で要約した。最高裁判所は、彼女の置かれた状況を見ていたのである。そして、それを描いた本の翻訳を、猥褻文書と認めた。伊藤の訳が、削られた箇所を取り戻して文庫になったのは、一九九六年十一月のことだった。欠けた部分を補ったのは、息子の伊藤礼である。

これは、どちらの国の今日の法律についての説明でもない。ロンドンの検察と東京の裁判所が、何を防ごうとしていたかについての話である。ロンドンでは、妻や使用人がこの本を読むこと。東京では、裁判所が性的秩序と呼んだものが揺らぐこと。どちらでも許されなかったのは、引かれた線を越えていく女性の望みだった。東京の判決から六十五年後、映画はその望みを真ん中に置き、観る者にそれを追わせる。

日本で観るとき、遠くから観るとき

日本で観ると、この映画のなかの三つのことが、衣装から想像するよりずっと近くにある。

ひとつは世話である。厚生労働省が二〇二六年七月に公表した二〇二五年の国民生活基礎調査によれば、介護を受ける人と同居している主な介護者のうち、女性は六十三・五パーセントだった。また、同居の主な介護者のうち、介護にほとんど終日かかっている人の六十四・六パーセントは、介護を受ける人の配偶者だった。この調査の介護の数字が対象にしているのは、介護保険で要介護・要支援の認定を受けて自宅で暮らす人で、その多くは高齢者であり、コニーは若い。数字が描いているのは国の姿であって、彼女ではない。それでも数字は、彼女が置かれた形をなぞっている。家のなかで行われ、多くは女性が担い、一日じゅうに近い世話を担うのは多くの場合、配偶者である、という形を。調査は続柄と時間を数える。ただひとり世話を許された人であることを数える欄は、そこにはない。

ふたつめは結婚である。日本なら、この結婚はセックスレスと呼ばれるだろう。その言葉は正確で、そして肝心なところを外している。コニーをすり減らしたのは、性がないことではない。結婚のなかで、彼女の望みに居場所がないことだ。彼女はほかの触れあいを差し出して退けられ、性がふたたび話題になったときには、それは跡継ぎのための計画として持ち出された。区分は、何かが起きていないことを言える。けれど、誰の望みが一度も尋ねられなかったのかは言えない。

みっつめは跡継ぎである。跡継ぎという言葉は、今もいくつかの家庭では重みをもっている。そして日本の小説には、夫の取り決めを妻が取り仕切らされる物語がある。この図書室は円地文子の『女坂』を読んだ「『女坂』と、調達係にされた妻」で、夫の金を持たされ、自分に取って代わる娘を選んで連れ帰るよう命じられる女性を追い、彼女が、自分が退けられていく過程の管理者にされていることを見た。クリフォードがコニーに求めることは同じではなく、彼の理由は跡継ぎである。けれど、構造は同じだ。妻自身の望みがまったく関わらない性の使い道を、妻に手配させるのである。

もっと遠くから観ると、また別の読み方がありうる。夫の国に移り住み、自分の家族から遠く離れて暮らす女性なら、ラグビー特有の静けさに覚えがあるかもしれない。独自の決まりをもつ夫の世界。まわりの誰も仕事と呼ばない仕事。そして、ときどき訪ねてくることしかできない姉。映画のなかで、コニーの側から来た人はヒルダだけで、気づくのもヒルダだ。日本で、パートナーの家族をすぐそばに、自分の家族を飛行機で何時間も向こうに置いて暮らす女性のなかには、手の届くところにヒルダのいない人もいる。映画の救いが、ひとりのヒルダにかかっていたことは、覚えておいてよい。

これは日本の肖像でも、イングランドの肖像でもない。ひとつの時代の、ひとつの階級の、ひとつの結婚である。誰かの国を代表させるべきものではない。

この読みへの反論

この文章には、いくつかの反論がありうる。そのうち少なくとも二つは、この映画を好きな人を本当に悩ませるはずだ。

第一の、そしてもっとも重い反論は、障害のある夫についてのものである。自身も障害のあるラポイントは、この小説をけっしてフェミニズムの作品とは考えないと書いている。障害のない女性登場人物の性の解放が、障害のある男性登場人物をおとしめることと引きかえであってはならないからだ。彼女の小説の読みは厳しく、具体的である。小説はクリフォードの麻痺と性的な機能の喪失を、時代遅れの貴族階級の象徴として使い、彼の介助の必要を、彼の特権と同じもののように扱っている、と。彼女は映画の変化も評価している。クリフォードを演じるマシュー・ダケットは障害があることを公にしている俳優であり、撮影現場には障害についての相談役が加わり、映画は彼の麻痺を隠喩にしていない。それでも、この物語のどの版も、体の自由な恋人を麻痺した夫の横に置くことになり、どんな映画化も原作の彼への見方を完全には取り消せない、と彼女ははっきり述べている。

その議論は、この文章の中にまで届く。この文章は、世話は妻にしかさせないというクリフォードの求めを、支配として読んできた。ラポイントは、小説ではコニーが夫に尋ねもせずに看護人を雇うことを指摘し、それを、自分の体についての彼の自己決定の侵害だと呼ぶ。彼にとって、身のまわりの世話は結婚のなかの親密さの一部だったのだ、と。映画でもボルトン夫人を雇うのはクリフォードではなく、ヒルダである。この文章がコニーにとっての救いと呼んだものは、彼の側から見れば、誰が自分に触れるのかを決める最後の発言権を失うことだったかもしれない。妻にだけ世話をしてほしいと望むことは、支配でありうる。けれど、それは必要でもありうるし、一日のうちでいちばん親密な手助けは結婚の内側にあるべきだ、という主張でもありうる。

映画は意図してコニーの側から語られ、だからクリフォードの側に、彼にふさわしいだけの場所を与えていない。この図書室は「『マルガリータで乾杯を!』、手を借りることは、望むことの反対ではない」で、助けを必要とする人は、同時に望む人でもあると論じた。この映画は、クリフォードの望みが支配以外の形で姿を見せる場所を、ほとんど残していない。それは映画の限界であり、この読みの限界でもあって、どちらも議論で消すことはできない。

第二の反論は階級である。この恋物語は、使用人の暮らしを実際よりやさしく描いているかもしれない。英国の映画誌で作品を評したパトリック・スプロールは、映画をたたえつつも、原作の工業化への関心には口先だけの敬意しか払っていないと書き、森番の小屋は、働く森番の住まいというより、田舎風の貸別荘のように見えるとも書いた。ラポイントも、この映画化が原作の階級批判を素通りしていると感じた批評家がいたことを記している。使用人の小屋を美しく撮る恋物語は、階級の線を、ただの背景に変えてしまうおそれがある。この文章は階級の読みに寄りかかってきた。映画がその読みを、この文章ほど遠くまで運んでいるのかと問うのは、正当である。

第三は結末である。再会は、物語には約束できても、人生にはしばしば約束できないものだ。恋人たちを離ればなれのまま待たせたロレンスの結末のほうが、正直なのかもしれない。出ていった女に、たどり着く保証はない。そして彼女に必要だった離婚は、彼女が自分に与えることのできるものではなかった。スコットランドでの抱擁をたやすすぎると感じる観客は、間違っていない。

第四は、この恋そのものである。この文章は不倫を道徳で裁かないことにしてきたし、今さら裁くつもりもない。けれど、裁かないことは、害がないと言うことと同じではない。ヴェネツィアの計画は、クリフォードの取り決めを、彼の同意していない真実の覆いに使い、一時とはいえ、オリバーが彼女を信じる気持ちを奪った。その計画が、コニー自身がクリフォードに本当のことを告げることで終わったのは、彼女の誠実さとして認めてよい。終わらせる必要があったこと、それこそが要点なのだ。

この図書室がここから受けとるもの

必要とされることと、求められることは、別のことである。人生は前者で満ちていながら、後者の入る余地をまったく持たないことがある。映画は、世話が罠だとも、結婚が罠だとも、コニーの立場にいる女性は出ていくべきだとも言っていない。言っているのは、もっと狭く、もっとむずかしいことだ。世話が頼まれるのではなく当然とされ、子どものことさえ取り決めとして片づけられるとき、そのどちらの真ん中にもいる人が、見えなくなってしまうことがある。まわりの誰かが残酷である必要すらない。

世話がこういうふうに組み立てられるのには、それなりの理由がある。必要は切実で、望みは待てる。少なくとも、誰もがそう思っている。助けを必要とする人は待てず、助ける人は待てる、と。コニーも長いあいだ、そう思っていた。映画は彼女を責めていないし、誰も責めるべきではない。

ここだけは、あなたに直接書いておきたい。もしあなたが、誰かが世話を任せるただひとりの人なら、あなたは疲れていい。疲れたと口にすることは、愛が足りないということではない。あなたの暮らしの誰も尋ねようと思わなかった何かを、あなたは望んでいい。その望みが世話を打ち消すことはなく、世話がその望みを打ち消すこともない。どちらも、あなたのものだ。映画では、姉が訪ねてきてコニーの疲れに気づくまで、何も変わらなかった。あなたは、それを最初に口にする人になっていい。

手元に残す問い

あなたをいちばん必要としているのは誰だろう。その人は、あなたが何を望んでいるかを知っているだろうか。

あなたがしていることのなかに、まわりの誰も仕事と呼ばない仕事はあるだろうか。誰かがそれを仕事と呼んだら、何が変わるだろう。

姉が一週間泊まりにきたら、あなたがもう気づかなくなっていることのうち、何に気づくだろう。

あなたの暮らしのなかで、必要とされていると感じる場所と、求められていると感じる場所はどこだろう。それは同じ場所だろうか。

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