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『ブルカの中の口紅』と、見つけた人のものになる秘密

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ボーパールの古い建物に暮らす四人の女性は、それぞれ別の望みを隠している。女子大生のジーンズと歌、美容師が町を出ていく道、妻が働くことと自分の体のことを自分で決めること、未亡人の遅れてきた欲望。この映画が描くのは、望みがほかの誰かの手に渡ったときに何が起きるか、そしてそこから先、それが何だったのかを誰が決めるのか、である。

ボーパールのプールで、五十五歳の女性が溺れかけ、助けられる。いたずらのせいだった。助けたのは、ジャスパールという若い水泳の指導員だ。彼の教室に申しこむとき、彼女は名前を言わなければならない。そして、言う。ウシャー・パルマール。ブアジーではなく。ブアジーは「おばさま」という意味で、彼女が持っている古い建物のまわりの路地では、誰もが彼女をそう呼ぶ。信心深い年長者で、よその家の縁談をまとめる人。ウシャー・パルマールのほうは、泳ぎを覚えたいひとりの女性だ。その名前を誰かに求められたのは、ずいぶん久しぶりのことだったのかもしれない。

それから彼女は水着を買う。夜になると、彼に電話をかけはじめる。どちらの名前も使わない。ロージーと名乗る。ひそかに読みふけっている安手の官能小説の、主人公の名前だ。その小説の一節一節を、映画は全編にわたって、彼女の声で読み聞かせる。ロージーの物語を読んでいた声が、いまは電話口でロージーになっている。

同じ建物に、ほかに三人の女性が暮らしていて、それぞれが何かを隠している。女子大生のレハーナーは、家業の店でブルカを縫い、それを着て大学へ行き、着くと脱ぐ。門の内側では、歌を歌い、ジーンズをはいている。若い美容師のリーラーは、写真家のアルシャドと関係を持っていて、彼と町を出る算段をしている。けれど母は、別の男との縁談をまとめてしまう。三人の子の母シーリーンは、ブルカをまとって訪問販売に出る。売るのがあまりにうまいので、会社は彼女を昇進させたがっている。夫は、彼女が働いていることを知らない。

どの望みも、大きくはない。どれも、秘密のままなら長く生きのびられる。アランクリター・シュリーワースタウの『ブルカの中の口紅』で、四つの望みは、まさにそうやって生きている。この映画が気にかけているのは、女たちがどれほど大きなものを望むかではない。望みが、ほかの人の手に渡ったとき何になるか、である。映画自身の歩みも、そこにもうひとつの手を加えた。映画の認証機関である。この機関は、審判所に覆されるまで、映画の上映を許さなかった。

この文章の言いたいことは、題に書いてある。この映画のなかで、秘密は見つけた人のものになる。それを論じるには、四つの物語を結末までたどらなければならない。だから次の節は、先に映画を観ておきたい人のための、短い断り書きから始まる。

読む前に、そして物語のあらまし

この先は、結末まで含めて映画の中身に触れる。先に映画を観ておきたい人は、観てから戻ってきてほしい。この文章は待っている。

『ブルカの中の口紅』は、アランクリター・シュリーワースタウが脚本と監督を手がけたヒンディー語の映画である。ウシャーをラトナー・パータク・シャー、シーリーンをコーンコナー・セーン・シャルマー、リーラーをアハナー・クムラー、レハーナーをプラビータ・ボルタックールが演じ、シーリーンの夫ラヒームをスシャント・シン、アルシャドをヴィクラント・マシーが演じている。最初に上映されたのは二〇一六年の秋、ムンバイと東京の映画祭だった。ムンバイ映画祭では、ジェンダー平等を描いた最優秀作品に贈られるオックスファム賞を受けた。第二十九回東京国際映画祭では「アジアの未来」部門で上映され、国際交流基金アジアセンター特別賞を受けている。日本語の題『ブルカの中の口紅』は、このときのものだ。インドの劇場で公開されたのは、認証の拒否と上訴を経た、二〇一七年七月二十一日である。上映時間は二時間にすこし欠ける。

四人が暮らすのは、ボーパールの入り組んだ路地に建つ古い建物、ハワーイー・マンジルで、持ち主はウシャーだ。四つの物語をつないでいるのは、ウシャーがひそかに読む小説である。そのなかでは、ロージーという女が、欲しいものを欲しいと口にする。

そして、秘密はひとつ残らず暴かれる。モールの防犯カメラが盗みを捉え、レハーナーは逮捕されて、大学をやめさせられる。マノージは、リーラーが自分とアルシャドを撮った映像を見つけ、婚約を破棄する。シーリーンの昇進が決まったその日、妻の仕事を知ったラヒームは、罰として彼女をレイプし、仕事を辞めろと命じる。ロージーの正体がウシャーだと知ったジャスパールは彼女の家族に訴え、家族は近所じゅうが見守るなか、彼女の小説と水着を通りに投げ捨てる。

レハーナー、リーラー、シーリーンは、道に散らばったウシャーの持ち物を拾い集める。ウシャーはレハーナーに、あの小説の最後の数ページを読んでほしいと頼み、四人は一本のたばこを回す。暮らしは壊れたまま、この先のことには何ひとつ答えが出ていない。

四つの望みと、その上にかかる布

題名は、覆いの下に何かがあると約束していて、映画はその約束を守る。覆いの下にあるのは望みで、そのどれも悪徳ではない。飾らずに並べてみると、よくわかる。レハーナーが望むのは、ジーンズをはくこと、歌うこと、大学で誰もが名前を知っている輪に入ること。リーラーが望むのは、自分の商売と、その相棒と、あてがわれた結婚ではない暮らし。シーリーンが望むのは、働いて腕をふるい、その対価を受け取ること。そして、次に妊娠するかどうかを自分で決めること。ウシャーが望むのは、泳ぎを覚えること、誰かに求められること、そしてそれを誰かと話すこと。

こうして並べると、拍子抜けするほどありふれている。並べてみる意味は、そこにある。四人の誰も、醜聞を求めてはいない。世界のどこかでは大勢の人が日の当たる場所でしていることを求めていて、自分の場合はそれが秘密のなかでしか成り立たないと知っている。秘密は、彼女たちの性格ではない。望みに許された、ただひとつの形なのだ。

その形を目に見えるものにしているのが、ブルカというイメージだ。扱いには、注意が要る。映画のなかのブルカは、女たちの上にかけられた覆いというだけではない。レハーナーが家業の店で一針ずつ縫うものであり、それを着て家を出て、大学で脱ぐものであり、シーリーンが、夫の知らない稼ぎに出るためにまとうものでもある。ブルカは隠す。けれど同時に、彼女たちを外へ連れ出してもいる。映画が完成してまもない二〇一六年十一月、シュリーワースタウはインドのニュースサイトのインタビューで、ブルカは多くを隠すけれど、多くの秘密を知ってもいる、と語っている。

四人のうち二人はイスラム教徒で、二人はヒンドゥー教徒だ。そして、ブルカを一度も着ない二人も、着る二人と同じだけのものを隠している。ウシャーの覆いは「ブアジー」という呼び名で、リーラーの覆いは婚約である。なぜ主人公をイスラム教徒とヒンドゥー教徒の両方にしたのかと米国のオンライン誌に問われて、シュリーワースタウは、家父長制に宗教の区別はない、と答えた。宗教を越えて、女性たちは家父長的な社会があてがう役割に押しこめられている。夢を表立って追うことが難しい世界では、女性たちはひそかに反抗することになる。それはヒンドゥー教徒でもイスラム教徒でも同じだ、と。映画の舞台はボーパールの旧市街で、そこではヒンドゥー教徒とイスラム教徒がすぐ隣りあって暮らしている。その自然で雑然とした調和が好きなのだ、とも彼女は語っている。だからこの文章は、ブルカを、映画が扱うとおりに扱う。映画が四人全員に貸し与えている、隠すことのイメージとして。ひとつの信仰についての判定ではないし、それを身につけることを選ぶ女性たちにとってそれが何を意味するのかについては、何も言わない。それは、彼女たち自身が語ることだ。

東京の審査員たちは、このことをよくわかっていたようだ。国際交流基金アジアセンターが受賞の発表に添えた総評で、審査委員を代表して、映画評論家のフィリップ・チアはこう書いている。「コメディと厳粛なドラマ、夢と現実、真実と挑戦。これらの要素が大胆に融合されている『ブルカの中の口紅』の二重化されたスタイルは、4人の登場人物の女性が強いられている二重生活を見事に写しとっている。この映画を見ながら私たちは、痛みを愉しみ、喜びを苦しむことを求められるのである。」

秘密は、ひとつ残らず見つかる

まず、発覚の仕方を見てみたい。映画はそれを、わざわざ一つずつ違うものにしている。モールの防犯カメラ。リーラーが自分で撮った映像。シーリーンの働きぶりが報われるその日に、その場に現れる夫。ロージーが誰なのかを知ってしまう、電話の向こうの声。秘密が漏れ出る扉はひとつではない、と映画は言いたげだ。扉はいくつもあり、そのうちのいくつかは、女性自身の手のなかにある。

次に、誰が罰を下すかを見る。四つのどれでも、裁くのは法廷ではない。例外はレハーナーの盗みだけで、それは実際に罪であり、映画もそうでないふりはしない。それ以外の罰はすべて私的なもので、いちばん近くにいる人の手から来る。父、婚約者、夫、家族。そして見物人なら、通りにいくらでもいる。

これらの罰には、釣り合いというものがない。盗みには、学業の打ち切りと婿探しが返ってくる。私的な映像ひとつで、始まる前の結婚が終わる。働いたことには、レイプが返ってくる。大人ふたりのあいだの電話には、人前でさらし者にされることが返ってくる。したことと比べれば、どの罰も途方もなく重い。けれど、量ることなど、はじめから問題ではなかった。ここにあるのは、所有の論理だ。見つかった望みは、見つけた人のものになる。そして見つけた人は、それを好きにしてよいことになっている。

ウシャーを演じたラトナー・パータク・シャーは、認証機関が映画を拒んだ翌日、次の仕事の撮影現場で、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのブログの取材に応じている。機関は認証を出さないと言っただけだった、と彼女は語った。質問もなく、理由もなく、あるいはとても奇妙な理由で、と。彼女が話していたのは、ある委員会のことだ。けれどその言葉は、映画のなかのどの裁き手にも、同じようにあてはまる。誰も女性に何も尋ねない。誰も説明しない。理由として持ち出されるのは、見つかったもの自体だけで、それで皆がわかることになっている。

そして、裁き手のなかには女性もいる。リーラーの母は、アルシャドといる娘を見つけ、しかも婿はとうに選んである。レハーナーの婿探しを命じられるのは、彼女の母だ。ウシャー自身も、映画の大半のあいだ界隈の縁談をまとめる人で、リーラーとマノージの縁談をまとめたのも彼女である。この女性たちを悪役に数えるのはたやすいが、映画はそれをそう簡単にはさせない。リーラーの母は、美術学生のヌードモデルをして暮らしを立てている。自分の仕事がくれなかった安心を、娘には持たせたいのかもしれない。ウシャーが縁談をまとめるのは、それがブアジーの役目だからだ。この映画が引き出す怒りは、この女性たちには向かっていない。女たちが互いを見張ることに世間体という報酬を払い、そのうちの誰かが自分のために何かを望んだとたん、その貸しを取り立てる仕組みに向かっている。

シーリーン、結婚のなかで下される罰

シーリーンの物語は、いちばんはっきり語らなければならない。いちばん和らげられやすいからだ。家では、夫のラヒームが、思いのままに彼女をレイプする。避妊を許さないので、彼女はひそかに中絶を重ねてきた。医師に感染症を見つけられ、これからはコンドームだけを使うようにと言われても、夫は拒む。映画はこれを、うまくいかない時期の夫婦として描いてはいない。それが、彼女の家のふだんのありようなのだ。

避妊を禁じることを、その名で呼んでおきたい。子どもを何人ほしいかという好みの話ではない。彼女の体を自分のものとみなす、夫の主張であり、その結果はすべて、彼女ひとりが、ひそかに引き受けることになる。内閣府男女共同参画局は、配偶者からの暴力がとりうる形を説明するページで、性的な暴力の例として、「いやがっているのに性行為を強要する」「中絶を強要する」と並べて、「避妊に協力しない」を挙げている。インドのことも、この映画のことも書いていない、淡々とした役所のページだ。それが、シーリーンの家をそのまま言い当てている。

その家の対極に、映画は彼女の仕事を置く。ブルカをまとって玄関を出れば、彼女には得意なことがあり、それに対価を払う人がいる。仕事は、彼女の腕が認められ、報われる、ただひとつの場所だ。そしてそれは、夫がまだ手をつけていない、暮らしのただひとつの部分でもある。だからこそ、隠しておかなければならない。

結末の前に、彼女がどういう人なのかを教えてくれる場面がある。仕事のことを打ち明けようとして、彼女はかえって夫の浮気を知る。相手の女の家までつけていき、自分は彼の妻だと名乗る。仕返しの場面ではない。まわりの誰もが彼女に認めている、たったひとつの役割がある。せめてその名で、正しく呼ばれようとする女性の場面だ。

昇進が決まったその日、彼女の有能さが人前で認められたその日に、ラヒームが現れる。冷ややかに祝いを言い、彼女を家に連れ帰り、罰としてレイプし、仕事を辞めて家にいろと命じる。起きたことは、はっきりそう書いておかなければならない。これは夫婦のあいだで起きたレイプであり、働く女性を、夫が置いておきたい場所へ戻すために使われた暴力である。彼の妻であることは、同意ではない。その日のことも、仕事のことも、結婚していることも、それを別の何かに変えはしない。

映画が撮られた当時、インドの法がこの行為をどう書いていたかも、教訓にはせずに知っておいてよい。インド刑法第三七五条の例外二は、妻が十五歳未満でなければ、夫が妻とのあいだで行う性交や性的行為は強姦ではない、と定めていた。二〇一七年、インドの最高裁判所は、この例外が十八歳未満の妻には及ばないと判断している。二〇二四年七月一日にこの刑法に代わった新しい刑法典も、第六三条に同じ例外を残し、年齢を十八歳としている。この例外は、インドの内側で争われている。二〇二六年九月、インドの最高裁判所は、ふたつの法典の例外について憲法上の有効性を審理すると述べ、訴えを最終審理に回した。判断は、まだ出ていない。この文章は、その問いがどう決着すべきかについて意見を述べないし、誰にも助言はしない。ひとつだけ記しておく。映画が撮られたときの法典の言葉では、ラヒームのすることは強姦という名を持たなかった。この文章は、それをその名で呼ぶ。

リーラー、彼女のものだった映像

四人のなかで計画を持っているのは、リーラーだ。自分の美容室を営み、旅先で婚礼を挙げる人たちを相手にする業者に、自分のメイクとアルシャドの写真を売りこんでいる。その仕事が、ふたりを世界じゅうに連れていってくれればと願っている。彼女の望みは、男ひとりではない。男と、商売と、町の外へ出る道。映画は、その三つのどれについても、彼女を地に足のついた人として描いている。

母にも計画がある。ウシャーを通して、マノージとの縁談をまとめてあるのだ。マノージには、これといった欠点が見あたらない。駆け落ちしてと頼んでも、アルシャドははねつける。彼女がわざと嫉妬させると、今度は駆け落ちを約束する。けれど彼女は彼を忘れようとしていて、マノージに迫る。マノージは、婚礼の夜まで待ちたいと言う。ぐちゃぐちゃだ。映画はそれを、ぐちゃぐちゃのままにしておく。リーラーは、計画をひとつ持ち、心はふたつに引き裂かれている、若い女性である。

そしてマノージが、あの映像を見つけ、婚約を破棄する。これが何なのかは、はっきり言っておく。映像は彼女のものだった。大人ふたりのあいだのことを、彼女が自分の携帯電話で撮った私的な記録であり、彼のために撮られたものでも、彼に渡されたものでもない。それを見つけ、自分の判定の根拠にすることは、彼女のプライバシーの侵害である。それを見て彼が何を感じたにせよ、彼女のしたことを誰がどう思うにせよ、そこは変わらない。映像には二人が映っている。そして、それで終わる婚約は、彼女の婚約なのだ。

レハーナー、盗みよりはるかに重い罰

レハーナーは女子大生で、映画は彼女の二重生活を文字どおりに描く。家業の店でブルカを縫い、それを着て大学へ行き、門のところで脱ぐ。門の内側では、ジーンズをはき、マイリー・サイラスを愛する歌い手だ。

仲間に入るために彼女がしたことは、ほめられたものではないし、映画もそうは言わない。化粧品も、ドレスも、ブーツも盗んだものだ。モールのカメラがそれを映し出し、警察は彼女を逮捕する。以前、ジーンズ禁止への抗議デモで逮捕されたときには、父は注意だけで済ませていた。今度は盗みであり、盗みとして扱われる。

ここで映画は、いちばん大事な線を、静かに引いている。警察が罰するのは、盗みだ。家族が罰するのは、暮らしそのものだ。好きだった青年は離れていく。父は彼女に大学をやめさせ、母に婿探しを始めさせる。どれも、ブーツを盗んだことへの罰ではない。大学が意味していたもののすべてに対する、家族の判定である。ジーンズにも、歌にも、デモにも、ブルカを脱いだ娘にも。そしてその判定の中身は、結婚だ。彼女がそのために大切に守られてきた制度が、そのまま彼女を罰する道具になる。

彼女の物語を、ブルカを脱いで痛い目にあった女の子の、笑える挿話として語ることもできる。映画はそれより誠実だ。彼女には、映画が払っているのと同じ敬意をもって向きあいたい。彼女は若く、多くの若い人が望むものを望んだ。音楽が鳴っている部屋にいること、そしてそこで仲間に数えられること。彼女が失ったのは、ブーツではない。その部屋である。

ウシャー、ブアジー、ロージー

ウシャーには名前が三つあり、映画は、そのどれもが別のことを意味するように組み立てられている。ブアジーは、界隈が彼女に与えた呼び名だ。おばさまという親族の言葉で、彼女を皆の年長者にし、もう誰からも女として見られない人にする。信心と縁談の世話という務めがついてきて、彼女自身が何かを望むことについては、沈黙がついてくる。ウシャー・パルマールは、彼女自身の名前だ。プールで彼女が名乗る名前である。ロージーは借りた名前で、ひそかに読む官能小説から来ている。彼女の欲望が口をきくことを許されるのは、この名前のもとでだけだ。

この映画の構成でいちばん大胆なのは、彼女の秘密そのものが、いわば語り手になっていることだ。映画のあいだじゅう、ラトナー・パータク・シャーの声が小説の一節を読み、ロージーの憧れが四人の物語と並んで流れていく。批評家のアシーム・チャブラが書き起こした一節では、ロージーは、ジーンズ姿の娘たちが恋人にしがみついて、自由にバイクで走っていくのを見ている。レハーナーの望みが、別の女の空想のなかで語られているのだ。つまりこの映画の語り手は、安手の官能小説をひそかに読む五十五歳の未亡人である。映画はそれを冗談として扱わない。映画自身の声として扱う。

彼女の望みを、この文章は、映画がそうするように尊重する。そうされるだけの理由があるからだ。彼女は白髪を黒く染める。夜、ジャスパールに電話をかけ、電話口でロージーになる。しばらくのあいだ、彼女は小説が約束していたものを手にしている。電話の向こうに、自分の声を聞きたがっている誰かがいる。ここに滑稽なものは何もない。求められたいと願い、その願いにあわせて体と夜を整える五十五歳の女性は、どの年齢の人もしていることをしているだけだ。彼女について変わっているのは、そのために払わされることになる代償の大きさだけである。

この図書室の「若く見えることより、まだ欲しいものがあることのほうが美しい」は、若く見えることは、本当はどれだけ時間が残っているかについての主張なのだと論じた。生きた望みは同じ主張を、しかも真実として行う。まだ前にある何かは、どの年齢においても、使われていない生の証拠だからだ。ウシャーが髪を黒く染めるのは、前者の企て、つまり若く見せるためだと読むこともできる。けれど映画は、それが後者のため、生きた望みのためであることをほのめかしている。彼女は、若く見えること自体を目指しているのではない。誰かのために、支度をしているのだ。あの文章はまた、望む対象が足りないことは、望む力の衰えと取り違えられやすく、対象は出会いによってやってくる、とも論じていた。ウシャーの出会いは、水のなかで、偶然やってくる。ブアジーという役目のもとで、補充されないまま絶版になりかけていた目録に、ひとつのいたずらが新しい品目を加える。

やがてジャスパールが、ロージーが誰なのかを知る。電話の中身は変わっていない。変わったのは、それをかけてきていたのが誰だと知ったことだけだ。批評家のプージャ・センは、電話で話していた相手が彼女だと知ったとたん、若い指導員がウシャーを嫌悪の目で見るようになることを書いている。彼は、電話を静かにやめるのではない。その知らせを彼女の家族に持ちこむ。そして家族は、近所じゅうが見守るなか、彼女の小説と水着を通りに投げ捨てる。

この場面こそが、映画の告発であり、その矛先は注意深く向けられている。ウシャーには向いていない。彼女は誰にも何もしていない。矛先が向いているのは、求められることを喜んでいたのに、自分を求めている女性の年齢と立場を知ったとたんに手のひらを返した若い男であり、未亡人の私生活に、見世物にすることで応える家族であり、それを見物しに出てくる通りである。投げ捨てられるのは、小説と水着だ。彼女が読んでいた物語と、水のなかで動かし方を覚えはじめていた体。この映画の語り手の本が、道に落ちている。

四年後、ラトナー・パータク・シャーは、望みを脇に置いてきたもうひとりの女性を演じた。『Thappad』で、家族のために歌をあきらめた母親サンディヤーだ。この図書室の「『Thappad』と、誰も彼女に尋ねなかったこと」は、彼女を、自分の人生を問い直すより、娘に耐えてと頼むほうがたやすいのかもしれない人として読んだ。ふたつの役を並べると、同じ仕組みへのふたつの答えのように見える。サンディヤーの望みは、黙って手放された。ウシャーの望みは、ひそかに持ちつづけられた。『ブルカの中の口紅』が見せるのは、その秘密が見つかったときに、何を払わされるかである。

見つかった望みを握る手

この図書室の「『Three Women』と、望みが手に入れてしまう観客」は、こうした物語の読み方をひとつ示していて、それが、この映画には落ち着かないほどよくあてはまる。女性の望みの行方を決めるのは、しばしば望むことそのものではなく、誰が見ていたか、あとから誰がそれを語る権利を手にしたかだ、とあの文章は論じた。あの文章が読み解くリナは、診療所で開かれる女性たちの会に、自分の情事を自分の口で持ちこむ。会の女性たちは何ひとつ強制できない。それでも望みは、その週の事実であることをやめ、彼女がどういう人間かについての主張になり、部屋はそれを、永久に、審理もなしに裁いてよいことになる。失われるのは管轄だ、とあの文章は書いた。話す前、その望みを解釈するのは彼女だった。話したあと、その意味は、決して閉会しない常設の委員会の手に渡る。

『ブルカの中の口紅』は、同じ管轄の移動を、歯止めのないかたちで見せる。四人の誰も、自分から話すことを選んではいない。どの人も、見つかったのだ。そして彼女たちの望みの管轄を奪う委員会は、意見を持つことしかできない同輩ではない。学業を終わらせられる父であり、始まる前の結婚を終わらせられる婚約者であり、レイプできる夫であり、女性の私生活を道に並べてみせられる家族と通りである。リナの部屋は、裁くことしかできなかった。こちらの部屋は、手を下せる。

だからこそ、最後の場面は、その短さよりずっと重い。すべてが終わったあと、四人はそろって同じ場所にいる。リナの部屋と同じく、同輩たちの部屋だ。そして、リナの部屋とは正反対のことをする。誰も、誰かを裁かない。ひそかに読んでいたものを通りに投げ捨てられたばかりのウシャーが、レハーナーに、あの小説の最後の数ページを読んでほしいと頼み、レハーナーは読む。ひとりの女性が、安手の小説の主人公の声でひそかに読んでいた物語が、いまは別の女性の口から、聞きたいと頼んだ人に向けて、声に出して読まれている。たばこ一本が燃え尽きるあいだだけ、管轄は彼女たちのところに戻ってくる。

小さなことだ。この文章は、それを実際より大きく見せたくはない。何ひとつ元には戻らないし、シーリーンの結婚には何の手も打たれていない。ウシャーの近所は、見たものを見てしまった。けれど、映画が二時間近くかけて、傷の核心として見せてきたものが、ひとつだけ変わっている。この女性たちの望みについての説明を、これまで握っていたのは本人たち以外の全員だった。最後の場面で、それを握っているのは彼女たちだ。それで何をするのかを、映画は語らない。

認証の拒否と、女たちにはなかった上訴

映画そのものの公開も、同じ道をたどった。ただ、ひとつだけ違うところがあり、そこには立ち止まる価値がある。二〇一七年二月、映画祭での受賞から数か月後、インドのメディアは、中央映画認証委員会が『ブルカの中の口紅』への認証を拒んだと報じた。シュリーワースタウの言葉を借りれば、委員会はこの映画をまるごと退け、公開上映に全面的な「否」を突きつけた。事実上の上映禁止である。当時報じられた委員会の書面は、物語が女性本位で、女たちの空想が現実を上回っていると述べ、性的な場面、卑語、音声によるポルノ、そして社会のある一部についての、いくらか微妙な触れ方を問題にしていた。

報じられた理由を、映画を思い浮かべながら、もう一度ゆっくり読んでみる。女性に向いた物語。現実を上回る空想。性的な場面。ある共同体に触れる微妙さ。ほとんど、あらすじだ。委員会は、映画のなかの男たちが見つけるものを見つけた。何かを望み、何かを空想する女たちを。そして、映画のなかの男たちが下すのと同じ判定を下した。同じ年、シュリーワースタウは米国のオンライン誌のインタビューで、もっと乾いた言い方でそれを語っている。上映禁止をめぐる一連の経験は、映画の登場人物たちの物語が、ある意味で映画そのものの物語になっていくかのようだった、と。皮肉なことだった、と彼女は言う。

そして、違うところ。映画は上訴することができ、実際に上訴した。二〇一七年四月、映画認証上訴審判所は委員会に対し、製作側が自ら申し出た削除と、いくつかの追加の削除を条件に、成人向けとして認証するよう命じた。通信社が報じた命令の内容によれば、審判所は、女性本位の物語であることを理由に認証を拒んだ委員会は判断を誤ったとし、女性本位の映画にも、女性の性的な空想と内なる欲望の表現を含む映画にも、禁止を課すことはできないと述べた。シュリーワースタウは、性的な場面を何秒か削らなければならなかった、と語っている。まったく公開できないよりはましだったからだ。

これを、四つの物語の横に置いてみる。映画には、委員会の上に審判所があった。上訴があり、記録に残る理由があり、映画は女性の欲望について描いてよい、という判断があった。レハーナーの上には、父しかいない。リーラーの上には、マノージしかいない。シーリーンには、映画が見せるかぎり、訴え出られる相手が誰もいないし、当時の刑法典はそれを強姦とは呼ばなかっただろう。ウシャーの上には、家族と通りしかない。映画が勝ちとったのは、女たちの誰にも差し出されなかった、ただひとつのものだった。判定のあとに向かえる場所である。

この図書室の「『慕情のアンソロジー』と、聞き届けられる望み、届かない望み」は、翌年に配信されたそのアンソロジー映画が、劇場を通らずに配信へ直行し、映画館で上映する作品を審査するこの機関の前を一度も通らなかったことに目を留めた。その率直さの一部は、作り手の度胸だけでなく、通り道の問題でもあった、と。同じ用心は、ここでは逆向きに働く。委員会で起きたことは、ある年の、ある機関についての事実であって、ひとつの国を測る物差しではない。審判所の判断は、拒否と同じだけ、インドのものである。

映画の弱いところ、この読みが間違っているかもしれないところ

ここからは、反対の読みを、批評家たちが述べたとおりに、できるかぎり公平に並べる。そのうちのいくつかは、正しい。

第一に、イメージそのもの。ネパールのオンライン誌に書いたプージャ・センは、この映画は、伝統と近代という誤った二項対立の古い罠に陥っている、と論じた。口紅やたばこや西洋の服がお決まりのように自由と同一視され、ブルカは抑圧の象徴であることになっている、と。この批判がいちばん強く当たるのは、センが四つのなかで最も説得力に欠けると見たレハーナーの物語で、その指摘は公平だ。この映画が若い女性の自由を示すときのお決まりの記号は、しばしばジーンズ一本とポップソング一曲である。この文章は、映画がブルカを四人全員に隠すことのイメージとして貸し与え、隠すだけでなく、彼女たちを外へ連れ出すものとしても見せている、と論じてきた。それは、いちばんよいときのこの映画には当てはまる。すべての場面には当てはまらない。その記号を単純すぎると感じる観客は、読み違えてはいない。

第二に、連帯。センは、女性どうしの連帯や、もっと奥行きのある友情を想像できないことが、この映画のおそらく最大の欠落だと書いた。パキスタンの英字紙エクスプレス・トリビューンに書いたニスマ・チャウハンは、さらに踏みこむ。女たちは秘密の暮らしの外で、自分自身の主体性を求めようとはしない。映画は奇妙で残念なやり方で、抵抗は無駄だとほのめかすことになっている、と。これは上の読みに対するいちばん強い反論で、まっすぐ答えるに値する。この見方によれば、連帯は四人全員が打ち負かされたあとにやっと訪れ、たばこ一本ぶんしか続かない。女たちがそろうところを、負けたあとでしか想像できない映画は、いったい何を想像したことになるのか。

この文章が差し出せるのは、もっと狭い答えだ。この映画の悲観は、その正確さでもある。インドのニュースサイトに書いたスハシニ・クリシュナンは、あのたばこは、反抗というより、ひとつの経験を分かちあうこと、自分たちがひとりではないと知ることについてのものだと論じ、彼女たちのそれぞれがこれからどうなるのか、映画は多くを答えないまま残している、と指摘した。最後の場面がしていることに近いのは、こちらだ。女たちが勝ったとは言っていない。ごく静かに、起きたことをひとりで抱えている人はもういない、と言っている。それはチャウハンの言う意味での主体性ではないし、この文章もそうだと言い張るつもりはない。けれど、どんな主体性にとっても、その前提ではある。見つかって、ひとりで罰せられた望みは、私的な恥のままとどまる。同じ望みも、自分の望みのせいでいま罰せられたばかりの三人の望みと並べてみれば、本来の姿を見せはじめる。ひとつの型として。

第三に、つくりとしての結末。インドの通信社の評者は、最後の場面をいささか芝居がかっていて無理があると評し、センは、映画が自由を示すのに使うお決まりの記号のなかに、たばこを数えていた。どちらも、短い場面に多くを背負わせた映画への、もっともな反応だ。そして第四に、この読みそのものへの反論。この読みは、その短い場面と、管轄という考え方に、重く寄りかかっている。ひとつの身ぶりから構造をこしらえてしまった、と言う読者がいてもおかしくない。さらにこの読みは、映画の言葉と街の外側から組み立てられている。すべての台詞を聞きとれた批評家たちの紹介を越えるところは、解釈である。

日本で観る

日本で観る人は、まずウシャーの名前のことに気づくかもしれない。日本語にも、女性を名前ではなく立場で呼ぶ言葉がいくつもある。奥さん、お母さん、保育園の送り迎えで呼ばれる誰々ちゃんのママ、そして、知らない人が一定の年齢の女性に向けるおばさん。どれも、意地の悪い言葉ではない。けれど、そうした呼び名ばかりを聞いて長い時間を過ごすことはありうるし、プールで名前を尋ねられたウシャーが自分の名前を口にする瞬間は、思いがけない重さで届くかもしれない。

シーリーンの家で起きていることについて、日本の政府の言葉は、思っているより率直だ。避妊に協力しないことを性的な暴力に数えていた、あの内閣府男女共同参画局のページは、「夫婦間の性交であっても、刑法第177条の不同意性交等罪に当たる場合があります」とも書き、夫婦だからといって、暴行や脅迫を用いた性交が許されるわけではない、と念を押している。そして、挙げた行為は相談の対象になりうるものを記したもので、すべてが配偶者暴力防止法の定める配偶者からの暴力に当たるとは限らない、という注意書きを添えている。

刑法そのものがそれを言葉にしたのは、最近のことだ。二〇二三年七月に施行された改正で、不同意わいせつ罪と不同意性交等罪の条文に、「婚姻関係の有無にかかわらず」という言葉が書き加えられた。法務省の説明によれば、改正前から、婚姻関係があるかどうかは性犯罪の成立に影響しないという見解が一般的だったが、条文の上では明確になっていなかった。改正は、それを確認の意味で、条文にはっきり書いたのだという。

これは、順位づけではない。日本のこの文言は、まだ三年しかたっていない。インドの例外は、インド自身の最高裁判所で問われている。法典は文章であって、人生ではない。どちらの国でも、女性は、どちらの条文も描いていない結婚のなかで暮らしうる。ふたつのページが読む人に差し出すのは、言葉だ。シーリーンの家で起きていることには、役所の平易な日本語で、ちゃんと名前がついている。性的な暴力。そしてそのなかに、避妊に協力しないこと。

家族から遠く離れて日本で暮らす人にとって、野次馬の集まるこの映画の通りは、自分の問題の正反対に見えるかもしれない。ある意味では、そのとおりだ。ウシャーの近所は、見すぎていた。国を移ってきた女性には、見ている人が誰もいないことがある。それは別の危うさだ。気づく人がいない。道に散らばった持ち物を拾い集めてくれる人がいない。この映画の最後の場面は、気づいた三人の女性の場面である。どこの街に暮らしていても、自分にとってそれが誰なのかを、一度考えておいてよい。

この図書室が受け取るもの

秘密はよいものだとか、望みは隠さなければ生き延びられないとかいうことではない。映画はそう言っていないし、この文章も言わない。受け取るのは、ひとつの区別だ。秘密は、いつも嘘だとはかぎらない。ときにそれは、望みに許された、ただひとつの形にすぎない。そういう秘密について問う価値があるのは、なぜ彼女が隠したのか、ではない。隠さなかったら何が起きていたか、である。

発覚の瞬間に向けた問いも、ひとつ受け取る。望みは、いま誰の手にあるのか。父か、婚約者か、夫か、通りか、委員会か。それとも本人と、彼女が話すと決めた人たちか。この映画の残酷さは、望みを本人以外の全員に渡してしまうところにある。ただひとつの慈悲は、最後の場面で、それが本人のもとに戻ってくることだ。

そして、ウシャーを受け取る。この映画のどの瞬間にも、彼女は滑稽ではなかった。あの通りの場面の恥は、物を投げていた人たちのものだ。

もしあなたが、欲しいものを小さく、静かにしておいたことがあるなら。まわりの人たちのあいだで、それが生き延びられるように。この映画があなたに言えることが、ひとつある。助言ではない。しまっておいたことは、嘘ではなかった。望みが、できるかぎりのやり方で生きのびようとしていたのだ。そしてその物語の持ち主は、たとえ誰かに見つけられたあとでも、あなたのままだ。

この文章が拠っているもの、主張しないこと

これは一本の映画の読みである。法律、医療、心理の助言ではなく、どの読者についての言明でも、誰の結婚についての助言でもない。登場人物を含めて、誰のことも診断しない。

この文章を書くにあたって、映画そのものは見ていない。拠っているのは、映画について公開されている記録と、批評家や評者たちの紹介である。台詞はすべて言い換えで示し、正確な引用としては扱っていない。監督とラトナー・パータク・シャーの言葉は、掲載されたインタビューを原典で読んだものだけを紹介している。認証委員会の書面そのものは読んでおらず、報じられた文言は言い換えで示した。審判所の判断は、通信社が報じた内容として紹介している。東京国際映画祭の総評は、国際交流基金アジアセンターの発表から引いた。

インドと日本の法律は、それぞれの条文と裁判所と所管の役所が示すとおりに、その注意書きとともに、記した日付の時点のものとして紹介した。二〇二六年九月のインドの最高裁判所の審理は、報道されたとおりに記している。どちらの国も、もう一方の上に置いてはいない。

ここに名前の出てくる監督、俳優、批評家、映画祭、審判所、官公庁のいずれも、この媒体とは関係がなく、何かを推薦してもいない。

持ち帰る問い

あなたの望みのなかに、ほかの人の目に見えない形でしか、生きてこられなかったものはあるだろうか。それが日の当たる場所に出ていくには、何が要るだろう。

ほかの女性の私的なことが明るみに出たとき、ほんの一瞬でも、通りの側に立っている自分に気づいたことはないだろうか。

あなたのことを、相手にとってのあなたの立場ではなく、名前で呼ぶのは誰だろう。

あなたの欲しいものについての記録が、明日誰かに見つかったとしたら、それは誰のものになるだろう。一緒に声に出して読みたいのは、誰だろう。

日本で相談先を探している人のために。内閣府の「DV相談+(プラス)」は、0120-279-889で、日本語の電話相談を二十四時間受け付けている。チャットでも相談でき、そちらは英語を含む十の外国語にも対応している。緊急のときは、110番に通報できる。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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