Cinema
『Thappad』と、誰も彼女に尋ねなかったこと
夫の栄転を祝う自宅のパーティーで、夫は客たちの前で妻の頬を打つ。彼女を大切に思う人たちは、そんなにひどいことだったのかと尋ねる。大丈夫かと尋ねる人は、誰もいない。この映画は、そのふたつの問いのあいだの距離を描く。耐えなさいと言う人たちと、その理由を。そして、彼が差し出さない謝罪を。
アムリター・サバルワールの一日は、夫より先に始まる。玄関先の牛乳と新聞を取り込み、チャイを淹れ、植木に水をやり、義母の血糖値を測る。夫のヴィクラムを起こして朝食を食べさせ、忘れ物を手に、車に乗りこむ彼を追いかける。そのあいだのどこかで手を止め、きのうと同じ空の一角を写真に撮る。かつてはダンサーになりたかった。いまは隣の家の女の子にダンスを教えている。これは自分で選んだ暮らしなのだと、彼女は言う。本気でそう言っている。
ヴィクラムは、勤め先のロンドン支社への栄転を目前にしている。向こうで住むのは青い扉の家、と彼は思い描いている。ふたりは自宅で祝いのパーティーを開く。その夜のなかほど、ヴィクラムは一本の電話で、社内の駆け引きに昇進を損なわれたと知る。客たちの前で、彼は上司のラージハンスに食ってかかる。アムリターが腕を引いて止めようとする。彼はその頬を打つ。皆の見ている前で。
アヌバウ・シンハー監督の『Thappad』という題は、ヒンディー語で平手打ちを意味する。その出来事は映画のはじめのほうで起きてしまい、映画が描くのは、そのあとのことだ。大丈夫かと尋ねる人は、誰もいない。義母は彼女を客の相手に戻らせ、女は耐えることを覚えるものだと言う。翌朝のヴィクラムは、会社で自分がどれほど恥をかいたかを話す。それから何週間ものあいだ、彼女を大切に思う人たちのほとんどが、言い方を変えながら同じことを尋ねる。そんなにひどいことだったの、と。
もっともな問いに聞こえる。けれどもこの問いは、量るものを間違えている。量っているのは一発の重さだ。どれほど強く、何度目で、どれほど人前で、どれほどのことなのか。そうやって量れば、パーティーでの一度の平手打ちは、いくらでも軽く見せることができる。尋ねる人たちも、嘘をついているつもりはない。映画が尋ねるのは、別のことだ。ヴィクラムが言い争っていた相手はラージハンスだった。打たれたのはラージハンスではない。客であふれた部屋で、自分の出世が目の前で崩れていくそのときに、彼が打ってもいい相手として扱ったのは、妻ひとりだった。この映画の主題は、あの一発が何を告げたかである。重さではない。
この文章は、口にされないふたつの言葉を追っていく。ひとつは、大丈夫かという問い。誰も彼女にそれを尋ねない。もうひとつは謝罪で、彼はそれを差し出さない。そのあいだに、耐えなさいと彼女に言う人たちが立っている。それぞれに理由があり、その理由は、反論される前に、まず聞き届けられていい。
この先について、そして物語のあらまし
この文章は、結末を含めて映画の全体に触れる。先に映画を見ておきたい人は、そうしてから戻ってきてほしい。
記録は短い。『Thappad』はヒンディー語の映画で、アヌバウ・シンハーが監督し、共同で脚本も書いた。インドでは二〇二〇年二月二十八日に劇場公開され、上映時間は二時間半にすこし欠ける。アムリターをタープシー・パンヌ、ヴィクラムをパヴェイル・グラーティーが演じ、ヴィクラムの母スラクシャナーをタンヴィ・アーズミー、アムリターの両親サンディヤーとサチンをラトナー・パータク・シャーとクムド・ミシュラー、弁護士のネートラ・ジャイシンをマーヤー・サラーオが演じている。インドのフィルムフェア賞では、作品賞とパンヌの主演女優賞を含む七部門を受賞した。日本語の公開題はなく、日本でも原題のまま知られている。
パーティーのあと、アムリターは数日を夫の家で過ごし、それから実家に身を寄せる。母のサンディヤーは、娘が夫のもとへ帰ることを願っている。ヴィクラムからは、家に戻れという弁護士名の通知が届く。アムリターは著名な弁護士ネートラを訪ね、妥協を勧められるが、それでも離婚を申し立てる。夫に求めるのは自由だけだ。ヴィクラムの弁護士は、事実でないことを並べた申し立てで応じる。やがて妊娠がわかる。子どもには父親がいる、けれど私は戻らない、と彼女は夫に告げ、夫は子の親権と引き換えに金を差し出す。彼女が家庭内暴力で訴えると告げたところで、彼は協議離婚に応じる。あの夜に彼が怒鳴りつけていた上司のラージハンスは、悪かったのはきみだと、はっきり彼に言う。
そのまわりに、映画は、平手打ちが揺さぶるほかの結婚を並べる。ネートラの夫で、テレビ記者のローヒトは、きみが裁判に勝てるのは判事の義理の娘だからだと言い、そして彼女をレイプする。最後にネートラは結婚写真を箱に詰め、家を出る支度をしている。アムリターの家で働くスニーターは、毎日のように夫に殴られていて、ある日、殴り返す。サンディヤーは夫のサチンに、結婚のために歌をあきらめたこと、そして夫が一度もその理由を尋ねなかったことを告げる。生まれてくる子のための祈りの集まりで、アムリターは夫の家族に言う。あの夜、あなたたちの誰ひとり、私の様子を尋ねなかった。耐えろと言っただけだった、と。義母のスラクシャナーは詫びる。
数か月後、出産を間近に控え、小さな部屋でひとり暮らすアムリターは、離婚を確定させる書類に署名するために裁判所へ行く。そこでヴィクラムは、はじめて彼女に謝る。仕事は辞めた、きみにふさわしい人間になりたい、と。ふたりは離婚し、希望を残して別れる。彼女は自分で車を運転して帰っていく。
誰もが、平手打ちの重さを量る
映画のあいだじゅうアムリターにつきまとう問いは、いくつもの声でやってきて、どれも同じ形をしている。義母の声では忠告になる。耐えることを覚えなさい。母の声では願いになる。帰ってくれたら。弁護士の声は、批評家バラドワージ・ランガンの紹介によれば、たった一発の平手打ちで、という意味の、あきれたようなひとことになる。ヴィクラムの声は、ただの戸惑いだ。自分のしたことよりも、妻の受けとめ方のほうに、彼は動揺しているように見える。
どの声も、平手打ちをひとつの量として扱っている。結婚、家、生まれてくる子、ロンドンでの暮らしといった、ほかの量と並べて天秤にかけるものとして。その天秤の上では、アムリターは口を開く前から負けている。載せられるものが何もないからだ。消えない痣もない。以前にも殴られたという過去もない。誰かが図にできるような繰り返しもない。映画は、そこを意図してつくっている。彼女が指さすことのできる暴力の前歴を、ひとつも与えていない。あるのは、その一発だけだ。そしてその天秤の上では、一発はいつでも軽く見せられてしまう。
アムリターが返す言葉は、そもそも重さの話ではない。ランガンが書き起こしているところでは、彼女が前に進めない理由は、もう自分を尊重できないからだという。彼女が人生に望んでいたのは、尊重と幸せだった。あの一発が前者を奪い、前者とともに後者も持っていった。それは、尋ねられた問いへの答えではない。誰も尋ねなかった問いへの答えだ。あの家族のなかで自分がどこにいるのか、それについて何を知ってしまったのか、という問いへの。
彼女の答えのいちばん短いかたちは、まもなく映画の外へ出ていった。公開から一週間とたたない二〇二〇年三月五日、インド北西部のラージャスターン州警察が、タープシー・パンヌの写真に相談窓口の番号を添えて、ツイッターに投稿した。インドのニュースサイトも、その日のうちにそれを伝えている。添えられた文は、家庭内暴力は平手打ちだ、精神的な嫌がらせも平手打ちだ、というものだった。写真そのものにも、映画の台詞が一行、書きこまれていた。おおよそ、たかが平手打ち、でも彼が私を打っていいはずはない、という意味の一行である。前半は、それがただの平手打ちだったことを認めている。後半は、その重さなど、はじめから問題ではなかったと言っている。
あの一発が告げたこと
この文章が示したい読みは、映画がわざわざ念を押している、ひとつの事実から始まる。あの夜、ヴィクラムが怒っていた相手はラージハンスであり、会社だった。打たれたのは、腕を取りに来た人だった。
数か月後、映画はあの夜の判定を、ラージハンス本人にゆだねる。この結婚にいっさい利害のない、ただひとりの人物である。結局ロンドン行きを手にしたヴィクラムに、ラージハンスは、あの夜悪かったのはきみだ、妻に手を上げるなど許されない、とはっきり告げる。言っているのが誰なのかを考えてみたい。あの夜ヴィクラムが言い争っていた相手、打たれなかったほうの男である。映画のなかでヴィクラムが受けるいちばん鋭い批判は、赤の他人から来る。
そう見れば、あの一発は、ひとつの知らせである。痛みであり、屈辱でもあるが、それだけではない。言葉を使わずに、証人たちの前でなされた、序列についての表明だ。この屋根の下には、打ってもいい人がひとりいる、という。だからこそ、その重さは本題ではない。ささやき声でなされた表明も、表明であることに変わりはない。知っている人たちみんなの前で、アムリターは、青い扉の家に行き着く計画のなかで、自分がどこに立っているのかを告げられた。そしてその計画は、はじめから彼のものだった。
いったん告げられてしまうと、映画は小さな裏づけで満ちていく。何かが起きて読みとれるようになるまで、誰も気づかない種類のものだ。玄関の表札には、夫の名前しかない。車の運転を習おうかと彼女が言えば、彼は、まずパラーターを焼けるようになれと返す。平手打ちの前には、長年の夫婦の冗談のように聞こえていた。パーティーの翌朝、彼は会社で受けた屈辱について長々と話し、自分が大事にされない場所にはいたくないと言う。会社のことだ。彼女がこれから彼のもとを去ることになる、その原理そのものを、彼はひとことで口にする。そして、自分が何を言ったのかに気づいていない。
公平な反論がある。ランガンがうまく述べている。演出を見るかぎり、あの平手打ちは何かをはっきり主張するものというより、じゃまするなと振り払う腕に近く、あれほど我を失った男なら、腕を引いたのが誰であれ打ったかもしれない。相手が男であっても、と。この反論は、きちんと受けとめておきたい。けれども映画は、問いをそこで放っておかない。打たれなかった当の男に、悪いのはヴィクラムだと言わせ、パーティーのあとのすべてを、ひとつの事実の上に組み立てている。ヴィクラム自身を含めて誰ひとり、あの出来事を、人に対してなされたこととして扱わない。皆はそれを、彼の夜に起きたまずい一瞬として扱う。
「大丈夫か」と、誰も言わなかった夜
映画にとって、あの夜は平手打ちで終わらない。その一分後で終わる。自分の部屋に下がったアムリターのところへ、義母がやってくる。様子を尋ねるためではなく、客のところへ戻らせるためだ。パーティーは続いていく。映画は何度もその空白に戻り、やがて、生まれてくる子のための集まりで、アムリター自身がそれに名前をつける。あの夜、誰ひとり私の様子を尋ねなかった。耐えろと言っただけだった。
ふたつの問いを並べてみる。そんなにひどいことだったのか、という問いは、一発を量る。大丈夫か、という問いは、彼女を量る。前者には、その場にいた誰でも答えられる。出来事についての問いだからだ。出来事なら、量ることも、説明することも、彼の重圧や出世と差し引きすることもできる。後者には、彼女しか答えられない。そしてこの問いは、何が起きたのかを決めるのは彼女だと認めなければ、口にすることさえできない。家族にできなかったのは、そこだった。尋ねてしまえば、打たれた側に人がいたことを認めることになる。その瞬間から、あの一発はヴィクラムの夜の出来事ではなくなり、ひとりの人に対してなされたことになる。
家族が見ていたのは、ひとりの人ではなく、ひとつの役割だったのかもしれない。この図書室の「良い妻でいることと、幸せな女でいることが離れる瞬間」は、良い妻という役割には仕様があると論じた。ほかの誰かが点検できる項目の一覧があり、その一覧には、彼女自身のための欄がない。すべての項目で満点をとりながら、自分の生が入るはずだった欄だけが空いている、ということが起こりうる。この映画の最初の数分は、その仕様を一項目ずつ撮ったものだ。牛乳、新聞、チャイ、血糖値、車までの追いかけっこ。そのなかで、どの項目にも属さないものがひとつだけある。空の写真である。あの文章は、そのずれはたいてい出来事なしに開くから名指しにくいのだと書いた。この映画では、ひとつの出来事が、ひと晩でそれを開いてしまう。
この集まりを、『82年生まれ、キム・ジヨン』の祝日の食卓と並べてみたい。そこでは嫁が、夫の家族に本当のことを言えるのは、自分の母の声を借りたときだけで、そのことを本人はあとで覚えていない。アムリターは、自分の声で言う。両方の家族の前で。そして映画は、その場にいた全員がそれを覚えているようにする。そのうえで映画は、最初に謝る役を、誰も予想しなかった人に割りふる。耐えなさいと言ったスラクシャナーが、詫びるのである。パーティーで何かがあったのではなく、アムリターに何かがなされたのだと、家族の誰かが口にするのは、これがはじめてだ。
耐えなさいと言った女たちと、その理由
アムリターに耐えろと言った人たちを悪役にするのは、たやすい。映画はそうしない。彼女たちの理由は、まず聞かれていい。本物の理由であり、どれも、それぞれが自分の結婚のなかで支払ってきたものだからだ。
スラクシャナーは、息子の世話をするために、息子夫婦と暮らしている。映画が描く彼女は、家族を回すことに人生を使ってきた人で、結婚の良し悪しを、それが持ちこたえるかどうかで測るようになっている。耐えなさいとアムリターに言うとき、彼女は、自分が手渡された方法をそのまま手渡している。そしてその方法は、それ自身の物差しでは、うまくいってきた。家族は壊れず、息子は順調で、パーティーも続けられる。人前で割れてしまえば、全員が代償を払う。いちばん払うのは息子だ。彼女は、自分の人生で築いてきた、ただひとつのものを守っている。それは残酷さではない。暮らしを崩さずにおくやり方として、彼女が誰かから教わったのは、それだけだったのかもしれない。
サンディヤーの理由は、もっと難しい。愛情であり、同時に自己防衛でもあるからだ。娘には安全でいてほしい。住む場所があり、ひとりではなく、噂の種にならずにいてほしい。結婚が終わったあとの女の暮らしがどんなものになりうるか、彼女はアムリターよりよく知っている。一度だけ悪い夜があった良い結婚は、それでも良い結婚だと願うのも、無理はない。そして彼女自身にも、終わり近くまで口にしない、懸かっているものがある。彼女は自分の結婚のために歌をあきらめた。娘の決断を最初の日から支える穏やかな夫は、その理由を一度も尋ねなかった。一発の平手打ちを呑みこまなくていいというアムリターの考えが正しいのなら、サンディヤーが何を呑みこみ、それが何のためだったのかという問いに、もう一度向き合わなければならなくなる。自分の人生を問い直すより、娘に耐えてと頼むほうが、たやすいのかもしれない。
ネートラの理由は職業上のもので、それがやがて、個人的なものだとわかる。彼女は、注目を集めたセクハラ裁判に勝ったばかりの弁護士だ。夫の側に金と攻撃的な弁護士がいるとき、争いになった離婚がどう転ぶかを知っているし、一度きりの平手打ちが法廷でどう聞こえうるかも知っている。妥協しなさいという助言は、女たちが負けるのを見てきた人の助言である。そして映画が見せるとおり、それは彼女自身が結んできた取引でもある。夫は、きみの勝利はうちの家名のおかげだと言い、そして彼女をレイプする。結婚していることは、同意ではない。映画は、彼がしていることを和らげずに名指している。ネートラは車の窓から身を乗り出して、外の空気を吸いこむ。アムリターが妥協を断り、ネートラがそのあと勧める多額の財産分与まで断って、離婚だけを求めたとき、動くのはネートラのほうだ。最後に彼女は、結婚写真を箱に詰めている。
三人の女、三つの理由、ひとつの型。どの人も、自分自身の忍耐の内側から、アムリターに忍耐を求めている。そしてどの人も、拒んだときに何を払うことになるかについては、それぞれのやり方で正しい。映画の怒りは、女たちに向いていない。忍耐を、家族を保つための代金にしてしまい、その請求書を世代から世代へ、台所にいちばん近い女に回していく仕組みに向いている。
彼がしなかったこと
ヴィクラムは怪物ではない。映画はそうならないように気を配っている。野心があり、母親と仲がよく、自分の計画に満足している。そして最初の場面から、妻の働きを天気のようなものとして受けとっている男でもある。朝の玄関先の牛乳のように、ただそこにあるものとして。平手打ちが見せるのは、別人のヴィクラムではない。あの暮らしの仕組みが、彼の側からどう見えていたかである。
だから、彼がしなかったことで、彼を読んでみる。彼女の様子を尋ねない。謝らない。翌朝は、自分の屈辱の話をする。彼女が出ていけば、家に戻れという弁護士名の通知を送る。離婚を申し立てられれば、弁護士に事実でない申し立てをさせる。妊娠を知れば、子の親権と引き換えに金を差し出す。そのどれもが、何かを取り戻すための一手だ。妻を、家を、子どもを、あの夜についての自分の言い分を。そしてそのどれひとつとして、あのひとことではない。自分の言い分を手放すこと以外には、何の代償も要らなかったはずの、あのひとことでは。
この図書室の「謝罪より、次に何が変わるかを見たい」は、この結婚にぴたりと当てはまる区別を立てている。謝罪は救済ではなく、事実の認定である。何が起きたのかを、それを否むことにいちばん利害のある人の口から、記録の上に定めるものだ。ヴィクラムは、その認定さえ差し出さない。彼の弁護士の申し立ては謝罪の正反対で、何が起きたのかをめぐる争いである。一方で家族は、謝罪そのものを飛ばして、あの文章が謝罪のあとに来ると書いた段階へ、いきなり進んでしまった。周りが一件落着とみなし、それを持ち出しつづける女のほうが問題に見えはじめる段階へ。アムリターは、まだ誰も認めていないことから前へ進めと言われたのだ。
最後にヴィクラムを同意へ向かわせるのは、彼女の理由ではない。家庭内暴力で訴えるという告知である。家族は、あの一発を人に対してなされたこととして扱おうとしなかった。裁判になれば、話はそこから始まるしかない。映画はそれを何の注釈もなく置いていて、それがこの映画のいちばん苦い観察のひとつになっている。あの平手打ちは、訴えになりうるとわかってはじめて、彼が向き合わなければならないものになる。ノア・バームバックの『マリッジ・ストーリー』は、法の手続きが結婚生活を武器に変えていくさまを描いた。この映画が弁護士たちに割く時間はずっと短く、もっと狭い一点のために使われる。家族が真剣に扱おうとしなかったことを、手続きなら真剣に扱わせることができる、という一点だ。
そして謝罪が来る。離婚が確定するその日に、裁判所で。仕事は辞めた、きみにふさわしい人間になりたい、と彼は言う。この謝罪の意味は、そのタイミングにすべてある。それより前の謝罪なら、どれも取引の申し出になっていただろう。戻ってきてくれ、訴えを取り下げてくれ、子どもを渡してくれ。この謝罪は、もう何も買えなくなったときに届く。だからこそ、謝罪として聞くことができる。何が起きたのかは、これで定まる。結婚がやり直されるわけではないし、映画もそうなるべきだというふりはしない。ふたりは離婚し、希望を残して別れる。彼女は自分で車を運転して帰っていく。運転を習う前にパラーターを焼けるようになれと、かつて言われた人が。
ひとつのことと、それが照らしたもの
この図書室の「ひとつのことで、人は去らない」という題は、ぱっと見には、この映画への反論のように読める。あの文章は、ある研究を引いている。離婚を経験した男女がもっとも多く挙げた理由は、ひとつの出来事ではなく、少しずつ離れていったことだった、という研究だ。そのうえで、名指されないまま少しずつ引いていく気づかいが、相手のすることすべての読まれ方を変えていく仕組みをたどった。一発の平手打ちで去る女性の映画は、その線の向こう側に立っているように見える。
そうではない。正直な理由は、あの文章自身のなかにある。あの文章は、はっきり書いている。虐待のような、ひとつの出来事で関係が終わることを、正当でないとか、去る理由として劣るとか言っているのではない、と。そして、特定の害は、すり減りに言い換えずに、その害の名で呼ぶべきだ、とも書いた。『Thappad』は、その例外を映画にしたものだ。あの一発は、それだけで十分である。彼女が去るのを正当化するのに、長年の小さな引き算は要らない。映画にも、彼女にも。
それでいて、映画はあの文章が描いたこともしている。だからこのふたつは、同じ棚に並ぶ。平手打ちは、それ以前のすべてに光を当てる。そのあとでは、牛乳もチャイも空の写真も、違って見える。家を切り盛りする人になった元ダンサーも、表札も、パラーターの冗談も。あの文章は、最後の一押しと本当の原因が、ひとつの記憶のなかに別々のものとして同居しうると書いた。この映画は、平手打ちを最後の一押しにはさせない。それ自体がひとつの原因であり、同時に、積み重なっていたものが読めるようになる瞬間でもある。出来事は、すり減りと張り合わない。すり減りを暴く。
ここには警告もある。そしてそれは、あの文章自身も望むはずの警告だ。論の文脈から切り離されると、ひとつのことで人は去らない、という一文は、打たれた女性に家族がかける言葉そのものになる。まさか、そんなことで。あの文章はそうは言っていないし、暴力については逆のことを言っている。けれども言葉は、但し書きを置き去りにして、ひとり歩きする。この映画は、ひとつには、そうなったときに何が起きるかについての映画である。
彼女のまわりの結婚
この映画は、一軒の窓が割られた通りのように組み立てられている。どの家も、自分の窓を確かめはじめる。それを図式的だと感じた批評家もいて、その反論はあとで取り上げる。ただ、隣人のうちふたりは、問いを両端から見せてくれるので、もうすこし近くで見ておきたい。
アムリターがダンスを教えている女の子の母で、夫を亡くした隣人のシヴァーニーは、良い結婚を覚えている人だ。夫は一度も自分に手を上げなかった、と彼女は娘に話す。あの夜は何もなかったと、いざとなったら証言してほしい。ヴィクラムにそう頼まれると、彼女はできるかぎりやわらかく断る。ふたりの評者の紹介によれば、いまの頼みは聞かなかったことにする、男の人はみんな夫のようにいい人だと思っていたいから、と言うのだ。尋ねようとしない人ばかりの映画のなかで、彼女は、見たものを見なかったことにしない、ただひとりの証人である。
反対の端にいるのが、アムリターの家で働くスニーターだ。毎日のように夫に殴られ、ある日、殴り返す。映画はふたりの女を並べて置き、そのあいだの距離を縮めてみせる。けれども消してしまいはしない。そして最後に、スニーターには弁護士も、空き部屋のある実家も、自分だけの部屋も与えない。この映画へのいちばん強い反論は、そこから始まる。
映画の弱さと、この読みへの反論
ここから、反対の読みを、できるかぎり公平に述べる。この映画には真剣な批判者がいて、そのうちの何人かは正しい。
第一に、説教くさい。ランガンはこの映画を、力強いが強調しすぎだと評し、とりわけ弁護士ネートラの筋をメロドラマ仕立てだと見た。アムリターが感じていることの多くは、台詞にして言わせるしかない。観客が自分で感じとるのを、映画が信用していないように見えるときもある。台詞が整いすぎていると感じる観客は、間違っていない。
第二に、階級の問題。何人もの評者が、スニーターが戯画として、ときには笑いの担い手として書かれていると指摘し、映画は、お金と弁護士と家族を背にした女たちには扉を開けながら、いちばん苦しんでいる女には開けていないと述べた。もっともな指摘だ。この映画が描く去り方は、手立てをもった人の去り方である。一発の平手打ちが問題になりようのない女たち、いつだって一発では済まない女たちについては、映画自身が思っているほどには、多くを語っていない。
第三に、完璧な妻の問題。ある評者は、映画がアムリターを非の打ちどころのない主婦として念入りに描くせいで、これほど良い妻だったから平手打ちは間違っていた、と言っているように見えてしまうと指摘する。そして、もっと至らない妻なら許されたのか、と問う。この反論は、さらに押し進めることができる。映画は、表札、パラーター、あきらめたダンスと、平手打ちのまわりに不満を積み上げる。一発だけでは足りないから、援軍を呼んだかのように。この文章も同じ細部に寄りかかってきたので、この反論はこの文章にも当てはまる。差し出せる答えは、ひとつしかない。細部は、平手打ちが暴いたものを見せるためにあるのであって、平手打ちを数に入るだけの重さにするためではない。あの一発は、はじめから数に入っていた。
第四に、結末の問題。同じ評者は、妊娠という設定を、去っていく女たちを従順なままにしておく仕掛けとして読み、最後の場面を、映画が勝ちとっていない和解への扉を開けたままにするものと見た。ヴィクラムの謝罪は彼に甘すぎると感じる観客は、正しく読んでいる。ここで言えるのは、もっと狭いことだ。映画は彼に謝る場面を与えたが、結婚までは返さなかった。
最後に、この読みそのものへの反論。平手打ちを衝動と見るランガンの読みは、強力な代案である。それが正しければ、序列について語るこの文章は、振り回された一本の腕に、意味を読みこみすぎている。そしてこの読みは、映画の舞台になった言葉と街の外側から、公開された記録と、すべての台詞を聞きとれた批評家たちの紹介をもとに組み立てられている。そこから先に出るところは解釈であり、この文章はそう明言しておく。
日本で見る、「たかが一度」
日本で見る人は、家族の問いを、自分の知っている言葉で聞きとるかもしれない。たかが一度、と。量っているものは同じだ。そして手に入る数字は、その問いが外からだけでなく、内側からも発せられていることをうかがわせる。
まず、日本の政府自身が、この行為をどう書いているか。内閣府男女共同参画局が配偶者からの暴力のさまざまな形を説明しているページで、身体的なものの例として最初に挙げられているのは、「平手でうつ」である。同じページは、こうした行為は刑法の傷害や暴行にあたる違法な行為であり、配偶者のあいだで行われても処罰の対象になると書き、あわせて、挙げた例は相談の対象になりうるものであって、すべてが法律の定める配偶者からの暴力にあたるとは限らない、と断っている。何回目なら、とは書いていない。
次に、内閣府が二〇二三年の暮れに、全国の十八歳から五十九歳の男女を対象に行った「男女間における暴力に関する調査」。結婚したことのある女性のうち、配偶者から身体的暴行を受けたことがあると答えた人は十五・〇パーセント。その内訳は「何度もあった」が三・八パーセント、「1、2度あった」が十一・二パーセントで、一度か二度という人のほうがずっと多い。身体的暴行、心理的攻撃、経済的圧迫、性的強要のいずれかを配偶者から受けたことのある女性のうち、どこにも、誰にも相談しなかった人は三十六・三パーセントいた。その人たちが挙げた理由でいちばん多かったのは、「相談するほどのことではないと思ったから」で、四十六・七パーセント。三人に一人にあたる三十三・三パーセントが、「自分さえがまんすれば、なんとかこのままやっていけると思ったから」を選んでいる。
これらの数字には、限界を添えておかなければならない。数字が表しているのは、ひとつの調査に答えた人たちであって、日本の女性ではない。理由は用意された選択肢から、いくつでも選べる形で選ばれていて、四つの形の暴力すべてにまたがっている。誰にも相談しなかった女性は、百人あまりの小さな集団だ。そのうち何人が一度だけ打たれた人なのか、この数字からはわからない。インドの数字と並べることもしない。集め方が違ううえに、並べれば、二つの国の勝ち負けの表にしかならないからだ。それでも、この調査が見せているものは狭く、そして役に立つ。映画の家族が外から投げかける、そんなにひどいことだったのか、という問いは、女性が自分自身に向けて問い、沈黙で答えてしまう問いでもありうる、ということだ。
自分の家族から遠く離れて暮らしている人、第二の言語で働いている人、まだ決まりごとを覚えている途中の家に結婚して入った人にとって、あの一分後は、もっと孤独かもしれない。尋ねてくれたかもしれない人たちが、飛行機の距離にいることがあるからだ。
日本で相談先を探している人のために、ひとつだけ書いておく。内閣府の「DV相談+(プラス)」は、0120-279-889で、二十四時間、電話を受け付けている。チャットでも相談でき、そちらは十の外国語にも対応している。緊急のときは、110番に通報できる。
この図書室が受け取るもの
一発の平手打ちで結婚を終わらせなければならない、ということではない。映画はそう言っていないし、この文章も言わない。自分の結婚のなかで何をするかは、その内側にいる人が、外からは誰にも見えないことを知ったうえで決めることだ。この文章が受け取るのは、聞き方である。ある行為の重さは、ひとつの問いだ。その行為が何を告げたかは、もうひとつの問いだ。そして二つめの問いは、それをされた人のものである。
耐えなさいと言う人たちの理由を、それに従わずに尊重するやり方も、受け取る。その理由はたいてい本物で、たいてい代償を払って手に入れたものだ。娘に耐えてと頼む母は、自分の人生の帳尻を守っているのかもしれない。義母は、自分が手渡されたただひとつの方法を、手渡しているのかもしれない。それを聞くことは、それに同意することではない。スラクシャナーの謝罪は、かつて耐えなさいと言った人が別のことを言えるようになると、どうなるのかを見せてくれる。
そして、謝罪のこと。取引の申し出として届く謝罪は、まだ謝罪ではない。数に入る謝罪は、遅れて来るかもしれない。もう何も買えなくなったころに。すでに決まったことを、何ひとつ変えないかもしれない。それは謝罪の失敗ではない。それこそが、それを謝罪にしている。
もし誰かに、あなたにされたことは口にするほどのことではないと言われたことがあるなら、この映画があなたに言えることが、ひとつある。助言ではない。重さは、はじめから問いではなかった。あなたが大丈夫だったかどうか。それが問いで、それに答えるのは、いつだってあなただった。その重さについて誰かが同意してくれなくても、そのことは変わらない。
この文章が拠っているもの、主張しないこと
これは一本の映画の読みである。法律、医療、心理の助言ではない。登場人物を含めて誰のことも診断せず、どの読者についての言明でも、どの結婚についての助言でもない。
この文章を書くにあたって、映画そのものは見ていない。拠っているのは、映画について公開されている記録と、批評家や評者たちの紹介である。台詞はすべて言い換えで示し、正確な引用としては扱っていない。台詞の出どころを示すときは、その台詞を記録している紹介や資料に帰している。公開されているあらすじを越える場面の細部は、複数の紹介が一致するものだけを使うか、ひとりの評者の紹介であることを明記した。
インドの離婚や家庭内暴力をめぐる法律は、映画が使うかぎりでしか出てこない。弁護士名の通知、申し立て、訴えるという告知、協議離婚。日本の政府のページと調査は、書かれているとおりに、その限界とともに紹介した。ある国の数字を、別の国の数字と比べることはしていない。
ここに名前の出てくる監督、俳優、批評家、警察、官公庁のいずれも、この媒体とは関係がなく、何かを推薦してもいない。
持ち帰る問い
誰かが、自分の身に起きたことを話してくれたとき、あなたが先に尋ねるのはどちらだろう。どれくらいひどかったのか。それとも、大丈夫か。
耐えなさいと言われた一文を、いつのまにか自分が誰かに言っていた、ということはないだろうか。その一文は、もともと誰のものだったのだろう。
アムリターに耐えるよう求めた人たちのうち、いちばん理由がわかるのは誰だろう。その理由に従わずに、それを尊重するには、何が要るだろう。
何も求めない謝罪は、どんなふうに聞こえるだろう。そういう謝罪をしたことが、あるいはされたことがあるだろうか。
あなたの一日のなかに、どの一覧にも属さないものがひとつあるだろうか。それを知っている人は、いるだろうか。
ほかの章から読む
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。