Cinema
『プロミシング・ヤング・ウーマン』、聞こうとしない人たちに聞かせる代償
エメラルド・フェネルのこの映画が見つめるのは、ひとつのレイプそのものよりも、それを聞こうとしなかったまわりの人々だ。友人、学部長、弁護士、そして見物し、撮影していた同級生たち。主人公は復讐を、彼らが拒めないただひとつの言葉に変え、映画はその言葉を話す女性が支払うものを、最後の最後まで数え続ける。
クラブで、女がひとり、ぐったりと身を沈めている。見たところ、携帯電話を探すことも、立ち上がることもできないほど酔っている。近くにいる男たちがその姿を眺め、ひとりが、こういう女は自分から危ない目に遭いにいくのだ、という昔ながらの台詞を口にする。べつのひとり、やさしいほうの男が、大丈夫かと声をかけにいく。家まで送ると言いながら自分の部屋へ連れて帰り、もう一杯注ぐ。やがて寝室で、彼がはじめからそのつもりだったことに取りかかったとき、彼女は身を起こし、急にすっかりしらふになった声で、何をしているのかと尋ねる。
エメラルド・フェネルの『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、こうして始まる。この問いに、映画のすべてが小さく詰まっている。何をしているの。悲鳴でも、脅しでもない。説明を求める問いだ。一度も説明を求められたことのない男たちに向けられた問いであり、彼らに返せる説明は、自分がどんな人間かという話しかない。自分はいい人だ。ふたりのあいだには、通じ合うものがあったと思った。
彼女の名はカサンドラ、親しい人たちはキャシーと呼ぶ。ギリシア神話のカサンドラは、真実を予言する力を与えられながら、決して信じてもらえないという呪いをかけられた。よく知られた語りでは、その呪いは、神の求めを拒んだことへの罰だった。作家のカルメン・マリア・マチャドはニューヨーカー誌にこの映画について書き、その名がどれほどぴたりと合っているかを見てとった。このカサンドラには、名の由来になった巫女の明晰さと予言の力がある。誰も聞いていないのは、彼女のせいではない、と。
この文章は、『プロミシング・ヤング・ウーマン』を、復讐の映画である以上に、聞くことについての映画として読む。キャシーのいちばんの親友はレイプされ、そのまわりにいた人々は、それぞれのやり方で、それを聞かなかった。友人、医学部、弁護士、その場にいた同級生たち、そして最後には警察。映画はそのどれをも、ありふれたものとして、ときには親切なものとして描く。キャシーがバーで、そして親友を見捨てた人々に対してしていることは、誰も受けとろうとしなかった話を、彼らが拒めないただひとつの言葉に訳し直すことだ。その言葉とは、彼ら自身の恐怖である。この言葉は通じる。そして映画は、それがただではないことを一度もごまかさない。映画が最後に見つめるのは、その言葉を話す女性が何を支払うのか、ということだ。
観るのがつらい映画であり、それ以上に、気持ちの置き場を決めにくい映画でもある。結末は批評家と観客を二分し、いまも二分している。この文章は自分の立つ場所を述べ、そのうえで、反対の論もできるかぎり公平に並べておく。
この映画のあらまし、そして結末にふれることについて
まず記録から。『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、エメラルド・フェネルが脚本も手がけた長編監督デビュー作で、キャリー・マリガンがキャシーを演じる。ライアンをボー・バーナム、マディソンをアリソン・ブリー、医学部の学部長をコニー・ブリットン、ニーナの母をモリー・シャノンが演じ、アルフレッド・モリーナがクレジットなしで弁護士として登場する。米英の製作で、二〇二〇年一月二十五日にサンダンス映画祭で初上映され、同年十二月二十五日に米国で公開された。フェネルはこの作品でアカデミー賞の脚本賞を受け、英国アカデミー賞でも脚本賞と英国作品賞を受けている。日本では二〇二一年七月十六日、パルコとユニバーサル映画の配給で公開された。
キャシー・トーマスは三十歳。何年も前に医学部を去り、両親の家で暮らしながら、コーヒーショップで働いている。夜になるとバーへ行き、立っていられないほど酔ったふりをする。男が彼女を家に連れ帰り、つけこもうとしはじめると、芝居をやめ、しらふで相手を問いつめる。理由は、幼なじみの親友ニーナ・フィッシャーにある。医学部のパーティーで、ニーナは同級生のアル・モンローにレイプされ、ほかの学生たちはそれを見て、撮影していた。大学はニーナの訴えを退けた。ニーナは医学部を去り、のちに自ら命を絶った。キャシーも、医学の道を捨てた。
映画はそのレイプを一度も映さない。この文章も、それを描写しない。それはレイプだった。映画のなかの人々はそれを別の名で呼ぶか、名で呼ぶことさえしない。そしてそのこと自体が、この映画の主題の一部である。撮影もまた、害の一部だった。撮影は、残しておいて見返すことのできる記録をつくった。その記録は当時、同級生たちのあいだに送られて回り、何年もたってからも、ひとりの友人の携帯電話のなかに残っていた。
そこへ、医学部の元同級生で、いまは小児外科医になったライアン・クーパーがコーヒーショップに現れ、彼女を食事に誘う。彼といると、キャシーは何年かぶりに幸せを感じはじめる。けれどもライアンから、アルがもうすぐ結婚すると聞いたとき、彼女は、あのことを許した人々のもとへ向かいはじめる。飲みすぎたニーナが悪いと責めた友人マディソン。訴えを退けた学部長。アルを弁護した弁護士。ニーナの母は、もうやめて自分の人生を生きてほしいと懇願し、キャシーはそうしようとする。
この文章は、結末を含めて、作品のすべてにふれる。映画が自分の議論を仕上げるのはその結末であり、まだ観ていない人は、先に自分でそこへ出会いたいかもしれない。結末は後の節であらためて扱い、その前にもう一度断りを入れる。作品についての記述は、公に残された作品の記録と、批評やインタビューにもとづいている。二〇二一年にバラエティ誌が全文を公開した脚本とも照らし合わせた。脚本と完成した映画が食い違いうるところでは、映画の記録に従った。台詞はすべて言い換えであり、そのまま引いたものはない。
酔ったふりをする夜に、彼女がしていること
まず、バーの場面から。映画がそこであまりに自信に満ちているので、それが何のためにあるのかを見落としやすい。毎週、キャシーはちがう服で出かけ、立っていられないほどの酔いを演じ、待つ。長くはかからない。心配そうな男、送っていくという申し出、もう一杯。夜は冒頭の場面と同じように進み、同じ問いで終わる。家に帰ると、子どものころから使っているベッドの下に隠したノートに、印をひとつつける。ページはもう、その印で埋まっている。
この仕掛けが示すのは、危険な男もいる、ということではない。危険な男が誰だったのか、ということだ。路地から飛び出してくる見知らぬ男ではない。助けようと近づいてくる男たちである。映画は、やさしくて害のない男の役で知られた俳優たちを、こうした役に配した。米国の公共ラジオで映画評を書くリンダ・ホームズはその意図を受けとめ、この映画は、いい人の男たちについて、そして自分をいい人だと、あるいはまあまあいい人だと思っている男たちについて何かを言っている、と書いた。映画が疑っているのは、その言葉である。あの寝室のなかで、いい人であることは、男についての事実ではない。男が自分について語る物語であり、その物語は、ちゃんと役目を果たす。目の前の人がそもそも何かに同意しているのか、というたったひとつの肝心な問いを、飛ばさせてくれるのだ。
彼女は同意していない。男の知るかぎり、同意できる状態でもない。それが映画のもっとも平明な主張であり、映画はそれを演説なしに言う。立っていられないほど酔った人は、自分にされていることに同意できない。酔っていることはイエスではない。彼の部屋にいることも、一杯を受けとったことも、いやと言わなかったことも、イエスではない。通じ合うものがあったという思いこみは、彼についての事実であって、彼女については何も語らない。映画はこれらの場面を削りに削り、あとで言い争える材料を部屋から取り去ってしまう。残る問いはひとつだけで、それがそのまま試験になる。目の前の女性が拒めないとき、その男は何をするのか。その試験に落ちるのは、自分なら通ると信じきっていた男たちである。
同じくらいはっきり書いておく。これは映画の仕掛けであり、体を与えられた思考実験のようなものだ。この文章は、誰かがこれに似たことを試すべきだとは少しも言っていない。映画自身も、そこに甘くはない。最後の幕はまるごと、その綱渡りがはじめからどれほど危ういものだったかを見せる。
あの部屋で彼女が尋ねるのは、なぜ、でも、よくもそんなことを、でもなく、何をしているのか、だ。男たちは、自分がどういう人間かを語ることでしか答えられない。映画の残りは、ニーナに起きたことについて説明を求められながら、それぞれのやり方で説明しなかった人々の物語である。
聞かないための、いくつものやり方
レイプのまわりにいた人々は、誰もが、聞かないためのやり方を持っていた。そしてそのどれもが、内側からは残酷には見えない。
マディソンは友人だった。彼女が聞いたのは、飲みすぎた女の話だった。そして彼女は、ニーナは狼少年のように騒いでいるだけだと決めつけた。これは、責めることの文法だ。何かが起きたこと自体は否定しない。ある種の女の話にどれだけの値打ちがあるかを、先に決めてしまう。そして聞き手に、自分は友を裏切ったのではなく、見る目があったのだと感じさせてくれる。
学部長は訴えを聞き、証拠が足りないとした。彼女の文法は手続きだ。訴えられた側への公平。疑わしきは罰せず。言った言わないの水掛け論。どの言葉も、現実にあって守る価値のあるものを指している。けれども、この映画が描くように、こうして並べて使われたとき、それらの言葉がしたことはひとつしかない。あの話が、ほんとうの意味で吟味されることが一度もないようにしたのだ。
弁護士は、それを依頼人にとっての問題として聞くことで報酬を得ていた。ニーナの信用を崩し、訴えを取り下げるまで追いつめた。これは報酬の文法であり、彼女を信じないことを、職業上の務めに変えてしまう。
そして、同級生たちはその場にいた。見て、笑い、撮影した。彼らの文法はパーティーだ。彼らにとって、あの夜はひとつの話の種だった。映画に出てくる聞かないやり方のなかで、これだけは、理由さえ必要としなかった。
マチャドは、この映画のなかでレイプという言葉が一度も口にされないことに気づいていた。代わりに口にされるのは、部屋がその言葉を避けるための言い回しだ。あのこと。訴え。まずい選択。言った言わないの話。遠回しな言葉は飾りではない。聞かないことは、そうやって行われるのだ。
この図書室の「スウェーデン。法が「抵抗したか」を問うのをやめ、そして数字は上がった」は、同意を軸にした法でさえ届かないのは部屋だ、と書いた。けがも第三者もない事件では、何か月もたってから、見知らぬ人たちを前に何が起きたのかを語らなければならず、しかも相手は、それを別様に語る。ニーナの事件は、その正反対だ。部屋は第三者でいっぱいで、そのひとりはカメラを構えていた。証拠はあった。欠けていたのは、それを聞こうとする人だった。
拒めない言葉としての復讐
アルが結婚すると知ってから、キャシーは、聞かなかった人々のもとへ向かう。彼女が彼らにすることは、この映画でいちばん居心地の悪い部分であり、よく見ておきたい。それは、復讐という言葉から思い浮かべるものとは、少し違うからだ。
キャシーはマディソンを昼食に誘って酔わせ、ホテルの一室で目を覚ました彼女に、自分はそこで襲われたのだと思いこませる。飲みすぎたニーナが悪いと責めた彼女は、自分の身に何が起きたのかわからないまま取り残される。
ニーナの訴えを退けた学部長には、彼女自身の娘が、ニーナの襲われたあの部屋へ連れていかれたと信じさせ、そのあとで、娘は無事だと告げる。若い男には惜しみなく与えられた「疑わしきは罰せず」は、自分の娘があの部屋にいると考えたとたん、跡形もなく消える。
この図書室は、同じ転回を日本のドラマのなかにも見つけていた。「『問題のあるレストラン』と、「問題」にされた人たち」が描くのは、自分の娘が同じ目に遭ったらと想像すれば何が間違っているのかをはっきり見てとれるのに、実際にその目に遭った女性のためには立ち上がらない部長である。学部長は、その想像を、選ぶ余地もなく押しつけられる。
どちらも身体への暴力ではなく、ふつうの意味での罰でもない。どちらも翻訳である。キャシーの手もとには、誰も受けとろうとしなかった話がある。ニーナはそれを訴え、聞いてもらえなかった。だからキャシーは議論をやめ、聞き手を、もう聞かずにはいられない場所へ移す。自分自身の恐怖、あるいは愛する誰かを思う恐怖のなかへ。一文しかない言葉だ。その一文とは、これでわかったでしょう、である。
それは残酷でもあり、映画はそれを残酷なままにしておく。ロサンゼルス・タイムズ紙で評を書いたジャスティン・チャンは、この映画は観客の共感と、他人が報いを受けるのを見る快さとを強く揺さぶり、その二つが実は固く結びついていると示そうとしているかのようだ、と書いた。恐怖が降りかかるのは、誰もレイプしていない人々だ。マディソンの怯えはほんとうの怯えであり、学部長の恐怖もほんとうの恐怖である。その教訓が恐怖に見合っていたのかどうかを、映画は言わない。問いは観客の手に残される。問いは、そこにあるべきなのだ。
この言葉が変わっているのは、その多くが話し言葉でできていることだ。ジャンル映画の復讐は、しばしば、理解されることを必要としなかった。梶芽衣子が一九七二年に演じた『女囚701号/さそり』の復讐者は、沈黙の復讐者である。キャシーは、問うことをやめない。何をしているの、とバーの男たちに問う。マディソンには、何が起きたのかわからないということがどういうことなのかを知ってほしい。学部長には、想像しようとしなかったものを感じてほしい。そして最後には、ある男に、自分のしたことを自分の言葉で言わせようとする。彼女の復讐は問いでできていて、そのたびに求めているのは答えだ。この文章がそれを、罰ではなく言葉と呼ぶのは、そのためである。
見ていた男
ライアンは、この映画でいちばん巧みな仕掛けであり、いちばん残酷な仕掛けでもある。コーヒーショップに入ってきて、医学部で一緒だった彼女に気づき、うっかり失礼なことを言い、それでも通い続ける。おかしくて、やさしくて、急がない。しばらくのあいだ、映画はロマンティック・コメディになり、パリス・ヒルトンの歌に合わせて一緒に歌う場面まである。そしてキャシーは、何年かぶりに幸せになる。両親にも彼を紹介する。ホームズは、彼の登場によって、キャシーがほんとうにいい人かもしれない男に出会ったらどうなるのか、という問いが開かれると書いた。
そこへ、取り乱し、悔いたマディソンが、一台の携帯電話を持ってくる。そこにはニーナがレイプされたときの動画が残っていて、それを見ている同級生のなかに、ライアンがいる。ライアンは、酔っていて覚えていないと言い、許してほしいと懇願する。キャシーは許さない。動画をちらつかされたライアンは、アルの独身最後のパーティーの場所を教える。
ライアンは誰もレイプしていない。見ていたのだ。彼は、この映画が描いているものの、もっとも正確な像である。この映画の主題は、害をなす男ではなく、それをさせてしまう部屋だからだ。そして映画は、傍観者がどうつくられるのかを正確に描く。酔っていた。若かった。仲間がいて、将来があった。理由はどれも小さく、どれも十分だった。人でいっぱいの部屋では、誰もが、ほかの誰かが何かするだろうと考えていられる。フェネルは彼について、要するにこう語っている。彼は善い人間でありたいと心から願っている。けれども、そのために自分の人生を吹き飛ばすつもりはないのだ、と。
クリス・フランツは二〇二四年の学術論文で、その場面の小さなことに目をとめている。キャシーが動画を見せると、ライアンは、自分が何をもう一度見ているのかを理解したとたん、見るのを拒む。フランツの読みでは、その拒絶は、自分の加担を否認するやり方だ。傍観者の反射が、そこに縮図のように現れている。起きたことを否定するのではない。見ることを断るのである。
映画はここで、読み飛ばされやすいけれども大事な配慮をしている。この映画が相手どっているのは、男というもの全体ではない。ニーナをもっとも深く見捨てた人々のうち二人は、マディソンと学部長という女性であり、映画のなかで自分のしたことに正面から答えるただひとりの人物は、男である。映画が追いつめるのは仕組みだ。いい人だという自己像が、前もって言い訳を用意してしまうこと。そして、誰もがほかの誰かを待っていられる部屋。マチャドは、この映画が観客に、善い男がひとりはいるという慰めを与えないことを、正しいと感じた。この文章の読みは少し違う。仕組みは、誰かの本性についての判決ではない。誰でもそれを見てとることができ、誰でもそれを断ることができる。だからこそ映画は、断らなかった者たちに、その責めを負わせるのだ。
一度も画面に現れないニーナ
女性を画面にどう置くかについて、この映画の選択は、男たちの配役と同じくらい意図的だ。映画はダンスフロアから始まる。カメラは、オフィス用のチノパン姿で踊る男たちの体に、長々ととどまる。映画がこれまで女性の体にとどまってきたのと、同じやり方で。冗談であり、同時に意味がある。舐めるような視線はひとつの文法であり、どこへでも向けることができるのだ。
キャシー自身は、役のための衣装をまとっている。昼はパステルカラーに花柄、三つ編み。マチャドはそれを羊飼いの娘にたとえた。夜になると、その色合いは毒々しく変わる。バーでは、男たちが見つけたいと思っている女、酔った娘、たやすい獲物を演じる。その役そのものが罠になる。
もっとも重要な選択は、映さないものについての選択だ。映画はレイプを一度も映さない。キャシーが動画を見る場面でも、観客が見るのは動画ではなく、彼女の顔である。フェネルの手もとには、性暴力の場面に長々ととどまってきたこのジャンルの歴史がまるごとあった。彼女はそのすべてを断った。ニーナの体は、二度目の観客に向けた二度目の見世物にはされない。あの動画は、すでに一度、彼女にそれをしていたのだから。
そしてニーナ自身は、一度も画面に現れない。彼女は他人のなかにだけいる。母の思い出のなかに、二つに割られた友情のペンダントのなかに、その名前のなかに。フランツは、この不在は意図されたもので、被害者を魅力的な体として差し出してきたジャンルの古い習慣を拒むものだ、と論じる。きっとそのとおりだろう。それはまた、この映画のもっとも厳しい限界でもある。誰にも聞いてもらえなかった女性についての映画が、観客にも彼女の声を聞かせない。映画批評サイト「ディープ・フォーカス・レビュー」のブライアン・エガートは、観ているあいだずっとニーナのことを考えていたが、母親の思い出話と終盤のひとつの場面のほかには、彼女についてあまり多くを知らされない、と書いた。映画はそこで誠実なのかもしれない。彼女の声は奪われたのであり、映画はそれを偽ってこしらえはしない。けれども、その誠実さの代償として、物語のなかでもっとも傷つけられた人が、もっとも沈黙した人にもなっている。
悲しみと罪悪感、そしてひとつの赦し
復讐の筋書きの下には、止まってしまった人生の肖像がある。キャシーは三十歳で、子どものころの部屋で眠り、かつて手にしていたはずの将来を、ひとつ残らず手放してきた。ジェニファー・クーリッジとクランシー・ブラウンが演じる両親は、娘を愛していて、どうすればいいのかわからない。マチャドは、キャシーの前にある問いを、止まってしまった人生を先へ進めるのか、それを止めた人々を罰し終えるのか、とまとめた。映画が許すかぎりで、それはもっとも正確な要約だろう。映画はそのどれにも臨床的な名前をつけず、この文章もつけない。映画が見せるのは、悲しみと、罪悪感と、片方が死んでも終わらなかった友情である。
誰よりも深い悲しみを背負っている人が、この映画でいちばんつらいことを口にする。ニーナの母は、もうやめてほしいとキャシーに頼む。手放して、生きてほしい、ニーナはあなたが自分を壊してまでこんなことを続けるのを望まなかったはずだ、と。映画はその声を、少しも軽く扱わない。キャシーの復讐はニーナの名のもとに行われ、ニーナの母はそれを何ひとつ望んでいない。では、追い求められているのは誰の訴えなのか。もちろんニーナのものだ。キャシー自身のものでもあり、映画が彼女に与えている罪悪感のものでもある。映画はそれらを切り分けない。切り分けられるふりをするのは、不誠実だろう。
フェネルは、主人公の前にある選択を二本の道として語ったことがある。ひとつは明るく楽な道、もうひとつは険しく孤独な道。険しいほうを選ぶのは誰なのか、と。映画のキャシーは険しいほうを選び、しばらくのあいだその道を外れ、動画が届いたその瞬間に、ふたたびその道へ戻る。
学部長の場面のあとに、この文章がこの映画の道徳の中心と考える場面が来る。キャシーは、アルを弁護した弁護士の家へ、彼を罰するつもりで向かう。そこで見つけるのは、自分のしたことにすでに打ちのめされている男だ。彼は、自分を決して許さないと言う。キャシーは、彼を許す。この映画で彼女の言葉がいらなかったのは、このときだけである。聞き手が、彼女より先にそこへ着いていたからだ。これを、自分を守ったまま許しを請い、拒まれるライアンと並べてみる。映画の規則は、静かで正確だ。赦しは、すでに聞いた人のところへ行く。
この図書室の「『シークレット・サンシャイン』と、すでに与えられていた赦し」は、傷ついた本人の訴えを第三者を通して決着させ、決着済みのものとして本人に返してくる慰めのかたちを書いた。『プロミシング・ヤング・ウーマン』にも同じ構造があり、映画はそのことを知っているように見える。ニーナは誰も許すことができない。この物語のなかの赦しは、どれも彼女の代わりに、ほかの誰かによって与えられるしかない。あの文章が警戒していたのは、まさにそういう決着だった。映画はそれを一度だけ認め、しかも、キャシーが戸口に立つより前に、言い訳するのをやめていた男にだけ認める。
結末と、彼女が支払ったもの
ここから先は、映画の結末にふれる。
キャシーは変装して、人里離れた山小屋で開かれるアルの独身最後のパーティーへ向かう。彼の友人たちに薬を盛り、アルの自由を奪い、自分のしたことを言うよう求める。彼は言わない。彼の話のなかでは、ひどい目に遭ったのは告発された自分のほうだ。キャシーは、あらゆる女性にとっての最悪の悪夢が何なのか、あなたにわかるかと問う。そして、ニーナの名を彼の体に刻むと告げる。今度は彼がその名を負う番だ、と。もみあいのなかで、アルは彼女を殺す。友人のひとりが、彼のしたことを隠すのに手を貸す。
映画はそこで終わらない。出かける前、キャシーは動画を弁護士のジョーダン・グリーンに送り、自分が戻らなければ警察に届けてほしいと頼んでいた。両親が彼女の失踪を届け出る。警察に話を聞かれたライアンは、彼女の行き先については何も言わず、調子を崩していたとだけ話す。アルの結婚式に警察が現れ、彼をキャシー殺害の容疑で逮捕する。ライアンの携帯には、彼女があらかじめ手配していたメッセージが次々と届く。最後の一通には、キャシーとニーナ、二人の名前が並んでいる。
フェネルは、どうしてこの結末にたどり着いたのかを語っている。最初の稿はキャシーの死で終わっていて、出資者たちが難色を示したという。はじめに思い描いていた、キャシーがあの部屋に乗りこんで勝利を収める結末は、書かれることさえなかった。それを誠実に見せる方法はない、それは本当ではないから、と彼女は言う。男と同じ部屋で男を脅す女が、ほかのかたちで終わるところは想像できない、どれほどそうあってほしいと願っても、と。キャシーは英雄だが、その英雄ぶりは多くの意味で痛ましく、正しくないのかもしれない、それでも彼女がしたことは、彼女にとってそれしかできないと思えたことだった、とも語っている。
この文章が結末から受けとるのは、次のことだ。映画のほとんどのあいだ、キャシーの言葉は恐怖であり、恐怖は通じる。マディソンに届き、学部長に届く。山小屋で、言葉が変わる。人を怯えさせることから、体を脅すことへと移る。そして体という文法のなかでは、強いほうが決める。この映画で、彼女の言葉が勝てなかったのはそこだけであり、そうでないふりをすることもできた映画は、そのふりをしない。
そして、最後に勝つ計画は、復讐ではまったくない。届け出である。弁護士への小包、失踪届、刑事、逮捕。最後の最後に、キャシーは自分の話を、まわりの制度がずっと受けとってきた唯一の言葉、つまり証拠へと訳し戻し、制度はそれを受けとった。けれども、受けとられたものを見てほしい。容疑は、彼女の殺害である。ニーナのレイプは、映画が見せるかぎり、いまも事件になっていない。ニーナの死は、誰の戸口にも警察を連れてこなかった。キャシーの死は連れてきた。この世界で聞いてもらうための敷居は、証拠のそろった殺人だったのだ。
見落としやすいことがひとつある。アルが受けとるのは警察だ。ライアンが受けとるのは言葉である。最後のメッセージは、見ていた男のもとへ、結婚式の招待客のなかに立つ彼のもとへ届く。聞かせるための最後の行為は、傍観者に向けられている。そしてそこには、キャシーの名の隣に、ニーナの名が記されている。
だから、何が支払われたのかは明らかであり、映画もそれをやわらげない。聞いてもらうために、キャシーは命を支払った。それより前のどの時点でも、聞くことのできた人々が払うはずだったものは、ほとんど何もなかった。友人が信じること。学部長が問いかけること。弁護士が仕事を断ること。同級生のひとりが携帯を下ろすこと。その二枚の請求書の額の差が、そっくりこの映画の議論である。
結末への批判と、この読みへの反論
結末については、公開当初から批評家の意見が分かれてきた。その対立はきちんと並べておきたい。当たっているものもあるからだ。
この映画を高く評価したマチャドでさえ、映画がほんとうにつまずいているのは、おそらく一か所だけだと考えた。警察が勝ち誇ったように到着する場面だ。それは、警察と法制度が、レイプされた女性にとって正義への現実的な道であるかのように見せてしまう。ただし彼女は、話はそれほど単純ではないとも書いた。あのきれいなどんでん返しは、キャシーが殺されたという厳しい事実の上に成り立っているのだから。フランツは同じ点をもっと鋭く突く。レイプ犯を守る制度をこれほど批判しながら、結末は警察を救い手として描いており、別の高額な弁護士がアルの自由を取り引きで買い戻せないと示すものは何もない、と。
エガートはさらに踏みこむ。キャシーの死で映画が終わっていたら、その大胆さに打ちのめされただろう、と彼は書いた。計画が明かされ、男たちが報いを受ける結末部は、悲劇であるべきものを、ほとんど正しさの証明に変えてしまう。結末は、心をかき乱すというより、悪ふざけのように感じられる、と。チャンは、結末を大胆であると同時に自信なさげでもあると評し、喜びと怒りを溶け合わせようとする試みは、ひとつにまとまりきっていないと書いた。ただ、それがばらばらになっていくさまを見ることには、否定しがたいスリルがある、とも。
まさにこの点で、結末を擁護する声もあった。マチャド自身、警察の描き方には疑問を示しながらも、結末を、思いもよらない種類の勝利と呼んだ。そして、この映画の復讐を一種の自己破壊として読んだ。カタルシスも満足も与えず、ひとつの問いを投げかけるためのものとして。
フェネル自身の説明は、その一部に答え、残りを認めている。あの部屋を誠実に描くなら、ほかの終わり方はなかったと彼女は言い、キャシーの英雄ぶりは痛ましく、正しくないのかもしれないとも言う。さらに、心のなかでは、物語は最初の稿のところで終わっていたはずだとも語っている。エガートが終わってほしかった場所の、すぐそばである。映画は自分についてそう知っている。それでも、最後の一笑いを楽しんでいると責められたなら、それは公平な非難だろう。
この文章の読みにも弱点があり、ひとつ目は深刻だ。復讐を、聞いてもらうための要求として読むことは、映画を実際よりも立派なものに見せてしまうかもしれない。これはポップソングに彩られ、最後の画面にウインクの絵文字を置くブラックコメディであり、この文章が認める以上に、ただ復讐を楽しんでいるのかもしれない。エガートの異議は、この文章にもあてはまる。悪ふざけの部分を含むものに、議論を見つけてしまうことはありうる。
ふたつ目は、この言葉が通じるのは、筋書きがそれを必要としているからだ、ということ。映画のなかでは、計画は書かれたとおりに成功する。映画の外では、同じ行為の多くは、さらなる害と恐怖を生むだけで、誰かに聞いてもらえることにはつながらないだろう。映画自身の結末が、その証拠である。
三つ目は、この図書室自身から来る。「『I MAY DESTROY YOU / アイ・メイ・デストロイ・ユー』、彼を必要としない結末」は、復讐もまた、男を中心に組み立てられたあらゆる結末と同じように、彼を彼女の人生の中心に据え続ける、と論じた。『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、ほとんどその証明のような映画である。キャシーの最後の夜は、すっかりアルを中心に組み立てられ、彼女の最後の数年は、ニーナを見捨てた人々を中心に組み立てられていた。この文章は、映画がそのことを知っていて、それを代償として数えていることを示そうとしてきた。知っているだけで足りるのかどうかは、示せていない。
そして四つ目。映画のなかの制度は、手早く大づかみな風刺として描かれていて、この文章はそれを肖像として読んできた。学部長を戯画だと感じる読者や、いい人の男たちは的として易しすぎると感じる読者は、映画のやり方について、間違ってはいない。
日本で観るということ
この映画が日本の映画館に届いたのは、二〇二一年七月だった。その二年後の二〇二三年七月、日本の性犯罪の規定は、同意のなさを軸に組み立て直された。そして、その改正と並んで、別の新しい法律も施行されている。性的姿態撮影等処罰法である。この法律は、人の性的な姿を一定のやり方で撮影することを、それ自体として罪にした。そこには、同意しない意思を形成し、表明し、全うすることが難しい状態を利用して撮影することも含まれる。そうして撮られた記録を人に提供することも、罪になった。法務省はその理由をはっきり説明している。意思に反して撮られた記録があれば、撮影のとき以外にも、ほかの人にそれを見られる危険が生まれ、ついには不特定多数の人に見られるという重大な事態にもなりうる、と。あの映画の動画が運んでいたのは、まさにその害である。この文章は、架空の人物に法を当てはめはしない。日本の法が、いまでは撮影という行為を、それだけでひとつの害として名指している、ということだけを記しておく。
同じ改正で、性犯罪の公訴時効は五年延ばされた。法務省の説明は、ゆっくり読んでおきたい。性犯罪の被害は、ほかの犯罪と比べて表に出にくい。恥ずかしいという気持ちや、自分が悪いという気持ちから申告が難しく、被害者のまわりの人たちも被害に気づきにくいからだ、という。五年という長さは、無理やりに性交等をされ、それを誰かに相談した人が、相談するまでにどれだけの時間がかかったかを尋ねた内閣府の調査を踏まえて決められた。法は、聞いてもらえるまでにかかる時間を、ようやく勘定に入れはじめたのだ。そこで法が想定しているのは、気づかなかった部屋である。この映画が描くのは、すっかり気づいていた部屋だ。公訴時効を延ばしても、証人に口を開かせることはできない。
内閣府の令和五年度の「男女間における暴力に関する調査」は、誰が聞くのかについて、何かを語っている。不同意性交等の被害にあったことがあると答えた女性百三十人のうち、友人や知人に相談した人は三十・〇パーセント、警察に連絡・相談した人は一・五パーセントだった。そして、誰にも相談しなかった、あるいは相談までに五年以上かかった女性八十六人のうち、三人に一人ほどにあたる三十二・六パーセントが、その理由に、相談してもむだだと思ったから、を挙げている。小さな標本の数字であり、ひとりひとりの女性がどう受けとめられたのかまでは語らない。それでも数字は、映画と同じ方向を指している。女性が誰かに打ち明けるとき、それを聞く制度は、たいてい友人である。そして、何年も、あるいはずっと話さなかった女性の少なくない人が、話してもむだだと、前もって見切りをつけている。
だから、映画がマディソンから清算を始めるのは正しい。学部長より前に、裁判所より前に、テーブルの向かいで、いま聞いた話をどう受けとるかを決めなければならない友人がいる。ニーナの友人は、それを酒のせいにし、狼少年の騒ぎだと決めつけた。そのあとに起きたことの多くは、その最初の数分の上に建てられた。
生まれ育った場所の友人たちから遠く離れて日本で暮らす女性や、母語ではない言葉に囲まれて暮らす女性にとっては、そのテーブルそのものが見つけにくいかもしれない。信じてくれたはずの友人は、飛行機に乗らなければ会えない場所にいるのかもしれない。
日本では、#8891に電話すると、通話料無料で最寄りの性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターにつながる。また、厚生労働省の「まもろうよ こころ」のページには、電話やチャットの相談窓口がまとめられていて、無料の窓口や二十四時間つながる窓口、外国語での案内を選べる窓口もあり、つらい気持ちや死にたいという気持ちも受けとめてもらえる。
この図書室が受け取るもの
『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、復讐を支持する映画なのかしない映画なのか、という問いで語られることが多い。この文章は、もっと役に立つ問いは、その復讐が何を測っているのかだと論じてきた。測っているのは、どれだけ聞かれずにきたか、である。キャシーの報復の場面はどれも、誰かがもっと早く、ほとんど何の犠牲も払わずに聞くことができたのに、聞かなかった場所をしるしている。この映画の復讐は、勧めではない。請求書である。
そう読めば、責任はあるべき場所に置かれる。傷つけられた女性が、もっと大きな声や、もっとよい証人や、もっときれいな話を見つけなければならないのではない。最初に聞く人々のほうに責任がある。つらいことを話そうとしている人に、私たちが負っているのは、判決ではない。聞くことだ。それが何なのかを決める前に、話を最後まで受けとめるだけの注意である。映画は部屋ごとに、それがどれほど安く与えられたはずだったか、そして与えられなかったとき何が支払われたのかを見せる。
聞くことは仕事でもあり、ふつうの人にできる仕事だ。二〇一九年に実際の事件をもとにつくられた『アンビリーバブル たった1つの真実』は、レイプの被害を訴えたのに、嘘をついたとして罪に問われた若い女性と、別の州で、粘り強い仕事によって彼女が本当のことを言っていたと明らかにする二人の刑事を描く。そこでは、新しい法律も、死ぬ覚悟のヒロインも必要なかった。必要だったのは、聞くというありふれた仕事をし、それを続けた二人だった。『プロミシング・ヤング・ウーマン』が想像するのは、どの制度のなかでも誰ひとりその仕事をしない世界であり、そこでは、悲しみのなかにいるひとりの女性が、調べる人、裁く人、罰する人の役をひとりで引き受け、それに呑みこまれていく。
そして、バーの場面から、誰もが持ち帰っておきたいことがひとつある。いい人というのは、男についての事実ではない。その男が自分をどう見ているか、である。その言葉がアリバイの役目を果たしうると映画が言うのは、正しい。人が何者なのかは、相手が拒めないときに何をするかに現れる。この映画は、男たち一般についての映画ではない。自分なら通ると信じきっていた男たちについての映画である。
この文章が主張していないこと
この文章は、文化についての分析である。臨床的、法的、治療的な助言ではなく、誰も診断しない。キャシーにも、アルにも、ほかの誰にも、臨床的な呼び名は使っていない。悲しみと罪悪感は、映画が示すとおりに記述した。
キャシーのしていることを、方法として差し出してはいない。酔ったふりも、欺きも、問いつめも、映画の仕掛けとして読んでおり、誰かがそれに似たことを試すべきだとは、どこにも書いていない。
映画が復讐を支持しているとも、拒んでいるとも主張しない。批評家の意見は分かれており、その対立は、彼ら自身の公刊された文章を言い換えて紹介した。フェネルの発言は、彼女の発言として紹介した。映画の台詞は、どれもそのまま引用してはいない。
映画の中心にあるレイプは、映画自身がそれを映さないのと同じように、名指すだけで描写していない。ニーナの死については、一度だけ記した。どの死についても、その手段は書いていない。
日本の法は記述したが、当てはめてはいない。調査の数字は小さな標本にもとづくもので、誰が聞くのか、なぜ話さない女性がいるのかについて示すものとしてだけ読んでいる。
この映画をつくった人々や出演した人々、名前を挙げた批評家の誰かが、この図書室を知っている、あるいは推奨していると示唆するものは、何もない。
持ち帰る問い
この映画を、もう少し手もとに置いておきたい人のために、いくつかの問いを。
誰かがはじめてつらいことを打ち明けてくれたとき、最初の一分に、あなたは何と言い、何を尋ねただろう。聞けば友情や仕事や、ひと晩が損なわれると思って、聞かないと決めた話はなかっただろうか。あなたのいる部屋で、最初に信じてもらえるのは誰で、同じことを言って面倒な人だと呼ばれるのは誰だろう。携帯を下ろす人になるには、何が要るだろう。
もしあなたが、聞いてもらえなかった側の人なら、この文章に、あなたへの指示はない。映画にもない。映画が示しているのはひとつのことだけで、それは本当のことだ。聞かなかったのは、彼らのほうだ。もっと大きな声の言葉を見つけなければならなかったのは、あなたではない。
映画の最後、ニーナの名前は、結婚式の会場で一台の携帯電話に届く。それは何年も前に、学部長の部屋で聞かれるべきだった。
ほかの章から読む
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。