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『クローサー』と、すべてを打ち明けても知られないこと

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ロンドンの四人は四年のあいだ互いに本当のことを告げつづけ、告白はほとんどいつも一撃になる。この映画は嘘を勧めているのではない。すべてを知りたいという要求がいったい何のためのもので、それが誰に向けられるのかを問うている。

夜も遅い。彼はまた尋ねる。本当のことを言ってほしい、どんなことでも知っておきたい、怒らないから、と。だから彼女は話す。聞かれたからであり、隠しごとのないことが親密さなのだと、どこかで教わってきたからでもある。そして、彼の顔が予想していたとおりに変わっていくのを見ながら、彼女は気づく。この人が欲しかったのは、知ることではなかった。本当のことは、入口にすぎなかったのだ。

マイク・ニコルズ監督の『クローサー』は、この場面を、あとに何も残らなくなるまで繰り返す映画だ。ロンドンの四人の男女が、四年のあいだ、互いに本当のことを告げつづける。誰が誰と寝たのか、どこで、どちらがよかったのか。この映画には、率直さの足りない人はひとりもいない。告白はほとんどどれも一撃になって相手に届く。英語で「より近く」を意味する題名は親密さを約束するように聞こえるが、それはこの映画のいちばん苦い冗談になっている。四人は、話せば話すほど遠ざかっていく。

この文章は、『クローサー』を嘘についての映画としては読まない。嘘を勧める映画としても読まない。問われているのは、本当のことが何をさせられているか、である。この映画のなかで、本当のことは使われる。告げる側の荷を軽くするために。聞く側を罰するために。勝つために。そして、すべてを知りたいという要求は、恋人が相手に向けうるいちばん親密な言葉のように聞こえるが、ふたを開けてみればそのたびに、相手を自分のものにしておきたいという要求になっている。すべてを打ち明けることと、知られることは、同じではない。この映画は、その違いを長い時間をかけて見せていく。

そしてこれは、誰が問われるのかについての映画でもある。男たちはふたりとも打ち明け、ふたりとも問いただす。その問いは、何度でも、ふたりの女性に向けられる。この物語のなかで誰にも引き出されなかったただひとつのものは、ほかの三人が、いちばん隠しごとのない人だと思っていた女性の手のなかにあった。それが何なのか、映画がどうやってそれを明かすのかは、ひとつ断りを入れてから書く。

読み進める前に、そして物語のあらまし

この文章は、映画の最後に明かされることまで含めて、全体に触れる。その事実は、それまでのすべての見え方を変えてしまう。映画を先に見たい人は、見終えてから戻ってきてほしい。この文章は待っている。

まず記録から。『クローサー』はマイク・ニコルズの監督作で、アメリカでは二〇〇四年十二月に公開された。脚本はパトリック・マーバーで、自作の戯曲を自ら脚色している。戯曲は一九九七年、ロンドンのナショナル・シアターで、マーバー自身の演出によって初演された。アンナをジュリア・ロバーツ、ダンをジュード・ロウ、アリスをナタリー・ポートマン、ラリーをクライヴ・オーウェンが演じ、オーウェンとポートマンはともにゴールデングローブ賞を受け、アカデミー賞の候補にもなった。日本では二〇〇五年五月に劇場公開されている。

物語はロンドンの交差点で始まる。新聞の死亡記事を書きながら小説家を志すダン・ウォルフは、若いアメリカ人の女性が車道に踏み出し、車にはねられるのを目にする。病院へ付き添ったダンに、彼女は、アリス・エアーズという名前で、ニューヨークから来たばかりのストリッパーだと告げる。帰り道、ふたりはロンドン中心部の小さな公園、ポストマンズ・パークに立ち寄り、まもなく一緒に暮らしはじめる。

一年後、ダンはアリスの人生をもとにした小説を書きあげている。その宣伝写真の撮影で、彼はアメリカ人の写真家アンナ・キャメロンにキスをする。アリスは、ダンがアンナにまた会おうと迫る声を聞いてしまうが、泣いている顔をアンナに撮らせただけで、ダンには何も言わない。さらに一年後、アンナを忘れられないダンは、ネットの性的なチャットで彼女になりすまし、見知らぬ皮膚科医ラリー・グレイを、アンナがよく通う水族館へ呼び出す。ラリーはそこで本物のアンナと出会い、ふたりは恋人になる。アリスの泣き顔の写真が飾られたアンナの写真展で、ラリーはアリスに出会う。

ダンはアンナを口説き落とし、ふたりの関係は、アンナとラリーの結婚をはさんで一年つづく。出張から戻ったラリーが、金を払って女性と寝たと打ち明けると、アンナもダンとのことを打ち明け、ダンもアリスに告げる。ダンとアンナは、互いのために相手を捨てる。アリスはダンの前から姿を消し、ストリッパーの仕事に戻る。店で彼女を見つけたラリーが本名を尋ねると、彼女はジェーン・ジョーンズだと答えるが、彼は信じない。体を求められても、彼女は応じない。

やがてラリーはアンナに、最後にもう一度自分と寝るなら離婚届に署名する、と告げる。アンナは彼から自由になるためにそれに応じ、ダンはそれを許せない。アンナを返してほしいとラリーを訪ねたダンは、署名された離婚届をアンナが一度も出していないことを聞かされ、アリスのもとへ帰れと言われる。アンナはラリーのもとへ戻る。ダンとアリスはアメリカへの旅を計画するが、空港のホテルでダンはラリーとのことを問い詰めつづけ、アリスはついに、寝た、もうあなたを愛していない、と言う。ダンは彼女を平手で打つ。彼女はひとりで帰っていく。

ニューヨークの入国審査で、彼女のパスポートにはジェーン・ジョーンズとある。四年のあいだ、彼女はダンには偽りの名を名乗り、ラリーには本当の名を告げていた。ロンドンに残ったダンは、ポストマンズ・パークで、火事から三人の子どもを救って命を落とした若い女性を讃える銘板に、アリス・エアーズの名を見つける。ニューヨークの雑踏を、アリスはひとりで歩いていく。

始まりと終わりだけでできた映画

まず、四人が何を仕事にしているかを見ておきたい。偶然に選ばれたようには見えないからだ。ダンは死亡記事を書く。終わった人生を、人前に出せる短い文章にまとめる仕事である。アンナは人の顔を撮る。ラリーは皮膚科医だ。ロサンゼルス・タイムズのケネス・トゥーランは、表面にとりつかれたこの職業がたんなる偶然でないのは明らかだ、と書いた。そしてアリスは、見られることで報酬を得ている。四人のあいだで、人の外側を扱う仕事がほとんどそろっている。

次に、映画の組み立てを見る。マーバーの戯曲は、数か月、ときに一年を飛び越える場面の連なりでできていて、ニコルズはその骨組みを残した。ダンとアリスが出会う場面を見たかと思うと、次にふたりが映るときには、私たちが一度も見ていない一年を、すでに一緒に過ごしたあとだ。アンナとラリーが水族館で偶然出会う場面を見たかと思うと、ほどなく映画が映すのは、すでに夫婦になったふたりと、そのどちらかの告白である。どの恋も、始まりのすぐ隣に終わりが置かれている。そのすきまに落ちていくのは、ふだん関係というものを形づくっているほとんどすべてだ。何でもない夜。片づいていく言い争い。そして、人が互いを本当に知っていく、ゆっくりとした積み重ね。

トゥーランは、予告なしに時間を先へ飛ばすこの手法を、興味深いが結局たいした意味をもたない、と評した。この文章は、そこに大きな意味があると考える。『クローサー』では、他人についての知識は、ふたつの扉からしか入ってこない。始まりの誘惑と、終わりの告白である。誰かを時間をかけて知っていく人は、この映画にはひとりも映らない。だから四人は、時間でしか得られないものを、問いただすことで手に入れようとする。そしていつも、知ることが傷つけることにしかならない瞬間に、問いただしている。

登場人物たちも、そのことに半ば気づいているように見える。彼らは自分の感じていることを、驚くほど正確な言葉で語る。この映画を高く評価したジェームズ・ベラルディネリでさえ、彼らの話しぶりには、現実の人どうしの会話には見られない博識がある、と書き添えている。雄弁であることは、親密であることではない。この映画は、自分に何が起きているかを正確に言えるのに、互いにまったく届かない人たちでいっぱいだ。

一撃としての告白

映画の中心にある連鎖反応は、説明するのとほとんど同じ速さで起きる。出張から戻ったラリーが、金を払って女性と寝たとアンナに打ち明ける。アンナはダンのことで応える。一年間、結婚式をはさんでずっと。ダンはアリスに告げる。二組の男女がばらばらになり、そのあいだ、誰ひとり嘘をついていない。

ラリーが何のつもりで打ち明けたにせよ、そしてこれから書くよりもやさしい読み方もありうるにせよ、彼の告白が何をしたかは見ておきたい。その告白で、彼は先に話した側、正直な側に立つ。そしてアンナの手には、同じだけのものを差し出すか、隠しとおすかしかない真実が残される。アンナの告白は彼の告白への返答として届き、その瞬間から、ふたりは点数をつけあうことになる。

そこから問いが始まる。誰と、どこで、何度、どちらがよかったのか。この映画で告白は、語り終えることではない。問いただしの始まりである。フィラデルフィア・インクワイアラーの批評家スティーヴン・リーは、浮気が起きるとこの人たちは自分が裏切った相手に本当のことを告げずにいられず、この映画ではその告白が大量破壊兵器になる、と書いた。トゥーランは、恋人たちが互いの情事を生々しく語ってなぶりあう、とその手口を見てとっている。

ここは気をつけて読みたい。いちばん手近な教訓は、間違った教訓だからだ。この映画は、彼らは嘘をつくべきだったと言っているのではない。アンナは一年間嘘をつき、その嘘は誰も守らなかった。そして物語の全体は、あとでわかるとおり、ひとりが四年間手放さなかったものの上に立っている。『クローサー』が見せるのは、本当のことが危ないということではない。本当のことも、ほかの何とも同じように使われうるということ、そしてこの四人がそれでしていることのほとんどが、知られることとは何の関係もないということだ。

告白は、相手に、自分がいまどこに立っているのかを知らせることができる。自分が背負ってきた重さを、聞かされる側へ移すこともできる。罰することもできる。勝つこともできる。外から見れば、四つとも同じに聞こえる。使われている言葉が同じだからだ。違いは、その告白が何のためにあるかにある。映画が言葉にはしないまま何度も差し出す見分け方が、ひとつある。本当のことが告げられたあと、聞いた人は前より自由になっただろうか。それとも不自由になっただろうか。『クローサー』の告白は、ほとんどどれも、聞いた人を不自由にする。頼んでもいない場面を頭に焼きつけられ、答えを負わされ、追いつめられる。

どちらがよかったのか、という問い

この映画が何度も戻っていく問いは、何が起きたのか、ではない。どちらがよかったのか、という問いの、さまざまな言い換えである。それがどんな種類の問いなのかを、考えてみたい。

これは、事実を確かめるための問いではない。どんな答えも、尋ねた本人に使える情報を渡さない。そうだと言われれば傷つく。違うと言われても信じない。黙られれば、想像しうる最悪を確かめたことになる。この問いが求めているのは順位だ。彼女がこれまでに関係した人たちの並びのなかに、自分の場所を求めている。そして順位は、彼女について知ることではない。自分がどこに立っているかを知ることであり、彼が本当に欲しかったのは、はじめからそれだった。

細部を求める問いも、同じように働く。どこで。どんなふうに。どうだったのか。答えのひとつひとつが、自分のいなかった部屋への扉になり、彼はその部屋に立ちたがる。そこに立つことが、どれほど苦しくても。その苦しさは、何かを言う前に、まず認められていい。嫉妬は、誰もが味わう、ごくありふれた苦しみのひとつであり、細部をすべて知りたいという衝動は、耐えられないものを手なずけようとする心の動きであることが多い。見慣れるまで、何度でもなぞろうとするのだ。それを抱えて眠れない夜を過ごしたことのある人を、怪物と呼ぶべきではない。

それでも、どんな答えにも満たされない問いは、もう問いではない。主張である。彼女の体も、過去も、記憶も、自分には調べる資格のある材料だ、という主張。『クローサー』のなかで、すべてを知りたいという要求は、所有が失われたあとに所有がとる形である。

この図書室は、同じ線の反対側を見たことがある。「『ドライブ・マイ・カー』と、他人の沈黙を支配しない親密さ」は、妻の恋人たちについて一度も尋ねなかった夫を読み、彼のなかにあるふたつの沈黙を分けた。相手に説明を求めないという沈黙は、本物の徳だと書いた。何も変わらずにすむよう自分の立場を隠しておく沈黙は、慎みの衣を着た回避だと書いた。そして途中で、関係の対価として完全な開示を求める相手は、親密なのではなく監査しているのだ、と述べている。『クローサー』は、その映画を鏡に映したような作品だ。四人は互いにすべての説明を求め、自分がどこに立っているかは、一撃としてしか口にしない。何も尋ねない夫と、すべてを尋ねる恋人たちのあいだには、細い道が一本ある。言葉にすれば簡単だ。自分がどこに立っているかは言う。そして、相手のものは相手に残しておく。

問いただされるのは誰か

次の一歩には、「秘密は約束の条件を変える。プライバシーは、最初から条件のなかになかった。」がちょうどよい道具になる。あの文章は、秘密とプライバシーのあいだに線を引いた。秘密とは、相手が頼りにしているものへの、伏せられた変更である。プライバシーとは、相手が頼りにしていたもののなかに、そもそも一度も入っていなかったすべてである。恋人どうしに秘密があってはならないという規則は、このふたつを見分けられず、秘密を防ぐという名目でプライバシーを廃してしまう。そしてその規則は、対称に述べられて、非対称に当てはめられる。重さは監査される側にかかり、監査されるのは、たいてい女性のほうだからだ、と。

『クローサー』は、その議論の前半を複雑にし、後半を裏づける。男たちはふたりとも打ち明けるし、先に打ち明けるのはラリーだ。女だけが釈明を求められる映画ではない。けれど、問いただされるのが誰なのかを見てほしい。ラリーはダンとの一年について、細部を求めてアンナを責めたてる。取引のあとダンが許せないのは、値をつけたラリーではなく、アンナである。空港のホテルでダンは、自分が言わせたかったことをアリスが口にするまで、ラリーとのことを問い詰める。店では、彼女の時間に金を払ったラリーが、本名を言えと迫る。問いは男たちから発せられて女たちに向かい、求められるのは、ほとんどいつも、証拠としての女性の体である。ポップマターズのシンシア・フュークスは、ふたりの男がそろって自分の性生活のことで気をもむのに、アンナは二重にうんざりしている、と書いた。

それと並べておきたい場面がある。この映画のなかで、女性が、問いに変えることもできた何かを知ってしまう瞬間である。撮影の日、アリスは、ダンがアンナにまた会おうと迫る声を聞いてしまう。そして泣き顔をアンナに撮らせ、ダンには何も言わない。その沈黙が何であれ、少なくとも、それは問いただしではない。

男たちがするもうひとつのことは、もっと静かだ。彼らは取る。ダンの小説は、アリスの人生でできている。彼のいたずらは、アンナの名前でできている。女たちも取る。アンナの写真展にはアリスの悲しみの肖像がかかっているし、撮影の日、ふたりの女性はアンナの作品の話にかこつけて、人の人生を盗むことについて語りあう、とフュークスは書いている。それでも、この映画でいちばん深く食いこむ奪い方は、男から女へ向かう。人生が一冊の本になる。名前が餌になる。

そのいたずらを見ておきたい。映画はそれを喜劇として撮っているが、喜劇だけではないからだ。ダンは、ネットの性的なチャットでアンナになりすまし、見知らぬ男を、アンナがよく通う水族館へ呼び出す。アンナとラリーはそうして出会い、映画はふたりに、取り違えを笑いあい、恋に落ちることを許す。けれどそれは、アンナへの侵害でもある。彼女の名前と、彼女が誰にも差し出したことのない性的な自分が、本人の知らないところで見知らぬ男に手渡され、その男は、彼女に会える場所へ送りこまれた。それが結婚に行き着いたからといって、それが何だったかは変わらない。そして、誰がそれをしたのかにも目をとめたい。のちにふたりの女性にすべての本当のことを求めることになる男は、女性の名前を使って、その女性が誰であるかを偽ることから始めたのだ。

ひと晩と引き換えの署名

そして、この映画の要となる取引がある。これは正確に名指さなければならない。ラリーとアンナは、まだ夫婦である。彼は、彼女が彼から自由になるために必要なただひとつのもの、離婚届への署名を握っている。そして値をつける。最後にもう一度自分と寝るなら、署名する。彼女は、彼から自由になるために、それに応じる。

これは性的な強要である。解放の代価として差し出された同意は、自由な同意ではない。出口の鍵を握っている人が引き出した支払いだ。記録されている取引には、力ずくのことも、暴力による脅しも含まれていない。ラリーは、彼女が選んだのだと、自分に言い聞かせているかもしれない。たしかに彼女は選んだ。ほかの誰かが書いた条件のもとで、ふたつの損失のどちらを負うかを選ぶ、というやり方で。自由になるために与えるしかない同意は、同意と同じものではない。この映画は、ほかに何をしていようと、その違いを画面の上に置いている。この文章は、その夜を描かない。描く必要もない。

同じくらい大事なのは、そのあとだ。ダンは何があったかを知り、彼女を許せない。値をつけたラリーではない。彼女を、である。映画全体を貫く所有の論理のなかで、ダンが耐えられないのは、自分のものだと思っていたものに手がつけられたことであって、彼女が強いられたことではない。この瞬間、ふたりの男はそろって、アンナの体を、自分たちの勝負の通貨として扱っている。ベラルディネリは、最後にラリーがアンナを手に入れたがるのは愛からではなく、それがダンに勝つことを意味するからだ、と書いた。あの取引は、その勝負のいちばん純粋な形である。ひとりの男の署名が、ひとりの女性で支払われ、もうひとりの男が、その請求書を彼女に回す。

映画が説明しないまま残す事実が、ふたつある。離婚届は署名されたのに、アンナはそれを出さない。そして彼女は、ラリーのもとへ戻る。このふたつを、取引の側へさかのぼって読みこむのは都合がいい。届を出さなかったのだから、彼女は彼のもとへ戻りたかったのだ、だからあの夜は見かけどおりのものではなかったのだ、と。この文章は、その読みを採らない。人があとで何をしようと、強いられた同意が、さかのぼって自由な同意に変わることはない。人は、自分に何かを強いた相手のもとへ、外からは見きれない理由で戻ることがある。ほかの扉がすべて閉じてしまった、ということもそのひとつだ。アンナに理由を与えない映画は、誰にも、都合のいい理由を書きこむ資格を与えていない。

平手打ちが答えたもの

問いただしの論理は、空港のホテルの一室で行き着くところまで行く。よりを戻したダンとアリスは、アメリカへ発とうとしている。彼はラリーのことを尋ねる。尋ねつづける。彼女がついに、彼が言わせようとしてきたことを口にし、ラリーと寝た、もうあなたを愛していない、と言って、出ていってと告げたとき、彼は彼女を平手で打つ。

これはパートナーへの暴力であり、どんな言葉を添える必要もない。情熱ではない。愛に我を失った男のしたことでも、熱くなった夜の自然な結末でも、彼女の言葉への代償でもない。そうした言い回しは、殴打を感情に書き換えるためのものであり、その書き換えで得をするのは、いつも打った側だ。報道で見かける「痴情のもつれ」という言葉も、同じ働きをすることがある。

この図書室の「『Thappad』と、誰も彼女に尋ねなかったこと」は、平手打ちの重さはひとつの問いであり、それが何を告げたかはもうひとつの問いであって、何が起きたのかを決めるのは、それをされた人だ、と論じた。では、この一発は何を告げたのか。ダンは本当のことを求め、彼女は、彼が言わせようとしてきた答えを返した。平手打ちは、その答えへの彼の返事である。そしてそれは、あの要求が何のためのものだったかを、いくらか語っている。彼が求めていたのは、少なくとも、彼女を知ることだけではなかった。彼女にとどまってほしかった。自分のものとしてとどまってほしかった。だから、その答えが、彼女が去っていくという言葉に変わった瞬間、彼は手を上げた。

すべてを知りたいという要求は、それが守るはずだった愛を終わらせる。映画はそれを和らげず、彼に褒美も与えない。平手打ちは、彼女を引きとめはしない。彼女はひとりで帰っていく。

ふだんの決まりが外れる、ふたつの部屋

『クローサー』は二度、恋のふだんの決まりが外される部屋に入っていく。そして奇妙なことに、そのふたつの部屋が、この映画でいちばん正直な場所になっている。ひとつめはチャットの部屋だ。顔の見えない場所では、人は面と向かっては決して言わないほど率直に、自分の欲しいものを口にする。そこで偽りなのは、誰が話しているか、ということだけである。ラリーは、存在しない女性に向かって、自分の欲望について本当のことを言う。

ふたつめは、アリスが働くクラブである。ここは、憐れみも美化もなしに、それ自体として受けとめられていい。彼女は、やり方を知っている仕事に戻った。周りの人たちがそのことを大ごとにする、とフュークスは書いている。この文章は、それを転落としても解放としても読まない。それは仕事であり、なかにいる誰もが決まりをわかっている部屋での仕事だ。何に金が払われていて、何が売り物ではないのか。

クラブでの彼女は、ジェーンという名前で働いている。彼女をアリスとして知っているラリーは、ジェーンを仕事用の名前だと思い、本当の名前を聞き出す機会に金を払う。彼女は答える。ジェーン・ジョーンズ。彼は信じない。自分と寝てくれと言い、彼女は断る。ここで何が起きているかを考えたい。妻を失ったばかりの男が、演じることの上に成り立つ場所に来て、金を払い、その演技が売っていないただひとつのもの、彼女の本当のことを要求する。彼のすることは何もかも、額縁の外へ金で出ようとする試みだ。そして額縁の内側で働く女性は、その額縁を守りきる。本当のことを渡し、それを演技の一部と取られ、はじめから売り物ではなかったものは断る。

ベラルディネリはこの場面を、金はすべて彼が持っているが、力は彼女が持っていて、しかも彼女はそれを使う、と評した。フュークスの紹介によれば、自分たち男を欲しがらないから勝ったつもりなのかとラリーになじられたとき、彼女は、これは戦争じゃない、と答える。この映画のなかで、ほかの三人が生きている枠組みの外に出ているのは、この一言だけかもしれない。ダンにとってもラリーにとっても、恋は点数のつく勝負であり、本当のことは弾薬である。見られることを仕事にしている女性の口から出たその一言は、彼女を勝負の賞品にすることを拒んでいる。

名前にまつわる皮肉もある。源氏名という言葉になじみのある読み手には、すぐに伝わるかもしれない。こうした部屋では、仕事のための名前は当たり前で、それを嘘だと思う人はいない。だから彼女が自分の名前を告げると、それは源氏名のように聞こえてしまう。彼女が男に自分が誰であるかを告げた部屋は、誰も本当のことを聞くつもりのない部屋だったのだ。この読みは、彼女の仕事が悲しいものであることも、華やかなものであることも必要としない。必要なのは、あのクラブが、何が売り物で何がそうでないかを声に出して言う場所であり、彼女がそれを守っている、と気づくことだけである。ラリーの取引も、条件を声に出して言った。違うのは、誰がその条件を決めたのか、そして相手が立ち去る自由をもっていたかどうかだ。

壁の上の名前

そして、最後に明かされること。ニューヨークの入国審査で、彼女のパスポートにはジェーン・ジョーンズとある。四年のあいだ、彼女はダンに、自分のものではない名前を名乗っていた。ラリーには本当の名前を告げ、信じてもらえなかった。

ロンドンに残ったダンは、出会った日にふたりで立ち寄った公園、ポストマンズ・パークへ行く。そこには、英雄的な自己犠牲の記念碑と呼ばれるものがある。画家のジョージ・フレデリック・ワッツが一八八七年に最初に提案した記念碑で、他人の命を救うために命を落とした市井の人々を記憶するためのものだ。釉薬をかけた陶板の一枚一枚に、その死が短く記されている。そのうちの一枚は、煉瓦職人の下で働く労働者の娘アリス・エアーズが、一八八五年四月、バラ地区ユニオン・ストリートの燃える家から、勇敢なふるまいによって三人の子どもを救い、そのために自らの若い命を失った、と伝えている。映画は、推測を観客にゆだねる。出会った日に彼女が名乗った名前は、あの壁の上にあったのだ。

本物のアリス・エアーズは、サザークに暮らす姉の家で子守りとして働いていた女性で、彼女が救った子どもたちは姪だった。記念碑の歴史をたどる記録によれば、その死のあと、彼女はさまざまな社会運動や政治運動から手本として掲げられたが、その暮らしについてはほとんど何も知られておらず、語られるうちに話は教訓に合うよう曲げられていった。子どもたちは雇い主の子どもになり、彼女は主人の家族のために死んだ使用人になった。銘板の上の女性は、ほとんどまるごと、ほかの人たちが語った彼女のなかにしか残っていない。

それを映画の横に置くと、最後の場面は深みを増す。ダンは死亡記事を書く人間だ。死者の人生を、人前に出せる短い言葉にまとめる。彼と出会った日、ロンドンに何の過去もない女性は、映画がほのめかすとおりなら、死者たちの壁から取った名前を彼に渡した。その名前の持ち主は、彼女を讃えた人々によって、すでに人生を書き換えられていた女性だった。ダンは彼女の人生を小説にし、最後にはラリーとのことを問い詰めて、答えを引き出した。死亡記事に欠かせないただひとつの事実、名前だけが、彼が一度も手にしなかった彼女のものだった。これはこの文章の読みであって、映画が言っていることではない。けれど映画は、この読みを避けがたいように、駒を並べている。

あの名前は嘘だったのか。この図書室の「自分で選ぶ名前は、嘘ではなく、境界線だ。」は、自分で選んだ名前について、ひとつの試し方を示した。誰がそれを知る資格をもっているのか、そしてその人はそれをどうするのか。あの文章が念頭に置いていたのは、何の借りもない見知らぬ相手に渡す名前であり、そこでも、本当に利害をもつ人がいる場合には答えが逆になりうる、とはっきり書かれていた。ダンは、その難しいほうの場合にあたる。見知らぬ人だったのは一日だけで、それから何年も彼女の連れ合いであり、彼女が語った彼女自身の話をもとに、一冊の本を書いた。試しの前半に照らせば、彼には名前を知る資格があったのかもしれない。後半は、逆の方向を指す。彼はそれを、どうしただろうか。彼女が渡したほかのすべては、材料になった。あの名前は、章にされることのなかった、彼女のただひとつの部分だったのかもしれない。

映画はこれに決着をつけないし、この文章もつけない。映画がしているのは、もっと静かで、もっと奇妙なことだ。四人のうちいちばん率直に見えた女性が、どんな問いも届かなかったものを持ちつづけた、ただひとりの人だったとわかり、しかも映画は、それを最後まで彼女の手に残しておく。マーバーの戯曲では、公表されているあらすじによれば、彼女はニューヨークで事故に遭って死ぬ。映画は彼女を生かす。名前を選ぶことのできないただひとつの場所、国境で、映画は彼女に本当の名前を返し、そして雑踏のなかへ歩いていかせる。

この読みが間違っているかもしれないところ

ここからは、反対の立場を、できるかぎり公平に書く。この映画には真剣な批判者たちがいて、そのなかには正しい人もいるからだ。

一つめは、冷たさ。トゥーランは、この映画の人々の感情のつながりはあまりに注意深く距離をとられていて、心を動かされない、と書き、映画自身の台詞を借りて、美しく撮られた悲しい見知らぬ人たちの寄せ集めだ、とまとめた。映画が登場人物を気にかけていないのなら、彼らをこれほど近くから読む文章は、映画が差し控えている深みを、勝手に書き足しているのかもしれない。これは公平な異議である。控えめに答えるなら、この冷たさそのものが、映画の見せているものの一部だということになる。自分の感情を正確に語り、互いを材料として扱う人たちの冷たさである。

二つめは、女性たちのこと。フュークスは、この映画の男女についての前提は、あまりになじみ深く、陳腐でさえあると書いた。男は所有を気にかけ、女は約束を気にかける、というのである。その見方に立てば、『クローサー』を女性たちの立場から読むことは、決まり文句に重みを与えることになりかねない。それに、この映画の女性たちも嘘をつく。アンナは結婚式をはさんで一年間ラリーを欺き、アリスは四年間ダンに名前を明かさない。この文章が主張しているのは、彼女たちの潔白ではない。もっと狭いことだ。誰が問いただされるかについての主張であって、誰に罪がないかについての主張ではない。それでも、この文章が映画よりも女性たちにやさしいと感じる読者の指摘は、的を外していない。

三つめが、いちばん鋭い。謎めいた娘、という問題である。映画は、ジェーン・ジョーンズについてほとんど何も語らない。彼女がダンに名前を明かさなかったように、映画も彼女を観客に明かさない。最後に明かされる事実は、彼女が守った境界線というより、正体のわからない若い女性に対する映画自身の憧れ、どんでん返しの衣装を着た古い幻想として読むこともできる。公表されているあらすじが伝える最後の場面では、ニューヨークの雑踏で、男たちが振り返って彼女を見る。それは彼女が通り抜けていく世界のまなざしとも、カメラ自身のまなざしとも読める。名前を、彼女が手放さなかったものとして読むこの文章の読みは、映画が不透明なままにしておく人物に拠っている。この異議に、この文章は十分に答えることができない。

四つめは、正直さについて。『クローサー』を、どれほど残酷でも嘘よりは本当のことのほうがいい、という主張として読むこともできる。破局を生んだのは一年の欺きと四年の偽りの名前であり、本当のことはただ遅すぎただけなのだ、と。この文章は、嘘をつけば誰かが救われたとは言わない。意見が分かれるのは、本当のことが何のためにあるのか、という点であり、その点について、映画はこの文章の側にいるように思える。

最後に、この読みそのものへの異議。この読みは、映画の映像そのものではなく、公表されている記録と、映画を見た批評家たちの紹介から組み立てられている。それを越えて、動機について、名前の意味について、時間の飛躍の意味について語るところは解釈であり、この文章はそう明示している。

日本で見る、署名という鍵

日本でこの映画を見る人は、思っていた以上に多くのものに見覚えがあるかもしれない。日本がロンドンに似ているからではない。この映画の仕掛けのいくつかが、ごくありふれたものだからだ。

まず、ラリーが握っていた鍵から。日本の離婚の多くは、夫婦の話し合いで成立する。厚生労働省の統計によれば、二〇二〇年の離婚のうち、協議離婚は八十八・三パーセントを占めた。民法は、夫婦はその協議で離婚をすることができると定めている。その届出を書面でするなら、夫婦双方と、二人以上の成年の証人が署名しなければならない。内閣府の案内によれば、話し合いがまとまらないときの道は家庭裁判所を通り、まず調停から始まる。筋の通った仕組みである。同時にそれは、ごくふつうの結婚でも、署名は、片方がもう片方に対して拒むことのできるものだ、ということでもある。ラリーのつけた値は、どこか遠い国の奇妙な残酷さではない。使うと決めた人の手のなかで、鍵がどういう形をとるかを見せているのだ。

次に、政府自身が使っている言葉。内閣府男女共同参画局には、配偶者からの暴力がとりうる形を説明したページがある。身体的なものの例として最初に挙げられているのは、「平手でうつ」である。性的なものの例には「いやがっているのに性行為を強要する」が挙がり、夫婦間の性交であっても刑法の不同意性交等罪にあたる場合がある、と書かれている。精神的なものの例には、実家や友人とのつきあいを制限したり、電話や手紙を細かくチェックしたりすることが並ぶ。同じページは、挙げた例は相談の対象になりうるものであって、すべてが法律の定める配偶者からの暴力にあたるとは限らない、とも断っている。この映画を思い浮かべながら読むと、そのページは『クローサー』のふたつの暴力を飾りのない言葉で名指しており、誰に何を言ったのかを確かめるという監査まで、同じ一覧に並べている。

二〇二三年七月からは、刑法の性犯罪の規定が、同意しない意思を形成し、表明し、あるいは全うすることが難しい状態にさせたり、その状態に乗じたりしたかどうか、という形で組み立てられている。そして不同意性交等罪の条文は、それが婚姻関係の有無にかかわらない、とはっきり書いている。法務省は、以前から婚姻関係の有無は犯罪の成立に影響しないと考えるのが一般的だったが、そのことを条文の上で明確にした、と説明している。この文章は、ロンドンの架空の一夜がどんな法律のもとでどう扱われるかについて、何も主張しない。言いたいのは、もっと狭いことだ。いまの法律が立てている問いは、この映画が立てている問いと同じである。彼女がはいと言ったかどうかではない。いいえと言える自由があったかどうかだ。

監査には、映画のころにはまだなかった道具もいまはある。伏せずに置かれた電話、既読の印、共有された位置情報。先に挙げた「秘密は約束の条件を変える。プライバシーは、最初から条件のなかになかった。」は、一心同体という夫婦の理想が、確かめることを気にかけることのように感じさせてしまう、と指摘していた。『クローサー』は、どんな答えにも満たされない確認が、どこへ行き着くのかを見せている。

自分の家族から遠く離れて暮らす人、母語ではない言葉で働く人、日本に暮らす資格が結婚と結びついている人にとって、相手の協力は、もっと重いものになりうる。内閣府の案内は、被害者が外国人であっても配偶者暴力防止法の対象になること、そして離婚後も日本に滞在する場合には在留資格についての手続が必要になることを記している。この映画は、自分の知っているのとは逆向きに流れる車の列へ踏み出す、来たばかりの女性で始まり、自分の名前で国境を越え、家へ帰っていく彼女で終わる。

これが映画だけの話ではない読み手のために、書き添えておく。内閣府の「DV相談+(プラス)」は、0120-279-889で、二十四時間、日本語の電話相談を受け付けている。正午から午後十時まではチャットでも相談でき、チャットは英語を含む十か国語に対応している。性犯罪・性暴力については、#8891に電話すると、通話料無料で最寄りのワンストップ支援センターにつながる。緊急のときは、110番に通報できる。

この図書室が受け取るもの

本当のことを、愛する人から遠ざけておけ、ということではない。映画はそう言っていないし、この文章も言わない。受け取るのは、ひとつの区別と、そこから出てくるいくつかの飾らない言葉である。

本当のことを告げることと、知られることは、別の行為だ。知られるには時間がかかる。この映画が抜き取っている、あの真ん中の時間が。それは、終わりぎわにいくつ問いを重ねても、どれほど正確に問うても、引き出すことはできない。

問いには、理解するための問いと、順位を求める問いがある。前者は相手を自由なままにしておく。後者は、好奇心の服を着た、相手への権利の主張である。

相手が一度も頼りにしていなかったものは、打ち明けられるのを待っている嘘ではない。それはその人のものだ。自由になるために口にした「はい」は、自由な「はい」ではない。そして平手打ちは、その前にどんな言葉が交わされていようと、平手打ちである。

もしあなたが、すべてを話してと言われて、話して、それでも近づけなかったのなら。渡した本当のことが、ひっくり返され、何度も問い直され、最後には自分に向けて突きつけられたのなら。あなたは正直であることに失敗したのではない。あなたを知るためではなかった問いに、答えていただけだ。誰の条件のなかにも一度も入っていなかったあなたのもの、ひとつの記憶や、ある一年や、自分だけの部屋は、借りではない。知るために尋ねてくれる人がいるとき、それはまだ、あなたが自分から差し出せる部分なのかもしれない。

この文章が拠っているもの、主張しないこと

これは一本の映画の読みである。法律、医療、心理の助言ではない。登場人物を含めて誰のことも診断せず、どの読者についての言明でも、どの関係についての助言でもない。

この文章を書くにあたって、映画そのものは見ていない。拠っているのは、映画について公表されている記録とあらすじ、そして公開当時にこの映画を評した批評家たちの紹介である。台詞はすべて言い換えで示し、正確な引用としては扱っていない。批評家の言葉は、その批評に書かれていることの範囲で紹介し、記念碑の銘文は、記録されている文言に沿って伝えた。公表されているあらすじを越える場面の細部は、複数の紹介が一致するものを使うか、それを伝えている批評家の名を示した。

ポストマンズ・パークと本物のアリス・エアーズの歴史は、記念碑とその歴史の記録が伝えるとおりに記した。日本の法律と政府のページは、書かれているとおりに、その限界とともに紹介した。どの架空の行為が、どの法律のもとでどう扱われるかについては、何も主張していない。数字は協議離婚の割合ひとつだけで、厚生労働省による二〇二〇年の値であり、それ以上のことを表すものではない。

ここに名前の出てくる監督、脚本家、俳優、批評家、画家、官公庁のいずれも、この媒体とは関係がなく、何かを推薦してもいない。

持ち帰る問い

誰かに、すべてを話してほしいと頼むとき、話してもらったあとに、何を感じたいと願っているのだろう。

相手に向けた問いのなかに、どんな答えでも満たされなかったはずのものはないだろうか。本当は、何を尋ねていたのだろう。

あなたの暮らしのなかで、誰も一度も頼りにしていなかったものは何だろう。それを自分のものとして扱っているだろうか。それとも、借りのように扱っているだろうか。

何かから自由になるために、はいと言ったことはあるだろうか。いいえと言えるためには、何が必要だっただろう。

自分がどこに立っているかを言うことと、相手のものを相手に残しておくこと。あなたにとって、難しいのはどちらだろう。

読みもののお便り

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