Cinema
『先に愛した人』と、請求というかたちでしか語れなかった悲しみ
ソン・ジェンユエンが亡くなったあと、妻のリウ・サンリエンは、夫の生命保険の受取人が息子から、夫が家族を置いて一緒にいた男へと書き換えられていたことを知り、取り戻しに乗りこむ。同じひとりの男を失った三人の誰にも、悲しむための場所は与えられていない。だから悲しみは、この物語で法がほとんど唯一名前を与えているもの、保険金へと向かい、いちばん鋭い痛みは、死が家族に残す肩書きをすべて持ちながら、自分こそ愛人だったように感じている妻のもとに残る。
生命保険の証書には、保険をかけられた人が亡くなったとき、ほんとうに意味をもつ欄がひとつだけある。名前を書く欄だ。ソン・ジェンユエンの保険では、そこにはかつて息子の名前があった。彼が亡くなるころには、それはジェイの名前になっていた。ジェイは小さな劇団で役者と演出家を兼ね、パジャマ姿でバイクを乗り回し、保険のことなど何も知らなかったと言う男であり、ジェンユエンが妻と息子を置いて一緒にいた相手である。妻のリウ・サンリエンは夫の死後にその書き換えを知り、十代の息子チェンシーを連れてジェイの部屋に乗りこんで、お金を返せと迫る。
『先に愛した人』は、シュー・ユーティンとシュー・チーイエンが二〇一八年に撮った台湾映画で、たいていはこの筋立てで紹介される。夫の男の恋人と、保険金を奪いあう未亡人。そう聞けば、大人たちが見苦しくいがみあう喜劇を思い浮かべる人も多いだろう。ところどころ、実際にそうでもある。けれど映画は、この争いのなかに、冒頭の場面ではわざと見えにくくしてあるものを見ている。三人の人間が、同じひとりの男を失っているのだ。思っていたのとは違う結婚のなかで、何年もよき妻であろうとした妻。その母を責める息子。そして、人前で悲しむ場所をまったく持たない恋人。三人の誰にも、その喪失を置いておく場所が与えられていない。そしてこの物語で法が名前を与えているものは、ほとんどあのお金しかない。
だから悲しみは、そこへ向かう。この文章が言いたいのは、保険金をめぐる口論とは、ほかに身を置く場所のない悲しみが上げている声なのだ、ということである。金額をめぐる怒鳴りあいの下には、映画の誰ひとり、おおっぴらには口にできないでいる三つの問いが流れている。わたしの年月は数のうちに入っていたのか。あの人は誰だったのか。あの人を悼むことを許されているのは、誰なのか。そして、その問いを抱えた三人のうち、映画がいちばん厳しく扱い、最後にはいちばん丁寧に扱うのは、死が家族に残すあらゆる肩書きを手にしながら、それでも自分が愛人だったかのように感じている女性である。
映画はまた、行き場のない悲しみが、その途中で人を傷つけることがあるのも隠さない。映画が終わるまでに、サンリエンは、別の男の人生のなかで本人だけが打ち明けてよかったことを取りあげて、武器として使う。この文章は、そこに来たら、それをはっきり名指す。悲しみがあったからといってそれが許されるとは言わないし、そのことで彼女がどんな人間かが決まるとも言わない。
読む前に、そして映画のあらまし
この文章は結末まで、そして映画が終わり近くまで伏せている、保険の受取人がジェイである理由まで書く。結末に入るところは、のちの節の冒頭で改めて知らせる。画面で先に確かめたい人は、そこで読むのをやめて、観終えてから戻ってくればいい。
監督はふたりいる。台湾のテレビと映画の脚本家として知られ、これが初めての劇映画となったシュー・ユーティンと、ミュージックビデオの監督から映画に来たシュー・チーイエンである。脚本はシュー・ユーティンとルー・シィユェンが書いた。サンリエンをシェ・インシュエン、ジェイをロイ・チウ、語り手の息子チェンシーをジョセフ・ホアン、回想に現れるジェンユエンをスパーク・チェンが演じる。二〇一八年四月にイタリアのウーディネ・ファーイースト映画祭で初上映され、同じ年の十一月二日に台湾で公開、二〇一九年二月一日からネットフリックスで世界に配信された。日本でもネットフリックスで観ることができる。
地元の賞でも、しっかり評価された。台湾の英語メディア、タイワン・ニュースの報道によれば、二〇一八年の台北電影奨では、最優秀劇映画賞と、ロイ・チウの主演男優賞、シェ・インシュエンの主演女優賞を受けた。同じ年の十一月の金馬奨では、シェ・インシュエンの主演女優賞、オリジナル映画歌曲賞、編集賞の三部門を受賞している。翌年には、二〇二〇年のアカデミー賞国際長編映画賞の台湾代表に選ばれた。
この文章を書くにあたって、映画そのものは観ていない。筋については、作品の公表された記録と、末尾に挙げる資料に拠った。監督の言葉は、北京語と英語で行われ、英訳で発表されたインタビューから引いている。台詞は要約して伝えており、字句どおりの引用ではない。
同じひとりの男を失った三人
まず、三人がそれぞれ何を失ったのかを見ておきたい。映画は、その喪失をきちんと別々のものとして描き分けているからだ。
サンリエンは何年も、よき妻であろうとし、息子には神経質なほど厳しい母親だった。やがて夫は、自分の死期を知ると、自分はゲイだと妻に告げて家を出て、残された時間をジェイと過ごした。夫の死後、息子の将来のために当てにしていた保険金は、夫が自分たちを置いて一緒にいた男に渡ることになっていた。ジェイの部屋に乗りこんだ彼女は、一週間以内に払わなければ、家庭を壊したゲイだと世間にばらすと言い放つ。家では息子の食事も、成績も、将来も、自分が決める。そして父の遺品を彼女が捨てたとき、息子は家を飛び出す。
物語を語るチェンシーは、はじめは確信している。母は金のことしか頭にない。父が自分たちを捨ててまで一緒にいた男は、ろくでもない人間で、たぶんドラッグでもやっている。母の決まりごとにも、母に通わされるカウンセリングにもうんざりした彼は、迷惑がるジェイの部屋に転がりこみ、ジェイが演出する舞台の稽古場までついていく。
ジェイは、何ひとつ気にかけていないように見える。何年も前、彼とジェンユエンはその劇団で恋に落ちた。ジェンユエンは家庭を持つためにジェイのもとを去り、やがて死期を知って戻ってきて、最後の時間を彼と過ごした。ジェイは少年に、あの人を失ってから、毎日が一万年なのだと語る。
台湾での公開の数日前、台湾の報道メディア「報導者」は、この三人を、それぞれが答えを求めている三人として紹介した。サンリエンが知りたいのは、夫とのあいだにあったものは全部嘘だったのか、夫は自分を少しも愛していなかったのか、ということ。チェンシーが知りたいのは、父はなぜほかの男を愛し、家を出ていったのか、ということ。ジェイは、恋人と愛しあった美しい記憶を、もう一度よみがえらせたいと願っている。ネットフリックスが配信を決めたときの作品紹介も、少年には悼む時間さえ与えられず、母とジェイの争いに巻きこまれる、と書き、ふたりを縛っているのはお金ではなく、それぞれが彼の父とのあいだにもつ、愛の記憶の重さなのだ、と結んでいる。
最後の一文は配信元による要約だが、正しい。ただ、観る側には考えなければならないことが残る。争いの中身がお金でないのなら、なぜ争いは、お金をめぐって起きるのか。
物語を語る息子と、彼が最初に描く母
この映画の語り口は、はじめから選ばれていたものではない。その理由を、シュー・ユーティンは驚くほど率直に語っている。
物語は、ひとりの女性から始まった。監督によれば、もとになったのは友人の実際の経験である。結婚している友人が、夫が男性と関係をもっていることを知った。その話をしてくれたときの友人は、ほとんどサンリエンのようで、ひどく芝居がかっていた。監督はその女性の姿に打たれ、同時に強く惹かれて、見せている顔の奥にある悲しみを見てみたいと思った、と語っている。脚本のルー・シィユェンは、友人がその話をした場にはいなかった。聞いたのは出発点だけで、彼女はそこから脚本を組み立てていった。
やがて最初の編集版が二十人の観客に見せられ、監督は、まったく意図していなかった反応を聞くことになる。全員が同じ結論に達したのだという。サンリエンは自分の母親みたいだ、でも本当にうっとうしい。誰もがこの人物を本物だと感じ、そして誰もが彼女を嫌った。監督が望んでいたのは、観客が彼女の痛みを見てくれることだった。そこで監督は、物語を息子に渡した。息子の語りが、母のどこがうっとうしいのかを先に口に出してしまう。そうすれば観客は息子と同じ舟に乗って、この虎のように怖い母親を眺めることになる。最後に彼女を救い、好かれる人物にしたのは息子だった、と監督は振り返っている。
映画のあちこちに入る絵も、その決断から生まれた。チェンシーはカウンセラーのもとに通っていて、子どものカウンセリングでは、絵を描くことが方法のひとつとして使われる。彼を語り手にすると決めたとき、絵が必要になったのだと監督は説明している。つまりこの映画がサンリエンについて最初に差し出す肖像は、息子が描いたものなのだ。彼女がいちばん強く思いどおりにしようとしている相手が描いた肖像である。
そのことの意味を、少し考えておきたい。悲しみと怒りでいっぱいのひとりの女性が、画面のなかで本物らしく見えた。そして観客は、彼女に耐えられなかった。ひとりの少年が、先に彼女に文句を言う役を与えられるまでは。監督自身の話では、その仕掛けはうまく働いた。けれどそれは、観る側についての小さな告白でもある。映画の出発点だった女性は、誰かが先に彼女にあきれてみせてからでなければ、見てもらえなかったのだ。
金馬奨を主催する映画祭は、この作品を、男性どうしの愛の物語を語ると同時に、かつての保守的な社会観念のもとで、台湾版の「形だけの結婚」をした家庭のなかで犠牲になった女性たちにも目を向けた映画として紹介している。サンリエンは、そうした女性のひとりである。息子は、彼女を最初に描く人だ。この読みでは、映画の残りの時間は、その肖像を描き直すことに使われている。
知らされなかった条件の上で、よき妻だった人
サンリエンを、この映画の邪魔者として読むのはたやすい。悲しみの底にいる男と、そのお金とのあいだに立ちはだかる、怒った未亡人として。映画はその読み方を知っている。それこそが最初の編集版の問題だったのだから。そして映画は、その読みを揺るがすだけの重さを、彼女の側に与えている。
彼女が何を受け取ってよく、それをいつ受け取ったのかを考えてみてほしい。何年ものあいだ、彼女は妻としての務めを果たしてきた。家のこと、息子のこと、毎日の食事、成績、先の計画。けれど、その取り決めが何の上に建っていたのかは知らされていなかった。それを知ったのは、夫が自分の死期を知ったときになってからであり、そのあと彼女は、夫を二度失った。一度は、夫がジェイのもとへ家を出たとき。もう一度は、夫が亡くなったとき。夫と言い争うことも、なぜと尋ねることも、相手に聞こえるうちに怒ることも、夫に残された時間のなかでしかできなかった。そして夫は、その時間をジェイと過ごした。
何が彼女を傷つけたのかを、はっきりさせておきたい。夫がゲイだったことではない。何年も自分の結婚の真実の外に置かれ、知ったところでもう何もしようがなくなってから、ようやくその内側に入れられたことである。
亡くなった人への怒りには、行き場がない。それは生きている人のところへ、亡くなった人のいちばん近くにいた人のところへ落ちていく。この物語では、それがジェイだ。サンリエンが、自分は何かをされたと感じているのは間違いではない。ただ、それを、答えられたはずのただひとりの相手に向けることができない。そして映画は、その相手を悪人にもしない。回想が見せるのは、ジェイを愛しながら、結婚して家庭を持つために彼のもとを去った若い男である。この読みでは、彼はそのことの代価を残りの人生で払い、自分を愛したすべての人にも払わせた。
この映画のいちばん鋭い一刺しは、題名にある。中国語の原題『誰先愛上他的』は、直訳すれば「誰が先に彼を好きになったのか」という問いだ。愛の順番でいえば、答えはジェイである。結婚よりも先に、彼を愛していたのだから。そしてその順番でいえば、妻は自分の結婚のなかで、後から来た者になってしまう。サンリエンは、死が家族に残すあらゆる肩書きを持っている。未亡人であり、彼の息子の母であり、法が認める人である。その彼女が、愛されなかった愛人のような気持ちを抱えることになる。この物語でいちばん残酷な計算であり、映画は彼女に、そのすべてを感じさせる。
この図書室の「『The State of Affairs』と、不倫を肯定せずに「なぜ」を考える方法」は、ふたつの文を、どちらも薄めずに並べておいた。裏切りには歴史がある。そして、裏切られた人は、その出来事を通して学ばされることに同意していない。『先に愛した人』は、観る者に一つ目の文を求める。それは正しい。ジェンユエンが隠して生きた人生には歴史があり、回想はそれをとても優しく見せる。けれど、サンリエンの側には二つ目の文がある。彼女は、その歴史の代価が払われる場所になることに同意していない。彼女を素通りして恋の物語へ急ぐ読み方は、この映画の半分を見落としている。
法が名前を与えている、ほとんど唯一のもの
ここで、もう一度、保険の証書を見てみたい。それは見かけ以上の役目を果たしている。
生命保険は、小さな法の道具だ。ひとりの名前と金額を記し、保険をかけられた人が亡くなれば、請求することができる。なぜその名前がそこに書かれたのか、名前を書かれた人が、書いた本人にとって何者だったのか、ほかに誰が何を受け取ってよかったのかは、記録できない。サンリエンにとって、そのお金は、結婚のなかで最後に未来を向いていたものだった。息子のためのお金だったのだから。ジェイにとって、その欄は、法的な書類のなかで、自分の名前がジェンユエンの名前のそばに記される場所である。物語のなかで、ふたりの男のあいだにあったことで法のかたちをとっているものは、ほかにほとんど何もない。
映画の外に目を向けると、このことには日付をつけることができる。同性のふたりが、共同生活を営むことを目的として、親密で排他的な永久の結びつきを結べると定めた台湾の法律(司法院釈字第七四八号解釈施行法)が施行されたのは、二〇一九年五月二十四日だった。『先に愛した人』が台湾で公開されてから、七か月ほどあとのことである。映画はこの法律を必要としていないし、この文章もそれを物語にかぶせるつもりはない。ただ、法がジェイの名前を記しているその欄が、ジェンユエンが自分で書きこんだ欄だったということには、気づいておきたい。
この図書室の「『大豆田とわ子と三人の元夫』と、大切な人を手放さない「ひとり」」は、とわ子をほんとうにひとりにした喪失を、法的な立場もなく、関係を呼ぶ言葉もなく、どの届け出にも名前の残らない親友の死に見た。ジェイは、ちょうどその裏返しにいる。そして映画は、それが少しも慰めにならないことを見せる。彼の名前は、いわば、たった一枚の書類のたったひとつの欄にしかない。そして皆が奪いあっているのが、その欄なのだ。
三つの悲しみをその欄の横に並べてみれば、争いの意味はおのずとわかる。サンリエンは、自分の年月について請求を出すことができない。ジェイは、ひとり置いていかれた年月について請求を出すことができない。お金の行き先だったはずのチェンシーは、父親について請求を出すことができない。書類が受けつけるのは、名前と金額だけだ。だから彼らは、金額をめぐって争う。請求とは、書類が受けつけてくれるただひとつの悲しみのかたちなのである。戸口での怒鳴りあいも、脅しも、あきれ顔の少年の語りも、この映画の喜劇はすべて、三人がとても大きなことを、その状況で使えるただひとつの文法で言おうとしている声なのだ。
毎日が一万年
ジェイは、この映画でいちばん見えにくい人物だ。人に見られないよう、自分でそう仕向けているからである。
パジャマ姿でバイクを乗り回し、何ごとにも、とりわけ保険のことには無頓着に見える。お金を返すことは拒む。少年が勝手に住みつくと、天気でもやり過ごすように、しぶしぶ置いておく。その態度が何のためのものなのかを見抜くのは、稽古場までついていき、同じ部屋で暮らすチェンシーである。この男は気楽なのではない。悲しみの底にいて、しかもその悲しみを、どこにも置けないでいる。
ジェイのような立場の人が、どこで悼むことができただろう。家族のそばではない。そこでは彼は、夫が家族を捨ててまで一緒にいた男なのだから。自分の母のもとでもない。母は、息子がゲイであることを知らない。見知らぬ人に、彼が何を失ったのかを伝えてくれる記録のなかでもない。回想は、彼が誰にも言えないことを見せてくれる。劇団で恋に落ちたふたりの若い男。別れ。過ぎていった年月。そして、死を前にした男が、最初に愛した人のもとへ戻ってきたこと。毎日が一万年だという彼の一言は、この映画のなかでいちばん正確な悲しみの言葉かもしれない。しかも彼はそれを、押しかけてきた十代の少年に向かって言う。
その代わりに、彼は舞台をつくる。金馬奨を主催する映画祭の紹介は、ジェイが愛した人を自分なりのやり方で偲ぼうと心に決める、と書いている。この読みでは、その自分なりのやり方とは舞台のことだ。シュー・ユーティンによれば、劇中の芝居は、彼女自身がかつて脚本と演出を手がけた舞台作品であり、脚本の段階では、ジェイは終わりのない稽古に閉じこめられていた。それを、少しずつ芝居を組み立て、最後には上演するように変えたのだという。自分の作品が崩れていくのを見ながら、最後の瞬間までそれを手放さない男のようだ、と監督は語っている。人前に悲しむ場所をもたない悲しみは、自分で場所をつくる。初日の舞台は、やがてその場所になる。
アメリカの公共ラジオで本作を評した批評家は、前の年のイスラエル映画『彼が愛したケーキ職人』を引き合いに出した。あちらも、亡くなったばかりの、性的指向を隠して家庭をもっていた男を通して人々がつながる物語であり、評者は、より細やかなのはそちらのほうだと見た。この比較は、別の理由でも役に立つ。『彼が愛したケーキ職人』では、結婚している恋人を事故で失ったドイツのケーキ職人がエルサレムへ行き、自分が誰なのかを明かさないまま、恋人の妻が営むカフェの厨房で働きはじめる。恋人の悲しみは場所を借りるしかなく、彼女の場所を、黙って借りる。『先に愛した人』では、恋人の戸口に乗りこんでくるのは妻のほうで、しかも自分が誰なのかを大声で告げる。同じ三人の物語に、正反対の扉から入っていくふたつの映画。どちらでも、恋人には、自分だけで悼める場所がない。
払わないなら、お母さんに言う
はじめから、サンリエンの武器は暴露だった。一週間以内に払わなければ、家庭を壊したゲイだと世間に知らせる、と。やがて彼女は、その武器のもっと鋭い刃を見つける。ジェイの母親は、息子がゲイであることを知らない。サンリエンは、払わなければ母親に言うと脅し、結局は打ち明けてしまう。
これが何であるかを、はっきり言っておく。アウティングである。ひとりの男の性的指向を、本人の意に反して、その母親に知らせること。はじめは、黙っている代わりに払えという脅しに使われ、やがて、ほんとうに行われた。これは重大な害だ。それはジェイから、彼だけが決めてよかったことをひとつ奪う。自分の母がそれを、いつ、どんなふうに、誰の口から聞くのか。そしてその決定を、取引の材料にしていた人の手に渡してしまう。傷つけているのは、知らされた事実ではない。ゲイであることが傷なのではない。奪うことが傷なのだ。
サンリエンの側についてこの文章が書くことの、どれをもってしても、この段落は取り消されない。そしてこの段落のどこにも、彼女という人間への判決はない。
彼女の側の言い分は、最後まで聞かれてよい。映画が聞いているからだ。彼女は何年も、ひとりの男の秘密の外側に置かれていた。いま彼女は、別の秘密と、その外側にいる別の女性を見つける。息子がゲイだと知らない母親である。その秘密が彼女の目に、取り立てのきく貸しのように見えたとしても、不思議はない。隠された人生は、彼女から結婚まるごとぶんの年月を奪った。そこに同じ隠された人生があり、なかには別の男がいて、お金はその男のところへ行こうとしていた。
この図書室の「『メイド・イン・ヘヴン ~運命の出会い~』と、取引でしか手に入らなかったもの」は、三つの言葉を分けておいた。本来受け取ってよいもの、取引して手に入れるもの、そして与えられるしかないもの。サンリエンには、本来受け取ってよいものがあった。その点で、彼女は正しい。自分の結婚の真実を、それを手にする何年も前に、受け取ってよかったのだ。けれど、それを負っていた人はもういない。そして彼女が取引の材料として見つけられたのは、別の男のプライバシーだけだった。それは、はじめから彼女が売ってよいものではなかった。映画が見せているのはこの仕組みであり、正確に言っておく価値がある。原因をつくった人に届かない悲しみは、代価を払わせることのできる誰かを探しにいく。そして、そのいちばん近くにいるのは、同じものを失ったもうひとりの人であることが多いのかもしれない。
ここは、怒ってよいところだ。怒りを向ける先を、間違えずに。向けるべきは、人生を隠さなければならないものにした何かであって、その隠しごとの代価を払わされたふたりのどちらでもない。サンリエンがジェイにつけた値段は、隠された人生が彼女につけた値段そのものである。彼女は、その値段を自分と一緒に払ってきたただひとりの人に、もう一度それを払わせる。
ここから結末へ。保険は何のためだったのか
ここから先は、映画がどう終わるのか、そしてなぜ受取人がジェイなのかを書く。
ジェイは男たちに襲われ、大けがを負う。サンリエンとチェンシーが彼を病院へ運び、そこで真相が明らかになる。ジェンユエンが病気だったころ、助かるかもしれない手術があり、ジェイはその費用を闇金から借りていた。ジェンユエンが受取人をジェイに変えたのは、その借金から彼を守るためだった。
サンリエンがあの欄に読みとっていたものが、すべて変わる。彼女はそれを、判決として受け取っていた。結婚した男が、ほかの誰かをもっと愛していたことの、書面になった証拠として。息子の未来を取りあげて、よそへやってしまうほどに。けれど、それは判決ではなかった。借金についての取り決めであり、その借金は、彼女の息子の父親を生かそうとして背負われたものだった。あのお金は、誰が愛されていたかを測るものではなかった。ひとつの希望の代価であり、その希望が向けられていた人が、それを払おうとしていたのだ。
それでも、この説明が、「報導者」が彼女の問いの筆頭に置いたものに答えているかどうかは、はっきりしない。夫とのあいだにあったものは全部嘘だったのか、という問いである。病院で明らかになるのは、お金についての真実だ。この読みでは、それは彼女がずっと問いつづけてきたのとは別の問いに答えている。それが彼女自身の年月について何を語るのかを、この文章は言うことができない。
初日の舞台と、客席のひとつの席
怪我をおして、ジェイは初日の舞台のために劇場へ戻る。サンリエンとチェンシーは、客席からその舞台を見届ける。
舞台が、居場所のない悲しみのためにジェイがつくった場所なのだとすれば、妻はそこに席をとったことになる。舞台の上ではなく、客席に。自分が結婚した男を、別の人が悼むのを見届ける場所に。それはこの映画のなかで、いちばん静かな寛大さかもしれない。数えられるものを彼女から何も奪わないぶん、かえって見落とされやすい。
終演後、ジェイの母が花束を手に現れ、ふたりは涙ながらに抱きあう。
その抱擁を、それより前に起きたことと並べて、しかし切り離しておきたい。抱擁は、母のものである。サンリエンが何をしても、母を来させることはできなかった。先に引いた『メイド・イン・ヘヴン』をめぐる一篇は、死を前にした母に呼んでもらえなかったゲイの息子を追い、権利が届く範囲の限界を見た。裁判所は法を無効にできるが、母に息子を呼び寄せさせることはできない。同じことは、裏返せば、不正にもあてはまる。アウティングで、母の手に花束を持たせることはできない。何がジェイの母を劇場まで来させたのであれ、それは彼女自身のものだ。だからこそ、花束をアウティングの手柄にすることは少しもできない。すべてがうまく収まったと思って観終える人は、正しい結末から、間違った教訓を受けとっているのかもしれない。
サンリエンは保険金をジェイに譲り、チェンシーは母と一緒に家へ帰る。
夫が本当に愛した人に、家族は何を負うのか。この読みでは、映画の答えはつつましく、そして正確である。愛ではない。理解でさえ、いっぺんにではない。まず負っているのは、彼の悲しみを、自分たちの悲しみの代価にするのをやめること。そしてそのあとに、もしかしたら、客席のひとつの席。自分が失った人を別の誰かが悼むのを見届けること、その悼みが自分についてのものでなくてもかまわない、と思えること。
日本から観るとき。答える題名と、彼女のしたことを呼ぶ言葉
日本では、この映画は『先に愛した人』という題で配信されている。原題の問いは、ここで言い切りの名詞句に変わる。誰が先に彼を好きになったのかと問うかわりに、ひとりの人を名指すのだ。しかも、この文章の見るところ、日本語のこの言い方は、愛したのが誰なのかを決めていない。「先に愛した人」という言葉は、「先に誰かを愛した人」とも、「誰かが先に愛した人」とも読める。どちらに読んでも、題名はひとりの人で問いに答えている。この読みでは、映画はふたつの題名のどちらよりも賢い。終わりまでに、誰が先だったのかという問いは意味を失っている。問われているのは、ふたつ以上の悲しみが同時にいられる場所があるかどうか、なのだ。
この映画は、ひとつの系譜のなかにも立っている。四半世紀前、アン・リーの『ウェディング・バンケット』は、ニューヨークに暮らす台湾出身のゲイの男性が、両親をなだめようと、グリーンカードを必要としている中国本土出身の芸術家と結婚する物語だった。台湾とアメリカの合作で、一九九三年のベルリン国際映画祭で金熊賞を受けている。花嫁はその取り決めを承知していて、外側に置かれるのは両親のほうだった。『先に愛した人』が目を向けるのは、内側に入れてもらえなかった女性である。夫が死期を知るまで何も告げられなかった妻であり、金馬奨を主催する映画祭の紹介が、犠牲になった、と呼ぶ女性たちのひとりである。
日本では、サンリエンのしたことに、英語から借りた名前がある。アウティングだ。そして少なくともひとつ、それを害として扱っている公の文書がある。厚生労働省が二〇二〇年一月に告示し、二〇二六年に改正した、職場のパワーハラスメントについての指針は、「個の侵害」にあたると考えられる例のひとつに、「労働者の性的指向・ジェンダーアイデンティティや病歴、不妊治療等の機微な個人情報について、当該労働者の了解を得ずに他の労働者に暴露すること」を挙げている。この指針は日本の職場についてのものであり、映画は台湾のひとつの家族についてのものだ。この文章は、この指針を映画に当てはめることを一切しない。この一文が示しているのは、公の文書が害をどこに置いているか、ということだけである。知らされた事実のなかではない。本人の了解なく暴露することのなかに、である。
日本で読む人は、サンリエンの結婚を生きたことがなくても、その立場のかたちには見覚えがあるかもしれない。自分の知らないところで条件の決められた取り決めのなかで、自分の役目を果たしつづけ、その条件が何だったのかを、もう結び直せなくなってから知る人。あるいは、アウティングされたことがなくても、自分の人生でいちばん私的なことを、いつ、どう知られるのか、その時機を誰かの手に奪われることの意味は、想像できるかもしれない。映画は、その両方を同時に抱えることを求めている。これは台湾と日本を比べて、どちらが上だと言う話ではない。映画もこの文章も、台湾の家族の肖像でも、日本の家族の肖像でもない。
この読みが外れているかもしれない五つの点
この読みが外れているかもしれない点は、少なくとも四つある。五つ目は、書いている側に向けたものだ。
第一に、結末は、この文章が認めてきたよりも条件つきなのかもしれない。保険の受取人はジェイだった。それなのに映画は、彼が無私だったことが示されてから、つまり手術のための借金が明るみに出てから、ようやく争いを収め、その結末を、妻が彼にお金を譲るという形で描く。映画は、ゲイの男性が恋人の残したものを受け取ることを、ふたつのことが済むまで待たせている。彼の犠牲の証明と、未亡人の承諾である。そう読む人がいても、それは公正な読みだろう。この文章はその結末を寛大さとして読んできた。それは、条件のついた寛大さなのかもしれない。
第二に、語りの枠。監督自身の説明によれば、息子の語りは、観客が母親を嫌わなくなるように、母のうっとうしさを息子に先に言わせるために導入された。この文章は、映画がそのあと息子の描いた肖像を描き直していく、と論じた。けれど、最初の肖像のほうが描き直しよりも長く、大きく画面に残る、と感じる人もいるだろう。先に笑われることで好かれるようになった女性は、ある代価と引き換えに救われたのだ、と。もっともな異論であり、監督の率直さは、この文章と同じくらい、その異論をも支えている。
第三に、抱擁。映画は、サンリエンがした最悪のことのあとに、ジェイに起きる最良のことを続けている。映画が何を意図していたにせよ、アウティングは結果としてうまくいった、と受けとる人がいるかもしれない。この文章は、そうではなかった、花束は母のものだ、とはっきり書いた。映画自身は、それほどはっきりとは言っていないのかもしれない。
第四に、語り口。アメリカの公共ラジオの評者は、物語のつまずきや調子の踏みはずしを指摘し、『彼が愛したケーキ職人』に比べると見劣りするかもしれないと書いた。ひとつの死と、ひとつのアウティングと、ひとつの暴力を抱えた喜劇は、その三つを支えきれないのかもしれない。映画をいちばん真剣な姿で読むこの文章は、映画が担える以上の重さを、それに負わせているのかもしれない。
第五に、書き手に向けて。この文章は日本で、北京語の映画について書かれ、監督と批評家たちの言葉に寄りかかっている。それを越えるところは解釈であり、そのように読まれるべきである。
この図書室が受けとるもの
ふたつのことを、分けておきたい。
一つ目。悲しみが人前に置く場所をもたないとき、それは法が名前を与えているものへと移っていくことがある。保険の証書、書類、名義、口座。誰かが亡くなったあとのお金をめぐる争いは、与えられたただひとつの文法で語られている悲しみなのかもしれない。だからといって、そうした争いがすべて罪のないものになるわけではないし、お金が大事でなくなるわけでもない。サンリエンの息子には、ほんとうに未来が必要だった。それでも、死をめぐる口論が何についてのものなのかを決めてしまう前に、そのお金が何の身代わりになっているのかを尋ねてみる価値はある。
二つ目。残された書類は、たやすく愛についての判決として読まれてしまう。サンリエンは受取人の欄を、自分の結婚への最後の判決として読んだ。けれどそれは、借金についての取り決めだった。書類は、たいてい、亡くなった人が誰を愛していたかを語る場所ではない。生きている人が、何が取り決められていたのかを知る場所である。
自分が守ってきた結婚が、自分のいた結婚とは違っていたと、遅くなって知ったのなら、あなたは二度悲しんでいるのかもしれない。その人のために。そして、自分が理解していたとおりの年月のために。あなたは真実を受け取ってよかったし、それを手にするずっと前に、受け取ってよかった。二つ目の悲しみには、式もなければ、出すべき書類もない。だからといって、それが悲しみでなくなるわけではない。怒っていてもいい。映画がそっと示しているのは、そしてあくまで示しているだけなのは、その怒りがあなたのものだということだ。抱えているのも、いつ下ろすのかも、あなたが決めてよい。もうひとつ、こうした怒りはたいてい、それを生んだ人には届かず、同じ人を愛した別の誰か、多くの場合は同じように悲しんでいる誰かの上に落ちる、ということも。
この文章の拠りどころと、主張しないこと
これは一本の映画の読みである。台湾であれ日本であれ、保険、相続、結婚、雇用についての法的な助言ではなく、登場人物を含めて、誰のことも診断しない。
作品の公表された記録のほか、それぞれ発表された場で読んだ次のものに拠っている。金馬奨を主催する映画祭による作品紹介。ネットフリックスが配信を決めたときの発表。本作のアカデミー賞台湾代表への選出を伝え、台北電影奨での受賞も記した、台湾の英語メディア、タイワン・ニュースの記事。二〇一九年に英語の映画誌に英訳で掲載された、シュー・ユーティンへのインタビュー。二〇一八年の「報導者」による、作品と監督ふたりについての記事。そしてアメリカの公共ラジオの批評。評者が伝える場面は、その評者の説明として紹介した。
法律と指針は、その文面が述べるとおりに紹介した。二〇一九年五月二十四日に施行された台湾の司法院釈字第七四八号解釈施行法と、二〇二〇年一月に告示され、二〇二六年に改正された、職場のパワーハラスメントについての厚生労働省の指針である。どちらも、映画の誰にも当てはめていない。
ここに名前の出る作り手、演者、批評家、映画祭、配信元は、いずれもこの媒体と関係がなく、この文章を推奨してもいない。
手もとに残しておく問い
お金や住まいや書類をめぐる争いのなかに、ほんとうは、一度も口にすることを許されなかった何かをめぐっているものは、ないだろうか。
肩書きをともなっていなかったというだけで、立場のないものとして扱ってきた誰かの悲しみは、ないだろうか。
誰かが残していった書類が、あなたについての判決のように読めたとき、それはほかに何を取り決めようとしていたのだろう。
自分のものではなかったのに、使ってよいもののように抱えてきた誰かの秘密は、ないだろうか。
さらに深く、資料室で
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。