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『ワンダーラスト: 幸せになるためのセラピー』と、取り決めの届かない場所

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自転車の事故のあと、夫婦の性は止まった。カップルセラピーを仕事にしている妻と、その夫は、結婚を続けたまま、ほかの相手とも会うことに決める。ふたりは互いを好いていて、率直で、話すことにも長けている。取り決めははじめ、狙いどおりに働く。届かないのは、ふたりがまだ知らなかったことのすべてだ。気持ちが何に育つのか。欲望が何を運んでいたのか。取り決めの外にいる人たちが、何を決めるのか。

ジョイ・リチャーズの仕事場は、自宅の庭にある。夫婦やカップルがそこを訪ね、家では言えずにきたことを、彼女の手を借りて互いに言おうとする。つまり彼女は、この物語が扱うたぐいの会話を、生業にしている人なのだ。

『ワンダーラスト: 幸せになるためのセラピー』は、劇作家ニック・ペインが脚本を書き、二〇一八年にイギリスの公共放送とネットフリックスのために作られた全六話のシリーズである。物語が始まるとき、ジョイは中年の女性で、自転車に乗っていて車にはねられた怪我から回復しようとしている。長く連れ添い、互いへの情はたっぷりある結婚のなかで、性だけが止まっている。

そこから先のことは、はじめのうち、ほとんど成り行きで進む。英語教師の夫アランは、勤め先の学校の同僚クレアと関係を持つ。ジョイは、リハビリで知り合ったマーヴィンと関係を持つ。ふたりはそれを互いに打ち明ける。第一話を評したある批評家は、その打ち明け方を、喜劇的なほどあっけらかんとしている、と書いた。そしてふたりは、ふたつのことに同時に気づく。今も互いを愛していること。そして、どちらもやめたくはないこと。そこでジョイが提案する。結婚は続けたまま、外にも開いてみよう、と。

はじめはうまくいく。外での関係はふたりの性生活にも火をつけ、新しい相手たちも取り決めになじんでいく。クレアと、ジョイが会いはじめた年下の男マークとの、四人でのデートも楽しく終わる。結婚を開けば冷えた夫婦がもう一度目を覚ますのか、という問いだけなら、このシリーズは第四話で「はい」と答えて終わってもよかった。

そこで終わらない理由こそが、この文章の主題である。ジョイとアランは、開かれた関係についてのもっとも分別ある議論が勧めるとおりに、取り決めを交わしている。声に出して、早いうちに、誠意をもって。しかも交わしているのは話すことのできるふたりで、そのひとりは夫婦の対話を助けることを仕事にしている。それでも取り決めはつまずく。そのつまずき方を見ると、どんな取り決めにも届かない場所があることがわかる。外へ出した気持ちが、この先何に育つのか。許したはずの欲望が、じつは何を運んでいたのか。取り決めの外にいる人たちが、何を決めるのか。彼らには彼らの生活があり、良心がある。

シリーズはその場所をひとつずつ訪ねていく。いちばん風変わりなのは、ひとつの部屋だ。第五話は、ほぼ全編が、ジョイと彼女自身のセラピストとのひとつのセッションでできている。

シリーズについて、そして読み進める前に

『ワンダーラスト』は、二〇一八年九月四日から十月九日まで、イギリスの公共放送で毎週一話ずつ放送された。一話およそ一時間、全六話である。イギリスの外ではネットフリックスが、同じ年の十月十九日から配信した。脚本のニック・ペインは劇作家で、これが初めて手がけたテレビシリーズだった。制作はドラマ・リパブリック。ジョイをトニ・コレット、アランをスティーヴン・マッキントッシュ、クレアをゾウイ・アシュトン、ジョイのセラピストであるアンジェラをソフィー・オコネドーが演じている。二〇一七年に制作が発表されたとき、ネットフリックスはこの作品を、人が幸せな関係をどう築き、どう保っていくのかを見つめ、生涯ひとりの相手とだけ結ばれていることは可能なのか、そもそも望ましいのかを問うシリーズだと紹介した。

ペインがこの題を使うのは二度目である。彼の二作目の戯曲も『ワンダーラスト』といい、二〇一〇年九月、ロンドンのロイヤル・コート劇場の上階にある劇場で幕を開けた。それもまた長い結婚の物語で、ジョイという名の女性が、自分の欲望をもう一度取り戻そうとする。劇場自身の記録によれば、舞台のジョイはかかりつけの医師だった。テレビのシリーズは、ペインがこの自作の戯曲をみずから脚色したものである。この職業の入れ替えは、あとで効いてくる。医師は体を診る。セラピストは、人の言葉が何を運んでいるのかに耳を澄ます。シリーズはやがて、その耳をジョイ自身に向けることになる。

日本ではネットフリックスで、英語の題をカタカナに写し、「幸せになるためのセラピー」という副題を添えた題で配信されている。この副題には、あとの節で立ち戻る。

この文章は、シリーズそのものを観ずに書かれた。物語は、公開されているあらすじや各話の紹介、批評が伝えるとおりに記している。登場人物のせりふは引用せず、すべて言い換えた。批評家の言葉は、元の記事で読んだものだけを、この文章の訳で紹介する。

そして、この文章は結末までふれる。最終話の出来事は「体だけのはずだった場所で」という見出しの節から始まり、その節は最初の一行でそう断っている。結末を画面のためにとっておきたい人は、その見出しまで読んだら、そこでやめてほしい。

日付のある静けさ

静けさがいつ始まったのかは、大事なことだ。そしてこのシリーズは、その点についてはっきりしている。ジョイとアランのあいだの性は、彼女の事故のあと止まったままになっている。制作発表のときのネットフリックスの紹介文も、自転車の事故をきっかけに、ふたりが関係を見直すことになると書いていた。第一話を評した批評家は、この結婚を、情にはあふれているのに情熱には飢えている、と言い表している。

事故には原因があり、その原因には来歴がある。事故の一因は、ジョイが、かつての相談者エミリーの姿に気を取られたことだった。エミリーと夫のジョシュは、夫婦でジョイのセラピーを受けていた。そしてその最中に、ジョシュは自ら命を絶った。この文章が彼の死について言うのは、それだけである。シリーズのなかで、その死はジョイが抱える罪悪感の源であり、ここにもその意味でだけ登場する。

だからこの夫婦の静けさは、長い結婚にゆっくり訪れる静けさとは違う。少なくとも、それだけではない。日付がある。怪我とともに始まり、その怪我の向こうには、ひとつの死がある。

この区別が大事なのは、長い結婚が静かになることについて説得力のある説明がすでにあり、それが別のものを描いているからだ。この図書室の「薄れていったのは、計画が働いていたということ。」は、始まりのころの欲望はいくらか不確かさを燃料にしていて、長い結婚はその不確かさを意図して使い果たしていくのだと論じた。ふたりが建てていたのは安心だったのだから、薄れていくのは努力の失敗ではなく、成功の代価なのだ、と。力のある議論であり、多くの結婚に、そしてこの結婚の一部にも、あてはまるのかもしれない。けれど、ジョイとアランの静けさは、ある出来事のあとに訪れた。ふたりがこれから結ぶ取り決めは前者の静けさのために設計されていて、シリーズがゆっくり見せていくのは、ふたりが後者のなかにもいたということである。

提案したのは彼女だった

誰が提案するのかに、目をとめておきたい。こういう結婚の物語でおなじみの形は、夫が外で関係を持ち、妻がそれを知り、ドラマは妻がどこまで耐えるかをめぐって進む、というものだ。『ワンダーラスト』では、外で関係を持つのもふたり、打ち明けるのもふたりで、そのうえで次の一手が彼女に渡される。自分が何を望んでいるのかを口にするのはジョイであり、取り決めを組み立てるのもジョイである。

彼女は性を求め、それを口にする中年の女性だ。シリーズはその欲望を、笑いの種にも、危機にも、落ちにもしない。率直さで話題になった第一話の、その率直さには役目がある。女性の欲望を、ありふれたものとして置くことだ。彼女の身に降りかかるものでも、誰かに見つけ出されるものでもなく、彼女が持っていて、自分で名づけるものとして。「誰かに見つけ出されるもの」という言い回しは、覚えておいてほしい。シリーズはのちに、まさにそれに近いことをする。それが行き過ぎなのかどうかは、終わり近くの反論の節で問う。

そして夫婦のうち、話すことを仕事にしているのは彼女のほうだ。これは飾りではない。ジョイは毎日、カップルが互いに言いにくいことを言えるよう手助けしている。彼女の提案も、その仕事の語り口のままだ。正直になろう。望んでいることを、はっきり言葉にしよう。試してみて、どうなるかを見よう。結婚を損なうものの多くは、言われずにいることから育つ。それなりの根拠をもってそう信じている人の提案である。その信念が彼女自身にも通用するのかを、シリーズは試していく。

『31年目の夫婦げんか』の妻と並べてみたい。あの映画の妻は、一週間の集中カップルカウンセリングを申し込んで代金を払い、渋る夫を連れてメイン州の海辺の町のカウンセラーのもとへ行く。難しい問いを投げかける専門家は、部屋の向こうに座る男で、妻は夫と並んで問われる側にいた。『ワンダーラスト』では、その専門家が妻なのである。では、誰が彼女に問うのか。

正しく交わされた取り決め

ジョイとアランの取り決めは、よく交わされていると言ってよい。この図書室の「ひとりが前提ではないとき。開かれた取り決めと、それが実際に要求するもの。」は、長続きする開かれた取り決めを分けるのは、そこにいる人たちの価値観ではなく、ひとつの技能だと論じた。条件をはっきり言葉にすること、それを見直すこと、歓迎されないことを、こじれる前に声に出して言うこと。あの文章のいちばん役に立つ警告は、ひとつの失敗の型についてのものだ。困難を抱えたふたりが、本当は何が欠けているのかを誰も言わずに済むように、関係を開いてしまう。

その物差しで測れば、リチャーズ夫妻は多くの夫婦よりうまくやっている。ふたりは自分のしたことを互いに告げる。何に合意しているのかを、思い込みに任せず口にする。この取り決めは性についてのもので、性だけのものだということを、ふたりとも承知している。取り決めが暮らしのほかの部分へ広がりはじめても、ふたりはその結果を隠さずに引き受ける。

それでも、あの失敗の型がここにないわけではない。この結婚には、避けられている会話がある。シリーズが見せ、この文章がそこから受け取るのは、避けられていた会話がジョイとアランのあいだのものではなかった、ということだ。あの文章が描く技能は本物で、欠かせない。ただしそれは、ふたりが知っていることに対して働く。肝心なことを、ふたりのうちひとりがまだ自分でも知らずにいるとき、その技能には働きかける先がない。

シリーズはそこへ向かう前に、取り決めが本当に役に立つところも見せている。止まっていた性が戻ってくる。四人でのデートは楽しい。この実験を、はじめから間違いだったかのように書くのは不誠実だろう。実験はリチャーズ夫妻に、失っていたものをひとつ返している。ただ、ふたりのどちらもまだ言葉にしていなかったものには、届かなかった。

ほかに誰が知らされるのか

取り決めはふたりのあいだで交わされるが、それを生きる場所には大勢の人がいる。リチャーズ夫妻はそれをすぐに知ることになる。ふたりは子どもたちに取り決めを打ち明ける。アランは校長にまで説明しなければならなくなる。条件は性についてのものであって、誰に知らせることになるのか、知らせることが何を失わせるのかについてのものではなかった。けれど取り決めがふたりだけのものでなくなるのは、まさにその打ち明けのところである。

ここで、シリーズが真剣に扱っている、ぶつかり合う価値が見えてくる。正直さがある。リチャーズ夫妻はそれを大切にしていて、だからこそ打ち明ける。私生活を守ることもまた価値であり、打ち明けるたびにそれは削られていく。子どもたちがいる。彼らは尋ねられるのではなく、告げられる。同僚たちがいる。取り決めは、彼らの働く学校にまで届く。ジョイが求めた自由があり、家族が築かれてきた土台としての安心がある。この文章は、これらに順位をつけない。ひとつだけ見ておけばよい。ふたりのあいだの取り決めでは、これらに決着をつけられない。利害を持つ人の多くが、取り決めの交わされたその場にいなかったのだから。

条件は、ふたりのために書かれた。結果は、ふたりだけには収まらなかった。

向かいの椅子に座るセラピスト

そして第五話で、シリーズは立ち止まる。さすらいたいという衝動を題にしたドラマが、四話をかけて取り決めを世の中へと追いかけたあと、ひとつの部屋に腰を下ろし、そこから動かない。この回は、ほぼ全編がジョイと彼女自身のセラピスト、アンジェラとのひとつのセッションでできている。アンジェラを演じるのはソフィー・オコネドーだ。

その部屋で起きることは、言葉にすれば簡単だ。聴くことを仕事にしてきた女性が、聴かれる。セッションのなかでジョイは、自分が落ち着きなく性を求めつづけてきたのは、ふたつのことに向き合わずにいるためだった、と気づいていく。亡くなった母への悲しみと、ジョシュの死への罪悪感である。シリーズはそこへ、議論によってではなく、部屋にとどまりつづけることによってたどり着く。

シリーズがここに転回を置いたことには意味がある。取り決めは、開かれた場所で、ふたりのあいだで、話し合いによって組み立てられた。その取り決めが届かなかったものは、まったく別の場所に現れる。同意するためではなく聴くためにそこにいる、もうひとりの女性と過ごす部屋に。結婚の取り決めのどの条件も、そこで語られたことを覆うことはできなかった。語られるまで、ジョイ自身がそれを知らなかったのだから。

はっきり言っておきたい。この文章は、あのセッションを方法として差し出すものではないし、セラピーについての助言でもない。シリーズはドラマであり、あのセッションはドラマの発見を一時間のうちに届けるように書かれている。そのことは、後の反論の節で正面から扱う。この文章があの回から受け取るのは、もっと狭いものだ。シリーズが選んだ形である。取り決めが何を運んでいたのかを見つける必要が生じたとき、シリーズはもうひとつの交渉を描かなかった。動くのをやめたのである。

欲望が運んでいたもの

ここは言い方を誤りやすいところなので、丁寧に言っておきたい。これは、ジョイの欲望が偽物だったということではない。本当は性を求めていなかったということでも、欲望は悲しみの変装にすぎなかったということでもない。あのセッションが見つけるのは、もっと狭く、もっと興味深いことだ。性を求める彼女の探し方は、いつのまにか落ち着きを失っていて、その落ち着きのなさが、もうひとつの役目を果たしていた。それは彼女を動かしつづけた。動いているかぎり、ふたつのことは、置いてきた場所に置いたままでいられた。

求めることと逃げることは、外から見れば見分けがつかないことがある。どちらも次の誰かへ手を伸ばす。どちらも飢えている。違いが見えてくるのは、立ち止まったときなのかもしれない。第五話が彼女にさせるのは、まさにそれだ。この文章が『ワンダーラスト』から受け取るものの芯は、ここにある。欲望は本物でありながら、同時に何かを運んでいることがある。そして取り決めが扱えるのはいつも欲望のほうだけで、欲望が運んでいるものには届かない。

ふたりの条件は、ジョイが何を、誰と、どんな約束のもとでしてよいのかを定めた。それが何のためなのかは、定められなかった。どんな条件にも定められない。これはこの夫婦の交渉の欠陥ではなく、交渉というものの限界である。ふたりの人間は、行為については合意できる。けれど、一方がまだそこにあることさえ知らない意味について、合意することはできない。

これは先に見た失敗の型を否定するのではなく、その一歩先を示している。先の警告は、何が欠けているかを誰も言わずに済むように結婚を開くことへの戒めだった。『ワンダーラスト』が見せるのは、もっと難しい場合だ。関係を開いた本人は、知っていることなら何でも言えたし、実際に言った。欠けていたのは、夫に隠していた何かではなかった。自分自身から隠していた何かであり、ふたりのあいだの会話がどれほど巧みでも、それを話の場に引き出すことはできなかった。

先に見た、長い結婚が静かになることについての説明にも、同じことが言える。長い結婚が薄れていくのが、築いてきた安心の代価なのだとすれば、新しさを持ち込む取り決めは、筋の通った答えになりうる。けれどリチャーズ夫妻の静けさは、それだけではなかった。原因をたどればひとつの死に行き着く事故のあとに始まり、ジョイがまだ向き合っていない母への悲しみと並んでいた。一方の静けさのために設計された答えは働き、もう一方の静けさは続いた。だから実験は目的としたことに成功し、それでも結婚はもとの場所から動かなかったのである。

体だけのはずだった場所で

ここから先は、最終話の出来事にふれる。

気持ちが何に育つのかについて、シリーズはいちばんはっきり描いている。アランはクレアを愛するようになる。取り決めは性についてのものだったが、気持ちは条件を読まない。最終話で彼はクレアの部屋に移り住む。散らかったその部屋を、彼は片づけずにいられない。アイロンを欲しがる。落ち着けない。ひとつの家の習慣を抱えたまま別の家へ移り、恋は家具までは運んでくれないと知った男の、小さく正確な肖像である。

そしてクレアが、取り決めの想定になかったことをする。彼女もアランを愛している。それでも、ほかの女性を犠牲にしてまで続けることはできないと気づき、関係を終わらせる。

その瞬間、この物語の倫理がどこから来ているのかを見てほしい。条件からではない。ジョイは、アランがクレアと関係を持つことに同意していた。条件は性についての、性だけのものだった。夫が別の女性の部屋で暮らし、妻が家に残る。取り決めが行き着いたこの形は、それとは別のものである。ジョイの同意は、あるものに対して与えられていた。それはこの事態にまでは及ばない。同意とは、いつもそういうものだ。与えられたときに、与えられた対象だけを覆う。取り決めがあとから何に育とうと、その同意を借りてくることはできない。そして、それを見てとるのは取り決めの当事者ではない。何ひとつ署名を求められなかったクレアが、その場にいない妻に、条件のどこにも書かれていなかった配慮を向けるのである。

ジョイのほうは、昔の恋人ローレンスとふたたび近づいていた。かつてジョイがアランを裏切ったときの相手で、アランが憎んでいる男である。最終話で、ローレンスは彼女を拒む。取り決めは扉を開き、そこから入ってきたものの一部は過去だった。そして過去には、過去の限度があった。彼もまた取り決めの外にいて、彼もまた決めたのである。

こうして、取り決めの外にいる人たちこそが、じつはもっとも決定的な参加者だったとわかる。子どもたちは知らされた。校長も知らされた。クレアは決めた。ローレンスも決めた。ふたりのあいだの取り決めは、望むと望まないとにかかわらず、それがふれるすべての人への申し出でもある。そしてふれられた人は、誰でもそれに答えることができる。

事故の道をもう一度

あのセッションのあと、最終話でジョイがするのは、戻ることだ。彼女はエミリーに会う。それから、事故に遭った道を自転車でたどる。

このふたつを物語の始まりと並べると、シリーズの形が見えてくる。始まりには事故があり、エミリーの姿に気を取られたことがその一因だった。終わり近くには、エミリーに会い、同じ道をもう一度走るジョイがいる。そのあいだで、取り決めはひと巡りを終えている。提案、成功、周囲への広がり、体だけのはずの関係に育った恋。そのすべては、エミリーの姿を見たときから彼女に会うときまでのあいだに起きた。そして出口は、あの道を戻ったところにあった。シリーズは静かに、そう示しているように見える。ふたりの女性のあいだで何が交わされたのかは画面が見せるものであり、この文章は伝えない。

それからアランが帰ってくる。友人の家の空き部屋で寝泊まりしたあと、彼は家に戻り、ふたりはもう一度寄り添う。この文章は、この結末を判決ではなく帰還として読む。実験を経て、始めたときより多くを知ったふたりが、この結婚をもう一度選ぶ。最終話の放送の翌日に載った、イギリスの批評サイト、ジ・アーツ・デスクの評は、この結婚が本当に修復されるのかどうかは問いのまま残された、と書いている。そのとおりだと思う。

この帰還を教訓として読むこともできる。開かれた結婚を試し、失敗し、家に帰った、と。同じ評者は、まさにその教訓を書いている。自分たちへの覚え書きとして、ケーキは食べてしまえば手元に残らない、と。ふたつのものを同時には手にできない、という意味の英語のことわざである。この文章は、別の読み方をしたい。取り決めは、目的としたことに失敗したのではない。狙いどおり、結婚のなかに性を呼び戻した。できなかったのは、そのあとシリーズが向かった場所に届くことだった。誰も同意していなかった恋、誰も言葉にしていなかった悲しみ、ジョイがもう一度走らなければならなかった道。帰還は、試したことへの罰ではない。その場所を訪ねたあとで、はじめて可能になったものである。

日本語の題が足しているもの

日本では、このシリーズは『ワンダーラスト: 幸せになるためのセラピー』という題で配信されている。英語の原題は、さすらいたいという衝動、ひとところにとどまれない落ち着きのなさを名指している。日本語の題はそれをカタカナで写したうえで、副題に、治療と、その行き先を書き足した。

さっと読めば、この副題は開かれた結婚そのものをセラピーと呼んでいるように見える。幸せになるために夫婦が試みる実験として。この文章の読みでは、シリーズはその見方をとらない。取り決めは目的を果たすが、幸せを生み出すのはそれではない。それでも副題は、たぶん意図とは別のところで正しい。このシリーズには、たしかにセラピーがある。ただしそれは取り決めではない。第五話のひとつのセッションであり、そこでジョイが手にするのは幸せではない。ようやく向き合うことのできた、自分の悲しみである。

日本の読者なら、始まりのころのリチャーズ夫妻を言い表すのに、セックスレスという言葉を思い浮かべるかもしれない。この言葉には定義がある。日本性科学会は一九九四年に、セックスレスを、特殊な事情が認められないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが一か月以上なく、その後も長期にわたることが予想される場合、と定めた。慎重に作られた定義で、特殊な事情についての但し書きももっともだ。理由のある静けさと、ひとつの状態になってしまった静けさとを、分けるためのものだからである。

『ワンダーラスト』は、そのふたつが絡まり合ったときに何が起きるかの物語である。リチャーズ夫妻の静けさは、怪我という特殊な事情から始まり、その怪我の向こうにはひとつの死があった。それが長く続くうちに、もう一方の静けさにもなっていった。取り決めを組み立てるころ、ふたりはそれを後者として扱っている。シリーズがゆっくり見せていくのは、その下で、それがまだいくらかは前者でもあったということだ。この図書室の「日本はなぜセックスレスを数えるのか。その数字が隠すもの。」は、その数字は現実の不在を測っているが、欲望について大切なことの多くは、数え方がもともと捉えるように作られていないところにある、と論じた。特殊な事情の但し書きは、まさにそれが起きている場所のひとつである。十分な理由があって、静けさのなかでもしばしば物語の宿る部分を、わきへ置くのだから。

日本のドラマ『1122 いいふうふ』も、『ワンダーラスト』に近いところから始まる。二〇二四年に配信されたこのシリーズには、互いを好いていながら性のなくなった夫婦がいて、結婚の外での恋を許す決まりがある。はじめのうち、その決まりを使っているのは夫だけだ。この図書室の「『1122 いいふうふ』と、決まりが肩代わりしたひと言」は、夫婦の決まりが、どちらにも言えなかったひと言の肩代わりをしていたこと、そして抜け道のひとつひとつが誰かに、しかも選んだ本人とは限らない誰かに代償を払わせたことを論じた。『ワンダーラスト』は、ある意味でその裏返しである。こちらでは、言うことを仕事にしている女性が、言うべきことを早いうちに、率直に言っている。それでも、そこに入っていないものがあった。彼女自身がまだ知らなかったからだ。ふたつのシリーズを並べると、別々のふたつの限界が見えてくる。決まりは会話の肩代わりをすることがある。そして会話は、そこにいる人たちが知っていることしか入れられない。

静かになった結婚のなかにいる日本の読者にとって、『ワンダーラスト』の中心にある取り決めは、この作品でいちばん縁遠いものかもしれない。静けさそのものは、いちばん身近なものかもしれない。そして、取り決めの下でシリーズが問いつづけている問いは、イギリスの家具をひとつも持たずに、ここまで届く。その静けさは、いつ始まったのか。そのとき、ほかに何が起きていたのか。

この読みへの反論

この読みが間違っているかもしれない点は、少なくとも四つある。ひとつめは、いちばん強い形で示しておくべきものだ。

第一に、この読みは彼女から欲望を取り上げてしまうかもしれない。『ワンダーラスト』のいちばん率直なところは、中年の女性が性を求め、それを口にするのを、謝らせることも罰することもなく描くところにある。ところが、そのいちばん風変わりな回は、彼女を椅子に座らせ、その欲望が悲しみを覆っていたことを見つけ出す。アランの外での欲望は恋になり、クレアの部屋への引っ越しになる。ジョイの欲望は、セッションの材料になる。女性についての物語でよく見る動きだ。求める女性は、最後には、じつは別のものを求めていたとわかり、その発見が彼女を結婚へ連れ戻す。シリーズは第五話で腰が引けた、そしてこの文章もそれに従った、と感じる読者は、どちらについても読み違えてはいない。示せるいちばんの答えは、あのセッションが見つけるのは偽りではなく落ち着きのなさだということ、そしてセッションのあとも彼女の欲望は終わらないということだ。最終話で、彼女はなおローレンスへ手を伸ばしている。それは答えではあるが、反駁ではない。

第二に、結末は変装した教訓かもしれない。実験のあと夫婦はもとに戻り、このシリーズを高く評価した評者でさえ、ケーキの教訓を引き出した。もし『ワンダーラスト』が最後に言っているのがそれなら、開かれた結婚への誠実な扱いは、もとの鞘に収まるための長い前置きだったことになり、取り決めの限界を語るこの文章は、作品に対して甘すぎることになる。この文章の答えは、取り決めは目的としたことには失敗していないということ、そして帰還は試みへの罰としてではなく、取り決めの届かない場所を訪ねたあとに来るということだ。それでも、シリーズが最後に置くのは取り決めではなく夫婦である。そこに作品の判定を読む読者には、結末という味方がついている。

第三に、第五話はひとつの仕掛けである。同じ評者は、あの回を大胆な選択だがいまひとつ届かなかったと評し、ドラマを前へ進めるために、セラピストが現実よりだいぶ多くしゃべっている、とも書いた。ペインは劇作家であり、ふたりきりで五十分ほど向き合う対話は、劇作家の形式である。悲しみが一時間で正体を明かすことはめったにない。最終話のひとつ前という予定どおりの位置で届けられる発見は、誰かについての真実である前に、書き手の答えだ。その一時間に中心の主張を載せる文章は、結果を届けるために作られた構造の上に立っている。ここでの主張は、その構造が見せているものについてのものであって、悲しみの働き方についてのものではない。

第四に、この文章自身が、シリーズがしないことを褒めておきながら、それをしているのかもしれない。別の手段による説教である。取り決めは悲しみにも、恋にも、ほかの人たちにも届かないと言えば、取り決めなど結ばないほうがいいという理由に聞こえかねない。そういうつもりはない。同じ限界は、ふたりの人が交わすあらゆる取り決めにある。もっとも慣習的なものも含めて。結婚の誓いもまた、まだ存在しない気持ちについての約束であり、それを交わすふたりも、すでにそこにあるものをすべて知っているわけではない。『ワンダーラスト』がその限界を開かれた結婚で試すのは、開かれた結婚のほうが、それを早く見せるからだ。

この図書室が受け取るもの

三つある。どれも規則ではない。

取り決めは、人が何をするかを定める。それが本人にとって、あるいはほかの誰かにとって何を意味することになるかは、定められない。ジョイとアランの取り決めについてもそうだし、多くの人が取り決めとは呼ばずに交わす誓いについてもそうである。

静けさには日付がある。どんな取り決めがそれに答えうるかを考える前に、それがいつ始まり、そのとき何が起きていたのかを問うてみる価値があるのかもしれない。どれほど周到な条件も、違う静けさに宛てて書かれてしまうことがある。

そして、取り決めの外にいる人たちは、取り決めの家具ではない。彼らは知らされ、そして答える。クレアのように、条件のどこにも書かれていなかった配慮を持ち込む人もいる。

だから一度だけ、あなたに言っておきたい。もしあなたが、家のなかで話すことの得意な人なら。ものごとに名前をつけ、提案し、ほかのみんなに説明する役目を、頼りにされて引き受けている人なら。言うのがうまいことと、言うべきことをすべて知っていることは、同じではない。あなたの望みの下に、まだ見ていない何かがあるとしても、それを見つけたからといって、望みが偽物になるわけではない。まだ知らなくていい。知るまでのあいだ、立ち止まっていい。

もしこの物語が、あなた自身や身近な人の死にたいという思いに、あるいはこの物語の底にあるような死に触れるなら、文章ではなく人に話してほしい。厚生労働省の「まもろうよ こころ」には、電話や文字のやりとりで相談できる窓口がまとめられている。

手もとに残しておきたい問い

あなた自身の暮らしのなかの静けさは、いつ始まっただろう。そのとき、ほかに何が起きていただろう。

愛する人と何かを取り決めたことがあるなら、それは何を覆っていて、何を成り行きに任せていただろう。

あなたの望みのなかに、同時に何かを運んでいるものはあるだろうか。それを知ったら、望みそのものが変わるだろうか。それとも、望みをどう扱うかだけが変わるだろうか。

あなたの取り決めの外には、誰がいるだろう。知らされることになる人、そして決めることになる人は。

もしあなたが話すことの得意な人なら、あなたの話を聴いているのは誰だろう。

読みもののお便り

週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。

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