Cinema
『慕情のアンソロジー3』と、勝手口から帰ってくる欲望
四つの短編のうち三つで、結婚のなかの欲望は死んでいない。静かになっていただけだ。動き出すとき、それは勝手口を通る。親友の計画と嫉妬まじりの嘘を通って、ベッドで終わる口論を通って、書き手のものではない名前で出版されたノートを通って。映画は勝手口に寛大だ。そしていちばん誠実なところで、その扉を通るのに何がかかり、誰が払うのかを数えている。
一九八七年のハイデラバード。ウルドゥー文学を教える女性がノートを開き、こうであってほしいと願う夫を書く。天から降りてきて、彼女の恋人になる男を。実際の夫は、ホメオパシーの医師だ。彼女は夫を愛している。けれど彼女が求めても、夫は薬で応える。彼女はそのノートを、夫に見せない。
カンダラのリゾートでは、四十代の女性が、夫の好きなものも、どうしても受けつけないものも、正確に知っている。結婚して長く、しばらく前から夫婦のあいだに体の関係はない。その知識を、彼女は物語のなかで嘘に使う。親友が、二人で決めたとおりに夫を誘惑しようとしている。嘘は、その親友をしくじらせるためのものだ。
どちらも、二〇二六年九月にネットフリックスで配信が始まった『慕情のアンソロジー3』の登場人物である。同じ名を冠した短編集の、三作目にあたる。二人とも、望むことをやめていない。二人とも、望んでいる相手にそれを言わない。この映画が何度も戻っていくのは、そこだ。欲望が死んだのではなく、ただ静かになった結婚。そしてその欲望が、回り道をして家に帰ってくる道すじ。
この文章が言いたいのは、この映画のなかで、欲望は勝手口から帰ってくる、ということである。表玄関からではない。表玄関から入るには、誰かが自分の名前で、その望みに関わる当の相手に向かって、何を望んでいるのかを言わなければならない。欲望が通るのは、家が人目を避けたいときに使う出入り口のほうだ。テレビドラマから借りてきた計画、嫉妬まじりの嘘、ベッドで終わる口論、書き手のものではない名前で街じゅうに売られる本。映画は勝手口に寛大だ。そこからは実際に何かが入ってくるし、入ってくるもののなかには、やさしいものもある。映画がいちばん誠実なのは、その扉を通るのに何がかかり、誰がそれを払うのかを、きちんと数えているところである。
この映画には、表玄関もある。それが最後まで開くのは一度だけで、その先にあるものは、この短編集のなかでいちばん意外なものかもしれない。
作品について、そして読み進める前に
『慕情のアンソロジー3』は、ヒンディー語の短編四本からなるオムニバス映画である。ヴィクラマディティヤ・モトワニ、キラン・ラオ、シャクン・バトラ、ヴィシャール・バルドワージの四人が、一本ずつ監督した。製作は、ロニー・スクリューワーラーとアーシー・ドゥアがそれぞれ率いる会社だ。二〇二六年九月十八日にネットフリックスで配信が始まり、日本でも同じ日から見られるようになった。全体で三時間にわずかに届かない長さだ。四人の監督は、いずれもこのシリーズに初めて参加している。二〇一八年の第一作を撮ったのはアヌラーグ・カシャップ、ゾーヤー・アクタル、ディバーカル・バナルジー、カラン・ジョーハルの四人で、二〇二三年の第二作では、コーンコナー・セーン・シャルマーも監督のひとりだった。
配役はこうだ。モトワニ編では、ラーディカー・アープテーとコーンコナー・セーン・シャルマーが四十代の親友パドマとショナリを、ヴィジャイ・ヴァルマとアビシェーク・バナルジーが、それぞれの夫ヘーマントとデベンドゥを演じる。ラオ編の中心はネイリストのリサを演じるサナ・タンピで、グルファテ・ピルザダが、カランと、その瓜二つの双子アルジュンの二役を演じる。バトラ編では、アリ・ファザルとラーディカー・マダンが、離婚の成立を待つヴァルンとサイリーを。バルドワージ編では、アディティ・ラーオ・ハイダリーがサイラを、シッダールトが夫のバドルを演じる。アープテーは、第一作に続いての出演になる。
先に二つ、断っておく。この文章は、映画そのものを観て書いたものではない。作中で起きることは、公開されている作品の記録と、公開時に出た映画評にもとづいて書いた。せりふはすべて言い換えていて、そのままの引用ではない。記録どうしが食い違っているところでは、どちらかを選ばずに、食い違っていると書く。そしてこの文章は、四つの物語すべての結末にふれる。議論が結末で成り立っているからだ。結末にふれるのは数節先からで、その節の頭にそう書いておく。結末をまず画面で見たい人は、ここで読むのをやめて、観たあとで戻ってきてほしい。
カメラの前から、勝手口へ
この映画の八年前、ラーディカー・アープテーは第一作で、大学で教えるカーリンディーを演じた。物語の途中で何度もその外へ出てきて、カメラに向かってまっすぐ自分を説明する女性だ。彼女は望み、そう口にした。長々と、私たち観客に向かって。この図書室はその映画について「『慕情のアンソロジー』と、聞き届けられる望み、届かない望み」を書き、四人の女性はみな望んでいて、映画はそのことを一度も疑わない、と論じた。違っていたのは、その望みが聞き届けられるかどうか、聞き届けるのは誰で、そのためにどれほどの代価がいるのか、だった。そして聞き届けられ方は、力関係に沿っていた。誰が誰を教えているのか。誰が誰に賃金を払っているのか。そこは誰の家なのか。
第三作でアープテーが演じるのはパドマで、二つの役のあいだの距離は、このシリーズが進んできた距離でもある。カーリンディーは、すべてを言った。パドマは、感じていることの反対を見せる。スクロール誌で本作を評したナンディニ・ラームナートは、アープテーがパドマの装った嫌悪をみごとに演じている、と書いた。覚えておきたい言い方だ。パドマが何を望んでいるにせよ、彼女が演じてみせるのは、望んでいないことなのである。
そこが変わったところだ。第一作の女性たちは、望みをおおむね口にすることができた。問われていたのは、誰が耳を傾けるかだった。第三作の中心にいる妻たちにとっては、口にすることそのものが難しい。誰も聞かないからではない。静かになってしまった結婚のなかでそれを言えば、言った本人が、手放せない何かを失いかねないからだ。体面か、居場所か、結婚そのものか、あるいは自分の名前か。だから望みは回り道をする。評者たちも、この温度の変化を感じとっていた。アウトルック誌のアイシャニ・ビスワスは、この作品がいちばん良いのは、欲情を醜聞として扱うのをやめ、欲望が、人がそれぞれに築いてきた暮らしについて何を語っているのかを見つめはじめたときだ、と書いている。
二つの扉が何を指すのか、はっきりさせておきたい。表玄関とは、その望みに関わる当の相手に向かって、自分の名前で言うひと言のことだ。あなたが欲しい。これがしたい。足りないのは、これだ。勝手口とは、それ以外のすべてである。名乗らずに家へ入るために、望みが使えるほかのあらゆる道。勝手口を使うことは、道徳的な落ち度ではない。長い結婚では、開く扉がそれしかないことも多い。けれど勝手口は、ただではない。そこを通るのに何がかかるのかが、この文章の主題である。
誕生祝いという名目の週末
モトワニの一編で、パドマとショナリはどちらも、もう夫と寝ていない。ショナリの夫デベンドゥは、寝室に来るより、パソコンの前に座っているほうを選ぶ。ハリウッド・リポーター・インディアで本作を評したラーフル・デサイは、二人がたどり着いたのは、ただもう一度求められたい、それだけを望む段階なのだ、と書いた。
夫婦交換を描いた韓国ドラマが、ショナリに思いつきを与える。彼女は渋るパドマを説き伏せる。カンダラで週末を過ごし、それぞれが相手の夫を誘惑しようというのだ。旅行は誕生祝いということにして、夫たちには本当の目的を知らせない。ザ・フェデラル紙のジコ・ゴーシュは、この設定に、二〇〇一年のあるヒンディー語スリラーを女性の側から裏返したものを見た。そのスリラーでは、夫婦交換は隣人の男が持ちかけるもので、殺人計画の隠れみのだった。ここでは、思いついたのは妻たちであり、映画はそれを喜劇として撮っている。
映画は笑っているが、計画が何なのかは正確に見ておきたい。合意があるのは、テーブルの片側だけだ。二人の妻が、四人について取り決めた。その取り決めが及ぶのは、二人がそれぞれ何をするかだけである。夫の代わりに何かを決めることはできないし、夫が黙っていることを同意に変えることもできない。誰も夫に何も尋ねていないのだから。あの週末、ヘーマントやデベンドゥが何をするかは、その場その場で本人が選ぶか断るかすることで、計画がその後ろ盾になるわけではない。物語は、設定が思わせるよりずっと、この点を尊重している。ショナリがヘーマントのために一晩を演出すると、彼はその場を出ていく。それは拒絶であり、計画はそれに対して何の権利ももたない。
取り決めの内側でも、同じことが言える。パドマは、ためらいながら同意した。親友に押し切られたからだ。計画に渋々うなずくことは、その計画に含まれるどの行為にうなずくことでもない。彼女はいつでもやめることができた。ある意味で、彼女はやめる。ただし、正直なやり方でではない。そのやめ方が、この物語の分かれ目になる。
その前に、映画がすでにしていることに目をとめておきたい。計画は、どの男にも何かを尋ねる前に、二人の女性のあいだで、彼女たち自身の言葉で立てられる。ビスワスは、この友情のおかげで、物語は女性の欲望を、まわりの男たちに向けた見世物にすることなく探ることができる、と書いた。それがこの一編のいちばん良い発想だ。しばらくのあいだ、この物語でいちばん率直に、恥じることなく望みが語られるのは、二人の友人の会話のなかである。それはある種の表玄関だ。行き先の家を間違えてはいるけれど、表玄関には違いない。
パドマが知っていたこと
ここから、この文章は物語の結末にふれる。
嫉妬したパドマは、親友の邪魔をする。ヘーマントについてショナリに嘘の助言を吹きこみ、ショナリが彼に向けて打つ手が、ことごとく裏目に出るようにするのだ。映画はこの嘘を笑いとして撮っていて、実際におかしい。それでも、これは操作であり、そう呼ぶべきだ。パドマは親友の信頼を利用する。夫のことは妻の言葉を頼るしかない、という親友の立場も。そうして彼女を失敗へと導く。そのあいだずっと、自分たちはまだ同じ側にいると信じさせたまま。しかもその嘘は、この物語にあった唯一の表玄関を閉ざしてしまう。二人の女性が、互いに本当のことを言い合っていた、あの部屋を。
その嘘に何が必要かを考えてみたい。ヘーマントの好みについてショナリを欺くには、パドマはそれを正確に知っていなければならない。彼が何を好み、何をどうしても受けつけないか。何なら彼の心をつかみ、何なら彼を部屋から追い出すか。二人はもう寝ていない。それでも彼女は、そのすべてを覚えている。それはずっと、この家のなかにあった。使われていなかっただけだ。閉じていたその書類を彼女に開かせたのは、ほかの女性が夫に向けた関心だった。そして開いた書類の中身を、彼女はまず武器に変えた。
これは古い仕組みで、感心するのではなく、はっきり見ておくべきものだ。この図書室の「『Mating in Captivity』が問いかける、愛しているのに欲望が薄れるのはなぜか」は、エステル・ペレルの本を読みながら、欲望を平らにするのは相手を知ることではなく終結であり、閉じられた書類なのだ、と論じた。もう見出すべきことは何もなく、書類は完成し、その人は要約された、という落ち着いた感覚である。その文章は、相手をもう一度見るきっかけについても書いていた。知っている人ではあるけれど、まだ知らない部分がある。自分のものではない人生を持っている。自分とは別の場所で輝いている。パドマの週末は、この最後の一文を笑劇として演じたものだ。親友が夫に惹かれるのを見て、閉じていた書類が開く。
同じ文章は、この物語が歩いていく線も引いていた。この文章も、その線を守る。関係を不安定にすれば欲望が戻るわけではない。嫉妬させることも、不安にさせることも、信頼を傷つけうる操作だ。必要なのは危険ではなく、相手を自分の延長として扱わないことだ、と。映画は、嫉妬が効くところを見せる。けれど勧めてはいないし、この文章も勧めない。そして大事なのは、誰が払うのかだ。パドマを夫のほうへ向き直らせた嘘は、親友に向けてつかれた。請求書は、ショナリに届く。
救急車と、誰もいないホール
親友どうしは言い争い、一緒にハイになって仲直りする。その夜は、ばらばらに終わる。ヘーマントがクラブで転んでけがをする。部屋に戻ったショナリは、服を脱がせ合っているパドマとデベンドゥを見つける。計画のうち、パドマが受け持った半分は、うまくいったのだ。そして救急車のなかで、パドマとヘーマントは互いを取り戻す。
ショナリはデベンドゥを部屋に残す。音楽がまだ流れている、誰もいないホールへ行き、ひとりで踊る。しばらくして、ホテルの支配人デイヴィッドが加わる。物語はそこで終わる。
ゴーシュは、この一編は喜劇のように始まり、教訓話の残酷な皮肉をともなった静かな悲劇として終わる、と書いた。その皮肉は正確だ。週末を設計した女性が、四人のなかでただひとり、外に取り残される。夫は、計画どおりに誘惑された。親友は、自分の夫を取り戻した。計画がまったく意図していなかったことだ。勝手口は、それを押さえて開けておいた本人以外の全員を、なかへ入れてしまった。
あのダンスは、慎重に扱いたい。実際以上のものを背負わせやすいからだ。物語はそこで止まり、この文章もそこから先へは行かない。言えるのは、あのダンスが何ではないか、である。計画の一部ではない。夫に向けたものでも、親友に見せるためのものでも、韓国ドラマから借りたものでもない。物語のなかでショナリが初めて、誰のためでもなくすることであり、音楽が続くあいだ、彼女は求められようとしていない。見知らぬ男が加わる。映画は彼を、彼女の結婚への答えとしては差し出していないし、この文章もそうしない。何かの始まりかもしれないし、何の始まりでもないかもしれない。少なくともあのダンスは、彼女のものだ。
判事が免除しなかった六か月
シャクン・バトラの一編は、結婚の反対の端から始まる。ヴァルンとサイリーは、交際三か月で結婚した。五年後、離婚を申し立てたのはサイリーで、理由もはっきり挙げている。夫婦生活のない結婚である。判事は、法が定める六か月の待機期間を免除しない。互いにもう終わったと思っている、あるいは思いこんでいる二人は、裁判所が離婚を認めるまで、半年待たなければならなくなる。
その六か月に起きることが、この一編の喜劇であり、要点でもある。サイリーは荷物を取りに元の部屋へ戻り、二人で買った絵をめぐる口論が、ベッドで終わる。次の口論も、その次も同じで、両家の親を困惑させる。そのたびに、二人ともそれを選んでいる。結婚していることは、いつでも有効な同意にはならない。解消の途中にある結婚でも、それは同じで、物語もそれを同意の代わりとしては扱っていない。ラームナートは、この冗談をこうとらえた。二人の結婚が傾いているのは、言葉で通じ合うことの難しさと関係がある。その問題は、二人が話すのをすっかりやめると消えてしまう、と。
ここで勝手口は、もっとも素朴な形で現れる。夫婦生活がないことを理由にサイリーが去ったはずの二人が、長いあいだなかったほど体を重ねている。そしてその行為は、何も語っていない。ビスワスは、親密さが、二人が互いについてまだ理解できる唯一のものになる、と書いた。それはまた、ひと言も口にせずにすむ唯一のものでもある。欲望は、どちらも言葉を使わない道を通って、家に戻ってきていたのだ。
そしてセラピストの部屋で、二人は、体を重ねることが、まだ続けられる唯一の会話になっていると気づく。そこから、表玄関を使いはじめる。夫の母親が、二人の暮らしをどれほど仕切ってきたか。夫が見つけてきた新居でさえ、彼の両親の部屋の一階上だったこと。互いのことを、どれほど理解していなかったか。デサイは、このあたりの台詞を書きこみすぎだと感じた。そう思う人もいるだろう。けれど物語の向かう先ははっきりしている。この短編集のなかで、表玄関が最後まで開くのは、ここだけだ。
そして、そこから入ってくるのは別れである。六か月後、サイリーはヴァルンと手をつないで、最後の審理に向かう。友人として別れるために。ザ・ワイヤー誌で本作を評したタトサム・ムカルジーは、この一編を、関係の終わりを悼む二人が、あいだにあった不快なものをすべて吐き出したあとで、友情にたどり着く物語だと書いた。表玄関は、結婚を救わなかった。二人が、理由について嘘をつかずに結婚を終えられるようにしたのである。
この図書室の「『カム・トゥゲザー』と、長い関係が欲望について実際に決めていること」は、長い関係では、欲望はいずれ感じるものではなく決めるものになる、そして決めるのは二人でするか、まったくしないかのどちらかだ、と論じた。その文章は、長く続く関係についての本には言えない、もっと難しいことも書いていた。すべての関係が修復されるべきだとはかぎらない、と。ヴァルンとサイリーは、その一文を画面に映したものだ。ベッドでの口論は、感じられた欲望だった。そして会話のなかで、二人は物語で初めて、一緒に何かを決めた。決めたのは、終わりにすることだった。
六か月は何のためにあるのか
この待機期間には、法の根拠がある。映画の読みとしてではなく、法として正確に書いておく。インドの一九五五年ヒンドゥー婚姻法は、合意による離婚を定める条文で、夫婦が二人そろって地方裁判所に離婚を申し立てられるとしている。一年以上別居していること、ともに暮らすことができずにいること、婚姻の解消に合意していることが、その理由となる。判決が下りるのは、申し立てから六か月以上、十八か月以内に、二人がもう一度そろって申し立てたときだ。
二〇一七年、アマルディープ・シン対ハルヴィーン・カウル事件で、インドの最高裁判所は、この六か月を必ず守らなければならない期間ではなく、訓示的なものだと判断した。そのため裁判所は、法定の別居期間がすでに過ぎていること、調停の努力が尽きて見込みがないこと、扶養料や子の監護を含めて二人が本当に折り合っていること、待つことが苦しみを長引かせるだけであることなどを見きわめたうえで、それを免除できる。二〇二三年五月一日には、シルパ・サイレーシュ対ヴァルン・スリーニヴァーサン事件で、五人の裁判官による大法廷が判断を示した。最高裁判所は、憲法第百四十二条にもとづく自らの権限で、待機期間を置かずに合意離婚を認めることができ、この条文がその権限を縛ることはない。また最高裁判所は、修復できないほど破綻した婚姻を、慎重な条件のもとで解消できる、というものだ。同じ判決は、待機期間の目的も説明している。二度目の申し立ての前に、夫婦が自分たちを省み、別れるという決断をよく考える時間をもつためだ、と。
この文章は、映画の夫婦がどの規定のもとにあるのかを言わない。架空の人物に法を当てはめることもしないし、法的な助言でもない。気づけるのは、ひとつの皮肉である。待機期間は、二人がもう一度考えるためにある。ヴァルンとサイリーは、たしかにもう一度考える。ただし、法をつくった人々が思い描いたはずのない形で。まずベッドのなかで、それからセラピストの部屋で。法の六か月は、法が意図したとおりのことをした。それでも、答えは離婚だった。
日本から読むと、同じ願いが、まったく違う扉に行き当たる。日本では、離婚に合意した夫婦は、裁判所を通る必要がない。法務省の案内によれば、協議離婚の届出は随時、本籍地か所在地の市区町村役場にすることができる。家庭裁判所の調停は、話し合いがまとまらないときや、話し合いができないときのためにある。これは順位づけではない。待つことは、すでに決めた二人への押しつけにもなりうるし、二人がきちんと決めるために与えられる、ただ一度の時間にもなりうる。バトラの一編は、その両方でありうることを見せている。
一九八七年、ハイデラバードのノート
ヴィシャール・バルドワージの一編は、一九八七年のハイデラバードへさかのぼる。ラームナートの言葉を借りれば、世間の体面と進歩的な価値観のあいだで引き裂かれた人々であふれる世界だ。サイラは、保守的な女子大学でウルドゥー文学を教えている。夫のバドルを愛しているが、ホメオパシーの医師である夫は、彼女が求めると、薬で応える。デサイは、この結婚の夫婦生活はせいぜい機能している程度だと評し、この一編が扱っているのはセックスレスや親密さの欠如ではなく、行為そのものに染みついた家父長的な性格なのだ、とも書いている。結婚そのものは順調で、サイラが嘆いているのは、女性の欲望をめぐる無知なのだ、と。
彼女は、当時出回っていた扇情的なペーパーバックを粗雑だと考え、ウルドゥー語ならもっとうまく欲望を書けると主張する。証明してみせてと迫られて、ノートに物語を書く。理想化されたバドルが天から降りてきて、彼女の恋人になる物語だ。やがてノートがなくなる。それは活字になって戻ってくる。経営の傾いた出版社を営む、ある学生の両親が、ラシーリー・ジャーンという筆名で、『チュルブリ・ベーガム』として出版したのだ。街じゅうの男たちがそれを買い、本はベストセラーになる。
サイラはうろたえ、続きを書くことを拒む。先へ進む前に、その狼狽に敬意を払っておきたい。一九八七年、彼女の立場にある女性にとって、表玄関とは、ひとりの男に向けたひと言ではなかった。勤め先の大学があり、読者であふれたこの街で、ベストセラーの官能小説の表紙に自分の名前を載せることだった。彼女が勝手口にとどまる理由はいくらでもあり、この文章は、そこから出てこいとは言わない。
バルドワージは、サイラがどこから来たのかを語っている。インドの通信社の取材に、彼は、文学の世界に手がかりになる人物を探していて、アナイス・ニンにたどり着いたと話した。お金に困っていたときに、官能小説を書けば一ページにつき一ドル払うと持ちかけられた作家である。サイラは、彼女をもとにつくったという。ニンは一九四〇年代初めの苦しい時期に、注文を受けて官能的な短編を書いた。それが本になったのは、彼女の死後のことだ。バルドワージは同じ取材で、この一編の自己解説とでも言うべき言葉も残している。欲情に詩をもちこめば、それは愛になる。詩とは、そういうものだ、と。
懐の深い言葉だ。そしてそれは、勝手口についての映画自身の説明にもなっている。欲望は言葉になって出ていき、結婚が受けとめられるものに姿を変えて帰ってくる。帰ってくるために姿を変えなければならないのかどうかは、この文章があとでもう一度考える問いである。
名前より先に届いた望み
ようやくバドルに打ち明けようとしたサイラは、夫がずっとその本を読み、そこから学んでいたこと、そしてその作者に次の一冊を書いてほしいと願っていることを知る。
最後の場面について、公開されている記録は、ひとつの点で食い違っている。小さな点ではない。ある記録では、サイラは自分が書いたのだと告げ、バドルはその本を、下品なものではなく勉強になるものだと受けとめる。別の記録では、彼は最後まで、妻がラシーリー・ジャーンだと気づかない。この文章は、どちらかを選ばない。ただ、物語はどちらでも成り立つ。そして二通りの成り立ち方は、二つの別の物語になる。
彼が知っているのなら、夫は妻に、作家として出会ったことになる。見せられたことのなかった想像の世界をもつ人として。そして、そのためにいっそう彼女を求める。閉じていた書類がもう一度開く、そのいちばん幸せな形だ。隣にいる人が、自分の入ったことのない部屋に住んでいたと知るのだから。彼が知らないのなら、物語はもっとおかしく、もっと悲しい。彼は妻の欲望を見知らぬ作者から学び、その作者の次の作品を心待ちにしながら、それが誰の言葉なのかを思いもしない。彼女の望みは、彼に届いた。彼女自身は、まだ届いていない。
どちらにしても、欲望は勝手口から帰ってきた。消えたノート、傾いた出版社、見知らぬ人々であふれた街を通って、正しい寝室にたどり着いた。そしてどちらにしても、本は彼女のものではない名前で街に出た。彼女自身の名前が、そのあとを追って自分の家のなかまで入っていくのかどうか。二つの記録が分かれるのは、まさにそこである。この図書室の「『ヴァレリア』と、自分の名前で書くということ」は、男の名前で本を出す契約に署名しかけて、友人たちに止められた小説家を追い、三角関係の奥でこのドラマが描いているのは、本に、欲望に、別れに、自分の名前を書けるようになっていくひとりの女性だ、と論じた。その文章は代価も見ていた。小説は、女性が自分の名前で本当のことを初めて言う場所になりうる。そして、いちばん思いやりのない場所にもなりうる、と。サイラの物語は、望みが名前より先に届いてしまう場合である。
勝手口は、古い。平安の宮廷で女性が書く日記文学の道をひらいたとされる『蜻蛉日記』には、書き手が九五四年に藤原兼家と結婚してから、九七四年に兼家の通いが途絶えるまでの日々が書きとめられている。兼家のもうひとりの妻との張り合いも、次々に現れる妻妾たちのことも。けれど書き手の名前は、伝わっていない。『日本大百科全書』は、実名がわからないので、父の名から倫寧女、あるいは生んだ子の名から道綱母などと呼ばれている、と記す。古文の教科書で藤原道綱母という名に出会った人もいるだろう。それは、息子の名前を借りた呼び名だ。彼女が望んだことは千年読まれてきた。彼女の名前は、一度も表玄関から入っていない。
すべての扉を見ていたリサ
キラン・ラオの一編は、ほかの三つと噛み合わない。だからこそ、ここで扱う意味がある。リサはケーララ州出身のネイリストで、ムンバイで働いている。ピザを配達するカランに、ひと目で惹かれる。カランは彼女を利用している。カランと、瓜二つの双子アルジュンは、配達を表向きの仕事にして麻薬を売っていて、リサの部屋がその隠し場所になる。はじめは麻薬の、やがて売り上げの。ラームナートは、カランには眠たげな声のリサが副業の隠れみのとして必要なのだ、と書いた。
兄弟はどちらも、彼女が気づくはずはないと思っている。彼女は、すべてに気づいている。浴室で隠し場所を見つけ、相手が二人いることを見抜き、何も言わない。カランになりすましたアルジュンがやってくると、それが誰なのかをはっきり知ったうえで、彼と寝る。
この場面には、慎重なひと言が必要だ。この仕掛けは、ひとつの欺きの上に立っている。うまくいっていれば、それは彼女に対する不正になっていたはずだ。カランに向けた同意は、アルジュンへの同意ではない。映画はリサに知らせておくことで、彼女をその不正から守る。そのうえで、男たちが自分たちのものだと信じていた優位を、彼女に手渡す。その部屋で、そこに誰がいるのかを知っているのは、彼女だけなのだ。
金の受け渡しが一週間延びたと耳にすると、彼女は札束を偽札とすり替え、ネイルサロンの仕事を辞め、ムンバイから姿を消す。最後に映るリサは、街から遠く離れたホテルでくつろいでいる。その金は、自分の美容サロンを開くためのものだ。デサイはこの一編を、欲情が野心の道具になるさまを小気味よく描いたものだと評した。これは痛快な犯罪劇で、作品自身もそれを承知している。映画はリサを叱らないし、この文章も叱らない。映画が読むとおりに、勝った人として読む。
勝手口についての文章に、なぜ彼女が必要なのか。男たちは、彼女の部屋を自分たちの勝手口として使った。誰も見張ろうとは思わない、街の商売への入り口として。彼女は、見張っていた。そして彼女自身の望みは、一度も地下にもぐらなかった。カランをひと目見て欲しいと思い、自分の店が欲しいと思い、そこへの最短の道が開いた瞬間に、その道を行った。リサが隠していたのは欲望ではなく、知っていることのほうで、彼女はそれを意図して隠した。黙っていることに、お金の価値があったからだ。この映画の妻たちは、口にすれば代価が大きすぎるかもしれないから、望みを黙っている。リサは、口にすれば店を失うから、知っていることを黙っている。同じ沈黙が、向きを変えただけだ。そして映画は、いちばん屈託のない結末を、誰にも説明する義理のなかった、ただひとりの女性に与えている。
日本から読む
邦題にある「慕情」は、英語の題が名指す欲情よりずっとやわらかな言葉だ。欲情に詩をもちこめば愛になる、というバルドワージの言葉は、第三作が、少なくとも最後の一編で、この邦題にふさわしいものになろうとしていることをうかがわせる。英語の題の欲情を、慕情として家に持ち帰ろうとしているのだ。
日本の読者には、違って響くかもしれない細部が二つある。ひとつは、ショナリの思いつきがどこから来たかだ。家で見た韓国ドラマが、国境を越えて、カンダラでの週末の計画になる。欲望の想像力はいま、言葉を共有しない国どうしのあいだを、こうして行き来している。そして誰かのドラマから借りた計画は、それが書かれた暮らしを連れずにやってくる。
もうひとつは、ウルドゥー語へのサイラのこだわりだ。彼女は、欲望が書けることを証明しようとしているのではない。それなら、ペーパーバックがもうしている。彼女が証明しようとするのは、自分の言葉で、その言葉の響きのまま、欲望をうまく書けるということだ。大人になってから覚えた言葉で日本に暮らしている人には、この映画のどこよりも、そこが響くかもしれない。そういう人にとって表玄関は、あとから覚えた言葉で越えなければならない扉でもある。そして望みはまず、子どものころの言葉で、誰も読まないノートに、ひそかに書かれるのかもしれない。その下書きは、表玄関ではない。けれど、そこで何を言うのかを知るための、最初の一歩にはなりうる。
だからといって、『慕情のアンソロジー3』が日本についての映画になるわけではない。インドの結婚や、インドの女性の肖像でもない。日本のドラマが日本の女性の肖像ではないのと、同じことだ。四人の監督が、特定の人々についての四つの物語を撮った。国境を越えて届くのは、仕組みのほうである。口にできない望みが、別の入り口を探すという仕組み。
この読みへの反論
この読みが間違っているかもしれない道は、少なくとも五つある。
第一に、並べられたことのない四本を、この文章が並べているのかもしれない。オムニバスとは、四人の監督が四つの気質で撮ったものであり、勝手口という型は、この文章の見立てであって、彼らのものではない。ゴーシュは、このシリーズは見る価値のある監督たちを届け続けてくれるが、記憶に残る価値のある映画をいつも届けてくれるわけではない、そしてアイデアのほうが仕上がりより面白い、と書いた。出来にむらのある四本の短編に一本の議論を見つける文章は、映画がするべき仕事を肩代わりしているのかもしれない。もっともな指摘だ。ここで言っているのは、四つの物語を並べたときに何が見えるかであって、誰かがそう企んだということではない。
第二に、この文章は勝手口に甘すぎるのかもしれない。パドマは親友に嘘をつき、事故の力を借りて、夫を取り戻した。それをハッピーエンドとして撮る映画と、その再会を本物と呼ぶ文章は、この文章が教えないと言ったこと、つまり嫉妬は効くということを、まさに教えているのかもしれない。デサイは結末を小細工だと感じ、火をもう一度おこすには、ときにやけどのひとつふたつも必要なのだ、と書き添えた。控えめに答えるなら、この文章は嘘を操作と呼び、請求書をしかるべきところへ送り、何も勧めていない。それでも、あの再会は勝ち取られたものではないと感じる読者は、間違っていない。
第三に、疑うべきは映画自身の理論なのかもしれない。欲情に詩をもちこめば、愛になる。バルドワージの言葉は懐が深い。同時にそれは、このシリーズが自分を体裁のよいものにしようとしている姿でもありうる。バルドワージ自身、同じ取材で、道徳的な義務や重圧のせいで、人は欲情にすぎないものを愛と呼んでしまうことが多い、とも語っている。気をつけるべきなのは、まさにそこだ。ムカルジーは、このシリーズが、インドをセックスについてもっと率直にするという責任を背負って進んでいると書き、観客が、とりわけ男性の観客が、寝室でもう少しやさしくふるまうようになることを願った。責任を背負った映画は、いつも教訓になってしまう危うさを抱えている。そして教訓は、欲情を何かためになるものに変えることを求める。愛に、賢くなった夫に、救われた結婚に。欲望が家に帰ってくる道をたどることで、この文章も同じ変換に寄りかかってきた。望みは、家に帰らなくても、愛に変わらなくても、正当でありうる。四つのうちでいちばん詩のない一編であり、そこに出てくる女性にいちばん多くを与えたリサの物語が、そのことを思い出させる。
第四に、表玄関を讃えることは、恵まれた立場の言い分なのかもしれない。望んでいることを、自分の名前で、当の相手に言う。それは、口にしても安全だということを前提にしている。住まいも、暮らしの糧も、立場も、子どもも失わずにすむ、ということを。一九八七年のサイラにとって、表玄関とは、保守的な街で表紙に載る自分の名前だった。ある女性たちにとって、勝手口は逃げ道ではない。危険に通じていない、ただひとつの扉なのだ。この文章は、そのことを留保なく認める。言っているのは、勝手口には代価があるということだけで、誰もがもう一方の扉を使う余裕をもっている、ということではない。
第五に、この文章がいちばんあたたかく読んだ結末は、いちばん悲しい結末なのかもしれない。ショナリのダンスは、彼女自身の喜びとして読むことができる。けれどゴーシュは、この一編全体を静かな悲劇と呼ぶ。彼女はいちばん近しい友人に嘘をつかれ、その友人と夫が一緒にいるところを見つけ、誕生祝いの週末を、誰もいないホールで見知らぬ男と終える。映画は、どの読みにも決着がつく前に止まる。あのホールに喪失しか見ない読者は、そこに実際にあるものを見ている。
この図書室が受け取るもの
三つある。どれも規則ではない。
長い結婚のなかで静かになった望みは、消えてしまったとはかぎらない。この映画では、一度も消えていない。パドマは、夫の好みをひとつ残らず覚えていた。ヴァルンとサイリーは、口論のたびにベッドで終わるほど、まだ互いを求めていた。サイラは本を一冊書いた。失われていたのは欲望ではなく、それが関わる当の相手へ続く道だった。
勝手口は恥ではない。そして、ただでもない。欲望は、使える入り口ならどこでも使う。そこから入ってくるもののなかには、やさしいものもある。けれどこの映画の物語では、たいてい誰かが払っている。嘘をつかれた友人、誰もいないホールに残された女性、自分のものではない名前で、望みが街に出ていった書き手。自分がどの扉を使っているのか、もう一方の扉の前に誰が立っているのかを知っておくことは、道徳の練習ではない。自分が何を払っているのかを知っておくことだ。
そして表玄関は、救いを約束しない。この映画で表玄関を二人そろって通る夫婦は、結婚を終わらせるために、友人として法廷へ入っていく。それは表玄関の失敗ではない。正直さがときに手に入れてくれるものの姿だ。結婚そのものではなく、結婚についての本当のこと。そして、誰も嘘をつかずにすむ出口。
だから一度だけ、あなたに。もしあなたの望みが、勝手口から帰ってきているのなら。いらだちとして、嫉妬として、どちらも望んでいなかったところで終わる口論として、誰にも見せない物語として。それは死んではいないし、いまもあなたのものだ。あなたに表玄関を開けさせる権利は、誰にもない。それが閉じたままなのには、それなりのわけがあるのかもしれない。それでも、自分がどの扉を使ってきたのか、それに何がかかってきたのか、誰が払ってきたのかは、知っておく価値がある。いつかもう一方の扉を試そうと決めるなら、その決断だけは、あなた自身の名前でなされる。
これは一本の映画の読みである。架空の人物も実在の人物も、誰も診断しない。映画をつくった人々や演じた人々の人生については、何も語らない。架空の人物に法を当てはめることはせず、法的な助言でもない。二つの国の法にふれたのは、同じ願いをそれぞれがどう受けとめるかを示すためであって、順位をつけるためではない。統計は、一つも引いていない。
手元に残す問い
あなたの望みが表玄関から入れないとき、それは何を使っているだろう。いらだちか、嫉妬か、口論か、空想か、物語か。
その扉の代価を払ってきたのは誰だろう。あなたか、あなたが求めている人か、それとも扉の外に立っている誰かか。
隣にいる人について、知っていながら長いあいだ使っていないことはあるだろうか。好み、苦手なもの、心への入り口。それを誰かに向けてではなく、その人のために使ったら、どんな感じがするだろう。
誰も読まないノートに自分の望みを書くとしたら、あなたは何語で書くだろう。
そしてもし表玄関を通ったら、その先はどこへ続いていると思うだろう。結婚のなかへ戻る道か、友人としてその外へ出る道か。扉を閉めたままにしてきたのは、そのどちらだろう。
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