Cinema
『大豆田とわ子と三人の元夫』と、大切な人を手放さない「ひとり」
三度結婚して三度離婚し、会社を率い、まわりに人の絶えない女性が、ひとりでも幸せになれると思う、と口にする。このドラマは、その一文に正確な意味を与えている。彼女の「ひとり」は、人の減った人生のことではない。形をもうひとつ増やすことを断り、すでにそばにいる人たちを誰ひとり手放さない人生のことだ。
ちょっとしたことに、少し疲れる。自分で部屋の電気をつける。自分で音楽を選んでかける。自分でエアコンを入れる。ボタンを押すだけの小さなことなのに、それにちょっと疲れるのだと、とわ子は言う。あなたならひとりでも生きていけるでしょう、と言われたときの返事だ。ひとりで暮らすということを、ここまで正確に言い当てた台詞はめずらしい。静けさでも、空いた椅子でもない。誰も代わりに押してくれないスイッチのことなのだ。
ただ、それを口にしているのが誰なのかを思うと、少し妙な気がしてくる。大豆田とわ子は四十歳。設計の仕事をしていた建設会社の社長になったばかりで、ひとりになる暇などほとんどない。三回結婚して、三回離婚した。その三人の元夫が、そろいもそろって何かと顔を出す。ひとりが営むレストランで、彼女の家の玄関先で、三人は互いの邪魔をし合う。中学三年生の娘がいて、三十年来の、家族同然の親友がいて、彼女の判断を待つ社員たちがいる。孤独が人数で決まるものなら、テレビドラマの主人公のなかで、彼女ほど孤独から遠い人はいない。
それなのに、このドラマがたどり着く一文は、彼女の口から出る。ひとりでも幸せになれると思う。彼女はその一文で、じつに正確なことを言っている。その正確さを確かめるために、この文章はある。
ここで論じたいのは、こういうことだ。彼女の言う「ひとり」は、人数のことではなく、形のことである。断っているのはひとつの取り決めであって、そばにいる人たちではない。ドラマはそのことを、ふたつの側から描いている。彼女をほんとうにひとりにする喪失は、どの結婚の終わりでもない。そして、ひとりでも幸せになれるという一文は、誰かに向かって、誰かを数に入れて口にされる。そのふたつの下を、子どものころ母に投げかけられた問いが流れている。ひとりでも大丈夫になりたいのか、誰かに大事にされたいのか。幼いとわ子は、両方だと答えた。ドラマは全十話をかけて、その答えを四十歳の大人が口にできるものにしていく。そして最後に、それを決まりにすることを拒む。
彼女は、人を減らそうとしているのではない。形を、もうひとつ増やさないだけだ。
この作品のこと、そしてこの文章の読み方
はじめに、ひとつお断りを。この先では、第六話で起きるひとつの死から第十話の結末まで、作品全体にふれる。この文章の議論は、まさにそこにあるからだ。先に画面で見届けたい人は、ここでいったん読むのをやめて、あとで戻ってきてほしい。
事実を一度だけ確かめておく。『大豆田とわ子と三人の元夫』は、坂元裕二のオリジナル脚本による連続ドラマで、関西テレビの制作により、二〇二一年四月十三日から六月十五日まで、フジテレビ系の火曜夜九時の枠で全十回放送された。とわ子を松たか子が演じ、三人の元夫を松田龍平、角田晃広、岡田将生が、親友のかごめを市川実日子が演じる。第二章からはオダギリジョーが加わる。プロデューサーの佐野亜裕美は、四年前の『カルテット』でも坂元と組んでおり、松にとっても、坂元とのドラマはこれが三度目になる。
坂元裕二は、ドラマが脚本家の名前で語られる数少ない書き手のひとりだと評されてきた。一九九一年の『東京ラブストーリー』から『最高の離婚』『カルテット』まで、三十年にわたって連続ドラマを書いてきた人で、この年の初めには映画『花束みたいな恋をした』が大きな当たりをとっていた。『大豆田とわ子と三人の元夫』の視聴率は、関東地区で初回七・六パーセント、最終回五・七パーセントと、数字としては控えめだった。それでも東京ドラマアウォード二〇二一では、連続ドラマ部門の優秀賞に加えて脚本賞と主題歌賞を受け、第五十九回ギャラクシー賞ではテレビ部門の入賞作に名を連ねた。
このドラマには独特の語り口がある。伊藤沙莉のナレーションが人物を紹介し、一週間の出来事をてきぱきとまとめてしまう。坂元は『ちびまる子ちゃん』のキートン山田のような、突っ込みを入れるナレーションを望んだのだと、佐野は語っている。そして大きな出来事は、たいてい画面の外で起きる。批評家の福田フクスケは、交渉の場面も、人が亡くなる瞬間も、さらにはかつて恋に落ちた瞬間や離婚を決めた場面さえも、直接には描かれないと指摘した。坂元がかつて演劇のパンフレットで、カーアクションそのものより、給油しながら、さっきのカーブはすごかったなと話す場面のほうが面白いと語っていたことも、福田は引いている。佐野もまた、とわ子という人を、本人の打ち明け話よりも、まわりの人の言葉によって浮かび上がらせるように作ったと話す。この文章もそれにならい、出来事のあとで人が何を話すかを読んでいく。
もうひとつ断っておく。この文章を書くにあたって、作品そのものは視聴していない。放送局の発表、プロデューサーへのインタビュー、放送当時に公開されたあらすじや批評にもとづいて書いており、場面はそれらの記述にしたがって伝える。台詞はすべて要約で伝え、正確な引用としては扱わない。
玄関に現れる三人の男
亡くなった母のパソコンには、元夫の誰かが設定したらしいパスワードがかかっている。とわ子は三人全員に連絡するしかなく、それ以来、三人はなかなか彼女のそばを離れない。
最初の夫の田中八作は、娘の唄の父親で、レストランを営んでいる。誰にでも分けへだてなくやさしいせいで、その気もないのに女性に好かれてしまい、それを喜ぶより困っている。二番目の夫の佐藤鹿太郎はファッションカメラマン。もとはスクープを追うカメラマンで、潜入取材で訪れた社交ダンス教室でとわ子と出会い、仕事を変えて彼女と結婚した。いまもスタジオには、自分の最高傑作だという彼女の写真を飾っている。別れた理由は、彼女のしゃっくりを止めてあげられなかったからだ、と本人は言う。三番目の夫の中村慎森は弁護士で、とわ子の会社の顧問も務めている。人に弱みを見せられず、パンダの動画で自分をなぐさめ、離婚してからの二年間、同じビジネスホテルに泊まり続けている。何かにつけて、それは要るのかと問い返すのが口癖だと、放送局の発表にもあった。
鹿太郎と慎森は、いまもとわ子に未練がある。それぞれ別の女性に振り回されていて、八作も、本人の意に反して同じことになる。もう夫婦ではない女性をめぐって、三人が同じ部屋に居合わせる。その繰り返しが、このドラマの笑いの多くをつくっている。
ドラマは三人の欠点には容赦がないが、三人そのものを笑いものにはしない。第六話、とわ子が不在の彼女の家で、三人の元夫と、彼らに関わってきた三人の女性が顔をそろえ、餃子を包むことになる。副題には「全員集合地獄の餃子パーティー」とある。女性たちは、男たちの正体を順に言い当てていく。やさしいのは、やさしくしておけば面倒がないからで、その人にとって人間関係はサービスでしかない。恋愛ではなく、恋愛ごっこがしたいだけ。毎日顔を合わせていた人を、透明人間にしてしまう。そして慎森が、誰も予想しなかった結論にたどり着く。いま言われたようなことで、彼女に責められたことがあったか。こんなにだめな三人なのに、彼女は怒らなかった。僕たちは大豆田とわ子に甘えていたのだ、と。
福田はこの場面を、恋愛と結婚という仕組みのなかでは、どうしても男が女に献身や許しを求めてしまうことの暗示として読み、その仕組みの外に出たとき、はじめてとわ子と元夫たちは対等に連帯できるのではないかと書いた。この読みは、ドラマのその後の運びとよく合う。三人がとわ子のまわりを回り続けるのは、恨みからではない。彼女にとって高くついていた形が取り払われ、残ったものが、ようやく彼女の受け取れるものになったからだ。第二話で、とわ子は慎森に、別れたけれど、いまも一緒に生きていると思っている、と言う。このドラマの前提は、この一文に尽きる。離婚は形を終わらせる。けれど、誰かと並んで生きる時間まで終わらせるとはかぎらない。
彼には勲章、彼女には傷
偏見は第五話で、ひとりの男の口を借りてやってくる。取引先のイベント会社の社長、門谷が、結婚を前提にとわ子に近づく。彼もまた三度の離婚歴があり、はじめはそれが二人を近づけるように見える。やがて彼は本音を口にする。自分の離婚は勲章のようなもので、あなたの離婚は傷だ、と。三度も失敗したかわいそうな人を助けてあげようと思った、というのが、求婚の理由だった。
とわ子の返事は、このドラマが離婚について言っていることの、いちばんはっきりした言葉である。人生に失敗はあっても、失敗した人生などないと思う、と。断られた門谷は腹を立て、仕事の上で彼女に仕返しをする。ドラマは彼に複雑な陰影を与えない。偏見を、偏見のままの平板さで置いておく。佐野は、離婚についても、死についても、かわいそうなことではないということを、いろいろな人がいろいろな言い方で、形を変えて何度も伝えているのだと語っている。
同じ数が、男には勲章として、女には傷として読まれる。ドラマの成り立ちそのものが、その非対称を映している。佐野によれば、当初の構想では三度離婚した男性の弁護士が主人公で、それが女性に変えられた。企画書を出したとき、当時の部長からは、女性で四十歳でバツ3というのはファンタジーだと言われたという。この図書室は「『花束みたいな恋をした』と、同じものを好きでも同じ速度では生きられないこと」で、同じ年の初めに坂元が送り出した映画のなかに、同じ非対称を見ている。会社のために好きだったものを手放した若い男は、社会人という言葉で報われる。好きなものを手放さなかった若い女は、まだ大人になれない人と見なされる。同じふるまいに、正反対の判定。三回の離婚とは、戸籍が数える数である。ドラマがそれに対して差し出すのは、別の問いだ。人の人生は、ほかに何で数えられるのか。
そのうえ、その数が読み上げられるとき、彼女がどこに立っているのかも見ておきたい。とわ子は三度離婚した女性であるだけでなく、建設会社のトップに立つ女性でもある。作り手は、とわ子にそうしたラベルを貼ることには慎重だった。佐野は、とわ子をシングルマザーとも女性社長とも呼びたくなかった、それらの言葉がいまの日本でまとっているイメージと、自分たちがつくろうとしたとわ子とのあいだにずれがあったから、と語っている。それでもドラマは、一度だけ、かごめにその意味を言わせる。第四話で、かごめはとわ子に言う。あなたのような人がいるだけで、小さな女の子が、自分も社長になれると思い描ける。いるといないとでは大違いで、それはあなたがやらなきゃいけない仕事なのだ、と。登場人物たちの向こう側へ向けて話される、このドラマではめずらしい台詞である。
親友、としか呼べない人
綿来かごめは、とわ子の三十年来の親友だ。自由気ままで、恋愛に興味がない。恋が素敵なのは知っている、と彼女は自分に好意を寄せる男性に言う。きらきらする瞬間があることも、手をつないだり一緒に暮らしたりする喜びがあることも知っている。でも男と女だと、どうしたって恋愛になってしまう。それが残念なのだ、と。自分の人生に恋愛はいらないと、彼女は決めている。
第四話で、かごめは、子どものころにとわ子と二人でひとつのペンネームを使って描いていた少女漫画に、もう一度挑むと決める。ただし今度はひとりで。うまくいってもいかなくても、やりたいことをやる、ひとりでやる、と。このドラマの登場人物のなかで、自分の望む形をいちばんはっきり知っているのは、かごめだ。
とわ子が八作と別れたのは二十六歳のときだった。彼が別の人を想ったまま自分と結婚したことに気づき、それが許せなかった。その相手がかごめだったことを、とわ子はいまになって、誕生日に贈られた靴下から知る。
ここで誰かを悪者にするのはたやすい。ドラマはその機会を、ひとつ残らず見送る。八作は、そういう形で愛されることを望まない人を愛し、それを知ったうえで、やはり愛していた女性と結婚した。かごめは、誰からも何も奪っていない。恋愛のない人生を望み、そのとおりに生きた。そして二十六歳のとわ子は、夫の片想いのそばで暮らすことができなかった。ドラマは、我慢すべきだったとは一度も言わない。三人には三人の理由があり、ドラマはその誰も裁かない。
佐野は、人のあり方も、人と人との関係も、奥行きや濃淡のある複雑なもので、そう簡単に名前をつけて決められるものではないと考えて、このドラマをつくったと語っている。かごめにひとつの言葉をあてはめようとした批評もあったが、ドラマ自身は一度もそうしない。この図書室は「『キッチン』と、喪失のあとに誰かと食べること」で、ある関係が人生の中心にありながら名前をもたないことがあり、その関係を支えていたのは、はじめから名前ではなかったと書いた。かごめは、とわ子の人生を支える柱だった。それを呼ぶ言葉は、親友しかない。
とわ子の友情は、お行儀がよくない。かごめの親戚が電話でかごめを悪く言ったとき、とわ子は子どものようにばかを連呼して電話を切り、娘の唄に、小学生か、とあきれられる。守っているのは自分の体面ではない。親友の尊厳である。
出られなかった電話
そして第六話で、かごめが亡くなる。突然のことだった。ドラマはその瞬間を描かない。とわ子は、かごめからの最後の電話に出られなかった。知らせを受けて、とわ子は交渉の席を立ち、駆けつける。その交渉の相手は、よりによって、彼女の離婚を傷と呼んだあの社長だった。そのあと、とわ子は友人として、葬儀の花と音楽を選ぶ。
それからの一週間を、ドラマはいつもと同じように、ナレーションの軽快な要約と明るい音楽で運んでいく。福田は、その理由を考えている。悲壮な別れはかごめに似合わないと、とわ子が明るく送り出そうとしたからなのか。それとも、死を受けとめきれないまま、時間だけがいつもの速さで進んでしまう残酷さを映しているのか。佐野は、かごめが亡くなったあと、とわ子がかごめの部屋に残っていた食材で料理をつくる場面を挙げ、人が生きていくこと、死んでいくことは、こういうことなのではないかと思ったと語っている。
悲しみのなかで、とわ子はひとつの言葉を口にする。ドラマはそれを、飾らずに言わせる。かごめはひとりで死んでしまった、ひとりで死なせてしまった、と。これを何かの症状として読む理由はないし、この文章もそうは読まない。それは、鳴った電話に出られなかった人の胸で、悔いがとる形そのものだ。そしてこのドラマで「ひとり」という言葉がいちばん重く口にされるのは、ここである。
それは、このドラマの出発点でもあった。佐野によれば、この企画には、二〇一六年に知人が突然亡くなった経験と、コロナ禍で誰にも会えないままひとりで亡くなっていく人たちのニュースがあった。残された人の背中を押せるようなドラマをつくりたかった。市川実日子には、出演を依頼した段階で、第六話でかごめが死を迎えることを伝えていたという。つまりこのドラマは、ひとつの種類の「ひとり」を、いちばん重いものとして扱うように組み立てられている。結婚していない人生のことではない。大切な人に会えないまま死ぬこと。そして、その場にいなかった側になることだ。
ここで、このドラマの「ひとり」の意味は裏返る。世間はとわ子の結婚の回数を数えてきた。けれど彼女をほんとうにひとりにする喪失は、どんな数にも記録されない。法的な立場もなく、関係を呼ぶ言葉もなく、どの届け出にも名前の残らない、ひとりの親友の死である。この図書室は「まわりに人がいることと、頼れる人がいることは違う」で、大きくてあたたかい人間関係の網にも、ある特定の必要のところだけ、ぽっかり穴があいていることがあると論じた。人とのつながりの多くは役割が分かれていて、その穴は、それが必要になる夜まで試されることがないからだ。とわ子のまわりの網は大きい。そのなかで、ほかの誰にも代われなかったのがかごめだった。ドラマは、その穴をほかの人たちが埋めはしないことに正確である。元夫たちは相変わらず玄関にやってくる。それでも、穴は穴のままだ。
一年後、唄は高校に通いやすいようにと家を出て、自分の足で立とうとしている。とわ子はいま、ひとりで暮らしている。そして公園の朝のラジオ体操で、見知らぬ男と言葉を交わすようになる。最後の電話に出られなかった後悔を、彼女が打ち明けるのは、その男に対してだ。時間は過ぎ去っていくものではない、笑っている彼女を見たことがあるなら、彼女はいまも笑っている、と彼は言う。人生にはふたつのルールがある。亡くなった人を不幸だと思ってはいけない。生きている人は幸せを目指さなければいけない、と。佐野は、この場面がいちばんまっすぐに胸に来たと言い、いろいろなことを許してもらえた気持ちになったと語っている。残された人の背中を押したいという願いに、ドラマ自身が出した答えがこれだ。悲しみは、亡くなった人を知らない相手にこそ、打ち明けやすいことがあるのかもしれない。
やさしい人と、誰かが用意した夢
その男、小鳥遊大史は、次に仕事の場に現れたとき、交渉のテーブルの向こう側にいた。とわ子の会社を買収しようとするファンドの法務部長として、彼女に退任を迫るのだ。仕事と私生活は別だと彼は言い、不思議なことに、二人はほんとうにそれをやってのける。やさしくて、少し変わっていて、さびしさについて正直な人だ。二人は惹かれ合い、彼はマレーシアで一緒に暮らそうと、とわ子に求婚する。娘の唄も、この結婚を応援している。
このドラマでいちばんロマンティック・コメディらしい展開で、ドラマはそれを素直に美しく描く。そのうえで、小さな場面をひとつだけ、ずらしてみせる。彼は、マレーシアで二人を待つ家の写真を見せる。とわ子は、十代のころからこういう家をつくってみたかったと言う。彼はほほえんで、夢がかないますね、と言う。そのときのとわ子の顔には、台詞にはない、ん?という心の表情が浮かんだと、ある評者は書いた。とわ子は、社長になる前は設計の人だった。家をつくりたかったのだ。彼が差し出しているのは、他人が整えた完成形である。評者の言葉を借りるのがいちばんいい。他人が用意した夢の完成形に乗ることは、夢がかなうことではない。
答えを出す前に、とわ子は、ドラマがきちんと言わせておいたことを口にしている。結婚を止めようと押しかけてきた慎森に向かって、もうひとりは嫌だ、限界なんだ、と打ち明けるのだ。慎森の返事は、のちに批評でも引かれる台詞になった。人の孤独を埋めるのは、愛されることではなく、愛することだ。そして、それは僕じゃない。残念ながら、君が愛しているのは八作だ、と。
このあとのすべては、ここにかかっている。ひとりでも幸せになれると言おうとしている女性は、誰もいらない人ではない。彼女はその正反対のことを、かつて彼女と結婚した三人のうちのひとりに、声に出して言ったばかりなのだ。彼女の一文が最後に何を意味するにせよ、それは強がりではない。
小鳥遊に返事をする夜、とわ子は母の遺影を見つめ、子どものころの問いを思い出す。とわ子はどっちかな、と母は尋ねたのだった。ひとりでも大丈夫になりたいのか。それとも、誰かに大事にされたいのか。
八作を選び、ひとりで生きると決める
とわ子は小鳥遊とあたたかく別れ、その足で八作の店へ向かう。いま、素敵だなと思った人とお別れしてきた、一緒にいて安心できる人だった、と彼女は言う。ではなぜ。ほしいものは自分の手で手に入れたいのだ、と彼女は答える。困った性格なのかもしれない、と。誰にでもやさしく、ときどき、まさに言ってほしいことを言う八作は、手に入ったものに自分を合わせるより、手に入らないものを眺めているほうが楽しいんじゃない、と返す。それが彼自身の生き方の説明でもあることを、ドラマはさりげなく見せている。
そして彼女は、このドラマがずっと向かっていた一文を口にする。ひとりで生きていけるけれど、さびしい。さびしいのは嫌だ。でも、誰かと二人でいても、自分を好きになれなかったら、結局はひとりだ。好きになれる自分と一緒にいたいし、ひとりでも幸せになれると思う。無理かな、と。全然なれるでしょ、と八作は言う。
この一文が何を数えているかを見てほしい。さびしさを否定していない。認めている。選ぼうとしているのは、好きになれる自分という連れなのだ。そして、ひとりでいることを、人といること全般とではなく、ひとつの具体的な選択肢と比べている。自分を好きでいられなくなることと引き換えに、誰かと組になること。これは、誰かとともに生きることへの反論ではない。自分が自分でなくなってしまうような形への、反論である。
彼女はさらに続ける。あなたと結婚してよかった、いまも好きだ、と。両思いだ、と八作が言う。あなたを選んで、ひとりで生きることにした、と彼女は言う。かごめは、いまもここにいる気がする。三人いたら、恋愛にはならない。三人で生きていこう、と。かごめのどんなところが好きだったのかと彼女は尋ね、二人は寝そべって、別れずにいたらありえたかもしれない夫婦の暮らしを思い描く。くだらない喧嘩をくり返し、唄の父と母の役目をこなし、仲直りがだんだん上手になっていく暮らし。夫婦なんて、強いところではなく、弱いところでつながっているものなんじゃないの、と八作は言う。
かごめは、男と女だとどうしたって恋愛になってしまう、それが残念だと言っていた。その死から一年、とわ子の答えは算数である。ひとり足せばいい。かごめを数に入れれば、とわ子と八作のあいだにあるものは、二人を一度しくじらせた形に戻ることがない。そして、終わらせる必要もない。坂元は、この数について語ったことがある。二〇二一年二月号の『ユリイカ』の坂元裕二特集での対談で、二人だと対立していてもひとつの形ができて最後まで行くが、いつももう一人いると何か不安定で、このままでは終わらないという予感がずっと続く、と。福田が引いているこの言葉は、このドラマにちりばめられたたくさんの三のなかでも、とりわけこの三にあてはまる。三つめの点が亡くなった女性である三角形は、残る二人がふたたび夫婦になることを止め、同時に、二人をつないでおく。
この図書室は「ひとりでいられることと、誰もいらないことは同じではない。」で、誰も必要としないという言葉は、ときに親密さの拒否ではなく、自分がどういう条件で人を求めるかの説明なのだと書いた。とわ子の一文は、その考えのもっとも正確な形である。彼女が退けているのは、四度目の結婚と異国での新しい暮らしという、ひとつの取り決めだけだ。すでに人生にいる誰ひとりとして、退けてはいない。愛している男を、愛している男のまま手もとに置いておくために、彼女は彼ともう一度結婚する道を選ばない。彼女の言う「ひとり」は、形である。引き算ではない。
母の問いと、出されなかった手紙
子どものころの問いには、答えがあった。ドラマはそれを、終盤よりずっと前に見せている。幼いとわ子は、ひとりでも大丈夫だけれど、誰かに大事にされたい、と答えたのだ。それが二者択一だと知る前に、彼女はその二者択一を断っていた。その問いがどこから来たのかを、最終話はうかがわせる。
とわ子は、亡くなった母の荷物のなかから、投函されないままの手紙を見つける。宛名は國村真。後悔の言葉が並んでいる。唄の提案で二人はその住所を訪ね、真が女性だったことを知る。母が少女のころから愛し、結婚するために別れた人だった。恋人だったの、と十代らしい率直さで唄が尋ねると、真はほほえんで、素直にそう言えるってすてきだね、と答え、その言葉を、唄が置いたところにそっと置いておく。
とわ子もまた、ひとつの問いを抱えてきた。母は結婚して自分を産んだせいで、生きたいように生きられなかったのではないか。自分は生まれてきてよかったのだろうか。真はそれを見抜いて、不安だったんだよね、大丈夫、あなたのお母さんはあなたを愛していた、と言う。母は、真と別れて結婚したことを一生悔やんでいた。そして家族を愛していた。どちらも本当なのだ、と真は言う。誰だって心に穴をもって生まれてきて、それを埋めようとじたばたしながら生きている。愛を守りたいという思いも、恋に溺れたいという思いも、ひとりの人のなかにいくつもあって、どれも嘘ではない、と。とわ子は泣く。
ドラマは、母をどちらの方向の教訓にもできた。世間の決まりのために手放された人生への警告にも、愛した人より家族を選んだことの正しさの証明にも。そのどちらも、ドラマは拒む。ドラマは彼女にどんなラベルも貼らないし、この文章も貼らない。ドラマがとわ子に与えるのは、どちらがほんとうの母だったのかと問うのをやめてもいい、という許しである。
ドラマがこの話をどこに置いたかにも、目を留めておきたい。手紙が見つかるのは、とわ子が選択を終えたあとであって、前ではない。母の物語は、娘の決断の理由としては差し出されない。それは、とわ子の人生の隣に置かれた、もうひとつの人生として届く。母は形を守り、手放した人を、その形のなかで一生抱えて生きた。娘は形を断り、大切な人たちを、愛する男と亡くなった親友を、形の外で手放さずにいる。ドラマは二つの人生に順位をつけない。そのかわりに真に、母について、かつて娘が自分について言ったのと同じことを言わせる。両方、と。
真に会ったあと、医者になる勉強をあきらめていた唄は、ふたたび机に向かう。そして、妻にほかに想う人がいたことをずっと知っていた父は、とわ子に詫びる。お父さんとお母さんが、あなたを、転んでもひとりで起きられる子にしてしまった、と。とわ子は感謝を込めて答える。ちゃんといろんな人に起こしてもらってきた、三人の元夫にも、そしてお父さんにも、と。
このやりとりに、このドラマの「ひとり」についての考えが、まるごと入っている。父は、ひとりでなんでもこなす娘を育ててしまったと思っている。娘は、人の名前を挙げて、それを訂正する。戸籍で数えれば三回の離婚になるものが、彼女が数えれば、転んだ自分を起こしてくれた三人になる。
彼女が眠っているあいだに
最終話では、三人の元夫が彼女の家に集まって、パーティーになる。ハワイ帰りで日焼けした慎森が土産を配っている。何かにつけてそれは要るのかと問い返す男がそうしているというだけで、少しおかしい。ヘリコプターの操縦士をしている初恋の人からは、君には友情しかないと、さわやかに告げられたばかりだ。三人は一人ずつ、もう一度とわ子に求婚する。僕たちはみんな君が好きだ、と。君の好きは何なのかと問われて、とわ子は答える。私の好きは、その人が笑っていてくれること。笑っていてくれたら、あとはもう何でもいい、と。
パーティーの後片づけは大変なほうがいい、と慎森は言う。朝起きて何も変わっていない景色だったら、さびしいでしょう。意味もなく並んだワインのコルクも、テーブルに残ったグラスの跡も、みんな楽しかった思い出で、君が愛に囲まれて生きている証拠なのだ、と。
男たちは、献身的なだけではない。彼らもまた、さびしいのだ。鹿太郎は、人はどうしていくつになってもさびしくなるのだろうと口にしていたし、リアルサウンドのアナイスは、愛されることではなく愛することが人の孤独を埋めるという慎森の言葉は、三人自身のことでもあるのかもしれないと書いている。彼らは彼女を愛し続けることで、自分たちの孤独を埋めているのかもしれない。
やがてとわ子が眠ると、三人は、いつまでもこういう感じではいられないだろうね、と小声で話す。元夫たちと関わった女性たちは、最後にもう一度、それぞれの道を歩いているところを、出勤途中のとわ子とすれ違うかたちで映される。ドラマは、彼女たちの誰も、ほかの男と組ませたりしない。最後には、上空からの夜景より自分の家から見える景色が好きだ、と語られる。そして、とわ子の毎日は続いていく。
これを判定として読むのはたやすい。独身の女性の勝利。献身的な男たちに囲まれて、どんな結婚よりも幸せ、と。結末は、その読みを二度にわたって拒んでいる。四度目の結婚を断ったことには、演説も勝利の場面も与えられない。決断は一話前のレストランで済んでいて、蒸し返されない。そしてこの暮らしについての最後の言葉は、彼女ではなく男たちに渡される。ドラマは、自分がつくったものが何なのかを知っている。わざと不安定につくられたもの。手本ではなく、ひとつの時間である。
独身であることが教訓なのではない。教訓はどこにもない。自分の望みを口にした女性と、これがいつまでも続かないことを知りながら、続くあいだは彼女のためにそれを望む三人の男がいるだけだ。
二〇二一年の日本と、「ひとり」という数
このドラマが放送されたのは、二〇二一年の春、コロナ禍の二年目だった。ドラマは、コロナ禍を直接には描かないことを選んでいる。佐野は最終話の直前、ひとりで生きていく人を応援するようなドラマにしたいという思いについて問われ、こう答えている。ひとりで生きていくと聞くと、独身の男性や女性、戸籍上の家族構成のように物理的に受けとられがちだが、特定の立場や婚姻関係を思い浮かべての「ひとり」に限った話ではない。ひとりだけれどひとりじゃない、ひとりじゃなくてもひとりという状況は誰にでも起こりうる。ひとりで生きているようで、実はいろんなつながりのなかで生きていることが伝わればいい、と。
ドラマがその説明に加えているのは、それがどう成り立つのかについての正確さだ。とわ子の使う「ひとり」という言葉は、もともと人数を数える言葉だ。一人。ひとりでも幸せになれる、という一文は、人数としては一でも、と読むこともできる。とわ子は一人であり、同時に、連れのない人ではない。このドラマは、「ひとり」という言葉のふたつの意味のあいだを行き来している。
これは「日本の女性」の肖像ではないし、そう読むべきでもない。ひとつの階層の、ひとつの都市の、ひとりの女性の人生である。ただ、そこにかかっている圧力には見覚えがある。女性の人生は、いまも結婚の回数で数えられやすい。人生を支えている友人が、書類の上ではほとんど何の立場ももたないことも変わらない。佐野は、このドラマの女性たちについて問われて、選択的夫婦別姓の問題がまた先送りにされてしまったことを挙げ、女性がひとりの個人として生きていきやすい社会になっていかないことで、苦しい思いをしている人がたくさんいると語った。ドラマは、そのどれについても声高に主張しない。そのすべてがあてはまる主人公をつくり、彼女をおかしく描き、彼女に決めさせるだけだ。あえて簡単に言えば、このドラマのメッセージは、自分の幸せは自分で決めるということなのだと、佐野は言う。
家族から遠く離れて日本で暮らしている女性なら、この形には案外すぐに見覚えがあるかもしれない。人とのつながりの多くが、血縁ではなく自分で選んだものであること。いちばん大切な関係に、公式の名前がないこと。そして、さびしさがやってくるとき、それはがらんとした部屋からではなく、ひとつの特定の不在からやってくること。
この読みへの反論
この文章がまちがっている道は、いくつもある。最初のものが、いちばん重い。
第一に、彼女の「ひとり」には資源がある。とわ子は、東京の居心地のいい部屋に住む会社の社長で、暮らし向きのいい三人の元夫が、呼ばなくてもやってくる。ひとりでも幸せになれると言っているのは、そういう人なのだ。福田は放送の早い段階で、主な登場人物たちの社会的な地位や生活水準の高さは、社会からはじき出された人々を描くことの多かった坂元作品としては異色だと指摘していたし、佐野自身、現実から少し離れた世界を選んだと語っている。お金がなく、夜に歩いて行けるレストランもなく、玄関に誰も来ない女性は、とわ子の立場にはいない。とわ子の一文を、そういう女性への助言に変えてしまう読みは、残酷だろう。ドラマは、彼女の人生よりやさしいのかもしれない。
第二に、この前提そのものを、願望の産物と呼ぶこともできる。実際、まだ一場面も撮られていない企画書の段階で、プロデューサーの当時の部長がこれをファンタジーと呼んでいる。彼女を慕い続け、土産を持ってやってきて、もう一度求婚し、それでいて結婚が持ち込むはずの負担は何ひとつ持ち込まない三人の元夫。ドラマはそれを半ば認めている。その代金の一部は、男たちに本当のことを告げて去っていく三人の女性が払っていて、ドラマは少なくとも、彼女たちにそれぞれの結末を与えることを忘れていない。
第三に、ドラマはラベルを貼らないという自分の約束を、いつも守れているわけではない。コメカは現代ビジネスで、自分の人生に男と女の関係はいらないと語ったかごめに、脚本がそのあと、そういう考えがさびしいことは知っている、と付け足させたことに疑問を呈している。恋愛がいらないという考えは、はたしてさびしいものなのか。もっともな異議である。かごめの人生に名前をつけまいと努めたドラマのなかで、それは彼女に、自分の選択について詫びさせるただひとつの台詞になっている。
第四に、最終話の慰めは、それを口にさせるには酷な相手に託されている。アナイスは、とわ子の母・つき子に選ばれなかった真が、自分と一緒にならなくて正解だったと言わされてしまったことを、最終話でいちばん悲しい場面に挙げた。手放された人に、手放した人の娘をなぐさめる役目が与えられている。寛大な場面である。そして、求めすぎなのかもしれない。
第五に、この文章の読みそのものが、きれいすぎるのかもしれない。慎森は、とわ子がいまも八作を愛していると言い、とわ子は八作に、あなたを選んだと言う。彼女の「ひとり」を、選び取った形というより、一緒には暮らせない男のそばにいるための唯一の方法として読み、それを自立と呼んでいるだけだと読むこともできる。どちらも本当かもしれない。ひとりの人のなかにいくつもあって、どれも嘘じゃないと言い切った最終話は、両方を認めるだろう。
この図書室の立場と、手もとに残す問い
この図書室の立場を、はっきり書いておく。ひとりでいることと、さびしいことは、別の物差しで測るものだ。女性の結婚の回数は第三の物差しで、前のふたつが測るものを何ひとつ測らない。ひとりでも幸せになれると思う、と言う女性の言葉は、自分の人生にどんな形を望むかについての、完結した一文として聞かれるべきだ。欠けていることの告白でも、ほかの誰かへの勧めでもない。とわ子の一文は、めずらしく正直だ。さびしさを認め、愛を手放さず、ひとつの形だけを断っている。
このドラマのいちばん深いところは、主人公が大人になるよりずっと前、母の問いに彼女が返した答えにある。両方、という答えだ。大人の世界は、その答えを欲張りか混乱として聞き、どちらかを選べと迫りがちだ。仕事か結婚か。自立か連れ合いか。親友か夫か。ドラマは十話をかけて、その子どもが正しかったのではないかと示し、それを誰の決まりにもすることなく終わる。
家族の食卓で、あるいは鏡の前で、あなたはどちらなのかと問われたことがあるなら、あなたも、その子どもと同じように答えてかまわない。数え方を変えてもかまわない。人生がとった形や手放した形ではなく、転んだときに起こしてくれた人たちを数えてみる。そのリストは、回数が示すより長いかもしれない。もういない人が、そこに入っているかもしれない。
そのリストには、誰の名前があるだろう。そのなかの誰が、あなたにとって何者なのかを言い表す言葉をもたないだろう。そしていつか、ひとりでも幸せになれると思う、と口にする日が来たら、そのとき、誰にそばにいてほしいだろう。
ほかの章から読む
さらに深く、資料室で
読みもののお便り
週に二通。書いたもののなかから選んで、三篇と、一篇。売り込みはありません。